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最終回/[ Homo Deus ]私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。

[ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。
最終回:令和二年正月:
参照/「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/著名;ユヴァル・ノア・ハラリ
(株)河出書房新社;2018年発行/

 この次なる「近代」を探るための、僕のイマジナリィ・ボヤージュとしてのハラリ著のこの本
< Homo Deus > の私的読書感も終わりの巻へ、
 
 どのような新たな「近代」を僕たちは、この時代を生きる子供たちへ何を残すべきか
そして、何を消去し、どの様な新しさを構築可能か?そのための自分たちの選択肢をしっかりと
持って、そのミッションと共に次世代の「当事者たち」とランディングが可能であるか?
 考えられることの多くと、始めなければならない事柄をもうそろそろ、意識し始めませんか?
 その為には、「みんなが読んだ本だから、」と言うベストセラー・マニア的なる読み方では
無くどうか、どのように自分なりに読み込み、どのような自分なりの読書感とそこからの一つの
“新しい流れ”と“可能性”を見つけ出せるか?或いは、自分なりの”疑問“を幾つ持てるか?
自分なりの知識の新しいの“枝葉”を育てるか?と言うまでの読書をして下さい。

 *資本主義同様、データ至上主義も中立的な科学理論として始まったが、
今では物事の正邪を決めると公言する宗教へと変わりつつある。新宗教が信奉する至高の価値は
「情報の流れ」だ。
人間は全ての「モノのインターネット」を創造するためのたんなる道具にすぎない。

 *データ至上主義は、情報の自由を何にも優る善として擁護する。
人間至上主義の革命が勃発し、人間の自由、平等、友愛という胸躍る理想が唱えられ始めた。
その新しい価値とは情報の自由だ。
 情報の自由と、昔ながらの自由主義の理想である表現の自由を混同してはならない。
表現の自由は人間に与えられ、人間が好きなことを考えて言葉にする権利を保護した。
これには、口を閉ざして自分の考えを人に言わない権利も含まれていた。
 それに対して、情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。
しかもこの新しい価値は、人間に与えらえれている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。
 そこで、より良い世界を作り上げたいなら、そのカギはデータを自由にすることにある。

 *自由市場資本主義者が市場の見えざる手の存在を信じているように、
データ至上主義者はデータフローの見えざる手の存在を信じている。
 人はデータフローと一体化したがる。データフローの一部になれば、自分よりもはるかに
大きいものの一部になるからだ。今やデータ教は、あなたの言動の一切は大量のデータフローの
一部で、アルゴリズムが絶えずあなたを見守り、あなたのすること、感じること全てに関心を
持っている。

 *人間のデータは価値を持つ。
私たちは自分自身やデータ処理システムに、自分にはまだ価値があることを証明しなければ
ならない。そして価値は、経験することにあるのではなく、その経験を自由に流れるデータに
変えることにある。(“流す”ことがミッションである。)

 *データ至上主義は、自由主義的でも人間主義的でもない。
今度はデータ至上主義が人間至上主義に向かって同じことを言う。
「そうです。神は人間の想像力の産物ですが、人間の想像力そのものは、生化学的なアルゴリズム
の産物にすぎません。」
 データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかも
しれない。

 *人間中心からデータ中心へという世界観の変化。
「生き物はアルゴリズムだ。」
 もとになるアルゴリズムは、初めは人間によって開発されるのかもしれないが、成長するに
つれて自らの道を進み、人間がかつて行ったことのない場所にまで、さらには人間がついて
いけない場所にまで行くのだ。

 *最初は、データ至上主義は人間至上主義に基づく健康と幸福と力の追求を加速させるだろう。

 *人間はその構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、
ついには急流に呑まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない。

 *歴史を通して、人間はグローバルなネットワークを創り出し、
そのネットワーク内で果たす機能に応じてあらゆるものを評価してきた。
それらは重要な機能を果たしていたので、ネットワークの功績を自分の手柄にして、自らを
森羅万象の頂点とみなした。

 *私たちには未来を本当に予測することはできない。
なぜならテクノロジーは決定論的ではないからだ。

 *人間は、自由市場や群衆の知恵や外部のアルゴリズムへと、権威を明け渡している。
1 生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理でありという教義。
2 知能は意識から分離しつつある。
3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちのことを
知るようになるかもしれない。

 ◯「ホモ・デウス」エピローグ/
そろそろ、この論もある種の限界が見え始めたようだ。
最後に、この著者は言う。

 私たちには未来を本当に予測することはできない。
なぜなら、テクノロジーは決定論的ではないからだ。そして、現在の科学の教義が正しくないと
考える余地が残っている点だ。と言う。
 
 *生き物はただのアルゴリズムではない可能性、
生命はデータ処理だけではない可能性と、意識が知能よりも重要である可能性は今後も真剣に
研究・検討していく価値がある。

 *そして、更には冒頭に示した本書への根幹と根拠について彼自らが次なる疑問を読者に
差し出す。

1/ 生き物は本当にアルゴリズムに過ぎないのか?
そして、生命は本当にデータ処理に過ぎないのか?
2/ 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3/ 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりも
よく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?

 ◯おわりに、「私感的に、」;
 僕達、イエローであり、彼らたちとは異教徒である日本人にとっては少なからず、以下の疑問は
持つべきである。
 「現在の科学の教義が正しくないと考える余地が残っている点。そして、生き物はただの
アルゴリズムではない、また、生命はデータ処理だけではない可能性そして、意識が知能よりも
重要である可能性などは今後も真剣に研究・検討していく価値があり、それによって初めて、
ただのテクノロジーの発達による近未来観ではなく、「近代」の延長でもない新たな「近代」は
決して、見えてこないだろう。
 そうしない限り、この「ホモ・デウス」におけるあるいは、僕が持ったこのような次なる時代
への人間に対する存在疑問、『人間とは?人間の役割とは?あるいは人間が持つべき新たな
価値観とは?』は悲劇的な妄想へ彷徨うしかない。
 ***
 この著作でも理解できるように彼らたちは幼い時から、家族からそして学校から刷り込まれた
「宗教観」のその強さは残念ながら現代日本人のメンタリティには皆無に等しい。
 僕たちの神道・仏教を含めた世界民族に於いては非常に稀な“宗教の多重構造”の宗教観も徳川
幕府の240年間で完全に幕府の政治力によって押さえ込まれ、それらはただの「ご利益宗教」と
化してしまった事。その後の明治政府による「廃仏毀釈」と「黒舟到来」後の「文明開化」政策
又、その後の大いなる勘違いが始まってのアジア圏への「帝国主義政策」と「敗戦」を迎えた
我が國家のこのヨオロッパにおける「近代」化と同じ時代の歴史は「仏教」どころか、寧ろ、
「外国崇拝」的なその流れを構築してしまった。
 例えば、敗戦後の僕たちの世代が刷り込まれた一つに「Give me Chuing-Gum!!」があり、
これが一つの根幹となって、その後の「大衆消費社会」構造を構築させられ現在に至ってきた。
 その為、「仏教哲学」の領域が西洋のそれらに比べるとほとんどと言って、この時代には“哲学
的進化“の痕跡がない。故に、日本人が元来持つべき、世界へ発言すべき「宗教心」を基盤とした
ロジックが現実的ではなく、情緒性と単なる個人の内なる妄想に収まってしまっていることも
現在では「イエローの弱体」あるいは、「外人コンプレックス」に繋がり、世界における
「日本思想」や「日本文化」とは未だに、変わらず「美意識」も含めて、ただの「異国趣味/
エキゾティズム」の領域でしかないのが海外においてのYellowに対する現実認識であろう。
**
 なぜ僕がこの「宗教心」にこだわるかといえば、彼のこの本を読んでも理解できるように、
彼らたちの「近代」創成の根幹は「宗教心」がその根幹であり、彼らたち白人至上主義者と
僕たちが持ち得た「差異」とは何かといえば、日本人として持ち得た「世界に類を見ない多重
構造としての宗教観」でしか無く、この差異は今後の新たな時代としての「近代」あるいは、
「シン・近代」を構築するには必須な哲学であり、日本人しか持ち得ていない根幹としての
「差異と力」であると信じているからである。
 即ち、現在の僕たちは既に、彼らたちと渡り合い、使えるオリジナルな“武器”を持って
いない。或いは、その数は非常に少ないのが現状である。例えば、「第3次産業革命」の主役で
あるPCも「0:1」が根幹の世界共通武器である。

 そこで僕が頼るのは一つは、やはり、このようなコンプレックスを刷り込まれてきた同胞世代
では無く、全く新しい世代としての、冒頭にもある世界で活動者し始めたポジティフな「14歳」
を軸とした次世代たち、「GENERATION-Z」世代たちである。彼らたち世代が持っている
「ポジティフな自信過剰」と今までになかった、「早熟さ」と「正義感」そして、「知りたい・
学びたい心」と言う素直さに託したいのです。
 この「GENERATION-Z」世代たちは既に、アメリカにおいては「新たな消費社会の上顧客」と
して多くがマーケティングがなされ始まった世代でもあるが、それらはまだ「アルゴリズム」
への情報は未完でありそれゆえ、彼ら世代の人口も含めて、“パワー/力”が行為を起こし、
“新たな差異”を生み出すであろうと言う想いが僕には強いからです。
 もう一つは、やはり世界で通用する日本人の「差異と力」を考えると現在では日本発の“オタク
文化”が生み出した「マンガ/アニメ」の世界でしょう。この日本初の世界は既に、全世界における
一つの新しい「共通感覚/コモンセンス」であり、「共通言語」と言うボキャブラリィーになって
しまっているからです。
 この世界が生み出せる「差異と力」が今後の新たな「近代」の、「シン・近代」を構築出来
得る世界観と可能性を持ち得ていると認識し、世界でも通用する「差異」を持っていると考えて
いるからであり、それらが今後の「近代」への大きな「力」であり、一つの例えば、「削岩機」
かも知れないとも考えます。ここには「妄想勝ち」と言うヴァーチュアルな世界観も含めた
“彼方“が読めるからでしょうか?
 そして、僕はもう一つ「希望の星」を付け加えるのが若き三十一歳の哲学者、「斎藤幸平氏」
である。彼のドイツ・フンボルト大学の論文でもあり、処女作『大洪水の前に、ーマルクスと
惑星の物質代謝』の思想が今後の「民主主義」を政治的、経済的な立場で論じられ、新しい
「近代」のための「新たな民主主義」を模索し始めたミレニアム世代人であるからです。
 彼、斉藤幸平氏は、既に、あのマルクスが「物質代謝」という生理学概念で”エコロジー“を
論じていたとう根幹を視点として書かれたのがこの本であり、本書の”はじめに“を少し長いが
引用させていただこう。
 「マルクスの経済学批判の真の狙いは、エコロジーという視点を入れることなしでは、正しく
理解する事ができない。」と言うテーゼを投げかけた。
 そして、資本主義における惑星の普遍的物質代謝の亀裂を批判し、持続可能な未来社会ー
「エコ社会主義」ーーを構想するための方法論的基礎を与えてくれるものなのである。」
(参照/『大洪水の前に、』”はじめに“より、)
 そして、「最終的には、資本は自然的世界の諸制約から自由になることはできないのであり、
その矛盾がー経済危機ではなくー環境危機として現れてくる。」と言う現在点を見事に指摘して
いる眼差しがここにはある。
 マルクスの有名な警告が今再び、現実味を帯びる様になてきた現代社会ゆえのタイミングと
指摘である、『大洪水よ、我が亡き後に来れ!これが、すべての資本家、すべての資本家種族の
スローガンである。』
 「大洪水よ、我が亡き後に来れ!」と言う態度は、グローバルな環境危機の時代において、
ますます支配的になりつつある。将来のことなど気にかけずに浪費を続ける資本主義社会に
生きる我々は大洪水がやってくることを知りながらも、一向に自らの態度を改める気配がない。
とりわけ、1%の富裕層は自分たちだけは生き残るための対策に向けて資金を蓄えているし、
技術開発にも余裕がない。だが、これは単なる個人のモラルに還元出来る問題ではなく、
むしろ、社会構造的問題である。それゆえ、世界規模の物質代謝の亀裂を修復しようとする
なら、その試みは資本の価値増殖の倫理と抵触せずにはない。今や、「大洪水」と言う破局が
すべてを変えてしまうのを防ごうとするあらゆる取り組が資本主義との対峙なしに現実できない
ことは明らかである。つまり、大洪水がやってくる前に「私たちはすべてを変えなくてはならな
い。」だからこそ、資本主義批判と環境批判を融合し、持続可能なポストキャピタリズムを構想
したマルクスは不可決な理論的参照軸として二十一世紀に復権しようとしているのだ。」
(参照/『大洪水の前に、』”はじめに“より、斉藤幸平著/堀の内出版‘19年4月刊。)

 これらは僕の35年以上にわたるモードを通じた海外諸國とその國の人たちとの関わりの経験値
から投げかけられる、新たな近代構築へ参画すべき日本人が持っている「差異と力」であると
信じています。
 だが、モードの世界では未だに白人至上主義者たちが構築した「ラグジュアリィーブランド」
へのもろもろなるコンプレックスを拠りどころに自分たちだけが生きのびられると思い込む世界
で”虚飾“を商材とし商って、”虚飾“なゴシップに戯れている世界でしかありませんね。
 今回の、僕が危惧する『大洪水前の、』新たな「近代」へのパラダイムを考えるための私論 
「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」を試読し、
辿り着いた「根幹と視点」です。
合掌。
まとめ・文責/平川武治:

※参考/「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/;ユヴァル・ノア・ハラリ著
(株)河出書房新社刊/ 2018年発行:
※ 参考/『大洪水の前に、ーマルクスと惑星の物質代謝』/斎藤幸平著/堀の内出版‘19年4月刊。

投稿者 : editor | 2020年1月11日 03:05 | comment and transrate this entry (0)

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