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[Homo Deus]私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。

[ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。
第一部/
初稿/令和元年8月:

◯はじめに ;
 僕は一昨年の後半から昨年の1年間はほぼ、この「近代」という時代のパラダイムがほころび
始めてきた事。そして、次なるどのような新たな「近代」を構築すれば良いのか?
構築しなければならないのか?を僕の立ち居場所である、モードの世界から知り、感じられる
新しいいろいろな”時代の表層”のそれぞれのピースからジグソーパズルを組み立ててきました。

 そこで、今年の僕の新年のメッセージが生まれました。
 『もう、皆さんも気がついていらっしゃるでしょう、白人至上主義によって構築された
「近代」のパラダイムはこの200年ほどでほとんど綻びが出始めてきた現実を。
 この白人たちの諸都合のために構築された「近代」のパラダイムの根本原理は「植民地政策
主義」から始まった「自由主義+個人主義」者たちの「二者択一」が主構造。
この構造は彼らたちの人間の強欲という現実と宗教感覚からの根幹でしかありません。
 だが、数年来、この現実の諸状況はほとんど「文明論」的危機ですね。
昨今の世界規模での「気候危機」「環境汚染」「民主主義や資本主義の限界」「富の格差と階級
問題」そして、「Gendar」や「人口問題」などなどがこの綻びの現実でしょう。
 これらの諸現実についてもう、14歳の世代たちが声をあげ、デモに参加し始めている“日常”に
今年はもう少し、“当事者”になりませんか?』

 さて、モードの世界では、「サスティナブル」や「エシカル」という言葉がこの世界特有の
トレンド的ボキャブラリィーとして時代の表層の「壁紙」となり一つの新たな世界を生み出そう
としています。しかし、ここにも実際には大きな落とし穴があります。と言うより、彼らたち、
白人至上主義者たちの立ち居場所とそこから生まれる「利権」を死守拡大する方法論としての
「サスティナブル」が本意なのです。単純に言って仕舞えば、「金持ちだから言える、金持ちの
罪滅ぼし的発想」と自分たちの領域を死守するための「詭弁」をこの「近代」の綻びの穴を埋め
る彼ら独特の発想と手法でもあるのです。ここでは、「近代」におけるモードの世界はやはり、
当時の富裕層である“ブルジョワ”階級者のものとして誕生した事を忘れてはならないでしょう。
 「サスティナブル」や「エシカル」ファッションとは基本的には「天然素材と天然染料」と
言う根幹によって成立される世界です。資金力のあるブランドより、その価格帯は高価にそして、
生産量も限定出来る現実があります。と言うことはこの「サスティナブル」や「エシカル」と言う
時代の壁紙で新たなフレームによって区切りを作ることで自分たちの立ち居場所としての
「ラグジュアリィー」が守られなおかつ、時代の尖端の「壁紙」でブランドとモノが作れる。
すなわち、「ラグジュアリィー」は「ラグジュアリィー」として守られるべきであると言う彼ら
特有の傲慢な視点がこのブームには見え隠れしています。
 例えば、少し前に起こった「カシミアブーム」で誰が得をし、どのようなファッション・
ビジネスの構造になったか?を調べれば理解できるでしょう。カシミアの原糸生産の利権を持つ
団体とその周辺の関連企業が儲け、ファッション産業の構造は新たに「ファストファッション」
構造がグローバリズムという「新・植民地政策主義」の元で誕生したと言う事実が興りました。
 このファッションにおける「サスティナブル」「シニカル」については後日、もう少し詳しく
まとめてみましょう。

 今回は前回再開した僕の講和会「MODE-YOSE」で話をした、「近代」が綻びてきた事を感じ
始めると、この「近代」と言うパラダイムの次なる時代とは、どんな時代を予感し、妄想し、
そして、希望するのか、可能性があるのかを、「サピエンス全史」を描いた同じ著者の近刊書、
をテキストに、僕なりの「ポスト・近代」あるいは、「シン・近代」を深読み
してみました。
 僕の視点と根幹は、今後数十年で、我々の生活領域にA.I.が、かつての自動車や携帯の進化と
同様に「一家に1体」から「1人に1体」と言う「A.I.のパーソナルユース化」と言う現実が誕生
した時、「人間の役割」や「存在意義」や「存在価値とは?」又、「人間が生きる価値観とは」
などと言う最も人間として、基本的かつ重要な今後の存続に対しての疑問からです。
 来る、「アルゴリズム」が全てを解決する時代性においての「人間主義とは?」と言う疑問を
持ったが故にこの本に興味を持ったのです。 

 そこで、このと言う本の“私的読書感”をまとめてみます。
※出典本/ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/ユヴァル・ノア・ハラリ著。
2018年発行:河出書房新社刊:

 *「近代」は”取り決め“で成立している。
 その取り決めとはいたって、単純で、「人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する」
=人間が持っているはずの「差異と力」、このシステムが崩壊した時が終焉を迎える。
 その現代の“取り決め”は「欲望」と「誘惑」から生まれる。(pー6)

 *現代の“力”の追求は、「科学の進歩と経済成長の関係性」を原動力としている。
進歩する科学技術を「信頼」し始めると、“将来”を信じる様になり、その結果が、「信頼・
信用」を生み、「信用経済」へと進化した。(クレジット経済)

 *「経済成長」が不可欠であると言う「近代」は、
・生産が増えれば、より、多くを消費して生活水準が上げられ、そのおかげで幸せな生活が
楽しめる。
・人口が増え続ける限り、現状維持のためにも経済成長が必然。
・貧しい人たちへ分け与えられる為にも経済成長が必要である。
「経済成長」は良いこと全ての源泉とされている資本主義では、人々の倫理的な意見の相違を
忘れ全て、長期的成長を最大化することが奨励された世界である。=「成長の限界」とは???
「経済成長」は家族の絆よりも大切か?お金があれば、高齢者介護も十分にできると言うまでの
倫理的判断を下し、宗教的領域へと。(pー17~)

 *「経済は本当に永遠に継続できるのか?」
その為には、「新しい土地を探検し征服」して資源の無尽蔵を求めた。(=植民地主義時代)
世界の「資源」とは「原材料」と「エネルギィ」と「知識」の3種類の「資源」が在る。
「原材料」と「エネルギィ」はそれらの量に限界があり、使えば使うほどに少なくなる。
しかし、「知識」は増え続ける「資源」であり、使うほどにより、多くなる。そして、「知識」
が増えると、より、多くの「原材料とエネルギィ」も手に入る。
 「近代」初期の偉大なる発見は「無知」の発見であった。
「知識」としての科学はより、多くの「資源とエネルギィ」を使って、内外機関からP.C. を生み
出し、前代未聞の産業を誕生させ、より、大きなテクノロジーやA.I.をも生み出し自信を持って、
「近未来」を予測可能にした。

 *「資源の欠乏」と言う恐怖。すなわち、「生態系環境の崩壊」ある。
「進歩と成長」のペースを落とし、「成長の限界」を読み込む。究極は、「ヴァーチャル世界」
と「ハイテク・ランド」を建設し、ここに、人生の素晴らしさをもたらす全てを供給してもらう
こと。これが、考えられる未来像。
我々は、「経済と成長」の進化加速化と、「生態系破錠」を防ぐための知識と行為という対峙
するシステムの中での生存競争を生きてゆく。

 *我々人間がシステム化した「取り決め」によって、緊張と混沌を生み出しているが、
この「緊張と混沌」によって、人間が個人としても集団にせよ、このレースは中断出来ない。

 *もっと欲しがる様に人間を説得するのはさほど、難しくなかった。
「貧欲」は成長を促す善であり、「集団」に確信させた。結果、「近代」はより、多くのものを
欲しがり、望むことを奨励したシステム、「自由市場資本主義」と言うイデオロギーであった。
ここでは、人間に何が起こっているか、どこへ向かっているかを誰も理解しないまま急速な
「進歩と発展」「貧欲と混沌」のシステムである。
 欲望を抑えることはより、困難を伴う。「価値観と常識」をさわらなれけばならないからだ。

 *「人間至上主義」と言う名の宗教。(P-34~)
それまでの、「神至上主義」に変わって「産業革命」以後の人間が手に入れたのが、
「人間至上主義」である。
 「善と悪」「正と誤」「美と醜」など、人間が決めるものではないと言う「近世」までの定義
と考えの根幹は全て、「神と宗教」の領域であった。そして、人間は「無知で堕落」しやすい儚い
官能的な快楽と現生の妄想に囚われた生き物だとも見なされていた。この考えによって、「神」
は意味だけでなく、権威の至高の根元にもなり、「意味と権威」の関係性が生まれた。
「自分に耳を傾け、自分に忠実であり、自分を信頼し、自分の心に従い、心地よい事をせよ。」
と言う人間の「自由意志」こそが最高の権威であると言う「人間至上主義」の誕生が「近代」
そのものであった。
 それまで、神が取り決め、審判していた「芸術的創造と美的価値」の唯一の源泉は
「人間の感情」が根幹である時代になった。「美は見る人の眼の中にある。」
 教育においても、「意味と権威」の至高の源泉は自分の中に存在するゆえ、
「先ず、自分で考えなさい。」となった。
 「意味と権威」の根幹が、天から人間の感情へ移行したことによって、世界全体の性質も変化
した。神の存在を信じないことは容易くなった。人間が完全な無神論者であっても、
「政治的価値観」と「道徳的価値観」と「美的価値観」の実に豊かな組み合わせを自分の内なる
経験から引き出せる。「権威」に到達し、真の知識を獲得する新たな方法も明確にした。

 *中世では、「知識=聖書x論理」であったが、
科学の進歩によって、「知識=観察に基ずくデーターx数式」に変換された。
が、「価値や意味」や「倫理」に関しての疑問は処理できない。

 *人間たちが自分に自信を持ち始めると、倫理にまつわる新たな公式が登場する。
「知識=経験X感性」がそれである。経験を積み重ね、その経験を正しく理解できる様に自分の
感性を磨くことで「知識」を探し求めることができる。ここには‘60年代後半からの“ヒッピー・
コミューン”から誕生した「大衆文化」の根幹も見られる。

 *「経験」とは、「感覚と情動と思考」から成る。
暑い、心地よいと言う感じることと愛や怒り恐れという情と、頭に浮かぶ考え、思考から成り
立つ。
 
 *「感性」とは、次なる二つである。
自分の感覚と情動と思考に注意と好奇心を持つこと。そして、それらの感覚と情動と思考が自分
に影響を与える事を許すこと。
 
 *「経験と感性」は常に果てし無い高揚をたどりながら互いに高め合ってゆく。
「感性」がなければ、何も「経験」できないし、様々な「経験」をしない限り、「感性」を
引き延ばすことが出来ない。「感性」は抽象的な能力ではなく、実際に応用することでのみ、
進化し成熟する実用的技能である。必要な「感性」なしでは、物事をそれなりに「経験」出来な
い。そして、「経験」を積み重ねていない限り、「感性」を育むことはできない。

 *「人間至上主義」は経験を通じて無知から啓蒙へと続く、
内なる変化の挺身的な過程として人生をとらえる。出来る限り、幅広い経験を叡智として、
結晶させることである。
 
 *「人間至上主義」は、「人生は経験の連続である。」という視点で
観光から芸術まで、実に多くの産業と今後の消費社会の基盤をなす神話となる。ここでは、
ここでしか経験が出来ない斬新な「経験」を売っているのだ。ここでの「経験」のベクトルは
「外面から内面へ」という焦点が絞り込まれている。
 
 *「人間至上主義」は経験の解釈の仕方がそれぞれ異なることによって、
三つの流れを始める。
・「自由主義的なる人間至上主義」/一連の経験を持つ唯一無二なる個人の自由意志に委ねる。
したがって、個人が享受する自由が大きいほど、自由を重視し、世界は美しく、豊かで有意義に
なるという視点。この「自由主義者」たちは、集団的アイデンティティや部族感情と融合して
近代以降の国家主義を形成し、人間の経験の多くが「共有」されるべきものであるとした。
 この「自由主義者」は一人一人の独自性を強調し、人の視線を自分の中へと向ける。
自由主義者たちは、人々に自分を孤立した個人と見せるように促し、同じ階級の成員から彼らを
切り離し、不平等を永続させ、一般大衆とエリート層を疎外へと追いやる。
 「自由は資産である。」20世紀の戦後は、「抗生物質、原子力エネルギィー、P.C.さらには
フェミニズムや脱植民地それに、フリーセックスを与えてくれ、21世紀へ生き残った。
 現時点でも、「個人主義と民主主義と自由市場」という自由主義のパッケージに変わるものは
まだ登場していない。
・「社会主義的なる、人間至上主義」は他者がどのように感じているかや自分の行動が他者の
経験にどの様に影響するかに注意を向ける。他者の欲求や経験を自分の欲望よりも優先させる
ことで成就するという視点。
・「進化論的な人間至上主義」
・「人間至上主義」=「白人至上主義」→自由主義的⇨資本主義
                  →社会主義的⇨共産主義
                  →進化論的⇨独裁主義

 *テクノロジーは宗教に頼っている。
この「宗教とテクノロジーの関係性とは?ここにも「白人至上主義」の根幹が見え隠れする。
 人は全く同じ道具、(0:1)を使って、ファッシズムや共産主義や自由主義も生み出せるが
宗教的な信念がなければどっちへ舵を取ればいいか?解らない。
 新しいテクノロジーは古い宗教を殺す。

 *AIがほとんどの認知的課題で人間を凌ぐようになったら、求人市場はどうなるのだろう?
経済的に無用の人々の新しい巨大な階級はどんな政治的影響を及ぼすのか?
 ナノテクノロジーと再生医療が今の80歳を50歳相当の年齢に変えたとき、人間関係や家族や
年金基金はどうなるのか?
 バイオテクノロジーのおかげで親の望む特性を持つデザイナーベイビーを誕生させ、豊かな
人々と貧しい人々の間に前例のないほどの格差を生み出せるようになったら、人間社会に何が
起こるのか?

 *産業革命の先頭に立っていた一握りの技術者や政治家や資本家たちによって、
すでに決められていた、蒸気機関と鉄道と電信は、食糧や織物、乗り物、武器の生産を一変
させ、強大な工業国は伝統的な農業社会よりも圧倒的優位に立った。

 *二一世紀のテクノロジー、それもとくにバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある。
 これらの力は蒸気や電信の力とは比べ物にならないほど強大で、食糧や織物、乗り物、武器の
生産にだけ使われるわけではない。
 二一世紀の主要な製品は、体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人の
間の格差は、ディケンズのイギリスとマフディーのスーダンの間の隔たりよりも大幅に拡がる。
それどころか、サピエンスとネアンデルタールの間の隔たりさえ凌ぐだろう。
 二一世紀には、進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、のちに取り
残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ。

 *遺伝子工学とAIが潜在能力を余すところなく発揮した日には、
自由主義と民主主義と自由市場は、燧石のナイフやカセットテープ、イスラム教、共産主義と同じ
くらい時代後れになるかもしれない。
 二一世紀には人間は不死と至福の神性を獲得しようとするだろうと予測することから始まった
この予測はとりわけ独創的でもなければ、先見の明のあるものでもない。それはただ、自由主義
的な人間至上主義の伝統的な理想を反映しているにすぎない。人間至上主義は人間の命と情動と
欲望を長らく神聖視してきたので、人間至上主義の文明が人間の寿命と至福と力を最大化しよう
としたところで、驚くまでもない。

 ※出典本/ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/
ユヴァル・ノア・ハラリ著/ 2018年発行:河出書房新社刊:
文責/ 平川武治:

投稿者 : editor | 2020年01月09日 02:32 | comment and transrate this entry (0)

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