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MIYASHITASOLOISTのショーに撃たれた衝撃という快楽。
ーーー「本当は、もっと早くに書けていた原稿だったのに。」
「MIYASHITA THESOLOISTのショーに撃たれた衝撃という快楽とは、
ーーー”今日も楽しい道化仕事。“」
ー「かまって欲しい。」;
『 “生きもの”は全て、
「かまって欲しい」と言う
欲望あるいは、願望を持っている。
その生が激しいものだけに
あるいは、激しく生きるのもだけのに許された
強欲でもある。
そして、この究極は、
「温もり」を求め、“愛”というこゝろの有り様に
行き着くだろう。』
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僕の私生活。
今、年老いた猫と共棲生活を
させてもらって、もう10ヶ月ほどになる。
共棲生活で知った事は
「かまって欲しい」がために
生きていると思わせるまでの日々の彼女である。
多分、彼女は「人間に成りたがっている猫」なのであろう。
飼い主を喪った経験からか
「孤独」と「危なさ」言う時間が長かったからか
身についた生き方なのであろう。
何しろ、彼女は、
「かまって欲しい」珍らしい猫なのである。
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『ジョーカー』と言う映画があった。
主人公、アーサーの人間味の根幹は、
「かまって欲しい」人間が
世間で生きようとしたが為に、
“ニヒリズム”と言う快楽を感知したと読んだ。
「孤独」と「寂しさ」は違う。
その差異の根幹は人間が持つべき
“自己の強さ”でしか無いだろう。
あるいは、その求め方が違うのであろう。
「孤独」は自らが自らを求める。
「寂しさ」は他者に自らを求める。
そして、「孤独」は“繋がり”を生み出すが、
「寂しさ」は“群がり”を生むまでしかない。
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それは
「ドア」の外、
「白い耀き」。
あの“ラストシーン”が
プロローグで始まった、
“MIYASHITA THESOLOIST”のランウエー。
とてつもなく、せつないが
それ以上に優しさというロマンティズムが
風のざわめきのように
人間に纏いつきながら漂う。
「かまって欲しい」人間が発する
“美意識”とはこんなに儚く、切ないものなのかと
人生における、
一度限りに見せる想いと覚悟。
全てに、細やかな神経と湿りまでも触れる
優美過ぎたショー。
“The life is comedies.”
”ファッシズム”が
ヨオロッパに台頭し始めて来た‘30年代初め、
C.チャップリンの言葉が
繊細にそして、このデザイナーの拘りが
白という空白に
市川孝典と共に手掛けたグラフィズムが
燻し銀に仕上げられる。
「世間」と「病院」という関係性。
或いは、「仮面」と「ユニフォーム」という関係性。
ー “The mental illness。”
拘束衣という”白衣“と拘束手袋たち、
“自由”を封じ込めるための衣装具。
或は、“自由”を目覚めさせるための衣装具。
解体されて生きながらえるであろうベスト
そして、ソックス。
ジョーカーがこゝろに携えていた
アイロニックな「黒い薔薇」或いは、
オマージュとしての「黒い薔薇」。
そして、アイライン。
これらを丁寧に
敢えて選んだ MIYASHITA が欲する“ニヒリズム”が
綺羅りと。
その耀きが一瞬にして、
彼の美意識と願望を魅せるまでに
煌めいたコレクション。
「 “ユニフォーム”をどれだけ“エレガンス”に!
“コスチューム”をどれだけ“機能美”に!!」
MIYASHITA はこの現代の価値観を確りと掴んでいる。
綻びて来た「近代」と言う時代性に
”Don’t serious“と投げかける。
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“My life is joking” と生きている僕。
僕は”人間“になれるのか?
現代のような時代、
「安全のファッシズム」或は、
「キャンプなファッシズム」な世間は、
多くの人間の願望に、“ジョーカー願望”があるだろう。
貧しさ故の「願望」と、
富を持ち得たが故の「ジョーカー願望」。
この現代社会を玩んでいる現実は後者たち。
「何が真実」が解らなくなって
「真実っぽさ」だけが充満してしまた
この“世間”という現世は、
決して、誰もマジに「かまってくれない」。
「今日も楽しい道化仕事。」』
P/S;
“ People expect you to behave as if you don't ”
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「余談らしきもの、」
僕が「ジョーカー」を見てわかった事、
「母一人、子1人」というミニマムな家庭。
アーサーの育ちが同じだという事。
僕の青春には
こんな幸せな時があったのだ、
「左には道化者。
右には厄介者。
真ん中に挟まれた俺たち。」(70年代のソング/挿入歌の一つ。)
今の僕は、
「落ち葉は風を恨まない。」(座頭市より。)
「おわりに、」
僕の不祥事でこんなに遅れてしまった原稿、
宮下くん、すみません。
時間が経って、想い出すほどに、本当に、美しい時間だった。
選ばれた空間と演出された空間も、音楽の選曲も、コーディネートのエレガンスさも、
僕には、全てが“SUPER COOL !!”であり、
確実に、世界は新たな日本人デザイナーを認めたであろう、ありがとう。
巴里でIPadが故障し、頭脳が止まり、
伯林のクラブ『Berghain』での数時間で
脳味噌は完全に蕩け、時間も止まってしまったが、
“世間”の時間は止まらず「不確実な事」がいつものように、
メディアによって「真実っぽく」煽られ拡大している。
「コロナウイルス」。
誰も未だに、「確実な事」が判っていない、「真実」が語られていない。
誰かが、「これはテロである。」と叫ばない!?
「ジョーカー」に憧れるが、
誰も、「ジョーカー」にはならないという真実が時代性???
合掌。
文責/ 平川武治;巴里ー伯林ー鎌倉ー巴里:
投稿者 : editor | 2020年2月20日 00:47 | comment and transrate this entry (0)