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2013年2月28日

UNDER COVER PARIS COLLECTION, IT WAS A GREAT SURPRISE!!

 コレクション前には小雪が散らつく朝を迎える事が多かった先週も
やっと平常の巴里の寒さになった。

 UNDER COVERが巴里へ帰って来た。
この街でやるために、この街の観衆へ観てもらうために帰って来たUNDER COVEは
“GREAT SURPRISE!!"なコレクションを見せてくれた。

 この会場もGOOD SELECTIONの会場であった。
以前、CdGがその切っ掛けを作り以後も数少ないコレクションしか行われてこなかった
閉鎖的なソルボンヌのボールルームが今回のU.C.の会場。
200人も入ればという躾と知性で構築された会場、
今回のU.C.のコレクション世界の雰囲気を作るにもこのボールルームの雰囲気は
最適であり賢明な選定であった。

 最近のメゾンはいろいろな場所でコレクションをやるのが当たり前になっているが、
案外、コレクションのコンセプトやアトモスフェールを空間化するために
選んでいる事は少ない。
 あの、CdGでさえ、最近の会場の選定とコレクションとは
以前ほどの強い関係性を感じさす迄のものではなくなって来て、
それなりの理由があるとは思えない会場選びである。
多分、現在の多くのメゾンの会場選びとは、
ただ演出的に使い易い又は、多数が入るという理由からの会場選定であろう。
以前よりはコレクションに賭けるイメージング経費も節約が
当たり前の時代性なのであろう。
’80年代後期からのCdGやM.M.M.のコレクション会場の選定とそれに賭けた神経の凄さ、
実際の会場へ委ねる時の興奮がパリコレの凄さの一つでもあったはずだし、
その後に続いたアントワープ系たちがこの手法をも真似る事で
当時、一世風靡した事もあった。

 今夜のU.C.のコレクションにはこの様な嘗ての時代の巧さと暖かみが在った。
このデザイナーと演出家の良いチームワークの元で丁寧に神経を使って
コレクションが必要とする雰囲気を巧く環境によって演出したと云えるだろう。
当然、このメゾンのもう一つの凄さである音楽の素晴らしい事も申し分ない役割を
担っていた。という事で、この久し振りの巴里でのU.C.コレクションは
日本人が特徴とする、細かい神経使いとチームワークの良さと音楽センスの良さを
十二分に使っての結果の“GREAT SURPRISE!!"だった。

 巴里のデザイナー、JEAN COLLONAのコレクション後の感想が“VERY SURPRISE!!"
友人のVESTOJという良いモード誌の編集長のANJAも“心地よいコレクション”と。
音楽も好きだと言っていた。/ www.vestoj.com

 僕が付けたタイトルは”CHILDHOOD"&”SEXY"。
僕の好きな世界だから余計に、好きなコレクションだった。
この“世界観”へ挑戦したジョニオ君に乾杯である。
”CHILDHOOD"&”SEXY"、この儚い微妙なる差異を彼は今回のコレクションテーマにした。
決して、これ迄彼が関わらなかった世界観を創造し、自分自身をも昇華させた。
シルエットで見せるバーニィー。そして、それがレインウエアーなのであろうか?
子供が雨の中をこれを着ると飛び跳ねたくなるような眼が、見る眼と観られる眼が
いっぱい附いた早熟なレインウエアーから始まったこの世界。
それらと交差する”フェッティッシュなボンテージの世界”、被り物とマスクも良い。
ここにもチームワークの良さが見事な世界を生み出した。
後半の猫に変わり、ゴールディーなマスクとネックレスで最高潮の世界まで。

 今シーズンのコレクションは先シーズンの自らのコレクションを反芻いし、
良くお勉強し刷り込んで出来上がったものである。
ここにも彼の素晴らしさ、忍耐力が生まれた。
先シーズンがなければ、今シーズンのこの世界が生まれなかった。

 案外、ファッションデザイナーぶる連中のコレクションほど、
自分の先シーズンのコレクションを自分から進んでお勉強するデザイナーは少ない。
むしろ、殆どがしない。
その理由は、そのレベルのデザイナーたちは俗な“トレンド”が総てであり、
その為にコレクションを作っているのがデザイナーだと思い込んでいるからだ。

 剥ぎ取られたトレンチやボンパーの後ろ見頃がニット、シャツの胸元は心臓が
プリントされ後ろがシースルー、アンビギューティなバランスと
それらに使われた素材、ラバー、レザー、レース、ニット等の本物観を
子どもごころで遊び、ブリ-コラージュして行く。
日本のプリント技術の進化した愉しみも使いこなし、
時にはパンキッシュにさえ、
圧巻は、剥ぎ取られたシャツカラーを、引き裂かれたコルセットを、
有機系形態の詰め物たち、それらもCHILDHOODな遊びこゝろで切り刻み剥ぎ取り
自らのアーカイブを幾重にもブリコラージュし、
着る女たちをより、自由な身体へフェッティシュにボンテージする。

 現代の若者たちが持ち得た自由が選択した不自由さがこの根幹には存在する。
“縛る”“縛られる”事への願望と不自由という安心に恋いこがれる同一性。
何も知らない時の自由と知りすぎてからの自由の差異とは?
きっと、今のジョニオ君の新たな出発がここに所在するのであろう。
彼の”こゝろの有り様”がここ迄熟し始めた。
文責/平川武治:巴里ソルボンヌでのUNDER COVERのコレクションを観て、’13/02/27:

投稿者 editor : 07:25 | コメント (0)

2013年2月24日

東博に於ける飛騨の円空展を見る。

 飛騨の円空展を見る/平成二十五年2月十日。

 円空の作品をこのように一度にたくさん見ることは初めてであり、嬉しい、
心地よい興奮と好奇心が軀中をめぐる良い機会であった。

 
 規模と会場は思ったより小さいかった。
列ぶ事なく、入場制限無く見ることが出来る規模だったので幸い。

 僕が感じ今迄、彼の作品が好きであった理由がはっきりと確認出来る。
その結論は、”神/仏+信仰心+民衆+自然+気+木目/節目=円空仏”という
実に解り易い、明解、明晰なるこゝろの有り様からの覚悟で生涯5000体以上を
作り上げたエネルギィーと結心に観る者への激情や情感を含むエモーションを
与える強さが在るという事だ。

 ここには、彼、円空の世界には、“媚びる”という概念が存在しなかった。
彼の生そのものが彼にとっては“媚びること”であるという迄の覚悟を持っての生まれから、
その後の人生が始まった人であるから、作品で”媚びる”という世界で仏像を造っていない。
媚びる事によって要らぬ装飾が必要になる。
媚びるためにそれなりの様式を重んじなければならない。
媚びるためにそれなりの大きさが必要になる。
これらを総て排除したところに彼の世界観がその中心軸に神仏観が大きな幹として
直立していた。
だから、木片でいい。廃材でいい。老木でいい。枯れ木でもいい。
円空のこゝろの有り様は総て彼の作った神仏像の”眼”の表情に現れている。
これだけ充分である事も彼は見ぬいていた。
一宿一飯と見窄らしい衣。
この様な姿であっても、このような彼の世界観がこの後世迄残せ、
観る多くの日本人にその時代時代による安心を与え、感激が与えられる。
ここには安っぽい西洋美学は入り込めない。
アフリカのシャーマンが造った木像や面など、
世界各地に残っているシャーマニズムが持ってしまった
ピュアーな神への畏敬なこゝろの有り様だけが入り込める相手である。
白人社会では11世紀迄のロマネスクにしか太刀打ち出来るモノは
余程のモノでない限りないであろう。
 彼、円空の世界には“プロパガンダ”という下こゝろがない。

 自分のためでは無い。自分の存在を、育ちを神仏心を持って"GIFT"として
どれだけの他者たちへ、彼の場合はそれが民衆へ何か出来る事が在る。
という迄のこれは覚悟を決めてしまった者だけが持ち得る自信であろう、
これを見せびらかすのではなく、実に、淡々と自分が出来る事を
神仏こゝろ100%以上に込めて為せる事を即ち、“GIFT"を残して行っただけであろう。
 
 白山信仰をその根幹として始められた彼の神仏への畏敬のこゝろの有り様が
為せた業でしかない。ここに、後世迄も観る者にその持ち得たこゝろの有り様を
重ねあわせる事で得られる安心が未だ生きているのであるから凄い。
多分、観る者に神仏こゝろが在れば在るほどにその尊さに自心を委ねたいであろう。
その多くの鑑賞者たちはどれほどの宗教こゝろが在って、重ね合わせて
観賞した事なのだろうか? 
でないと、その表層の形骸的な驚きだけで”良かった、物凄かった!!”という
例の、文化モノも消費される構造の中でしかの展観に過ぎないであろうし、
それだけの感嘆だけの展観であろう。

 彼のこの神仏を崇め拝む根幹であった”白山信仰”とは?
がまともに解説されていればもう少し彼のこゝろの有り様へちかずく事が
出来たであろうと、
この辺りの当時の日本人が持ち得ていた信仰こゝろの有り様が理解も出来、
より彼の作品の生まれでるまでの苦悩とその道程とそれを拝む民衆たちの
こゝろの在り方も感じられた事だろうと。
 
 若者は今回の展観を観て、“円空”の存在と彼の仕事と生き方に好奇心を持ったなら、
先ず、彼の全体像を知る事から謙虚に学んで欲しい。
本展観はタイトルの如く、”飛騨地方、千光寺を中心とした規模と範囲に限られた”
展観であるからだ。
 これは彼の世界観と彼が生きた証の僅か、100分の1ほどの規模と内容なのだ。
 
 興味を持たれた方が参考に読んで欲しいのは;
『歓喜する円空』/梅原猛著:新潮文庫刊

 幾つかの彼の足跡を訪ね、神仏こゝろと共に尋ね歩きたくなった展観でした。
ありがとうございました。
合掌。
相案相忘。
文責/平川武治:

投稿者 editor : 00:18 | コメント (0)

2013年2月21日

久し振りの巴里で交換した幾通かのメールより。

 太陽を 追ってちかずく 灯る巴里
 会の後、幾通かのメールを頂きました。
それぞれが、僕が学ばなければならない多くを示唆して下さっている内容でした。
変わらず、おこゝろ、ありがとうございました。
 *
 僕の未熟さを見抜いての、言葉足らずを救って下さった“瘤ドレスと中川先生”の関係性。
ここから始めましょう。
 僕の経験からの見解では当時のCdGを救ったとも云える“瘤ドレス”の件の本質は、
中川先生との出会いでした。
激しいまでの美しさを生むお人のこゝろの有り様とお軀の実態。
この所謂、超現実。
これに接した時に感じられた衝撃とその後の衝動。

『驚き』+『美しさ』はより、激しさを持った『感動』や『感激』であり、
そこにこそ美意識と想いを入れ込んで出来上がるものが”特意性”あるもの。
そして、初めて見る畏敬による”モノ”としての服。
人間の躯つきまでを変えるものとしての”服”がここに存在したのでしょう。
瘤という見掛けの形態とその内面の美しさが根幹だったのでしょう。
例えば、J.コクトーの”美女と野獣”ですね。

今までに”なかったあやういモノとそこに漂う美しさ”
ここまで考えられた川久保玲の”瘤ドレス”が生まれたのでしょう、きっと。

「表層のカッコ良さから目覚めた眼差し。」
とでも呼べるあやうい美しさなのでしょう。
が、その根幹は一瞬の眼差しの交差だった。

ある時期、嘗ての’90年代の半ばは、
例えば、もう既に古くなってしまったご存知のあの当時のアントワープ校でも
“表層のデザイン”、形骸的なる驚きを服化する事を
西洋人の美意識外への方向性へ委ねて、
そこに現在に生きる女性像を重ねあわせた”特殊性”として
教えてしまっていた。
あの頃は未だ、“イメージ”が先行していた時代でした。

結局は自心のこゝろの有り様を覚悟し、重ねあわせるのか?
自心のこゝろの有り様の差異を写し取るのか?
その時の眼差しの広がりと深さを何処までに?
ただ、表層を切り取る事は容易な時代になってしまった。
写真ででも、言葉ででも、モノででも。

『 頭はすぐに忘れます。
こゝろは感じます。
躯は覚えています。』ひらかわ/
この三位一体が今後のクリエーションの一つの根拠性へ?

では、これからの新しさとは何で時代の表層を切り取るべきなのか?
ここで僕は一昨年から“五感”を学び始めました。
身体における五感、
仏教における五感、
哲学における五感、
モノに現れた五感、
作品に使われる五感、
生活に必要な五感、
そして、”五感”とは、

視覚+聴覚+触覚+味覚+臭覚=五感。
結局はこのバランス在る”調和”とは?
時代を象徴出来るバランスとしての”調和”とは?
そのとき、服とはどのような佇まいとありようを見せるのだろうか?

僕が言って来た、現在という時代性は、”視覚+聴覚”がより、先攻、先鋭化してしまった
時代性というほか在りません。
これでは人間”という哺乳動物が、
この生命体が益々、異型化して行く進化は拒めません。
新たな時代への、新たな”五感のバランス化”という問題を定義しなければ、
四足歩行から二足歩行へ進化した人間が一番進化した感覚は“視覚”だったのでしょう。
が、

今は、『皮膚感覚と人間のこゝろ』/伝田光洋著/新潮選書刊というのを読んでいます。
学ぶところが多く、興味たくさんの内容の本です。
“皮膚感覚”で作るイメージ。
“皮膚感覚”でデザインする服。
“皮膚感覚”で読む評論。
“リアリティ”が先行してしまった時間軸には
“皮膚感覚”に因って、躯で覚えてもらう。

頭脳が先行するのみの時代は後退してしまった。
理屈でこね回す世界はカッコ悪くなる。
"日常”をどのように経験して感じるか?
この様な時代性では“皮膚で感じる”事の
直感が一番的確でしょう。
その時の形容詞とは?
ぞっとする、ざらざらする、粘り着く、むずむずする、冷ややかな、温もり、
よだつ、痒い、くすぐったい、こそばゆい、ひだるい、気だるい、
寒い、熱い、暖かい、冷たい、ふんわり、じゅっくり、滑らかな、つるつる、、、、、

日本の従来からの”美意識”を表現する言葉は
この皮膚感覚/触覚感覚の言葉がその大半でしょう。
http://www.sony.co.jp/Products/SC-HP/cxpal/vol82/pdf/angle82.pdf
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/31247/1/WasedaNihongoKenkyu_01_Hosokawa.pdf

 **
 友人から紹介されたアーチスト、Gordon Matta-Clark。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gordon_Matta-Clark
川俣正がインスパイヤーされたアーチスト。
川久保さんたちの世代ですね、ちょうど。
ほぼ、僕と同時代の人。35歳で夭折しています。
双生児で、建築を学んでの活動。
彼の作品はあれだけの”遊び”をするに、相当の学んだものが在っての
それに対する“狂気”と“覚悟”の世界でしょう。

 「われわれはただ賭けるだけである。
それが生きることだからである。」/大森荘蔵:

あの時代には未だこの“賭ける”というこゝろの有り様が
一つの強い生き方であった時代でした。
彼は’68年に巴里へ来て巴里大へ留学しちょうど、当時の“MAY'68"革命に遭遇し、
参加もしたらしいですね。都市を”美しく壊す”という発想が当て嵌まる一つであれば
もしかしたらこの体験に因るところも考えられるでしょう。
『フィロソフィー』+『美意識』+『愛』+『生き方』+『社会性』+『日常性』
此の関係性の途中での現れる”ノイズ”が若しかしたら
”狂気”を生み出す要因なのかも知れません。
また、当然ですがそこにも”覚悟”が要りますね。

 ある時から、総てが”ゲーム”に構造化、組織化されてしまった社会構造。
そこで見事に、惨めに”飼いならされて来た僕たち。”

そこに巨大なるこの時代のパワー構造としての
”資本主義”構造が“自由主義”というルールを携えて、社会化し、日常化し始めたのも
この’60年代から。
そして、いつの間にか、この“自由”というルールがマニュアル化させられ
総てが”ゲーム”化し始めた’70年代。
確か、’60年代は“ハプニング”でしたね。
“シュミラクル”と”パフォーマンス”そして、今では“イベント”。
広告代理店の仕事に成り下がってしまったのが現実。

ここには”哲学者”が必要なくなり始め、代わって
資本の流れに都合良い事を構造化するための“理屈屋”である
”社会学者”という立ち居場所が出来始める。
彼らたちとそんな社会の現実化をバックアップするところの”広告屋”がたちが今度は
“情報社会”という自分たちに都合の良い構造を表層化し始めたのが’80年代でしょう。
そして、それらに必需である”マネー”の流れ、即ち、金権資本主義の登場とその仕組みの
“マネーゲーム”という”ゲーム化”の出現。そして、ここに登場したPCという
ブラックボックスを利用したゲームが“仮想”化された手法が仕組まれたのが’90年代。
人間が未来の世界観を覗き見したいという願望が”芸術”という世界と手法を
こゝろの有り様で”芸術家”という立ち居場所の人たちが生み出したとすれば、
現実の”仮想社会”が構築され始めるとこの“芸術”の世界もゲーム化され始めたのが
21世紀へのプロローグで在ったかもしれません。

 こうして考えてみると、これらが現代である総ては、“過去”に成ってしまったのです。
そう、僕たちは”現代”という”過去”に生き始めているのです。

 ”また、僕たち、人間として生きて行きたいよね”という人種たちが生き残り
求めなければならない事とは?
ここに、新たな”賭け”が必要であり、その“賭け”に参加するため、勝つための
“決心”と”覚悟”が必要。
その為の、新たな”自心のこゝろの有り様”とは、
“決心”とは??????
”結心”で在る事の誠実さへ。 

 Gordon Matta-Clark、彼の展覧会のヴィデオは
この時代に生きた人間の”賭け”と”覚悟”によってやはり、潔い自分の世界観を構築した
作品群です。全く、シンプルで斬新、だからカッコ良い!!
これがまた、建築専攻だったというから驚きというか、納得。
まわりの建築家ぶる事に煩わされている若い建築家や学生に見せつけたいくらいですね。
構造を理解しているから、切るべき切りどころを押さえているのでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=-NOad-06Ms4&feature=player_detailpage
この論文も併せて読まれると興味が広がります。[作者/平野千枝子/山梨大学]
http://www1.doshisha.ac.jp/~bigaku59/youshi/h_12_2_1.html


 ****
 巴里には、何か、いつも新しさを感じさせる気配とその状況を生み出しても居るので
愉しくも、好奇心が僕のようなものには大いに働かせてくれます。
これもこの街が持っている魅力である潜在力の一つでしょう。
東京にはこれが本質的には既に消費されてしまう構造の中での
新しさでしかなくなっています。

そのパワーには凄まじいものがありますね、
一番、誰でもが嵌ってしまい易い、
人間の解り易い”業慾”の近くに位置しているからです。
この、安直なる恐ろしさは
もうすぐ3年になる、あの『3.11』で多くの犠牲者と共に啓示された事を
忘れないように。

日本を発つ前に起った事の重大さとは?
きっと、今の日本に居ると気ずきずらい構造なので
気ずかずに居ようとしてしまうでしょう。
いろいろ、地球が人間たちの強欲に幾つかの警告を
タイミング良く発し、それらを受け始めたのではないでしょうか?
今年は世界レベルで日本と日本人が”覚悟”せねばならない元年になるでしょう。

巴里は思ったより、寒い空気が。
でも、春はもうすぐなのでしょう。
木の芽の脹らみが公園の樹木に
そのおさな姿を見せ始めていますから。


 *****
 以前に調べた事なのですが、『寂と侘』の事を想いだしました。
これからの”賭け”のためにこゝろするものは多くの中から選ばれたARCHIVES.と
この『寂と侘』の関係距離でしょうか?
この関係距離を20世紀のハードウエアリングを21世紀のソフトウエアリングと
全世紀のラブヒューマンウエアリングに因ってコンピューターリ-ミックスが可能か?
そこへ何を”賭け”るか?ですね。
地球、自然、人類、家族、友、そして、命、過去又は、未来??????????????
いずれにせよ、”取り返し”の効かないものを“決心”と共に”賭ける”しかないでしょう。

 『さびとわびについて,』/唐木順三著『千利休』より,:
 『寂』は無を根底としているのに対して,『侘び』は有と有との対比の観念である。
―巨大なものに対する狭少,派手に対する地味,豊富に対する欠乏,豪奢に対する謙虚でありながら,どこかに自己の優越を感じているという所に『わび/侘び』の世界が存在する。
 *
 元々『わび』の観念は“有”と”有”の対比の観念である。
このただの,対比だけの観念であればそれは西洋人たちでさえ持ち得た観念である。
 『わび』が『わび』と成りうるには,この観念の元で,そして,此の関係性のどこかで
作者の人間的優越なるこゝろの有り様が存在する所に『わび』が生まれる。 
 この人間的優越なるこゝろの有り様によって『わび』の世界に日本人特有の自然との
ともいきによる,こゝろのゆとりと調和が日本人の湿りをともなった情緒を生み,
“諧謔”や”哀愁”や”皮肉”さえも一つの姿を現す。
 **
 多くの日本人が、特に海外へ出た経験のある若い世代の輩たちは
それを外国人によって教えられたかのように当然の如く、
『さび』『わび』を簡単に、単純にさも,自分の言葉の様に使うが,
その大半の日本人の輩たちはこの『さび』と『わび』の世界観の相違が理解出来ずに
もしかしたら,ただ無闇に日本人ぶる事のワンポイントワッペンのごときに
使っているだけであろうと思ってしまう事が外国に居ると多くある。
文責/平川武治:平成二十五年二月二十一日:巴里市オウルレット街52番地にて。

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2013年2月18日

3Dプリンターの面白さ?!"MAKERS"から学ぶこと。

 15日のLEPLI/VACANT会へご参加、ありがとうございました。
久し振りの、今年最初の会,愉しくのんびりとたくさんの事が
皆さんと共有出来た時間に感謝です。

いつもの如くしゃべり過ぎた僕ですが、
熱心に聞いて下さった皆さんのこゝろの有り様が嬉しかったです。

 今回の1部で喋った、“MAKERS"の現実と今後には注目する価値があります。
「PC+3Dプリンター」は今まで、”パクってなんぼ”をデザインと称して来たレベルの
デザイナーたちにはやはり恐怖でしょうか?

 20世紀はもう既に終わってしまっています。
21世紀はこの20世紀の構造に新たな万能ツールの一つとして、
PCが定番必需品になってしまいました。
これによって、例えば、“パクってなんぼ”であったファッションの世界がもう、
オープンリソース、パーソナルリソーリングの時代性になってしまったという事です。
パクリ合っているのにクローズドな構造をイメージングとメディア戦略で
構築して来た時代が20世紀。
この時代錯誤が現実に閉塞感と共に自爆し始めるでしょう。

 僕が言い切って来た“TOPPING+OPEN-KICHEN+CLEAR MANAGEMENT"方式が、
「PC+3Dプリンター」という21世紀の必需品の登場でより、パーソナル仕様のモノが
製作可能になるシーンを生み出す。
ここに、21世紀の新しさが”豊さ”のベクトルの差異によって誕生する。

 この20世紀の”豊さ”は『ARCHIVES』という新たな21世紀の”知とモノと人”を
PCによる集積のカテゴリー、それはまるで17世紀の”知のための図書館分類学”の
構築の如くによって、新たの時代へ向けての分類学へ進化する。
例えば、この様な嘗てのアーカイブ即ち、語り合えるエピソードが
"PUNK"という螺旋階段出のワンシーンを意識し始める。
そして、「PC+3Dプリンター」の新たな産業化によって次期へ産業寄与する。
現状のままでの進化の後退とは、その決定的なる根幹は
『作り手の一方的なる発想と構造』によるものである。
これではただモノの”バリエーション”の世界の蔓延化。

 そして、ARCHIVESとはモノだけではなく最終的には究極のソフトである
”人間”もアーカイブであるという認識。この利用方法が案外と根幹でしょう。
20世紀のハードウエアーは21世紀のソフトウエアーでより、
オープンにそして、パーソナルに制御コントロールされる。

 ハイ-メディア化+「機械化された手工業」=新たなファッション産業の手工業化。

 LEPLI?VACANT会のデジュメから;
  参考書/新刊『MAKERS』21世紀の第3次産業革命が始まる;
*クリス-アンダーソン著;http://pr.nhk-book.co.jp/makers/book
 3Dプリンターを使う事によって出来得る新たな可能性。
 作り手と消費者の距離と際を完全に超越出来る事を示唆した入門書。
ー「デジタルマニュファクチャリングとパーソナルマニファクチャリングが
 一体化された時に,”第3次産業革命”が興る。」
—「今時は全員がインディーズなのだ。」
—「ハードウエアーはソフトウエアーになりつつある。」
ー「オンデマンドで商品が生産されるなら,オンデマンドでデザインも出来る。」
ー「これはデスクトップ-マニファクチュアリング』
ー「もののインターネット化がデザインのインターネット化へ。』
ー「小規模でもグローバルになり得る能力。職人肌でありながらロウコスト。」
ー「小さく生んで大きく育てる。そして,旧い大量生産モデルに煩わされないで,
 優れたもの,世界が望む製品が作れる可能性。」
ー「コンピューティングとコミュニケーションもまた,”能力増幅装置”。」
ー「マスマーケット文化は,ロングテールを持つマイクロマーケットに変革した。」
—「これはアマチュアのルネッサンスなのだ。」

 *”L.V."のビジネスコンテンツの根幹(?)/「機械化された手工業」の発想。
『歴史的条件がもう少し異なっていたら,クラフト的技術と柔軟な工業設備を組み合わせ,
それを生産体制の基盤とした企業こそが,現代の経済社会の中で中心的な役割を
果たした事であろう。その場合には,大量生産体制が製造業の分野を制覇するということも
起きなかったはずである。若し,この機械化されたクラフト的生産体制が普及していたと
すれば,(中略)特定のコミュニティと深い関係を持つ製造業者が一般に成立していた
はずである。』
/『第2の産業分水峯』より;M.ピオリ& C.セーブル著:筑摩書房'84年発刊:


 参考/3Dプリンターの面白さ愉しさの現実は、
http://cunicode.com/
http://cunicode.com/one-coffee-cup-a-day/
 こんなのを応用して行けば、自分使用のパーソナルものが出来てしまう。
新たな”豊さ”の時代、凄い時代ですね!!
ありがとう。
相案相忘。
文責/平川武治:

投稿者 editor : 02:28 | コメント (0)

2013年2月13日

“モードにおける新しさは進化している。−2” [MEKERS]と”Iris van Herpen”。

“モードにおける新しさは進化している。−2” 
 昨年の12月の話、
ANREALAGEの出版と展覧会記念で渋谷PARCOで行われたトークの会での
僕の発言がもう既に世界レベルでは、時代の新しさを生み出した。

 *
 その日の僕のデジュメをここに紹介しておく。
 『 僕の見つけた新しさ。/ひらかわたけじ:平成二十四年十二月十五日:

1)マイノリティたちの“nation identity"が情景化し始めた。
 ユダヤ教を信じている正統ユダヤ人たちの民族衣装の日常化と
 マグレブのニュージェネレーションたちの民族衣装の日常化。
 ファッション広告に現れたイメージとしてのユダヤ人。
 ここで,完全に”The image no more making a realty.
The realty making a image."という時代性が日常化し始めた。
参考図柄/
映画"NewYork,I love you."から、N.ポートマン、
―マグレグニュージェネションズの民族衣装の日常。
ーD&Gのグラスの広告写真。

2)もう一つ,感心した新しさ。
巴里のそれなりの路上に於かれた”リサイクルボックス”。

3)巴里で出会ったモード誌、“vestoj”
北欧からの南下組たちが作っている本。
http://www.vestoj.com/

4)なぜ、「秋元康の一人勝ち」か?
 AKB48の登場とそのイメージング。
ー此処で”ギンガムチェック”の駅ばりポスター。
日本の豊かさの後の、豊かさを象徴するものはこれであろう。
彼らたちが完全に従来の戦後日本のエンタメ世界のビジネス構造を変革させた事。
 これが現在、日本社会の豊かさのシンボルンであり,日常性となった。
彼の発想の根幹には、
―発想の違い。/ここには江戸時代の『大奥』の構造仕組みが読み取れる。
―時代の読み方の新しさ。/誰でもがそれなりのことが出来る豊かさの現れ。
             誰でもがデザイナー、アーチストという時代性。
―構造としての”情報社会”を熟知している。/構造の強さと脆さ、生身さを熟知している。
―それを新たな”コンテキストと構造”によってメディア化した現実。/リアリティの集団化。
 それによって,”秋元康”は現在のエンタメ世界で独り勝ちしている。

5)新刊『MAKERS』21世紀の産業革命が始まる/クリス-アンダーソン著;
 3Dプリンターを使う事によって出来得る新たな可能性。
 作り手と消費者の距離と際を完全に超越出来る事を示唆した入門書。
http://pr.nhk-book.co.jp/makers/book
―「今時は全員がインディーズなのだ。」
―「これはアマチュアのルネッサンスなのだ。」
―「機械化された手工業」
―「ハードウエアーはソフトウエアーになりつつある。」
そして,「ゴールドやシヴァーという色はもう特別な色では無い。」
 POINT/
ここで、“豊かさ”によってもたらされた新しさとは,
「みんなが作り手。」であり、
「全員がアーチスト又はデザイナー若しくは書き手。」
此処で“THE REALITYの新しさ。”を熟知する事。


6) 「秋元康の一人勝ち」+「機械化された手工業」/3Dプリンターの登場
 =新たなファッション産業の手工業化。
 ここで、『新たなアパレル構造の構築化。』

7)結論的な事、
 僕の本心は,
若い人たちがより,“自分たちがやりたい事、世界観”で
実産業へコミット出来るか?コミットして欲しい。
そして,社会に寄与可能な自分世界を持って欲しい。
その大いなる意志を持ってほしい。
『現代という時代の豊かさの現実とは、もう既に,誰でもが,
デザイナーぶったり,アーチストぶりたいのが当たり前である時代。
GOLDはもう特色ではないという事。』
従って、この豊かさから生まれたリアリティの”新しさ”、
『もう,誰でもがデザイナーであり,アーティストである時代という新しさとは,
誰でもがそれ何の手順を踏めば,何でも作る事が可能になるということ。』
この新しさを日本の低迷中であるアパレルが芯激に受け止めて
新たなコンテキストとコンセプトを持って”ファッション産業”に寄与する為の
産業革命を興すべきである。/”第3次産業革命”のための発想と妄想。

8)読んでいて不思議と今の時代観とチューニングした本。
『虚空の彼方へ』A.ロース評論集/A.ロース著/
http://www.acetate-ed.net/bookdata/021/021.php
 僕がアパレル後,この世界、モードッ評論への切っ掛けになった
建築家,A.ロースの評論集の翻訳本が出来た。
19世紀末から20世紀初めに書かれたもの。
不思議と今の時代観にチューニングされ,読みがいがあった。
此処に書かれている事を現代という時代性の螺旋階段に仮想すれば
例えば,現代日本のファッション世界へその異差をチューニングすれば
いろいろ,学ぶところがある。

 *そして,皆さんが可能な一番新しい社会を,リアリティを生む為にも明日の投票には是非!!『リスクある決断』を。

 *オマケ/+α-
"The Modern Art means?"
 "Art is defined only within the story called Art History.
Artifacts shown at this exhibition are not works of art.
They are rather souvenirs, selected specimens of our collective memory."
–Walter Benjamin

 One day, long long ago, when young Alfred Barr, Jr. was in Paris, he visited Gertrude Stein in her Salon. During the conversation, he told Gertrude about his plans for establishing the Museum of Modern Art in New York. Puzzled, she looked at him with a smile: "That's nice, but I don't understand how it can be both a museum and modern."

 Clearly, the name Museum of Modern Art was an oxymoron, and Barr almost certainly did not have a ready answer. It took him several years of a bumpy ride on the "Torpedo in Time" to realize what the Museum of Modern Art was going to be. It was the 1936 exhibition Cubism and Abstract Art and the now-legendary diagram on the cover of the catalogue that showed Barr the way.

<これがその会のために準備したデジュメ。>


 **今年になって興った”リアリティの新しさ”そのー1。
 今年の経済雑誌”東洋経済”誌の年頭特集に
この新刊、『MAKERS』/21世紀の産業革命が始まる/クリス-アンダーソン著;
PCと3Dプリンターを使う事によって出来得る新たな可能性が特集化され、
その現在地点と今後の可能性が報じられた。

 そして、その次は、
 僕が考えていた3Dプリンターによるモノ造りをこのファッションの世界で
試みたデザイナーがもう既に登場した事である。
 先月行われた巴里のクチュールコレクションで、
『オランダ出身で現在はロンドンを拠点にしているデザイナー、Iris van Herpenが
アメリカの3DプリンタメーカーのStratasys、CAD ソフトを開発・提供する
Materialiseの3社がコラボレーションを行い、パリ・ファッション・ウィークでのオートクチュール・ショウ「VOLTAGE」にて3Dプリンタで出力したドレスを披露した。』
http://www.irisvanherpen.com/
http://vsmedia.info/2013/01/25/iris-van-herpen-3d-printed-dress/

 彼女はオランダのアーネム卒業、僕も彼女の卒展では審査をし、
その後の彼女の世界の作り方に興味を持っていてリー-マックイーンの後、
幾度か会って話しをした事のあるデザイナー。
 以前僕が論じていた、”『もうミシンと針と糸で、』の世界ではない服作り。”に
やはり登場させたデザイナーである。
 ファッションの世界でこの時代の新たな流れは今後どのように
”巴里のモードへ浸透して行くのか?
ただの”プロパガンダ”で終わってしまうのか、”立ち居場所作り”で終わるのか、
それとも、アメリカのこれらの新産業が新たなモードの地平線として、
可能性ある新たな”モードのキャピタル”へ向けたプロローグか?
確実に、歴史的に見ると従来の”巴里”は決してこれをウエルカムはしない。
単純に、“特意性”としてその立ち居場所を与えるが正面玄関は開かない。
ここが”巴里のモードキャピタル”の恐ろしさで有り強かさで有り弱みでもある。

 何れにせよ、これが今後どのように進展して行くのだろうか?は見応えの在る
モードにおける、一つの新しいシーンであろう。
ここには大いなる可能性が僕たちの國にもある。
そして、新たなファッション産業への寄与が存在するであろう。
これに依って閉塞化した”アパレル産業”のリノベーションと生産構造の再生が読める。

 僕が考えていたPC+3Dプリンターによるモノ造りは”日本アパレル産業”への
何らかの救世主になるという眼差しで在るり、その根幹は”1ブランド、1デザイナー”
という構造の必然性が無くなる時代性を予告している。

 ここにもう一つくわえる新しさとは、『ARCHIVES』がある。
これはVACANTの会で話そう。
相案相忘。
文責/平川武治:

投稿者 editor : 19:16 | コメント (0)

緊急/久し振りの『The Lepli/VACANT会』の最終お知らせです。

緊急/久し振りの『The Lepli/VACANT会』のおしらせです。

 今回の第2部の『企業CdGをクリニュシェエする。』は、
昨年ロンドンのI.D.MAGAZINEの編集発行人の友人テリーが責任編集し、
ドイツの版元TASCHEN社から発刊された“REI KAWAKUBO"へ書いた原稿を元に
巴里デビューまでの”CdGと川久保玲”を話し、ご質問に答え進行して行こうという
”2ways"の会です。

 是非、CdGに関心が在って、”コムデ、凄い!!大好き!!!”な方はご参加ください。
出来れば、皆さんで一緒に新たな『コムデギャルソン本』を作りたいと。

***

 こんにちは、皆さん!
 今年も立春を迎え、自然は正直ですね。
少し、この時期になり暖かさが増すと
喜びが行動を促すように
土から新芽を出す、
木々の新芽も脹らみを増し始める。
穏やかな空気が匂い始める。
三寒四温の始まりでしょう。

 『昨年も日本のファッション産業は停滞のみ。』
そのためであろうか、メディアの空騒ぎだけが目立ち、
東コレではそれに乗っかった自己愛が発端の“デザイナーゴッコ”の変わらぬ含羞さ。
日本の素材や縫製技術さしては、モノ作りに関わる人たちの日本人特有の責任感と
プライドを含めたマインドを無駄遣いしないブランドが出てきたらいいですね。
 『自己愛よりも社会愛へ、』
今年の僕の眼差しは、『自己愛よりも、社会愛へ。』です。

 皆さん、告知が遅れましたが、『The Lepli/VACANT会−1』は15日の金曜日です。
これからの日本のファッションに好奇心ある方、
ご興味のある方どうか、ご参加よろしく。
共に、愉しく成熟した時間にしましょう。
相案相忘。
文責/平川武治:

『The Lepli/VACANT会−1』
日時:2月15日/19時〜開始。
会費:¥1、700円/人(学割あり:¥1、000円/人)
 第1部/『今感じる“新しさ”とは、』:ひらかわによる提言。
<休憩>
 第2部/『ファッション産業のための“新たなる革袋“を施策するために、
 企業CdGをクリニュシェエする。:プロローグ』;
 予め頂いた参加者からの質問に答える対話形式で皆さんと一緒に考える企業CdGの“凄さ”とこれからのファッションデザインビジネスの“可能性”について、幾度か
 の対話をして行きましょう。
 その1回目は、‘77年の“僕と川久保玲の出会い。“をテーマに始めて行きます。
* ご質問は予約メールの際に“CdGについてひらかわに聞きたいこと”の質問をご記入ください。また、twitter、facebook等での受付も致します。
*質問宛先は、“VACANT“です。
* 質問カテゴリィーは“クリエーション”“ビジネス”“プロダクト”“メディア”“ディストリビューション”そして、“川久保玲”とします。

投稿者 editor : 18:48 | コメント (0)

若き二人の発言者、蘆田裕史と工藤雅人のレベルとは、/昨年末のANRAELAGEの会で。

 “モードにおける新しさは進化している。−1” 
昨年の12月の話、
ANREALAGEの出版と展覧会記念で渋谷PARCOで行われたトークの会での
僕の発言が時代を予告した結果となった。
が、その前に、言っておきたい若き発言者の二人へ気になった事を発言する。

 *
 森永邦彦 と参加者のたち若き評論家と称する人たちと共に僕も交え語る会。
参加発言者へのテーマは“今それぞれが思う新しさとは?”であった。
 一人は京都服飾財団の団員であり造形関係の学校の先生をしている蘆田裕史 。
残念ながら彼のモードへの眼差しは書面教科書程度。
モードのリアリティを知らない日本的ファッション文化人を装うお利口さんレベル。
彼の発言は“M.WORTH/Charles Frederick Worth"のクチュールの時代が
現代の時代性に類似しているというもの。
1911年に彼がロンドンから巴里へ進出し、自分のオーダーメイドシステム
今で言うところのクチュールハウスを開きそれ以後、
巴里でのオートクチュールビジネスの時代が始まった。
 この様な時代性が現代に類似しているとうい単純な表層からの一般的な知識の
見せびらかしを行った。しかし、それを視点にするなら彼、M.WORTHの
当時の時代性と社会性からその時代の新しさを先ず説明すべきであった。
M.WORTHが何のよりどころも無くロンドンから巴里へ来てクチュールハウスを
開店したのではない。彼なりの”時代の読み”が根拠としてあったからであり、
これを先ずは説明した上でこの若き評論家は学んだ事と経験とによる視点で分析し、
比較した上での論点でなければ無ければその論説は主張出来ない。
難しいカッコ付けの言葉の空売りがモード評論では無い、
モードとはその時代の社会性と時代性に乗っかって展開して来たものである。
思ったとうりの、所詮、『論語読みの論語知らず』。

 身じかな人間に入れ知恵されてのお仕事だったのだろうか?
彼の穿いていた下モノはM.ブランドの200%エゴに挑戦しているデザイナーからの
貰った物を身に付けての登場も含めて、森永君をナメての登場か?
或いは、このレベルのカッコ付けの”安請け合い”お仕事だったのか?
彼の”表層的なる短絡”的視点は惨めでカッコ悪い限りである。
彼をそれなりのファッションを語る側の人間として持ち上げられ、
その立ち居場所だけを利用した銘柄に弱い“下こゝろ”に溢れた輩たちに、
僕流に言えば、”むやみにデザイナーぶる”若しくは、”ファッション長屋の世話焼き
おばさん”たちに利用されているに過ぎないレベルと実感した。
もっと、リアリティを見詰め、既に、折角の立ち居場所を持っているのだから
学び、大いに豊かな世界にして欲しい。

 もう一人の若き発言者、工藤雅人は正論を、技術の新しさを発言した。
が、その根拠にはどの様な新たらしさが新しいのかの探究心ある分析は
感じられないものだった。彼には時間が足らなかったのだろうか?
 序でであるが、彼が着ていたシャツはデザイナーから貰ったもの。
未だ、ある種の彼らしい無邪気さ(?)とGOOD WILLを感じるがやはり、
この二人の若き発言者は、このレベルと世代ではしてはいけない事である。

 慣れは恐ろしい、“飼い慣らされてしまってはお終いである。”
“発言者”であろうとするならば、”こゝろと美意識は贅沢さ”を持たなければならない。
この世代もファッションへ発言するならば、ジャーナリストと称されるならば
その立ち居場所で持つべきプライドというか、含羞も必要である。
ここにも、ある種の”原子力ムラ”と類似する構造が見て取れる。
惨めであり、危険である。
 
 ファッションを論じるとは、単純にいってしまえば、
自心のセンスと知性で覚悟を持って、”時代と寝る”事で論じられる世界である。

 **
 この会が終わって頂いたある人からのメールを紹介しておこう。

『——―二人の発言者が血迷うが如く選択肢が無いと言った時には
自由が故の不自由、
枯渇が産む貪欲の欠如、
探究心って言葉を知らない世代
正直バッカじゃねーのって言いたくなり、
知りもしないのに(中略)同じ土俵に上がったつもりで、
アンリアレイジに新しさは無いとか言い腐る様には
背景の想像力の欠如モノを作った事のない表層の上っ面だけ舐めて
分かった気になってるだけの論者に次世代の感覚を肌で感じました。
ちょっと怖かったです。』
第1部終わり。
文責/平川武治:

投稿者 editor : 16:39 | コメント (0)

2013年2月 7日

平成二十五年の立春に、”新年のごあいさつと今年の想い再び。”

新たな年の立春に;
 年初めのこの1ヶ月はもう既に、いろいろな事件が起こってしまった
近年には珍しい、騒々しい年の始まりになりましたね。
自然界や人間界で。そして、国際的にも、国内でも。
気が付けば、僕たちの國も白人世界の彼らたちの”業”の中に
完全に組み込まれてしまう結論的な始まりの年でしょう。

「虚飾が騒げば騒ぐ程に、索漠とした新年の移ろいのみ。」

 今年の新年も
不便さの中の自由を噛み締めて生かされております。
今の日本人の多くは、表層のカッコ良さや便宜さばかりに惑わされて
年毎にカッコ悪い生き方になってしまっていますね、特に中年以上が。

 近いうちに本当に想いもよらぬ“豊かなる難民”に成り下がってしまう
”覚悟”が出来ているのでしょうか?
もう少し、不器用にごつごつした生き方や、身勝手な自我を抑える事も
今後の新たな、子供たちや赤子の為の気概ある社会を作るには
必要な日本人のこゝろの有り様でしょう。

 新年にはこんなことを考えていました。
 残念ながら、今の日本は
もう、個人が持ち得た”エゴや夢”を目指し、成就する事のみが
国家や民力を豊かに出来る時代では無くなりました。
現状の日本は政治家たちと彼らの政治によって
そのようなレベルと構造になっていません。
個人の”夢/エゴ”の成就が國の豊かには、残念なが通じなくなりました。
國を念うこゝろと共に國力が豊かに稔るよう
現実的により、現社会にコミットして行けるか?

この様な時代性とは、
先ず、”國力”を豊かにする事も大きなプライオリティでしょう。
これが僕の今後の課題です。
ここに“I'm a Yellow."の根幹ありと考えるからです。

 しかし、もう、彼方たち若い世代が國を改造する意識を、
こゝろの有り様を持つべき時です。
そこでは団塊の世代たちの多くが捕われてしまった、
即ち、含羞無き軽薄な自我と表層のニンジンに”下こゝろ”を捕われないように。

与えてもらった”物質的な豊かさ”を利用して、
何を排除し、何を残さなければならないか、
こんなに”豊か”なのに何に苛ついているのだろうか?

彼方たちの現実から、それぞれの豊かさに“こゝろ”を肉付けして下さい。
このままで行くと日本も“金権資本主義”による金権格差社会が進化発展するのみです。

どうか、政権が交代しても『FUKUSHIMA』
忘れないで、風化させないように、おねがいします。
この構造を僕たちの国土に直接仕掛けたのは彼らたちとそのアーカイブたちです。

ご自心のご経験を生かし
ご自心の世界観を持って
ご自心らしい手法で
覚悟ともに!!!


 僕たちの世代は“大いなる罪滅ぼし”をしなくてはなりません。
これからの國や幼子を念うために、よりこゝろと時間を使わなければいけません。
守るべき事、残すべきものを含羞と共に決断し、新たな”リスク”を熟知し、
これからの日本という國の調和を生み出す為の覚悟を。

 僕は元気で、質素な新年を多くの皆様の御陰で迎えることが出来ました。
どうも、ありがとうございました。

凍る夜空に導く北斗をあらため、
耀く新たな年の冬の陽に委ね、
濱では大波が繰り返す海原へ
のろのろと歩んで行く亀に遭遇。
まるで、僕自身を見ているようなデジャブな新年の始まりでした。

また、僕が昨年のPARCOで行われたANREALAGEの会でお話した
僕が思う新しい事としての"MAKERS"/”第3次産業革命”の1件は
その後、今年の年頭の経済誌”東洋経済”誌の特集として組まれています。
もうその時代が始まります。

ファッションの人間がファッションの世界に閉じ籠って
イキがって居るだけの時代は終わたでしょう。
どれだけ、世界で興っている事実とそれらが生み出す新たな”リスク”
即ち、”リアリティ”に目を背けないで、生きるかです。
そこに”絆”と称されている
これからの”マス-コミュニケーション”の価値と存在があるでしょう。

その為に皆さんの『教養と経験とスキルと技術と関係性』を持って
皆さんの方法論でどのように社会に寄与するか、よりコミット出来るか?
ご自心の”根幹”と共に。

 どうか、今年はおおらかに、穏やかにおこゝろと、
お時間とお軀を十分にお使いください。
結果、好奇心豊かな、心地よい時間の1年でありますよう、
ご自愛と”覚悟”と共に、お励みください。
相案相忘。
文責/平川武治:平成二十五年正月吉日。

投稿者 editor : 20:11 | コメント (0)