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2014年3月13日

モードから読む”表と裏”−7;ラグジュアリィ-モード評論編

表の世界である、巴里-コレクション’15A/W

 ミラノに来る前に友人の別荘を訪れた。
 ここはあのコモ湖の近くで、古くからのミラノの富裕層たちの立派で大きな別荘が立ち並ぶ
街、この別荘を彼女のお父さんから受け継いだ友人と久しぶりに広い庭に春の兆しの輝きと
匂いが転がって来る週末の午後、終わった巴里-コレクションの事を論じ合う。
—時折、近づく3匹の老犬が戯れている。—が、改めて、style.comを見ながら論じるが、
論じあうどころかまるっきり意見が一緒だった事に驚く。

 ラグジュアリーモードのレベル;
 今シーズンのトレンドが”悪趣味&キッチュ”なのかと思ってしまうぐらい、
殆どのラグジュアリー系はセンスもなく、クオリティもなく、広告で売る為のレベルの
コレクションが多かった。
 良かったのは3シーズン目のエディがディレクションする”ブランド サンローラン”のみでは
なかっただろうか? 
いい女で、自分がセンス良いと信じているブルジョア顧客ジュニアたちであれば多分、
今シーズンのエディの”ブランド サン-ローラン”は着たくなるだろう。

 DIOR by RAFもL.V. by NicolasもHermes by C.Lemaireもみんな安直なコレクションだった。
ファッション広告ビジネスにおけるF.ディレクターという役割だけを果たしているのは
それぞれ見方を変えれば凄い。きっと彼らたちにはそれなりのセンスがあるのだろう。
だからこのような大役を引き受けるのだろうが、このレベルで騒ぎ過ぎる
ファッションメディアも地に落ちてしまったのだろう。
DIOR by RAF;
 DIORのラフ君には2つの致命傷がある。
 一つは、彼は何か土台になるモノが言い換えれば、お手本があればそれをセンスよく
自分の顔つきにアレンジする事には丈ている所謂センスがいい、ファッションDJ-ディレクター。
従って、誰か自分のために”土台”を作ってくれる相棒が必要の、”元ネタ”在り気というタイプ。
(He is one of a typical fashion people.) アントワープで見よう見まねで立ち上げた自分のメンズ-
ブランドには初めからそんな相棒が居た。そして、若いセンスのいい子を回りに置いてお頂戴
するのが上手いタイプ。あのJill Sanderの時はヴィエナの先生たちとPatrick V. O.をミラノへ
連れて行った。そして、Patrickが才能ある本格的なデザイナーでありそれが功を奏した。
 しかし、今回のDIOR社とは自分一人の契約条件だった。それでもやはり、”輝ける椅子”には
座りたかった本人の野望とその結果が、もうこの3シーズン目でまんまと曝け出してしまった
コレクションだった。
 もう一つの致命傷は彼の育ちである。彼の育ちから、残念ながら”エレガンスが解らない、
知らない。”と言う致命傷である。この欠陥は巴里のクチュールメゾンでこの大役を果たすには
恐ろしい。本人に取っては非常に勇気が居る事である。彼はアントワープのストリート派で
育った。だから自分のメンズ-ブランドは大丈夫だった。カッコ付けから始まり、日本人と
仲良くなり日本素材を使う事、その後、ヴィエナのクンストの先生を経験した事などで
その関係性が広がりあのJ.S.を経てここまで伸し上がって来た。
ジューイッシュコネクションと例えば、引退したロンドンのI.D.マガジンのT.ジョーンズに
可愛がられた。ここでも、彼はティピカル-アントワープ出身の優等生デザイナーであった。
 しかし、ラフ君は嘗ての”若きY.S.L.の育ち”ではない。”フレンチデカダントとエレガンスと
ボングー”と言うフレンチ3大テイストは所詮、一夜漬けである。従って、今シーズンはこの
2つの彼の致命傷がもろ表出してしまったコレクションと言えるもの。
 J.S時代の嘗ての伴侶、PATRICKがした事を、使った色合いをコピーし始めた。
でも、自分自身が"センス オブ エレガンス"が解らないのでそのままのコレクションに成って
しまった。PATRICKからのコピーでもその色彩バランス感覚もセンス悪い。
 予測通り、取り敢えず、”メディアで騒がせてくれればいいデザイナー”を今シーズンは
証明した。しかし、彼がクレバーなところは、自分のDIORコレクションが駄目でも、
ジェネラルなDIORブランド商品が売れればいい事も熟知している。その為に先シーズンから、
コスメとバッグに次いでよく売れるアイテムである“DIOR-スカーフ”のデザイナーに
あのロンドンのSARAH & TOSHIOのヂュオブランド、”SWASH”を起用して自分が
ディレクションする構造を作った。この辺りが彼のお利口さんな旨味なのである。      
L.V. by Nicolas;
 ニコラのL.V.コレクションもだめ。センスが悪い。何のクオチティもない。
全くと言っても良い酷いコレクション。このブランドで為すべきコレクション全体の
バランス観が未だ掴めていない。彼も自分の元で働いていた嘗てのチームメイトたちが
どれだけ現在も彼をホロしているのだろうか?それに以前のメゾン Vにはそもそも優秀な
小針子さんたちが居た。しかし、今回からのメゾンは所詮、服では成り上がり
メゾンブランドでしかない。”お針子さん”をかこっている、そのような上質の構造を
持っていない。此処でも、以前の立ち居場所が実質替わった分だけこのメゾンでの役割は
”広告メディア”の為の囲われデザイナーでしかなくなったのか?
 デザインクオリティ、バランスクオリテ、それにブランドクオリティなし。
今後、コレクション後のメディアと関係者たちのお言葉によってこれから、多くの修正を
入れられてしまうだろう。このメゾンは最近では、時計で粗利をむさぼっているから所詮、
今回からのニコラ君は広告メディア対応の役割が立ち居場所なのであろうか?
勿体ない気もするのだが、今後の活躍を期待しよう。
 このところ、L.V.バッグはもうそれなりの階級顧客からは飽きられて久しい。 
彼らたちは自分が次は何を持ったらいいかを感じている層だから余計にうるさい。
巴里の業界編集者やスタイリストたちは今、その昔は愛犬用バッグ屋であったG.がウケている。
この流れは日本も同じ波長だ。
Hermes by C.Lemaire;
 マッチョなC-ルメール君のエルメスも何もない。
所詮、”エルメスごっこ”でしかない。此処には残念ながら、あのエルメスのエスプリがない。
フランス政府によってメゾンが保護される状況を持ち得てしまった為に、ここに来て、
”フランス人デザイナー”起用という条件に見合っての彼の起用には少し、無理があろう。
フランス人でも凡そエルメスとはほど遠い所で対峙していたはずのデザイナーでしかなかった
はずが、”カネの魔力”は凄い勘違いを生む。嘗て、このメゾンにM.M.マルジェラが登場した。
この時は彼のセンスの良さと頭の良さと自分の立ち居場所が熟知された上でのコレクションを
確か、3年間発表した。”エルメスというフレーム内”でどのように自分らしいコレクションを
それなりにイノベーション効果も含めてやった事である。その後のJ-P.ゴルチェは
”ゴルチェという自らのフレーム”の中でのエルメスコレクション”だった為不評。
C-ルメール君は自分の”フレーム”そのものもウイメンズでは無いも同然のデザイナー
今後、お勉強しながらの”エルメスごっこ”しか期待出来ないだろう。             
S.Lby H.スリマン;  
 結果、今シーズンは冒頭でも述べた、不良少年(?)ぶったお利口さん、エディ-スリマン君が
いい。”これしか出来ない版”のエディのセンスの良さが出ている。
映画、写真の世界から学んだヴィジュアル的な巧さと時代のバランス感を感じさせるセンスが
いい。エディは自分がイヴの育ちではない事を自認しているし、その結果の起用であり、
ブランド名から“Y”が消えたことで自分の好きなモノ、やりたいモノしかやって来なかった
この手法が功を奏した。服の巧さよりはフォトジェニックなショー全体のバランス感の巧さが
感じられた今シーズンだがただ、これしか出来ないという怖さが今後、残る。
CARVENbyChristopher;
 元ポルカの企業デザイナーであったクリストファー君を起用し成功を収めたCARVEN。
ここ2年程のビジネスも好調なこの再生CARVENもここ迄か?
 何か新しい事、ちょっと違った事をしたいこのデザイナーの、彼が持っている器量の限界か、
もしくは彼をバックアップするチームメイトたちの問題なのであろうか?
 barmanのデザイナーは未だ、若い分だけ冒険を行なった。
次回のコレクションでは多くのデザイナーたちが試みるであろう、”フォークロアコスチューム”に
インスパイアーされた、愉しいコレクションであったが、
売り上げは取れないであろう(?)
 
 このようにこれら、巴里のモードの主役だと自認しているラグジュアリーメゾンもやはり、
”時勢”には孤立奮闘、がんばる事が難しいのだろう。この街のモードの世界がこの結果
『広告メディア産業』と化してしまってもう、5年ほどが過ぎてしまった。巴里の街で出会う
本当の”クチュリェ仕事”を知っているお年寄り世代の人たちは口を揃えて”こんなのは
クチュールの仕事ではない”と嘆くのみ。ここにも”金鍍金な虚飾”が沁み込んで来ている。
 従って、今シーズンは”キッチュ、悪趣味バッドテイスト”がトレンドなのだろうか?と
考えてしまうまでのシーズン。若しかしたら、この傾向とは極論、誰が儲けるのか?に
尽きるかもしれない。多分、これら発表された各メゾンのコレクションで
メディア編集者たちが口だすアイテムだけが、ほとんど“H&M”や”ZALA”でコピーされて
”売れる世界”に放出される構造になって来たのだろう。
僕はこのようなすばらしいビジネス構造が強かに出来上がっているのを改めて感心する。
従って、ここで儲けるのは所謂、業界かざかみのジューイッシュ系”素材屋と部品屋”だろう。
後はやはり、育ちの違うジューイッシュ系の所謂、”サンチェ系”コピーブランドである。
従って、変らず、この世界からのmaji,sandor,koople,等が依然、高ビジネスを行っている
現実が理解出来る。
 それと口添え料としてのジューイッシュ系メディアが広告ビジネスとして儲かる仕組み。
実際のラグジュアリーメゾンビジネスはもうとっくに服からバッグ、靴とコスメへ移行し
その後は、より粗利が取れるハイ-ジュエリィーとハイ-ウオッチへ更に移行。
更にそれぞれのメゾンが”ラルフ-ローレンビジネス”体制へブランディングしてしまった
結果であろう。
 であるから最近のデザイナー起用というブランドの新陳代謝は
この根幹によって為されているだけで、結局”メデァを騒がせる
”特技ある40代迄、ゲイデザイナーに絞られている。
 ここには『広告メディア関係者たち』とどのように付き合ってゆくか?
その為の”パリ-コレクション”でしか無くなって来た。
 
 そう、”ラグジュアリィ-モード”とは元来このような“BAD-TASTE"がその殆どである世界。
この事を再度、思い出したシーズン。
彼らたちの顧客たちがその世界の住民であるのだから、
だから此の国では“BONE ELEGANCE"が尊ばれるのだ。
文責/平川武治:

 

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2014年3月12日

モードから読む”裏と表”−5;

 デザイナーぶるという名の『表と裏』
ここでも『世界は騙される事を欲する!』/Sebastian Brant;15世紀ドイツ文学者「阿呆船」より、

 『デザイナーぶる』と、
 思い出す事、ある人はウエディングのオーダーを自分の身内から受けて
今でも40年前にやっていたように外国雑誌の写真からパクったものをそれらしく見せ、
それを今度はそのまま、お仕立て屋さんへ出して作ってもらい
それを自分が仕立てたように、
自分の展示会に展示し、自分の仕事にしている人がいましたね。

 この場合のデザイナーのこゝろとは?
大切な、好きな服を作るというこゝろが何処に所在しているのでしょうか?
大切にしなければならないそのこゝろの誠実さと行為をなさづ、
平気で、本人はこのような行為をデザイナーぶるために
本気でやっているのです。
ネットで落としたブランドものをカッコ付けて着て、
学歴を振り回してのデザイナーぶりに
それに、まんまと騙され、メディアも編集者もごまかされて、
解った顔して、”まあ、すごい!”“ニコニコ”の世界。
こんなメディアや周辺のいい加減さに慣れて来ると、
怖いものです、このレベルの人間は
もう、その頃は一端のデザイナーぶっている。
厚顔で、世間に慣れるとは恐ろしいこと。
ここでの根幹は”育ち”なのでしょう。

 こんな世界がファッションの『裏と表』。
これがデザイナーぶっているレベルの、
こんな虚飾が真実として、イッパイ罷り通っている
怖い怖い世界。
ほとんど、あの『佐村河内 守』の立ち居場所と同じ。
そんなファッションデザイナーぶった輩がたちが
今では、ブログという自分勝手なメディアを
ここでも、カッコ付けて耳年増ブルのみ。

 自分が出来ない事を
”インターシップ”と称してこき使う構造でイキがっている。
一生懸命、デザイナーぶって
金儲けと有名人になりたがっている、
変らぬ日本の”有名人”という名の貧しさと、
メディアに出れば”有名人”という世界の空虚さ。
根幹を理解していない、
本当のクオリティある世界で生きて来ない、
偽物の、偽物の上塗り世界でしか経験が無かった、
このレベルの多くが勘違いしてのデザイナーぶっている世界。
ここはファッションの『裏と表』の世界の限界。


 あのような『佐村河内 守』スキャンダルは
ラジオから流れて来ても、非常に気分が悪くなるものでしかない。
僕の知っているファッションの世界では日常茶飯事。
有名デザイナーに成ればなるほど
自分がプロパガンダした名声を笠に着て当たり前の行為としてやっている事。
彼が所謂”ブランディング”として世の中にその立ち居場所を持つならば、
ファッションブランドビジネスのコピー騒動と同じと考えるレベルの問題。
メディアと世間のB層たちの”似非ヒューマニズム”が発端でしかなく
彼を音楽家として構えてしまったのだ。
ファッションデザイナーブランドの世界では
有名デザイナーに使ってもらう事でうれしがる風潮は不変。
そして、ここでも
『世界は騙される事を欲する!』がビジネスに成っている世界であり、
うまく騙す事、騙す事で騙された方もHAPPYに成り、
騙した方は有名になり、儲かればそれがファッションの世界では『表の世界』。

"The Fashion is always in fake."

文責/平川武治;VIA VIGANO 4, MILAN:


 

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2014年3月11日

モードから読む”裏と表”−4;

 表、それは虚飾の耀き、

 都市に構造化される『カジノ産業』とは、”入れ子構造”/" Nested structure"という
囲い込む新たな『表』環境構造。

 この現実の今後の悲惨な『裏』の事実を覆い隠そうと、遂にこのように「パチンコ業界」の
上場化が日経ビジネス誌上でプロパガンされ始めましたね。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20140227/260342/

 既に,僕が10年前のこの「カジノ学会」が出来上がった時の妄想思考がそのまま現実へ。
そして、この記事も深読みする必要が有ります。ここに至る発端は’04年に構想化された
「徳島カジノ学会」です。このアイディアは医師を中心にした富裕層が投げ掛けました。
http://www.casino-kenkou.jp//web/presentation/casino_health_system.pdf
 その後、当然のようにこの案に乗かって来たのが「パチンコ・チェーンストア協会」(PCSA)
http://www.pcsa.jp/member.htm

 そして,「観光立国化」としての大きな役割を果たす「東京オリンピック」を機に
このように堰を切って流れ出したのがこの『カジノ産業』の立法化と産業化の現実情。
この根幹は,戦後の在日系が主導権を摂っているパチンコ業界の上場化と拡大化。
その裏にべったりとへばり着く愛国心擬を持ったコバンザメ族ジュニア議員たち。
そして、極論はもう一つの「ハコ」を構造化する試み。
 B層たちに解り易く言えば,”ラスベガス”という”ハコが東京に出来る。
その為にはここで通用する”貨幣”が必要。そこで、現在のパチンコ業界が行っている
「換金制度」を改定しなければならない。
この流れです。現在は別構造になっている「換金制度」の仕組みをパチンコ店内で換金出来る
構造即ち,これを改訂する事からこのカジノ構造の事の次第が始まります。
 一度でもカジノへ1週間ほど滞在した人であれば,お解りでしょうが,
ここはもう“ある一つの國”構造になっていますね。カジノには,欲する事を満たす全てが有る。
それは人間の虚飾や業慾を充足させられると思うものが全て有るという事です。
否、それを根幹に構造化された環境なのです。
 所謂,美男美女たちと,小カネを持ったリタイア組たち。金、愛、慾、色が揃っている。
例えば、ファッション。ここでも行われるであろう“東京レディス−コレクションショー”を軸に
ラグジュアリーブチック,各種ブティック、レストラン、ショーライブ、劇場、スポーツジム,
エステ,シネマ,コンサートボクシング等々と日本的には、“エヂュケーションビジネス”も、
もしかすると参入しカード,ルーレット、ゲームスロットなど所謂、”賭博”で儲けられ
愉しむ生活が出来る、それなりの元金を使えばそれなりに儲けられ、カッコつけられる構造が
”カジノ”構造です。この構造は現代の日本における資本主義経済社会のオリジナルなひな形の
一つでもある。日本的に言ってしまえば、『芸能、エンタメ、プロスポーツ、風俗、高利貸し』
などの産業をパチンコ業界がもう一つの”ハコ”を構築し、「囲われた賭博」営業を母体に
”入れ子”構造化し、新たな都市機能環境とする。
 ”戦後のドサクサ東京”をもう一つ”入れ子”状態で構築化する根幹が読めるだけですね。
従って、パチンコ業界が”上場”をここに来て望み始めたのです。
これはこの『カジノプロジェクト』の必然的なる結論の一つです。

 例えば,カジノホテルに泊まってそれなりのカネを使ってそれなりの稼ぎが出来れば,
このカジノホテルで極論すれば一生,棲みつけられる迄の構造が環境化されている。
即ち,『人間の見栄と傲慢さと慾』をプロヂュースした構造でしか無い。金さえ有れば
セキュリティも確りとなされ、ホテルから逃がさない様に迄,ガードしてくれる。
そこで,多分、誰かがこのカジノ専用“SUICA”版を構造,現実化すれば,もう一つの”國”を
造る事と同じ構造になる。故に,このカジノそのものが『国定特化指定区』になり得る
可能性も今後は有り得るだろう。

 例えば、カジノについての構造やその内情を知りたければいい映画が有ります。
1995年のアメリカ映画、『カジノ』(Casino)です。
監督マーティン・スコセッシ、ロバート・デニーロ演じるある天才賭博師を通じて、
まだマフィアの支配下にあった70年代のラスベガスが描かれています。
古いカジノですがその雰囲気は参考になります。

 従って、僕は実感として改めてこの恐ろしさを感じます。
これから,どんどん恥ずかしい國に成り下がってゆくでしょう。
そして、『表層』すなわち『表』として、エンタメ、ゲーム,お笑い,アキバ、風俗,
それにここにも書かれている”ダンス系”も新たに組み込まれそれに,ファッションも
絡み合った”バニティ特化区としてのカジノ”が現実になって行く。
 今後の日本経済のカンフル効果はあるでしょうが,自然に育まれて育って来たあの
『やまとこゝろ』や、日本人としての『気骨』は何処ヘ行ってしまうのでしょうか?
ここには『日本で、日本ではなくなる』将来への可能性も感じてしまう危機感があります。
これではまるで“OZの魔法使いのエメラルドの館構想”。約100年は遅れていますね。
その横で、市民運動家たちの”エコ運動”がもっともらしく缶バッジの如く、継続されてゆく。
 僕たちの「国土」を自らが穢してしまったという現実に”臭いものに布を被せ”もう一方では
このレベルの「未来構想」が現実化する『表と裏』構造の國になってしまいました。
その原因の一つには、政治家とは任期中に自分たちが関われる「利権」、日本的な表現では
”天下り”構造をどのように制度化するかでしか動かなくなってしまった,所謂、
”政治家役者”が人気を浴び始めましたね。与えられ、仕組まれたシナリオを政治家らしく
只演じるだけ。これも「合衆国のレーガン政治」以降から学び始めた”擬政治”。
これが小泉以降の”流行政治”行政。

 あの「3.11東京電力福島原子力発電所企業事故」の丸3年が来る前に、その責任も
投げ出してこの状況が現実化し、メディアによってプロパガンダが始りましたね。
 ここには『戦後のドサクサでガサツな社会』が、『人格、品性無き、金さえ有れば全て』の
国家へ再び逆走、これからの21世紀にもあの様な戦後ドサクサ社会のリメイク化、
”虚飾のテンプレート”が構造化されてゆくしかない僕たちの國『日本』の未来なのでしょうか?
これからの日本という国家は『表、それは虚飾の耀き』しか放つことが出来ないのでしょうか?
文責/平川武治;VIA VIGANO 4,MILAN:

投稿者 editor : 01:52 | コメント (0)

モードから読む”裏と表”−3;

 パリ-コレA/W’14トレンドという名の『表と裏』
『世界は騙される事を欲する!』/Sebastian Brant;15世紀ドイツ文学者「阿呆船」より、

 「もう、僕が見ていた眼差しからはモードの世界はどんどん遠くなってゆく。」

このところの日常は、決して幸せな事ばかりではない。
知らなくていい事を知ってしまう。

明日も幸せな日だとは信じられない。
何を求めてよいのか迷ってしまう
その比較項も無くなり始める。

夜空から星が一つづつ消え去るように。
まるで、あのA.C.クラークの書いた
『天の向こう側』(1958年)の冒頭の如きを思う。
満天の星空から一つ一つ星が消えてゆく。

こんな時代に、
大金持ちは何をするのだろうか?
何をしたくなるのだろうか?

小金持は何を考えるのだろうか?
何を欲しくなるのだろうか?

お金を十分に持たない人たちは
何を思うのだろうか?

こんな彼らたちが一堂に集まる世界が
もしかしたら、モードの世界にはある。
そこはバニチィーな世界。

虚飾が表層を覆っていて
いつも何かで輝いている世界。
純粋な輝きを求めて、

“OZの魔法使い”の世界。
ドロシーが辿り着いた”エメラルドの館”
閉塞感漂う世間へバニティな冷たき耀き。

バニチィーには慾と業が共に蠢いている。
慾と業には『表と裏』の宇宙が存在している。
表へ出るための”技”が小賢しくなる。

FORMAL-WEARとはどのような世界観か?
ここにも『表と裏』の世界がある。 
”聖”と”俗”あるいは、"ハレ”と”ケ”

’30年代のハリウッド。
閉塞感漂う世間へバニティな冷たき耀き。
☆、夜空,雪、水,氷,雫、クリスタル等々。

消え落ちる星や輝きが纏い付く
”女ぽい女と男ぽい女”という『表と裏』

素材の組み合わせ,
色の組み合わせ,
分量の組み合わせ,
後ろと前の重量感,
着丈のバランス
それに,
素材が持っている質感の
バランス感の絶妙さ。

文責/平川武治;VIA VIGANO,4 MILAN

投稿者 editor : 01:38 | コメント (0)

2014年3月10日

モードから読む”裏と表”−2;『丸、3年』

裏若しくは、影、
 明日で丸3年。海外からはどのように見られているのだろうか?

 変らず、隠蔽され続ける『東京電力福島原子力発電所企業事故』の被害実態が今も尚、
海外メディアの報道によってより、現実を知らされる事になる。
 この原因は日本人が持っている”曖昧さ”や”被害者意識観”がそうさせるのだろうか?
日本メディアが偏狭に報道するここでも”表と裏”がある。
現実は想像してた様に,汚染状況がその後、発覚して来る人為的あやまちも多々、重なり
大変な実情況になっている現在です。
変らず、諸責任の当事者たちの認知感覚は
『加害者が被害者から、加害責任の為の諸経費を要求、搾取する』というベクトル、
”電気料金の値上げ”行為なのです。ここには、自分たちも”被害者意識”をちらつかせ始める。
そこには自分たちの「國土」を穢したという意識もなく、未来をこれほどまでに
危うくしてしまったという「やまとこゝろ」ある責任意識ある行為は未練も感じない
この群衆レベルが現在の東電と政府の手法です。
 ここに、幾つかの海外メディアが報じたものを紹介しておきます。
まず、一つの汚染記録が有ります。これは昨年の10月の現実でした。
が,現在はもっと酷くなっています。隠蔽させ続ける事で”風化”させる手法ですね。
ここにも、日本的なるこゝろなき、『ちりも積もれば、』論法しか有りません。
http://echoechanges-echoechanges.blogspot.fr/2013/10/131007.html

 また先日、僕のところにもオランダの友人からも
やっと発表された人為的事故による汚染水漏れのニュース後、その被害の酷さに驚き、
心配のメールが届来ました。実はこの放射能汚染水が大海に及ぼす被害の現実は
海外ではかなりナーバスに報道されています。ヨオロッパの人たちが見ている
この『東京電力福島原子力発電所企業事故』の被害実態はEU圏で活動している
独立系環境ジャーナリストたちで運営されている参考サイト“NaturalSociety”があります。
http://naturalsociety.com/new-eu-report-states-20000-square-miles-contaminated-japans-fukushima-daiichi-incident/ 
 この最新記事は“Kaleidoscope”で読めることが出来ます。http://kaleid11.brog.fc2.com/
 
 また、日本人であれば喜ばないと国賊だと言われている事を知らなかった僕ですが、
2020年の開催が決定した「東京オリンピック」においても辛辣な記事が出てきています。
 この東京オリンピック’20年頃には程良く放射能汚染大気が東京上空を
気球船よろしくゆっくりと被ってしまっているであろうという危機感を訴え煽る報道です。
/「揺らぐクーベルタンの理念-日本と国際オリンピック委員会」
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2654.html

 安倍政権での彼のセールスマンぶりは性格なのでしょうか、ちょこまかちょこまか
乗り遅れた電車に乗り込もうとアフリカや中東へ出向いて何を売りにしているかと言えば、
『原発』なのです。事故被害規模も自認出来ず、事故被害処理をまともに出来ずに
外国へ出掛けるセールスマンぶり。
 しかし、その裏には彼がセールスをしている『原発』は100%日本製ではない事を
知って下さい。現在日本の原発メイン企業は東芝と三菱の2社が仕切っています。
しかし、この2社は日本にある原発をそもそも売り込んだアメリカのGE社とW社がべったりと
内蔵されています。表向きは日本の2社がそれぞれを買収しているのですが、
ここにも軍事産業と同じ構造が構築されていて、外装構造部は日本企業が担当そして、
中心部の原発の中枢ソフト関係は全てこのGE社やW.社が仕切っているのです。
従って、そのビジネスアマウントには格差があり結局は彼らGE社やW.社が儲かる為の
セールスをしているのが根幹です。
 それに『原発=原爆』であるという機構構造も知っておいてください。
そこに、『東電福島原発企業事故』を偽りで固めたプロパガンダセールスですから全くもって
非道なる行為であり、ここにも新たな“原発利権”が存在しての行為でしか無いのが根幹です。
この責任認識で現在の安倍内閣のそれなりの立場の政治家たちは『国家のため』という
大義名分で税金を使って自分たちの”ファミリィー利権”に一挙一動しているだけなのです。
ここでは『原発』をセールスすれば、誰が儲かるか、そのためにどのような
ビジネス構造が構築されているか?の”根幹”を知っておくべきなのです。
 ここにはこれまでの我が国における正力松太郎や中曽根康弘たちによって始まった
『原発』産業発展の”根幹”が政治家は替わっても、その”利権”構造は不変で継続されている
という事実です。そして、この周辺にあの”原子力ムラ”構造が構築されています。
 
 どうか、『未来とは自分たちのための事ではなく赤子や子供たちのためにある。』
ということをこの3年迎える事でより、忘れないでください。お願いします。
文責/平川武治;Corso Magenta, Milan:

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モードから読む”裏と表”−1

 今年になって素早く動き始めた新たな『光と影』。
『世界は騙される事を欲する!』Sebastian Brant/15世紀ドイツ文学者「阿呆船」
 
 物事には全て『表と裏』が有ります。
 例えば、今、巴里で行われている今シーズンのコレクションのトレンドの一つにも
この『表と裏』が先シーズンからの継続トレンドとして有ります。表向きの表情と、後ろ姿の
表情の相違を着る女性の身体に世界観としてデザインする。
過去からこの手法もよく使われてきました。意外性やユーモアという世界観から
特意性に至る迄多くのデザイナーが試みました。
 この“一粒で二度美味しい”論法ではもう一つには“リバーシブル”という手法も有ります。
ここ数シーズン見え隠れしながら大きなファッション潮流にはならなかった。
却って、この手法は’60年代のような昔に流行したものでしたが、現在の様にモノの豊かさが
日常的になっている時代性では然程、大きな潮流にはなり得ず、造る側の”お遊び”程度になって
しまっているのでしょう。ただ、時代の経済環境や社会性によってもう以前の”機能性”や
”経済性”に委ねたイメージングからの”二面性”というコンテキストではなく、時代の表層と
深層構造が日常的に二面性の世界である事、その虚偽性、虚構性に気が付き始めた
リアリティーにたいしての所謂、”時代性”というコンテキストによってファッションの世界でも
デザインが為されている。
 ここでは僕が発言して来た、『もう時代はイメージからリアリティが生まれるのではなく、
リアリティからイメージが生まれる。』の現実が読める。
 ”二面性”というコンテキストの根幹は、“一粒で二度美味しい”でしかない。
ここに“愉しみ”が存在しているから魅力となり創造性が膨らむのでファッションの潮流に度々
現れてくる。しかし、過去をみても此のコンセプトが出る時代性とは決していい時代ではなく
不況時や不確実性が広がる時代に多く出たもので、現代ではそれに不平等性が加わった
時代性と読める結果であろう。
 なので、この“二面性”も最近では素材が持つ”表と裏”の“リヴァーシブル”ではなく
構造が違う“表と後ろ”の二面性である。即ち、着る事によって”表の見え方と後ろ姿の見え方”が
違うと言う”表層に於ける二面性”であり、ここには大きな相違が有る。
それは、隠された”二面性”ではなく見える”二面性”であり一種のフェイクを愉しむという
コンテキストが読める。僕が発言しているファッションとはの根幹である
”The fashionis always in fake.”がここにも理解されるであろう。
 現実世界においては、これを熟知し、巧く使い分けられる民族がこの世界で富と権力の
イニシアティブを執っています。何故ならば、物事の”根幹”/”二面性”を理解させられている
からです。ですから、彼らたちが先端を担い、富を築きその格差は年々増すばかりです。
“世界は一つではなく、その一つのモノには表と裏が在る。”
これを愉しむとは?どこに立つかの、富と権力の為の立ち居場所確保に尽きる。
 こんな時代性とは、ここでこのパリコレのトレンドを交えて、日本の新たなる『表と裏』
が表層化し始めた、今後”見えて来る二面性”を妄想して見よう。
文責;平川武治:巴里市にて;

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