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2013年10月20日
瀬尾君のオークション結果とメールでのご返事と世界のアートビジネスとは、
今回の倫敦での古い友人との再会と死。
時間の経過は残酷な場合も在ります。
それは自分が怠っていた何かが在る時でしょう。
僕自身が悔しくて惨めにさえなりましたが、
これが自分だったんだと後悔と
今後の可能性へ残された時間を向けるのみ。
そして、倫敦での最後の日。
瀬尾君からたいへん嬉しいお知らせを頂いた。
早速のお喜びをお裾分けして頂き、ありがとうございました。
18日に終了したオークションの結果、
WORLD CHESS HALL OF FAMEの館長が15000ドル落札される。
この落札価格は同じオークションに出ていたA.マックイーンより断然高い値段!
そして、その主催者である館長が今回のシンポジュームのゲストとして招いた
ニューヨークのF.I.T.のVALERIE STEELEさんに寄付なさり、
瀬尾君の作品は今後、N.Y.のF.I.T.が保管管理されることになった。
この結果の読み方は、
初めてのオークションで彼の”価値”が認められ、今後への可能性が与えられた結果であり、
これから世界のアート市場で瀬尾君の作品がアーティスト作品として流通されるという事実。
即ち、彼が創り出す”価値”とその作品としての”世界”がアーティスト作品として
ウエルカムされたということである。
志しいずこか? 自己満足で他人の褌の上で踊っているしか仕方ない“バカの学校”の
お得意の”客寄せパンダ”行為或いは、お芸術ごっこではここ迄、辿りつか無い世界。
この違いは、『自分の創る世界に自らが”価値”を認めるか?スポンサーの為に創るか?』
の違いが根幹である。
芸術作品に誰が価値を付けるか?の、この世界の根幹が解らないで
”アート”“アート”とのたうち回って“おアートごっこ”に勤しんでいる輩たちと
その周辺のファッション長屋のおばさんたちは
もっと、”アートとは”の世界を世界レベルで学ぶことである。
この実際の世界を学びたい人は、
学ばなければならない多くの日本の”アートコンプレックス症候群”のお芸術家と
各種キューレターたちはこの本1冊を読むべし。
『偽りの来歴』。
この本は“眼から鱗”である。
所詮”農協アーチスト”のレベルでセコンダリーマーケットでイキがって居る
アート関係者たちよ、”世界のアート”ではここでもユダヤ人たちの独占立ち居場所。
いつまでも”笑顔と握手だけで儲けられる日本人さま”でいて良いのか?
彼らたちが構築した”世界”とは、”アートビジネスの世界構造”とは?の根幹を学んで欲しい。
1983年以来、『ニンジンを売るのもお芸術を売るのも同じ。』という
豪快な独断と自由さによって新たな美術市場が構築された。
それも、アメリカの土地成金によってである。
Mr.Adolph Alfred Taubmanがその当事者。彼は合衆国におけるショッピングモール構造を
不動産業のソフトとして構築し”A&W”億を起業し億万長者になった成金。
彼がオークションハウスのあの” Sotheby's”を買収価格1億3900万ドルで買収し、
(当時のレート)その後、彼が為したことが
以後の『世界のアート市場』を現在の様のアートビジネスモデルに構築した張本人である。
残念ながら、日本の美術市場の人たちはこの世界を学んでいない。
多くの美術館関係者も、キュレタ−志望のヒヨコたちも何も知らないで、
”展覧会企画”が出来れば、美術館で働ければという所詮、日本的なる浅はかな世界で
イキがって居るだけである。
この本には美術館の仕事とはも書かれている。
ただし、このほんの読み方と読み込み次第である。
この本の根幹を読み得れば、今後、『世界のアートビジネス』がどのような方向性で
成立するのかが理解出来る。
これからのファッションの世界も『モードビジネス』と『ファッションビジネス』の
世界に”2極化”されてゆく。もう、その兆しと現実は動き始めている。
世界は確実に動いているのだ。
この本にはその一方の根幹が明確に書かれている。
もうソロソロ、”バカも煽てりゃ木に登る”世界でとやかく言うのは辞めよう。
またもや、ユダヤ人たちに“ネギ鴨”扱いされない為にも「学んで欲しい。勉強すべきである」
瀬尾君のこれ迄のA.アライアさんの元での苦労と
そこから持った彼自身の自由さからの視点のよって作品を創って来た全てと甲斐が、
一つ報われた結果に。
そして、今後の新たなる可能性へも。
奥様にも感謝ですね。
これをスタート時点と励みとしてそして、バネに今後も、
思い切り”更なる狂気の沙汰”を彼方自心の新たな価値へ昇華するまでの世界を創造する為に
どうか、お気張りください。
寒さへの巴里、ご自愛とともに
更なる“GOING YOUR WAY!"
瀬尾君、すばらしさと興奮を共有させて下さって、ありがとう。
相安相忘。
合掌。
ひらかわ:
蛇足ながら、
私事ですつ礼ですが、来月11月16日、
金沢の21世紀美術館で僕のトークの会を催して頂きます。
その折にはこの『モードビジネス』と『ファッションビジネス』の相違とこれからなどを
話す予定でいます。
もし、ご興味の在る方は是非、金沢へ。
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=24&d=1731
2013年10月19日
ひらかわ流-2/最近のコムデギャルソンのコレクションの見方、感じ方、読み方。クリエーション編/’14年Paris S/Sコレクション論
時折、東京へ出掛け出会う人たちの世代によるのだが交わされる会話が、年金の話、
がん保険の話そして、病気の話と異常気象の話若しくは、ガーデニングか旅の話。
多分、これらが僕たち世代が交わす会話の今様の当たり前な話題なのであろう。
しかし、それなりの世代の会話にも然程、変化は無く加えて自らの自慢話。
最近は殆ど、新鮮な個人の世界観を感じさせるまでのボキャブラリィーを使った話が無く
貧しい会話で所謂、テンプレート化されたものが多い。
ここでも『自由』の根幹が実生活で発育不良化し萎えてしまっているのだろう。
その現象結果が現在の”東京コレクション”の現実の多くであろう。
そのような現実とそこでの生活が平和を象徴しているのか、諦めが顕在化しているのか?
僕のような生き方をして来たものにはやはり異界の会話になってしまっている。
従って、そんな輩たちとは再会も憚ってしまう。
トンネルのこちら側の竹藪の中にいる方が冷静なる好奇心を未だ、引きずることが快感な
生活である。それは、決して快適ではない寧ろ、不便さの中の日常性を周囲の生態系の
摂理の中で心地よさを感じられるからである。
◎はじめに;
デザイナー川久保玲もそんな“年金云々”などと言う現実からは途方も無くほど遠く、
かけ離れた生活を為さっているから、この様な『服で無い服』に拘ってしまった、
“豊かさ故の反抗心”と言う倫理観からコレクション発想が出来るのであろうか?
と、訝しい考えを持ってしまったCdGの先日のパリコレクションであった。
僕の様に”捩じれて生きて来たものには”年金の話やがん保険の話を聞かされるよりは
僕向けである。以前、僕が約20年ほど前にインタビューした折には、
川久保サンと“捩じれて生きている”という発言を交わし合ったことを覚えている。
が、彼女の場合は決して、それが現実の生き方ではない立場と環境からの言葉でしか無い。
元々、若き時代から彼女の実生活のクオリティは“スノッブ”。
しかし、この様な川久保玲が発する世界がどれだけ通用するのだろうかとも
思ってしまうが、その彼女の強気に僕は魅かれ、より、好奇心駆られ乾杯をしてしまう。
一方では、この世界が通用する世界が現存することの方に恐怖を感じてしまうし、
また、この世界が本意ある解釈の元に理解されてしまっているのだろうか?との
懐疑的な思いもある。そこに、最近のこのデザイナーが見せる『特意性』からの
『特殊性』とはを感じる。
既にのべたが、このようなクリエーションアイディアとショー形式に変化し始めたのは
僕流に言えば『特意性』が変化し始めたこの3〜4年来の現実のショーである。
この変化の要因とは、川久保自身の高齢化もあるであろうし、社員の増加もあるであろう。
何よりもモードにおける環境そのものが変化し、クリエーションの新しさも
変質してしまったという外的要因の現実性からでもあろう。
だが、”継続と繁栄”という実業の世界の義務感も他方では必在するからだ。
◎一つの造形の世界としての”ブリコラージュ”;
また、結論的な視点から入ろう。今シーズンのコレクションの僕の眼差しは、
このデザイナーの発想になる従来からの『特意性』をより、表層化させた
コレクションピースの”ブリコラージュ”である。
言い替えれば、ここにも、川久保玲流”アーカイブスのバリエーション”と
”アーカイヴスのブリコラージュ”と言う手法が読める。
多分、時代がここ迄来てしまったという迄のこれも新しさの手法なのであろう。
勿論、その時の”自心のアーカイヴス”がオリジナリティあるクオリティが高ければ、
高いほど、今後の利用価値を生む。
であるから、現在に至る迄のこのブランドのクオリティの高さだけがその立ち居場所と
求める『特意性』に差異を付けられる迄の”ブリコラージュ”手法が可能となり、
『特集性』に耐えられる。
東北大震災以後のコレクションで見かけるようななった僕流には“アトリエの瓦礫の集積”
以後、”エアー & 詰め物ボンディング”から”フラットクロージング”そして、以前から
時折出て来て彼女が好きなコンセプトの一つ、“エンゲイジングゲイジ”とも言っていい
であろう、”四角い駕篭の鳥”シリーズ。
結局はこれらのこのデザイナーが提案して来た『特意性』の造形的ブリコラージュが
今回のコレクションに於ける『服で無い、、、』の重要性を委ねた根幹である。
例えば、彼女の経験からは、先シーズンに発表した”フラットクロージング”は多分、
新しい領域で在ったであろうし、今回もその継続性と発展性が僕には一番美しく、面白く
その後の可能性も読めるまでのものであった。”エアー & 詰め物ボンディング”はご存知の
シリーズ。そして、“エンゲイジングゲイジ”は彼女の「創造の為の発想」の根幹の一つに
位置するものかもしれないと感じたのも今回であった。
若しくはただ、彼女が好きなパターンということも出来る。
ちなみにこれらの『服で無い、、、』の販売価格を調べると、
一番、価格が高いのがこのシリーズであった。
”拘束されてしまっている自分”と“拘束されている他者”との対峙とパラドックスな眼差し。
この“四角い鳥かご”の中にはいつもそのシーズンのメインアイテムが着せられている様だ。
今シーズンは、ジプシー風若しくは、スパニッシュ風フリル付のゆったりとした分量の
ローブである。
ここでは、”丸い鳥かご”ではなく、“四角い鳥かご”もキーワードであろう。
“丸い駕篭”=”コルセット”では、”パンク”ではないのである。
このデザイナーの「創造の為の発想」は彼女が持ち得た実経験からの発想は現在では、
殆ど無い。寧ろ、「時代の傍観者的なる視点としての距離観」が大きく発想の為の発端として
働く。そこには、現代の若い世代のデザイナーたちとは”遅れ”という差異を感じる。
それは“身体性”ではなく“肉体性”で着るという迄の時代感覚と実生活感が感じられない。
『皮膚感』で着る服ではなく、『装飾性』を着る服でしか無い。
そこで彼女はファッションビジネスの根幹である”トレンド”という”フレーム/安全パイ”を
大きい外枠としてコレクションを手掛け始めた。
従って、今回の『服で無い、、、』コレクションも熟視すれば、今シーズンの”トレンド”
要素が程よく旨く含まれ、川久保玲流にこなされたものである。
—BLACK, PINK, チュール、不織布、プリーツ、フリル、フラット、I.J.プリント等々。
この数シーズン来のこれらの『特意性』の継続の為の創造のエレメントは決して、
着る女性の身体や肉体性には感知していない。寧ろ冷酷に無視されてしまっている。
ここで、川久保の言う『服で無い服』とは着る女性の身体性を無視した服的なる形態をし
それなりの装飾性を幾つも附加させた”オブジェの世界”で在ると言える。
このCdGのショーの数日前に、僕も『アズジン アライア展』を見せて頂く機会を持った。
従って、このショーを見ている間にどうしても同じファッションのカテゴリーとして、
川久保玲の世界とA.アライアの世界が重なりながら見え隠れしたので、
もう、このCdGのショーの造形美はやはり、単なる空恐ろしい“見得”的なる隙間が却って、
着る女性の為に作り込まれたものとしての感覚を排除された世界でしかなかった。
そこには創られた造形としての”服”にナイーブさが感じられない。
寧ろ、個人的なる変らぬ”業”が屈折されて感じてくる。
“手”の温もりも感じられない。
―“ああしたい、こうしたい、こうして欲しい。” “ここをもっと、云々、、、、”
ここでは、“手”の温もりよりも聴こえて来るのは発せられる無数の言葉でしか無い。
悪く言ってしまえば、その多くが既に、貼付けられた装飾性のみが眼につき始めた
今シーズン。
その中でも僕が興味を持ったのは、”フラットクロージング”による造形美であった。
このシリーズには美が感じられた。河井寛次郎を持ち出す迄でもないが、彼の美意識の一つ、
『醜さもまた、美』も理解出来る。そして、新たな展開による可能性も感じれた。
後、救われたのは不織布によるインクジェットプリントによる極彩色のシリーズ。
即ち、色が極楽色で詰め物によって、より立体的に、今的な3D発想で構築された美しさと
新しさをも感じさせるものであった。
また、毎回のコレクションで見せるストイックな迄に拘る幾つかの彼女自身が持っている
造形の為の素材の”タブー”も健在であった。
出来るだけ、”原素材”的なる工業素材とその感触を楽しむ迄に。
従って、出来上がった世界は『服で無い、、、、即ち、オブジェ』の世界。
◎そして、展示会という実業の世界では;
ショーで見せるのもは『服で無い、、、、即ち、オブジェ』
そして、展示会によって、見事にCdGが売りたい、CdGの売れる『服』を売る。
この川久保のブランドである”CdG"は既に、前述の“デザイン力学”を熟知した数少ない
優れたデザイナーのブランドである。この“ビジネスとクリエーション”のテイクバランスの
現実はこのブランドの展示会ヘ行く事で多くの事が読め学べる。
そして、この企業が死守すべき『立ち居場所』とその『継続』のためのビジネス的な
構造によって為されるバックアップ力の集約は“展示会”の根幹であり、培って来た経験と
努力による商品化の巧さとコーディネートアイテムのバランスの良い商品構成は、
変らず、世界のバイヤーたちからの信頼と人気を得ている。
実際にこのような処方の『特意性』のブリコラージュ手法によるショーと
シーズン“トレンド”の幾つかの要素をCdGブランドの世界観ある“テイスト&クオリティ”を
確りと変らず根幹に為された”コムデギャルソンらしさ”を商品化している強みによって、
最近のCdGブランドの実売り上げは伸びていると言う。
ショーはプレス用。”驚かして価値あること。”
展示会はビジネスバイヤー向け。”世界観を価値として売って価値を生み出すもの。”
“The Chaos of Idea "は
死守すべき『立ち居場所』とその『継続』のための30年間の創造と販売の経験と
それらを現実化する為の努力によって、初めて全てが可能なるという『根幹』が
全て大切であると言う当たり前の認識を改めて学んだコレクションでもあった。
文責/平川武治:巴里−倫敦−鎌倉にて、
2013年10月17日
見に行けなかった、ANREALAGEのショーをDVDで見て交わす文+α-。
森永様;
今、こちらでDVDを見ました。
DVDのみで失礼ですが、少し書きたくなりました。
前半はパリトレンドをビジネスを考えてのまとめ方。
後半はまた、日本素材の面白さを使ってのマジックショー?
“分量”が新しさを生むのか?その分量の”バランス”が新しさを感じさすのか?
“ユニフォーミズム”も今回のトレンドの一つ。
その場合のユニフォームに思いを馳せるこゝろの有り様とは?
トレンドだから?
僕が発言していた”インダストリアルなテイスト”は現実ですし、
“プロダクションテイスト”もそうでしょう。
この根幹は20世紀の人間が考えた”機械礼賛”観と、
21世紀の人間が感じ思う”機械礼賛”には大きな違いと差異即ち、
慈しみ感が違うものです。
21世紀の人間が機械に念うこゝろとは機械文明に対する“オマージュ”でしょう。
機械への可能性を謳歌した20世紀との違いがここに在るでしょう。
そこには既に、優しさと気遣い。
そこでは着る人への優しさとしての素材感と分量感。
ここまでのことが読まれていての”ユニフォーミズム”であればハッピィーですね。
そして、気になったのが靴。
もう一方、この素材がどのような機能を持ったものなのか不明なので何も言えませんが、
その新しい素材を”自分の世界観”に落とし込むという作業が未だ、未熟な様に思われました。
素材の新しさを紹介するだけであれば、それは“情報”の世界。
結局は、自分たちの”世界観”を美意識と共に服というモノに造形して下さい。
そのためにはまず、あなたたちのたちの”世界観”は共有出来るものなのか、
増幅出来るものなのか?その価値観は、根幹は何なのか?
その為に、どの様な服を誰に向けて創るのか?
その時には、どの様な素材が必然なのか?
その素材をどのように仕立て上げることが一番素材を着る人の為に生かすことか?
その時に、どの様な”さじ加減”を付ければ、より、着る人が自分たちの世界観の”価値”に
満足し、感じてもらえるか?
そこに、彼方たちの世界観による”美意識”がどのような世界観へ昇華させるか?
後はビジネスです。
創った以上は売らなければなりません。
売れる服を創るのか、買いたくなる服を創れるのか?
その為のまた、ここでも、彼方たちの”世界観”が必要になるでしょう。
人がお金を払ってモノを買うということはそのものに在る“価値”を認めて
その価値にお金を使うのです。
無いからモノを買う時代は終わりました。
欲しい”価値”の為にお金を使う時代です。
その価値がどれだけあるのか?価値あるものが創れるのか?
創ったシルエットの価値、センスでまとめたバランスの価値、気分の”価値”、機能の”価値”
そして、選んだ素材の”価値”、と技術の”価値”など、いろいろな価値がありますが、
どれだけの”価値”を自分たちの世界観で服というモノに表現し落とし込めるかです。
売る為にはこの自分たちであればどんな”価値”を着る人たちへ差し出せるかでしょう。
それが創造出来るかでしょう。
価値のないものをそれらしくアートだと勘違いして創っている連中と
それら自分たちが知らないものが出て来ることでバカ喜びするファッション長屋の
おばさんたちには巻かれないで下さい。
失礼ですが、DVDで見る限りの僕なりの変わらぬ総論です。
そして、蛇足ですが、
『関係性を創ること。これは成熟の為の余裕です。
世界を知ること。これは価値観の為のデシプリンです。
己の立ち居場所を知ること。これは謙虚さを失わない証です。
そして、感謝することです。これは自分のための世界です。
勿論、お金を儲ける事。これは継続の為の水です。』
これだけをこゝろして、”覚悟”していれば、
いつでも”世界”ヘ羽ばたくことが出来るでしょう。
世界は逃げません。
自分が望めば自分の世界になります。
全て、自心のこゝろの有り様次第です。
その為にどのような”自心の世界観と価値”を創るか?
その時に、何が出来る自心であるのか?
ここが『根幹』です。
彼方に取っての”世界”とは何なのでしょうか?
世界とは只の”場”です。
それほど特別のものではありません。
只言えることはそれなりの”質”を持った『場』であることです。
僕は22日からは鎌倉です。
彼方の現在の立ち居場所はその努力と共に立派な所に立っていらっしゃいます。
僕も好奇心強く彼方の立ち居場所を見続けていたい独りです。
ありがとうございます。
再会が新たな興奮になる様に。
ご自愛とともに、ビジネスもお気張りとお励みください。
相安相忘。
ひらかわ:
合掌。
文責/平川武治:倫敦市にて、
2013年10月15日
『倫理』観が希薄になってしまったら人間の『品』が損ない始めます-6;
また自然にやってくる”東コレシーズン”そこで観られるのは
『倫理』観が希薄になってしまったら人間の『品』が損ない始めるという
現実としての”ファッションゴッコ”。
『哲学者がモードに熱烈な関心をそそられるのは、
モードがとてつもなく未来を予感させてくれるからである。
確かに、芸術が、例えば絵画の場合がそうであるように、
現実を我々が実際に知覚するよりも何年も前に先とりして捉まえていることは
良く知られている。』/『パサージュ論』[B1a、1]
巴里在住、アズジンアライアのアトリエで7年間のアシスタント、
その結果、10年”VISA”を取得した瀬尾英樹氏の世界が感じ取れる始めての展観が
僕の嫌いな“ROOMs"で行われた。(嫌いな理由はいろいろある。昨年に僕の写真を無断使用し
その後の謝罪のこゝろが不誠実だからである。この企業の根幹はこのようなレベルであろう)
年々、参加者が減ってゆくこの展示会イベント、なのに変わらない高額参加費。
補助金と援助金そして協賛企業からの合計と支出費用を差し引いても誰がどれだけ
儲けているかの解答は歴然である。が、続いている。不思議な世界である。
さて、そんなレベルの事を書きたいのではない。
瀬尾君の事、作品であり、彼の世界観である。
そして、彼のお師匠、A.ALAIAの事である。
◎プロローグとして;
東京におかしな集団がある。
瀬尾君の行動とその自らが選び取った”立ち居場所”と比較出来ない集団である。
イタリアデニムカジュアルブランドDIASELの広告塔であり、彼らに去勢された
『犬の遠吠え集団』バカの学校。或いは、最も日本的なるムラ集団主義構造。
“アート”と“ファッション”の世界の根幹の区別すら吟味されず、
所詮、”集団で長いものに巻かれろ”型人間の小衆。従って、『自由』が何なのであるか解ず、
”ファッションデザイン”がどれだけ人々の生活に直接寄与しているか、
どのような世界であるかも殆ど皆無。未熟なる経験と大いなる思い違いのスキルのみを
振りかざして幼い自分たちの立ち居場所をより特殊なる狭軌な状況の元でマスターベーションを行っているレベルの集団がある。
また、この集団を褒め称える元編集者等否、ファッション長屋の世話焼きおばさんたちの
存在も摩訶不思議な東京という街のファッションゴッコ。
なぜこのような”バカの学校”を引き合いに出したかと言うと、
今回の瀬尾君の“room's"展示へ殆ど彼ら集団は観に来ていないから不思議に想ったのである。
ここにもこの”バカの学校”の集団性がつまらなく古く見えてしまった。
時代遅れに既になってしまったアントワープの後輩たちさえ避けてしまっていた。
人のモノを欲しがるというよりはパクる事が好きなタローが卒展の時に何を瀬尾君から
パクったのか覚えていないのだろうか?もう、忘れているだけ?
ここでも、『忘恩の徒となるな』を言いたい。“布団屋の息子”もそうである。
よって、ファッションデザインの世界が何であるかも熟知していなく、
自分たちの遠吠えのみで決めつけた世界観で持ち得たコンプレックスである
”アートの世界”へただ、下心とい自己満旺盛にメディアや権威にそして
広告代理店に擂り寄って“他人の褌”でしか相撲が取れない、事が興せない、
責任を持たない輩たち。
そこにはアートの世界への価値観も持たず、”覚悟”も無く、自分たちが海外で見せつけられ
植え込まれた外国人コンプレックスとそこで染込んでしまったアートコンプレックスで
大いなる偏狭な”アートの世界”をただ妄想しているだけのセンス旧き島国小心者集団レベル。
◎瀬尾英樹のオークションと『A.ALAIA展』;
巴里の小さなアパートで、奥さんと2人でA.アライアさんのところで厳しく、狂気に、
培ったスキルと技術を基盤に自分世界に”価値”を認める為に自心の自由さを大切な
こゝろの有り様として当然であるが、自費によって作品制作を続ける。
後、3日になってしまったが、現在、瀬尾君の作品がアメリカの美術館から
オークションへ出展されている。ここでどのような結果が出るかによって、
彼の今後が美術市場でどれだけの”価値”を持った、立ち居場所になるかの
スタートラインなのである。https://paddle8.com/work/hideki-seo/21359-metamorphose
このオークションには、Cameron Silver, Anne Deniau, Valerie Steeleなどが参加の
トークセッションイベントなどもあり、オークションには瀬尾君の他、Alexander McQueen, Charlie Le Mindu, Anne Deniauなどの作品も出品されているようです。
今回の”World Chess Hall of Fame”の詳細サイト/
http://www.worldchesshof.org/news-events/event-calendar/event/2013/10/18/queens-gala/
そして、今、巴里で一番の話題はガリエラでの『A.ALAIA展』である。
見事な審美眼と素材美で造形された”トルソー”の世界。
ここには“ナイーヴ”さが感じ取られパッションが存在する。
昔、多くを書いたのでいろいろは省略するが、
今回の展覧会で感じ、考えた事は『素材美と造形美の極限までの調和感』が着たくなる服へ
仕立てられ、着る女性のボディコンシャスな美しさへの挑戦でしか無い。
先ず、彼A.アライアは皮革素材を主素材とした時代から本格的なクチュリエとして始めた。伸びが少なく正目逆目の織り目もない素材、皮をどのように着る女性をボディコンシャスに
着たくなる服に仕立て上げるか?その為に学び、自らが創作したトワレ術。
その根幹には彼が学んだ”彫刻”の世界が裏付けされている。
次には、ここで身に付けた彼のトワレ術を即ち、トワレメイキングを
今度は伸縮性のある素材で挑戦を始める。
この時に新たに彼が知ったテクニックの発想は“張引力”のバランスである。
素材自体が持っている”張引力”と着る女性の皮膚即ち、皮の”張引力”との攻め合いとなじみ合というバランスと勘の調和が生み出すフォルム美である。
そして、以後は彼が選び使う素材そのものが装飾性を”ボディーコンシャス”に
附加するだけの世界である。
すばらしい『素材美と造形美の極限までの調和感』が作品そのものであり、
着る女性たちを当然であるがより、いい女に見せる服となる。
http://parismusees.paris.fr/en/exhibition/alaia
このA.アライア展の正面に展示されているトルソーを観ると僕はいつも大和松尾寺の
”千手観音像トルソー”(秘仏/奈良時代8世紀)を思い出す。このトルソーと出逢ったのは
2011年春、白洲正子生誕100年特別展が世田谷美術館で行われた際であった。
「白洲正子 神と仏、自然への祈り」展
また、ケ−ブランディ美術館でアフリカの木彫にもこれに類似のトルソーを幾体か
観た事も思い出す。
http://www.matsuodera.com/special.html
もうひとつ、 琵琶湖守山市の蜊江神社の天部形立像(吉祥天)もこの類と感じ、
今僕は“トルソー”と”ボディコンシャス”が気になり始めている。
http://www2.city.moriyama.lg.jp/koho/040615/body2.html
そして、このアライア展の影響が今後の巴里モードへどのような流れを生み出すか?
僕は愉しい思いを馳せる。
それは、また再び、”ボディコンシャス”が崩れてしまった”パンクボディ”から復活する
であろうと。その時、新たな”ボディコンシャス”に選ばれる素材とは?
もう一つ、今現在の若手デザイナーの誰が”ボディーコンシャス”を
一番旨く造形出来るか?気になり始めた。が、誰もいないだろう。
ここにもアントワープの悪影響が読めるし、その殆どが”ファッションディレクター”に
成り下がってしまった広告の世界が現在のファッションの世界の現実であろう。
◎自由の価値を知らない『センス旧き島国小心者集団』とは;
僕が彼らをこのようにコキ下ろす原因の一つに、
”彼らたちの作る世界はその作り手本人がその作品に自ら”価値”を認めていない。”と
感じてしまう迄のレベルでしか無いからである。
自由の裁量で創られる作品にはその作り手の”価値”があるから作品になり得るのである。ファッションの世界にも、アートの世界にもどちらの世界にも“ただ、中途半端”だけ。
その程度のレベル世界を『犬の遠吠え集団』で自己満足し合っている又は、
同じ傷を舐め合っているだけでしかない作品だからだ。
そして、折角の知性やスキルのその殆どが社会に直接コミットされていないし、
産業にも寄与されていない。教えるという立ち居場所を持ったなら、ヒエラルキーを
特権として“自己自慢と、自己宣伝と苦労話”だけは辞めるべきであろう。
従って、僕のような経験主義者から見ると、『最も日本的なるムラ集団主義構造』
或いは、『センス旧き島国小心者集団レベル』としか言えないのだ。
本当のお芸術家になりたければ意気がりと思いつきと下心で只、作品作りに精を出さず、
自心の人間性を暴露させ先ず、人間として人間に対して律儀に謙虚であり感謝という
こゝろと共に堂々とした生き方を為すべきが始まりである。
ここに彼らたちの『倫理観』がどのレベルで持っているのかが問われる。
そして、藝術の世界の人たちに失礼のないような立ち居場所と行為と発言と
ディシュプリンがなされるべきであろう。ただ、お芸術の世界も現在では“セコンダリー
マーケット”が構築化されそこではしゃぎ廻って、アートスーベニーアのレベルを作品と
勘違いしている輩たちが殆どの自己満アート消費社会の住民が多い。
ファッションの世界からそんなアートの世界を覗き見し、それっぽいものを他人に
作らせて芸術作品だと自己満足の世界で戯けているレベルの集団ではその最終目的駅へ
達するのは“銀河鉄道”以上、可能性が薄い。
折角もち得たそれなりの”夢”と才能も只のそれなりの世界のものでしかない現実。
”勿体ない!限り? 全てに慌て過ぎてその立ち居場所を見間違ったライオンと案山子たち。”
◎エピローグ;
そう、そろそろ発展的希望を抱いてこのカッコ悪い、宗教団体レベルの”バカの学校”も
解散すべきでしょう。嘗て、ヤマガタ初め、この首謀者たち7人ほどが僕の鎌倉へ押し寄せ、
”泣き”を言いに来たあの惨めなる集団性を忘れてしまってのご活躍。
ここにも彼ら流の『倫理観』しか存在しない。
前述のような事を理解出来るこゝろの有り様と知性があれば、こゝろして独り本来、
自分が求めるべき自由な茨の道を持ち得た旧型300%の夢へ、独り旅立たなければ
余りにもただ、カッコ悪さを垂れ流すだけ。お世話になった安達先生や、エスペランサ学校
等に礼節を正して、ただ働きさせた生徒たちに感謝を胸に独立独歩を執るべきだろう。
”無理”をしている人は早死していますよ。
そして、『忘恩の徒となるな』/聖書コリント人への手紙。
◎お勉強の為に;
今読んだ本から一つ、”バカの学校”の生徒諸君は理解出来るかな??学歴をファッションの世界で振り回している輩たちであるから大丈夫であろう。
『生物を模倣するのは経済発展の一形態なのだと思う。生物模倣に関心を持つには、
経済発展に関心を持つ事、力強い経済発展が続くよう望む事が必要だ。
でなければ、より良質な製品、安全な製法を求めるはずがない。
そうでなければ製品や製法を手に入れる事もないはずだ。発展について考えていて、
経済と生態系がとても良く似ている事に気づいた。
つまり、経済と生態系の二つに作用する原則は同じなのだ。』
「経済の本質 自然から学ぶ」/J.Jacobs著:日経ビジネス人文庫より。
『死滅するものは何も無い。全てはかたちを変えるだけだ。』
バルザック/『思想、主題、断片』1910年
文責/平川武治:倫敦市にて。
2013年10月13日
ひらかわ流、最近のコムデギャルソンのコレクションの見方、感じ方、読み方。/’14年S/Sコレクション版
ひらかわ流、最近のコムデギャルソンのコレクションの見方、感じ方、読み方。
’14年S/Sコレクション版。
◎はじめに、;
ショー終了後、会場から聴こえて来たざわめきの中からの会話にならない言葉たち、
”It was a really something!"
"What's a amazing,stunning & terrific!!"
"It was a little heavy but,she has a courageous,always."
"She never changed her ways of directions that was great!"
",,,,,,,,,,,,,,,,,,,,"
その厳選され、厳密に考えられて座らされた大半の人たちは無口でその会場から出来るだけ早くという感じが今回のショー後の雰囲気だった。
僕は今シーズンのショーを重く感じた。
空恐ろしいものが出てくれば、出て来るほどにノイズが響き始め、重く暗くある種の
恐ろしさまでを感じた。原因は幾つか、単純だがただ黒が多く出たこと。作品の造形要素が
’12年来ここ3シーズン程のブリコラージュであった為に、よく見ると 個々の作品に
それなりの新鮮味が無かったし、ショーに流れを付けずに断続化させ見せる形式を
取ったこと。そして、会場が計算された演出によって暗闇的であったこと。
"ARE YOU A ARTIST?"
"DO YOU WANT TO BECOME THE ARTIST?"
"JUST,IT'S A OUT OF CATEGORY OF THE FASHIONS CLOTHING,
SHE WANT TO MAKE THAT, ALWAYS."
"I HAD NEVER SEEN ON THE CATWALK."
◎思い出した幾つか;
そして、毎回であるがショーを見ている間に思い出したこと幾つかが。
向こう側のフロントローに座っているコレットのサーラやバイヤーたちに混じって、
いつもの様にA.アライアさんが、その隣にカルアさんがいらっしゃった。
そして、 僕は彼らの顔の表情の変化を見た。
もう一方で、先日オープニングレセプションをなさった“A.アライア展”の彼の作品群が
僕の脳裏に現れ始めた。
そして、また一つ確か、’69年のW.クライン作の映画”ポリーマグー、お前は誰だ”の
1シーンをも思い出し始めた。この映画はその後、幾度もこの街のモードの世界で
インスパイアーされて来た。そのシーンとは、切り開かれた石切り場なのであろうか?
その凹みにファッション編集者たちが座らされて観る、パコ-ラバンヌの作品を思い出させる
アルミミュームを使った所謂“前衛服”群、モードでないモード。今でもそれらが
ランウエーに出てくれば新鮮さと驚きが在るであろう、マヌカンが素肌に着込む金属服。
それらの登場と共に唖然とした顔の観衆たち。即ち、ファッションジャーナリストたちの
表情。驚きと解んないものを見る恐怖さと憤りそして、感嘆。そこで、“凄い!!”という
形容詞しか出てこない直後感。
約30数年を経て現実として、今再びこのような”モードでないモード”、川久保流に言えば、“服でない服”の登場が時代の必要性になったのであろうか?と思いを馳せた。
もう一つは、僕が'90年代後半の10年間ほどをヨーロッパ各地のファッション有名大学の
卒業コレクションの審査員をさせて頂いた経験が思い出された。
その”立ち居場所”を変えてみると、まるで“School Show"である。
ファッション学生たちがこのショーをやったと考えるとその全て見方は変質する。
彼らたちはこれからのモードの世界へのある種の可能性を求めて自分の創造性を限りなく
ナイーブに求めて作品化する。川久保玲のコレクションにはこの熱き、青き可能性を秘めて
いるのだろうか?残念ながら”否”であろう。この答えはその後に開かれた展示会へ伺うと
理解出来る。ただ、”服でないものを作りたい。”と言うある種のプロフェッショナルな立場の ”業”からの行為でしか見えない。
ファッション学生たちはこのショーを見て僕たちもと、勇気を貰った事であろうか?
ここでも、”否”、今の彼らたちはもっと醒めてしまっている。このデザイナーの”立ち居所”を読んでしまっている。モードの現在点も知ってしまっている。
◎なぜ、今、川久保玲のブランド”コムデギャルソン”は
この様なショーをやらなければならないのか?;
’80年代も終わりの頃に、既に彼女の口から直接に聞かされた、
「パリコレは勿論、商売のためよ。だからリスクを張って、必至でやるのよ。」という
彼女の”オーナーデザイナー”のこゝろの有り様はこの30数年来、不変であること。
僕が知ってしまっているデザイナー”川久保玲の凄さと偉さ”の根幹とは、
『自分の立ち居場所の確立とその継続』そして、その為の『距離間』である。
即ち、巴里のモード界から”どの様に見られたいか?”から”見せたいか?”へ昇華し、
その持続の為の自分たちに必要な”距離間”である。
これが以後、この巴里での60回ほどのコレクションに掛けた想像力と情熱と努力と
そして、資金でしか無い。
”巴里のモード界からどの様に見られたいか?見せたいか?”これは多分、
川久保と山本がこの街へ“夢の共有”の為やって来た当時の”真の目的”でもあっただろう。
そして、社員たちは彼女の望む『立ち居場所』を共有出来る事にそれぞれの人生を
掛けたのである。ここには正真正銘の”実業の世界”が存在する。
その為、自心の業から発して、今では社員のためイコール会社の利益の為の持続行為、
実に立派なセオリーでありその実践である。この“持続継続可能”なる根幹を見失う事無く
このように『自分の立ち居場所の確立とその継続』を自分流の『距離間』を保ちながら
日本人として実行継続してゆく事のどれだけ至難な現実へ、いつも晒されながら
ここまでやって来た現在では、決断力ある唯一の潔いファッションデザイナーである。
異邦人デザイナーとして誰でもが持つ憧れの巴里へ山本耀司と二人三脚でやって来て
ショーを継続しながらこの巴里のモードの世界の構造を本格的には、耀司と別れて結婚後、
学び始め、自分のそこでの”立ち居場所”がなければそのブランドの価値が築けないということが解ったことが現在の川久保玲とその後のブランド”コムデギャルソン”の継続、持続可能の
根幹である。
ではその『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその為の『距離間』とは?
そこにこのデザイナーが毎コレクション後、夫の通訳によって発する『アヴァンギャルド』『反抗心』『PUNK』『見た事もない』『塊に流されたくない』そして、『服でない服』など
という言葉がキーワードとなって常に発言されている。即ち、巴里のモードの世界における『特意性』であり、『意外性』とそのバリエーションとしての『特殊性』のモード化である。これらがこのデザイナーの常套言語となっているのだ。
それなりにパリコレに興味のある輩たちの頭のいい人たちは巴里のモードの世界の根幹が”オートクチュール”であり、その最終目的は女性たちをどのように”エレガント”な
その時代の淑女たちに仕立て上げるかである事はお解りであろう。
ここには時代性と社会性に委ねられた一つの”規範”が存在する。
このフレームに見合った創造性が求められ継続しているのがこの巴里のモードの世界の
根幹であリ、この街が今なお、現在まで”モードのキャピタル”であり得る
由縁の”流れ”である。
’82年、ブランド”コムデギャルソン”がこの街でショーをした時のメディアリアクションは
凄まじいものであった。この凄まじさを現在まで”持続継続”する事で
『自分の立ち居場所の確立とその継続』の為の解答である事を、このもう一方で頭の回転の
良いデザイナーは気付き、彼女の”潔さ”が”覚悟と決心”を為せ、
現在に至っているのであろう。ここで嘗ての同胞との差がで来てしまったのも当然であろう。
川久保が死守している『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』は以後、
年を重ね、シーズンを重ねる毎に新たな価値を生む。その価値は関係性から生まれる他者の
眼がその価値をより、増幅させる装置になる。この事を感知した川久保は以後、
自分のオーナーデザイナーとしての役割イコール、『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』の為に『特意性』を彼女自身のその創造性の根幹に精進し続ける。
そして、その『特意性』がマジックを生み出す創造性であり、『自分の立ち居場所の確立と
その継続』とその『距離間』そのものが”マジック-ポジション”となる事をも既に
熟知してしまっている事が日本人初のパリ-ファッション-メゾンであり世界のブランドに
成熟成長した根幹である。
しかし、ここにも当然であるが”ビジネス”という世界のマジック即ち、”二枚舌構造”が
隠されていなければ成立し得ない。その『特意性』でファッション企業としての実績を
生み出せるのか?実商売として継続可能であるか?という問いである。
即ち、デザイナーに課せられた仕事のもう一つに、『売る為の努力』とともに、僕が良く
発言している、『粗利の取れるデザイン』や『儲けらるデザインアイディア』の創成という
”デザイン力学”が必需となる実業の世界への挑戦によって初めてこのマジックが功を奏する。
当然であるが、もう一方ではこの企業はそれが、結果的に”日本的なるブランド構成”が
ビジネスの継続及び、拡大化の後ろ盾となる構造をも既に、巴里へ上陸する前に構築し、
それらのブランド“トリコ”を代表としたバックアップブランドからの売り上げと、
直営店ならびにFCシステムによる高粗利がオーナーデザイナーの”業”と『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』の維持と継続に大いに寄与した事は言うまでもない。
もう一つ、この企業ならではのビジネス面における”特意性”がある。
それも、結果そのようになって行ったと言えるのであるが、やはり、結婚後のこの企業の
ビジネス戦略が大いに他の日本企業との差異を生んだ。
世界レベルで”ファッションビジネスはユダヤビジネス”という現実を学びそのスキルから
今度はユダヤ人パートナーとの“二人三脚”が全く、高品位な日本発のファッション企業家へと驀進、邁進している。例えば、此れ程の高成功例は日本企業でも皆無であった
“パルファン事業”がある。同じ時期の嘗ての同胞、山本耀司もJ.パトゥ社との間で香水を
手掛けたが、これは見事に失敗し、撤退を1年も見たない間になされた。
(イッセイの香水ビジネスはこの企業のお得意である”ライセンスビジネスの一環であり、
香水の製造発売は資生堂であり、単純に言ってしまえば、只の”名前貸し”ビジネスである。) このコムデギャルソンのパルファンビジネスはコムデギャルソンフランス社の仕掛けと
その後の小規模なビジネスコントロールであるが、やはりここにも
”ユダヤ人シンジケート”との直接的な関係性がなければ成立しない分野でもある。
このパルファンビジネスの成功例と共に、この企業はより、ユダヤ人世界のファッション
ビジネスの佳境と中心部への接近という現実を生む。
従って、ブランド”コムデギャルソン”のコレクションに於ける、『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』は出来るだけ、巴里モードの中心軸から離れ、
そのビジネス構造は最早”ユダヤ人企業”化した立ち居場所でこの企業が執っている
”クリエーションとビジネス”のバランス化が絶妙な”二層構造”の元で成立された
他に類を見ない世界企業になっている。
ブランド”コムデギャルソン”の『立ち居場所』とその『距離』は巴里のモードゲットーの
極限に位置している。この場が”マジック-ポジション”そのものであり、
これを持続継続する為の戦略と方法がこの様なショーをやらなければならない必然性である。
◎一つの造形の世界としてみた時には、;
このようなクリエーションアイディアとショー形式に変化し始めたのは僕流に言えば
『特意性』が変化し始めたこの3年来の現実のショーである。
この変化の要因とは、川久保自身の高齢化もあるであろうし、社員の増加もあるであろう。何よりもモードにおける環境そのものが変化し、クリエーションの新しさが変質してしまったという外的要因の現実性からであろう。
この川久保のブランドである”CDG"は既に、前述の“デザイン力学”を熟知した数少ない
優れたデザイナーのブランドである。この“ビジネスとクリエーション”のテイクバランスの
現実はこのブランドの展示会ヘ行く事で多くの事が読める。今回のショーでは余計である。 ショーとしてのため計算され、構成されたショーでしか無かったからである。
ランウェーに勾配を付け、照明を落とし、天上にフローティングライトを取り付け、
それがゆっくりと揺れ動く下をマヌカンがゆっくりと歩く。黒い服を更に暗い空間、
ブラックボックスへ変質させる為の陰影を付ける。(つづく)
相安相忘:
文責/平川武治:倫敦市にて、
次回は、
◎一つの造形の世界としてみた時には、;
◎結果としての展示会は、;
その結果、
『服で無い服』という発言の読み方までを。
お愉しみに!!