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「山本寛斎さんが亡くなられた。」ご冥福を申し上げます。

山本寛斎さんが亡くなられた。 
この知らせがYAHOOニュースで開かれたままだった iPadに流れた。
今日、07月27日、午後01時03分だった。
しかし、亡くなられたのは、7月21日だったようだ。

 「どうか、ご成仏ください。」

この時、僕は古いPCで「二人のデーヴィッド」を調べていた時だった。
此処で、”一瞬に幾つかの過去”が繋がった。

 昨夜はプライムヴィデオで、「D.Bowie The last 5 years」を見て、ベルリンの友人の音楽家へ
メッセージを入れた、「この映画を君と一緒に観るとより、愉しいね。」と。
そして、昨夜見ていたフィルムから「二人のデーヴィッド」が気になり、今日また再読していた
矢先だった。そこで見つけたのが、二人のデイビッドに挟まれた、若き山本寛斎さんのいい写真でした。https://the.kyoto/article/d3c5cdd7-2586-44b2-aca3-35703a23dd9a

 この山本寛斎さんの訃報を聞いて”繋がった”僕の過去とは、
[ 山本寛斎=D.ボウイ= ツトム ヤマシタ=D.キッド=森本康義=J.グラックそして、
ひらかわ]という”繋がり”で、僕の'60年代終わりからの10年間ほどの出会いと繋がりだった。

 山本寛斎はD.ボウイの’73年の日本公演の舞台衣装でKANSAIの名前をロンドンから世界へ
認知させた。この作品は歌舞伎衣装の”引きぬき”という手法を用いステージでの「早や変わり」
という演出に生かされた。衣装はステッチワークとともにエネルギィイの流れを表すかのような
左右対称の構築が力強く、舞台晴れする見事な衣装を彼はデザインした。この衣装はボウイ自身
も気に入ってその後の倫敦公演でも使っていたし、’76年の”アラジン セイン”の衣装も担当され
た。多分これらの作品の幾つかはロンドンのV&Aのミュージアムピースになっているはずだ。
この当時は、日本人ファッションデザイナーが世界で勝負するにはやはり、自らの「ジャポニズ
ム」をどのような時代感と世界観で自分流にまとめあげるか?が先ずは、勝負どころであった。
海外で名を馳せるには今もこの手法は基本的には使えるアイディアの一つであり、現在も変わっ
ていない。

 D.ボウイと山下ツトムは’70年には、”ロックスターと現代音楽家”という音楽ジャンルは違った
が、当時のロンドンのカウンターカルチャーの騎手としてすでに、交流があった。
そして、ツトムが’72年から活動を始めた、劇団「RED BUDDHA」の倫敦公演をボウイは
アンジーと共に見にきている。その後も彼らは交流が続く。映画「地球に落ちてきた男」
(監督、N.ローグ;’76年)で”俳優と音楽家”という関係で一緒に仕事もしている。
直接的に”京都”+”David KID”を結びつけたフィクサーのはツトム ヤマシタであっただろう。

 「二人のデーヴィッド」であるD.BOWIEとDAVIDE KIDさんは、"京都ー九条山繋がり"
である。’60年代には前衛芸術家グループの「具体」のメンバー作家たちが集いその後、70年代に
なってから芦屋から移り住み着いたのがD.キッドさんだった。通称、「九条山桃源洞」。
残された写真を見てもわかるが、すばらしい本格的な日本邸であった。
僕はキッドさんが芦屋に在住中に彼らの棲家を訪れた経験があったがそこも、「前庭と長屋門
そして、中庭」を配した純日本式の邸宅を借りて住んでいたことを覚えている。
この「九条山桃源洞」も写真で見る限り彼ら達の美意識が見事に空間化された邸宅だ。
そして、彼らはその空間に著名な外国人旅行者も混えた顧客を招き、中国、チベットの古仏像を
はじめ書画仏具を外国人流日本式のおもてなしで展示即売が彼、キッドさんと森本さんの職業だ
った。
この「二人のデーヴィッド」の出会いは、’72年が最初だっただろう。その後、ボウイの最初の
日本公演来、彼らの関係がはじまったのだろう。日本の仏教文化とその思想に興味を持っていた
ボウイには以後、もってこいのフィロソフィカルな”師匠”であっただろうD.キッドさんだ。
’80~’90年代は度々、お忍びも含めてこのキッド邸を訪れていたボウイは、’96年にキッドさんが
ハワイで亡くなられるまで続く。’92年には再婚したイマンを連れて新婚旅行としてここ、
「九条山桃源洞」を訪れている。そして、キッドさんが69歳で亡くなった20年後に、ボウイも
同じ享年69歳で亡くなった。僕はここにもこの「二人のデーヴィッド」の因縁を感じている。

 森本康義氏は彼が外語大学時代にD.キッドさんと出会って以後、キッドさんが'96年に亡くなら
れるまで一緒に暮らし、共にビジネスをなさってこられた伴侶だった。
僕は彼らが芦屋時代の’70年頃に幾度かお会いした事を覚えている。

 D.キッドさんとJAY.GLUCKさんは共に来日した”仲間”であった。
彼らは戦後間もない’40年代終わりに来日した。それぞれが学校の先生をした後、北京に住んだ
経験から専門は中国美術と、イスファハンに在った東洋磁器研究所勤務の経験からペルシャ美術
愛好家という触れ込みで、和歌山経由で芦屋に住み着いた。二人とも当時としては超豪邸然も、
本格的日本家屋をそれぞれ借りて住み、ビジネスを始めた。戦後当時でもそれなりの資産を持っ
ていた日本人富裕層たちを顧客として彼らは古美術を商った。一人は中国チベット仏教美術品で
あり、もう一人はペルシャ陶器とラグ、古民芸布を扱ったが、この根幹には、当時の日本人のお金
持ちが見事に陥った「シルクロードコンプレックス症」をターゲットとした、戦後の財界富裕層
に近づくための諜報的匂いが漂っていた。勿論二人はユダヤ人であり、一人は同性愛者であった。 
 
 J.グラックさんと僕の出会いは、僕が丹波の窯元で3年間、陶芸を学び戻ってきた芦屋時代の
滴翠美術館だった。当時、僕は近所にあったこの滴翆美術館で陶芸科の助手をしていた。
ある時、ここで彼のコレクションであるペルシャ古陶器類の展覧会があり、これが僕とグラック
さんとその家族との縁を産んだ。彼の奥さんは愛嬌深い可愛い聡明な日系人だった。彼も芦屋の
元山県有朋のご令嬢の嫁ぎ先のお屋敷を借りて住み、その見事な日本式大広間をシルクのペルシ
ャ古絨毯を引き詰めた空間にしつらい、自らのコレクションの数々、古ペルシャ陶磁器類を並べ
見事な演出で展示即売していた。そんな彼が、自分のコレクションのための助手を探していた時
に僕は出会った。以後、J.グラックさんのところで僕は彼のコレクションのペルシャ古陶器の整理
や展覧会の準備などの書生仕事をさせて頂いていた。
昼間は彼の自宅で普段では実際に触る事が困難な高価な価値のあるペルシャ陶器の無彩陶器や
金彩ミナイ手磁器類の古美術を触り、夜は滴翆美術館で窯を焚くという書生生活だった。
この2年間は恩恵と好奇心の日々だったことを想い出す。が、この無理によって次の26歳の僕は
1年間、国立貝塚千石荘という結核療養所生活を強いられた。

 ツトム ヤマシタと僕の出会いは京都の友人の紹介だった。
1年間の思いもよらぬ結核療養所生活は僕に新たな決心を、と言うより新たな自由を目覚めさせ
てくれた。後ろへも戻らず、前にも進まない1年間という時間は結局、僕に”不自由さ”と言う空白
が現実となっただけだった。その現実を教えてくれたのはこの療養所でたまたま一緒に暮らした
幾人かの先輩患者たちだった。入院後、最後の半年に同室だった老人は人の良いスローな男だっ
たが、どこかが崩れてしまっていて、もう社会復帰することを彼自身が拒否してしまった生活を
この結核療養所で40数年間営んでいた。僕の26歳はそんな、在って無かったような1年間で終わ
ってしまったために、’72年の誕生日をこの空白で過ごした後、退院した。
 18歳で渡米し、その後前衛的な技法での打楽器演奏によって既に、名声を博していたツトムは
’70年の大阪万博にはアメリカから帰国していて、西ドイツ鉄鋼館で行われたシュトックハウゼン
のコンサートに姿を現していた。また、当時のTV 番組で朝のニュースショー番組にも出演したり
して、所謂、時代の寵児だった。友人達と彼の多種な打楽器類を京都から車で運んだことを覚え
ているので、僕がツトムと出会ったのはこの時分だったと記憶している。
今覚えている彼の第一印象は「爬虫類の様な人」だった。兎に角、全身が繊細な神経と自由な想
像力で弾力感に溢れた存在だった。’72年には、武満徹が帰国したこの若き打楽器奏者ツトム
ヤマシタのために作曲した「カシオペア」が指揮者、小澤征爾でEMIによってレコーディングされ
「幻の名盤」とされ、この曲は武満作品の中でも指折りの傑作とされている。
http://blog.livedoor.jp/a_delp/archives/1055681304.html
が、実はこの「カシオペア」によって、その後のツトム ヤマシタは”武満ー小澤”によって見事に
日本のクラッシック音楽界においての彼の活動が完全に阻害されてしまうと言う事件を起こして
いる。
 今思うと大変稀で貴重な体験が’72年の7月13日から始った。
ことの始まりは、当時のフランス文化庁の招聘で南仏のアヴィニヨン演劇祭に参加しその後、
幾つかのバカンス期のフランス避暑地で行われていた音楽祭とそして、イタリーのローマと
スポレートの音楽祭へもニューヨークのリンカーンセンターのデイレクターのバックアップで
招聘されてツアーリングを行った。そのための”劇団メンバー”を探していたツトムと出会ったの
が春頃だっただろう。そこで僕は衣装担当で参加させていただいた。
これが劇団「RED BUDDHA」のオリジナルメンバーとなり、” THE MAN COME FROM
EAST”と言う題名で”ツトム ヤマシタの音の世界”をステージ上でヴィジュアル化した新しい演劇
パフォーマンスが作品化され、’72年の7月13日に確か、ミュージシャンと裏方の12,3人で巴里へ
旅立ち、これらの演劇祭といくつかの音楽祭に初陣参加した。
そして、秋の終わり頃にはこのツトム ヤマシタ&劇団「RED BUDDHA」はパリへ戻り、
S.モンフォール女史が(https://en.wikipedia.org/wiki/Silvia_Monfort) 彼女自らの劇場を、
マレイ地区の今は立派になって再生されているピカソ美術館の真向かいに小劇場を新設し、その
柿落としから数カ月を此処で公演した後、渡ったのが倫敦であった。’73年にはこの” THE MAN
COME FROM EAST”のライブレコードがロンドンのISLANDレーベル(L35092)からリリースさ
れた。
 アヴィニヨン演劇祭では、P.カルダンがサポートしてくださり、のちに仏文化相になった当時
まだロングヘヤーだったJ.ラング氏がこのフェスティバルのオーガナイザーの一員で何かと面倒を
見てくださった。スポレート演劇祭では、このフェスティバルの提唱者の一人である、
L.ヴィシコンティ監督も「マノンレスコー」を既に、車椅子に乗ってディレクションされていたの
も覚えている。僕にとっての劇団「RED BUDDHA」での1年余りの経験は全てが、僕が結核療養
所で求めていた「自由なマインドで生きる」ことそのものであり、好奇心の塊の不連続な連続の
初体験だった。後に、僕はこの体験は「僕の万博だった!」とよく表現して人に語っていたほど
だった。そして、僕と劇団「RED BUDDHA」との付き合いはロンドン迄で終わった。
実は、次なる公演が”ブラジル公演”と決まっていたので僕はここまでこの劇団「RED BUDDHA」
つまり、ツトム ヤマシタとつき合うつもりでいたのだが、この時期、ブラジルの政権が交代した
ために公演が流れてしまった。ツトムは第2作目の「RAINDOG」を創作して’75年にアメリカ公
演へ出掛けたが、僕はロンドンに残り、親父になった。これが'73年の僕のロンドンだった。
劇団「RED BUDDHA」を退団した僕はそのままロンドンに残って息子が誕生した。
また、この'74年には東京からの友人であった立花肇君がロンドンの僕のフラットに一時逗留しに
やってきた年でもあった。彼はこの旅の始まりに、シベリア鉄道を利用してロンドンに辿り着い
たのだがこの時、彼は東京公演の帰路のD.ボウイ一行とこのシベリア鉄道で出会うという強運を
持ち合わせていた。それが、後の彼らたちのあのクール モダンなグループ、 ”プラスティック”へ
と続く。
 僕は、この’74年の早い時期に日本公演から倫敦に戻ってきたD.ボウイに会った。
友人が住んでいた、ギルフォードという田舎街を訪れた際に、一台のロールスロイスと遭遇した
このロールスにD.ボウイが乗っていた。そこで、彼がこの街でコンサートをやることを知った
僕は厚かましくボウイにメモを渡した。結果、彼は僕と妻をミキシングの横に座らせてくれ、
この地の彼のコンサートをビッグプレゼントをくださった。

 最後になってしまったが、山本寛斎さんと僕は”リセフランコ”繋がりだった。
彼のご長女と僕の愚息が同じ時期に飯田橋に在った、「リセ フランコ ジャポネ」校の生徒だった
からだ。そして、僕が最後に彼に会ったのは確か、「3.11東北大震災」後の、2012年だったと
思う。その前に、蔵前にある大東京博物館のある展覧会を見に行った折に偶然に出会う。
この時、ご一緒に写真を撮っていただいた覚えもある。そして、震災後にお会いしに伺ったのは
彼の青山1丁目にあったオフィスだった。僕はあの「3.11東北大震災と東電福島原発事故」の
ショックで、それまでの巴里生活に終止符を打つ決心をし、アパートを引き払い以後、パリ通い
の生活にとなった。そして、僕のブログにも書いた「いらないものは捨てましょう。」と言う
散文詩を持って寛斎さんにお話に伺ったのが最後。
 勿論、同じファッションの世界が生業だったので、それなりのつき合いはあったがまた、
それ以上の付き合いも無かった。むしろ、彼の印象は頭を緑に染めたスキンに近い姿だった京都
で出会ったことの方が未だ、衝撃深く覚えている。また、僕が上京してお世話になったアパレル
「アンバーハウス」の社長だった故矢田由親氏が「レマン」と言うマーケティング会社時代に
彼、山本寛斎さんが出入りされていたと矢田さんから伺っていた。この’63年の広告代理店
「レマン」には若き浜野安宏氏も高橋靖子さんも在籍して、まだ世間に、「マーケティング」と
言う言葉が流行っていなかった時期のすご〜いお話だ。僕はこの矢田さんから多くのことを学ば
せていただいた一人、感謝のみです。ありがとうございます。
(http://www.mogeworkshop.com/blog/blosxom.cgi/diary/archives2007/article09/article08/
20070819.html)

 余禄として二つ、
 僕の寛斎さんはいつも晴々とした、素晴らしい笑顔の人でした。
僕も、”笑顔”が大切なボキャブラリィーだと思っている人間なので彼の寂しさも感じました。
もう一つ,寛斎さんに関して思い出しました事。’70年に入ってからの渋谷西武の地下駐車場にあっ
た『BーIN」とその後の、渋谷西武本館の中2階の「カプセル」と言う売り場。
‘71年、寛斎さんがロンドンでのショー後この「カプセル」で、山口小夜子さんのデビューと共に
謂わゆる、”凱旋ショー”をなさった曰くのスポット。この「カプセル」では三宅一生の入れ墨
プリントTシャツも記憶が蘇りますね。しかし、この入れ墨プリントTシャツは当時、京都美大を
卒業したての皆川魔鬼子さんのオリジナルでした。J.ヘンドリックス+J.ジョップリンの'70年の
死でしたか?そして、確かその後、寛斎さんと一生さんはこの「カプセル」後、確執が生まれ
寛斎さんのブランドは少しづつ西武から遠のき始め、ファッションビジネスとしては差がつき、
寛斎さん自身もその後、イベントワークへ自らの自由さと魅力を感じ始められたのでしょう。
 
 もう一つは、僕はこの時期、彼、ツトム ヤマシタと出会った事はその後の僕の人生に大きな
そして、広々とした自由な可能性と知的好奇心を与えてくださった人物である。
 なのに、「カシオペア」以降の”日本村”のクラッシック音楽の世界と日本のメディアはその後
のツトム ヤマシタ/山下勊 (https://ja.wikipedia.org/wiki/ツトム・ヤマシタ)を完全に葬ってしま
った。
 何故もこれ程に無視されてしまったのだろうか?
あるいは、無視、続けねばならなかったのだろうか?
 同じ京都が舞台であるのに、今回の「二人のデーヴィッド」を探していても、彼の名前が皆目
見つからなかった。ツトム ヤマシタは、’71年だっただろう、あの嘗ての「TIME LIFE」誌が
戦後、何人目かの日本人表紙をカヴァーした程の人物であった彼を???
 
 おわりに、
プライムヴィデオで、「D.Bowie The last 5 years」を見て、改めて、D.ボウイの自由を変わらぬ
根幹としたメタモルフォーゼな生き方とその覚悟に再び、惚れ込む。結果、あのような最期の
仕事と死に方にボウイのクールな美学を学び、彼の人生を再確認し、感動してそして、
ギルフォードで出会ったあの日のボウイと重ね想い、以前から少し、関心と興味を持っていた、
「二人のデーヴィッド」をさらに深く調べ始めていた矢先に、山本寛斎さんの訃報を知ったので
す。
 「これは誰かからのそして、何らかの"メッセージ”だ」と受け取った僕。
そして、この「繋がり」を僕なりに辿り帰して見たくなった。
この歳にならなければ、出来ない行為の一つであろうと自負しつつ、
 
 山本寛斎さんはこの時世をあの明快な笑顔と共に逝かれた。

お悔やみ申し上げます。
笑顔と共に、ご成仏ください。
南無阿弥陀仏。

 今年から僕は亡くなった母親以上の年齢を生かされる機会をいただいた。
「死ぬために、一勝懸命生きる。」と言う年齢が始まったばかりの今年、
この、「コロナ以降」の”あたらしい普通”と言う時世の到来。
それは、辛うじて生きのびている者のつれずれなる戯れあるいは、罪滅ぼしの日々という現実。
 僕はどのような”しあわせ”を求めて生きてきたのだろうか?
合掌。/

山本寛斎さんと二人のデイヴィッドの写真があります。
https://the.kyoto/article/d3c5cdd7-2586-44b2-aca3-35703a23dd9a
分責/平川武治:鎌倉裏八幡にて。

投稿者 : editor | 2020年08月02日 19:40 | comment and transrate this entry (0)

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