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2020年1月16日

UNDER COVER, 三十周年目のコレクション、”動き! 蠢き!! そして、創生!!!“。/其の一:

『 ”動き! 蠢き!! そして、創生!!!“した。』

 “caught in wretched obsession in this world of carnage from past to present.”
「それ執心の修羅の道、昔も今もかわりなし。」

「 30年間も続けて来た者だけが発せられるこゝろである。
60回以上のコレクションを創生して来た当事者しか持てない覚悟である。
そして、自ら生きてきた時間の2/3をすでに費やしてきた
人間しか想う事ができない念いでしかない。

その、こゝろと覚悟と念いがコレクションとなって昨夜、演じられた。

彼、高橋盾とそのチーム、“UNDER COVER”だから持ち得た
“リアリティ”と“関係性”によって成されたコレクションだった。
新たな“魂”を見せてくださって、
ありがとう、ジョニオ君。
ご苦労さま、”UNDER COVER”。

彼もやはり、既に
白人至上主義の元に構築された「近代」と言う時代のパラダイムが
完全に綻び始めているリアリティを感じてしまっている
未だ、多感繊細なる独りの日本人である。

嬉しく、震え、僕の内なる”YELLOW”が歓喜した。
30年という彼しか持ち得なかった、時間、
記念すべきリアリティに
このような、”こゝろと覚悟と念い“溢れるコレクションを為した
彼へ畏敬の念を感じた。

高橋盾は
”動き! 蠢き!! そして、創生!!!した。“
次なるに迎える「シン・近代」の彼方を、、、」
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 editor : 16:36 | コメント (0)

2020年1月15日

「補足版/[ Homo Deus ] 新たな「近代」を念い、考えるために。」

『 [ Homo Deus ] 私的読書感と共に、』をより、理解していただく為に、
「近代」がどの様にほころび始めてきたかをモードの世界はどの様に捉え始めたか?を論じる。


 僕は唐突に同じ著者の1冊、「ホモゼウス」を紹介し、この本を叩き台として
僕が危惧する今後の“近未来”の世界が、「近代」と言う時代の“パラダイム”では、
もう全てが、政治、経済そして、民主主義と地球環境危機と気象危機それに、富の格差や人口
減少化などの現代社会が持ち得てしまった諸問題が既に現実になりつつ、諸限界に達している
と言う視点をモードの世界の最近の変化から読み込んだのがこの補足版、『[ Homo Deus ] 私的
読書感と共に、』である。

*はじめに、/
日本では昨秋に翻訳本が出版された、2冊の本を紹介しておこう。
2015、16年に出版された「サピエンス全史」(上下2巻)と「ホモ・デウス」は(上下2巻)は
最近では珍しくヨオロッパにおいて三十万部を越えるベストセラーを記録した本である。
著者は2冊ともユヴァル・ノア・ハラリで、彼は’76年生まれのイスラエルの歴史学者であり、
TEDでも喋っているし、「サピエンス全史」はNHKでも特番が組まれたから既に、既読された方
も多いであろう。
 僕は「ホモ・デウス」に興味を持ったが、やはり、「歴史家」という傍観者が書いた情報量
満杯の「データー至上主義」に未来を委ねたい白人が書いたとても乾いた、“近未来歴史書”と
いう印象は免れなかった。
 世界でも、「近代」と言う時代が既にほころび始めてきた事を容認する人たちが増えて来て
いる。今春、ひょんなことから鎌倉の自宅を訪れてくれたトム・サックスと話した折も最後は
この話題になり、彼はもうすでに綻びどころか、破れ始めていると言う旨のことを話して帰って
いった。きっと、彼も、このハラリの本を読んだのであろう。(?)
 「近代」の次なる時代とはどの様な時代が到来するのか?その時の「人間の存在価値とは?」
あるいは「人間の役割とは?」または、「人間らしさとは?」に疑問と想像を求める迄も無く、
アルゴリズムとテクノ宗教を信仰する「白人至上主義者」の一人が書いた本である。

*モードの現在に眼差しを置くと、/
ほころびて来た近代のルールとシステムを未だに根幹にした現在の行為は今後変わらず所詮、
「上塗り」作業でしかなく、世界を変えるまでの新しい世界を生み出すシステムでは無い。
ここでは、ただのヴァリエーションを増やすだけの世界。ということは、無駄と複雑さを蔓延
さすだけの行為。そしてここでは、彼らたちしかこの「近代」構造システムによって得られる
「利権/ライセンス」或いは、「コラボレーション」を発展増長するだけの世界でしょう。
最終的にはこれら「利権」を持っているものが一人勝ちしている世界でしかない。
 そして、そんな彼らたち、その多くは「ラグジュアリィ・ファッションビジネス」でこの世界
をリードしている白人社会は、ここに「文化度」を付加・構造化するために、モードの世界も
新たに「FOUNDATION・BUSINESSES 」の世界を構築してしまいましたね。
 ここでは売れなかった「在庫」も選ばれて、諸サンプルズを自社内で保管しておくことより、
保管場所を変えること即ち、「FOUNDATION」を設立しここで保管すると言う手法ですね。
 ここには、ブランドビジネスの根幹である、「イメージ」+「来歴」によって全く、「新たな
価値」が生まれると言う手法を見つけ出したのです。
 この手法は何も全く新しくはなく、むしろこの手法も彼ら、白人至上主義者たちが「近代」を
構築した際に生み出した、「アートビジネス」が根幹でしょう。
「ないものを、あるように見せかける」為の仕組みと装置を構築し、「ないもの」から付加価値
と呼ばれる“価値”を生み出す装置である。このビジネス構造の根幹は「文化は武器である」と
言うまでのある種、白人文化至上主義者たちの予見の見事さが功を生み出した強かなビジネス
モデルの世界です。僕がよく言っている、“The fashion is always in fake.”が根幹だからです。

*オークションハウス「サザビーズ」の場合或いは、これからの“ブランドビジネス”の
新しさとして、/

 例えば、あのアート・オークションを商っているご存知「サザビーズ」は、80年台代はじめに
アメリカの不動産業で富裕層に成り上がったアルフレッド・ドーフマンが買収しその後、彼の
新しいアイディアによって、現代のような「アートビジネス」構造が構築されたと言う事実を、
日本でも、昨今のアートキュレターと称している輩たちはどれだけ彼の事を知っているか?
 それまでの「絵画作品」はその殆どが「骨董商」的商い手法で、古い「ファイン・アート」と
称される絵画を発掘品と宝石装身具と室内装飾品類を骨董商よろしく、商っていたこの商売も
例に漏れず、「関係性ビジネス」です。その後、この世界をオークション方式を採用して商って
来たのが「旧・サザビーズ」。そして、買収後の「サザビーズ」のA.ドーフマンによって現在の
規模と構造とシステムに生まれ変わった。当然ここには新たな商材としの「現代アート」と言う
分野がパリから、‘68年以降のN.Y.C.へ移って来たことも由来しているでしょう。
 ここで、この当時ロンドンの「サザビーズ」を買収して、新たな「アートビジネス」を構築した
A.ドーフマンが成した新しさを紹介しよう。ここには、現在の「ラグジュアリィ・ブランド
ビジネス」の新たな行方が読み取れるからです。多分、LVMH社のM.アルノーは彼から多くの
知識を学習したのであろう。
 まず、彼が幾らで「サザビーズ」を買収したか?
その買収価格は1億3900万ドル(当時のレートで、)でした。
 そして、彼が自分の会社になって為したこととは、これまで排他的だった美術市場へ新規参入
者たちをウエルカムし始めた。当然、この世界は先にも述べた、「関係性」が信条のビジネス
だからです。
 しかし、彼はそれまで、閉ざされていた”顧客の窓“を開いたが、決して「玄関戸」は変わらず
閉じている。そして、新たな、美術品投資家を開いた窓から入ってくる作家とともに、新たな
顧客層として育成化した。その根底に彼は、芸術を商う事も、“小売店で扱う日常の商品の一つ
と見なしていた”と言う。
 そして、具体的に彼がイノヴェーションした事とは、
1)資金融資システム
2)保険システム
3)修復、保管等のサービス & システム
4)メセナのためにスタッフたちをアートに関心のある企業への派遣システム
5)オークション前の“下見会ツアー”システム
6)宣伝、キャラバン等のプレス広報活動
 これらが代表とされた改革事項であった。結果、美術市場を”ブランド化”させたのである。
彼が目指した、”ブランド化“とは、「商品/モノ」と実際の価格の関連性をいかに、世の中に
強く定着させるか?そして,新たな”価値”を生むこと。その為には、"Provenance/”来歴”という
作品のアイデンティティをリアリティ化する事であり、その役割とプロセスが大切な機能となる
ことを読んだ強かさな発想であろう。
 “Provenance means the origin or history of something.”by John Myatt:
このアートビジネスの世界では、”絵画作品“の所有権の移転歴が作品の価値を生む最も重要な
ファクターであることの事実を認めた上での、” 移転歴連鎖記録“の作成に務めた。
 ”来歴“とは、『画家のアトリエから美術館へ、オークション会社からコレクターへ、絵画が
どのように動いたのか、その軌跡を明らかに示す一連の書類―受領書や送り状、手紙展覧会の
図録―と云ったものが事実上の作品の芸術的価値を構成する。その年記の中に著名なギャラリィ
やコレクターが仲介していた事を記録出来ればいい。作品の名声は作品自体の質だけに基づく
のではなく、その血統によっても決まってくる。』これが彼が構築したロジックな”来歴”論で
ある。そして、コレクターの心理とは『その絵画が持ち得た”神話”の一部を共有する事に優越感
を持つ事である。』と、読む。
 では、美術館の仕事とは、その一つは、作品の展示展観。即ち、プレゼンテーション&
プロパガンダ。そして、教育と保管管理と作品の情報制作とその管理と広報である。
 それに,美術館のもう一つの重要な仕事として,“来歴”の作成がある。この”来歴記録リスト“
の作成と保管する人が、立場の高い「ARCHIVIST/アーキヴィスト」と呼ばれる人たちである。
 結局、彼、A・ドープマンが為した根幹とは、「美術の世界での3つのポイント」を熟知した
教養と経験値が現在の「サザビーズ」をイノベーションしたのである。
 その3つとは、「1)敷居の高さへの挑戦。2)価値/ヴァリュウ。3)流動性。」であろう。
これらは、”窓を開けて新たな空気を入れ替える“ことに他ならないだろう。
ただし、「玄関ドアは閉めておけ!!」である。(これはユダヤ人しかわからない。)
 さて、これでお解りであろう、モードの世界はもう既に、この「アートビジネス」の一端が
「ラグジュアリィの世界」へも押し寄せて来た現実。90年代も終わりから、プラダをはじめ
とした各ラグジュアリィ・ブランドの“ファッション・ファウンデーション”の設立がここ10年間
ほどのファッションビジネスの新しいリアリティである。
 自分たちが選んだアーカイヴスはメゾンで保管していればそれらは全て、課税対象となるが、
“別棟”を構築してそこで保管すれば、課税対象にはならず、むしろ、新たな価値が生まれる。
その選ばれたアーカイヴスの価値は先述の「アート・ビジネス」に寄り添えるまでの価値を
生み出す。そして、昨今のSNS機能を駆使すれば、アーカイヴスの“来歴”が飛び交い”流れる“。
と言うことは、「美術の世界での3つのポイント」がクリアー可能な構造なのである。
 例えば、より具体的な仕組みでは、昨今の「コラボレーション」と言うビジネス形態である。
どこのブランドと“コラボ”をしたということが“来歴”となって、そのデザイナーブランドの“名声
=価値”が創成される。ここにもユダヤ人特有の「関係性ビジネス」の根幹が漂っている。
 ここまで書くともう,お解りでしょう。
今後のモードの世界もこの方向性が必然性を持って来ます。
そうです,“ARCHIVES"の世界をどのように"PROVENANCE"して行くか。
 ここで,モードの世界にも”ARCHIVES”を記録し,それを管理活用して行く ”ARCHIVIST
/アーキヴィスト”という新たな役割が必要になるのがこのモード産業の近未来でしょう。
 未だ,日本のファッション産業は“市場”構造でしかありません。
作られた鮮度のあるものをその賞味期間中にどれだけ売り切るか?そして、後は,見切り、
セール販売にかける。この繰り返しですね。
 今、この”アーキヴィスト”に近い実ビジネスを始めたのが、青山にあるヴィンテージショップ
でしょう。ランウエーでそのシーズンの「壁紙」になったデザイナーモノのオリジナルをネット
や古着屋からかき集めてきてそれなりの高価な値段をつけて「リース&セールス」と言う商いを
始めています。パリからのそのレベルのデザイナーたちが東京へきたら訪れるこの手の”有名店”に
なっています。例えば、ヴァレンシャガアのデザイナーが探していたものは90年代までのM.M.M.
モノ。これらのオリジナルがここでは買えると言う迄のビジネスです。
 この商いの新しさは“ アーキヴィスト”的でしょう。
ここで,やはり,“モードビジネス”ということを新しさとして考える必要がありますね。
デザイナーは誰でもがなれる時代性になってしまった、この「近代」の崖っぶち現象の一つで
しょう。

※[Adolph Alfred Taubman /アルフレッド ドープマン:A&Wオーナー/(born January 31,
1924): American real estate developer and philanthropist.
Taubman bought the ailing British auction house, Sotheby's, in 1983.]
参照/https://en.m.wikipedia.org/wiki/A._Alfred_Taubman

*ファッションの世界も「近代」という時代の産物です。/
 1832年にミシンが発明されファッションの産業化が促進発展した。(シンガー1号は1850年に
開発された。)その現実は「男性」と「女性」という二項対立の世界観をこのファッションの世界
でも確立し、社会的存在価値を尊ぶ「男性」世界と”求められる女性観“がその存在価値である
「女性」世界にモードの世界もそれぞれの領域を築き、「Femme Objects」を根幹として
「進化・発展」を「近代」という時代の表層を被覆化して来たのがヨオロッパにおけるモードの
世界でした。
 20世紀も終わりの15年ほど前に初めて登場した、“ジェンダー論”と当時の「GAY」たちへの
讃歌をこのモードの世界も歌い始めたが、その現実の「男性」服と「女性」服の関係性は事実上
現在まで変わらず依然、「メンズ」&「レディース」というカテゴリーで展開されて来ている。
 しかし、最近のモードの新しさとは、ここ数シーズン来、社会的に問題化され始めて来た
「ジェンダー/Lgbti」を新たな顧客として意識しイメージングにも取り扱われ始めたことです。
これは従来からの「男性」と「女性」の性的カテゴリィーが崩れ始め、新たな“ゾーン”が認めら
れ始めたという“新しさ”でしょう。
 気がつくと、「男性」と「女性」の間に、「GAY & LESBIAN」が参入しそして、現在では
その“グレーゾーン”であった性的ゾーンそのものが社会的な衆目を浴びるまでに至り、「男性」
と「女性」の中間ゾーンを新たなモードの領域とした創造性が現れ始めた事です。
 「男性」モードは、「ユニフォーム」(スクール、スポーツ、ミリタリー、ワークスそして、
ホワイトカラー)というカテゴリィーであり、「女性」モードは「コスチェーム」(民族衣装、
歴史衣装と舞台衣装)というカテゴリー でその“2項対峙”のバランスを図って来たのが現在までの
「モードの近代」の根幹でした。
 しかし、先シーズンのパリ・メンズコレクションに於いてもこの「ユニフォーム」と
「コスチューム」がビミョーに重なり始めました。
(この好事例はやはり、「CdG H.P.」のオペラ”オーランドの衣装“コレクションでしたね。)
そのコレクションにおける現れは、アイテムやコーディネートそして、使われる素材そして、
後加工としてのプリント、イメージングとしてのヘヤーやメーキャップに顕著に”新しさ“を
コレクションでランウエーさせたのが昨年の6月のパリメンズ F.W.のランウエーの楽しさでも
ありました。
 この、“「ユニフォーム」と「コスチューム」がビミョーに重なり始めた”ことによって,
先シーズンのパリは、僕は「ニュアンスのユニフォーム」と「キャンプなコスチューム」という
新たなボキャブラリィーを創出した程です。
 従来は、「ユニフォーム=機能性」と「コスチューム=エレガンス」の世界でしか無かった
このモードに新たに、「気分やニュアンスのユニフォーム」と 「ビミョーな存在感ある=CAMP
なコスチューム」という発想が幾人かのデザイナーたちのランウエーから感じ取ることが出来、
それそのものが面白く、新鮮さが感じられたのです。
 ここでのMD的発端はその数シーズン前から白人たちがイエローに続く新たな顧客として、
“黒人”たちを自らが呼び込んだ事でこの現代の表層の新しい動きはより、その可能性が広がり
モードの世界は素早く“黒人”たちと“GENDER”たちを両方味方にし、「時代の壁紙」としての
“CAMPな新たなマーケット”戦略が生まれたと読める。こもう一つ、の流れを素早くクールに
仕掛けたのが、ブランドLV.だったことで余計にその流れに勢いがついたのが現在のパリ。
 もう一つ、僕はこの新しさは、「近代」そのもののある根底が中和・溶解され始めた証と
感じ、「近代の終焉」が 近づき始めているという視点をも改めて感じたのです。
 
*おわりに、/
 しかし、モードの世界は常に、“逃げ足の早い”世界です。いわゆる、時代の「壁紙」をデザイン
する「壁紙デザイナー」とは、「はったりと逃げ足の早さ」のタイミングの旨さがデザイナーの
身上、良し悪しを決定していることも確かです。
 故に、彼らたちは、まだ「近代」のパラダイムの中でただ、時代の表層の「壁紙」を張り替え
「近代」の綻びを繕う作業を繰り返すだけなのかあるいは、根幹から「近代」を創生する作業
例えば、「縫わなくてもいい服」や、「サスティナブル/シリカル」をチョイスするのか?
或いは、これらが“共生“された世界を求めるのか? 
 これらの処方の選択は、持ち得た生活のリアリティを服作りの根幹にして、自分の世界観と
倫理観ででブランドをディレクションしてゆく、新たな「ファッション・ディレクター」に
委ねるのか、自分が気になる探し求めたイメージやSNSによって服作りを変わらず繰り返している
「ファッション・デザイナー」に未だ、委ねなければならない世界なのか?
このモードの世界の現在点は、例えば、現在世界の幾つかの都市、香港やパリで起こっている、「終わらないデモ集会」と言う”リアリティ“がやがて、”イメージによる政治体質“を変革させ、
「近代」のパラダイムが、これからの”地球との新たな「関係性」“を構築すると言う迄の世界観
に通じるのか?
 僕が見続けてきたこの35年のパリモードの世界はこのような視点からは然程、変化がない、
変わらず閉ざされた世界だと言うことでもありますね。言い換えれば、モードの世界の「進化」
とは、新たな創造性が消滅し始めたためにその速度が年々、スローになって、「昨日が新しい」
という迄の世界で戯れているのでしょう。
 「次なる近代」のモードの、その作り手とは「A.I.」たちに着せる服をデザインする輩たちが
斬新なデザイナーと言うまでの世界なのでしょうか!?
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 editor : 08:31 | コメント (0)

2020年1月11日

[ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。−第二部/

[ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。
第二部;
初稿/令和元年八月:
参照/「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/著名;ユヴァル・ノア・ハラリ
(株)河出書房新社;2018年発行/

 *とはいえ、本書を締めくくる第三部では、
この人間至上主義の夢を実現しようとすれば、新しいポスト人間至上主義のテクノロジーを
解き放ち、それによって、ほかならぬその夢の基盤を損なうだろうと主張することになる。
 人間至上主義に従って感情を信頼したおかげで、私たちは代償を払うことなく現代の契約の
果実の恩恵にあずかることができた。
 私たちは、人間の力を制限したり意味を与えてくれたりする神を必要としない。
消費者と有権者の自由な選択が、必要とされる意味を全て提供してくれるからだ。
 それならば、消費者と有権者は断じて自由な選択をしていないことに私たちがいったん
気づいたら、そして、彼らの気持ちを計算したり、デザインしたり、その裏をかいたりする
テクノロジーをいったん手にしたら、どうなるのか?
 もし全宇宙が人間の経験次第だとすれば、人間の経験もまたデザイン可能な製品となって
スーパーマーケットに並ぶ他のどんな品物とも本質的に少しも違わなくなったときには、
一体何が起こるのだろう。

 *個人主義と人権と民主主義と自由市場という自由主義のパッケージに支配されている。
とはいえ、二一世紀の科学は、自由主義の秩序の土台を崩しつつある。科学は価値にまつわる
疑問には対処しないので、自由主義者が平等よりも自由を高く評価するのが正しいのかどうか、
あるいは、集団よりも個人を高く評価するのが正しいのかどうかは判断できない。
 一方、自由主義も他のあらゆる宗教と同じで、抽象的な倫理的判断だけではなく、自らが事実
に関する言明と信じるものにも基づいている。

 *そもそも「欲望」を選ぶことはできるか?(P-106)
私は自分に欲望を選ぶことは出来ない。欲望を感じ、それに従って行動するにすぎない。
魂など存在せず、人間には「自己」と呼ばれる内なる本質などないことを一旦、受け入れれば
「自己はどうやって自らの欲望を選ぶのか?」と問うことに意味なさなくなる。
「本当に生き物に自由意志がないならば。」生き物の「欲望」を操作し、意のままにさえできる
可能性がある。
 より、日常的な自由主義の目標を達成するためにも、自分の脳内の電気回路を操作する
だろう。人は外部から気を散らされて、自分の最も大切な真の欲望に気づき損ねることが多い。

 *「思い出」を消去できるシステム。(P-123)
私たち人生における重大な「選択」ーパートナー、キャリア、住まい、休暇などの選択の大半は
物語る自己が行う。
 経験する自己と物語る自己は完全に個別の存在ではなく緊密に絡み合っている。
物語る自己は重要な原材料として私たちの経験を使って物語を創造する。すると、その物語が
経験する自己が実際に何を感じるかを決める。自分を物語る自己と同一視する。
 私たちが「私」というときには自分がたどる一連の経験の流れではなく頭の中にある物語を
指している。
 自由主義の疑わしい信念は、私たちが生まれてから死ぬまで変わることのない単一の
アイデンティティがあるという感じを常に維持することから生まれている。

 *国家や貨幣や神と同様に自己もまた想像の物語である。
自分の見た映画や、読んだ本、耳にした演説、耽った白日夢と混ぜ合わせその寄せ集めの中から
自分が何者でどこからきて、どこへ行くのかにまつわった物語を織り上げる。
 この物語が私が私に、何を好み、誰を憎み、自分をどうするかを命じる、すべてただの物語に
過ぎない。

 *それならば、人生の意味とは?何なのか?(P-130)
自分に自由意志を使って自分の人生ばかりではなくこの世界全体の意味を生み出すべきなのだ。
現代の自由主義者たちは、個人の自由な選択が人生に意味を与えてくれると信じているが、
どちらも同じような妄想でしかない。(=映画「アギーレ、神の怒り」もそうだった。)
 「個人の自己は幻想である。」

 *「宗教的信念と政治的制度の全く新しいパッケージが必要になる。」
民主主義と自由市場と人権は今後の、テクノロジーによって個々の人間に自由意志など全く
許さない時代にどのように生き延びられるか?

 *二十一世紀の後半には、一人一人の人間が比類のない価値のある個人であり、
その自由な選択が権威の究極の源泉であるという信念は脅かされる。
(P-132)
・人間は経済的有用性と軍事的有用性を失い、そのため、経済と政治の制度は人間にあまり価値
を付与しなくなる。=従来の人間が持っている価値が変質する。
・経済と政治の制度は集合的に見た場合の人間には以前として価値を見出すが無類の個人として
の人間には価値を認めなくなる。=集団化>個人
・経済と政治の制度は、一部の人間にはそれぞれ無類の個人として価値を見出すが、彼らは人口
の大半ではなくアップグレードされた“スーパー”という新たなエリート層を構成する。=新階級

 *近代における「自由主義」が成功したのは、
政治的にも経済的にもそして軍事的にも、一人一人の人間が必然であり大切であったからであり
人間全員に価値を与えることが理に適っていたからである。
 すべての国民には等しい価値と等しい政治的権利(参政権)がることを認め、人々に政治的
権利を与えれば、動機付けや自発性が高まり、それが戦場と向上の両方で役立った。
 
 *女性に参政権を与えたことも同様である。
産業化戦争においては女性が不可欠な役割を果たすことに気付いた結果であった。(=日本の18
歳の参政権はこのルールによってなされた、政府の遅れてきた陰謀)21世紀の戦争と経済におい
ては男も女もそれぞれの価値が失われるからである。

 *戦争手段は極めてゲーム的にテクノロジーに一握りの専門家とアルゴリズムに委ねたものになる。
したがって、多くの人間は戦争に役立たなくなり、ただの盾的な役割になってしまった。

 *「経済」の領域でも、人権と自由を守るのは、
道徳的な義務であると同時に経済成長のカギであった。「経済と人権と自由」を自由化した国家
が戦争に勝利した。(=フランス、イギリスそして、アメリカ)

 *最近の専制君主国がクーデター後に行ったこととは
これらの自由主義化であった。その理由は道徳的理由ではなく、経済的理由からであった。
 
 *一般大衆が経済的重要性を喪失すれば道徳的理由だけで人権と自由が守れるだろうか?
新たなエリート層と政府は経済的な見返りが無くなった大衆の一人一人の人間を尊重し続ける
か?(今の中国を見ればいい。)

 *過去には人間しか出来ないことが沢山あった。
だが、これからの時代にはA.I.とP.C.が間も無くほとんどの人間の仕事で人間を凌ぐ可能性が強く
なると、人間は直ちに、経済的な価値を失う危機に直面する。
 なぜなら、知能が意識と分離しつつあるからだ。
今日まで、高度な知能は常に発達した意識と密接に結びついていた。より、高い知能を必要と
する仕事は意識のある人間にしか出来なかった。が、現在ではそのような仕事を人間よりも
はるかに上手くこなせる意識を持たない新しい種類の知能が開発されているからだ。
 これらは、総て、パターン認識に基づいた、意識を持たないアルゴリズムがこれらのパターン
認識を行い、人間の意識を程なく凌ぐからだ。

 *人類の歴史は、生物の進化は意識の筋道に沿ってのろのろと進んできた。
だが、非生物であるP.C.の進化はそのような流れをそっくり迂回してスーパーインテリジェンスへ
と続く全く別の早道を辿るかもしれない。

 *知識と意識では、どちらの方が本当に重要なのか?(p-138)
二十一世紀の今後では、軍と企業とにとっては答えは単純明快で、知能は必須だが、
意識はオプションに過ぎない。そして、人間の経験や多くの大衆たちの仕事を消去するだろう。
(参照/マターサイト・コーポレーション)(P-146)

 *21世紀の最も重要な課題は、
膨大な数の余剰人口と人員をどのようにするか?あるいは、彼らたちはどのように生き延びる
か?(P-147)

 *従来からの「農業<工業<商業<サービス業」という求人の流れが変わる。
機械よりも人間の方がうまくこなせることが常にあった時代、人間には身体的なものと認知的な
ものという2種類の基本的な能力がある。この身体的な能力の面だけ機械が人間と競っている限り
は人間の方がうまくこなせる認知的な仕事が多くあった。ところが、パターンを認知記憶そして
分析したりする点においてもアルゴリズムが人間を凌ぐようになると、何が起こるか?
・生き物はアルゴリズムである。あらゆる動物は膨大な歳月をかけた進化を通じて自然選択に
よって形つくられた有機的なアルゴリズムの集合体である。
・有機的アルゴリズムに出来ないことは非有機的アルゴリズムでは可能。

 *「心を持たないアルゴリズムが人間よりも上手に教えたり、診断したり、デザインをし
たり出来るようになれば人間はどうしたらいい?

 新しい世代のA.I.は人間の助言よりも機械学習を好む。

 *過去の人間はずーと、「専門化」を進化させて来た。
A.I.が人間を求人市場から締め出すには特定の職域が要求する特別な能力で人間を凌ぎさえば
良いことである。アルゴリズムが人間を求人市場から押しのけて行けば、富と権力は全能の
アルゴリズムを所有する、ほんの僅かなスーパー・エリートたち、大富豪たちの手に集中して
空前の社会的、政治的不平等社会を生み出し、新たな独占社会の可能性もある。(すでに一部の
世界では現実となりつつある。)
 また、アルゴリズム自体が所有者になるかもしれない世界、アルゴリズムが「法人」を所有
することも可能である。アルゴリズムは人間の主人の思い通りになる必要はなく、自ら巨大な
ベンチャーキャピタルファウンドを所有できる。

 *現在の地球の殆どは、既に、人間でない共同主観的なもの、すなわち、国家と企業に合法的
に所有されている。
(EX.土地はその国家が総て所有している実態。)
 産業革命によって、新しい労働階級が生まれ彼らたちの前例のない欲求と希望と恐れによって
誕生したのが都市プロレタリアートだ。

 *21世紀には私たちは新しい巨大な「非労働者階級」が誕生するかもしれない。
経済的価値や政治的価値、さらに、芸術的価値さえ持たない人々、社会の繁栄と力と華々しさに
何の貢献もしない人々、ほとんどが雇用不能な「無用者階級」の登場である。
 例えば、2030年ごろまでには、例えば、「ヴァーチャル世界でのデザイナー」のような新しい
職業が誕生するかも知れないが、人間がアルゴリズムよりも上手くこなせる新たな仕事を見つけ
出さなければならないだろう。

 *教育においても、今日、既に子供達に何を教えて良いのかがわからなくなって来ている。
現在子供たちが学校で習っていることの大半は、彼らたちが40歳の誕生日を迎える頃には
おそらく時代遅れになっているだろう。

 *「人間は何をするか?」
このような時代になれば、人間は何をするか?何かする必要がある。
することがなければ頭がおかしくなる。
 「薬物とP.C.ゲーム」というのが一つの答えかも知れない。あるいは、3Dのヴァーチャル・
リアリティの世界で時間を費やすことも多くなる。
 夢の国で人工的な経験を貪って日々を送る無用の怠け者たちの、どこがそれほど神聖なのか?
このような生き方は、人間の人生と経験は神聖であるという自由主義の信念には致命的であろ
う。

 *自由主義は人間の価値を信じているし、個人主義も信奉している。
よって、軍事的にも経済的にも無用になるという脅威と,人間は必要とされても個人は必要と
されない時代が来る。政治と経済の制度は個人から権威と自由を奪う。

 *生き物はアルゴリズムの集合体である。(P-161)
人間を構成しているアルゴリズムはみんな自由ではない。
 二十一世紀のテクノロジーのおかげで、外部のアルゴリズムが人間内部に侵入して自分より、
自分についてはるかによく知ることができるようになる。
そこで、自由主義はシステムが自分自身以上に自分の事を知るようになったときには崩壊する。

 *二十一世紀の新しいテクノロジーは、人間至上主義の革命を逆転させ、
人間から権威を剥ぎ取りその代わり、人間ではないアルゴリズムに権限を与えるかもしれない。
 生き物はアルゴリズムであると生物学者たちが結論した途端、彼らは生物と非生物の間の壁を
取り壊し、コンピューター革命を純粋に機械的なものから、生物学的な大変動に変え、権威を
個々の人間からネットワーク化したアルゴリズムへと移し た。
 
 *個人というものは、宗教的な幻想以外の何物でもないことが明るみに出るだろう。
現実は生化学的アルゴリズムと電子的なアルゴリズムのメッシュとなり、明快な境界も、個人と
いう中枢も持たなくなる。

 *自由主義に対する三つの実際的な脅威のうち、
その第一は人間が完全に価値を失うこと、
第二が、人間は集団として見た場合には依然として貴重ではあるが、個人としての権威を失い、
代わりに、外部のアルゴリズムに管理され、ポスト自由主義の世界となる。
 自由主義に対する第三の脅威は、アップグレードされた人間の、少数の特権エリー ト階級と
なることだ。 ほとんどの人はアップグレードされず、コンピューターアルゴリズムと新しい超人
たちの両方に支配される劣等カーストとなる。

 *自由主義のイデオロギーの基盤が崩れる。
自由主義は、社会経済的な格差とは共存できる。自由主義は平等よりも自由を好む。
自由主義は、人間は全て等しい価値と権限を持っていることを、依然として前提としている。
 社会的不平等に対する自由主義の解決策は、異なる人間の経験に等しい価値を与えることだ。
世界の最高富裕層62人の資産を合わせると。最貧層の36億人の資産の合計に匹敵する。
 将来は、アップグレードされた上流社会と、社会の残りの人々との間に、身体的能力と認知的
能力の本物の格差が生じるかもしれない。

 *医学は途方もない概念的大変革を経験している。
二〇世紀の医学は、病人を治すこ とを目指していた。
だが、二一世紀の医学は、健康な人をアップグレードすることに、しだいに狙いを定めつつある
 病人を治すのは平等主義の事業だった。
健康な人をアップグレードするのはエリート主義の事業だ。卓越した記憶力や、知能、最高級の
性的能力を望む。
 二〇世紀に医学が一般大衆のためになったのは、二〇世紀が大衆の時代だったからだ。
二〇世紀の軍隊は何百万もの健康な兵士を必要とし、経済は何百万もの健康な労働者を必要と
した。国家は公衆保健サービスを創設し、万人の健康と活力を確保した。最大の偉業は、
大衆保健施設の設立と、集団予防接種活動と、集団感染の根絶だった。

 *大衆の時代は終わりを告げ、二一世紀には無用の三等車を置き去りにして、一等車だけで
突き進むのが最も効率的な戦略となりうる。

 新しい超人のカーストを生み出し、科学的な発見とテクノロジーの発展が大量の無用な人間と
少数のアップグレードされた超人エリート層に分割したなら、権限が人 間から知能の高い
アルゴリズムの手にそっくり移ったなら、その時には自由主義は崩壊する。

 *テクノ宗教が幸福や平和や繁栄、さらには永遠の命さえ約束する。
テクノロジー の助けを借りて ? 新しいテクノ宗教は、テクノ人間至上主義とデータ教という
二つの主要なタイプに 分けられる。
 人間を森羅万象の頂点と見なし、人間至上主義の伝統的な価値観の多くに固執する。
テクノ人間至上主義は、はるかに優れた人間モデルであるホモ・デウスを生み出すために、
テクノロジーを使うべきだと結論する。
 *ホモ・デウスはアップグレー ドされた心身の能力も享受する第二の認知革命を引き起こせる
かもしれない。

 *WEIRD、「西洋の、高等教育を受けた、工業化された、裕福で、民主的な」という
意味の英語の語句、

平均的な人間の平凡な経験を神聖視するようになった。
(「Western.educated,industrialises,rich and democratic」)
 ハーヴァードで心理学を学ぶ学生の精神世界を記した詳細な地図はあるものの、
アメリカ先住民のシャーマンや仏教の僧侶やイスラム教神秘主義者の精神世界については、
解っていることがずっと少ない。(WEIRDは学ぶ必要性を感じていないから?=白人至上主義)
 医師や技術者や消費者が、精神疾患の治療とWEIRD社会での生活の享受に専念しているかぎり
標準未満の精神状態とWEIRDの心理を研究していれば、私たちの必要は十分満たされたのかも
しれない。(=白人至上主義)
 ところが今後、30世紀の幕開きの頃、自由主義的な人間至上主義がテクノ人間至上主義に道を
譲り、医学が病人の治療よりも健康な人のアップグレードに次第に的を絞っていく中、私たちは
完全に異なる種類の課題に直面している。
 心のアップグレードは主にWEIRDの人々の標準的な精神状態や標準未満の精神状態の
スペクトルなので、どんな目的地を目指せばいいのかすらわからない。

 *超標準の領域は、科学にとって概ね人跡未踏の地のままだ。
私たちは全く地図を持たずに突き進み、現在の経済や政治の制度が必要とする心的能力をアップ
グレードすることに的を絞り、他の能力は無視したり、ダウングレードしたりさえするかも
しれない。例えば、太古の人間はおそらく、嗅覚を幅広く使っただろう。 現代の人間はFOMO
(見逃したり取り残されたりすることへの恐れ)に取り憑かれており、かつてないほど多くの選択肢
があるというのに、何を選んでもそれに本当に注意を向ける能力を失ってしまった。  
 <FOMO/https://www.gqjapan.jp/life/news/20140829/fomo_momo>
 匂いを嗅いだり、注意を払ったり、夢を見たりする能力が衰えたせいで、私たちの人生は
貧しく味気ないものになったのだろうか?
 経済と政治の制度にとっては、十分価値があった。
人間の心に対する将来のアップ グレードは、政治的な必要性と市場の力を反映する可能性が
高い。 私たちは首尾良くアップグレードできるかもしれないが、その過程で心を失いかねない。
 
 *テクノ人間至上主義は人間をダウングレードすることになるかもしれない。
能力を強化されたチンパンジーだった。だが将来は、特大のアリになるかもしれない。
 テクノ人間至上主義は、私たちの欲望がどの心的能力を伸ばすかを選び、それによって未来の
心の形態を決めることを見込んでいる。
 
 *今後、テクノロジー の進歩のおかげで、
その欲望を作りかえたり生み出したりできるようになったら、 何が起こるのか?
 不満だらけの結婚生活にはまり込んだ女性は、その生活が提供する経済的な安心感を失うのを
恐れる。シプラレックス(抗うつ薬)生化学的な不均衡と神経疾患の産物。

 *汝自身に耳を傾けよ!という、人間至上主義の第一の戒律は
もう、自明ではなくな った。内なる声のボリュームを上げ下げすることを学ぶと、
本物の自己への信仰を捨てる。

 *自分の意思をデザインしたりデザインし直したりできるようになった日には、
あらゆる意味と権威の究極の源泉と見なすことはできないだろう。

 *人間至上主義によれば、人間の欲望だけがこの世界に意味を持たせるという。
もし自分の欲望を選べるとしたら、いったい何に基づいてそうした選択ができるのか?
私たちが自分の欲望を厄介に感じることがあっても、テクノロジーはそこから救い 出してくれる
ことを約束する。

 *テクノ人間至上主義は、
人間の意志がこの世界で最も重要なものだと考えているので、人類を促して、その意志を
制御したりデザインし直したりできるテクノロジー を開発させようとする。つまるところ、
この世で最も重要なものを思いのままにで きるというのは、とても魅力的だから。
とはいえ、万一そのように制御できるようになったら、テクノ人間市場主義には、その能力を
使ってどうすればいいのかわからない。
 神聖な人間もまた、ただのデザイナー製品になってしまうからだ。

 *テクノ宗教は、
人間のような存在の欲望や経験を中心に回ったりはしない世界を予見している。

 *意味と権威の源泉として、欲望と経験に何が取って代わりうるのか?
その候補とは、情報だ。最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、宗教は神も人間も崇める
ことはなく、データを崇拝する。

 *生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。
データ至上主義はこうして、動物と機械を隔てる壁を取り払う。そして、ゆくゆくは電子工学的な
アルゴリズムが生化学的なアルゴリズムを解読し、それを超える働きをすることを見込んでいる

 *すべての科学者に共通の言語を与え、
学問上の亀裂に橋を架け、学問領域の境界を越えて見識を円滑に伝え広める。
音楽学者と経済学者と細胞生物学者が、ようやく理解し合えるのだ。

 *人間はデータを洗練して情報にし、
情報を洗練して知識に変え、知識を洗練して知恵に昇華させるべきだ。

 *データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、
ビッグデータとコンピューターアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ。

 *生物学がデータ至上主義を採用したからこそ、
コンピューター科学における限定的な躍進が世界を揺るがす大変動になったのであり、
それが生命の本質そのものを完全に変えてしまう可能性が生まれたのだ。

 *経済とは欲望や能力についてのデータを集め、
そのデータをもとに決定を下す仕組みなのだ。本質的には、競合するデータ処理システムだ。
 資本主義が分散処理を利用するのに対し、共産主義は集中処理に依存する。分散型データ処理
が集中型データ処理よりも巧くいくからだ。

 *二一世紀に再びデータ処理の条件が変化するにつれ、
民主主義が衰退し、消滅さえするかもしれないことを意味している。
 データの量と速度が増すとともに、選挙や政党や議会のような従来の制度は廃れるかも
しれない。それから非論理的だからではなく、データを効率的に処理できないからだ。(P. 216)

 *一九世紀と二〇世紀には、
産業革命がゆっくりと進展したので、政治家と有権者はつねに一歩先行し、テクノロジーの
たどる道筋を統制し、操作することができたのだ。
 「政府というカメはテクノロジーというウサギに追いつけない。」
アメリカのNSA(国家安全保障局)は私たちの会話や文書を全て監視している。
テクノロジーが政治を出し抜く。AIとバイオテクノロジーは間も無く私たちの社会と経済を
ーそして体と心もーすっかり変えるかもしれない。

 *権力がみなどこへ行ったか誰にもわからないというのが、悲しい真実なのだ。
イギリスがEUを離れても、トランプがホワイトハウスを引き継いでも、権力は一般の有権者の
もとには絶対に戻らない。

 *二一世紀初頭の政治は壮大なビジョンを失っている。
政府は単なる管理者になった。国を管理するが、もう導きはしない。彼らの狙いがごく限られて
いるからだ。
 混沌としたシステムでは視野が狭い方が有利に働くし、億万長者の権力は彼らの目標と緻密に
釣り合っている。

 *二一世紀に、従来の政治の構造がデータを速く処理しきれなくて、
もう有意義なビジョンを生み出せないのならば、新しくてもっと効率的な構造が発達して
それに取って代わるだろう。そのような新しい構造は、民主主義でも独裁制でもなく、以前の
政治制度とは全く異なるかもしれない。唯一の疑問は、そのような構造を構築して制御するのは
誰か?だ。
 もはや人類がその任務を果たせないのなら、ひょっとすると誰か別の者に試させることに
なるかもしれない。

 *データ至上主義の視点に立つと、
人類という種全体を単一のデータ処理システムとして解釈してもいいかもしれない。
一人ひとりの人間はそのシステムのチップの役目を果たす。
1    プロセッサーの数を増やす。
2 プロセッサーの種類を増やす。
3 プロセッサー間の接続数を増やす。
4 既存の接続に沿って動く自由を増やす。

 人類は過去七万年間に、まず拡散し、その後別々の集団に分かれ、最後に再び一体化した。
それぞれの集団はそれまで集め、発達させてきた独自の考えと道具と行動の遺産を持ち寄った。

  [ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。
第二部/終わり:
参照/「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/著名;ユヴァル・ノア・ハラリ
(株)河出書房新社;2018年発行/
文責/平川武治:

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最終回/[ Homo Deus ]私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。

[ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。
最終回:令和二年正月:
参照/「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/著名;ユヴァル・ノア・ハラリ
(株)河出書房新社;2018年発行/

 この次なる「近代」を探るための、僕のイマジナリィ・ボヤージュとしてのハラリ著のこの本
< Homo Deus > の私的読書感も終わりの巻へ、
 
 どのような新たな「近代」を僕たちは、この時代を生きる子供たちへ何を残すべきか
そして、何を消去し、どの様な新しさを構築可能か?そのための自分たちの選択肢をしっかりと
持って、そのミッションと共に次世代の「当事者たち」とランディングが可能であるか?
 考えられることの多くと、始めなければならない事柄をもうそろそろ、意識し始めませんか?
 その為には、「みんなが読んだ本だから、」と言うベストセラー・マニア的なる読み方では
無くどうか、どのように自分なりに読み込み、どのような自分なりの読書感とそこからの一つの
“新しい流れ”と“可能性”を見つけ出せるか?或いは、自分なりの”疑問“を幾つ持てるか?
自分なりの知識の新しいの“枝葉”を育てるか?と言うまでの読書をして下さい。

 *資本主義同様、データ至上主義も中立的な科学理論として始まったが、
今では物事の正邪を決めると公言する宗教へと変わりつつある。新宗教が信奉する至高の価値は
「情報の流れ」だ。
人間は全ての「モノのインターネット」を創造するためのたんなる道具にすぎない。

 *データ至上主義は、情報の自由を何にも優る善として擁護する。
人間至上主義の革命が勃発し、人間の自由、平等、友愛という胸躍る理想が唱えられ始めた。
その新しい価値とは情報の自由だ。
 情報の自由と、昔ながらの自由主義の理想である表現の自由を混同してはならない。
表現の自由は人間に与えられ、人間が好きなことを考えて言葉にする権利を保護した。
これには、口を閉ざして自分の考えを人に言わない権利も含まれていた。
 それに対して、情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。
しかもこの新しい価値は、人間に与えらえれている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。
 そこで、より良い世界を作り上げたいなら、そのカギはデータを自由にすることにある。

 *自由市場資本主義者が市場の見えざる手の存在を信じているように、
データ至上主義者はデータフローの見えざる手の存在を信じている。
 人はデータフローと一体化したがる。データフローの一部になれば、自分よりもはるかに
大きいものの一部になるからだ。今やデータ教は、あなたの言動の一切は大量のデータフローの
一部で、アルゴリズムが絶えずあなたを見守り、あなたのすること、感じること全てに関心を
持っている。

 *人間のデータは価値を持つ。
私たちは自分自身やデータ処理システムに、自分にはまだ価値があることを証明しなければ
ならない。そして価値は、経験することにあるのではなく、その経験を自由に流れるデータに
変えることにある。(“流す”ことがミッションである。)

 *データ至上主義は、自由主義的でも人間主義的でもない。
今度はデータ至上主義が人間至上主義に向かって同じことを言う。
「そうです。神は人間の想像力の産物ですが、人間の想像力そのものは、生化学的なアルゴリズム
の産物にすぎません。」
 データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかも
しれない。

 *人間中心からデータ中心へという世界観の変化。
「生き物はアルゴリズムだ。」
 もとになるアルゴリズムは、初めは人間によって開発されるのかもしれないが、成長するに
つれて自らの道を進み、人間がかつて行ったことのない場所にまで、さらには人間がついて
いけない場所にまで行くのだ。

 *最初は、データ至上主義は人間至上主義に基づく健康と幸福と力の追求を加速させるだろう。

 *人間はその構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、
ついには急流に呑まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない。

 *歴史を通して、人間はグローバルなネットワークを創り出し、
そのネットワーク内で果たす機能に応じてあらゆるものを評価してきた。
それらは重要な機能を果たしていたので、ネットワークの功績を自分の手柄にして、自らを
森羅万象の頂点とみなした。

 *私たちには未来を本当に予測することはできない。
なぜならテクノロジーは決定論的ではないからだ。

 *人間は、自由市場や群衆の知恵や外部のアルゴリズムへと、権威を明け渡している。
1 生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理でありという教義。
2 知能は意識から分離しつつある。
3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちのことを
知るようになるかもしれない。

 ◯「ホモ・デウス」エピローグ/
そろそろ、この論もある種の限界が見え始めたようだ。
最後に、この著者は言う。

 私たちには未来を本当に予測することはできない。
なぜなら、テクノロジーは決定論的ではないからだ。そして、現在の科学の教義が正しくないと
考える余地が残っている点だ。と言う。
 
 *生き物はただのアルゴリズムではない可能性、
生命はデータ処理だけではない可能性と、意識が知能よりも重要である可能性は今後も真剣に
研究・検討していく価値がある。

 *そして、更には冒頭に示した本書への根幹と根拠について彼自らが次なる疑問を読者に
差し出す。

1/ 生き物は本当にアルゴリズムに過ぎないのか?
そして、生命は本当にデータ処理に過ぎないのか?
2/ 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3/ 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりも
よく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?

 ◯おわりに、「私感的に、」;
 僕達、イエローであり、彼らたちとは異教徒である日本人にとっては少なからず、以下の疑問は
持つべきである。
 「現在の科学の教義が正しくないと考える余地が残っている点。そして、生き物はただの
アルゴリズムではない、また、生命はデータ処理だけではない可能性そして、意識が知能よりも
重要である可能性などは今後も真剣に研究・検討していく価値があり、それによって初めて、
ただのテクノロジーの発達による近未来観ではなく、「近代」の延長でもない新たな「近代」は
決して、見えてこないだろう。
 そうしない限り、この「ホモ・デウス」におけるあるいは、僕が持ったこのような次なる時代
への人間に対する存在疑問、『人間とは?人間の役割とは?あるいは人間が持つべき新たな
価値観とは?』は悲劇的な妄想へ彷徨うしかない。
 ***
 この著作でも理解できるように彼らたちは幼い時から、家族からそして学校から刷り込まれた
「宗教観」のその強さは残念ながら現代日本人のメンタリティには皆無に等しい。
 僕たちの神道・仏教を含めた世界民族に於いては非常に稀な“宗教の多重構造”の宗教観も徳川
幕府の240年間で完全に幕府の政治力によって押さえ込まれ、それらはただの「ご利益宗教」と
化してしまった事。その後の明治政府による「廃仏毀釈」と「黒舟到来」後の「文明開化」政策
又、その後の大いなる勘違いが始まってのアジア圏への「帝国主義政策」と「敗戦」を迎えた
我が國家のこのヨオロッパにおける「近代」化と同じ時代の歴史は「仏教」どころか、寧ろ、
「外国崇拝」的なその流れを構築してしまった。
 例えば、敗戦後の僕たちの世代が刷り込まれた一つに「Give me Chuing-Gum!!」があり、
これが一つの根幹となって、その後の「大衆消費社会」構造を構築させられ現在に至ってきた。
 その為、「仏教哲学」の領域が西洋のそれらに比べるとほとんどと言って、この時代には“哲学
的進化“の痕跡がない。故に、日本人が元来持つべき、世界へ発言すべき「宗教心」を基盤とした
ロジックが現実的ではなく、情緒性と単なる個人の内なる妄想に収まってしまっていることも
現在では「イエローの弱体」あるいは、「外人コンプレックス」に繋がり、世界における
「日本思想」や「日本文化」とは未だに、変わらず「美意識」も含めて、ただの「異国趣味/
エキゾティズム」の領域でしかないのが海外においてのYellowに対する現実認識であろう。
**
 なぜ僕がこの「宗教心」にこだわるかといえば、彼のこの本を読んでも理解できるように、
彼らたちの「近代」創成の根幹は「宗教心」がその根幹であり、彼らたち白人至上主義者と
僕たちが持ち得た「差異」とは何かといえば、日本人として持ち得た「世界に類を見ない多重
構造としての宗教観」でしか無く、この差異は今後の新たな時代としての「近代」あるいは、
「シン・近代」を構築するには必須な哲学であり、日本人しか持ち得ていない根幹としての
「差異と力」であると信じているからである。
 即ち、現在の僕たちは既に、彼らたちと渡り合い、使えるオリジナルな“武器”を持って
いない。或いは、その数は非常に少ないのが現状である。例えば、「第3次産業革命」の主役で
あるPCも「0:1」が根幹の世界共通武器である。

 そこで僕が頼るのは一つは、やはり、このようなコンプレックスを刷り込まれてきた同胞世代
では無く、全く新しい世代としての、冒頭にもある世界で活動者し始めたポジティフな「14歳」
を軸とした次世代たち、「GENERATION-Z」世代たちである。彼らたち世代が持っている
「ポジティフな自信過剰」と今までになかった、「早熟さ」と「正義感」そして、「知りたい・
学びたい心」と言う素直さに託したいのです。
 この「GENERATION-Z」世代たちは既に、アメリカにおいては「新たな消費社会の上顧客」と
して多くがマーケティングがなされ始まった世代でもあるが、それらはまだ「アルゴリズム」
への情報は未完でありそれゆえ、彼ら世代の人口も含めて、“パワー/力”が行為を起こし、
“新たな差異”を生み出すであろうと言う想いが僕には強いからです。
 もう一つは、やはり世界で通用する日本人の「差異と力」を考えると現在では日本発の“オタク
文化”が生み出した「マンガ/アニメ」の世界でしょう。この日本初の世界は既に、全世界における
一つの新しい「共通感覚/コモンセンス」であり、「共通言語」と言うボキャブラリィーになって
しまっているからです。
 この世界が生み出せる「差異と力」が今後の新たな「近代」の、「シン・近代」を構築出来
得る世界観と可能性を持ち得ていると認識し、世界でも通用する「差異」を持っていると考えて
いるからであり、それらが今後の「近代」への大きな「力」であり、一つの例えば、「削岩機」
かも知れないとも考えます。ここには「妄想勝ち」と言うヴァーチュアルな世界観も含めた
“彼方“が読めるからでしょうか?
 そして、僕はもう一つ「希望の星」を付け加えるのが若き三十一歳の哲学者、「斎藤幸平氏」
である。彼のドイツ・フンボルト大学の論文でもあり、処女作『大洪水の前に、ーマルクスと
惑星の物質代謝』の思想が今後の「民主主義」を政治的、経済的な立場で論じられ、新しい
「近代」のための「新たな民主主義」を模索し始めたミレニアム世代人であるからです。
 彼、斉藤幸平氏は、既に、あのマルクスが「物質代謝」という生理学概念で”エコロジー“を
論じていたとう根幹を視点として書かれたのがこの本であり、本書の”はじめに“を少し長いが
引用させていただこう。
 「マルクスの経済学批判の真の狙いは、エコロジーという視点を入れることなしでは、正しく
理解する事ができない。」と言うテーゼを投げかけた。
 そして、資本主義における惑星の普遍的物質代謝の亀裂を批判し、持続可能な未来社会ー
「エコ社会主義」ーーを構想するための方法論的基礎を与えてくれるものなのである。」
(参照/『大洪水の前に、』”はじめに“より、)
 そして、「最終的には、資本は自然的世界の諸制約から自由になることはできないのであり、
その矛盾がー経済危機ではなくー環境危機として現れてくる。」と言う現在点を見事に指摘して
いる眼差しがここにはある。
 マルクスの有名な警告が今再び、現実味を帯びる様になてきた現代社会ゆえのタイミングと
指摘である、『大洪水よ、我が亡き後に来れ!これが、すべての資本家、すべての資本家種族の
スローガンである。』
 「大洪水よ、我が亡き後に来れ!」と言う態度は、グローバルな環境危機の時代において、
ますます支配的になりつつある。将来のことなど気にかけずに浪費を続ける資本主義社会に
生きる我々は大洪水がやってくることを知りながらも、一向に自らの態度を改める気配がない。
とりわけ、1%の富裕層は自分たちだけは生き残るための対策に向けて資金を蓄えているし、
技術開発にも余裕がない。だが、これは単なる個人のモラルに還元出来る問題ではなく、
むしろ、社会構造的問題である。それゆえ、世界規模の物質代謝の亀裂を修復しようとする
なら、その試みは資本の価値増殖の倫理と抵触せずにはない。今や、「大洪水」と言う破局が
すべてを変えてしまうのを防ごうとするあらゆる取り組が資本主義との対峙なしに現実できない
ことは明らかである。つまり、大洪水がやってくる前に「私たちはすべてを変えなくてはならな
い。」だからこそ、資本主義批判と環境批判を融合し、持続可能なポストキャピタリズムを構想
したマルクスは不可決な理論的参照軸として二十一世紀に復権しようとしているのだ。」
(参照/『大洪水の前に、』”はじめに“より、斉藤幸平著/堀の内出版‘19年4月刊。)

 これらは僕の35年以上にわたるモードを通じた海外諸國とその國の人たちとの関わりの経験値
から投げかけられる、新たな近代構築へ参画すべき日本人が持っている「差異と力」であると
信じています。
 だが、モードの世界では未だに白人至上主義者たちが構築した「ラグジュアリィーブランド」
へのもろもろなるコンプレックスを拠りどころに自分たちだけが生きのびられると思い込む世界
で”虚飾“を商材とし商って、”虚飾“なゴシップに戯れている世界でしかありませんね。
 今回の、僕が危惧する『大洪水前の、』新たな「近代」へのパラダイムを考えるための私論 
「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」を試読し、
辿り着いた「根幹と視点」です。
合掌。
まとめ・文責/平川武治:

※参考/「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/;ユヴァル・ノア・ハラリ著
(株)河出書房新社刊/ 2018年発行:
※ 参考/『大洪水の前に、ーマルクスと惑星の物質代謝』/斎藤幸平著/堀の内出版‘19年4月刊。

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2020年1月 9日

[Homo Deus]私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。

[ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。
第一部/
初稿/令和元年8月:

◯はじめに ;
 僕は一昨年の後半から昨年の1年間はほぼ、この「近代」という時代のパラダイムがほころび
始めてきた事。そして、次なるどのような新たな「近代」を構築すれば良いのか?
構築しなければならないのか?を僕の立ち居場所である、モードの世界から知り、感じられる
新しいいろいろな”時代の表層”のそれぞれのピースからジグソーパズルを組み立ててきました。

 そこで、今年の僕の新年のメッセージが生まれました。
 『もう、皆さんも気がついていらっしゃるでしょう、白人至上主義によって構築された
「近代」のパラダイムはこの200年ほどでほとんど綻びが出始めてきた現実を。
 この白人たちの諸都合のために構築された「近代」のパラダイムの根本原理は「植民地政策
主義」から始まった「自由主義+個人主義」者たちの「二者択一」が主構造。
この構造は彼らたちの人間の強欲という現実と宗教感覚からの根幹でしかありません。
 だが、数年来、この現実の諸状況はほとんど「文明論」的危機ですね。
昨今の世界規模での「気候危機」「環境汚染」「民主主義や資本主義の限界」「富の格差と階級
問題」そして、「Gendar」や「人口問題」などなどがこの綻びの現実でしょう。
 これらの諸現実についてもう、14歳の世代たちが声をあげ、デモに参加し始めている“日常”に
今年はもう少し、“当事者”になりませんか?』

 さて、モードの世界では、「サスティナブル」や「エシカル」という言葉がこの世界特有の
トレンド的ボキャブラリィーとして時代の表層の「壁紙」となり一つの新たな世界を生み出そう
としています。しかし、ここにも実際には大きな落とし穴があります。と言うより、彼らたち、
白人至上主義者たちの立ち居場所とそこから生まれる「利権」を死守拡大する方法論としての
「サスティナブル」が本意なのです。単純に言って仕舞えば、「金持ちだから言える、金持ちの
罪滅ぼし的発想」と自分たちの領域を死守するための「詭弁」をこの「近代」の綻びの穴を埋め
る彼ら独特の発想と手法でもあるのです。ここでは、「近代」におけるモードの世界はやはり、
当時の富裕層である“ブルジョワ”階級者のものとして誕生した事を忘れてはならないでしょう。
 「サスティナブル」や「エシカル」ファッションとは基本的には「天然素材と天然染料」と
言う根幹によって成立される世界です。資金力のあるブランドより、その価格帯は高価にそして、
生産量も限定出来る現実があります。と言うことはこの「サスティナブル」や「エシカル」と言う
時代の壁紙で新たなフレームによって区切りを作ることで自分たちの立ち居場所としての
「ラグジュアリィー」が守られなおかつ、時代の尖端の「壁紙」でブランドとモノが作れる。
すなわち、「ラグジュアリィー」は「ラグジュアリィー」として守られるべきであると言う彼ら
特有の傲慢な視点がこのブームには見え隠れしています。
 例えば、少し前に起こった「カシミアブーム」で誰が得をし、どのようなファッション・
ビジネスの構造になったか?を調べれば理解できるでしょう。カシミアの原糸生産の利権を持つ
団体とその周辺の関連企業が儲け、ファッション産業の構造は新たに「ファストファッション」
構造がグローバリズムという「新・植民地政策主義」の元で誕生したと言う事実が興りました。
 このファッションにおける「サスティナブル」「シニカル」については後日、もう少し詳しく
まとめてみましょう。

 今回は前回再開した僕の講和会「MODE-YOSE」で話をした、「近代」が綻びてきた事を感じ
始めると、この「近代」と言うパラダイムの次なる時代とは、どんな時代を予感し、妄想し、
そして、希望するのか、可能性があるのかを、「サピエンス全史」を描いた同じ著者の近刊書、
をテキストに、僕なりの「ポスト・近代」あるいは、「シン・近代」を深読み
してみました。
 僕の視点と根幹は、今後数十年で、我々の生活領域にA.I.が、かつての自動車や携帯の進化と
同様に「一家に1体」から「1人に1体」と言う「A.I.のパーソナルユース化」と言う現実が誕生
した時、「人間の役割」や「存在意義」や「存在価値とは?」又、「人間が生きる価値観とは」
などと言う最も人間として、基本的かつ重要な今後の存続に対しての疑問からです。
 来る、「アルゴリズム」が全てを解決する時代性においての「人間主義とは?」と言う疑問を
持ったが故にこの本に興味を持ったのです。 

 そこで、このと言う本の“私的読書感”をまとめてみます。
※出典本/ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/ユヴァル・ノア・ハラリ著。
2018年発行:河出書房新社刊:

 *「近代」は”取り決め“で成立している。
 その取り決めとはいたって、単純で、「人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する」
=人間が持っているはずの「差異と力」、このシステムが崩壊した時が終焉を迎える。
 その現代の“取り決め”は「欲望」と「誘惑」から生まれる。(pー6)

 *現代の“力”の追求は、「科学の進歩と経済成長の関係性」を原動力としている。
進歩する科学技術を「信頼」し始めると、“将来”を信じる様になり、その結果が、「信頼・
信用」を生み、「信用経済」へと進化した。(クレジット経済)

 *「経済成長」が不可欠であると言う「近代」は、
・生産が増えれば、より、多くを消費して生活水準が上げられ、そのおかげで幸せな生活が
楽しめる。
・人口が増え続ける限り、現状維持のためにも経済成長が必然。
・貧しい人たちへ分け与えられる為にも経済成長が必要である。
「経済成長」は良いこと全ての源泉とされている資本主義では、人々の倫理的な意見の相違を
忘れ全て、長期的成長を最大化することが奨励された世界である。=「成長の限界」とは???
「経済成長」は家族の絆よりも大切か?お金があれば、高齢者介護も十分にできると言うまでの
倫理的判断を下し、宗教的領域へと。(pー17~)

 *「経済は本当に永遠に継続できるのか?」
その為には、「新しい土地を探検し征服」して資源の無尽蔵を求めた。(=植民地主義時代)
世界の「資源」とは「原材料」と「エネルギィ」と「知識」の3種類の「資源」が在る。
「原材料」と「エネルギィ」はそれらの量に限界があり、使えば使うほどに少なくなる。
しかし、「知識」は増え続ける「資源」であり、使うほどにより、多くなる。そして、「知識」
が増えると、より、多くの「原材料とエネルギィ」も手に入る。
 「近代」初期の偉大なる発見は「無知」の発見であった。
「知識」としての科学はより、多くの「資源とエネルギィ」を使って、内外機関からP.C. を生み
出し、前代未聞の産業を誕生させ、より、大きなテクノロジーやA.I.をも生み出し自信を持って、
「近未来」を予測可能にした。

 *「資源の欠乏」と言う恐怖。すなわち、「生態系環境の崩壊」ある。
「進歩と成長」のペースを落とし、「成長の限界」を読み込む。究極は、「ヴァーチャル世界」
と「ハイテク・ランド」を建設し、ここに、人生の素晴らしさをもたらす全てを供給してもらう
こと。これが、考えられる未来像。
我々は、「経済と成長」の進化加速化と、「生態系破錠」を防ぐための知識と行為という対峙
するシステムの中での生存競争を生きてゆく。

 *我々人間がシステム化した「取り決め」によって、緊張と混沌を生み出しているが、
この「緊張と混沌」によって、人間が個人としても集団にせよ、このレースは中断出来ない。

 *もっと欲しがる様に人間を説得するのはさほど、難しくなかった。
「貧欲」は成長を促す善であり、「集団」に確信させた。結果、「近代」はより、多くのものを
欲しがり、望むことを奨励したシステム、「自由市場資本主義」と言うイデオロギーであった。
ここでは、人間に何が起こっているか、どこへ向かっているかを誰も理解しないまま急速な
「進歩と発展」「貧欲と混沌」のシステムである。
 欲望を抑えることはより、困難を伴う。「価値観と常識」をさわらなれけばならないからだ。

 *「人間至上主義」と言う名の宗教。(P-34~)
それまでの、「神至上主義」に変わって「産業革命」以後の人間が手に入れたのが、
「人間至上主義」である。
 「善と悪」「正と誤」「美と醜」など、人間が決めるものではないと言う「近世」までの定義
と考えの根幹は全て、「神と宗教」の領域であった。そして、人間は「無知で堕落」しやすい儚い
官能的な快楽と現生の妄想に囚われた生き物だとも見なされていた。この考えによって、「神」
は意味だけでなく、権威の至高の根元にもなり、「意味と権威」の関係性が生まれた。
「自分に耳を傾け、自分に忠実であり、自分を信頼し、自分の心に従い、心地よい事をせよ。」
と言う人間の「自由意志」こそが最高の権威であると言う「人間至上主義」の誕生が「近代」
そのものであった。
 それまで、神が取り決め、審判していた「芸術的創造と美的価値」の唯一の源泉は
「人間の感情」が根幹である時代になった。「美は見る人の眼の中にある。」
 教育においても、「意味と権威」の至高の源泉は自分の中に存在するゆえ、
「先ず、自分で考えなさい。」となった。
 「意味と権威」の根幹が、天から人間の感情へ移行したことによって、世界全体の性質も変化
した。神の存在を信じないことは容易くなった。人間が完全な無神論者であっても、
「政治的価値観」と「道徳的価値観」と「美的価値観」の実に豊かな組み合わせを自分の内なる
経験から引き出せる。「権威」に到達し、真の知識を獲得する新たな方法も明確にした。

 *中世では、「知識=聖書x論理」であったが、
科学の進歩によって、「知識=観察に基ずくデーターx数式」に変換された。
が、「価値や意味」や「倫理」に関しての疑問は処理できない。

 *人間たちが自分に自信を持ち始めると、倫理にまつわる新たな公式が登場する。
「知識=経験X感性」がそれである。経験を積み重ね、その経験を正しく理解できる様に自分の
感性を磨くことで「知識」を探し求めることができる。ここには‘60年代後半からの“ヒッピー・
コミューン”から誕生した「大衆文化」の根幹も見られる。

 *「経験」とは、「感覚と情動と思考」から成る。
暑い、心地よいと言う感じることと愛や怒り恐れという情と、頭に浮かぶ考え、思考から成り
立つ。
 
 *「感性」とは、次なる二つである。
自分の感覚と情動と思考に注意と好奇心を持つこと。そして、それらの感覚と情動と思考が自分
に影響を与える事を許すこと。
 
 *「経験と感性」は常に果てし無い高揚をたどりながら互いに高め合ってゆく。
「感性」がなければ、何も「経験」できないし、様々な「経験」をしない限り、「感性」を
引き延ばすことが出来ない。「感性」は抽象的な能力ではなく、実際に応用することでのみ、
進化し成熟する実用的技能である。必要な「感性」なしでは、物事をそれなりに「経験」出来な
い。そして、「経験」を積み重ねていない限り、「感性」を育むことはできない。

 *「人間至上主義」は経験を通じて無知から啓蒙へと続く、
内なる変化の挺身的な過程として人生をとらえる。出来る限り、幅広い経験を叡智として、
結晶させることである。
 
 *「人間至上主義」は、「人生は経験の連続である。」という視点で
観光から芸術まで、実に多くの産業と今後の消費社会の基盤をなす神話となる。ここでは、
ここでしか経験が出来ない斬新な「経験」を売っているのだ。ここでの「経験」のベクトルは
「外面から内面へ」という焦点が絞り込まれている。
 
 *「人間至上主義」は経験の解釈の仕方がそれぞれ異なることによって、
三つの流れを始める。
・「自由主義的なる人間至上主義」/一連の経験を持つ唯一無二なる個人の自由意志に委ねる。
したがって、個人が享受する自由が大きいほど、自由を重視し、世界は美しく、豊かで有意義に
なるという視点。この「自由主義者」たちは、集団的アイデンティティや部族感情と融合して
近代以降の国家主義を形成し、人間の経験の多くが「共有」されるべきものであるとした。
 この「自由主義者」は一人一人の独自性を強調し、人の視線を自分の中へと向ける。
自由主義者たちは、人々に自分を孤立した個人と見せるように促し、同じ階級の成員から彼らを
切り離し、不平等を永続させ、一般大衆とエリート層を疎外へと追いやる。
 「自由は資産である。」20世紀の戦後は、「抗生物質、原子力エネルギィー、P.C.さらには
フェミニズムや脱植民地それに、フリーセックスを与えてくれ、21世紀へ生き残った。
 現時点でも、「個人主義と民主主義と自由市場」という自由主義のパッケージに変わるものは
まだ登場していない。
・「社会主義的なる、人間至上主義」は他者がどのように感じているかや自分の行動が他者の
経験にどの様に影響するかに注意を向ける。他者の欲求や経験を自分の欲望よりも優先させる
ことで成就するという視点。
・「進化論的な人間至上主義」
・「人間至上主義」=「白人至上主義」→自由主義的⇨資本主義
                  →社会主義的⇨共産主義
                  →進化論的⇨独裁主義

 *テクノロジーは宗教に頼っている。
この「宗教とテクノロジーの関係性とは?ここにも「白人至上主義」の根幹が見え隠れする。
 人は全く同じ道具、(0:1)を使って、ファッシズムや共産主義や自由主義も生み出せるが
宗教的な信念がなければどっちへ舵を取ればいいか?解らない。
 新しいテクノロジーは古い宗教を殺す。

 *AIがほとんどの認知的課題で人間を凌ぐようになったら、求人市場はどうなるのだろう?
経済的に無用の人々の新しい巨大な階級はどんな政治的影響を及ぼすのか?
 ナノテクノロジーと再生医療が今の80歳を50歳相当の年齢に変えたとき、人間関係や家族や
年金基金はどうなるのか?
 バイオテクノロジーのおかげで親の望む特性を持つデザイナーベイビーを誕生させ、豊かな
人々と貧しい人々の間に前例のないほどの格差を生み出せるようになったら、人間社会に何が
起こるのか?

 *産業革命の先頭に立っていた一握りの技術者や政治家や資本家たちによって、
すでに決められていた、蒸気機関と鉄道と電信は、食糧や織物、乗り物、武器の生産を一変
させ、強大な工業国は伝統的な農業社会よりも圧倒的優位に立った。

 *二一世紀のテクノロジー、それもとくにバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある。
 これらの力は蒸気や電信の力とは比べ物にならないほど強大で、食糧や織物、乗り物、武器の
生産にだけ使われるわけではない。
 二一世紀の主要な製品は、体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人の
間の格差は、ディケンズのイギリスとマフディーのスーダンの間の隔たりよりも大幅に拡がる。
それどころか、サピエンスとネアンデルタールの間の隔たりさえ凌ぐだろう。
 二一世紀には、進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、のちに取り
残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ。

 *遺伝子工学とAIが潜在能力を余すところなく発揮した日には、
自由主義と民主主義と自由市場は、燧石のナイフやカセットテープ、イスラム教、共産主義と同じ
くらい時代後れになるかもしれない。
 二一世紀には人間は不死と至福の神性を獲得しようとするだろうと予測することから始まった
この予測はとりわけ独創的でもなければ、先見の明のあるものでもない。それはただ、自由主義
的な人間至上主義の伝統的な理想を反映しているにすぎない。人間至上主義は人間の命と情動と
欲望を長らく神聖視してきたので、人間至上主義の文明が人間の寿命と至福と力を最大化しよう
としたところで、驚くまでもない。

 ※出典本/ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/
ユヴァル・ノア・ハラリ著/ 2018年発行:河出書房新社刊:
文責/ 平川武治:

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2020年1月 7日

令和元年9月/昨年再開した、「MODE-YOSE」で話したこと。

 MODE-YOSE /#1で話した事。開催/ 令和元年9月01・03日:

 はじめに)「この再開する会のミッションとは?」/
 モード関係者が三人集まると必ず話に出てくる事、「もう全くモードの世界も変わったね。」
があります。
 モードの世界は変わって当たり前なのです。モードに関わる社会環境が変革し、時代が変わる
その兆しにモードは変わらず、敏感に触れているからです。変わらない或いは、変われない側の
世界例えば、TOKYOが“ズレ”てしまったのです。このズレを認められない、小さな世界で満足
しているレベルが、「トキオ・レベル」ですね。
 そんな東京では、ファッションデザイナーになりたい輩たちの根幹のミッションのその殆どが
以下のどれかに絞られる変わらぬレベルだから「変われ」なく現在に至っているからでしょう。
「自己満足+有名人に+カッコよく儲けたい+女にモテたい。そして、最近では外人の友だち」
と言うことは、気がつくとこれらは昔、ヤンキー今、マイルド・ヤンキーたちの「究極の
ミッション」と変わらず共通しますね。
 そして、ファッション・メディアとは、今や 評論するべき創造者もなく、唯、モードを知った
かぶりする輩たちを耳年増にするレベルが多い「レポーター」集団でしょう。
 作る側も、かつて“アーチスト”振っていた輩たちも今では自らの足元が危うくなってきた為、
慌てて、見よう見真似で“売れる”服作りに勤しんでいる世界。その大半は、今まで「デザイン」
と言う世界を小馬鹿にしていた「外国人コンプレックス」だけを身に付け学んで帰国した海外
留学生と称される輩たち。彼らたちはOEMというビジネスシステムを使って、“売れるもの”への
様変わりもいち早く、逃げ足だけが早い連中に成り下がってしまいましたね。
 では、この東京には本当に未だ、「ファッションを愛してる」「服を愛している」人たちが
いるのだろうか? そんな人たちは見ないでいい事がリアリティとしてより見えてくると、
たくさんのことで悩んでしまう。
 この会の再開によって、『「服を愛している人たち」と「本当に服が好きな人」たちと出会い
たい。そして、語り交わしたい。』それによって、『これからのモードに対する眼差しが新たな
時代とともに、潔く耀いて欲しい。』という一念がこの会、再開の僕のミッションです。

 1)ひらかわが見る、モードの現在点。/
→二つの中間領域の誕生。「黒人というニューカマーとジェンダーというニューゾーン」
新しい時代性を顕著に表している、時代を背負い込んだ「新たな消費者たち」。
→ 「モード」が始まった時代、モードの根幹とは、「ラグジュアリィー」でしかなかった。
1920年代に入り、新たなブルジョワジーと言う社会階級が登場したヨオロッパで誕生したのが、
そもそもの「モードの生まれと育ち」である。この根幹を経験値としてあるいは、教養として
理解しているあるいは、教育として刷り込まれたモード人はどれだけ存在するのか?
→「モードはいつも時代の兆しを先読みしている。」
それぞれの「中間領域」の誕生によって、「近代」という時代の終焉を感じ取り始めた。

 2)最近読んだ本;「ホモ・ゼウス」が示唆する近未来,”HOMO ZEUS”とは?
(別紙/読後まとめ参照。)
→20〜30年後の「人間の価値や役割、存在意義」とはを考える為に参考にすべき本である。
「近代」は「第1次産業革命」と「人間至上主義」によって19世紀末ごろに登場した。
それまでの「近世」に至るまでの人間は「神の民」であり、「神至上主義」の世界であった。
神と人間を繋げていたのがキリスト教、イスラム教そして、ユダヤ教という“一神教宗教”であり
現在もそうである。
 「神至上主義」から「人間至上主義」への変革とは、取りも直さず、「白人至上主義」である。
この「白人至上主義者」たちが「個人」を拠り所に、「自由主義」+「社会主義」+「進化論
主義」たちを誕生させた。そして、これらがそれぞれの集団として「国家」が誕生し、現在では
このそれぞれの「集団」が、「資本主義国家、社会主義国家そして独裁主義国家」を誕生させ、
「個人主義」をも誕生させ、現在では「超・個人主義」にまで至っている。

 ◯この白人至上主義者たちが構築した「近代」というパラダイムとは?/
 *「近代」は”取り決め/契約“社会で成立している。
「神」との取り決めから解かれた人間は、次なるは「人間」との取り決めが必要になる。
その取り決めとはいたって、単純で、「人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する。」
即ち、人間が持っているはずの「差異と力」。このシステムが崩壊した時、「近代」は終焉を
迎える。現代の“取り決め”の多くは「欲望」と「誘惑」から生まれる。
 *「近代」という「人間至上主義」よって与えられた人間の価値あるいは、役割とは?
「政治+戦争+経済そして、人権」だった。しかし、この「人間至上主義」は人間の存在価値と
その役割が認められる事によって、相互間で存在価値が生まれた。
 *今後、科学テクノロジーとP.C.バーチャル世界がより、進化し「A.I.」が「自動車」と同様な
進化発展を社会と生活空間へ齎すであろう。
 *根幹がそうなった時、「人間の価値や役割、存在意義とは?」あるいは「人間は何をして
生きてゆくか?」という終焉的なる問い。

 この著者、イスラエルの歴史学者、ユヴァル・N・ハラリは、ユダヤ人であることで可能な膨大
な歴史資料とテクノロジーの進化情報をかき集めた結果、「アルゴリズム・コンプレックス」に
陥り、「データー教」までを仮想しているやはり、「傍観者」である。
彼がこの本の“根幹”にしたのが、
1/生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理でありという教義。
2/知能は意識から分離しつつある。
3/意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちのことを私たち
以上に知るようになるかもしれないという妄想。
と言うある種、歴史学者特有の「傍観者」的視点の近未来観が述べられている本である。
 が、歴史としての人類が産んだ「近代」という時代を知り、その次なる時代を考えるには読み
込むべき必読の1冊であろう。

 3)足元としての、「デザインとは?」「デザインする事とは?」を考える。
→これを基準とした日本のデザイナーのレベルと評価。
 「デザインとは?」の根幹は“装飾化”することだけではない。日本では、これが中途半端な
アート指向へ走らせる。この恐ろしさの要因は、教育者たちが「デザイン」と「アート」の世界
の差異をロジックにも熟知していなく、従って、教育出来ない現状結果がある。
 「デザインする事とは?」それぞれの「時代の進化」と「生活者の進化」にチューニングされ
た「モノの進化」を促す行為がデザイン・カテゴリィーの根幹である。この好事例は’30年代の
アメリカから発してドイツ、日本にまで及んだポリテカルな「流線型ムーブメント」がある。
 
 ◯わかりやすい視点で「デザイン度」を考える。
a)パクる。コピーする。
 *いわゆる「猿まね」のレベルの世界。
b)少し、さわる。何かをプラスするか、あるいは引き算をする。
 *装飾化レベルのデザイン。
c)素材を変える。後加工を加える。
 *いわゆる、「グッド・デザイン」
e)モノの「進化」を考える。
 *新しい生活様式のための、新しいモノとしてのデザイン。

 4)「デザイナー」と「ファッション・ディレクター」の違いとは。/
グローヴァル化以後に顕著になった、デザイナーよりもディレクター思考の重要性とは?
→「ファッション・ディレクター」の登場とは?
→或いは、「ファッション・ブローカー」の登場。

 ◯「ファッション・ディレクター」が教養としても知っておかなければならない幾つか。
 *因みに、「モードとファッションの差異」とは?
「『モード』とは自我の衣掌化、『ファッション』とは自我の流行化。」
ともに、『自由主義者たちの自己の存在レベルによる自己アイデンティティのため。』
*では、「時代が変わる」とは?
生活における「豊かさ」が人間の営みに依って変化する事である。
*そして、これからの次世代たちが持ち得る「豊かさ」に対する眼差しとは、
「簡素な生活と虚飾な生活のいずれかを選ぶ“贅沢”が許されていると言う文化。」
*このような時代性では、「ブランドとは?」はその送り手の「文化度と贅沢度」がどの様に
独自にバランス良くシステムが構築されているか?でしかないでしょう。
 これをデレクションする役割が「ファッションディレクター」と言うデザイナーに代わった
この世界での職域です。ここでも「デザイン」と「芸術」の差異が歴然と理解できるでしょう。
 ディレクターが登場した事によって、彼らたちは”只の作り手“より、ビジネスマインドという
視点もより、必然になってきた現実世界です。
 
 ◯そして、これらが冒頭の「モードの世界が変わってしまった」という現実の根幹の一つで
しょう。

 終わりに、/
 以上のような内容項目で再開されたのが、前回の「MODE-YOSE」−1でした。
ご多忙の最中、参加くださった皆様、ありがとうございました。
合掌。
文責/平川武治:

 ◯参加者の皆様に見ていただいた一つの作品/
 CdG/19/20-AW COLLECTION:品番/GDJ504 051+ GDJ504 051/
素材;シリコン・ラバー
‘19年3月02日:Paris F.W.発表。
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