2017年05月23日

桑沢デザイン研究所/'17年度”昼間部+夜間部”全校生合同講義ノオト;

桑沢デザイン研究所/'17年 合同講義ノオト;
「”あたらしさ”を生み出すためには?」
文責/平川武治(モード・クリニュシュェ)

「我々はみんな携帯電話を内蔵した存在となったが、
そのことは現実生活とそのイメージの過剰接近や時間的/空間的隔たりの無力さを招き、
重大な混信状態という結果が生じている。」

J.ボードリヤール/「世界の自動記述」より:

PART-1; 現代という時代を深読みする。
 はじめに、「あたらしい自由」というこゝろの有り様、;
 僕がこのモードの世界に身を委ねてかれこれ40年が過ぎる。
大衆が「新しい創造」を願望するならば、まず、「あたらしい自由」というこゝろの有り様の
新陳代謝が必須であり、あるいは、「新しい社会」の誕生か、「新しい法律」の発令なども
関係してくる。
 決して、一人の思い上がりな行為やメディアの煽りだけでは「あらたな新しさ」は
生まれてこない現代という時代性がある。そして、「あたらしい不満」が当然、
こゝろの有り様に喚起しなければ、真の「あたらしい自由」は生まれない。
ここには現代の社会へ対する「カウンター・カルチャー」とはなんなのか?という問いがある。

 戦勝国アメリカは、’50年代にはもうすでに「ビートニック・ジェネレーションたち」
J.ケロアックやA.ギンズバーグ、W.バローたちが文学の世界で登場し、当時の”アメリカの
豊かさ”への「カウンター・カルチャー」の芽生えが始まり、昨年「ノーベル平和賞」を
受賞したB.ディランで代表される'60年代に登場したフォークソングからロック
そして、”ヒッピィー”と呼ばれた、当時の社会からドロップアウトしたコミューン集団たちが
思い感じ経験した当時のアメリカ社会と政治に対して彼らたちのピュアーな眼差しを
持ってこの「カウンター・カルチャー」と言う”反抗文化”なるものを路上に産み落とした。
これは当時の戦勝国「アメリカ合衆国」が”自由”を建前にした豊かな国家であったから
誕生したのが、「カウンター・カルチャー」であり、これが以後、60年以上は
いわゆる「若者文化」の根幹として継続されている。
 
 現代、「新しさ」を生み出すための「あらたな自由」は明日でも生まれえると言える、
今とはそんな不確実さの時代だからだ。
 この”不確実さ”や”不誠実さ”あるいは”不自由さ”に対してみなさんのような若者たちは
「あたらしい不満」を抱き、これに対してそれぞれが”憤り”を覚え、それなりの”行為”が
なされる可能性が現代ではあるのだろうか?
 しかし、この「あたらしい自由」による”憤り”がなければ「あたらしいモノ」は
生まれない。即ち、「あたらしい自由」によって、「コトのアヴァンギャルド」が生まれ、
そのコトによって、「モノのアヴァンギャルド」が芽生えその後、モノにデザインがなされて、
一般社会の生活環境にコミットされてゆく。この速度の速さ加減が”流行”を生む。
結果、日本の戦後の70年間とは、日本人の生真面目さと勤勉さと勘の良さや手の器用さ、
従順さによって見事な現在のような高度なる「大衆消費社会」構造を構築した。
よって、そこでは”モノの豊かさ”を追い求める日常生活と社会構造が発展し、
「モノの価値」を知り、「心の豊かさ」や「心の価値」を学ぶことが遅れてしまった
状況をも作り出した。この結果の所謂、”ツケ”が3世代目の若者たちに影響を
落とし始めているのだろうか?
 彼らたちは何かに、”憤り”を感じ、「あたらしい自由」さで、それなりの行為をなすことに
怠惰になった”マイルド”なのだろうか?
 
 僕は「他人とは違った、比べる対象のものを自らが勇気を持って持つ」ことが大切であり、
このために、”学びがあり、経験があり、旅があり、愛があり、出会いがあり、
好奇心が生まれ、自信も生まれ、知識を知り、自分以外の他者への想いが芽生える。”
と、僕の70年ほどの生き様から自分の「価値観」として大事に、考えて生きて来た人間です。
 日本のファッション産業そのものは変わらぬ体質然り、”壁紙産業”です。”右で売れたもの、
あっちで評判のもの”を「右から、左へ」の思い付きとその感度の良さとイメージングの
上手さだけで「日銭」を儲けて来た商売が日本のこれまでのファッションビジネスの歴史です。
 従って、この業界で漂っているいわゆる”業界人”たちの依然、カッコ付けたる年功序列な
”世間”でしかなく、僕にとっては囲われた自由の”村社会”でしかないのです。
 ここには「あたらしい自由」とは程遠い”世間”が漂っているだけで、「あたらしい自由」を
感じ得るために、「時から学び、時代性を読み込まない、勉強しない」業界人達の棲家は
ここ半世紀程、”壁紙”を張り替えるか、塗り替えるだけで”構造体”まで”リ・ビルド”されて
いないという現実でここまで来てしまったのでしょう。
 「ーそう、世界は”真実っぽさ”で溢れかえってしまっています。」/2005年S.コルベア(コメヂィアン)
 「The world is the wall-paper that looks like a truthiness.」
 
 ある時期から政治家が合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に変わって、
むやみに感情や「勘」に訴えるようになってきた現状を評したものです。
現代社会とはこの”真実っぽさ”に寄って全てが構築されてしまている。
最近の安倍内閣の現状もこのレベルで彼らたちの答弁そのものが既に” truthiness.” 
 そして、M.ムーアが発した、「これは終わりだが、始まりでもある」/
"However this ends, that's where we begin."

 このP.トランプ当選後の彼のこの発言では,何が”終わり”、何が”始まった”と
言うのでしょうか? 
 「近代」という時代の終焉とFAD,
 ここに来て、「近代」という時代が終わり、新たな時代が誕生するだろうという視点が
あります。昨年”ル・コルビジュェ”の作品群が世界遺産に登録されたこととは、
”近代”がもう既に、遺産になってしまったという視点が読めますね。
 皆さんの周りのより、現実的な世界を見ていただいて、何か、今までとは違った
”something new"な匂いや段取りの違い、気配などを感じ始めていませんか?
これは、FAD現象と言い、一時的な気まぐれな流行りのことであり、このFADは
トップトゥダウンするもので、ある少数特定集団が起こす癖の強いブームの発端です。
これに対してTRENDは一般大衆のうちで流行るものや現象をメディアが仕掛けたもので、
ボトムトゥアップという動きをする流行そのものを言います。
 実は、ファッションの世界の面白さとは理屈ではなく、この”ファッド”なリアリティを
路上で生み出せることがファッションのスピードであり、凄さと役割なのです。
 音の世界はこのファッドを直感によって最初に感じさせてくれるものであり、
ファッションはその感覚とリアリティをイメージングによってブリコラージュしたところで
生み出せる世界だから面白いのです。この現実の実例は、今では、insta.がまさにこの世界の
代表になっていますね。ファッションの種子はいつも”路上”に蒔かれ、”路上”で育ち
広がってゆくFADなものなのです。だから”街・スナ”がウケるのでしょう。
 
 現代は人と”繋がっても”そこにお互いが直感で直に繋がり合える”感動”がより、具体的に
必要な時代が来ています。彼らたちはPCでの繋がりに限界ともどかしさをやっと感じ始め
たからでしょうか?そしてここには、”便利”と”感動”は自ずから本質的に価値レベルが
違うことがわかり始めた若い大衆たちの誕生があります。
 彼らたちはこのようなファッドなリアリティの一片づつをブリコラージュしてゆけば、
”あたらしい自由”が得られ、”新しい何か”が始まることを触覚的に感じ始めたようです。
このリアリティこそが、僕は「近代」という時代の次なる自由を生む
時代のエッセンスだと感じ始めています。

「ナマ/live感」という”コトのアヴァンギャルド”が産む”Tactility/触覚”,
 時代はまた、「ナマ/live」感を必要とし始めました。
モノの新しさはそのほとんどが”バリエーション”の世界でしか有り得なくなり、
コトを興す事によって身体に直接感じる「ナマ/感」がMDされ始めています。
小劇場、ライヴ、フェス、ダンス、ラップとジョギングそれらに、習い事のヨガやストレッチや
ベリィー、フラなどいろいろな身体そのものから感じる「ナマ感」ですね。
それに”do sports"群。オリンピックを目標にしたアスリートたちが時代の表層になってしまう
時代性も手伝っています。この裏には、バーチュアルなエモーションではなくより、
直感できるナマな皮膚感覚の「エモーション」が激しく恋しくなり始めたということで、
ここでのキーワードは”Tactility/触覚”です。
 今までの過去においても「ナマ/live感」は当然、感動を得るための原手段でした。
そこへ、「ヴァーチュアル・リアリティ」という新たな仮想感動も知ってしまった現代人が、
オプションすべき、感じたい「感動」即ち、皮膚感覚としての”Tactility/触覚”を興奮させる
「ナマ/live感」とは?を感じ吟味することが大切な時代性なのでしょう。
ファッションの世界では、”皮膚感”に優しいという”機能”ある素材を使ったものが
ここ数年来のトレンドで有りすでに、「ヨガ・ファッション」や「アス・レジャー」という
ジャンルが生まれていますね。また、「”コトのMD”としてオケージョンでまとめられた
アイテム・ショップ展開」も増えている。
 従って、このようなFADなリアリティを”触覚”中心にして感じ取ることが現代社会では
かなり、重要な人間個々人の”感性の差異”でしょう。ここには”教養”と”感度ある感性”の
4Kが要求されるからです。ここでは”情報社会”に生きている現代人たちが持ち得た
”ヴァーチュアル・リアリティ”とそこに出現する”真実っぽさ”によって、
”センス オブ ヒューマン”が劣化してしまっているからです。
 すなわち、”時代と寝る”ためにはより、人間的なる「クオリティある繊細さ」を持って、
何を”オプション”するかが重要な時代です。
 このような時代は表層の豊かさのみが”液化現象”を起こし、全てが”真実っぽさ”における
”バリエーションの世界”になってしまったという視点も可能です。

PART-2;世界はどうなるのか?
 「Friendly Fascism」から「安心のファッシズム」へ;
 これからの世界とは確実に、小さな塊の、より強靭なコミュニティを羨望する各国の動きが
活発になるでしょう。すなわち、保守が進展すれば当然のように起き上がってくる
”愛国心”という怪物の登場です。この古き新しさでは、新たなバランスとしての
”ナショナル・アイデンティティ”と”ネイション・アイデンティティ”のセルフ・バランスが
問われる時代性になってゆくでしょう。グローバリズムによって、大きく固まった
その実態構造そのものが不誠実なものであること自体を知り始めた知恵ある諸国と諸民族は、
より確な”塊”へ揺れ戻しの始まりが起こる。
 例えば、英国もEU離脱をオプションし、他のEU諸国においてもそれぞれのネイション
アイデンティティが国別に強くなり始めるでしょう。
 極論ですが、トランプ政権下の合衆国ではもしかしたら”州”が個別にインデペンデントな
構造体になり始める可能性もありますね。
 グローバリズムによって、国/ガヴァメントと企業/ビッグ・ビジネスという”複合企業体”が
地球規模でそれぞれの産業において、それなりの企業形態を成立させてしまったのが
20世紀の最後の役割だったのです。
 ここで参考にするのが、すでに40年は経過してしまっている1980年、
アメリカで出版された「Friendly Fascism」という本です。
(これは、今回のトランプ選挙陣営のネタ本の一部です。)
 「Friendly Fascism」とは、;(
参照/翻訳版「笑顔のファッシズム上・下」B.グロス著;日本放送出版協会刊)
 『新しい独裁政治がアメリカ全土にゆっくりと忍び寄っている。”政府と企業の複合体”が
何十年もかかって、次第に形成され、その複合体の司令部には顔のない独裁者が
座り込んでいるのだ。彼らは自らの権力と特権を拡大しようとして、組織や個人のために
なりふり構わず利益を追求している。さらに、広い意味では、経済的操作や情報活動、
あるいは軍事的侵略による、世界各地における国際政治への介入の拡大等も、
そういう独裁者たちの利益追及の結果生じてくることなのだ。
 こういった自体の全てがすでに、世界的な規模で軍拡を煽り、核兵器及び通常兵器という
殺人のための機械の備蓄を増大させているのだ。(これは現在の安倍内閣以後の日本における
”政治と企業の複合体化”から軍事防衛費予算がだんトツに増大し、戦後以降、具体的なる
今後の”軍産複合体”構造を構築しはじめている現実にも現れている。/筆者)
 アメリカはまず、”軍産複合体”の手に権力が握られ続いて、この複合体に類似したものが
多数存在してしまっているのが現実です。そしてこれらの構造体は”多国籍企業体”構造を
持ってより複雑な存在価値を構造化してしまっている。 
 原子力複合体、科学=工業技術複合体、石油=自動車産業=高速道路複合体、
銀行=証券会社=住宅産業複合体、都市計画=開発産業=不動産業複合体、農産物生産及び、
加工と農機具・肥料・飼料の製造販売までも含まれる農業関連産業複合体そして現在では、
IT=モバイル産業=情報産業=メディア産業複合体などなど。
 これらの複合体に実際の企業名を当てはめればその実態が見える。
彼らたちは公然と貢献したり、秘密裏に援助の手を差し伸べたりして、その経済的基盤や
それを育む環境を備えている公共機関や大学が加わり、これらが複雑に絡み合ってさらに
巨大な複合体を形成しているのが現代の社会構造であり、こういう色々な複合体と同様に
重要なのが、顕在化しているビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携であり、
この現実が今では世界のいたるところで見られ、その根幹は巨大な超国籍企業と様々な
多国籍複合体にある。ここに、新しい独裁主義を成立させている。”新しいファッシズム”は
その国の伝統や文化遺産によって違った色合いを浴びて現れるだろうし、人種構成や宗教の
構成、政治機構、地政学的環境などによってそれぞれが違った様相を呈する。』
 これらが世界にまたがる”自由主義諸国”を一つにまとめ上げたのが21世紀の
”グローバリズム”の根幹です。
 そして、もう一つ、現代日本のファッシズム、「安心のファッシズム」とは?;
 では、日本的な視点でこの現代という時代性を新たな視点で捉え、考えてみると、
僕が、「家で、みんなで安心・安全・快適」というコンセプトを初めて使い始めたのが
90年代も終わりに近い頃で、”保守の中庸化”の兆しが射し始めた頃でした。
 当時、”ヤンキー”と呼ばれていた若者がそれぞれの実家へ”パラサイト”し始め、
彼らたちが”マイルド・ヤンキー”と呼ばれ、”地元”での実家生活が
「家で、みんなで安心・安全・快適」へ向かい始めた。
 また、当時のファッションのコンセプトが”WAPPING"から"PROTECTION"へ
変革し始めた時期でもあり、例えば、世間ではそれまでタブーの一つであった自らの身体に
傷をつける、”tatoo”がクールになりfadな流行となり始める。そして、ファッションは
”ラッピング”から、着る人間の身体と心を「安心・安全・快適」に
”プロテクト”し始めた頃でした。
 その後、インターネットの普及化とケイタイがより多重・多機能化し”スイカ”カードが
生まれ今のような平成の「安心・安全そして、スイスイ」社会へ発展進化し、
日本社会の現実である「安心のファッシズム」構造が構築され始めました。
この平成の「安心・安全そして、スイスイ」ボケの現代社会を切った本に、
「安心のファッシズム」という本があります。
(参考;「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;)
 現在ではこのコンセプトはすでに常識になってしまっていますが、
当時はフード付きの”被り物”はまだ限定されていて、ブラックのストリート・キッズから
発生し、グラフィティとラップによって”プロパガンダ”されそして、流行によって”クール”に
なり、今では当たり前の一つの”生活衣料品”になっている。これがまさに”サブ・カルと
ファッションの液化現象”です。日本のお笑いの世界も、”シソンヌ”のギャグ・コントのネタが
現在の”spa"型のショップの現実をパロディっているというまでの”SPA"ファッションの
”液化現象”も見られます。
 
 考えてみると、「誠実に生きる、真面目に生きる、真剣に生きる」等とは、これらは全て、
与えられた”自分の生”に対しての、自分の自由な生き方への詞です。これらを放棄さえすれば、
みんなと一緒になれば、その社会の人間たちは誰でもが、「みんな、安心・安全そして快適に
スイスイ」と生きてゆけますよ!という社会構造の構築とアプリ等の科学技術の開発によって
素早く現実に至った現代日本社会です。
 ケータイがなければ何もできない、電車にも乗れない、街も歩けない、学校へも行けない、
そして、”みんなと一緒に”世間”で”暮らしてゆけない社会の構築。
 この与えられた、巨大なシステムに操られることが苦痛にならずむしろ、心地よく便利に
スマートに生きて行けると感じさせる時代性がここに、見事に構築されてしまいました。
 これは、物事の根幹を知らなかったら、”知性”や”教養”に関係なく全てに飼いならされて
しまうという時代性とも読めるのです。これが現代日本の「安心のファッシズム」の由来です。
ここには現実としての、「一台のケイタイ電話+各種アプリ+1枚のプリペイドカード
+クレジットカード+キャッシュカード+各種会員カード+マイレージ各種クーポンサービス
+社員証+マンションキー+スイカ等の交通機関乗車券などなど、」
=安心、安全そして、スイスイ快適生活=「安心のファッシズム」という
現代日本社会構造のマニュアルが出来上がってしまっています。
(参照/日経新聞/2004年5月20日付け。)この構造を起業化したのが、
「フィリカネットワークス」という2004年に設立した企業です。ある意味では
たった”1枚のカード”に不動産価値構造を構築し、ケイタイを生身の人間を”ハブ”機能と
させれば”スイスイ・快適”が日常化するという「安心のファッシズム」の発想であり、
これも”グローヴァリズム”以降に打ち上げられたサテライト衛星がもたらした
”新しいフツー”でしょう。
(参考/フィリカネットワークス”=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立:http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html)
 ここでは、地上のすべてがマーケッターたちの”ゲーム版”上と化してしまっています。
「動く商圏」を構成する「息する財布」としか、認識されなくなってしまった人間たち。
大衆達は「操舵の術」としての”マイカード”と繋がるための”ケイタイ”によって、
現代人の肉体そのものをコントロールされていても違和感を感じないように飼い慣らされて
しまっています。ここでは、便宜さ、便利さや煩わしさののために人間が人間らしく生きてゆく
ための何かを代償としてこのような「安心のファッシズム」を選んだのが
現代日本人の99%でしょう。
 ここには、”みんながしているから、”という価値判断に委ねられた世界でしかありません。
これらはすべて、「大国の軍事衛星」を経由して、GPS機能を利用し流される彼らたちの
”都合”に操作されているという”根幹”は果たして、どれだけの利用者たちが認識した上での
”スイスイ効果”なのでしょうか?GOOGLEの大手得意先はNASAでありUSガバメント系です。
ここでは、「自由に生きる」ことそのものが変質、変革され”操作”されてしまっているのです。
現在のサテライト数は世界では76個が打ち上げられています。
(アメリカ32、ロシア24それに、中国16,それにEUが4。この現実が現在の世界の
”発言力”を持っている巨大国家とされています。)
 
 ここで問う、”ファッシズム”とは?本質的に、ファジーな曖昧なものの塊を言います。
全ての根拠が”曖昧さ”で始まっている現代のキーワード、「真実っぽさ/truthiness」の世界
そのものであり、自由でないことの”幸福感”が芽生え始め、支配されたがる人間が主人公/
ヒーローでありる世界。
 そこにあるのは「真実っぽさ」が溢れかえっている都合の良い自由の不自由な社会。
しかし、この世界を誰が作り始めたのでしょうか?そして、どんな人たちが我れ先にと
その世界へ駆け込んだのでしょうか?ここに、ビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの
提携連帯で築かれ作られた”複合体”社会の真意があり、「使われ慣れした、使われやすい、
飼いならされたい”イイヒト”たち」の登場いわゆる、”世間にお利口さん”な世代たちが
登場し、そして、ご主人様になる。
 今年になってより、表層のメディアを騒がせ始めた、”A/I"の登場があります。
”新・移民法”の制定と重なって、今後の「少子高齢化社会」発展という日本の
”新しいフツー”のためのシナリオの読み合わせも始まった。
 そんな僕たちの国の現代社会の表層は更に、ただ、「真実っぽさ」が。
「The world is the wall-paper that only the truthiness.」

PART-3;「ファッションの世界」では、
 「安心のファッシズム」と「ファッションの新しさとは?」;
 このような現代社会「安心のファッシズム」下のここ10数年間に現代の日本の
ファッション産業がどれだけ「新しいフツー」を進化させてきたのだろうか?
今の時代における「一番、あたらしいとは?」もちろん、「あたらしい自由」と
そこから培った「文化度あるスキル」を携えて鮮度高き時代を読むことである。
その一つは当然、見たこともない、目新しさとしての「先端」を「JUST NEW」で創造する
ことであり、もう一つの「あたらしさ」とは「最後尾」に位置することでの
「OLDEST NEW」を見つけることのの2つ。その他はすべて”中途半端”でしかない「SOMETHING NEW」で提案するバリエーションの世界です。
 ここには、「先頭か、ビリか」のみが新しさを生む立ち居場所である。
しかし、ほとんどのアパレルのMD担当者たちは自分たちで、感度高く”リアリティ”を
読み込むことができない不勉強があるために結局、彼らたちがオプションするのは
”右で売れたもの、あっちで評判のもの”を「右から、左へ」の「中途半端な新しさ」に
なってしまう。その結果、店頭では「どこでもドアならぬ、どこでも同じ」になり、
”パクって、勝負”という立ち居場所が日本のアパレル産業の特徴となり、それによって
「日銭が稼げる」という貧しさであり、この根幹ゆえ国家がバックアップするまでの
「複合産業構造態」には40年を経ても、日本のファッション産業はもなれない。
その結果が、今では”ホールディング企業が行なっている流行りの「マネーゲーム」の格好の
”コマ”の一つでしか無くなっているのがもう一つの日本の現代アパレル産業の淋しい現実
なのです。
 ファッションビジネスの新しさには、僕のようなものから見ると、”e-コマース”と
そこへ辿り着くまでの”情報発信”としてのアプリ、サイト、ブログ、snsそして、
インスタなどは当然、デジタル技術革新によってもたらされた新しいファッションビジネスの
情報源であり手法であり当然の新しさです。しかし、それ以外、商売の根幹はほとんど、
40年前と変わっていません。例えば、このファッション企業の人たちは未だに、
”FAX”を実務上使用しています。

 むしろ、「安心のファッシズム」で飼いならされ始めた”人間の退化”によって、
チャレンジしない、人が考えつかないことは考えない、自分のことで精一杯、
楽な方がいい人間たちの仕事そのものも”退化”してしまっているかもしれません。
 そこで、今後のファッションの世界の革新を考えると結論は、”ファッションのe-コマースと
その周辺環境が出来ないこととはなんなのだろうか?”という視点でしかありません。
どの様な「文化度」と「感度」で人間的なる自覚の元に顧客を想い、オプションし
チャレンジしてゆくか?を考え、話し合い、実践してゆく”古き手法”に尽きるのが
一案でしょう。
 なぜならば、ファッションとはデザインのカテゴリィーでありリアルな”世間”へどのように
”コミット”するかが倫理上においても問われなければならないリアル・ビジネスの世界だから
です。
 ここでは「ナマ感」マーチャンダイジングとでも呼ぶ発想で、例ば、”MD"や"VMD"などの
ルーチーン仕事をこの眼差しで見直す必要も、「もう一つの新しさ」に気づく発端に
成り得るでしょう。
 例えば、「ファッションが与えれくれるハッピィネスとは?」の根幹を考えることも
ありでしょう。もう、自分たちの商品という”モノ”だけを売っていても顧客たちは
当然ですが、当たり前になりすぎて「ファッションが与えれくれるハッピィネス」を
感じなくなって来ています。
 ”モノ+コト”の複合関係における相乗関係を「文化度」と「感度」によって、
具体的に考えることも一案でしょう。当然、彼ら顧客たちが購入したいモノとは、
「あの人と同じ」「みんなと一緒のもの」という「安心のファッシズム」下における
”ユニフォーミズム”の消費行動でしかなく、それらの”モノ”はもしかしたら、
ネット上も含めて、どこにでも既に在り、売られている”モノ”でしかないというまでの
”液化現象”がここにも観ることができます。
 
 「安心のファッシズム」における”繋がる”=”閉じ込められる”装置としてのインターネット、
ケイタイ、スイカ、SNS他が生み出す世界とは"ヴァーチャル・リアリティ”と
”ヴァーチュアル・イメージ”現象でしかありません。これらを使うことで”モノを買う”という
e-コマースの世界はある意味で、世界規模の各種の「ユニフォーミズム」にとっての
自動販売機です。
 が、そろそろ、この世界の限界も見え始めてきました。
例えば、”デリヴァリィー・プロブラム”あがあり、このIT環境をそれなりの資金を使って
アプリやサイトを構築すればあとは”スイスイ”が定番になってしまった現代の液化現象。
このような日常になってしまったリアリティにおいては、「ファッションを売る」ためには
どのようなナマでしか体感出来ない「ナマ感」現象が考えられるか?
 結局、「人間を喜ばすには人間にしか出来ないソフト」というアナログ発想です。
ショップへわざわざ行って”服”を買うことの楽しみ、喜びそして緊張感や見られることの
快感そして、気に入っている販売員さんとおしゃれな会話をする等など。
 これら従来の「ファッションを売る」という世界では当たり前だった諸「ナマ感」効果が
無くなり始め、ショップへ行って買う行為からの”エモーション”そのものも消え始める。
この「ナマ感」が与える”エモーション”とは?の復活でしょう。
 
 「安心のファッシズム」社会における顧客たちの欲求とは?そして、”ストレス”とは?
あるいは潜在的に欲求している”コトのアヴァンギャルド”とはなんなのだろうか?
ここには 何にに手間暇をかけ、自分たちの手が届く”感動”とは何なのだろうか?
というダイレクトな視点が必要でしょう。
 この「ヴァーチャル⇨リアリティ」化されてしまっている”世間”というコミュニティへ
何を差し出せば”わざわざ感”を”エモーション”へ変換できるのでしょうか?
ここに、今時代が望んでいる関係性のための、”ナマ感”で通じ合える”喜びとプライド”が
あります。
 ”妄想”あるいは、”真実っぽさ”の日常性。;
 それを生み出す現実の、”繋がる”=”閉じ込められる”装置否、”檻/安心フレーム”の中でしか
感じられない「安心・安全そして、スイスイ快適」ボケは完全な一種のファッシズム構造で
あり、その中での関係性とは、「集団と個人の関係性」がメインであり、
個人による「自己確認」という行為も当然ですが、他者を介さないと確認できない
「個人と個人の関係性」であり、まさに、”世間”はその中で可能なヴァーチャルな関係に
漂っているだけでしょう。
 では、「個人と個人の関係性」では、”そこに居た”というまでの実存感から生まれる、
”ナマ感”が望まれ、ここでしか感じられない一回限りの”エモーション/感動・感激”を
どのようにファッションをデザインしたりあるいはファッションを売る際に心するか?
の発想もこれからのファッションビジネスには大切な要因になるでしょう。
 例えば、今、若者たちに人気のラッパーたちが吐き出す”コトバ/詞”は彼らたちの
リアリティから吐き出されたもの。その”ナマ感”が感じられるもの程ウケるのが今の音の世界。
当然、そこから発せられる”エモーション”によって身体は奮い、動き始める、これがダンスの
世界。したがって、若い世代の今におけるファッション・イメージングに於ける
”ソース オブ ザ クリエーション”はやはり「BLACK」の世界観へより近づいてしまっていますね。
(参考/「TV番組/「フリースタイル・ダンジョン」https://ja.wikipedia.org/wiki/フリースタイルダンジョン)

PART-4;「新しいまなざし」
 ファッションはもう”ユニフォーム”になってしまったという視点。
 「自由に生きたいために求める自由。与えられた檻の中で求める自由あるいは、
満喫する自由。」 
 ここにも、”タマゴが先か、ニワトリが先か、”の世界がありますね。
 僕がファッションが好きで、この世界に40年も関わっているのは、
「ファッションとは、自由の裁量である」という僕なりの視点とファッションに抱く
価値観が存在しているからです。
 しかし、現在のファッションとは、”人と同じものを着たい。
同じ世界に生きたいから、”というベクトルに、いつの間にかその世界と価値観が
変化してしまっています。
 「自分らしく自由に生きたいために求める。
あるいは、自由に生きたいためにはどのようなものが着たいか?」から、
「与えられた自由の中でのみんなと同じ自由さを満喫するためのファッション」に
変化してしまった現在。ここにも「自己確認」作業のための”ユニフォーム”ですね。
 ここで見えて来るそのファッションとは、”ユニフォーム”でしかありません。
例えば、”マイルド・ヤンキー”たちのユニフォームや、彼らたちの”パラサイト・自立”化に
よって生まれ構成し始めた「平成のニューファミリィ」たちのユニフォーム。

 ここで、皆さんは少し前に放映されていた「UNIQLOの広告コピー/Life Wear Stories/
新たな日常着の追及」をどのように考えていらっしゃるのだろうか?
 「私たちはなぜ服を着るのだろう。正解はひとつじゃない。生活をよくするための服を
つくろうと、私たちは問い続ける。」
 案外、ここに現在のファッションビジネスが迎えてしまっている”液化現象”の根幹が
見えるように思うのです。 
 今、日本のファッション産業が迎えてしまっている「売れにくくなってきた。」
「ファッションを売ることとは?」などの現状に向かってこの”UNIQLOの広告コピー”を
真剣に考えると、もう一つ、”ファッション”という言葉がより、拡張された”液化現象”状態を
示唆したものであり、その現実世界のリアリティある”生活様式”へコミットする世界があり、
もう一つは彼らたちの「文化度」と「美意識」を探るまでの”ユニフォーム感覚”を
新たなファッション感覚としてこの”液化現象”へオプションすること。
 この2つの発想に、どれだけ対峙したそれぞれの立ち居場所を持つか?
ここにこれからの「あたらしい自由」の根幹があるでしょう。
 「安心のファッシズム」における”UNIQLOイズム”とは、自分たちの”塊”においての
”液化現象”、「みんなといっしょになりたい」というまでの「シン・”衣料品”=CLOSING
+オシャレ感=ファッショナブルなUNIFORMIZM」という図式が知らぬ間に
主流になっているのが現代でしょう。
 例えば、前出のすっかり表層からは姿を消したような”マイルド・ヤンキー”たちも、
液化現象として”パラサイト・家族”している。
 そんな”マイルド・ヤンキーシン・ファミリィー”の「ユニフォーム」ブランドが今は
市場でも主流になり、激戦化していますね。
(SPA系ブランドのファミリィーブランド化、UNIQLOやGLOBAL WORKなど、、、)

PART-5;自分たちの「ブランド・ファッションを作る」とは?
 ファッション・ディレクターの役割とは?;
 もう一つの「あたらしい自由」のためにファッションの関係者たちが考えるべきこととは、
今後の”ブランド・ビジネス”においては、そのブランドが持ちそして、創造し提案すべき
「ブランドの世界観」が大切な「ブランドを創る」ことの根幹になる。
 ここでは今まで、クリエーションだと思い違いをしていた、自己顕示欲のための表層の
ディーテールにおける形骸的なデザインだけではもう、誤魔化すことは出来ない。
この世界は20年ほど前に既に、終わってしまった。
 即ち、「ブランドを創り、売る」とは、ブランドをディレクションしているディレクターや
企画メンバーたちが生み出す「世界観」を構築し、イメージングして売ることが
現代ファッションビジネス必須の根幹。そのためには、ブランドの”文化度”が必需となる。
これを育成してゆくためには、”文化力”+”感度”+”妄想力”によるブリコラージュ的な
創造性が必要になる。ブランドビジネスとは、このブランドの「文化度」によってブランド・
マークをクリエーションし、インデペンデント化することでしかない。
 従来型のファッション流クリエーションビジネス即ち、世界のトレンド情報を主軸とした
”右と同じ”あるいは、”同じらしく”または”パクる”というプロセスだけだでは
継続が至難になろう。
 あるいは、売りたい顧客たちのための「ユニフォーム/ユニフォーミズム」に特化した
「文化度」レベルのブランドに成り下がることでしかないでしょう。
 あのUNIQLOの立ち居場所は自らが質も量もここに”特化”したことによって成功に
至ったのですから。
 では、「文化度」とは?「ブランドの文化力」とは?;
 これは世間で問われる”ブランドアイデンティティ”へ繫がる視点の再認識ですが、
まずは、誰とファッション・キャッチボールがしたいのか?が
この問いの始まりになるでしょう。
 「それぞれのブランドが、どのような女性たちへ向けて発信されているか?
そのそれぞれの女性たちがどのような時代に、どのような考えを持って、
どのような生き方を望んでいるのか?あるいはしている女性たちなのか?」
という視点とその情報を「ユニフォーミズム」発想で認識すること。
 次には、それらの情報量をブランドの作り手たちによってどれだけ確りとした考えと
念いを馳せるか?言い換えれば、ブランドの作り手たちがどのような価値観や時代観そして、
美意識を持って実社会と関わり、作り手自らも、”リアリティ”を持って生活しているか?
というまでのパーソナルな教養とスキルと経験と美意識が当然、根幹となる。
 その上で、「ブランドの文化力」とは、どのような”生活者ユニフォーム”を必要としている
女性をターゲットにしたブランドなのか?その時のターゲットの女性像とは?
その時の時代観とは?その女性たちにどのように着て欲しいか?
そのために顧客たちの女性へどのようなブランドとしての”美意識”と”ステートメント”を
差し出せられるか?
 ここで、僕がいつも発言している、”May I help you?"というこゝろの有り様で、
社会にコミットできるまでのブランドであるか? ないか?
それが「ブランドの文化力」になる。
 これらを実際にブランドに携わっている人たちが感じ、考えそれぞれの共通言語を持って
日常の仕事に携わっているか?そのためのブランドとしての”心”と”眼差し”を持っているか? 
 このような「ブランドの文化力」を向上させ「文化度」をつけるにはブランド全体の
共通言語が存在するか?そのボキャブラリィーでコミュニケーションが取れるチームワークが
出来上がっているかが全てでしょう。
 「文化力」とは、個人的内面の発見であり、自分自身を、自分の生き方を、認識と感性を
改造するという発見なので、「文化度」を豊かに育成させるための自心の ”土壌”に
こゝろ有る世話を忘れないでしてあげてください。
 いまや僕らの住む世界は、画一的な「ノーブラウ(愚か者)」たちを標的にした
「安心のファッシズム」が生み出した”どこでもドア”的なる巨大商業主義の世界でしかなのです。 
 そこで、「何を作ろうかよりは、何を着てもらえるか?」;
 新たなファッションゲームにはこの視点が鋭くそのための関係性と諸情報とその情報処理に
おいて、知的で美意識高ければより、勝者に近づく。
 現在の巴里発の「ラグジュアリィーブランド」ビジネスのその根幹はすでに「SPA」型
ファッションビジネス構造である。そのビジネスの根幹は「ラグジュアリィーブランド・
ビジネス」と「ファストファション・ビジネス」は同類である。違うことは、[イメージング
+広告戦略+VMD+ブランドエクイティ=贅沢な「ラグジュアリィーブランド」]という
差異で、顧客を揺すぶっている現実でしかない。
 これらを誰が統括的にディレクションが出来るかが、この新しいファッションゲームを
担っているゲーマーたちの役割でありそれが、「ファッション・ディレクター」の登場であった。
 再び、「女性たちが経済的・政治力を発揮し始めた時期だ。ところが彼女たちが着る服が
市場にあるの?!」という時代が到来した。ここで、新たなる女性たちのユニフォームが
必要になり始める。
 彼女たちへ与えるべき3つの特徴、「見栄えのよさ、ウィット、センスの良さ」を
働く女性たちはいつも欲している。ここに、「ブランドの文化力」が秘められていることも
認識しておく必要があろう。
 或いは、従来のデザイナーがなすべき仕事を工場に委ねそして、
新たなブランドチームとしての構成を考えることも「ブランドの文化力」の育成化に
つながるだろう。
 現在のファッションビジネスにおけるアトリエ構造は「F.D+M.D.+生産企画+生産管理」
+営業力+e-マーケッター+S.P.+A.D.+プレス=新しいチーム。という公式になった。
 ”あたらしい自由:が生み出す、「あたらしいフツー」;
 今後のファッションにはどのような”ポジティフな新しいクリエイティヴィティ”が
可能なのだろうか?
 このような時代観と”世間”のリアリティを考察し読み込んだ上、今後のファッションには
どのような可能性が考えられるのだろうか。
 ファッションデザインは如何様にして、”世間”に「あたらしさ」をコミットさせるか?
するか?或いは出来得るか?これが産業と結びついているので、難しい世界である。
 例えば、個人の思い付きだけで”アート”ぶっている間はまだ本質的に”デザイン“は
為されていないか、熟されていない。ファッション・ガーメントを作り出して、
社会にコミットさせることでデザインの創造性が完結する世界である。
 従って、「時代を感じさせる良いクリエーションは良いビジネスを生む」を信じることが
必要である。この”時代を感じさせる”というところにそれぞれの”新しさ”があり、
そのための"あたらしい自由”さを感じさせられるか?がデザインクリエーションの
全てであろう。
 
 20世紀から21世紀に入って、PCが新たな機器になり、大いにこれを利用した
ビジネスがこのファッション界でも進化した。が、ファッション・クリエーションの世界では
どうであろうか?
 「ファッション=人間が着る」という公式が変わらないために、その可能性がどんどん
”素材ありき”の世界へ、それらの素材にどのような後加工が出来るかという新たな可能性も
含めたところへ追い込まれてしまったのが現在の”ファッション・クリエーションの新しさ”の
世界であり、ここへ”ネタ元”として、割って入り込んできたのが、
”ARCHIVE"という世界である。
 3年前に僕が提言した、現在のファッションにおけるクリエティビティとは、
既に、”ヴァリエーション オブ アーカイブ”あるいは”ブリコラージュ ドゥ アーカイヴス”が
根幹になってしまった。
 巴里のこの世界を見ていると、”アーカイヴ”を知らな過ぎるあるいは、”モードの歴史”を
知らない若者たちが、より、知らないブロガーたちを騙している世界でしかない。
 例えば、VETMONTなどのデザインはこの世界でしかない。
 ここで、「人間が着ることがファッションの世界。」という根幹から離れることが
できなければ、決して、新しいものは生まれ得ない。
 ここが「あたらしい自由」なる発想である。
着る人間の体つきが変わらない限り、ファッションにおけるクリアティビティは今後も
ますます、”ヴァリエーション オブ アーカイブ”の世界であろう。
 「今後のファッションにおける新しさ」とは2つのコンセプト;
 ここで共通することは、その新しさは全て、新しい素材とその後加工方法によって
「あたらしい自由」が”商品”化されて、社会に新たなコミットすることである。
すなわち、「新しいフツー」あるいは「次のフツー」の提案である。

 一つは、僕が3年前に発言してきた、”WITHOUT SEWING"の世界。
「今更、糸と針とミシンによって作る服」というのが古いというコンセプトで生まれた
”WITHOUT SEWING"の世界。
 ファッションの世界がより「プロテクション」というコンセプトへ”進化”(?)する
この時代性にあって、そのオリジナルは日本の戦国武将たちが装着していた『甲冑」がある。
 現実に、ここにあたらしい”機器”としての”3Dプリンター”が使われその世界がより、
ポジティフな可能性が生まれ、この立ち居場所で活躍し始めたクリエーターたちが誕生している。
 例えば、”CdG ・ノアール”や”中里唯馬”の存在も確実に「あたらしい自由」のもとでの
彼ら自身の世界を作り出している。彼らは”レゴ世代”である。
 そこに、PCを製作機器として使い込むことで彼らの世界観により、美しさと新しさが
すなわち、”スキル”と”美意識”が見事にメチサージュされている。
 PCを使ってこの”WITHOUT SEWING"の世界を探してみると、素晴らしい美の世界へ
挑戦している創造者たちが多く現れていることも知ることができる。
 今後のファッションの立ち居馬車そのものが一つは”ユニフォーム”であり、
もう一つは”コスチューム”という両極端へこれも”進化”(?)してゆく社会性からも、
この”WITHOUT SEWING"の世界は確実に、新たな”ステージコスチューム”から始まり、
2050年までには新たな”ユニフォーム”になるであろう。
 
 ここでは「服を着る」という概念を変えることからこの「あたらしい自由」が始まる。
すなわち、新しい生活あるいは、”新しいフツー”のための共通言語としての
「ボキャブラリィー」を見つけ出すことから始まる。
「着る」という行為から「装着する」というコンテンツで今後のファッションがポジティフな
可能性を持つことができる。ここで大きく変革することは、服で全身を覆い隠すという、
「着る」という行為から、自分が隠したいところすなわち、プロテクトしたいところ
あるいは、見せたいところに「装着する」という新たしいコンテンツを考えれば、
”WITHOUT SEWING"の世界がもう一つのファッションの世界になる。
 実際に3Dプリンターを使っての作品を発表しているオランダのIRISの場合も6つ割りにした
パーツを「装着」させているのだ。従って、この3Dプリンターでの作品例が比較的多い
「シューズ」もここでは「装着」するというコンテンツで履くことになっている。
 昨年の「パラリンピック」を見ていても「ファッションの新しさ」への大きなヒントが
あったのを思い出そう。ここでは身体の一部としての「装着」する世界で競い合っていた。
ここには貪欲な”人間そのものの現れ”としての”強者”の世界でしかなかったことに驚く。
 
 「今後の新しいファッション」を論じるならば、「あたらしい自由」を確認し、
その上で、新たな「ボキャブラリィー」を見つけ出さなければ”新しさ”が生まれる確率は
極低する。
 もう、この現状況でのファッションの世界における”クリアティビティ”は全て、
「ヴァリエーション オブ アーカイブ」でしかありえない。
が、この現状を救うことができるのは「新しい素材」とそれらへの”後加工”に
委ねることでしかない。
 「新しい素材」あるいは、「使われることがなかった素材」を使うこと。
ここには当然、”縫えるか縫えないものか”の根幹が示唆されることによる
「新しさ」の可能性である。
ここにも”WITHOUT SEWING"というコンセプトが浮かび上がる。
 
 では、もう一つの新しさとは、
 これは実に面白いコンセプトのファッションの世界が訪れる可能性がある。
これも、「新たなユニフォーミズム」からの”裏”の発想である。
 もともと、ファッションとは「自身の存在を着る物」によってより、顕著に自己を
表現するために始まったものである。すなわち、”自己のアイデンティティ”を明確にさせ、
確立させそれを自己の表層のコードと化するためのものであったということを思い出そう。
 身分や地位そして育ちなど、諸々の社会で生きてゆくために必要な社会的な”コード”が
現在までのファッションの世界の進化論である。
 しかし、ここで、もう一つの「あたらしい自由」さでこの現実の”世間”を見てみると、
”時代のリアリティ”の一つに、「個人の自由」が街中に張り巡らされてしまっている
監視カメラや携帯やPCによってそう、「安心のファッシズム」状況下、知らぬ間に
「個人の自由」は犯さててしまっている。
 また、昨年の日本は芸能界のスキャンダルが多発化した年でもあったが、
このような状況は今後、個人の生活をも脅かすまでのここでも、”進化”(?)があろう。
そんな新しい時代性を想像しそこからのファッションへのもう一つの
”新しいボキャブラリィー”とは、真逆な発想である、「自分を消去するためのファッション」
すなわち、「カモ・ファッション」である。これは今後の新しい世代たちの一つの
「カウンター・カルチャー」になろう。”世間”で生きてゆくにも”カモフラージュ”によって
身を隠さなければならなくなるまでの”不自由”という「安心のファッシズム」時代への提言。
 しかし、この根幹はすでにユニフォームの一つである、”ミリタリィー”の世界で
当たり前になっている、”カモフラージュ”というコンテンツである。
 この世界の進化は軍需用としてそれ相当の進化をもたらした世界が現存している。
これを日常の”世間”に持ってくることの発想も、そんなに遠いものではなさそうである。
そして、”着ぐるみ”というファッションもこのカテゴリィーとして
「あたらしいフツー」になるであろう。

 『プライバシーの範疇にかかわらず、近未来のファッションは存在そのものを
”プロテクト”する何か、新しさを提供します。』
/
https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
 『私たちの個人情報と財務情報がインターネットのオンラインにおいて公共の時代には、
個人の存在が見えなくなることはない。
 しかし、オフラインでは、少なくとも、世界中の多くのファッションデザイナーは、
個人の曖昧さを払うことができるような世界を準備し始めている。
 ハイファッションを通して不可視の側面を達成するという概念は、未来的なものでは
なくなってきた。実際にはすでに可能です。
 一般人であれば、自分の写真を雑誌やsnsのページに入れることができます。
例えば、有名人または逃亡者でない限り、日々の生活の中でどのように監視されているかに
ついてはあまり考えないかもしれません。 
 が、現実には不条理なしかし、人間の感情を解釈することができる顔認識、
高精細サーベイランス、AIを含む感情技術が絶えず進化する分野では、家外に出た自分が
あらゆる高度な装置によって、自分の存在がトレース & ディスプレーされてしまいます。』
 そんな「安心のファッシズム」の社会においての究極のプライバシーを守るための
頭からつま先までの、自己を消去するためのファッション・ドレッシングのガイド/メニューが
すでにアメリカのサイトでも紹介されている。
 参考/アイデンティティを消すためのファッションに関してのサイト;
*https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
*「感情的な医学:感情的知性を持つ技術」/http://hd.media.mit.edu/tech-reports/TR-537.pdf
*顔検出からのカモフラージュ。「CV Dazzleは/https://cvdazzle.com
*幻想的な迷彩/https://en.wikipedia.org/wiki/Dazzle_camouflage
*最初のアンチフラッシュ衣料品コレクションの紹介/ https://theishu.com
*https://www.amazon.com/Kreinik-R25-Reflective-Thread-25-Meters/dp/B00CB396DQ
*ステルスウエア;ステルスウエア「アンチドローン」ファッション
/https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
*コープ・ヒンメルブラウ
/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%
BB%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%
A9%E3%82%A6
*CHBLジャマーコート;COOP HIMMELB
/http://www.coop-himmelblau.at/architecture/projects/chbl-jammer-coat
*ファラデーケージ/https://en.wikipedia.org/wiki/Faraday_cage
*ファラデーバッグ;技術を外部干渉から遮蔽する最先端のソリューション
/https://www.disklabs.com/faraday-bags/
 
 最後に、”カジノIR法案”が可決され、;
 より、リアリティな発想になりますがこれによって、現在の日本のファッション産業界は
大いなる”追い風”を再び迎えることができ、新たなビジネスの拡張へつながる
可能性が生まれるでしょう。
 かつて、90年代も半ば、都心部の「キャバクラ」が「地方都市」へ拡張され、
地方にも新たなオケージョンが生まれそれらと共に”AEON”や"駅ビル”といった
新しいディストリビューターの開発と新たな”顧客”、パラサイトし始めた
”マイルドヤンキー”との”三位一体化”によって「SPA型」が発展したあの時代性と
同様の”新たなモチベーション”がここでも「20年周期」というジンクスによって生まれる。
 東京オリンピックとカップリンなされ首都市に”カジノ”が出来るとそれがTVや雑誌メディア
また、SNSでよりパーソナルに拡張されより、ヴァニティなファッションの世界が
プレゼンテーションされ、次なるは2020年以後、カジノ・インフレンスは”大阪万博”
(立候補中)へ引火されその後、地方都市、駅前の”パチンコ館”が総合ギャンブル館”に、
”地元VIP"御用達”のカジノが生まれる機を読み込むことでもう一度、”神風”は吹くだろう。
 ここに、もう一つの「あたらしい自由」が創生され、ファッションのニュー・シーンの
誕生が読める。
 ”地方カジノ”+”路面店/ディストリビューター+新たな”顧客”の”三位一体化”
が現実になれば日本でも本格的な新たな”ドレス”マーケットが誕生する。
 が、ここでは決して、”ストリート・カジュアル”ではない。
 ここでのキーワードとは、「真実っぽさ」。
”真実っぽい”関係性による”シン・男女消費”が新たに生み出す”真実っぽさ”という名の
”ラグジュアリィー・ファッション”あるいは、ヴァニティという名の”ご利益・ファッション”
いわゆる”モテ・服”や”キメ・服”というドレス中心の”ユニフォーミズムであろう。
 あるいは、「109の逆襲」???
 エピローグ;今の日本の政治は落ち着きが有りません。気になる色々、
 北朝鮮からの”煽り”をアメリカ、ロシア、中国がそれぞれの巨大帝国主義的なる
国家エゴのすり合わせ。
 国内の憲法問題と軍事戦略を軸にした、”アメリカのポチ”化の激化。
 日本はいつのまにか、このような”軍事評論家”という人たちが存在していたのだろうか?
 「共謀罪」復活。かつての戦前の大国主義へ妄想した時代へのリバイバル。
 日本メディアは気骨をなくしてしまった。”時間売り”ビジネスに特化したための荒廃化。
 ここにも”金儲け”主義しかない現状のメディア。
 ”不動産売り”へ逆行し初めて業績が再び低迷し始めた”デパートビジネス”
 政策+国家予算の使い方+行政の動き+利権+専門スキル+工業技術+メディアの煽り
=新しいビジネスの誕生。
 国家企業規模の企業の倒産が続く。
 少子高齢化の激化。新移民法と新たな倫理観。
 A.I.という新しい人間の”エゴ”産業化が急進化。
 戦後日本で初めて誕生する新たな産業。軍事産業とカジノ産業。
 e-コマースと宅配のアンバランス化現象。
 ITテクノロジーとヒューマンテクノロジーのアンバランス化が始まる。
 水産業のオープン世界マーケット化が始まる。
 LGBT,マイノリティの表層化と社会の現実のずれ。
 築地、オリンピックそして、カジノ産業。
 ”one-box car"の色が白系から黒系へ変化始めたのだろうか?
「新たなるフツー」のための新たあるディストリビューションとは?
 そして、
これらの現実の日本の状況を”201”の項目で見事に書き下ろされた本が出版された。
 「日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」−15歳から始める生き残ろための社会学。
 響堂雪乃著/白馬社刊:
みなさん、是非、ご一読ください。
合掌:
文責/平川武治:平成29年5月15日:

本稿のオリジナルは、雑誌「FREE MAGAZINE−5」掲載原稿に手を入れました。
 *キーワード;
「Friendly Fascism」
「安心のファッシズム」
「ユニフォーム/ユニフォーミズム」
「ナマ感」/皮膚感覚
「TACTILITY/触覚」
「文化度/文化力」
「コンセプトをブリコラージュ」
「モノのアヴァンギャルド」よりも「コトのアヴァンギャルド」
「液化現象」
*参照/
「日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」
 −15歳から始める生き残ろための社会学。響堂雪乃著/白馬社刊:
「笑顔のファッシズム」B.グロス著;日本放送出版協会刊:
「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;
「リキッド化する世界の文化論」ほか、Z・バウマンの著作いろいろ。
「ヴォーグで見たヴォーグ」ー元アメリカンヴォーグ編集長/G.ミラベラの言葉;G.ミラベラ著;2,000年刊より;
「フィリカネットワークス」=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立/http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html
「面白いコント;”シソンヌ”」このお笑いコントが醸し出す世界に”ユニフォーム”を感じます。
/https://www.youtube.com/watch?v=S5CTb9HUwRQ
中里唯馬/ http://www.yuimanakazato.com
 

投稿者 : editor | 2017年05月23日 21:47 | comment and transrate this entry (0)

2017年05月10日

決して、語られなかった”コトの次第”を、「一つの展覧会を読む。」 /”M.MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展

 私事であるが、あれほど通っていたアントワープへ今回、なんと13年振りで訪れた。
 友人であった人が”公金横領”の罪を犯してしまいこの街から逃げてしまって以来、
この街へは一度も訪れなくなった。
この街のファッション学校の形骸的なデザイン性が強いカリキュラムも
時代に遅れを取り始め魅力を感じなくなってしまったこともあった。
もう一方、この時期に卒業したという日本人学生たちが帰国して、自分たちが”小さな嘘”の
上塗りでメディアに取り上げられ、セルフプレゼンテーションを器用にやり始めたことも
この街への厭気に重なった。
 そんな以前を熟知している僕の今回のこの街への眼差しは完全に冷めきった”傍観者”で
あり、ただ、日本レストランが増え、SPA系ファッションブランドショップが目につき、
”ユダヤ人ビジネス”が堂々と表通りへ出てきてしまった街の風情にもなってしまっていた。
 では、なぜこの機にそんな街を訪れたかというと、
最近、お世話になり始めた「日経新聞 日曜版」の取材のため、僕がいる頃に準備されて
出来上がったモード美術館の展覧会のためのインタヴューが目的だった。
友人が構想して設立出来たこのモード美術館も当時、面接試験を受けて友人に採用された
女性がチーフ・ディレクターになって今回の僕のインタヴューを待っていた。
 やはり、何かおかしい気持ちでの仕事になった。
終わってみて感じたことはこの若いディレクターの喋り方が”公金横領”をした
僕の古い友人の喋り方とそっくりであったということ。またそのインタヴューテープを
繰り返し聞きながら余計に、恐ろしくも感じてしまったことだった。
 ただ一人の友人と出会いディナーに招かれ、よく行き着けていたカフェへ立ち寄っただけで
僕は隣町のゲントへ幾度目かの一人旅を気取った。
この理由は、今シーズンのパリのコレクションに影響を与えていた一つ、
”フランドル・イメージ”に再び、触れたいとの思いもあったからだ。

 僕と入れ違いに、この展覧会の当事者であるマルタン・マルジェラはアントワープへ来た。が、
彼はオープニングレセプションへは参加しなかった。
中で騒いでいる輩たちは彼の偉業で金儲けをしている連中だという現実。
ここでも、”世間”とはこんなものなのであろう。

 今回の幾人かの取材で、今まで、決して語られなかった、
「THE HERMÈS とMARTIN MARGIELAの関係性が
どのようにして現実になったのだろうか?」を
この展覧会を機に始めて明かしてみました。
 ”水と油”のようなそれぞれの当時のモード界における立ち居場所の
新旧、2つのメゾンが、それぞれの思惑を持って、
どのようにこの現実へ至ったのか?

  <この原稿を”日経新聞 日曜版STYLE”、太田亜矢子さまへ感謝を。>

  ”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展/MoMu in Antwerp;
開催期間/31.03.'17 > 27.08.'17
https://www.momu.be/en/tentoonstelling/margiela-de-hermes-jaren.html

 『ファッションの定義は人によっても違う。私にとってのファッションとは、
女性をめぐる問題であり、女性がどのように生き、どう戦いそして、どのような安らぎを
表現するのが、ファッションだ。』
/参照;「ヴォーグで見たヴォーグ」
/G.ミラベラ著:実川元子訳:文春文庫刊1997年:
 このような成熟した眼差しでファッションを捉えるには
この ”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”でデザインディレクションを請け負った
Martin Margielaの1997年から2003年の彼らたちの仕事ぶりを知ることは
近年のモード界に於いては最上質な機会であり、
モードとクラフトマンシップの関係性の総てが封じられ、創造されたベストな
”エルメスーマルタンシリーズ”である。この再見機会を与えたのが今、MoMuで行われている
展覧会である。
 筆者は’97年からのこのシリーズのショーをリアルタイムで観ているのでその経験を主軸に
展覧会を読んでみよう。

「なぜ、M.マルジェラは凄いのか?」
 ’88年にデヴューした彼のオリジナルブランド,"M.M.M.は”ジェンダー”をメイン・
コンセプトに斬新で異端でさえある”創造の発想”をヴィンテージというリアリティを素材に
かつ、ロジックに繋げ展開した14年間。ディレクターであるM.マルジェラを中心に、
このブランドが呼吸する総てが強烈なパワーとスピードで20世紀のモードへ
全く新しい、現代アートとまで言える視点を持ち込み、アヴァンギャルドからその頂点に
14年で達した過去に類を見ないブランドであった。
 このブランドが提案したカウンター・モードの凄さとカッコ良さに
一番早く犯されたのが我ら、日本の消費者であり当時、世界で一番売ったのは
仙台のブチック”レボリューション”。そして、最初のショップが出来たのも
日本であったことを証拠として特記しておこう。世界で”ストリートファッション”に
一番敏感で繊細な我ら日本のファッションカルトたちの肥満的病的欲望を充足させるには
このブランドのコンセプトとロジックに裏付けされた彼のクリエーション&イメージングは
総て「凄かった」のである。

 「なぜ、”エルメスーマルタン”がすごいのか?」
 これを述べるには最適な書籍*がある。
現代ファッションの新たな創造手法でもあるブリコラージュを真似て、
この本からブリコラージュして「なぜ、”エルメスーマルタン”がすごいのか?」を論じてみよう。
*「ヴォーグで見たヴォーグ」/G.ミラベラ著:実川元子訳:文春文庫刊1997年:
『私にとってファッションとは、女性たちが生活を楽しみ、喜びを見つけるのを
助ける手段の一つである。魅力的で、時には贅沢な道具といっても良い。』

 1997年から2003年の間、マルタン・チームが手がけ情熱を傾けてきたメゾン・エルメスの
女性服は彼たちによる「スタイル・エルメス」の追求にあり、このスタイルそのものが
”凄かった”のだろう。
『ファッションにおける”スタイル”とは女性が自分をどう表現するか?
世界とどのように接してゆくかの姿勢そのものである。服をどう着こなすかであり、
それ以上のもっと深い意味それがつまり、女性が生きる姿勢である。
このスタイルは金額も流行も「小綺麗に装う」ことも超えたところにある』

 これをマルタンはメゾン・エルメスという王道を手管にとって
エルメス哲学&クオリティを根幹に、自身が一度は試みてみたかった理想の女性の世界観、
「スタイル・エルメス」をこれ以上、出来るであろうかというまでの領域の創造に
挑戦したことの結果が”エルメスーマルタン”の「凄い」を生んだ。
 マルタンが求めた「スタイル・エルメス」は勿論、このメゾン・エルメスが哲学とし、
価値と考えているクラフトマン・シップという”職人仕事の愛情と情熱”に委ねられ
また、このメゾンが持ち得ている”価格は品質への障壁ではない”という経営倫理学に
育まれた”スタイル”に徹した仕事をマルタン自身も職人的に関わった結果であろう。
 『女性が仕事をする世界でより知的に競い合うためには、
よいスタイルを学ぶ必要がある。服は機能的でなくてはならない。
だが機能的なだけではだめだ。もう一つ素敵に上品に見せてくれなくてはならない。
現代女性は便利でかっこいい手帳や携帯電話やPCを欲しがるのと同じ次元で、
機能的に満足でき、素材によって自分をエレガントに見せてくれる服を求めている。』

 そこで、マルタンは洗練された慎重な服をプレゼンテーションするショー・モデルの
キャスティングによっても多くの新しい「スタイル・エルメス」を定義した。
40代と50代の魅力的な女性たちは、アン・ロハートのような元モデルの多くが、
チョコレート・アンクル長さのノースリーブのドレスに時代を超越した、
ざらつきのあるサイドジッパー付きパンツの上にでドレスを強調し、
過度の軽快なエアリー・レインコート、静かに深く切り込まれたVネックと
柔らかいテーラード・ショルダーでチュニックに似たベール・ウール・ジャケットと
パンツ、そしてしばしばネックのないコートの下で滑り落ちる広いカシミア・ローブは、
「スタイル・エルメス」を基盤からはずしたくないという明確な意図を語った
提案でもあった。 
 ここで、古くからパリの友人である、S.ヴァルニュェ氏**の証言を,
「マルタンは、エルメスのアイデンティティを定義するために、
幾つかのボキャブラリィを作り手たちであるクラフトマンたちへの
共通言語として投げかけました。(細部、心配、明度、などへの注意のような)
彼のアプローチは真に思想家の一人であり、ブランドをそのような深さで理解して、
エルメス自身よりもエルメスになったのです。彼はエルメスに何も追加しなかった。
逆にエルメス以外のものは差し引いた。
 彼はブランドを明確にし、それを劇的に特別にしました。
だから彼の作品のどれもがとにかく老化していないのです。
彼らは本当に時代を超越していました。」
**S.ヴァルニュェ氏/Stéphane Wargnier;元エルメス広報戦略担当談。

 「メゾン・エルメスとM.マルジェラの関係性あるいは、イメージの新陳代謝」
 「陰と陽の交わりから第3の”気”が生まれる。
陰と陽に印つけられた事物は、それぞれ特権的な対応関係で結ばれた相手を持ち、
それぞれの独自性を尊重しながら、互いの特質をより深めてゆく。
そして、第3の”気”は陰と陽が自らの最良の部分を抽出することによって、
より高い次元での完成に向かって変容を遂げるように促すのだ。」
F.Cheng/「すべてうつくしいものは、かけがえがない」

/phebus社刊”陰陽と第三の”気”」から。
 このメゾン・エルメスとM.マルジェラの関係性とはこのような陰と陽から生まれた
第三の気に例えられるだろう。
 この時期を思い起こすと、”ラグジュアリィー”という新たなファッションビジネスの
ステータスが再構築され始めた時期であった。これ以後、グローバリズムに乗って
このモードの世界は上は”ラグジュアリィー”、下は”ファスト・ファッション”という構造を
特化し始めた時代性でもあり、当時のファッションメディアも多くを語った。
LVMHグループは、LVブランドにM.ジェイコブをやっと採用して’98年からスタートしている。
しかし、当時のメディア評は新たな新しさとエネルギィイ補充、というニュアンスが多く
故に、ブランドとデザイナーの関係は”結婚”とまではいかず、がさつな表現をすれば、
”同棲”時代として始まったようだ。
 ではこの”水と油”的なるメゾン・エルメスとM.マルジェラの関係は
それぞれがどのような発端で誕生したのであろうか?
 マルタン側の証言、今回の展覧会の会場構成をディレクションしたアントワープの旧友、
Bob Verhelst*の証言。
 彼はM.M.M.の数少ない確か4人ほどで始まったオリジナルメンバーでもあった。
その彼が思い出して語ってくれたこと、
 「ある時、マルタンの夢をともに現実化したこのメゾンの社長であるマダム ジェニーと
マルタンの3人で食事をしていた時、マルタンがジェニーさんに、
”全てが完璧なるハイ・モードをデザインしてみたい。”
と熱く語り始めたという。そして、この話の後しばらくしてからジェニィーさんが
”エルメスから話が打診された”という知らせが来たと言う。」
Bob Verhelst*/ scenographer /http://www.fashioninantwerp.be/designer/bob-verhelst
 エルメス側の証言はもう一度、S.ヴァルニュェ氏、
「Jean-Louis Dumas前社長は、Claude Brouet(仏Elle誌とMarie-Claire誌の前編集長)を
相談役として、今後のエルメスについて多くのことを長い時間を掛けて話あっていました。
そして、以前はMartin Margielaのショーでモデリングもした経験がある
Dumas氏の娘、Sandrineとも話し合い、この二人がメゾン・エルメスには強力で
斬新なモード・スピリッツな視点を持って新たなエルメスに
熱きエネルギィイを注入できる才能として、
マルタン・マルジェラの名前を彼、ジャン=ルイに提言した。
 そのマルタンは職人技とデザインに対する概念的アプローチそして、
匿名のままにしたいというアルチザン的な欲求に焦点を絞っていたので、
このすべてが彼を完全な候補者にし、ジャン=ルイはこの彼の挑戦を愛し、
受けて現実となったのです。」
 結果、ジャン=ルイ・デュマ社長の主張であるマルタン雇用は、エルメスにその本質的な
根本主義を実証する機会を与えた。マルタンのアイデアは、個人的な裁量と、個人的な喜びに
根ざした”生活に根ざした贅沢”がコンセプトでした。
 パリ・エルメスの店でのデヴューコレクションは、カシミヤとディースキンと
ハイテク・シンセティックのレイヤーが特色。また、カシミア・ラップコートは
”ファッションレス・ファッション・ジャンパー”として特徴付けられファッション評論家は、
それを贅沢のルールの思慮深い放棄と賞賛した。そして、全体的な印象は、
エルメスとマルタンとの珍しい結婚が理にかなっていることが証明された。

 「なぜ今この展覧会なのか?」
 その一つは、「20年目」という記念。パリモードの世界では”20年周期”という言葉が
未だに信じられ、使われこれが”トレンド”の源流にもなっている。
 このアントワープMoMu美術館での今回の”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展も
このプロジェクトが今年で20年目という節目で行われている所以でもある。
 もう一つは、モードの世界も実ビジネスの現在状況は”ファスト・ファッション”によって
完全に征服されてしまっている。ラグジュアリィーブランドもショーピース以外の
ワンポイントもののビジネス形態はすでに、「SPA構造」によって賄われているのが
現実である。そんな現実において、このメゾン・エルメスは変わらず、
”クラフトマン・シップ”にこだわったヒューマニティ豊かなモノつくりに委ねている。
したがって、この「老舗精神」を時折、アッピールすること自体がメゾン文化と
アイデンティティを刷新するには総てであること。
すなわちフランス国の国策でもある、「文化は武器である」というラグジュアリィー・
コンセプトが強く継続されている 一端でもあり、
「この時代の、このデザインそのものが今では、また新しいものである」という
”時代とはリバーシブル”だという眼差しもある。
 そして、クリエーションの観点からでは、
[グローバリズム="SPA"=フアスト・ファッション=アイテム売り。]というこのような現実の
流れがファッションビジネスのそのものになってしまっているのが昨今である。
したがって、この"エルメスーマルタンプロジェクト"でクリエーションされ提案された
”着回しができる服”が今、一度新しさを持って、”モード”へ戻ってくる。
 このような時代になれば、マルタンが自身のブランド、M.M.M.で行ってきた
”脱構築”がより、ラグジュアリィーブランドを任された若手デザイナーに学習され、
この”エルメスーマルタン・ライン”がサンプリングされて、再来するのは当然である。
 現代のファッションクリエーションそのものに新しさがなくなり、
全てが”ブリコラージュドゥアーカイヴ”の手法になった現在では、
この「着回し」ができる服がこれからまた新しさを呼び始めるという
視点の時代性でもあるだろう。
 今の若いデザイナーや着る側の世代たちにとっては全く、未知なる、
”新しく、新鮮な気分”なのだから。

 「”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”での彼のクリエーションとは?」
 マルタンはメゾン・エルメスという王道の中で彼が挑戦したくなった、
”マルタン流これがラグジュアリィーの極め”であるための重要なこと、
大切にするべきとこは選ばれた素材の贅沢と色の贅沢そして、優雅な着こなしが
着た女性たちを快適にできることを、エルメスのアトリエの人たちと関わることによって
大いに深く学んだ結果がこのシリーズのクリエーションの根幹になっている。
したがって先述、ステファンが語ったように、
「エルメス自身よりもエルメスになったのです。」という言葉になるのだろう。
 ディレクターのカート・デボのインタビューは
始終、マルタンの残したエルメスコレクションを着る女性の眼差しでマルタンの凄さを語る。
 まず、前社長であるJ.L.デュマ氏が語ったという彼らたちの関係性のリスペクトしあった
1点は、「マルタンは確実に、クラフトマン・シップを理解している。もしかしたら、
自分たち以上にだ。」に現れていたという。
 そして、マルタンのこのブランドにかけた”創造のための発想”とは、
彼は自分たちがやってきた脱構築やビンテージから学んだものをより、コンセプトに
ロジックにエルメスコレクションに用いて、多くのアイディアを
イノベーションさせた結果だという。 そこでは、着る女性たちの個人的な枠組みと
そのためのフレームワークが大いなるコンセプトであり、
ディテールそのものは大切であるが、見た目だけのものではなく
彼のコンセプトはもっと深いところにあった。
それはデザインの全ての要素が着る女性のために考えられたもので、
女性の体つきをより、美しく見せるため、楽しみとして、あるいは遊びとしての
コーディネートがなされるまでに考えられ、これがトータル14シーズンのコレクションが
全て”ワードローブ”となるまでのコンセプトでもあった。
それは着る女性の身体をリスペクトした、女性のボディのためにどのようなコンセプトで
プレゼンテーションが可能か?というまでに着る女性のためが考えられたデザインであった。
 そして、これらの14シーズンのスポーティレジャーウエアーには3つのベーシックな
エレメント、タイムレス、カンファタブルそして、タクティリティが考えられている。
例えば、楽しんでいろいろな着回しができるようにデザインがなされているレインコート。
これは着た女性がどのように快適に着こなせるかが大切に考えられている。
基本的には、ナチュラルシルエットであり、アンコンストラクションな素材。
ノーショルダー、ノーネックそして、羽織るもの。
これらが着る女性を快適に心地よさを与えるデザインの根幹であり、
プリントを使わず、派手な色も用いず、アクセサリーも使わず、
しかも色は、白、黒、茶色とベージュに絞り、 女性を快適に心地よさを与える
ラグジュアリーファッションの着こなしとそのあり方を提案した。
 もう一方では使う素材の素晴らしさと素材の開発にも心を配った。
それはただ高級素材のカシミヤだけを使うのではない。
例えば、6種類のセーターも彼の素材へのラグジュアリィー感がデザインされている。
彼は、「糸は思い出を抱いている。」という。
カシミヤのように見せるシェトランドウール、実際のシェットランドは直接肌に着ると
痒いものそこで、また、フラネルのように見せるカシミヤやキャメルの扱い方など、
これらの素材の使い方とアイディアそのものが”ラグジュアリー”でした。
 また、マルタンは 今までのヴィジュアルなエルメスらしさとしての
カレやプリントや派手な色は決して使わず、ラグジュアリィーとは何かを
新たな切り口でディレクションをした。
ニューダイレクションとはこのようなリアルラグジュアリィであり、
マルタン以後、”ラグジュアリィーとは”どうディレクションすれば良いかを
決して、”ロゴ”だけを用いることがそれではないと世間は知ることになる先駆けでもあった。
これらに寄って、マルタンは 確かに、エルメスに何かをもたらし、革命を起こした。
一方、彼らたちのオリジナルブランド、M.M.M.で行って来たいわゆる、
「レトロアイディア」、インサイドアウトやパッチワークなどのアイディアそのものも
エルメスの例えば、ムートンジャケットなどにも使いまわした。
 また、マルタンは自分たちのエルメスを誰に、どのような女性に来てもらいたいかまでを
熟知していた。
 今回の展覧会のための服はほとんどがエルメスが持っているアーカイヴであり、
足らないものは個人的な人たちから集めた。マルタンはこれらのアーカイヴは持っていない。
しかし、彼のチームの女性たちは当然このコレクションに大いなる興味を持って色々な
アイディアを提言してまとめられて作られたという。
 例えば、彼のコオトはノーボタンであり、ノーポケットである。
多くのものを取り去ってミニマムなところでの身体と服の関係性をも追求した。
ここで、マルタンは日本の着物を学び 通じてその哲学的で静的なシルエットを見つける。
これは着る女性の身体とのヴォリュームのバランスであり、多くを日本から学んだ。
着物は肩骨と腰骨、骨で着る平面構成の衣類であり、
洋服は肉、バストとヒップで着る3D.もの。したがってパターンメイキングが必要である。
また、マルタンのオリジナルラインには肩をポイントとした一群のデザインがある。
ショルダーの変化をパーツ化し、それぞれのアイテムを生み出したが、
このアイディアもエルメスで使われた。
肩とそこに掛ける上質な素材によって生まれる生地の流れ、
そのシルエットはゆったりとした快適さを生む。
これは着こなしの変化が着る女性の気分の変化へ通じ結果的には
シンプルな穏やかさを与える服になるという。
ここにはクラフトマンシップと人間工学的な組み合わせによる
女性のためのデザインが考えられていた。
 マルタンのデザインとは90年代のコンセプトが強いデザインであるが,
そのコンセプトが”ジェンダー”というロジックでどのような女性たちの日常性にどのように、
最終的には女性たちがそれぞれ持っている個性とそのパーソナリティへ,
”MAY I HELP YOU?”です。
 そして、タイムレス・デザイン、時代を超越できるデザインが理想だという。
 Jean-Louis Dumas氏はマルタンが「アルチザンシップ、テーラリングそして、
クラフトマンシップを熟知していて、どのようなものがよく売れるものなのかも知っている。
この結果、エルメスへ ”新しいさ”をもたらした。
そして、僕たち以上にヘルメスを知ってしまった。」と彼をリスペクトし、賛美していた。
文責/平川武治:
3月10日/Antwerp MoMuにて、Kaat Deboとインタヴュー。
(この原稿は日経新聞 日曜版執筆原稿のためのエスキース原稿です。)


 



投稿者 : editor | 2017年05月10日 22:24 | comment and transrate this entry (0)

2017年01月28日

Paris Haute Couture Fashion Week/中里唯馬コレクション;

Paris Haute Couture Fashion Week/
 Yuma Nakasato;
 「愉しみにしていた。」 
このクチュリエの先シーズンに引き続いて、第2回目のパリ・オートクチュールコレクションウイークでのデフィレである。
 巴里の”モードの大黒柱”であるクチュールコレクションに参加する或いは、出来得る日本人デザイナーは数が少ない。プレタポルテのデザイナーは自分たちがその掛かる資金を準備すればなんとかなる世界である。だが、この街の”モードの懐”はそんなに実際は広くない。特に、”クチュール”の世界は別世界であった。例えば、なんでもそうであるが”2nd.ライン”はそれなりのその立場での役割がある。この構造をそのまま、ビジネスにもしてしまっているのがこの街の”モードの世界”そのものでもある。クチュールに対するセカンドラインとしてのプレタポルテ。
 だから少し、以前まではこの街のモードの人たちもこのクチュールの世界とそのテリトリィーを頑なに堅持してきたがやはり、時代が”変革”したために、そのガードが緩み始めた。
 例えば、この街に僕の好きなカルチェェ、”サンマルタン運河”がある。これを最近のモードの世界に委ねてみよう。それは運河に新しい流れを作ることでその水面のレベルが上昇して船の川上への運行が可能になるという迄の構造手法によってすでに16世紀にはこの街で作られていたという。この手法が最近のモード組合(サンディカ)の戦略として読める。当然であるが、まだ古い手法としての「金次第」というのも残っているが。
 従って、この街のクチュリエたちとその周辺たちを刺激する迄の「あたらしい自由」によっての、「新しさ」を創造できる若いクリエーターたちがウエルカムされる構造になり始めた。
例えば、もう一方で評判が高まってきたオランダ人、IRS VAN H.嬢もその一人である。因みに、彼女は合衆国の3Dプリンターメーカーの企業力によって現在の立ち居場所が生まれた。

 「継続することもクリエーション。」
だから、唯馬君がこのクチュールコレクションを継続することそのものがまず、創造の世界につながる素晴らしいさである。
 多くのこの街に住んでいる?日本人の若い人たちが集まってきて見ていたが、彼らたちはまず巴里でこのコレクションが継続できることの大変さ。そして、それ自体の産業構造自体に対して無知であろう。このレベルは日本から取材に訪れているジャーナリストたちもほとんど勉強していないだろう。ただ、日本人がやるというレベルの次元で見にきている人たちが大半であった。  
 これが、僕が言う、そもそもの”壁紙”の始まりである。表層の変化のみを追っかけるが、「壁紙」の裏には「構造体」があり、”壁紙”は構造体の上に貼られるもの。
 継続させること自体に”創造性”がないとこの街ではすぐに外される。
ただ続けるには「金次第」の世界がすぐに”お手伝いしましょう”と、どこからか寄り集まってくる。

 「全てに、よく頑張った。」
 前回は僕が浅はかに見間違えてしまったので今回はどれだけ”進化”させたのかあるいは、”エボリュート”させたのか?それを感じ、見れることが楽しみだった。
 しかし、デフィレだけは又もや、どのように今回の彼の世界観がエボリュートされたのかほとんど不明である。暗闇の中から浮かび上がる全体の佇まいが美しすぎるからだ。
 翌日、展示会へ行ってまたもや、話を伺う。
確実に基本となる”エレメント”が幾つか増えている。そのために、それぞれを結合させるためのいわゆる”結界”部分を構造化する”部品”も新たに作られている。このパーツの開発によって確実に彼の”レゴ”の組み合わせにバリエーションと構築性が生まれた。ということはこの彼のアイディアと創造により、幅と深みと変化が出せるまでにエボリュートさせたのが今シーズンであった。
 やはり、彼は”レゴ・ジェネレーション”だ。そして、彼が創り出す世界とは「数学」の世界から生み出される。それぞれの”エレメント”が”数字”である。”エレメント”を並べ替えるだけでそのヴァリエーションは”無数”という世界である。

 「キャスティングが良かった。」
もう一つ、僕が彼の「あたらしい自由」さを感じ取ったことの一つに、今回のキャスティングがあった。このような時代性になると、モデルのキャスティングは大事であり、彼女たちによってコレクションの世界観までもが伝わるからだ。ただ美しいだけ、が大半を占めすキャスティング。唯馬君はここから遠ざかって、自分の”世界観”をその「あたらしい自由」さでまとめた。
彼のキャスティングにおいても”ジェンダー・ミックス”がなされていた。
 「あたらしい酒はあたらしい革袋に」のコンセプトがここにも使われていた。
あたらしい手法による新たなモードを平凡な、当たり前の”美しいさ”に着てもらうのではなく、”あたらしい女性”(ジェンダーミックス)に委ねたことが僕にはとても、新鮮に感じられた。
 ここで彼の今回の作品からは数年前にも好きで訪れた、ヴィエナの美術館の薄暗い一室に飾られていたG.クリムトの1枚のタブローをその色彩の美しさからイマジネーションした。
 次回も楽しみにさせてください。
ありがとう、唯馬君。

 前回の彼についてのブログです。
参照/http://lepli.org/discipline/articles/2016/09/post_160.html

投稿者 : editor | 2017年01月28日 23:03 | comment and transrate this entry (0)

2017年01月23日

速報/#Paris Fashion Week Homme-6/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 22日//JULIAN DAVIED;
 このブランドコレクションにも「アンビギュティな性」が描かれていた。
「性」に教戒があるとすれば、現代社会のようにその「性」に「真実ぽっさ」を委ねると、
”世間”はどのような様を見せるのであろうか?

 その時代のモードにおけるオリジナル”アイコン”で在った創られたマダムCOCO−シャネルの
存在とその後の立ち居場所も考慮すると、女性モード史における「アイコン/ミューズたち」の
そのほとんどが、彼女たちの”生き方”、それぞれの時代に「あたらしい自由さ」を持ってその
時代の社会に堂々と生きる女性たちであった。
 このシナリオは戦後も続く。また新たな戦後という時代に平和が訪れてき始めた’67年頃には
あのYSLが自分たちの立ち居場所に対峙するターゲットとして、「あたらしい自由」を持って生き抜こうとしている女性たちから自分たちの好みにあったミューズを探し出し、彼女たちをその「あたらしい時代」の”アイコン”に仕立て上げてきた。これがこの街のモードの一種の戦略的
手法であり、シナリオだった。

 ここで、それぞれの時代の女性たちが時代に対して持ち得た「あたらしい自由」とは何だったのか?を改めて考える。
 ”ウーマン・レボリューション”に始まって、”フェミニズム”へ発展しそして、”ジェンダー”論
までへも駆け上って、”ポスト・ジェンダー”へ至ってきたのが戦後の女性の新しい生き方の
全てであった。この表層はどのように社会に関わるか?どのような生き方を行なって子供を育てるか?そして、伴侶の人と家庭を守ってゆくか?これらのための価値観であり、具体的な方法としての生き方でありそして、そのための努力であった。
 が、そんな彼女たちのもう一つの「あたらしい自由」は「性」へも当然向けられた。
その解り易い現実は女性たちにも”同性愛者”というゾーンが生まれ始める。
ここでも根幹は人間世界は「男」と「女」だけの性差の世界であったはずが、「もう一つの性」が誕生したことである。
 しかし、表層はあらたな新しさを生み出すが、現実と現存の”世間”における「男」と「女」の間にもこの「あたらしい自由」は染み込み始め、従来からの”関係性”にも色々な影響が生まれ始め、それらが及ぼす表層は”離婚”や”家庭崩壊””片親家族”などの現実をクラッチし始め、生み出す”関係性”に対してのこゝろの不安や不信と不誠実などが生む”ストレス”を多く被るまでの社会性にもなった。
 僕が言いたいのは従来の古い”世間”を維持してきた宗教モラルに依って構築され一つの価値観にまでなってしまった”性モラル”がここにきて彼女たちや彼らたちの「あたらしい自由」に依って変革し始めているという見方である。
 この表層に、2004年に語り始められた、「ポリアモリー」がある。
しかし、この「ポリアモリー」の立ち居場所の現在は肩身の狭い状況に置かれてしまっている。”世間”の古い性モラルから大いにヘイトされ、”同性愛者”たちからもその一線を引かれてしまった立ち居場所のようである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%83%BC
 「あたらしい自由」を”性モラル”の中へ持ち込んだことによってその”関係性”が大きく揺れたのだろうか?この「ポリアモリー」も実は「真実っぽさ」の中で産み落とされてしっまた「新しさ」なのだろう。

 JULIANのコレクションは好きである。
東京のストリートを彼のたち居場所とそこからの眼差しで気持ちのいい”距離感”を持ってその世界を僕たちに見せてくれていたからである。彼のリアリティが持ち得たネイション・アイデンティティからの"差異”がセンス良く細やかさとともに爽やかにまとめられた上質なコレクションだからだった。それに、彼が”オプション”する素材は時代感を触れさしてくれるまでの日本素材が多いことも気に入っていた理由だった。
 その多くは変わらないであろうが、ここ数シーズン来この”差異感”が少し変化したように感じる。外国人が長く異国に住むと経験する”距離感”は変わらないが、それに対する”差異感”は変化し始める。多分、自心の中に存在している”ネイション・アイデンティティ”が蠢き、より働きかけ始まるのだろう。これは僕のようなものがこの巴里へ来だして、住みだしてそこで現れた変化でもある。
 彼のコレクションで言えばやはり、ウイメンズへの彼が持っていた”差異感”が変わった。
ということは彼の「女性観」が成長したのだろう。ここに彼の”リアリティ”も関係しているだろう。

 このメンズコレクションでは、1993年には日本でも公開された映画、「Empire of the Sun/太陽の帝国」をなぜか思い出した。
 原作がJ.G.バラード、監督がS.スティルバーグ。音楽がJ.ウイリアムスという豪華な顔ぶれによって制作されたいい映画だった。僕の好きなJ.マルコヴィッチが変わらぬうまい演技をして少年を助けていた。上海に残されてしまったイギリス人戦争孤児の少年とアメリカ兵が出会ってめばえる友情物語だったように記憶している。元”キッドブラザース”の男優だったロンドン時代の友人も出ていたので記憶していた。
 廃棄になった戦闘機を遊び場所にして、そこに残された落下傘や帽子や制服という帝国軍国
主義の象徴が残骸化されてコード化され、少年たちの”あたらしい自由”のための遊び道具になって登場したからであろうか?
 コレクションのトータルな視点はやはり、今シーズンのキーワードである「ゆるさ」でまとめられた、現代の若者たちの”ストリート・ユニフォーム”+”ヘビィー・ドゥティー”の足し算のデザイン。そこへ、”山岳スポーツ”を足元でアクセントに加える。
 
 この”ゆるさ””と”アンビギュティな性”いうクオリティに委ねられた”GENDER MIX"。
JULIANが手がけたコレクションから感じた心優しい熟しがこの映画を僕に久し振りに思い出させてくれた。
 ありがとう。
文責/平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2017年01月23日 21:26 | comment and transrate this entry (0)

2017年01月22日

速報/#Paris Fashion Week Homme-5/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 21日//White Mountaineering ;
 噂に聞いていたブランドをパリで初めて見せていただく。
始めに、プロ意識を強く感じた。それは全てに、”プロ”であることとは確りとした”プロダクト”によってちゃんとした”ガーメント”になっていることである。

 大半の若いデザイナーがこの街へやってくるとき、自分たちが持ち得た”夢”への挑戦であり、その結果が”自己満”になってしまうことが多い。
 自分たちの”リスクとコスト”でこの街にやって来てそれが”継続”される可能性は非常に難しい。それなりに日本で儲けてこなければ出来得ない現実であるので、器用に”他人の褌”をかき集めて”カッコつけに”来るデザイナーが増えた。そんな連中は、ほとんどが僕が言うところの
”壁紙デザイナー”であり、コレクションも”スタイリング”コレクションに偏っている。
したがって、見せかけのデザインが多く、ガーメントとプライスが合わない。そこで、アルバイトをして資金をかき集めてとりあえずは自分の”夢”=”自己満”のレベルで”パリ・コレ参加”をプロパガンダする。そうしたら、自分も一端のデザイナーになった気分で、わずかな経験とその周辺から聞こえてくる業界話を語ってしまい、余計に”カッコつける”。この大いなる勘違いをさせるのが、雑誌メディアや今では素人に近いブロガーたちがこのレベルをインタヴューと称して聞いてしまう、この悪影響でしかない。この手の連中は”小さな嘘”を平気でつくことからファッション業界人になってゆく。これを始めると、彼らたちのその後の人生は”小さな嘘”の”上塗り”人生となる。
 この手の連中は、アンデルセンの「裸の王様」をどのように読み込むか?理解していないであろう。あるいは、ちゃんと読んでないかもしれない。
 30年以上もこの街のコレクションを見続けてきた僕の経験からの判断ははっきりしている。
このような「豚もおだてりゃ、木に登る」のデザイナーさんが変わらず、この街へやって来ている。

 このブランドの”プロ”さとは、”プロ”感とは?
当たり前であるが、冒頭にも言ったが、ちゃんとした”商品”をデザインして製品にしていること。デザインとはアートではなく、産業製品であり、それがそれ相当の機能を持ち、そのための素材選びが為されていて、その上での後加工とディーテールデザインがあり結果、ブランドとしての”世界観”を生み出していることである。”世界観”とはそのデザイナーとそのチームが持ち得た「文化度」である。この「文化度」は、スキルであり、経験であり教養でありそして、技術で構成されたものと、持ち得た”美意識”によって齎されるものである。ここから”商品”としてのクオリティが生まれ、商品としての”テイスト”がつけられるまでの結果を僕は”プロ”という。
 ショーで見たこのブランドの”商品”は、選ばれた”色”にハーモニィーがあり、そこへ加えられた柄やプリントにポジティフな神経が施され、選ばれた素材は冷静に吟味され、着る人へ優しさを与える心使いを感じるものであり、それらをどのように使ってやれば美しいシルエットが生まれ、それらをどのようなアイテムに落とし込んでやればそれらの素材が”成仏”し、どのようなコーディネートを提案してあげると着る人にその”商品”の雰囲気が与えられるか?ここまでを考えて心使って細部にまで凝ったデザインが為されている、だから”プロ”だと言い切れるのだ。

 ”プロテクション・カジュアル”と呼ぼう。
かなり、コアなる”プロテクション”がデザインなされている。これらはそれぞれの機能性を持ったパーツとしてデザインされてもいる。堂々としている。不安げなおどおどさはない。なので、”クール”なのだ!!
 このブランドの”プロ”さは僕にとっては戦国武将たちの”甲冑”を思い浮かべた。
着る武将たちの身分と位を表し、そのための素材を使いこなし、装飾されそして、身を守る機能を備えたものが”甲冑”である。
 現代日本社会の「安心のファッシズム」の中でこそ、このような”プロ”意識深い服を着込むこと、そのものが多分、着る若い人たちにとってのアイデンティティを生み与えるのだろう。
 ”プロ”とは”職人肌”がその身上でもある。
文責/ 平川武治;巴里11区:

投稿者 : editor | 2017年01月22日 07:47 | comment and transrate this entry (0)

2017年01月21日

速報/#Paris Fashion Week Homme-4/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 20日//CdG H.P.
 今シーズンのトレンド・コンセプトの一つに”ジェンダー・ミックス”がある。
アンビギューティなテーマだ。これそのものが”Truthiness"であり、現代の時代感を捉えた
シーズンコンセプトであり、今年の僕の新年のグリーティングに作った言葉、
「The world is the wall-paper that looks like a truthiness.」でもある。
 我らが世界へ誇る”ファッション・クリエーター”としてのCdGのデザイナー川久保玲はこの
テーマにこゝろ寄せそして、謳いあげた。
 果たして、ファッションゲットーの人たちにはその”真実っぽさ”だけでいいがだが、
どれだけのファッショングルーピーたちには共鳴しただろうか?

 証言その1、
 彼女が銀座のDSMに使っている彼女のアート・コレクション、”シンディーシャーマン”の写真が一つのコード化されておぼっちゃまたちの頭にのっかている。むしろ、彼らたちの脳みそは
”シンディー”と同じなのですよと言わんばかりに。
 2年ほど前に、僕はベルリンのギャラリィーでの”シンディー・シャーマン”展を訪れた。
新旧取り混ざったキューレーションの展覧会であったが、彼女がどのような写真に対する距離感からこの世界へ入ってきたかが判明した1枚を見たのが面白かった。それとは彼女自身の”ヴァギナ”を撮ったものである。
 この写真家も”自己顕示欲”が正常ではないレベルのフェロモンを持ち、放っている人間であり
女である。”世間”でアーチストと呼ばれている”女性芸術家”には不思議ではない性格と人格であり、そのほとんどが”アーチスト”願望と自己顕示欲が重なったタイプである。例えば、年老いて帰国後、有名芸術家になってしまったY.草間も然りである。ここに、生きることへの自分が出し得る”執着心”と”ガンバリ”の全てを読む。
 ここで僕が認識したこととは、彼女と写真に対する距離感、アーチストと作品の距離感である。

 証言ー2、
 僕はダイアン・アーヴァスの写真が好きだった。
1945年、彼女が身ごもった折にセルフポートレートを撮ったのが始まりで彼女は”写真”の世界に魅せられて、自分が居るべき世界であると信じ込んで1971年、自ら自宅バスタブで手首を切って自殺するまでの26年間をその多くはフリークスたちを撮り続けた。
 彼女は’20年代のN.Y.で毛皮商人から財を成した裕福なロシア系ユダヤ人の娘で18歳には
すでに結婚した。そして、自らが身ごもったその姿を鏡て見てしまったことから以前から興味を持っていた写真を自分でも写真機を持って街を徘徊し、見慣れない、見たくない、見れない人たちの存在と自分の距離感を友人のエスクワイー誌の編集者からプレスパスを借りて撮りまくった。当時では、家が裕福であることで可能な職業の一つ、”写真家”になり、いいカメラ機材をいつも新機種が出るたびに購入し、湯水のようにフィルムを使って自分の好奇心に触れる人たちを撮りまくっていた。その写すという彼女の根幹はかなり屈折していた。
 そんな彼女があるところへ招待されたことによってその2週間後にはN.Y.の自宅のバスタブで手首を切って自殺した。

 3年ほど前にこのパリの美術館で久しぶりに大規模のD.アーヴァスの展覧会を見た。
この写真家には全てに恵まれた生による、”自己愛からの醜さへの逃避”という”覗き見的”な距離感を彼女の写真から感じている。しかし、その撮り方は不躾さが感じられる被写体をいつも正面から強いストロボを使ってライティングするというかなりの自己欲求の冷酷な演出によって写されていた。
 そんな性格の彼女が以前、いつもの好奇心からニュージャージーの養護施設を訪れて作品を残していた。師匠であった、R.モデルからは良い批評が得られなかった作品でしたが、彼女の作品群ではいいポジションを占めたものになっている。
 そして、彼女はかつて訪れたこの養護施設から慈善バザーの招待を受けて再度訪れます。
ここで本当に”笑顔”がどれだけ幸せを表現するか?養護施設という”世間”の中に入って知った
初めての”笑顔”。この養護施設という”世間”の幼子たちの屈託のない、自由な心から生まれる美しい”笑顔”とその”生”の無垢さを知ってしまったことによって、ダイアンは自分の今までとは何を撮っていたのだっただろうか?フリークスを撮る”覗き見的な根幹とそれとは裏腹に、被写体が自分をどのように見ているか?までの自己意識との距離感で撮っていたことに気づき、思い知り
そして、持病の鬱と重なり苦悩の末、その2週間後に自殺を行なった。

 川久保玲はこのダイアン・アーヴァスにも大いなる影響を受けまた、彼女自身の育ちの中にも自分を重ねて見ていることによってのコレクションを例えば、飽くなき”黒”という素材や”ツインズ”を使うことなどの過去に幾つかあった。

 証言ー3、
 「彼女自身、”ジェンダー”とはをどれほど熟知しているのだろうか?」
自分自身の生き方が”ジェンダーフリー”だと思っているのだろうか?あるいは、思わせてしまっているのだろうか?または、思わされてしまっているのだろうか?
 今回のコレクションでは彼女自身がかなり欲求不満な眼差しを持ってコレクションを構築してしまったと感じた。
ここでは、僕は昔から彼女が手掛けた”オムプリュス特有のバランス感”がある時から消えてしまったことも思い出してしまった。今回そのバランス感をジャケットとパンツで出そうと試みているのだが、元には戻れていない。いや、戻らなかった。以前の、肩幅がゆったり目で、着丈が短いプリュス特有のかつての優しいオムプリュスのバランスが見られない。
 それを出したかったのだろうが、ここでは彼女のリアリティから生まれているはずの”ジェンダー”が感じられない。あるいは、彼女の実際の生は“ジェンダー”とは対峙したところにその根幹があったのではないか?あるいは、そうでありたいという思いからの生き方だったのか?
 それがあのバランス感になり、あの美しいタッグ・プリーツになり、コーディネートによる
”ジェンダー・ミックス”なのだろうか?それらは、余りにも「真実っぽい」だけである。
 美しいさに憧れるこゝろの有り様と、それを拒否するこゝろの有り様の対比によって生まれたとしか言いようも無い、背負い込んでしまった、フエルト(?)によるビーズ細工と”機関車”
と”自動車”。そして、シューズ。
 「シンディ、どうして機関車を車を背負ってしまったの?」トーマスは聞いただろうか?
ここにも川久保玲流の、一つのメタファーとしての”ジェンダー・ミックス”がコード化されていたのでしょうか?
 ここに彼女の「あたらしい自由」を感じ取るべきなのでしょうね。
きっと、展示会へ伺えば、思い切り着たくなるアイテムがちゃんと準備されているシーズンでしょうね。
文責/ 平川武治;巴里11区:
 


 

投稿者 : editor | 2017年01月21日 18:20 | comment and transrate this entry (0)

速報/#Paris Fashion Week Homme-3/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 20日//JUNYA-MAN:
 僕の小さな頃は少し郊外へ自転車で出るとまだ、小川があった。
その小川が本流と合流するところが面白くここに集まってくるただ浮かんだもの、浮かびながら彷徨っているもの、今にも沈みそうなもの、これら達をただ眺めているだけにたくさんの時間と雲とともに遊んだことを思い出した。
 なぜ、JUNYAのコレクションを見せて頂きながらこんなことを考えてしまったか?
ここに共通することは”浮遊物”あるいは、”ゴミ”である。
 僕の昭和30年代の思い出であるから60年も昔の記憶でしかない。
今、目前に次から次えと青年達が着せられてしまった今シーズンのコレクションを見ていると
乗ってしまった流れには逆らえない。ただ流されないように流れるだけだ。これは言葉にすると
簡単なようで実際には難しい。多分、その乗ってしまった流れから逸脱するにはまず、”自心の新しい自由”がそして、覚悟とコストと必要であろう。

 近年、”コラボ”というプロダクト手法が習慣になってしまた時代性がある。これは”デザイン手法”ではない。飽く迄も、合理性を元にした”プロダクト手法”でしかない。
 「”オリジナル”で生まれたモノ。それが”模倣”され始めその後には”習慣”になってしまう。」
これは僕の好きなG.ガルドが1911年に書いた「模倣の法則」から学んだことで、ファッションの世界の人間にはより、具体的に理解できることだろう。
 たしか、このブランドがウイメンズでこの処方”コラボレーション”を本格的に行った記憶がある。以後、世界レベルで可能なる世界のブランドは”習慣”になってしまった。
プロダクトにおける技術とスキルと情報と販路の共有化ビジネスである。
日本人ブランドだけのパワーでは不可能である。これも、いわゆる、ユダヤコミニティの関係性と「グローバリズム」の恩恵である。しかし、この発端を考えて行ったのは僕たちの「横丁のブランド」出身のUNDER COVERだったはずだ。
 
 さて、思い出を本流に戻そう。
その1、「流れに乗ってしまった以上、流れは変えられないのか?」
ここまで、”コラボ”におけるビジネスの”安全パイ”を考慮してのデザインディレクションは
少し、食傷気味になってしまったようだ。彼が乗ってしまったこの流れはこのデザイナー本人にとってハッピーなのだろうか? 自心の自由さが歓喜してのデザイン行為なのだろうか?
 彼のコレクションからこのデザイナー本人が見えてこないのである。すなわち、彼の真実であるリアリティが見えず、”真実っぽさ”が流されているだけと言う十数分。
 ここにも僕は「安心のファッシズム」を見てしまったようなのだ。
 その2、「昨日、書いたことが当たった。」そして、驚いた。
戦後、日本のメンズファッションのルーツであり、この企業のメンズラインの根幹でもある 
”VAN"がアメリカンスポーティ・カジュアルウエアーのメモリアルコードとして登場した。
 コレクションの中身は、「アメリカンスポーティ・カジュアルウエアー+ヘビィードウティ=RAP+SNOWBOARD=BLACK+WHITE」と読めるマーチャンダイジングの考えられた公式。
 ここでは、これほどまでに進化した(?)メンズファッションに与えられた名誉としてのコード「VAN」であろうか?あるいは、オリジナル回帰への”銘板”あるいは、沈みそうで、沈まないレッテル付きの”ゴミ”のようなものなのだろうか?
 その3、「流されてくる”重いゴミ”はこれからどこへ辿り着くのだろうか?途中で沈んでしまうのだろうか?誰かが掬い上げるのだろうか?」
 ショーの後半からはこれらのコラボ商品が重く感じられてきた。それなりの重素材とレザーが組み合わされたミックス・マテリアル、今シーズン売れっ子の”スタジャン”もある。多分、”ゴミ”と化した時には相当重たい”ゴミ”であろう。
 いつの時代かに、「もうゴミを出すことは考えない、なるべき出さないように!」と言う時代性の”壁紙”が一斉を風靡したこともあった。企業倫理が問われ、労働時間や問われる昨今当然、「出した”ゴミ”は自分たちで持って帰りましょう。」と小学校の低学年で教え込まれる。
それが、大人社会になると忘れられてしまう。いや、「都合の悪いことは”忘れる”ことで儲かるんだよ」。この響きは戦後荒廃した焼土の”世間”にはよく耳にした言葉であった。
 ここに日本人が大好きな「星の王子さま」の一文を思い出そう。
「かつて、子供だった頃を思っている大人は少ない。」

 ということで、僕のこのショーを見させていただき「かつて、子供だったことを思い出しました。」ありがとうございました。

 Junyaが大好きなファッションピープルにはこのブランドらしさが満載のコレクション。
新たなコラボメーカーも加わり、リーヴァイスデニムの新しさもあっの”RAP+SNOWBOARD"。これをどのように街で、横丁で着こなすか?メディアの煽り方も楽しみ。
文責/平川武治;巴里11区:

 
 

投稿者 : editor | 2017年01月21日 17:52 | comment and transrate this entry (0)

2017年01月20日

速報/#Paris Fashion Week Homme-2/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 19日//KOLOR :
 久しぶりに見せて頂いた。このブランドは当然だが、メンズがいい。
このブランドの世界観がすでに確率しているからだ。
 以前は、「もう、ウイメンズは止したほうがいい、勿体無い。」と直接、彼に不躾に提言したこともあった。が、辞めないで今日も見せて頂いた。
 こうして一つのショーの中で見るウイメンズはそのデザインポリシーとコンテンツにメンズとの連続性が見られ、展示会で見るウイメンズだけの時よりは”Kolor"らしさに理屈がつけられ、
まとめられていたので少し、安心した。当然であろう、メンズよりも気を使って細かなところまでオトコこゝろでデザインされているからだ。このデザイナーが女性を見るときにそのオトコ目線が何処から始まるかが、分かりやすいデザインが為されているという意味でもある。
 僕が感じるのは、このブランドのデザイン・コンテンツは正に、「This is the Tokyo-Design」そのものであり、そして、20数年、変わらないことが誠実でもある。
 素材の吟味から始まって、オリジナル素材のミックス・メディア化。それを如何に”料理”するかがこのブランドの巧さであり絶妙なバランス感と、器用さのブリコラージュ。
そして、”the Tokyo-Design”の極上とはパッチワークや裏使いの感覚の良さと、「ちょっとしたディーテールあるいは、ワンポイント・デザイン」のセンスの巧さとオマケ感覚であろう。
この”ちょっとしたディーテール”の巧さは日本人ブランドの巧さにもなっていて海外バイヤーたちが喜ぶ、”ウリ”に直接つながるデザインポイントである。
 この機会に「This is the Tokyo-Design」とはを考えてみると、
戦後日本のメンズファッションの根幹は、「アイビー」から始まる、ブランドではご存知であろうあの「VAN」でしかない。従って、「This is the Tokyo-Design」の根幹がここにある。
そして、日本発のメンズファッションのオリジナルマップとは、テーラードのスーチングか、「VAN」のアメリカンスポーツカジュアルか、古着屋御用達、ファッションDJの登場による
「横丁のカジュアル」すなわち「ストリートカジュアル」へと、この3部構成のミルフィーユ構造で出来上がってきた歴史がある。そこへ、パリ・コレ情報とそのデザインの影響が具体的に加わり、”ゲイ御用達”デザインが進化し始めたのが’90年台半ばから。これは”コムデギャルソンH.P.”をロンドン・クルーがディレクションし始めた時期と重なっている。例えば、それまでの川久保玲の”CdG Hオム”のその育ちは「VAN」であり、これを引き継いで進化系になったのが
”CdG.H.P."。ゆえに、ある意味で、元祖「TOKYO-IVY」ブランドであった。ここがY.Y.P.Hとの違いであり、"JUNYA-MAN"との違いでもある。
 因みに、”Y.Y.P.H"は懐かしくなってしまった日本のメンズ・ファッションの黎明期を構成した「TD6」時代の菊池武夫や松田光弘から遠く離れた自己顕示な「前衛」が根幹。
そして、"JUNYA-MAN"のこの企業内での棲み分けは、”ストリートカジュアル+ヘビーデゥーティ”に委ねているはずだ。
 なぜ、このような事を言うかと言えば、このデザイナー、阿部くんのキャリアの根幹がここに存在したからである。そして、彼の独立後のキャリア(PPCM)もこのカテゴリィーから始まり現在のKolorに至っていることが”This is the Tokyo-Design”と呼ぶに由来している僕の根拠である。
 視点をKOLORコレクションに戻そう。
今シーズンのコレクションに感じる、この”ゆるさ”がなんとも絶妙の”ゆるさ”加減。スーチングも無く、フード付きも無い”ゆるさ”そして、全編、”ファー付きパッチワークサンダル”。
 これが出来るようになったこのブランドの巧さと強かさに拍手。ここには経験と自信の裏付けがある。それにやはりメンズではより、パターンメイキングの上手さが表層の構築感を出す。
この時にこの”ゆるみ”感はより、パターンメイキングと素材のオプションとのコンビネーションでしか生まれないからだ。ショー後、バックステージに行って実際にサンプルを触ってみる。
僕が好きだった、ライトグレーのワークスからインスパイアーされて出来上がったセット・アップ。この素材も見た目はフランネルかと思ったが触ってみるとより、腰のある織りのいい素材で
料理されたもの。裏地のこなし方、ヘムの”ゆるみ”の出汁加減。パンツの”ちょっとしたディーテール”であるステッチ装飾等など、ありがとうがざいました。
 そして、このメゾンでも”ネクタイ”が現れなかった。
この”ゆるさ”感と”ノーネクタイ”が「安心のファッシズム」という時代性のアイローニなのだろうか?あるいは、”ユニフォーム”なのだろうか???
文責/ 平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2017年01月20日 05:26 | comment and transrate this entry (0)

2017年01月18日

速報/#Paris Fashion Week Homme-1/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 18日//FACETASM:
 「若さゆえ」という言葉がこの街にもあったことを思い出した。
この街の人間よりも日本人の方に知られていたあのJ.コクトーの作品に「アンファン テリブル」という小説があったことを思い出した。
 「若さゆえ」とは、迸るエネルギィイがあり、生意気さがある。それに、未熟さがある。
だがもう一つ、無知さもある。
 今朝のこのブランドのデフィレを見て感じた言葉がこの言葉だった。
”分量”というトレンドを意識しすぎた、”オーバー・コーディ”なショー。
 その反面、後ろでディレクションしている本人の不安げさと落ち着きのなさ、
そこから生まれる”おどおどさ”が感じ取れるまでのショーだった。
決して、肝が座って作られたものではない。
 「若さゆえ」、廻りを気にし、いい顔をしたい、させたいためにまとめられた、カッコつけて頑張った”東京ストリート ブリコラージュ”な壁紙だった。なので、音で助かっていた。
 しかし、時折その姿を現すウイメンズはいい。まるで、性格も、イマジネーションもが対峙するユニット・ブランドである。
 デザインすることの巧さは確実にこのウイメンズ・ラインには存在している。
それに女性特有の思い切りの良さが伺える、その良さが着る女性たちを”若さゆえ”心地よく感じさせるまでの大胆なデザインとコーディネートに落とされ着る女性に委ねられている。
 したがって、確実の”彼女”が手がけるウイメンズの方が才能を伺わせているし、実際にあるユニット・ブランドだ。
 例えば、学校でちゃんと勉強をしてこなかったものと、学ぶための時代には確りと学んできたものとの差異あるいは歪みがここに現れている。
 例えば、このブランドのデフィレからウイメンズ・デザインを抜いてしまうとまるで、
朝の繁華街、厚化粧がゆえに剥がれかかっているただ、大きいポスターすなわち、「壁紙」が「安心のファッシズム」の中で周りをキョロキョロ手揉みしているだけのイメージ。 
 その結果、オムに関しては”分量”を何のために意識したのか?見せられたコーディート群は「隠しききれなかった自我あるいはアイデンティティー」若しくは、「思い切り委ねたいエゴシエーションあるいは甘え」でしかなかった。
 それともう一つ大事なところは、オムの”分量のコーディ”はただ、”重さのブリコラージュ”でしかなく、ウイメンズではこれらとともに、”軽さのブリコラージュ”も使う異素材感によって
バランス良くなされていた。この大胆さによって形作られた服には東京的な色気を生み出している。ここに僕は彼女のデザイン力を褒めるのです。
 彼が”good morning"で書いているように”定義なんか存在しないのだから”という嘗ての
マイルド・ヤンキーの「若さゆえ」の無知なる開き直り、なんでも有りでショウー。

 嘗てのマイルド・ヤンキーたちの多くの今は、パラサイトし既に、姿を消してしまった。
そして今や、「マイルド・ヤンキー ニュー・ファミリィー」たちのご登場ですからね!!

 そうそう、彼はJ.コクトーの「アンファン テリブル」を読んだのだろうか?
文責/平川武治:1月18日、巴里11区:

投稿者 : editor | 2017年01月18日 21:33 | comment and transrate this entry (0)

2016年12月30日

”今、ファッションが人に与える「HAPPINESS(幸福感)」とは何だろうか?”

 2017-シリーズー1/"However this ends, that's where we begin."  
「ファッションと幸せ感」、このような時代、”今、ファッションが人に与える
「HAPPINESS(幸福感)」とは何だろうか?” を考えてみるのもいいかもしれません。

 これを考える前に、まず、「生きることとは?」は大切な根幹です。
 ”夢を持って生きている人、希望を抱き、
あるいは、運命を抱いて生きている人や覚悟を持って生きている人。
目的があって生きている人そして、なんとなく生きている人。
コンプレックスを隠して生きている人そして、不安げに生きている人。”
いろんな人がいますね。

 この根幹によってもそれぞれの「HAPPINESS」観が違いますね。
また、それぞれの「生まれと育ち」という持ち得た「風土」によってもその幸せ感は違います。

 そして、
生きることのHAPPINESSとは?
人間が人間らしく生きるためのHAPPINESSとは?
生活することのHAPPINESSとは?
この根幹を自分の人生の中で既に、十分に考えている人たちにとっては
ファッションそのものには単純な「HAPPINESS(幸福感)」しか求めないでしょう。

 ”ファッション”が叶えてくれる”HAPPY"とは生活の「潤滑油」
或いは、「文章における”鍵・カッコ」ぐらいのものでしょうか。
或いは”ラッピング・ペーパー”あるいは、”壁紙”。

 もっと、現実的な”リアリティ”に目線を向けると、
所詮、”物欲”の世界が生み出すあらゆる”狩人的目線”としての、
”そうありたい/願望”が”HAPPY"へ通じる「壁紙」でしかないでしょう。

 もう、他人と違いたいがためにその願望をファッションへ委ねていた時代は終焉しましたね。
人間みんながそれぞれ持ち得た「幸せ感」は当然違っているものであるという自覚が
ファッションを楽しく、そこに”ファッションが与えてくれるHAPPINESS(幸福感)”が
在ったはずですね。

 現代のファッションの世界ではこの「幸せ感」は無くなってしまったのでしょうか?
”他者との差異感。”をファッションに求めていたリアリティもある種の”豊かさ”によって
「”他者たちと同化”するためにファッションがある」という迄の”習慣”を持ってしまった
世代たち。
ここには「模倣」から「習慣」という”差異”から”普遍”と言うベクトルが既に、
環境化されてしまった時代性。

 しかも、この「壁紙・HAPPINESS(幸福感)」はすぐに効力がなくなるのが昨今の特徴。
いつも”張り替え”作業が必然なリアリティであり、隣の「壁紙」を気にしながらの
単サイクルな行為になってしまった。

 したがって、ファッションによる「HAPPINESS(幸福感)」の一つは
その昔から変わらぬ、「狙った獲物を手にする」醍醐味のみになる。
即ち、「買う」こと或いは「手元に置く」こと、
自分のものにすると言う「所有欲」の日常化と習慣化がファッション・リアリティ。

 それが、ショップからネットそして、ネット・オークションというプロセスの変革によって
もたらされる「束の間の快感」の不連続な連続性に委ねてしまってる。
いわゆる、「持続可能な、快感」を諦め始めた世代たち。

「もう、ファッションで幸福感は得られない。つかの間の”妄想”。」???
 では、”HAPPINESS"そのものとは、何ですか?

 「近代」が生活の”豊かさ”と言うリアリティを持ち得たことによって、
時代「近代」の根幹であった「価値観」が変貌してしまった。
このズレが現代社会の表層へ”習慣”として大衆化し液化状況を生み出した。

 新たな時代としての近代の次なる時代としての”始まり”それが、「超・近代」なのか
「脱・近代」なの「ブリコラージュ・近代」かは別として、新たな時代を築くための、
「新たな価値観」が必要になろう。

 変わってしまった、”自然”と”環境”や”人間の欲望”と行くへ不明になってしまった”倫理観”。
”為すべき行為”への新たある価値観とその基準。
ここには、”豊かさ”なるゆえの「新しい倫理観」を求める叡智が必要であろう。

 その根幹は「人間性」であり、「宗教心」でありそして、「民族心」かもしれません。
「ナショナル・アイデンティティ」と「ネイション・アイデンティティ」の区別理解と
そのバランス化。
そこに生まれるのが「文化力」。
この新しい時代の始まりとこれからのあるべき時代の「価値観」の元で、
ファッションがどのように”ファッションを愛する人たち”に何が与えられるのだろうか?
 ここに、新たなファッションとHAPPINESSの関係性が生まれるだろう。

 より、人間が持ち得る「業・欲」に輝く”金メッキ”なラッピング・ペーパーでしかありえないのだろうか?
或いは、持ちえた日常のストレスへの”癒し”の一つ?

そこで考えられる一つのアイディア、「ユニフォーミズム」を超えたところに見えてくる
「Sophisticated Fashion」が考えられますね。

 いつでも、当たり前に、安心して何処ででも着られる身だしなみ豊かなファッションに感じさせられる文化力が生み出す着る人の「文化度」と”ずれ”を愉しむ「こゝろの有り様」。
あとは、イメージのボヤジナリィーが愉しみ。

 これが僕が感じる「Sophisticated Fashion」の根幹。
そして、新たなファッションとHAPPINESSのブリコラージュな関係性。
 そのこゝろは、"May I help you?"

 今年もよろしく、ご指導とご鞭撻がいただければ幸せです。
皆様も、知的感度豊かに、好奇心溢れる誠実な1年でありますように、
"Keep your the Force!!"
合掌。
文責/平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2016年12月30日 07:20 | comment and transrate this entry (0)

2016年12月26日

ファッションはもう”ユニフォーム”になってしまったという視点。

 『新年が穏やかに、おおらかなる年の初めをお迎えになられたことでしょう。
今年は”29/フクの年”。僕も老いて、ますます辛辣な意見と好奇心を
今年もモードの世界へ向けます。
変わらぬご鞭撻をよろしく。合掌。平川武治:

「これは終わりだが、始まりでもある」という時代観とは?;
 "However this ends, that's where we begin." とは、; 
 このP.トランプ当選後のM.ムーアの発言では,何が”終わり”、何が”始まる”というのでしょうか?僕が最近発言している、「近代」という時代が終わり、新たな時代性が誕生するだろうと
いう視点があります。これは皆さんの周りのより、現実的な世界を見ていただいて、何か、
今までとは違った”something new"な匂いや段取りの違い、気配などを感じ始めていませんか?これがすでに、”新しい何か”が始まっているファッドなリアリティでしょう。
 このファッドなリアリティの一辺づつをブリコラージュしてゆけば、”あたらしい自由”のみが生み出せるあらたな時代の”始まり”でしょう。
 例えば、『時代はまた、「ナマ/live」モノ感を必要とし始めました。
小劇場、ライヴ、フェス、ダンス、ラップ、スポーツ、それらに、習い事のヨガや色々。
 この裏には、バーチュアルなエモーションではなくより、直感できるナマな「エモーション」が恋しくなり始めたということでしょう。
 人と”繋がっても”そこにお互いが直感で直に繋がり合える”感動”がより、具体的に必要な時代が来ています。PCでの繋がりに限界ともどかしさをやっと感じ始めたからでしょうか?
 ここには、”便利”と”感動”は自ずから本質的に価値のレベルが違うことがわかり始めた新たな大衆たちの誕生があるでしょう。このリアリティこそが、僕は「近代」という時代の次なるチャプターが必要になってきた時代だと感じ始めています。
 今までの過去においてもこの「ナマ/live感」は当然、感動を得るための陣頭手段でした。
感動とはそんな「生」の、”リアリティ+リアリティ”の経験や体験からしか生まれ得ないものであるという常識の時代から、現代ではすでに「ヴァーチュアル・リアリティ」という新たな感動も知ってしまった人類が、オプションすべき、感じたい「感動」即ち、「ナマ/live感」とは、を感じ吟味することが大切な時代性なのでしょう。
 このようなファッドなリアリティを感じ取ることが現代社会ではかなり、重要な人間個人としての"差異”でしょう。ここには”教養”と”感度ある感性”の4Kが要求されるからです。ほとんどの現代人と称される”情報社会”に生きている人たちが持ち得た”ヴァーチュアル・リアリティ”とそこに表された”真実っぽさ”の社会によって、”センス オブ ヒューマン”が劣化してしまった。
 すなわち、”時代と寝る”ためにはより、人間的なる「クオリティある繊細さ」が必要な時代になってしまったからでしょう。この要因は表層の豊かさのみが液化状態になり始めたからです。
 では、僕が感じるこの「近代」の終焉から、新しさの始まりでもある今後の「近代」の次に
来る時代観を少し、お話をしましょう。
 これからの数年間で起こりうる世界情勢は、確実に、小さな塊の、より強靭なコミュニティを羨望する各国の動きがあるでしょう。すなわち、保守が進展すれば当然のように起き上がってくる”愛国心”という怪物の登場でしょう。この古き新しさでは、新たなバランスとしての
”ナショナル・アイデンティティ”と”ネイション・アイデンティティ”のセルフ・バランスが
問われる時代性になってゆくでしょう。グローバリズムによって、大きく固まったその実態構造そのものが不誠実なものであること自体を知り始めた知恵ある諸国と人民は、より確実な”塊”へ揺れ戻しの始まりがあるでしょう。例えば、合衆国ももしかしたら、”州”が個別にインデペンデントな構造体になり始める可能性もありますし、英国もそうですし、EU諸国においてもそれぞれのネイションアイデンティティが国別に強くなり始めるでしょう。
 グローバリズムによって、国/ガヴァメントと企業/ビッグ・ビジネスという”複合企業体”が
地球規模でそれぞれの産業において、それなりの企業形態を成立させてしまったのが20世紀の最後の役割だったのですから。
 ここで参考にするのが、すでに40年は経過してしまっている、1980年、アメリカで出版された
「Friendly Fascism」という本です。(これは、今回のトランプ選挙陣営のネタ本の一部です。)

 「Friendly Fascism」とは、;
 参照/翻訳版「笑顔のファッシズム上・下」B.グロス著;日本放送出版協会刊:
 『新しい独裁政治がアメリカ全土にゆっくりと忍び寄っている。”政府と企業の複合体”が
何十年もかかって、次第に形成され、その複合体の司令部には顔のない独裁者が座り込んでいるのだ。彼らは自らの権力と特権を拡大しようとして、組織や個人のためになりふり構わず利益を追求している。さらに、広い意味では、経済的操作や情報活動、あるいは軍事的侵略による、
世界各地における国際政治への介入の拡大等も、そういう独裁者たちの利益追及の結果生じて
くることなのだ。こういった自体の全てがすでに、世界的な規模で軍拡を煽り、核兵器及び通常兵器という殺人のための機械の備蓄を増大させているのだ。 
 (これは現在の安倍内閣以後の日本における”政治と企業の複合体化”から軍事防衛費予算がだんトツに増大し、戦後時以降、具体的なる今後の”軍産複合体”構造を構築しはじめている現実にも現れている。/筆者)
 アメリカはまず、”軍産複合体”の手に権力が握られ続いて、この複合体に類似したものが多数
存在してしまっているのが現実です。そしてこれらの構造体は”多国籍企業体”構造を持ってより
複雑な存在価値を構造化してしまっている。原子力複合体、科学=工業技術複合体、石油=自動車産業=高速道路複合体、銀行=証券会社=住宅産業複合体、都市計画=開発産業=不動産業複合体、農産物生産及び、加工と農機具・肥料・飼料の製造販売までも含まれる農業関連産業複合体そして、IT=モバイル産業=情報産業=メディア産業複合体などなど。
 これらの複合体に実際の企業名を当てはめればその実態が見える。彼らたちは公然と貢献したり、秘密裏に援助の手を差し伸べたりして、その経済的基盤やそれを育む環境を備えている公共機関や大学が加わり、これらが複雑に絡み合ってさらに巨大な複合体を形成しているのが現代であり、こういう色々な複合体と同様に重要なのが、顕在化しているビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携であり、この現実が今では世界のいたるところで見られ、その根幹は巨大な超国籍企業と様々な多国籍複合体にあり、これらが世界にまたがる”自由主義諸国”を一つにまとめ上げたのが”グローバリズム”であり、ここに、新しい独裁主義を成立させている。”新しいファッシズム”はその国の伝統や文化遺産によって違った色合いを浴びて現れるだろうし、人種構成や
宗教の構成、政治機構、地政学的環境などによってそれぞれが違った様相を呈する。』
 
 そして、もう一つ、現代日本のファッシズム、「安心のファッシズム」とは?;
 では、日本的な視点でこの現代という時代性を新たな視点で捉え、考えてみると、僕が、
「みんなで安心・安全・快適」というコンセプトを初めて使い始めたのが90年代の終わりに
近い頃であった。これはファッションのコンセプが”WAPPING"から"PROTECTION"へ変革し
始めた時期であり例えば、世間では”tatoo”がクールになり一般化し始めたので覚えています。
 着る人間の身体と心を”モード”によってプロテクトし始めた新しさだったのです。
現在ではこのコンセプトはすでに常識になってしまっていますが当時はフード付きの”被り物”はまだ限定されていて、ブラックのストリート・キッズから発生し、ラップによってプロパガンダされそして、流行によって”クール”になり、今では当たり前の一つの生活衣料品になっている。これがまさに”サブ・カルとファッションによる液化現象”ですね。
 例えば、お笑い系でも、”シソンヌ”のギャグ・コントが現在の”spa"型のショップの現実を
パロディっているというまでの日常の”液化現象”です。
 その後、インターネットの普及化と携帯がより多重・多機能化しスイカが生まれ今のような
平成の「安心・安全そして、スイスイ」社会にこの「安心のファッシズム」は発展した。
 この平成の「安心・安全そして、スイスイ」ボケの現代社会を切った「安心のファッシズム」という本があります。
 参考;「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;

 考えてみると、「誠実に生きる、真面目に生きる、真剣に生きる」等とは、これらは全て、
与えられた”自分の生”に対しての、自分の自由な生き方への詞です。これらを放棄さえすれば、
みんなと一緒になれば、その社会の人間たちは誰でもが、「みんな、安心・安全そして快適に
スイスイ」と生きてゆけますよ!という社会構造の構築と科学技術の開発によって素早く現実に至った現代日本社会です。ケータイがなければ何もできない、電車にも乗れない、街も歩けない
暮らしてゆけない社会の構築。
 巨大なシステムに操られることが苦痛にならずむしろ、心地よく便利にスマートに生きて行けると感じさせる時代性がここに、見事に構築されてしまいました。これは、物事の根幹を知らなかったら、”知性”や”教養”に関係なく全てに飼いならされてしまうという時代性とも読めるのです。これが現代日本における「安心のファッシズム」の由来です。
 一台の携帯電話+各種アプリ+1枚のプリペイドカード+クレジットカード+キャッシュカード+各種会員カード+マイレージ各種クーポンサービス+社員証+マンションキー+スイカ等の交通機関乗車券などなど、=安心、安全そして、スイスイ快適生活=「安心のファッシズム」
という現代日本社会構造。(参照/日経新聞/2004年5月20日付け。)この構造を起業化したのが、
「フィリカネットワークス」という2004年に設立した企業です。
ある意味ではたった”1枚のカード”に不動産価値構造を構築し、携帯を”ハブ”機能とさせれば
”スイスイ・快適”が日常化するという、「安心のファッシズム」の発想でしょう。 
 参考/フィリカネットワークス”=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立:
http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html
 ここでは、地上のすべてがマーケッターたちの”ゲーム版”上と化してしまっています。
「動く商圏」を構成する「息する財布」としてしか、認識されなくなってしまった人間たち。
大衆達は「操舵の術」としての”マイカード”と繋がるための”ケイタイ”によって、現代人の肉体
そのものをコントロールされていても違和感を感じないように飼い慣らされてしまっています。
だが、これらはすべて、「アメリカの軍事衛星」を経由して流されてくる提案に操作されているという”根幹”は果たして、どれだけの利用者たちが認識した上での”スイスイ効果”なのでしょうか?ここでは、「自由に生きる」ことそのものが変革され”操作”されてしまっていることなのですが。
 ここで、”ファッシズム”とは、本質的に、ファジーな曖昧なものの塊をいうのです。
全ての根拠が”曖昧さ”で始まっている現代のキーワード、「真実っぽさ/truthiness」の世界
そのものであり、自由でないことの”幸福感”が芽生え始め、支配されたがる人間が主人公/ヒーローでありる世界。そこにあるのは「真実っぽさ」が溢れかえっている不自由な社会。
 しかし、この世界を誰が作り始めたのでしょうか?そして、どんな人たちが我れ先にとその世界へ駆け込んだのでしょうか?ここに、ビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携連帯で
築かれ作られた”複合体”社会の真意があり、「使われ慣れした、使われやすい、飼いならされたい人間たち」の登場いわゆる、”世間にお利口さん”な世代たち、彼らが登場し、そして主役。
「The world is the wall-paper that only the truthiness.」
第1部終わり:後半があります、お楽しみに!!
文責/  平川武治:

投稿者 : editor | 2016年12月26日 07:00 | comment and transrate this entry (0)

2016年10月22日

大切な蛇足、「あたらしい酒もふるい皮袋へ、」変わらぬ”猿山軍団”の惨めさ。

 「新しい酒は、新しい革袋に」/『新約聖書』マタイ伝第九章の一節。

 僕はこの言葉が好きで、「モードとその社会」が変革する時にいつも使ってきた言葉です。
思い出すと、80年代始めと80年代終わりそして、90年代半ばと21世紀へ入って間もない頃使いましたね。
 そこで、相変わらず、「ふるい革袋」で粋がっている若い「自称アーチスト・デザイナー」たちへ蛇足な一言。

 ”自称アーチスト”デザイナーや「古い自由」で権力や集団性にしがみ付いて、「壁紙デザイナー」振っている僕的には、自分のコレクションにおいて、”世界観”が出せなく踠いている帰国組デザイナー達が二宮君のショーへも見に来ていた。CdGメゾンのショーを見に来ることで自分達が出せない何かを”パクリ”に来たのか?”バカの学校”のネタにし、自分たちが彼ら達と同類に見られたいという「古い自由」による行動なのか?
 メディアに媚びを売るだけの「古い皮袋」発想の輩達のここ数シーズンの行動。

 誰もが、”よちよち歩きの時は自信はハナからないので心配でたまらない。誰かに頼る。そして、それなりに自分たちの目的に近くなるともう彼ら達はさも、「自分たちの実力でこのようになりました」と日本人の”徳”の一つである、”礼節”を欠いた「忘恩の徒」と成って、顔と態度が
変貌する。ここには彼ら達のこの世界の小賢しさと”生まれと育ち”としての「風土」がある。
 昨今の日本社会に見られる、敗戦後の生き方の一つである「倫理観の欠如」の”2代目”たちであろう。

 彼ら達は何を見に来たのだろうか?服を見に来たのか、なんのために、どのような目線でこれらのショーを見たのか?展示会へも行ったのだろうか?
そう、ケイタイで写真を撮っていたものもいたね。コレクション後、お礼を言っていないね、、、、、
 
 集団で僕の鎌倉へ”泣き”に来た。
彼ら達セント・マやアントワープ帰国組の連中男、7人が帰国後2年程もしない時もう、待てなかったのだろう。焦り始めていた時であった。結果、彼ら達は集団で僕の鎌倉へ”泣き”に来た。
ここでも彼ら達は”集団行”しか取れなかった。
 「僕たちは海外の有名校を出たのに、どうしたら僕たちは有名になれるのでしょうか?」という切羽詰まった質問の答えが僕から欲しくって来た彼ら達。
「僕たちは海外の有名校で学んだのに、どうしたら独り立ちできるのでしょうか?」
 僕のその時の彼ら7人への答えは、「一人で何もできないのなら、”海外組”ですよという”集団”で行為するしかないだろう。」であった。
 即ち、最も日本人的な行為である、”赤信号、みんなで渡れば怖くない”方式を授けた。
 その結果が、”コルク・ルーム”、”エスペランサ”そして、”バカの学校”へ、まるで、”猿山のボス”構造を日本のファッションメディアを丸め込み、構築した「使い古された自由」の行使でしかなかった。
 僕の経験から言わせてもらえば、彼ら達の売りは”海外の学校を出た”とDIESEL社の”客寄せパンダ・コンテスト、IT'S"での受賞でしかなかった。が、これらにまんまと引っかかったのが”外国人”や”海外校”にコンプレックスしか持っていなかった当時の文化系ファッションメディアとそのリタイア組みおばさん達そして、専門学校と、アートとデザイン関係性やそれらのたち居場所が社会にどのようにコミットしなければならないかを教える側が理解していない”雰囲気美術学校”、これらが加わっての”猿山構造”。この”猿山のアントワープ組”で言えば、彼ら達が在校中、どんな事をして来たか?、何を学んだか?彼ら達の親が卒業時にどのように”上手にカネ”を使ったか?ほとんど熟知している。
 そんな彼ら達もすでに「小さな嘘」の連続によって、その立ち居場所を設けてしまったが故に、今後の活躍となると大変!!変わらず”イカサマ”社会でやってゆくしかないであろう。
しかし、現代日本社会の表層とはそして、日本のファッション界も同様、このような小さな”イカサマ”で成り立ってしまっている世界でしかないから彼ら達は今後も、旨く立ち回るだろう。

 彼ら達を冷ややかな眼差しを持って、心地よい距離感を持って自分の”世界観”を生み出しているのが、巴里のA.アライアさんのところで頑張ってアシスタントを続けながら自分の「世界観」を作品に世界で発表し続けている瀬尾英樹君がいる。http://www.hidekiseo.net
 そして、東京で彼ら達から”つかず、離れず”、自分のたち居場所をしっかり持って活躍し始めたのが中里唯馬君であろう。自分が持ち得た「風土」から健全に、もうすでに自分のコレクションに「あたらしい自由」による自分の「世界観」を持ち得始めた”海外組”のデザイナーであろう。http://www.yuimanakazato.com
 この二人は「新しい酒であり、新しい皮袋」を自分達で探し出した僕が認めるアントワープ王立の卒業生である。
 
 自分のブランド・コレクションを世界で、巴里で行うということとは、「自分の持ち得た経験とスキルそれらに文化度と美意識を振りかけ、これらに人間性を加味し尚、”自心のこゝろの有り様”に正直に、自分の「世界観」を「あたらしい自由」とともに構築していくことである。
ここに現在では「素材」の新しさと人間性としての”ヒューマン・テクノロジー”が一つの時代の新しさ感を表す”言語”となっているのが今の時代感でしかない。
 何故ならば「自由」とは自分のこゝろの有り様に正直に行為することであるからだ。
よく言われる”自分らしさ”とはこの自分の「あたらしい自由」の表現にあり、それが一つの”世界観”をも構築していることに対して、自分の「ブランド・ネーム」をつけることが自分のブランドになる。
 そして、このブランドが発信する”世界観”が着る女性たちを魅了し、エモーションを与え、
彼女たちを時代の「あたらしい自由」に耀かせなければいけない”使命”までも考えるところに
現実モードの世界の素晴らしさがあり、凄さと大変な苦労が存在し、そこに面白さと愉しみと
カッコ良さが存在する世界である。そして、この”世界観”の塊のシーズンシーズンが”コレクション”と言われるものである。

 しかし、昨今の巴里でも日本と同様な「SPA」型のデザイナー・メゾン・ブランドが増えたために、彼らたちの”世界観”とはビジネス優先の”世界観”であり、これが多くなり、ここに”トレンド”が新たな「世界基準」として、より、世界の共通言語化し始めてきた。
 このような時代では経験豊かなそして企業規模があるブランド・デザイナー達は自分達の”世界観”によって「世界基準のトレンド」を編集していることである。ここには「自称アーチスト」ぶったCdGチルドレン達のお母さんブランドも現在ではこの手法で”自分世界”を継続するための
コレクションを行なっているに過ぎない。
 だが、自ら達が社会に”コミット”することを怖がってきた、実社会の経験未熟な”猿山軍団”たちが持ち得た、「風土」による”人間性”と”文化力”では到底”お母さんブランド”の”質”と”品”は
生み出せないし、そこから生まれるブランドの”世界観”が未だにない。当然、「品格」は皆無だ。

 これらを熟知しないで、「ふるい自由」な価値観と「ふるい皮袋」の中で、自分の自己満足のため、自己顕示のために”自称アーチスト”ぶったレベルで、大いなる勘違いの経験乏しい輩の郎党が”バカの学校”生み出した。そこへ、これまたより未熟な連中が「自由」とは何かの根幹さえ知らず、「赤信号、みんなで」方式で、勘違いしている仲間がいるので怖くない”セフティーネット”上でたむろする。結果、東京の「壁紙デザイナー」養成所レベルに至る。
 何故ならば、「自称アーチスト」たちが今では”デザインの世界”でどのように自分たちだけが”金儲け”をして”巴里詣”に行くかを算段し始めたからでしかない。

 さて、どのようにブロガーと称する”宣伝集団”たちを自分達の”小さな嘘”の上塗りでペテンして、今シーズンはどんな「壁紙」を貼り付けるのだろうか?これからも見せてもらおう、
 あの時、鎌倉へやって来た男7人たち「猿山軍団」のシリアスな惨めさを!
文責/平川武治:Morocco、Tanger市にて;

投稿者 : editor | 2016年10月22日 17:11 | comment and transrate this entry (0)

2016年10月19日

”NOIR”/二宮啓君のミニ・コレクション。

 僕が好きで、気にかけている二宮君の巴里でのミニ・コレクションが、
やっと見ることができた。

「エレガンス」は立ち居振る舞いから生まれる”しぐさ”を美しく調和感のある様のことである。

 最後発隊のこのメゾン・ブランドのオリジンは90年代初めに作った”CdG NOIR"。
ソワレや婚礼を意識して当時作られたブランドだったが、当然であるが、そのほとんどがメディアへのイメージング・サーヴィスで終わり、在庫となり、その多くは京都服飾財団へ寄贈された。しかし、ここにも川久保玲の”夢”を僕は見てしまっていたし、その後、ここで行われた
”THINK BIG"なこなしやディーテールは現在の川久保玲のコレクションへも引き継がれている。

 僕が初めて彼の展示会で見た少数の作品は全て、”手仕事”でまとめられた見事な”職人根性”で
作られていた。その名の通り、”黒”を使っての新たなブランドも3年目を迎える。
 このメゾン・ブランドでは出し得なかった何にか、”人間的な温かみ”を感じさせるまでの作品を、その最初の技法としての装飾は”刺繍”によってこの恵まれた若きデザイナーは生み出していた。
 幾シーズンかをこの技法を主としたのち、彼も僕的には”WITHOUT SEWING"プロジェクトのカテゴリィーに入る作品をレザーを使って手がけるようになった。僕はこの当時の彼の作品に 
”鎧”を感じ取っていた。
 
 僕は日本人の歴史において、戦国時代の”戦国武将”たちが身につけた”鎧”とは、その武将の
”地位と権力と強さ”をそして、矢や刃からも身を守る”機能”も考えられた”装身具”であり、見事に当時の”日本美意識”によってデザインされ作られた優れものであり、世界に類を見ないものとして色々な資料を漁っていた時期があった。西洋でも勿論、”鎧/ARMER"はあったが、実践的で
あり、機能優先がそのほとんどで装飾性における”美しさ”では、日本の鎧が見事に勝っていた。
 その後の、”江戸時代”に目を向けると”商人文化”が芽生え始め、利休による茶文化で生まれた美意識を根幹にいわゆる、”旦那趣味”へと、彼らたちは当時の金に糸目をつけず、茶道を軸に
花道、香道から、日常の生活美に至るまで日本美が何たるであるかを誇示するまでの”手工芸品”
を別注しその収集に勤しんだ。しかし、僕はこの江戸文化の美意識の根幹にあの戦国武将たちの
”鎧・兜”の美の世界があると感じている。
 江戸の町民文化が現実に求めたものは”兜・鎧”で使われていた素材と表面加工のバリエーションでしかなかった。”鎧”は竹であり、革・毛皮であり、金・銀であり、銅板・真鍮・鉄板であり和紙であり布とそして、漆加工や鞣し加工、象嵌から印伝加工や打ち出し加工、刺し子などと、
”組紐”や”マクラメ”によって全体を組み合わせていた。これらの素材と加工技術が江戸時代には当時の豪商たちの”生活工芸品”へと進化発展した。
 この時代による”美意識”の進展化を考えると今後のモードの世界にも「ミシンと糸と針」で
縫うだけの世界ではない”衣装”の世界が可能であること。しかもこの世界はほとんどが、1点制作であり、これは日本版元祖”クチュール”の世界であり、現代においては”コスチューム”の世界であるという視点が働き、”WITHOUT SEWING"プロジェクトを思いついたのである。
 当然この裏には、”ユダヤ人たち”がすでに制覇してしまっている世界のモード界そのものである"ファッション・ゲットー”から、出来るだけ遠く離れ、新たな世界そのものを構築しないと
これからのモードを目指す才能多き、ユダヤ人以外の若者たちの”たち居場所”はすでに限られてしまっているという僕の経験からの発想と思惑もあった。できれば、このアイディアを東京と上海でヴィエンナーレ方式で世界中の「あたらしい自由」をモードの世界に求める人種を超えた、今後の”カラード・クリエーター”たちが大いに活躍出来るチャンスを提案したいとまで考えていたプロジェクトである。

 話は少し、飛んでしまった、二宮啓君のミニ・コレクションへ戻そう。
彼のコレクションをこうして”ショー”形式で見せていただくとそこには「黒のバリエーション」という彼独特の世界が見えてくる。”黒”が色々な色に見えてくるのだ。
 この世界は、今では残念ながら見えなくなってしまった、かつてのCdGが挑戦した世界。
そこに彼の持ち得た”美意識”と”文化度”が、”手の器用さ”と”頑固さ”が彼、二宮啓の
「あたらしい自由」の世界を生み出している。
 そして、僕が彼を信じるところは日本人デザイナーがこの若さですでに「エレガンス」を
デザインできるまでのもう一つの才能を持ち合わせているからだ。
それらはショーで垣間見ることもできるが、展示会へ行き、バイヤーたちが実際のサンプルを
試着している折に最もよく判ることであった。「軽み」と「重み」のバランスを生み出すために造形していると感じるまでの世界がここにはある。パンチング、テーピング、モチーフ、ドット、メッシュ、工業用素材などを使い組み合わせられた世界は”パーツ オブ ボディ”の世界でもある。当然だがこれらの素材による小物の世界もいい。

 この彼の実力は、外国で勉強しました猿軍団、東京「壁紙デザイナー」たちとの歴然とした、謙虚さと気骨が違う恵まれた環境から生まれる”差異”である。
 クチュールの仕立てが素晴らしいこととは、仕立て上げる過程で着る女性の”肉つき”を
パターンへ落とし込む回数が多いことがその価値の根幹である。 
 この”しぐさ”による「エレガンスな”様”」を生み出すにはパターンがうまくないと生まれない。パターンが出来ないデザイナーたちのものは平面的なデザインであり、薄っぺらい服になってしまう。いわゆる、”平面的な服”と言われてしまう世界でしかない。ここが僕が言うところの「壁紙デザイナー」の所以の一つである。
 このタイプのデザイナーに共通するところは”表層の装飾”が過剰になる。あるいは、テキスタイルに凝り、デザインに凝る世界、手工芸的な熟しだけに拘ってしまうものである。
 そして、着ると美しさがその着た人の立ち居振る舞いに現れない。最近のようにPCが発達してしまったこの世界でも、その結果はより表層的なるデザインがインジェクション・プリントや
異素材の組み合わせに依って成される傾向と、ショーがインターネットで見れることの功罰の
一つとして”正面”のデザインにのみ凝る。
 しかし、やはり、いい服とは「着た女性がどれだけ、癒された”エレガンス”な女性へ変身
出来るか?」でしかなく、”どれだけ目立つ”かではない。
 パターンが上手なブランドの服は動きを作り、着た”女性のしぐさ”を美しくするのだ。
すなわち、「エレガンス」が生み出せる世界を構築できることである。

 例えば、かつての”アパレル”ブランド、最近では”SPA"ブランドやフアスト・ファッションの
商品はこの”付加価値”が生み出せない。
 そこで、”プレタ・ポルテ”のデザイナー達はこのクチュールと既製服の距離感から
そのビジネスにおける”立ち居場所”を持ち得ることができたことがそもそもこの街で誕生した
”プレタ・ポルテ”の世界であった。巴里において60年代も終わりに近い頃、この世界を初めて提案したデザイナーが誰であるか?勿論、YSLであった。
 ここに彼の、この世界の「あたらしい自由」が生み出した素晴らしさと功績が潜んでいたはずだ。
 そして、未だにこの”クチュリエ・メゾン”が出す”プレタ・ライン”が、”ラグジュアリィー・
ブランド”と称してその商品価値を”金メッキ”に変換させてビジネスをしている状況もここに
由来している。現在の大半の”ラグジュアリィー・ブランド”の商品の生産工程も既に、”SPA"と
同じ環境で生産しているのがファッションの”グローバリズム”と言われる所以である。
 ここでのデザイナーの役割とは、”広告宣伝”のためのイメージングと話題つくりでしかない。そう、ラフ君や最近では、ヴェットモンたちのように。

 僕が好きな”NOIR”二宮啓くんの”世界には確実に、このメゾンにおける「あたらしい自由」が溢れている。
 今までにはこのメゾンでは少なかったであろう、”手が器用な”デザイナーであり、自分でコツコツ手仕事をするのが好きなデザイナーであろう。そのほとんどが当然であるが、川久保玲に
憧れてこのメゾンの戸を叩くであろう。が、このレベルでこのメゾンへ入るともう、
”負け”である。良くも悪くも”使われる”だけである。これは企業の倫理でもある。
 自分にあって、その環境には無いものあるいは、少ないものの世界へ挑むことによって、
そこに初めて、自分の”たち居場所”が生まれる可能性があるはずだ。
ここには「覚悟」と「勇気」が必要になる。
 例えば、帰国子女達の多くが、”外資系”なる企業へ就職したがる。
それがステータスであると言わんばかりに。しかし、この世界での語学はここで働く外国人達にとってのネイションランゲージである。したがって、少しばかりの語学力も彼ら達に
”扱き使われる”ためのものでしか無いレベルとなる。その世界そのものが外国語が当たり前な
世界でしかないからだ。
 ならば、外国語が最も程遠い世界でその喋れる外国語を使うことの方が価値があるし、
次なる可能性が生まれる。この考え方が現代日本人には少ない。
 
 彼の”Golden Hand"は次なるはどのような世界を目指すのであろうか?
もう”刺繍の世界”へは近づかないのだろうか?
この”刺繍の世界”は世界共通言語であり、人に、感動を与えられる世界であるはずだが。
 ”鎧”の世界と”刺繍”の世界のコラボ?に僕は彼の”Golden Hand"による
「あたらしい自由」を夢見てしまっているのだが、
文責/平川武治:Morocco、Tangerにて。

投稿者 : editor | 2016年10月19日 21:36 | comment and transrate this entry (0)

JUNYA WATANABE/パリ・コレクション’17 S/S ”モダン・テクノロジーとヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュ

 ”モダン・テクノロジーとヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュ
”パンキー& ニユー・エレガンス”コレクション。
 一つの判り易いコレクション・パターンを見せてくれた今シーズンのジュンヤ・ワタナベ。
彼はここ数シーズン、自分の世界をこれからの時代へチューニングするためのトライアルを新しさとしてコレクションに残してきた。僕は彼のこの姿勢が好きであったし、この彼のトライアルに勇気と覚悟が伺えるまでのとても素晴らしい、いいコレクションだったことを覚えている。
彼の”軽さと重さ”、”エレガンスと激しさ”が絶妙なバランスでまとめられていたからだ。
 それらは、僕が数年前から提案していた「WITHOUT SEWING」プロジェクトの一環に値する視点での新たな発想に基づいたコレクションに挑戦してきた。これは”モダン・テクノロジーと
ヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュであり、”I.D"との”ラップ”。
時代の新しい自由さを感じさせるまでの美しさにまとめられ、着る女性を生き生きと伸びやかな姿にするマジックをこのデザイナーは既に、持っている。

 今シーズンの彼のコレクションもその延長上であった。
もともと平面である素材を彼も”3D"構造のメイン・エレメント・パーツに仕立て、
その3D.エレメントの連続性で”服”を仕立てるというマティマティックスな手法はここ3シーズンの継続コレクション。
 前々回のコレクションで、それまでの3シーズンほどを塩ビ素材を使ってエナメル加工したものも含めてそれらを平面のラウンドなパターン・ピースを作り、このピースを一欠片づつつなぎとめる手法で”服”を仕立て上げて来た。僕はこのシリーズは”ポリーマグー”的なイメージと新しさ、晴れやかさと爽やかさをエレガントに感じた。
 その後、彼は2シーズン、3D.のエレメントで”新しい自由”を提案した。
トライアングル・グリットによる”折り紙”あるいは、”ペーパークラフト”的発想で3D.エレメントを構成し、これらを使った世界をこれらも見事な、彼らしいい端正さと几帳面さが作品の品を表すまでの軽やかなコレクションを行なった。安い合繊素材そのものを先ず、”加工ー部品”化するすなわち、”I.D"の手法によって、この世界の延長、バリエーションが今シーズンだった。

 しかし、今シーズンはコマーシャルを意識したバリエーション。
この発想の初回のコレクションは、こんなアイディアでこれほどのコレクションが出来ますよという力の入ったシリーズー1。そして、2回目の先シーズンはこの発想をここまで広げられ
尚且つ、力を抜いて軽妙にまとめられますと言う迄の充実したエレガントなコレクション。
結果的には、このシリーズのコレクションとしては一番いいコレクション。
 今回はこの3D.エレメントを使い、売ることを考えられたところでまとめたコレクション。
”ナイン・インチ”の激しいリズムがコレクション中鳴り響くなか、颯爽と”パンキー& ニユー・
エレガンス”コレクション。
 このような発想のコレクションは、僕が提案していた”WITHOUT SEWING"でもそうであるが、これらの根幹には、”モード”と”インダストリアル・デザイン”のコラボ的発想の新しさが存在している。もっと、わかりやすく言ってしまえば、”レゴ・ブロック”世代へ共感する発想のオリジナリティがある。まず、パーツとしての”エレメント”を作る。次にそれらを組み合わせて人体に”装着”させるという発想だ。ここでは、”縫わない”で”組み立てる”という手法を”モード”の世界へ持ち込むという”新しい自由”の一つである。
 したがって、この”エレメント”を作る場合、機械加工に委ねるためそれなりのロットが発生しそこに”リスク”が生じる。そのため、それらの”エレメント”である”部品”を使いまわし、このコストを下げなければビジネスに繋がりにくい。
 新しいことをするために生じる”リスク”と”コスト”はいつの時代にもそれなりに派生する。
その”リスク”と”コスト”を工場が持った上での製品化が”インダストリアル・デザイン”の世界である。その結果、この世界は、その後の量産によって、売れれば売れるほどに”儲け”が生まれる。この現実は、かつての”I.MIYAKE"のプリーツシリーズが現在の”I.MIYAKE"ブランドを経済的に救ったことでも理解できる。
 
 今回3シーズン目の、この世界に挑戦した結果となったジュンヤ ワタナベのコレクションは
彼のセンスとまとめ方という”モード”の世界での経験とスキルが十分に生かされてまとめられたコレクションだった。
 ”軽さと雰囲気”を大切にしたコレクション・テーマでの彼が考えた”創造のための発想”は”パーツ オブ ボディ”であった。着たい女性の全身を”ラッピング”するのではなく、彼女たちの姿態の部分にこの”エレメント”を使って”装着”するというアイディア。その結果が、”エプロン”や”肩掛け”といったアイテムに見事に落とし込まれて彼、特有の世界観を生み出した見事に、心地よいコレクションだった。ここには”センスの良さと頭の良さ”が伺えるまでのコレクション。
 インナーは分かり易いBIG・メッセージT-シャツ。時代性としての”ストリート感覚”をベルリンの今では、”グラフィテー・アーチスト”に成り上がった連中とここでも”コラボ”。売るための時代感覚がここに織り込まれたコレクション。日本のストリート・ブランドの今ではこの感覚は若き”書道家”の登場になっているが、どちらが世界ウケするのだろうか?
彼ぐらいのデザイナーになれば、”ネイション・アイデンティティ”に堂々と挑戦することも
”義務”かもしれない。いつまでも白人たちへの眼差しを気にした目線から生まれる”PUNKY"
イメージはすでに、「カウンターカルチャー」では無く、寧ろ「ヤッピィー・カルチャー」でしかない。
 あの僕たち世代へ強烈なカウンターを放った、「B.ディラン」さんもノーベル平和賞の時代なのだから。
文責/平川武治:モロッコ、ティツアン市にて。

投稿者 : editor | 2016年10月19日 15:41 | comment and transrate this entry (0)

2016年10月12日

<追加編 >巴里’17S/S CdGコレクション展示会から、

CdGコレクション/追加編; 
 CdGショーで大切なことを付け加えるのを忘れた。
それは、今シーズンのこの世界観で、なくてはならないもの、時代感を感じさせ、新しさと
爽快感を与えたものがあった。それが、”ヘヤー”デザインである。
 ここで使われた素材は、”塩ビの透明チューブ”。
この素材が彼、ジュリアンのデザインによって見事に時代の顔つきにまでショー全体を高揚させたのである。
 今シーズンではこのヘヤー・アクセサリーが僕には一番のカッコいい、センス良いクリエーションであった。
ありがとう、ジュリアン!!

 そして、展示会で見せていただいた今シーズンのCdGのビジネス・コレクションは時代性と
いうより、今のビジネス状況を大いに加味して構成された巧いコレクション。
 基本的なデザインエレメントは、かつて見たことのあるもの。その根拠はショー・コレクションの”エレメント”そのものが使い回しのものが多いため、これらのショー・コレクションを
実際に着用できるまでにまとめた優れたものが今回のビジネス・コレクション ピース群。
 すなわち、ショー・コレクションの”プレタ”版と言う構造で構成されたもの。
従って、その殆どがいつか見たことのある素材と”アイテム”群。それらがプリント処理等の
後加工によって新しい顔つきを生み出した「CdGらしい」ビジネス・コレクション。
このブランドの崇拝者達にはやはり、日常で着て見たくなるもの。いくつかのアイテムとニットに今シーズンの”ソフト・グランジ”の施しがさりげになされているから売る側からも売りやすいシーズンであろう。
 特出ではショーにも出されていた”シューズ”。ナイキとのコラボによるソールを剥がすというアイディアによる”別注品”。
 この規模のワールドメーカーと、堂々とコラボができるこの企業の強さと立ち居場所を改めて知らされた1品。軽い、売れるであろう。
 今の若い人たちがモードへ入ってくるとき、
「おしゃれなものを買う」という行為は”シューズ”からである。
センスにうるさい連中は決して、上物やボトムから入ってこない。
 まず、”シューズ”である。シューズを決めてからそれに合う、”上物”となる。
この今流のファッション・プロセスを知っていなければ、今の時代、もう、カッコ悪い、
センスのないただの「壁紙デザイナー」でしかない。
 ということで、このCdGのビジネス・コレクションは全く、「コムデらしい」無難にまとめ
上げられたものだった。
文責/ 平川武治:巴里市ピクパス大通りにて。

投稿者 : editor | 2016年10月12日 21:49 | comment and transrate this entry (0)

2016年10月11日

変われないだが、堂々と胸を張った!!コム デ ギャルソン パリ・コレクション-2017/春・夏。

 「大衆は”モンスター”が好き。」
”The Century of the Self”より ; https://www.youtube.com/watch?v=eJ3RzGoQC4s

 K.ブロスフェルト曰く、「植物は、単なるつまらない機能主義に決して陥らず、論理と適合性に一致し、
その原始の力で最高の芸術的な形を達成する。」
『芸術の原型』/Urformen der Kunst,1928年より:

 『「戦う女」⇨「甲冑」⇨「ソフィスティケーティッド」⇨「シンク・ビッグ」⇨
「サンボリック」⇨「心を守る女」⇨「繭玉」⇨「輝きのもと、なお、蕾。」
⇨⇨「ジェンダー」又は「ソフト・プロテクション」』

 今シーズンのCdG、川久保玲のコレクションの結論的ロジック・コンテキストを僕はこのように読んだ。当然だが、僕にはこのシリーズにおける「創造のための発想」は変わらず、
”川久保玲”本人に重なって見えてしまう。
 このシリーズを始めてもう、10シーズン目を超えたであろう。
今シーズンは作品の造形度とまとめ方がソフィスティケートされその分、川久保玲の
「潔さと端正」が完成されたイメージを残したシーズンだった。
 使われた素材や色目はある意味では”CdGらしい世界”でまとめられていた。
過去のこのデザイナーのコレクションによく使われてきた色目と素材と読める。
若くは、”原反在庫”を利用したのだろうか?素材の上からの刷毛目染めによってのオリジナルも出しているし、ハート型のフロッキー・プリントもある。
 コレクションに於ける作品の80%ほどのエレメントは従来から使ったことのあるエレメントの登場であり、これらを素材とモジュール違いでまとめられている。
 ここまで続けるとこれによって、余計に”CdGらしさ”がこのシリーズで感じられるまでになった。ということはこのブランドの根幹である「特異性」という立ち居場所がより、明確になるがその「特異性」そのものは弱まった。
 ディテールのまとめ方は「シンク・ビッグ」という手法である。結果、堂々としているし、「サンボリズム」を感じる。この手法は80年後半のV.ウエストウッドが好んで使い、
先シーズンのUNDER COVERが使った手法である。
 個々のディーテールでは、このデザイナーが昔、よくブルーゾンの襟に使っていた、大好きな襟のラインを白であしらい、「シンク・ビッグ」によって「シンボリック」に構成されている。この辺りのディーテールの使い方と構成力はさすが彼女の好きな世界であり、働く女性としての「戦士」を美しく清楚にバランスよくまとめているのも見事だ。

 今回のコレクションの”ソース オブ イマジネーション”も「曾ての、ラ カンブル校の
クリフトル君」そして定番、「K.ブロスフェルト」などのお馴染みがラインアップ。 そして、
なぜか、「BORO,東北地方の貧農家の布団ドテラ」(?)までも。
 特に、この新即物主義写真家のパイオニアと言われる、19世紀末のドイツ人 K.ブロスフェルトからは川久保玲は以前から過大な影響を受けている。自分のファッション・デザイナーとしての立ち居場所を死守する方法論の師ともしている。
 彼も、植物だけを取り続けて35年。よく似てますね、このデザイナーの生き方と。 
 K.ブロスフェルト曰く、「植物は、単なるつまらない機能主義に決して陥らず、
論理と適合性に一致し、その原始の力で最高の芸術的な形を達成する。」と述べている。
そして、彼は30年以上に渡り同じ写真の技術を使い、植物写真のガラスのスライドを作った。が、それは全て「学生」のための教材としてでであった。彼の35年に渡る仕事としての
作品群からは、「機能性」を越えた「奇妙さ」という美が感じられるが、ここには川久保玲の
このシリーズ全体の根幹がある。
 そして、「彼は自らの写真は芸術的業績とは考えていなかった。」というK.ブロスフェルト
自身の心情も川久保玲にも共通するところであろう。
 5年前にこのシリーズを始めたこのデザイナーも決して、自分が創り出す世界は
”芸術”ではないという立ち居場所で始めたはずであろう。
 このモードの世界で、しかも”パリ”というただ、若い頃の”憧れ”であり、”夢”となった
このパリへ実際に上陸した自分。その後、”継続”することを願望し始めた以後に感じ始めた
ある種の孤独感とその恐怖。しかし、立ち向かわなければならない。
 自分自身が「戦士」の如く、潔く立ち向かわなければ”継続”は不可能。
そして、”二人三脚”だと信じていたパートナーの裏切り。頼っていた小指敦子さんの死。
その小指さんが残していった「SIX・マガジン」に既に使われていた、K.ブロスフェルトの写真群。ここに以後の彼女の「ソース オブ ザ クリエーション & イマジネーション」があるのも
当然であろう。

”Over thirty years, he used the same photographic technique. From his negatives he made glass slide to give his students an understanding of nature's forms and structures.”
"He did not consider his photo an artistic achievement."/Urformen der Kunst,1928
https://ja.wikipedia.org/wiki/カール・ブロスフェルト
 
 現代社会における”モードの世界”で「新しさ」へ挑戦することとは、「服」の形態や形状
すなわち、デザインとしての造形の範疇で次なる新しさを探しても、もう見当たらない。
 この時代で「新しさ」を探すには、先ず「あたらしい自由」を持ち得なければならない。
これがよく言われる「見方を変えましょう。」発言です。
 しかし、もう見方を変えただけでは”バリエーション”の世界しか生まれ得ません。
それがこのモノに溢れてしまった資本主義・消費社会時代の現実でありますね。
 このブランドそして、川久保玲のコレクションの後、それなりの人種たちが一様に発する
「凄いでしたね!」とは、その根幹はなんなのでしょう? 何が「凄い?」のだろうか?
 この5年間ほどのシリーズを彼女の「あらたな自由」の発見と考えると、僕は川久保玲の
「凄さ」とは、4つある。
 『いつも彼女自身の「ボキャブラリィー」を持ち続けていることそして、その持ち得た
”ボキャブラリィー”によって、自分の「立ち居場所」を変えないこと。
この”立ち居場所”を変えないための「ビジネス」をしっかりと考えていること。
そのための自分の”ボキャブラリィー”が通じる「人材」を周りに置いていること。』
 これらの4つに加えて、このシリーズへ変革した発端とは「このモードの世界の従来の
”ボキャブラリィー”を彼女自身が自ら変えて、常に、”川久保玲のボキャブラリィー”によって
自らの世界観を変革させ、「語り始めた」こと。
 そこに、彼女の「あたらしい自由」が生まれることを熟知している「凄さ」がもう一つの
「凄さ」であると言い切れる。
 パリ30数年で、自らが体験し、身につけた”ボキャブラリィー”によって、
自らの”リスクとコスト”を背負い込んで「覚悟」ある新たな自分のモードの世界を語り始めた。
 このことそのものが川久保玲の「凄さ」でしかない。 
 彼女は、彼女自身で、「モードのボキャブラリィー」を新たな自由で語り始めたことが
「凄い!」のである。
 作品とはその結果でしかない。作品を生み出し、残すことが目的ではなく、常に、
「自分のあたらしい自由」を見つけ出したいデザイナーでしかない気骨ある稀なる
デザイナーである。ここが、昨今の「自称アーチスト」や「壁紙デザイナー」たち輩との
人格と品格の違いである。

 
「ありがとうございました、川久保さま」:
文責/平川武治:巴里市ピクパス大通り:

投稿者 : editor | 2016年10月11日 02:52 | comment and transrate this entry (0)

パリ・コレクション-ここ3シーズン、成長し続けるUNDER COVER/2017/春・夏コレクション。

「モードのキャピタルは”RAP・WORLD"に色目を使い始めなければならない。」
 景気の悪さがストレートに見えてしまうのが、巴里のファッション・ウイークの怖い
ところだ。ジャーナリストたちはプロが少なく、バイヤーたちは古参が多い。
その中で、ブロガーと称する若者たちが”すきあらば”と言わんまでのセルフ・プロパガンダで
会場の前だけは異様な空気と盛り上がりを見せる。が、”ゲットー”の中は変わらずのこの世界
独特な淀みしか感じられない。当然だが、この空気感はその後、始まるランウエーのコレクションの表情と顔つきにも漂う。

 街の顔つきも当然だが30年前とはすっかり、変貌した。
判りやすく街の表層は”綺麗になった。”だが、昔の否、本当の「巴里」を生きてきた人たちに
とってはその全てが本当に”遠い、いにしえ”の風景になってしまったと嘆く。
 これは何も巴里という街の変化だけに限ってはいない、この街のモードを同じように30年も
見続けている僕のようなものには”モードのキャピタル”も同じベクトルで変化し始めなければならないと感じ始め、一つの時代を脱皮しようと、変わり始めたシーズンだった。

 「誰が、新しい顧客なのか?」「誰に売れば、モードとして輝きが廃れないか?」
「誰が金持ち新興スノッブ人種なのか?」「誰がパリ・モードを美しく着こなせるのか?」

 
 そんなこの街のメタフォルモォゼの近い過去として一番、ノスタルジックにメランコリックに思い起こさせてくれるのが’60年代半ばの”ジャズ イン サン・ジェルマン”だろう。
 例えば、既に、YSLが亡くなり、つい先月もS.リキエルも亡くなった。彼れらたちの時代が
どんどん遠ざかってゆく。それはオーディエンスも然りである。
 こんな懐かしい時代のアトモスフェールとジャズをテーマ・コンセプトにとてもハッピーな
コレクションだったのが、UNDER COVER、高橋盾が見せてくれた世界だ。
 素材が勝負の時代にジョニオ君が選んだのは”ニールド・パンチング”による異素材の組み合わせという、こちらのデザイナーにはまだ高価でこの手法が一般化されていない世界。
ここで、白人デザイナーたちから1歩リードを取った。
 ローブやトップスにこの手法で”JAZZ AGE"なるモチーフで彼のポジティフな世界を見せてくれた。ここに漂っていたのは「メランコリー」「ノスタルジア」そして重なる、「ロマンティック」や「ポエジック」が表層に転写によってデコされてた世界。極め付けのアイテムはこのデザイナーの凝り性な性分がレザーブルーゾンに現れる。あのM.レイの写真に見られる音符記号などが嵌め込み手法で丁寧に、豪華にブルーゾンになる。全体的には”ストリート・テイスト”をラグジュアリィーにまとめたシーズン。そこにも彼が提案する”ストリート・エレガンス”が溢れる
うまさ。このうまさは、彼のコレクションが年々、評判を呼ぶまでの上手さの証であろう。
 彼が上手いもう一つはいわゆる、”小物類”のデザインセンスとそのまとめ方である。これらによって、より、「UNDER COVERの世界」が耀く。
 フィナーレはこのメゾンも「トランス・ジェンダー」、メイクもすっかり変え、スーツの素材も打ち込みのしっかりしたメンズ素材で仕立てられたボディーフィットしたスリムなボーイッシュ・スーツ。カッコいい!!
ありがとう、ジョニオ君。
文責/平川武治:巴里、ピクパス大通り。

投稿者 : editor | 2016年10月11日 02:15 | comment and transrate this entry (0)

2016年09月30日

’16/’17・ 秋冬のコムデギャルソンのコレクションと「裸の王様」

 実は、この原稿は先シーズンのCdG,川久保玲のコレクションを見た後の、後味の悪さと心のざわめきによって書いたものでした。
 その後、しばらくまとめることができず放置しておいたのですが、先シーズンのオム・コレクションで、再びこのCdG・HPがやってくれたのがこの童話「裸の王様」を一つのコンテンツとしたコレクションだったので驚いた。

 
 <今回、彼女の自身のコレクションがもうすぐ、ここパリで行われるので再読し、
まとめたものです。>

 皆さんは童話「裸の王様」を読んだことはありますね。
 デンマークの童話作家、アンデルセンが1837年に発表。原題 "Kejserens nye klæder"であり、日本語に直訳すると「皇帝の新しい服」となるいわゆる、二人の服飾ペテン師の話です。
 アンデルセン自身もユダヤ人でしたからこの童話は多くの比喩がなされていますね。
この童話の幾つかの比喩が現在のファッション・ビジネスの世界を構築している根幹の全てです。
 この童話が世に出たヨオがロッパ世界の1837年には、あのモールスが有線信号を実用化し、「産業革命」という言葉が初めて使われ始めたのもこの年からであり、ヨオロッパで新たな市民社会が躍動し始めた時期だったのです。「衣装品」の世界も手工芸の機織りから機械生産が、そして1840年にはミシンが誕生しいわゆる、量産が可能になり始めた時代でもあったのです。
 だから、僕が見てしまった40年間ほどのファッションの世界も未だに、この童話「裸の王様」の世界であり、社会環境というよりは”技術”の発達と進化によって齎された生活環境が変化しただけであって物事の”善悪”と人間の”業欲”の根幹はほとんどこの時代によって構築されたもので、以後、これらは”普遍的”でしかありません。

 *
 "The fashion is always in fake."と僕はよく発言します。
が、この発端は僕なりのこの「裸の王様」の読後感とその後の経験からの言葉で、この”FAKE”で成り立っている世界そのものがやはりファッションの世界なのでしょう。
 これは作り手であるデザイナーや売り手であるセールスマンそして、作られた作品としての服がこの”FAKE”で成り立っている世界だということです。
 そのファッションの世界が今では、広告産業と化してしまったということもこれで納得がいくでしょう。広告産業の根幹もこの”FAKE”ですからね。”FAKE”をイメージやクリエーションと訳せば事は簡単です。
 そうすれば、「アート」の世界をこのファッションの”FAKE”側に立っている人たちが渇望することも理解できますね。現代美術とはユダヤ人たちが作り上げた”芸術”という構造の上に立った20世紀最後の一番、知的で教養あるそして、巧妙な”FAKE”ビジネスの世界だからでしょう。
 その世界を見習ったファッションの世界の作り手であるデザイナーたち自身の立ち居場所とその”来歴”には多くの ”FAKE”が見つけられます。
 これは僕のパリモード30年の経験で言える事です。当然ですが、日本人デザイナーたちの多くもこの部類の人たちです。何かしら、自分の経歴や来歴それに、育ちや環境について、学んでいないのに学んだようにまた、自分が作っていないのに自分の創造のように発言したりと平気で偽りの厚塗りを行ってその立ち居場所を虚構している人たちです。
 僕が自分の立ち居場所であるこの”ファッションの世界”の人たちとの関係性を世界レベルで30年以上見てきた経験と体験からやはり、「この世界の人たちで、”尊敬”できる人たちが少ない。」と言い切っている根幹はここにあります。あまりにも彼らたちの多くが”小さな嘘”を当たり前のように吐く。
 そして、彼らたちのセンスと教養をより、上塗りしなければならないために、解ったふりして
”持ち上げている”人種たち、ファッションメディアとその周辺での傍観者たちがファッション・ジャーナリストと呼ばれている殆ど、”パラサイト”な人種たちです。
 この虚構構造を企業構造として”カネと小さな嘘”でジグソウパズル・ゲームよろしく”上書き”
を絶えずしながら「壁紙」を堂々と強かに且つ、楽しみ、カッコつけが厚顔に出来る現在の立ち居場所に君臨してしまっているデザイナーたちが”巨匠”的存在になるのもこの世界の特徴でしょう。ここには「純金の輝きから、鍍金の輝き」になってしまったビジネス社会の表層と現実があります。
 この多くの事実の根幹は周りから「自由な発想でカッコよく、出来れば少し、知的に見られればいい。」のレベルでの”FAKE”です。だから罪にもならないのでしょう。例えば、このFAKE構造のためのシナリオを書いたり、自分たちのデザイナーをより、”鍍金の輝き”にするためにプロテクトする立場の人たちが”プレス”という職域の人たちと彼らたちに”パラサイト”している先述のファッション・ジャーナリストたちで構成されているのがこの「裸の王様」をコンテンツとした世界であると実体験してきたのが僕のモードとの関わりの30年でしょう。
 もうひとつの世界とは、この「裸の王様」では”イカサマ”をした彼らたちが関わらなかった、実際に「服」というモノ=消費財を生み出す世界、”生地屋さんと縫製工場”の世界があります。
しかし、多くのジャーナリストと呼ばれる側の人たちもこの実世界には立ち入らないしまた、
入れない。この世界では”作る”ことが勝負の世界ですからどれだけの”モノ”を作れるかという
”実世界”なのです。だから、この世界へ立ち入るのは”業界”メディアとされている、より専門的な視点とスキルと経験を持った殆ど、”職人的”なあるいは、より専門的な職域なのです。
現実には”素材”や”縫製技術”を語れる経験と教養とスキルを持ったジャーナリストという立場の人たちが少数でありまた、”メディアという広告産業+e-コマース”の発達でほとんど必要なない世界になってしまっていますね。
 したがって、この世界はデザイナーたちがどれだけの”金の卵”を生み続けられるかによって、
この構造の規模が違ってくるだけであって、”ピン”は世界のラグジュアリー・ブランドのデザイナーたちから、”キリ”は東コレ構造にパラサイトしているデザイナーたちの現実状況でしょう。従って、プレス業務とはそのためにどのようなメディアとお付き合いをするか?あるいは、どのようなジャーナリストたちとお友達関係を築くか?が具体的なお仕事ですね。
 この現実も世界に出てみるとファッション産業の世界はほとんどがユダヤ人民族で構成されているという事実に関係しているでしょう。彼らたち民族の秀でた特性の一つに”美意識”が高い事と”無いものを在るように見せることが上手く”そして、白人にしては”手先も器用”です。この彼らの特性は「アート」の世界やファッションの世界に特出した特性なのです。
 例えば、「付加価値」という言葉、確か’80年代のマーケティングの世界で言い尽くされてきましたが、彼らたちはこの広告業界の根幹コンテンツ、「付加価値」の創造が秀でて上手いこと
でしょう。そして、「ユダヤ人世界」という普遍的なる”関係性”を堂々と使いこなせるもう一つの強みを持っている民族だからでしょう。
 例えば、この歴史的現実を学ぶには、二十世紀の当時の新しい学問であった”精神分析”と”心理学”から大衆と少衆たちをどのようにマインドコントロールしてきたかのプロセスとその結果、広告産業を生み、政治へ利用し、中産消費社会構造を誕生させたプロセス。この二十世紀における資本主義社会に何が重要な課題であったかとともに、これらをドキュメントフィルムにまとめられた素晴らしい、力作があります。
 原題は"The Century of the Self"、「自我の世紀」という訳されたもので、G.フロイトから戦後の”消費資本主義世界”がどのように彼らたちによって、コントロールされて二十世紀という時代が生み出されてきたのか?約3時間以上に上る英国のBBC放送局が制作したこの世界のドキュメントフィルムの素晴らしいものが現在でもユーチューブで見ることができます。
(興味深い英國BBC制作のドキュメントフィルム:参考/"The Century of the Self":
https://www.youtube.com/watch?v=eJ3RzGoQC4s
 ここでみなさんは理解されたでしょう、「実際に、服が作れなくても、作らなくても、さも自分が作ったような顔つきを上手に、したたかに素早く権力者にあるいは、お金持ちたちに取り入れば、関係性を構築すれば、自分たちは美味しいものと女たちにありつける環境が手に入る。」この実際の世界を比喩したのがアンデルセンの"Kejserens nye klæder"「裸の王様」という”童話”ですね。ここには、それなりの人たちがファッションの世界に憧れる根幹がすでに、コンテンツ化され、学び、深読みできる童話になっていますね。

 **
 昨年来、敗戦後の日本が根幹の「倫理観無き世界」が原因の不祥事が続々と表層化し、メディアが面白がって過敏に、過熱報道し始めています。現在ではその渦中にいるのが「舛添東京都知事の倫理観無き行為」でしょう。(早いものですね、今では、もう誰も語らなくなりましたね、わずか10ヶ月前の不祥事ですが、)彼の場合も”世代”と”育ち”にありますね。”世代”は戦後の荒廃期そして、”育ち”は自分から「在日」をカミングアウトをしてその立ち居場所を両義性あるものにする。ここには「ユダヤ人」たちの手法と同類性を見てしまいます。
 敗戦後のあの瓦礫の世界から1日も早く生え抜け出すためには「倫理観」ほど無力、無益なものはなかったのが現実でした。これは”敗戦後”を実体験して生き抜いてきた世代の人たちの現実/リアリティでした。従って、”戦後日本”の”中産階級”構造を現在のような「B層」構造に構築化してしまった元凶は「取り合えづは、、、」という言葉と「倫理観無き世界」の「根性論」構造が産み出したもの。この世界で多くの彼らたちは自分たち家族のための「ガンバリ」を、戦前の日本にはあったはずの含羞を捨て去り、根性で生き抜いてきた人たち”育ち”の賜物でしょう。それが70年を経た今、「舛添東京都知事の倫理観なき、反省なき行為」でしょう。
 戦後日本のファッションの世界を省みても彼らたちの戦後の功績は実業界と芸能界やプロスポーツ界のみならず、案外とファッションの世界にも多いのです。彼らたちの「ガンバリ」と「根性」によって、自らの”立ち居場所”を「革新」できるという敗戦後の「自由」の社会が存在し、その「自由」を謳歌した人たちが60年代後半に生まれた世界、”マンション・メーカー”から始まりその後の、東京デザイナーたちへ引き継がれていますね。次なるは、彼らたちのこの世界へ当時の”カウンターカルチュアー”を読み込み、”カッコイイ”と憧れてやってきた「団塊の世代」たちによって事実上、模倣されたファッション・ヤッピーたちのもう一つの現実が日本のファッションの二つの構造世界を構築してきました。

***
 コムデギャルソンのデザイナーである川久保玲の先シーズンは彼女の高齢化とその立ち居場所を死守するというこの世代のデザイナーが誰しも向かう”最後の困難”へ挑戦した。この至難な困難さは前シーズンに既に、その兆候が見られた。
 その大きな一つは、もう彼女が作り出す”創造の世界”のエレメントが使い古され始めたこと。8シーズン程も続けたこの彼女の変わらぬチャレンジ・シリーズもある種の、マンネリ化をもたらし始め、見る者に新たで強烈な時代感が感じられるまでには至らなくなった。使いまわされ始めた”エレメント”をファッショントレンドで出された素材でまとめ上げられるという手法に陥ってしまった。かわらづ続けて見せていただいている僕にはここにエネルギィイの欠如感とソースオブザクリエーションが新しくなくなってしまたと感じる。
 ここにはこのシリーズになってから常に変わらずに登場する一つのパターンがあった。2008年にアメリカで行われた展覧会で刊行された「MASK」は彼女のコレクションのソースブックであったろう。また、2012年にドイツで発行された、C. Fregerがまとめた東ヨオロッパにおける民族サイトその衣装写真集、「Wilder Mann」からも最近では影響が見られ始めた。この「MASK」からの1体は前シーズンまで使う素材をそのトレンド性に合わせながら引き継がれ使われているし、多くのインスピレーションを「Wilder Mann」からも感じ取れるコレクションが多くなってきた。
 確か3シーズン目では、僕はこのデザイナーは自分の「自伝」を作品によって語り始めたのであろうか?と言う迄のかなり、辛く、苦しいピアーなエレメントをメタファーすることが出来たが、次なる前シーズンはその激痛はなく、先シーズンはでは、どのようになるのだろうか?が僕の一番の関心であった。
 そして、先シーズンの彼女のコレクションはより、蛇足的になり、わかりやすい”ファッショントレンド・アート的コレクション”でしかなかった。使われたエレメントも時代との関係性からは、全く創造的な価値観は無くなり、今シーズンの新たな新しさとして若手デザイナーたちからぼつぼつ登場し始めた、「without sewing」の世界観までをも感じられた。
 僕的なる視点では彼女の制作チームが変わり、この制作チーム力が”弱い”あるいは、”若い”もしくは、彼女がやりたいことが十分に伝わりきれずに”発車”してしまった。なので、「このままでいいもですか?」という気持ちが後に残ってしまったのが先シーズン。
 「CdGの川久保玲で在り続ける」こととは、これが今の彼女の”こゝろの有り様”であろう。
実際に彼女が取り始めた戦略とは、「特異性」の維持であろう。
 当時、このブランド名からしても、”巴里大好き!”な、憧れであったモードの街、巴里へ進出して以来のブランド・デザイナー川久保玲の見られ方は、決して、この街の”ファッション体制”
に媚びない。という一点であっただろう。そのためにどのような服作りとイメージ作りをして行けば良いか?そのための”資金”も必要。この時に彼女が採った立ち居場所は「パリに居て、巴里から遠く離れて、」というまでの「特異性」を構築することであったはず。
 その結果と、延長が現在の彼女の最近の作品群と方法になってその”立ち居場所”を今も堅持している。この「凄さ」は凄い。先シーズンの作られている作品を見る限り、一つの見方は”リアリティ”がなくなり始めた。という視点である。このデザイナーが持ち得た”リアリティ”と実際の作品との関係性が普遍性になってきているからだ。この根拠はやはり、彼女の最近の「特異性」にもファッショントレンドが重なり始めているからであり、その「創造のための発想」の拠り所が
”机上”からのものが多くなってきていると感じられるからである。
 以前のこのブランドの「凄さ」とは「リアリティ」に所在していた。時代に対してのリアリティ、着る女性が感じたいリアリティとしての「リアリティある」あるいは、「リアリティを感じさせる」までのフェミニズムを軸にした「特異性」があったが、それがなくなってしまったという見え方である。ヨオロッパの多くのファッション・スクールの審査をやらせて頂いて来た強かな経験の僕にはしたがって、コレクションのクオリティが下がるとその見え方は「スクール・コレクション」の域になってしまう。ここ2シーズンの彼女の「特異性」は残念ながらこのように見えてしまった。
 彼女の”実生活”からどのような時代観やそれに対する「カウンター」を持ち得ているのか?
が見えないし、感じられない。しかし、僕がこのブランドのコレクションを'85年来の長い間見せていただいている限りでは、川久保玲というデザイナーは以前からこのような”自身のボキャブラリィー”での「カウンター・カルチャー」は持っていなかったのが現実だ。寧ろ、周りのメディアによって意味付けされてきたものを良い処取りする手法を使ってきた。例えば、「寡黙なデザイナー」で代表している風潮がこれを物語っている。多くのデザイナーたちがメディアに映り出されることが大好きで、喋らなくてもいい事を喋ってしまう現実からの距離感を持つこと。それが「特異性」という手法でしかなく、ここには彼女自身のボキャブラリーによる発言は存在していない。ここで、「彼女の作品が全てを語っています。」方式のプレス対応が可能で有効打であった。彼女がメディアへ語ることは”時代の優柔不断さ”や自身の立ち居場所における不満足な状況を嘆く程度でしかない。
 しかしながら、今の若い世代のコレクションに共通する不足分も、彼ら世代が現実の社会や時代性にどのような、どれだけの「対抗意識と感覚」を持っているのだろうか?ということである。彼ら世代からも、使い回され、もう古くなったかつての「カウンター・カルチャー」から、自身のボキャブラリィーによる「カウンター」を感じることが少ない。ほとんどが時代に”サーフする”ことあるいは時代の”壁紙”であることに始終しているレベルのコレクションである。
 この現実ではやはり、現存、活躍するデザイナーではやはり、CdGの川久保玲の仕事は異色であり、狙いの「特異性」を大いに感じさせられるまでの「自我」がある。それが、殆どのオーディエンスがショー後の嘆きにも感じられる「凄いですね。」が全てとなる。どの様に、なぜ「凄い」のかは不明のまま。そして、この「凄い!」は結局は彼女の「特異性」への”頑張り”に至ってしまう。
 今、この彼女の「特異性」に何の意味があるのだろうか?
そして、この彼女の”ガンバリ”とは極論、自分のため、自分たちのためのそして、このデザイナーを崇拝する人たちへの「頑張り」でしかない。だが、ここにこのデザイナー個人の「風土」としての時代観を感じてしまうのは僕だけであろうか? 
 当然、日本人がこの街で、この世界でこの”立ち居場所”を堅持し続けるには彼女が為すこと、全てが至難なことである。大変な「リスクとコスト」を払わなければならない。従って、ここで、現在のこの計算し尽くされた”企業形態と構造とその構成”が大いに世界の「ファッション・シンジケート」においては役立っていることも確かである。現在、若いデザイナーたちが見習うべきこととは、このCdGというファッション企業のビジネス形態とその構成とそれから生まれる「関係性」そのものが必須である。
 しかしながら、未だにこのCdGの表層に影響された「コムデギャルソン・チルドレン症候群」を持った遅れてきた若者たちの「自己満足世代」がこのパリを訪れてくる。

 僕はこの2シーズンのコレクションでは同じようにある種の「コムデギャルソン・チルドレン症候群」を持って訪れたはずの”UNDER COVER”の高橋盾のこの2シーズンのコレクションに大いなる拍手を送り、軍配をあげたい。特に先シーズンは見事にあるレベルを超えてしまった彼のピジティフな「凄さ」と「リアリティ」を体感した。デザイナーのジョニオくんが持ち得た若い頃からの”リアリティ”がうまくコンバインされ、ブリコラージュされ始めたことが一つの素晴らしさを生み出す大きな要因になっているところが、CdGの現在と違うところであろう。彼自身に大好きなものへの「癖」と「嗜好」が詰まっているからだ。
 見せていただき、感動と幸せ感がいっぱいだった。ありがとう。

****
 そして、先の6月のシーズンのCdG・H.P.のコレクションに現れた童話「裸の王様」。
いや、参りましたね。このロジックがここに現れたかというまでの見事さ、新鮮さと可愛らしさ、ある種の”マジック”。アイディアは以前、'96年頃だったかと思うのですが、A.P.C.のジャンが既に行ったシリーズ。ここで彼は既に、大胆に”塩ビ”を素材にブルーゾンなどを発表していた。(その実物を僕は大好きな服の一つとしてコレクションしている。)
 これの同じブランドの”オムコレクション”を見てしまうと、このブランドの女性物と男性物は誰がいったいデザインしているのか?という、また僕らしい、いやらしいく、穿った考えが横切ってしまう。

 では、明日のショーでは、どのような世界で「特異性」を見せてくださるのだろうか?
招待状が未だ、届かないパリピクパス大通りにて、平成28年9月30日:
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2016年09月30日 18:13 | comment and transrate this entry (0)

2016年09月28日

ありがとう、中里唯馬くん。彼が生み出した「あたらしい自由」とは、

 第2部;
 その彼が持ち得た他者たちとの「差異」とは先ず、彼の「生まれと育ち」にあり、それは
”EVERYTHING SO SPECIAL"であった。
 ご両親が、自分達が持ち得た「美意識」を持って、必要なる環境を自分たちが信じるその
「美意識」と「価値観」に委ね自分達で想像し、造形し作り足してゆくという「生活環境」そのものを生み出してこられたご両親である。彫刻家であるお父さんは”家”という生活住器”を、お母さんは”生活雑器”と”食物”をそれぞれが担当分担した生活環境で大事に育てられた。この彼が持ち得た”風土”としての”生まれと育ち”はこの世界の、この時代感では結構、大切な要因である。
 表層の豊かさすなわち、物質的豊かさの環境を持ち得た人たちがこの世界に入って来やすくなった時代性では、どこか人間個人の"癖”が必然な世界でもあるからだ。ある時代までは”逆境”という状況が一つのエネルギィイを生み出す環境状況であったが、現代の日本社会の日本的なる豊かさで生まれた”液化状況社会”では当然ながら”生まれと育ち”は大切である。
 例えば、戦後の”在日系”の人たちは自らの新たなその立ち居場所を彼らたちの”ガンバリ”で金と知名度によって求めた。最近では、”ふとん屋の息子”はアカデミーで、”ふとんカバー”をネタにし、”髪結い亭主”然とのらりくらりと虚言と金の力を必要として戯れている輩もいれば、新興宗教のお陰で育った人は新興宗教に委ねている。農民中産階級の出身者たちは何か在るモノがなければ生む出せない。また、職人の息子たちは職人的器用さと細やかさと頑固さを持っている。
これらはいい意味で日本人的なる精神癖であり強みであり、これらがその後のものつくりに大いなる影響をもたらす。よって、自分の”生まれと育ち”をよく吟味することも、自分世界を創造するためには大いなる根幹である。この育ちを偽って為されることのすべては”本物”ではないだろう。どこかで、自分ではないことをやっているという不安感が横切るがこれらが”ガンバリ”になっていることが実際であり、そのレベルが現実を生んでいる。
 「自由」とは身勝手なことをすることではなく、本来の「自由」とは”自心のこゝろの有り様”に正直に行為すること。なのであるからだ。例えば、ファッションを学んできた人たちが
「アート・コンプレックス症候群」に陥る原因はこの「自由」の根幹を理解しないまま成長した人種たちである。
 そこで彼らたちはつかないでいい”小さな嘘”をつき始める。だいたい「俗物」と言われてしまう人間タイプはこれが多い。彼らたち「俗物」がメディア受けするのが現代メディア社会である。彼らたちは構造という名の”セフティー・ネット”が張り巡らされた社会の中でうまく飼いならされて生きているためである。自分たちの”生まれと育ち”という「風土」を自覚していないであろうし、自認したくない人たちもいる。そのような世代人はもう古い人間タイプでしかない。現代社会では新たな若い人たちの間で”風土回帰”としての”ふるさと創生”が歌われ始めている。
 ”創造”するとは自分の好きな世界で、自分の”世界観”を生み出すことである。したがって、
このような時代では自らの「風土」である”生まれと育ち”である持ち得た自らの”アイデンティティ”そのものが大いなる武器にもなり得るということだ。
 巴里のモードの世界はこのようなそれぞれの”階級社会”との関係性から生まれた美意識と技量と教養が備わっていなければならない”職人”たちが築き上げてきた世界だった。が、この世界がそれぞれの「マーク・ブランド」さえ付いていればメディアが喜ぶという世界へ変革してしまったのが現代の巴里のモード社会の弱さであろう。

 話を、中里唯馬くんに戻そう。彼には、モードの世界ではない世界での”特技”がある。”ヨーヨー少年”だったのだ。この世界でチャンピオンにまでなった経験を持っている。これとは、「自分の好きな世界で、競い合ってそして、見られることの世界観を体験している」と僕流には翻訳できる。したがって、”見られる”ことがどのように人間の心にある種のエネルギィイを生み出すか、即ち「見られる快感」とはどのような根幹なのかをも知っている彼が今度は”見られる人”のために作り出す世界を選んだこと。
 それが、今の彼の収入源である「コスチューム」作りである。これを為すことでも学ぶべきことは学び、自分の世界観の中にひとつのスキルとしてまた、技術として受け入れている。「見られる」という場合の”立ち位置”や、「歌う」という時の”身振り”とは?
 ここにも前述の僕なりの簡略な「風土」論が存在してる。多くの日本人デザイナーたちはこの「見られる快感」を体験していないでただ、「自己顕示欲」のみでそれなりの格好付けをして粋がっている輩がほとんどである。自分たちのセンスの悪さや洗練さのない行動、「フェミニズム」も理解されていない男たち、など等、、、
 唯馬くんが出発した彼の「世界観」はこのように僕的な読み込みをすれば当然の立ち居場所であろう。1枚の塩ビシートから始まる彼の新しさとしての「without sewing」というコンセプトで生まれた”モード・クチュール”。今後の可能性は沢山詰まっている。自分たちが覚悟を持って、堂々と掘って行けば、多くの新しい鉱脈が発見される。この世界がこれからの「あたらしい自由」の世界の一つへ繋げるであろう。
 今回の作品を”フォーマット”化しそのバリエーションをより、新たな感覚でまとめあげて行けば、無数の彼の「風土」から生まれた世界の可能性と新しさが生まれる。また、もう一つの世界、”コピーライト”へも届くであろう。
 ”一つの物質”である素材に新たな加工を加え新しい顔つきにする。その”1枚”のシート状のモノを立体化する。そこへ無尽蔵なまでのカットワークを入れ込む。これを”3D”化する。それを一片のピースとして、レゴブロックのように人体に構築してゆく。バランスを考え動きを考えそして美しさを構築してゆく。
 これらの行程はまさに、これからの「オートクチュールの世界」そのものであろう。
日本に古くからある「折り紙」の世界や西洋の「ペーパークラフト」の世界の合体と、古いローテックな手法と、PCを使ってのハイテックな手法と、人間個人のパーソナルな感性と技術をはい・ブリットさせたところで生み出される彼の「あたらしい自由」による世界。
 創造の世界におけるこの「あたらしい自由」のための数式とは、「ヒューマン・テクノロジー+サイエンス・テクノロジー+パーソナル・エクスペリエンス」であろう。

 「現代社会における”鎧”や”甲冑”とは?その新たな優しい必然性とは?」ここに、今後のモードの新たな可能性が垣間見られる。たとえば、女性にとっての「コルセット」はその時代においては一つの”鎧”や”甲冑”であった。では、現代社会から俯瞰可能な未来社会における”鎧”や”甲冑”
とは??? 「身体に着せるとは、肉に着せるのか、骨で着るのか或いは、皮膚に着せるのか?
または、心に着せるのか?虚飾に着るのか?立場に着せるのか?」
 もう一度、モードも、”生まれと育ち”としての「風土」であるこの根幹を再考する時代性が「あらたな自由」への始まりのように感じる。
ここから、モードの面白さが再び始まる。
 消費社会での豊かになった生活のための”生活衣料品”はファスト・ファッションに委ねればいい。

 ありがとう、中里唯馬くん。
来シーズンも君の「あたらしい自由」の世界を見せてください。
文責/ひらかわたけじ:

投稿者 : editor | 2016年09月28日 17:22 | comment and transrate this entry (0)

2016年09月27日

中里唯馬くんのクチュールの世界、 ”眼から鱗が落ちる 。”

『見えるものが実在するとは限らず、触れるものだけが実在する。』
大森荘蔵著/『流れとよどみ』より:
 
 先日のLEPLI-VACANT会で中里唯馬くんに参加していただき、彼の”あたらしい自由”による、彼が発表したクチュールの世界の誕生を語っていただき、僕は”眼から鱗が落ちる ”までのリアリティを味わった。「嬉しかった、ありがとう、唯馬くん。」

 「眼から鱗が落ちる 」とは新約聖書「使徒行伝」第9章からの引用のことわざである。
「何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになる」が意味である。最近のTVコマーシャルでも、このコピーはよく使われ始めているらしい。
 
 僕が今回の彼の作品の世界を彼自身から話を聞き、学ぶ機会を得たことで、”眼から鱗が落ちた” 一つは僕が3年ほど前に提案していた”僕自身のための『Without Sewing』”プロジェクト案とそのコンセプトが既に、”彼の新たな創造のための発想と努力と覚悟によって”見事に、美しくその世界を彼は創造してしまったという新しい出来事”の事実でであった。
 もう一つは、現実のファッションの世界が極論すれば、世界レベルで「日毎に、詰まらなくなってゆく」この現実に、彼が齎した”あたらしい自由”によってこれからもやってくるであろう
モードの世界が若い人たちによって再び、エモーショナル豊かな「美の創造」がこの世界で未だ、多くの”可能性があるという前向きな大いなる希望が与えられたことである。
 僕の長年の体験と経験から、このモードの世界は既に、”ユダヤ・コミュニティ”で構築され、ビジネス構造化されてしまっている世界である。したがって、日本人であれば、彼らたちユダヤ人との例えば、結婚やゲイ関係という手段を使って余程の強力な信頼か、金儲けにおいて関係性が確立されていなければそれなりのところで、それなりに扱われてしまう世界でしかない。
言い換えれば、日本人がいくら頑張ってもそれなりのところで”ウエイティング”が掛けられてしまうという現実であること。
 これはこのモードの世界における”創造性”においても然りである。
例えば、モードの素材の殆どは布であり皮革であり、縫製はミシンである以上はこの現在のある種の”ユダヤ・ルール”は不変であり、”世界基準”であることには変わりがない世界である。
 そこで、ではどのようなコンセプトと手段を持てば、彼らたちと一線を持って肩を比べまた、彼らたち以上に日本人としての特徴である細やかな美意識と表現手段が”ヒューマン・テクノロジー”と高度なる日本人の”サイエンス・テクノロジー”の合体によって創造され、それらをよりハイ・イメージングとスーパー・リアリティによって生み出される世界が可能であるか?ここで、日本の多くの若者たちは”大いなる勘違い”をその未熟な教養によって”アート”の世界へ逃げ足早く逃げ込むものが多いことである。特に、中途半端に海外の学校を卒業して、していないことをさも、出来るようにメディアにタレ込んだ帰国組の連中にこの現実が多い。ここでは、”アート”という詭弁を無教養に使ったもの勝ちという変わらぬ日本人村社会での現実であろう。
彼らたちは、”デザイン”とは?に対しての教養とスキルの根幹が教育されていなく心は”アーチストコンプレックス症候群”。”デザイン”の世界がなぜ、1919年に突然のように当時の社会へ登場したのかの意義もわからず。これは日本のデザイン教育の一端の表れと責任でもある。
 少し、話が逸れましたが、この問いへの僕なる回答が、「では、針と糸あるいは、ミシンを使わないで作る衣装」という”創造のための発想”が生まれた。ここでのモードに対するコンセプトは「着る」ことではなく、身に装うことである「身体装着」という発想である。
 そこで、日本の歴史を顧みると、「鎧と兜」の世界があり "experience・mode"の世界である。昔、アントワープ・アカデミィーの海外審査員をやっていた折に、いつも1年生の作品が新鮮で自由で楽しい世界を創造していたことも思い出した。その理由は彼らたち1年生の作品課題が"experience・mode"だったからであった。
 また、丁度この年より、日本にも”3D"プリンターが登場したこともこの僕の突飛な発想に
拍車をかけた。その結果が、この"Without sewing" というコンセプトになった。
 
 中里唯馬くんの話を聞く前までは、巴里のオートクチュールでわざわざ日本からショーを見せるためやって来た彼のコレクションを見る機会を持ったが、その体験では僕の評価は低かった。
 遠見で見せていた僕は暗闇から”輝く、蛍光&発光”体の塊が女性を装っているにしか見ることができなかった。このような塊だけであれば、もっと斬新な発想で使え見せることができるであろうとも考えた。この素材はどこかの日本の素材企業が考案した新しい技術によるもので、それを使っての世界観だろうという失礼な見方をしてしまっていた。結果、実に愚かで恐ろしい自己満足な見方であった。
 そして、今回の打ち合わせのため、彼のアトリエへ伺った時にその僕のうがった見方そのものが間違っていたことを思い知らされた。
 彼の今回の想い秘められた世界観の「コトの次第」は”1枚の塩ビ・シート”が発端であった。
 例えば、日本人は「神=紙」を上手に敬い扱って、関わってきた民族である。
ここには平面から立体へ変身する「かたち」の世界が存在した。今回の唯馬くんが想像した彼の世界観はここが根幹であろう。日本人がもつ単純で明快な原理構造を知っている若者が”あたらしい自由”によって為し得た、新らたな造形の感覚の素晴らしいさと頭の良さが生み出した世界感である。この彼の新しいものを創造する”覚悟と行為” これらに僕は見事に「眼から鱗が落ちた 」のである。
 素材としては、決して高価ではない、”塩ビ・シート”。これを、作業上における経済寸法を出してその寸法でシート化する。このシートに一定文様に近い切り込み線を入れてカッティングし、このカッティングの目を幾重にも織り込んでシートを”3-D"構造化してゆく。この作業によって、”1枚の塩ビ・シート”が小さなブロック上の立体ピースに加工される。すなわち、”レゴ・ブロック”の構造と同じ発想ともいえるであろう。この折り返しを”立体化”する時に小さな留め金具で一箇所づつこれも、手作業で止めてゆく。あとは、このブロックを人体に構成してゆく作業である。ここで”クチュリエ”本来の感覚と繊細さと持ち得たファッション・スキルとそれなる経験が必然となり、それを具現化してゆく”チーム”が必要でもある。ここが”農協デザイナー”や”壁紙デザイナー”たちとの歴然とした「差異」を彼は持ち得ていたのである。(後半は後日、)

投稿者 : editor | 2016年09月27日 17:35 | comment and transrate this entry (0)

2016年09月02日

『ファッションがつまらないくなったという声がよく聞かれます。』

 「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”というリアリティ」 
ブルータス依頼原稿初版版より/平成28年八月記:

 『ファッションがつまらないくなったという声がよく聞かれます。』
 そうですね、つまらなくなったというよりも、魅力が無くなった或いは、面白く無くなリ、
ファッションが醸し出すキラキラしたときめきが日本の現代社会には必要とされていない
のかもしれません。
 嘗ての”原宿”で、風変わりな目立った格好をした「ファッション出たがり」や、たまに乗る
電車の中にも、もう「ファッション・バカ」は居なくなり寂しくなりましたね。
 そんなにファッションがダサくなってしまったのでしょうか?
或いは、世代が変わったことによって消費者の願望が変化してしまったのでしょうか?
或いは、現代社会ではファッションでカッコつけなくっても女の子にモテる時代になったので
しょうか?又は、 世間から”はみ出したい”からファッション・バカになるのが手取り早かった
そんな時代が終わってしまったのでしょうか?
 
 このファッションの世界とは”作り手”と”売り手”そして、”買い手”とその人たちの”世間”と
”時代”で成り立っています。この何れかがズレ始め、これらのバランスが崩れてしまったから
でしょうか?
 そうです。僕流に言ってしまえば、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた」のが
原因だと思っています。これは”ケイタイ以後”の現象ですね。
豊かさを持ち得た20世紀の人間が「あり得るべきはずの、”距離”の短縮化=文明の進歩
・発展」という命題にのめり込み過ぎた世紀の終焉、「距離の消滅」の完了によって齎された
「時間のパラドックス」が根幹でしょう。
 以後、”時間”はだんだんスローになっていきましたね。この当りの面白さは、
2000年にR.パワーズが書いた小説、「舞踏会へ向かう三人の農夫」(みすず書店刊)は
かつての山本耀司によって、彼のメンズファッションのネタ元にされたA.ザンダーを
主人公にして描かれれいるので余計に面白い小説でしたね。
 
 この”距離感”は”作り手”であるデザイナーにもそして、”売り手”であるディストリビューター
にもそして、”買い手”という消費者たちにも在ったはずのそれなりの”距離”が
無くなってしまったからです。
 当然、彼らたちが生活している”世間”にもその「あり得るべきはずの、”距離感”」は
無くなってしまっていますね。でも、”世間”ではこのような社会が望まれ、このような社会を
目指してきたのが戦後71年の目標だったのではないのでしょうか?
 これが時代や社会が”豊かに”なったということなのでしょう。或いは、”豊かに”なったから
このようなフラットでリキッド化した”世間”になったのかもしれません。戦後の日本社会は
合衆国によって「押しつけられた或いは、飼いならされた”普遍性”」によっていわゆる、安心、安全、快適という”セフティーネット”が見事に張り巡らされてしまった”世間”が成立しいます。
 敗戦後、解体された”日本の階級社会”はその後、倫理観無き輩たちによって「大衆消費社会」が構造化され、”消費者”と呼ばれる人たちもこの与えられたセフティネットの中で何を選ぶかの”自由”に戯れているだけの差異無き現状というリアリティですね。従って、ファッションと
その機能である装うこともこの管理社会の中で普遍性を持ってしまいました。
 この一因はファッション産業そのものが変革し、世界規模の大衆消費社会を対象とした
「SPA方式」による”ファースト・ファッション”が誕生し、これが予想外に”世間”に受け入れられたことですね。
 ここでのキーワードは”トレンド”は無くならずより、フラットな「世界水準」になって
しまったということです。また、人間の身体構造が不変故、ファッションデザインそのものも
100年以上を継続して来て、”作り手”は全く新しい創造性が生み出しにくくなったこと、
その必然性もなくなったこと。何よりも、作り手が持つべき”自由”に「あり得るべきはずの、
”距離感”が無くなり始め」どこかで見たもの、誰かが持っているものの方が”売れる”という、
”Variations of the Archives"の世界に佇み、”模倣”が”習慣”を生み出すというベタな、
G.タルドが既に、1890年に「模倣の法則」で指摘した時代性に至ってしまったことは
興味深いですね、ここにも”メビウスの輪”が見える世界観です。
 生活が”豊か”になるということは、その生活における価値観が変わりました。
例えば、ファッションという言葉の意味合いもその広がりや機能さえも、豊かさを享受してからは服だけの世界ではなく生活様式そのものへ広がりましたね。従って、服で装うだけでなく、
生活環境を装うという余裕も生まれたのでしょう。また、”豊かさ”ゆえに方法論としての術は
何でも有りの世界になってしまいました。ここには”作り手”と”買い手”にも、あり得るべき
はずの、感覚的な”距離感”も無くなってしまいましたね。
 従って、資金さえ十分にあれば、誰でもがそれなりの「壁紙デザイナー」に成れる、何でも
可能な時代性になってしまったことも”距離感”がなくなった一因です。
 かつて、オタクと呼ばれた”豊かなる難民”だった世代が今では社会の中枢へそして、まだこの
世代の一部は”自己顕示欲”が旺盛であった世代ですが、その後の世代は”豊かさ”の充足に伴い、性欲と同じなのでしょうか、”自己顕示欲”も減退し彼らたちは「自己確認世代」ですね。
従って、”繋がる”ことも踏まえた自己確認をSNSやインスタを駆使してヴァーチャルな上での
「ウオリー君を探せ」に勤しんでいます。ですから、彼らたちの足元のシューズを見れば
どれだけファッション・トレンドを潜在的に意識しているかの閃きが伺えますが、ここにも、「あり得るべきはずの、”距離感”」を寧ろ、無くするベクトルでその”世間”という塊に委ねた
生活者となっています。従って、彼ら世代にとってのファッションは彼らたちのそれぞれの
”塊”における”ユニフォーム”的発想のものでしかなくなったのでしょう。
 このような典型的な保守の進展という時代の追い風に立ち向かって行くにはそれ相当の
”覚悟”がいりますね。かつての、僕たちの時代には自分たちの持ち得たリアリティから
”はみ出す”すなわち”距離感”を持つ或いは、”ズレる”ために”覚悟”して生み出したものが
「カウンターカルチュアー」でした。
 このビートニック&ヒッピィー文化と称されたものが現在でも尚、使い古されています。
その検証的展覧会が今、巴里のポンピドゥー美術館でタイミングよく開催されています。(BEAT GENERATION展)
 そして、現在ではこのビート&ヒッピィー文化を生み出した”コミューン”形態が”野外フェス”で模倣、継続されそれが日常生活の新たな習慣になろうとさえしていますね。ここには、
その表層は同じようですが、”ドロップ・アウト”し、”距離感”を持つことで既存社会にアンチ
テーゼを示すことを生んだ「カウンターカルチャー」と、時代のトレンドとしての”スロー・
ライフ・スタイリング”という”距離感”無き根幹とに、その覚悟の相違が読めるのです。
 今の若者たちにとっての「カウンターカルチャー」とは何なのでしょうか?
”ストリート=パンク”というのももう古いでしょう。音楽がまた80年代初めのラップが流行り始めたことからそろそろ、グラフィティも出てくる兆しを感じるのですが。
 そして、やはり時代の風に立ち向かって行くには個人が持ち得た「文化度」が必然となるでしょう。
 日本からの若い「壁紙デザイナー」たちが巴里へやってきましたが、彼らたちの世界には
「情報のザッピング」と「見せかけのリアリティ」がちらつくだけでその奥に在るべきものが
見えないものがほとんどでしたね。この在るべきものとは、デザイナーというよりも、人間個人が持っているべき「文化度」ですね。それにブランドが持っている「文化力」さえも”壁紙
程度”、これではCdG HPとは勝負ができませんね。
 悔しいですが、このCdGという企業にはこの「文化度」があり、常に意識したファッションの
世界観を結果、その特異性を持って構築している、未だに「距離感」がある企業であり、
ブランドであり、デザイナーなのです。彼らはこの「文化度」を生み出すための「文化力」を
日頃から精進して「文化度」をどのようにセンスよく、その時代性に差異化し発表出来るか?
そのための企業力も凄い、その結果でしょう。

 最後に、僕が言いたかったのは、この時代の追い風に向かい合うためにはそれ相当の”覚悟”が必要であることと、そのための特異性を取り戻すには、「文化力」豊かな、「文化度」が
必要であり、その文化力が現代のファッションにおける新たな”機能”となり、”自由”を生み出し
その”自由さ”が新しさを感じさせるまでの世界を、そのブランド”らしさ”という言葉で
見せてくれる、ということです。
 僕がこの30年間、巴里で好きなファッションを見続けてきた愉しさと気概とは、
彼らたちが散らつかせる文化力に痺れ、「文化度」に喜びと感動を感じて来たからです。
この「文化度」は一夜漬けでは生まれないものです。日頃の教養と経験と持ち得た謙虚なる
リアリティと人間的なる倫理観から生まれ得る例えば、”メタファー””レトリック”
”アイロニィー”"アレゴリィー””ペーソス””ユーモア””メチサージュ”
そして、”エステティック”と”エキゾチズム”などなど、のものですね。
 これらは「壁紙デザイナー」には無縁なもの、だから彼らたちは”アート”をカッコ良いと
嘘ぶってしまうのでしょう。彼らたちが立っていたい場所とは、「消費文化」の情報量だけが
拠り所での立ち居場所でしかないようですね。
 だから、『ファッションがつまらないくなった。』とは、”あたらしい自由”を感じさせない
デザイナーたちの「文化度」の貧しさそのもので、自分善がりもいいところでしかないのです。 そこで結論的には、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”という
リアリティ」へ新たなバランス感覚ーまさに”NEW BALANCE”ですね、ここでも消費財が
その新たなバランス感よりも先に、リアリティを生み出してしまった消費文化しか生まれない
東京、、、、だから、「あたらしい自由が見つけ出せない壁紙デザイナー」と「あたらしい自由を必要としない消費者」という”世間”とそれらを煽るメディアが我が物顔になってしまった
ことが元凶の日本のメンズ・ファッションの世界でしょう。
 巴里まで行って「壁紙デザイナー」の世界を見ることは僕にとってはただの”ノイズ”でしかありませんね。

 現代日本の社会には、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”という
リアリティ」のみが漂っているだけなのでしょう。
 ファッションの世界も"あたらしい自由”によって、新たな立ち居場所を教養と経験と勘と
そして、文化度によってまず、次なる時代を見つけるべきであり、そのための歴史を知り、
明日を夢見るアドベンチュアーヘ覚悟ある始まりを探さなければならないでしょう。
 
 何故ならば、もうすでに「近代」はル・コルビジュェが”世界遺産”になってしまっている
からだ。
文責/平川武治:

参考/
G.タルドの*「模倣の法則」/河出出版新社刊、2007年初版:

                                     

 

投稿者 : editor | 2016年09月02日 15:32 | comment and transrate this entry (0)

2016年03月01日

2ヶ月遅れの、今年の初めに。「”シュプレヒコール”は左翼崩壊までの子守唄だったのですね。」

「もう数日後にはまた、新たなるコレクションの流れが吐き出されるというこの場に及んで、書かなければならないこと。」
 新年に考え、念い込んでいた事は、僕たちの国が、これからの子供たちのためにどのような
こゝろの有り様を、念いを掛けているのか?とても、心配でなりません。
もう5年前の出来事位なってしまった天災災害を表層に押し出してその横で、金儲けを企んだ
大手企業。そして、その後ろへ追いやられてしまった実際の被害者たちと”原発企業事故”問題。
 彼等たちは今後の国土のこと、子供たちのことを心せず、自分たちの目先の”業”の世界を
目論むばかりでこの5年が来ようとしています。ここにもいわゆる「格差社会」の現実しか
読み取れません。
 戦後、70年を経てやっと、お許しを出してもらった「軍需産業」復活=工業立国化という
アメリカを中心にした軍需複合産業から与えられたシナリオの現実化が今の安倍政権の根幹。
その代償はUSAの軍事防衛費を軽減させ、なお彼等たちへの軍需発注の強化。
(昨年計上された予算の増額比率では軍事防衛費が年金福祉や教育費よりもダントツに増額トップという現実。)
 僕たちの国の現実の弱体化=国債国家を修復させるために選ばれた策「工業化立国」案。
そのための「軍需産業の復活」。そのためにも必需な「動力源」確保がこの「原発再稼働化」の根幹。ここで生まれる、新たな”利権=天下り”に有り着くための政治化と政治家たち。確りと
立ち直り始める”旧財閥”しかし、これからの彼等たちには戦後からの”ユダヤ資本”がべったりと既に、コバンザメのごとくひっついてしまっているのが見えそうで全く見ていない現実。
 メディアも既に、”節穴”、御用メディアもいいところ。
メディアの役割である「社会教育」も偏る一方。

 『あの、’60年代も終わりの頃の僕たちの”ヤジ”や”落書き”は何処へ行ってしまったのでしょうね。』
 時折、聞いてしまうジョー山中が切なく、悲しくしかし、心に溢れるように歌っている
「人間の証明」のテーマ曲。”あの麦わら帽子はどこへ行ってしまったのでしょう。”とともに思い出してしまうのですが、この歌を知っている世代も少なくなっていくばかり。
 結局は、敗戦という事実を切り札に「倫理観無き」輩たちに”ヤジ”や”落書き”は消され、
”カウンターカルチュアー”をすべて、王道の80年代消費産業のアイコンにし、売り飛ばした僕たちの世代。
 ”シュプレヒコール”は左翼崩壊までの子守唄だったのですね。
 ーーーなんてことを考えて迎えた新年でした。やはり、”歳”ですね。

 そして、10日も経ったん甘ぬるい正月ボケの脳味噌へD.ボウイが亡くなった、と。
僕のロンドン時代のリアリティがまた、一つ消えて逝きました。その悲しみとは、寂しさしきりで辛くもなりました。
 <F.B.へ書いたメッセージ>から、
『David Bowie(David Jones)が亡くなった。昨日、1月10日、彼の誕生日が幾日か前だった。

69歳を迎えて間もなく逝ってしまった、ガン闘病も虚しく。
 
どうか、安らかに永眠なさり、ご成仏ください。
 ’73年に彼と初めて出会った。
ロンドン郊外、GILFORDの路上でだった。彼のコンサートにわざわざ招待してくれた。
その後、”RED BUDDA"のロンドン公演のレセプションで再会し、東京のコンサートにも。
 悲しい。
彼は僕の青春時代の耀きの一つだった。
僕たちの青春にも老いが来、死が忍び始めた実感が
彼の死とともに感じつつ。  
生きることの一つに、 "Metamorphose"を人生の上で教えてくれた。
あの時代の彼のステージから、「存在感+行動+容姿」が
大切であることを彼の人生で教わった。
 悲しい。
たくさんの想い出に耽ります。
 どうか、燦然と輝く星に、
合掌。
 最近は、残された「Black Star」を聞いてしまっています。

 さて、モードの話をしなければ、 
パリのモードの世界はもう、すでに僕も発言しているように、「モードの世界=広告産業」という公然な公式になってしまい、その中での若いインデペンデントなデザイナーたちの必死に捥がく状況はひどくなり、狭くなる。
 この街もやはり『SPA』系がうまく儲けられる時代性とそこから儲けた資金によって新しい顔
つきを産み始めたからです。これは、日本のファッション産業も然り。
 ここ数年来、僕のファッションへの関わりの眼差しと視点は「ファッション産業」です。
日本におけるこの産業が今後、どのような状況を迎えることが良いのか?
そのためにはどのような視点とこゝろが大切なのか? 
”産業とデザイン”の何らかの新しい関係性が、これからのモードに興味を持って、
「仕立てる」ことを目指す子供たちへの好奇心へ繋がればというこゝろの有り様です。
 しかし、パリは”国策”に等しい方法でサンディカが中心になって若い才能と有望なスキルを
バックアップする側面も持ち合わせて、彼らたちの時代感から今後の「モードの巴里」の継続化に策を持ち始めていることも確かであり、始終している。これがこの国のうまいところであり、強く継続に拘る証である。
 例えば、数年前から始まった、サロン「DESIGNER APPARTMENT」サンディカが全面的に
バックアップし、選ばれる若手デザイナーたちはそのほとんどがあの”イエール出身”であり、
フランス素材と国内生産に拘ったデザインと工業性を展開している。

 では、東京の多くのインデペンデントであると自称しているデザイナーたちの状況はいかがであろうか?
 僕の目から見たら、この日本のデザイナーと彼らたちを取り巻くファッション産業そのものは
ここ30年はほとんど変化なし。ただ、同じレべルのデザイナーたちが入れ替わっただけである。
 彼らたちが得た社会での立ち居場所に立ち続けるための”discipline"がその彼らたちの作品と称する商品からもデザインスキルからもほとんど見られない。ここには”デザイン”とは何かの
根幹が意識として、彼らたち「壁紙デザイナー」には希薄でありまた、ただ間違った未熟なボキャブラリィーとして「アートとファッション」の二枚舌を使うのみ。
 このレベルのファッションデザイナーを取り囲む世界にもこれらの知識がほとんどなく、
古い80年代のデザイナービジネスにどっぷり浸かりきっているだけである。従って、
”東コレ参加”にぶら下がり「デザイナーぶる」ことに拘り、わずらわされている大勢の輩たちは
僕から見ると残念ながら、「壁紙デザイナー」として頑張っているのみ。
 デザインの役割には「社会と産業」にどのように関わって行くか?という使命がある。
そこに、商品としてのクオリティや価格のつけ方が見えてくるのであるが、作り手の一方的な
思い込みと”志”低い夢の勘違いから彼らたちの商品を街で見受けることができず所詮、自己満足の世界での「デザイナー」という立ち居場所を守っているだけの現実である。「東コレ」という恒例イヴェントに参加することでその彼らたちの立ち居場所が確保される構造が出来上がっている。主催者たちの予算獲得のための員数確保の自己防衛とメディアによる広告を期待しての持ち上げ報道構造とデザイナーたちの自己満足な「壁紙デザイナー」の堅持という三位一体化が蔓延しているだけの「東京ファッションウイーク」という”ゴッコ”が変わらず、30年近く続いているだけでしかない。
 変わったこととは、時代の変革によって、従来の「アパレルメーカー」がその土俵から”ファストファッション産業”に蹴落とされ、入れ替わった「SPA」型のブランド企業に完敗し、
エネルギィー切れでこの土俵から撤退しただけ。

 そう、今回は見せていただいてまだ僕が正式にこのブログに書いていなかった先シーズンのパリのファッションウイークで気にかかったデザイナーのことを書かなくてはいけない。
巴里ピクシム大通りより。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2016年03月01日 01:38 | comment and transrate this entry (0)

2015年12月21日

少し、気になる「芸術とデザイン」の関係性を考えてみよう。

「芸術とデザイン」の関係性を考えてみよう。(1)
 昨今、「ファッションとアート」の際もラップされ始めてきた。
その”際”がより、不明瞭になり始めるまでの「物質的豊かさ」というリアリティが齎した新しい価値観の一旦だろうか?或いは大いなる自己満足の一旦のみ?
 その証拠に、日本で発信されるこの作品群はその殆どが、「手工芸の世界」でしかない。
”どれだけ、手間暇をかけました。でも、自分自身ではやって居ません”レベルの代物がほとんど。

1)まず、日本のファッションデザインの現状について、
 実際、ここ10年間ほどの日本のファッションアパレル産業はそのビジネスの展開においも、
実績に於いても然程の成果を見せていない。当然であるが、この直接的原因は”ファストファッション”の登場である。即ち、”低価格”と”トレンド性”そして、”資金力”と”生産インフラ”などが
主なる敗因であろう。極論すれば、海外から押し寄せた”黒船” =”ファウストファッション”と
日本発の”ファストファッション”のそれらによってグローヴァルな販路においても負けている。
 従来までの日本のアパレルファッションの販路はその殆どが彼らたちの育ちと同じように
”百貨店”であった。その”百貨店”ビジネス本来が生活の豊かさという社会の変化に気付きその
ビジネス戦略を変革してからは余計にアパレルファッションのビジネスは苦境に陥った。
 しかし、巴里においても、アメリカやまた中国においても、ファッションを確かな一つの国を興すための産業と考えられた國策のもとで新たなブランドファッションビジネスが表層化されている。その結果、このデザイナーファッションビジネスの高トレンド化とそれをより魅力に商品化する工業力と広告宣伝のイメージ力を伴ってここ数年来、彼らたちは”百貨店”ビジネスで確立させたイメージング&ビジネスを”路面店ビジネス”へシフトをし始め、確実にこのゾーンでのビジネスをも伸ばしている。
 一方、”ラグジュアリーファッションビジネス”はその取扱品目を増やす方向でビジネスを広げてきたがその広げ方が今後、課題になってきたのが現在である。即ち、毎シーズン、新しいトレンド性を重視したメディア-ウケを狙った商品群をこれでもか、これでもかとデザインしてゆくには
”リスクとコスト”が掛かり過ぎることに懸念し始め、疲れて来た。そこで従来からのブランド定番商品をどのように周辺商品、コスメやバッグやジュエリーアクセサリィーとシューズ等に
よってその新しさを広告によって編集拡大してラグジュアリーのイメージを保ってゆくか?へ
シフトし始めた。ラグジュアリーブランドのトレンドモノを購入するのはアジアンマーケット、それもやはり、日本しかない。という現実を’90年代で学んだ彼らたちはそのビジネス戦略を
再び、日本へ向け直し始めた。そして、この日本が”観光立国化”戦略を新たな経済戦略の大きな柱としたこととリンクして最近の街の風景がラグジュアリーブッティクと共に変わり始める。
 では、日本のインデペンデントなデザイナーブランドビジネスはどのように進化しているのかあるいは退化してきたのか?結果は”変わらぬ自己満足の現状維持”化でしかない。
 日本のファッション産業のインフラを熟知し、それらと良い関係性を直接持って自分たちの
世界観でデザインしているブランドはそれなりに延びているし、少しは右肩登りで継続している。しかし、自分たちの倫理観と狭軌な”夢”の範疇で自己満足してしまっているデザイナーブランドは現状維持が精一杯であり、当然であるが今後が大変になって来た。
このレベルでの彼らたちは自分の世界観を好きなファッションの世界で、どのように表現すれば誰が買ってくれるのか?ここが見えないか、見ないでモノ造りをやっているのか、それに自己中心な人間性が加わっての現実でしかない。
 ほとんどのファッションメディアはスポンサーとの関係性で成り立っている世界である。
売れて来たブランドが何処なのか、どんな理由で売れ始めたのか?そんなことには無関係に近い。広告主ブランドとの協労によってあるいは、売れる為の情報をそれらしく仕込んでメディア化し売り上げを作り、広告費を確りと取る。この構造が現代ファッションの”広告産業ビジネスの由来である。そしてこれに、ファッションの世界で重要なウリである”トレンド”をどのように
”味付け”をしてゆくか?ここに、現代では”読者モデル=隣のトレンド=リアリティ”というアイコンを生み出し、そのシーズンの”売りたいアイテム”をメディア化”しているのが彼女たちファッション誌編集の生業である。そこへ訪れた、”パリコレ”情報を耳年増的に囁く。
 多分、日本にも人間的に確りと地に足を着け、自分の好きな世界でリスクとコストを掛けて踠いている若いデザイナーたちもそれなりに居るのだろうが、極小である。表層のメディアとその周辺の喧騒に侵されている彼らデザイナー、勘違いさせられてしまっているデザイナーたちが
目立つ。僕的には身勝手な自己満足のレベルを一つの”夢”としている輩たちがメディアにゴマを擦り、モテ騒がれてしまって、ちゃんと自分の世界観で時代を表現し、好きな服にこゝろの有り様を入れ込み気宇し、社会にどのようにコミットさせなければならないかを真撃に考えているデザイナーが少ない。
 この原因の一端は彼らが学んだデザイン教育にある。”デザインとは何か?”という根幹が理解されづ、解らず、教え込まれずに来てしまったこと。”モノ作りとデザイン”の関係性の意義と目的とその根幹が世界レベルで認識されず、ここにも戦後の日本の欠陥教育である”表層”の情報と模倣を教える、根拠なき世界を構築してしまった諸環境が原因。

 嘗て、経済恐慌とともに芸術を弄んでしまったヨオロッパ。
 その芸術から智と感覚を得たデザインによってその国を富める国に成し遂げたのが30年代からのアメリカでありここから近代ヨオロッパの没落が始まった。この現実には”アールデコと流線型”の違いがあり、これが”近代デザイン”の源流である。(デザインそのものの発端はイギリスにおける第1次産業革命からで、当時の機械生産化によってもたらされた量産と低コスト素材の誕生がその機であった。)
 今、またそれぞれの国家の経済現実は非常に貧困と弱体化し始めた時代が現在の国際社会の
一面でもあり、それぞれの国はデザインの自由な豊かさとその力によって自国の工業力と経済力を復興させる時代でもあり、発展途上国の工業化も加わり”インダストリアルとデザイン”の
新たなる現実が現代社会の先端である。
 先に述べたように、巴里もサンチェ系アパレルがそのほとんどのパワーを持ち始め、
ラグジュアリー系も彼ら達の歴史とルールを周到して確実に、富を築こうと”インダストリアルとデザイン”の関係性を広告産業化し始めたのも現実です。また、この国のインデペンデントな若手デザイナーたちを優先した国策的なショールーム(designers apartment)をサンディカが協力してここ数年来、催していることもこの国のファッションデザイン産業への新たな決心であろう。
ここへ招待してもらえるデザイナーたちはフランス素材使用とフランス生産が必修条件になっている正に、インデペンデントなフランス人デザイナーたちである。
 
 何れにせよ、日本のデザイン教育においては”デザインとは”、”近代デザイン”とはのデザイン理論の基礎根幹を蔑ろにしその教育の殆どを”表層”を模倣して形つくることに始終して来た。(いわゆる、専門学校教育のレベルである。)そして、”デザインとアート”の差異の根幹も理解せずに無知ゆえ、無闇にアートをもて囃しているファッション業界誌メディアとその媚びた周辺がこの日本のファッションデザイン産業を余計に中途半端な倫理観なき国家に増長させ、
”デザインと産業”によって新たな国力を生むまでには至らず、そのパワーは低下してしまったのがこの10数年のファッション産業であろう。政府が援助する”税金”がしっかりと産業にまで還元されず、先ほども言った、狭軌な小さな個人の”夢”と”倫理観なき自己満足”の変わらずの低レベルの継続化に使われているだけである。(最近の”戦後のツケ、デザイン編”はその殆どの根幹がここに所在していますね。)
 もう既に、「時代の豊かさ」はリアリティを持ちました。インスタ等の「リアジュウ」、そのリアリティからどのように社会とコミットし、産業化し、富と力を産む出せるのが”デザイン”という新たなパワーです。 そして、ファッション産業特有の「過去を消費してゆく」事をいかに、意匠化して行くかを考える時代性でもある。ここでのインデペンデントなファッションデザイナーたちの課題とは、”クオリティ、価格、生産構造、物流、ディストリビュート、イメージング、ターゲットなど等”は全て、”関係性とその勤勉なる開発努力”が根幹であるということの再認識化とそのための謙虚な努力であろう。
 持ち得たコンプレックスから、『無闇にデザイナー振ることに煩わされ、やっていないこともやったように、知らないことも知ったように学んでいないことも学んだようにイメージング』
する構造と立ち居場所はもう、”20世紀のトイレットペーパー”でしかない。
 彼らたちのブランドにおいての現代における”ブランド・インベンティブ(独創性)”とは?
従来のように、”いいモノ、クオリティの高いモノ”を作りことも大切だが、ここにはまってしまうと通例な、それなりのブランドで終わってしまう。”リアジュウ”な現代ではそれなりのカッコ良さやクオリティが良い事は普通なのである。従って、日本が持ちえた高度な”ファッションインフラ”/生地・素材と生産工場、メディア等をどのような関係性によって自分たちのブランドとその
世界観の中に落とし込んだ”モノつくり”が挑戦でき、可能に出来るかが課題でしかない。
 そして、ブランドの考え方やイメージングや美意識や音楽感覚や時代感にブランド・インベンティブが特化しているブランドとしての”インデペンデント”を考えることが今という時代のリアリティであろう。
 そして、今年で言えば、やはり、「ニュース」が新しさを提供しましたね。
国家の政策が変われば、それなりの新たな法律が生まれその法律が新たなる生活習慣を生む。
そうすれば、新しさが生活に自然に必需される。このような視点でデザインするとは?が、
インデペンデントな若いデザイナー諸君が持つべき創造の眼差しであろう。ここでは”外国人コンプレックス”だけでの発想では今後の日本のリアリティに生き残れないであろう。
 ”集団自衛権、東京オリンピック、カジノ、女性の社会化、移民受け入れ、軍需産業、道交法、
そして、観光立国化などは確実に今後の日本のファッションシーンを変貌させられる新しさで
ある。それに、”ゆとり教育”以降のZ世代の新たな価値観とヴァーチャルテクノロジーの共存化。
 そして、「WITHOUT SEWING」と「WEARABLE」は新しいキーワードとなった。
文責;平川武治: 

投稿者 : editor | 2015年12月21日 08:30 | comment and transrate this entry (0)

2015年10月05日

安藤忠雄と川久保玲。あるいは戦後の”横文字産業”とは、

 巴里のファッションウイークが始まった。
僕なりの感触は”低調”。何か、”から騒ぎ”を感じてしまう。
本当は、”ショーどころ出はない”と言うのが本音であろう時代のシーズンに感じる。

 この街へ入る前に、コムデギャルソンのプレスヘインビテのお願いをした。
まず、その時に書いたメールから紹介しよう。
『”10コルソコモ”の件、
”やっぱり、来たか!”という想いで嫌なニュースとして僕は受け取ったのです。
僕はもう巴里へ着きました、どうか、お気をつけていらっしゃってください。
楽しみにしております。』
 この”10コルソコモ”の件とは、WWD N.Y.が(9月12日)書いた一文出ある。
http://wwd.com/business-news/financial/10-corso-como-tax-10220661/
『10 Corso Como Said Facing Big Tax Bill By WWD STAFF
MILAN – Concept retailer 10 Corso Como may be facing financial troubles. According to media reports, the store created by Carla Sozzani allegedly owes 4.67 million euros, or $5.27 million at current exchange rate, to Italy’s tax office Equitalia.

While Sozzani’s lawyers contend the retailer has asked to repay this debt in installments, Equitalia deems the store is unable to do so and is requesting Milan’s courthouse to declare its bankruptcy. A first hearing in the trial is expected on Wednesday, according to the online version of magazine L’Espresso, which also states that 10 Corso Como had requested Italy’s tax commission to allow an additional extension to repay its debt. The commission has yet to decide on the issue.
Executives for the retailer could not immediately be reached for comment.』

 この街へ来て調べるも、そのほとんどの日本人は知らない。日本からの人たちも知らない。
でも、この街では当然出あるが、一般紙にも報じられ、TVにも放映された。
それなりの”不祥事”である。
 僕たち、日本人から見ても”関係”は少なからずある、コムデギャルソンとの関係である。
一時は、東京での出店時には彼らたちは共同で会社を起こしていた。
川久保玲の夫とカルアさんとは同じユダヤ人コミニティでの大の仲良し。
彼、エイドリアンが現在のように”DSM”へ至ったのには彼女からの指導と教えがあっての今。
そんな彼女に、このような「脱税疑惑」と裁判所がついに動いた。
また、時が重なり、エイドリアン自慢のあのロンドンの"DSM"も移転を迫られ、
ドーバーストリートでは無い場所へ"DSM"は移転しなくてはならない羽目にもなる。 
 なのに、日本のファッションメディアはこのスキャンダルを皆目知らない。
決して、偶然ではなく、そのタイミングは当然、”狙われた”のかもしれませんが、長い時間、
かかってコードされていた案件。僕も、東京での”10コルソコモ”出店時に調べてこの状況は
知っていた。この裏には、カルアさんファミリィーがイタリーでの力あるファッション
ファミリィーであり、その力を少しでもという魂胆もあったからです。
ここには”ユダヤ人コミュニティ”の商法の極端さがこれほどまでに膨らんで出た事件であり、
この根幹は彼らたち、ユダヤ商法における”倫理観”の問題でしかない。
 多分、川久保さんも内心、心配なさっていたことがこのように表層化したまでのこと。
自分たちは当然のように”これ見よがしな生活ぶり”をし、行うべきことを知って居ながら、
怠る。この”倫理観”はかつての日本にもありましたね。この手法で大きくなってきた戦後の
日本企業はたくさんありましたし、その多くも”在日系”で在ったことは僕は知っています。
 今、戦後の日本の根幹が面白いほど”暴露”され始めています。               
安藤忠雄の件や佐野氏の問題によって、いろいろ、考えもつかなかった”横文字産業”が
この現実を一手に浴び始めました。この世界では案外と”当たり前”のように黙認されてきた
現実レベルの”倫理観なき、仁義なき”戦後のドサクサがまた一つ表層化されたのでしょう。
 この時代を手のひらを返したように生き延びてきた人たちの一つの時間の象徴です。
戦後の”横文字産業”はそのほとんどの根幹が”パクってなんぼ”という商法。
外国雑誌を手元に、読めない英語に囲まれて、ネタ探しをする。
 これが、”カッコイイ!!”と言われた”横文字産業”の全て!ファッションは全てが”パクリ”
から始まった当時の新業種でしたね。グラフィックも、フォトグラフィーも、雑誌も。
 この70年代のコムデギャルソンの根幹も、ブランド名が示すように当時の
”ソニアリキエル”日本版からの出発でしたね。

 この夏、墓参で大阪へ行き、神戸、京都の
40年来の友人を訪ねるという旅をし始めました。
この時、神戸の北野町を訪れ、あの”ローズガーデン”を見に行きました。
建屋は残っていましたが悲惨な状態です。”メッキ”が剥げ落ちてしまったというまでのもの。
 川久保玲とこの”ローズガーデン”はご存知ない世代になり始めたが、色々、ありましたね。
まだ、彼女も若かったから激しさを持っていらっしゃった。
僕の友人が大阪でCdGに勤務し、大阪はパルコ、京都はBallそして、神戸はこのローズガーデンを拠点にすべく、猛烈に働かされていたのを思い出す。
その友人はその後、死へ急ぎ、間も無く亡くなった。
 この”ローズガーデン”は’77年完成だったので、’76年にはすでに、川久保玲は安藤忠雄と
出会ってる。否、その数年前に、あの”フロム1st.”ですでに、出会っている。
この”フロム1st.”も本当は安藤忠雄が基本設計までを手がけていて、彼はやる気満々でしたが、
その後急遽、ロンドンから帰っていらした、山下和正さんに変わった代物でした。
ここでも、川久保玲はこの”フロム1st.”にはこだわった。白という色にこだわり、タイル張りの内装になった。その後、スタイリストとして活躍なさっている堀越さんがここで働いていらっしゃった。懐かしいいい、時代でした。
 しかし、安藤忠雄はこの山下さんのレンガの使い方の上手だった、”フロム1st.”からその後
”ローズガーデン”のエスキースを頂戴してしまっています。
 そして、この二人はその後、一度だけ対談をした。どちらもが乗り気のない対談だったことを覚えています。
が、川久保玲はその後、もう2度と彼と一緒には表立ってメディアへは出ない。
 しかし、その後、安藤忠雄は彼の建築事務所を”ブランド化”し始めました。
その後、多くのファッション系の商業施設を”浜野商品研究所”を営業部門とし手掛けました。
そして、今の立ち居場所の第1期を構築しました。
この発想は建築家自身が設計しなくても、その名の事務所がすればいいという方式です。
これは当時の建築界では考えられない形でしたが、これが見事その後の”安藤忠雄”へ進化して
現在へ至ったのですから凄いですね!!僕流に言えば、彼は”建築界の小保方方式”で、
建築事務所を”ブランド化”したことが今の立ち居場所を築き上げたのです。
「ル・コルビジュェ+カルロ・スカルプ」=長屋の家を始めとする彼の”外装”+”内部空間”のミニマルなマニエリズム的な混成、或いはブリコラージュは
コムデギャルソンのその後のクリエーションの根幹にも通じるところがありますね。
 そして、安藤忠雄の事務所も今は確か、外資ユダヤ系が資本投資しています。

 僕も神戸大学建築科の知人だった、貴志雅樹氏が彼の事務所へ入り、その後は、安藤忠雄の
デビュー作を始め多くの”ゴーストライター”をしていました。否、させられていたのでしょう。
彼は神大から手土産を安藤事務所へ持って行ったモノがあったからでしょうか?
 その彼、貴志氏が今年の1月に亡くなられました。
あの国立競技場の一件が表層化し、安藤忠雄は出るべき時期にメディアへ出れなかった原因は
ここにありました。ですから、安藤忠雄も死んだのと同様です。
 最後に目論んだこの、ハッザとの連携プレーで、文化勲章は手中にしたものの、国家建築を
手がけられなかった現実と、彼の”倫理観”も’60年代のどさくさと同じでしかない”育ち”。
 今回のこの問題において安藤は官僚たちによって、完全に葬られたと言って良いでしょう。

 しかし、僕はこの問題の根幹には”評論の不在”があると考えています。
戦後、’80年代以降からから現在に至っては全く”評論”は存在していません。
ちょうど、時代が”大衆消費化社会”を歓迎し、全てを”消費”の中へ納めることで経済が上手く
回って行くという論法とその後ろで活躍した広告産業と代理店という構造がありました。
その後の日本流文化即ち、”広告文化あるいは消費文化”がこの構造で構築されて行ったのです。
 従って、戦後の”横文字産業”はこの時流に如何に要領よく外来イメージをパクって、巧く
広告業界と連係プレーをカッコよく都合よくやって行けば、サーフすれば成功というシナリオが戦後の日本のデザイン界の本性であり、正体でしょう。ここには”評論”の正論は必要なく、
”評論”の不在が都合よく良かったのです。この現実が今回、表層化され始めようとされ始めた
いい機会でもあろう。
 
 安藤忠雄についての的確な評論も見当たらないです。
大阪にいらした二川幸夫氏を頼ってのメディア進出でしかありませんでした。
その後、二川氏はあの”GA”ギャラリィーと出版社を始め共に、ブランド”安藤忠雄”を素材に
外国へ売って出た現実がありましたね。余談ですが、この辺りは、何か、川久保玲と亡くなられた故小指敦子さんを思い出します。
 今の日本の評論の世界はすべてが、浅はかな”感情と情緒”を拠り所とした、”良い、悪い”の
価値判断でしかなく、メディア受けと、向けなるデモストレーションだけです。
デザイナーたちとお友達になりたいという感覚レベルでしかない所詮、変わらない戦後からの
”横文字ごっこ”の世界です。
 従って、メディアの人間も学んでいない。勉強をしていない。ただ”知っている”レベル。
そのほとんどが僕に言わせれば、”御用インタビュー”と”御用記事”提供者としてのデザイナーからの一方通行記事ばかりでしょう。従って、今回の”10コルソコモ”のスキャンダルも日本メディアは何も知らないで、いつものように”フロントロー”に座ってイキがっている輩ばかり。
僕から見れば、彼らたちへの悲しさと哀れさしか見えない変わらないここにも、まだ、戦後の
”横文字産業”状況でしかない惨めさが現実。
 
 ”すごいですね!”
で代表される”感情と情緒”だけでの価値判断。
この言葉はCDGのショー後の世界で尋常のように聞かれる言葉ですね。
この言葉にすべてを”委ね”てのメディアコントロール、これが今現在のコムデギャルソンの
メディアコントロールの手法、川久保玲の世界観。
 
 この手のプロパガンダにはもう、僕にはしんどくなりました。
"EVERYTHING TOO MUCH!!TOO HEAVY!!TOO PAINFUL!!
THAT'S YOUR LIFE、THAT’S TRUE YOU ???"

 僕も、そろそろ、本音で日本のファッションの”根幹”を語ってゆこうと今、学習中です。
この続きは次回。
巴里MARAIS街にて;

投稿者 : editor | 2015年10月05日 17:17 | comment and transrate this entry (0)

2015年08月26日

三伏の候/ 繋がるための誠実さとは、映画『繕い裁つ人』から。

 少し古い話になりますが、多分、見られた方は多いと思いますが、今年の1月後半に
封切られた映画『繕い裁つ人』。

http://tsukuroi.gaga.ne.jp
 今の日本に無くなってしまったものや消されてしまったこゝろなどを”繋げられる”だけ
繋げて作られた映画ですが、清々しさと、こころが洗われたような気分に浸してくれたそして、
忘れていた何かを、それがとても生活の質を感じるためには大切なものとはをも、
思い出させてくれた映画でした。そして、僕がよく20代後半に歩き回った神戸の北野町界隈も
ロケ地として使われ僕にとっては懐かしさも相当なものでした。
 あの映画に登場する衣装としての服と主役としての服、これらが素晴らしさのそのものでは
無く、登場人物の生き方であり価値観であり、美意識でありその根幹になっている倫理観と
そこから生まれた誠実な生き方の断片がジグソーパズルのように物語を構成していたから
この映画はある種の洗練さを醸し出せたのでしょう。勿論、それらを理解した上での衣装であり
服でありスタイリングでもあるのですが、結果、この映画では”人の繋がり”という温もりと
大切さをテーマにしていた。僕がよく言っている「関係性」の”繋がり”の発端を作リ出すのも
「モノを作る」人の役割であるという根幹。ここに、「デザインとはコミュニケーション」
という役割の所在があることもわかります。
 よく当たり前のように言われる、モノを作ることとは「自分を表現すること。」だけでは
ない。ましてや、有名になるため、カッコつけるためだけそして、儲けることなど、自我欲と
自己表現のみの安っぽい「自由」ではないことをこの映画は爽やかに、含羞を込めて作られて
いた映画だと僕は感動したのです。
 もう一つ、この映画でモノの存在を確かに再認識させてくれたモノがありました。それは、
”ミシン”です。その姿と、それを使う人との関係性そしてその行為によって聞こえて来る”音”、
足踏みミシンの音は僕も幼い時を思い出しました。よく母が隣の部屋でミシンを踏んでいる。
その隣で無心におもちゃで遊ぶ僕。ここにも、母親と子供の「関係性」を”繋ぐ”音がありました。
その音は母の言葉に変わって、安心と安らぎをそして、安心を醸し出すまでのものでも
あったことを思い出させてくれたのもこの映画でした。
その後の僕には、”轆轤”を廻して聞こえる音もこの種類の、生活の中で聞こえる音でした。
今のように、テレヴィジョンやケイタイやiPODがなかった時代でしたので、
ここにも人のこゝろを繋ぐ”エピソード”が静かに幾重にも優しく絡み合っていた時代性でした。
 僕はこの映画を劇場へ観に出向き、映画の途中から重なってくるこのような幾つかのことが
ありましたが、もう一つ、一昨年に、東京で亡くなったC.Nemethのチャーチセレモニィーへ
お招きいただきロンドンへお伺いした折に、久し振りに会った長島悠介君でした。
それまでの長島君=アントワープという僕の中での繋がりが完全にもう、違うシーンになって
僕のこゝろを打ったのでした。とても成長なさっていた。
 ”理屈作りと見せ方作り”をメインに教え込むアントワープから遠く離れて長島君は自由に
使える英語を一つの安心道具として再びロンドンへ戻り、「手の温もり」を感じて生きてゆく
道を選んだ。この発端までは知っていたのですが、その後、数年間はご無沙汰。
そして、再会がC.Nemethのセレモニーが行われた教会ででした。これも、僕には何かの”縁”を
感じました。なぜか、この映画『繕い裁つ人』を見ていて思い出した人が彼でした。
 『倫理観が洗練さを生む』は作られたモノもそうですが、そのモノを生み出す”作り人”にも
言い得ることです。”理屈作りと見せ方作り”に忠実にいやそれ以上に上手に都合良く立ち回って
いる輩たちがその殆どである彼らの固まりからは遠くに立ち居場所を持ち、謙虚に自分の求め、
目指した道を堂々と歩んでいる一人が長島君であり、彼をこの映画からたくさん思い出して
しまったのです。
 その長島悠介君が帰国なさると伝えられた僕は是非、彼からたくさんの「作り人」のお話を
皆さんの前でお伺いし、交わしたいと。
 この9月01日の原宿VACANT-LEPLI会が決定しました。ありがとうございます、みなさん。
http://www.vacant.vc/d/241
 是非、実際のロンドンテーラリングとは?教わり学ぶこととは、仕事をするということとは、
服を作るということとは、人との繋がりを作ることとは、等など,
いろいろ、皆さんのご質問と共にたくさんの経験話をご一緒にお伺いしませんか?
 
 余談になりますが、この映画で出てくる神戸、北野町にはコムデギャルソンが’76,7年に
神戸に初出店したF.C.ストアーがあったのです。そして、この”ローズガーデン”をデザインした
建築家が、あの安藤忠雄がまだ、建築家に成っていない時代の作品でした。
この”ローズガーデン”で同世代の川久保玲と安藤忠雄というこの世代人の共通した幾つかが
重なり共に二人の接点が始まったのです。
此処にも,”モノを作りだす人”が繋げる世界が現実になっています。
 当時、川久保さんはこの”ローズガーデン”をとても気に入り、出店を可能にするために
もう一つランクの上の”繋がり”をこの不動産管理会社と持ったのも事実でした。
 先日のお盆休みに、墓参を兼ねて関西へ出かけました。
神戸では以前お世話になった金沢の21世紀美術館にいらした平林さんが横尾忠則美術館へ
転職なさったのでこの機会にご挨拶をとお伺いし、そのついでに北野町界隈を昔の友人の
アトリエや”サブ編集室”という友人の雑誌編集室を思いつつこのローズガーデンを探し、
映画の世界へもこゝろ入れ、”繫がる”エピソードを繋げていましたが、
この”ローズガーデン”は見つからなかったのでした。
見つかったのは映画で美味しそうに食べるチーズケーキの場面のコーヒー店でしたが、
その日は休日で残念ながら、僕とは”繋がり”ませんでした。
文責;平川武治:

 長島悠介君のロンドンのショップサイト;
www.connockandlockie.com

投稿者 : editor | 2015年08月26日 18:04 | comment and transrate this entry (0)

2015年06月05日

プロローグ或いは、”桑沢合同ゼミ+もう少し、プロ的な視点、”

 もう少し、ファッションプロ的なる時代へのまなざしを付記しておきましょう。 
 昨年は僕は「新らたなローカリズム」を考え、デザインの世界が今後、どのような新たな可能性を持っているか?あるとしたらそれはどのような根幹が必要なのかを学んでいました。
 一つは、昨年来からの「政治」を読むこと、知ることそして、政治を感じた場合、
どのように自分たちのこれからの國や社会へ向けてのなすべき行為が可能か?
僕たちの國に、豊かさと強さを増して行くために、どのように若い人たちは
社会へコミットして行く可能性があるのか?
”自己満足”という閉塞感な世界へ逃げ込まずに!
 この眼差しは、ファッションのみばかりではなく、”デザインの世界”においての今後の、
若い人たちが持つべき、”デザインするとは”の新たな根幹と”視点”であろうと考えています。

 ここでは、もう一度「近代デザイン」が具体的に誕生し、社会にコミットし始めた時代へ
ワープしてみる必要があります。ここには現代という時代性の根幹がこの時代観にチューニング
され始めたからです。ファッションの”トレンド”も一昨シーズンから”’30年代”が来ています。
今シーズンでは、あのS.メンケスが「流線型/streamline」という言葉を使い始めています。
ここにはその時代が願望する新しさとしての”合理化や能率的や簡素化そしてスピード化”などが
時代のボキャブラリィーとして込められていたのです。

ラジグジュアリィーが方向転換; 
 東京の街の様が昨年秋頃より、様変わり始めましたね。
また、ラグジュアリィー系ブランドのブティックが我が物顔をし始めました。  
 ’70年、プレタポルテシステムが誕生して以来、’90年代終わりまでは、「プレタポルテ
ファッションデザイナー」たちがその自由な才能を武器にクチュリェたちを脅かすまでの
主役であった。彼ら、才能と才気豊かなプレタポルテデザイナーたちの創造性に影響を受け
モード産業は勢変を遂げてきた。’90年の湾岸戦争以後事実、クチュールの顧客が減って、
”ラグジュアリィー-マークビジネス”という新たな括りでモードビジネスの新しさをミラノの
老舗*が見つけた。しかし、モードの新しさを生み出すのはまだ、プレタポルテデザイナーたちであったこの時代が、グローバリズムの到来と女性の生き方が家庭へ戻り始めることそして、
ファウストファッション登場で新たな局面を迎えた。
 ここには、”世界観と女性のポストジェンダー化と価格破壊”という”新しい波”が押し寄せ以後、時代性そのものが変革した。これによって、まともにこの新しい波を被り被ったのは資本力の
弱いプレタポルテデザイナーたちであった。一方、資本力が安定している”ラグジュアリィー-マークビジネス”は服を売り、コスメを売り、靴バッグそして、ジュエリィと最近では時計を商い品目として、日本へ上陸その後、2000年以降は総てのメゾンが、新しいマーケット”としての
中国へそのビジネスの可能性を求めて方向転換した。
 そして、約10年が過ぎた昨年来、かれらたち、”ラグジュアリィー-マークビジネス”の商人
たちは中国マーケットへの限界を知り始めた。同じアジア人でも、日本人と中国人のマーケットモラルが違うことを知った彼らたち。
 ここで、昨年秋以降再び、”ラグジュアリィー-マークビジネス”の商人たちは日本へその矛先を
転換し直した。ここに来ての、表参道界隈の”ラグジュアリィー-マークビジネス”ブチックの
乱立はこの証拠である。かつての手法、日本にブチックを作り、中国人たち観光客顧客を煽る
処方である。
 例えば、昨年末に行われた、DIORのショーと展覧会がこの”ラグジュアリィー-マークビジネス”の新たなビジネス展開の手の内を見せた。ショーには中国からの上顧客と中国ジャーナリストを招待。展覧会では、デザイナーではなく、ディレクタ-RAF君とそれを助ける”アトリエ”の
チームクチュリエたちが主役という新たな構造を自慢した代物でしかなかった。
 従って、”デザイナー”よりも、”ディレクター”へ、という構造が生まれた。
”VARIATIONS OF THE ARCHIVES”で価値ある多くのアーカイブを持っているメゾン系が
今後の時代のモードリーダーとなり、そのメゾン内で実際に働きてた”アトリエチーム”たちが
リアルビジネスのクリエーションの主役へ躍り出る。
 ここで、新たなモードビジネスは”チームワークビジネス”であることへの構造とシステムの
転換が行われ始める。この”ラグジュアリィー-マークビジネス”のU-ターン現象の根幹は今後の
東京の新しさ”カジノ”を目論み、新たなターゲットにまでその射程距離を広げた
陽動作戦であろう。

モードビジネスが変わった。;
 ”ラグジュアリィー-マークビジネス”が中国から日本マーケットへシフトし直したことの
根幹は、モードビジネスも大きくは”スーベニィールビジネス”であるということ。
 ”ラグジュアリィー”のイメージとクリエーションを実質ビジネスにつなげているのが、
巴里では”サンチェ系”と呼ばれていたデパートをメイン顧客として、コピーブランドを束得ている
アパレル勢である。MAJE,SANDOR,をはじめに、KOOKAI,KOOPLE,いろいろ、
彼らたちは確実にラグジュアリィーに負けずとリアルビジジネスをリードし始めている。
 そして、彼らたちのもう一つのフランスにおける「モード産業界」へ、サンディカ(オート
クチュールプレタポルテ組合)が大きくバックアップを始めた。
 彼らたちへの人材育成機関として、従来はクチュールのお針子さん養成学校であったこの組合付属の学校を”サンチェ”に隣接移動し、授業内容も、ミシンを使ってのアパレル向けカリュキラムへ変更。そして、サンチェ系出身のプレタポルテデザイナーメゾンのコレクション参加も大いにその門を広げた。これらの方針は確実に、ファストファッションへのビジネスプロテクトであり自国のファッション産業の経済効果を拡大するための手段である。
 もう一つは、やはり、EUにおける日本よりも遅れていた”ITファッションビジネス”の進化。
プレタポルテデザイナーのネット通販ビジネスへの参入、NETーAーPOTERやイタリアンヴォーグ社の“the corner.co.”とYOOXとのコラボビジネスも始まる。
 あのH&Mが始めたファストファッションのシニア版ブランド”COS”が好調な売り上げを上げている。このブランドのマーケティング戦略はうまい。
例えば、同じ、スエーデン発のプレタポルテブランド”ACNE”をターゲットに絞り込んだ戦略で
40代ターゲットを軸にクオリティもそれなりのデイリィーウエアーにまとめ、抑えられた価格帯とともに見事に成功している。東京にも昨年11月に1号店が出来た。
 このブランドによって、パリサンチェ発の”MAJE”もここに来て脅威を感じ始めた。
今後、このゾーンが激戦になるラインである。”ラグジュアリー”から”プレタポルテ”や”サンチェ系”が影響を受け、”COS”で下限を囲われてしまっているのが今の巴里のファッションビジネスの現実である。
 最後に、もう一つ、このモードビジネスがグローバル化した証拠。
面白い現象は、今まではフランスでモードの仕事をするには、当然のように”フランス語”が
必要であったが、今では、この”フランス語”よりも”英語”が本格的なビジネス語となり始めた。
フランスのファッション企業で働くためには英語で面接されるところも出てきた。
ここにも、ITビジネス化の余波を感じる。

最後に、目立つ問題点;
 このような時代性になるとアーカイヴからコレクションを作る場合、今の若いデザイナーたちにはその持ち得た”リアリテ”がない。殆どが、サイトやブログそれにインスタ等の”ヴァーチュアルリアリティ”の世界でモードにも関わってしまっているからだ。
 そのため、フラットな平面性、ヴィジュアルからのデザインになる。
故に、”分量”のデザインが出来にくい或いは、出来ない。表層のシルエットのコピーは出来るが、今の”時代の分量感”に置き換える”ニュアンスのデザイン”ができないデザイナーと、パターン力の低下が目立つ。
 学ぶ方法は、教養を深め、歴史と学ぶ、古着を触る、古い映画を見る、自分の育ちを省みる。
そして、熟練者の仕事を敬い、学び、オープンマインドであること等など、、、
 案外、”ファッション学歴振り回し族”たちはこのディシプリンがない。
彼らたちは、もう終わっている。

トレンドについて考えると;
 ここ数年来トレンドのキーワードは変わっていないと読める。
トレンドの根幹は不変であり、その”意味付け”だけが変化させているということである。  
[メイントレンド+サブトレンド+ホロ-トレンド
=新規トレンド+継続トレンド-1+継続トレンド-2,,,]

終わりに、”問題”はその次に起きることだ。
 「自民党は憲法9条の改正に動き、自衛隊の海外派遣をどんどん実現できるようにするだろう」
安倍政権の目論見は明らかだ。日本の国の姿をかえることにある。したたかにこの国の風景を
変質させていく青写真の作り手たちが蠢きはじめるだろう。
 ’20年の「東京オリンピック」や「カジノ」を出来る限り、経済効果として利用し、
この広告産業の一つを今後の歴史的契機と、安倍政権が変えようとしている國体とは、
それぞれの社会体制システムによって構築されてしまったアメリカ合衆国の属国としての
「社会」が、『再-安保改定』により、もっともらしく残るが、嘗ての日本國が持っていた
「日本人としての気骨」や「気概」ある國体、「世間」は喪失してしまう。
 安倍の渡米によりアメリカへ、5千億円以上のアメリカ軍事産業への武器類の購入があった。
安倍政権の目論見によって、彼らの論理で言えば、「何時、玉が飛んで来るか解らない自衛隊に対しての」僕たちの國家の防衛費予算の増加率は世界1位になり、('64年を基にした軍事予算の
増加率は、54.5%である。出典/日経新聞5月09日付け、「世界はこう変わった」より、)
「平成の大軍拡」の現実を皆さんはどれだけ、認識しているのだろうか?
解ったふりして、投票に行かず、政治のことを発言するのは一番悪い。親の筋をかじって
カッコつけているからこれでいいのか?
 「1月14日に閣議決定した平成27年度(2015年度)政府予算。そのうち防衛省予算は前年度比2.0%増で過去最大の4兆9801億円となる。しかし、補正予算案に盛り込まれた防衛費(2110億円)と合計すると5兆1911億円となり、「5兆円」という大台に乗る。「平成の大軍拡」と言っていいだろう。」出典/東洋経済オンライン/2015年01月26日より抜粋。
http://toyokeizai.net/articles/-/58914
 そして、「カジノ法案」もそうであろう。これらの発案の根幹に何が蠢いているのか?
結局は「金/カネ」でしかない。在日系の人たちによって、より「格差社会」が「ギャンブル依存症」が増加するだけのごとく変わらず、”倫理観なく”構築されてゆく、そのための「利権」政治を、与えられた”シナリオ”を棒読みしているだけが、今の”安倍政権”の実態である。
 これはグローバルな日本企業にも、地方自治にも言える警告である。
「問題はその次に起きることだ。」
文責/平川武治;平成27年5月;

投稿者 : editor | 2015年06月05日 14:28 | comment and transrate this entry (0)

2015年06月04日

『人生、90年』プロジェクトを広めよう!!

パーソナルプロジェクト「人生90年」とは
  『大衆が求める”イメージ”とは、いつの時代も、あり得るべきこれからの生活とそのスタイリングを”夢”としたものである。ファッション産業とは、そのあり得るべき生活と
そのスタイリングへときめきを与えるものに変わりはない。』

 今年の僕のパーソナルプロジェクトがこの「人生90年」プロジェクトなのです。
このパーソナルプロジェクトを持って、今年の前半はパリ、アムステルダムそして、ロッテルダム等の友人たちとそれぞれの立ち居場所でコミュニケーションを取り始めています。
そして、日本でもアパレル企業との協労が進んでいます。

はじめに/私案『人生、90年』プロジェクトとはなんだろう?
 20世紀が終わったように、「人生、60年」という時代観はもうすでに終わっています。
戦後の日本人が不器用に、敗戦という恥を背負って必死に一生懸命に生き抜いて来たのが
”昭和”という時代であった。ここではまだ、”ライフプラニング”や”ライフスケジュール”という
言葉は殆ど、存在し得なかった。そんなゆとりや豊かさをまず自分たちの生活に、という時代の流れが「人生、60年頑張れれば幸せだね。年金も貰える」だったこの70年です。
 そしてやっと、このような戦後を生き抜いてきた世代から3世代を経て、現在の僕たちの国の社会が表は「モノの豊かさ」を現実にし、裏では「社会保障のホコロビ」ももたらしたのです。
 今年の新-成人世代はそんな「人生、60年」時代を生き抜いてきた彼らたちの”第3ジェネレーション”。 彼らたちが國家の新しい主役に参入し始めるのです。
 従って、戦後の、「人生60年」という時代の社会システムそのものが無理な状態になり
ほころびてきていることは昨今の多種多様な出来事としての事件でも理解できるでしょう。
最近では、この”システムのほころび”へ、合衆国のエゴが剥き出しに入り込み始めていますね。
 本プロジェクトは日本が世界に先駆けて迎えたこの「少子多老化」という時代社会への撃つ
べきポジティフな一撃です。このプロジェクトの根幹は「少子多老化社会」という”未来現実”を
決して、ネガティフな捉え方ではなく、ポジティフな視点で考え対峙し、今後の新たな
「社会システム」を産業化するまでの発想の元で考えてゆくものです。
 その理由の一つには、我が国が迎える「少子高齢化社会/少子多老化社会」は今後、他の先進国も足並みを揃えて迎えなかればならない近い、未来社会の構造変化であるためです。
 白人先進国の戦後は今、大きく問題化されている「移民」たちを彼らたちの宗教倫理とともに受け入れたことによって「移民」たちを受け入れたことの清算が、日本よりは遅れて迎える
現実状況の違いであり、いずれ、世界の先進国と言われている諸国が「少子多老化社会」なる時代が来てしまう。その先鋒を日本とドイツが迎え始めた。という認識下で、この社会状況の先端を行く我が国はこの「少子多老化社会」をこれからの国力と生活環境の「あり得るべき豊かさ」を創生するためのコンテキストとしてポジティフにそして、格好のチャンスとして発想し、実践して行こうというプロジェクトです。
 そして、この『人生、90年』プロジェクトはファッション産業が関わらなくてはならないプロジェクトの一つであり、新たな可能性の一つとして、「ファッションによる、ときめきあるクオリティオブライフスタイリング」を提案、構築するためのファッション産業には大いに可能なるプロジェクトなのです。そして、当然ですが、今のファッション産業の不況と腐心を拭うことの一案にもなるものです。
 閉塞感が浸漬する現状から今後の新たな”豊かさ”へ向かっての可能性が日本社会への大いなる、有意義な先駆けをなすものであるという考えです。
 そのために必要な新しい「社会システム」検討し、開発構築し,できればそれらを今後の
新たな日本の成長産業として捉えるまでのプロジェクトを考えています。
 
 この現実の視点を変えてみると、これからの日本社会への新たなる国力になり得るまでのこの「少子多老化」を”ジェロントロジー/加齢学”として、新たに社会に認知させること。
そして、それによって世界の先進国に先駆けて激しい「少子多老化社会」を迎える日本は、
この現実認識とその社会化とインフラ整備を考えることとは、”新たな国家=共同体”を構築する
ことであり、今後の「地域再生構想」にも大いなる可能性”の一つです。
 今後、世界がこの方向へ多くの国が向かっていくのですから、これは大いなる可能性でしかありません。
高高齢者と、高齢者そして,セカンドジェネレーション、サードジェネレーションとのまた、
移民外国人たちとのいわゆるコラボ-プロジェクトなどがこのファッション産業が関わるべき
『人生90年プロジェクト』の根幹です。
 決して、倫理観乏しき、”目先のニンジン”を追いかけるためのプロジェクトではありません。

*『人生、90年』プロジェクトコンテキスト;
 日本が世界に先駆けて迎えた
 ジェロントロジー
 少子多老化社会
 ポジティフな視点
 新たな「社会システム」の構築と産業化
 ときめきあるクオリティ オブ ライフスタイリング
 ニュースタンダード
 スローソサエティー=スローライフ+スローファッション+スローアーキテクト
 マインドフルネス

”ジェロントロジー”『人生90年プロジェクト』を考える。;
 ”ジェロントロジー”とは、人間の老化現象を人間に関わる、生物学、医学、社会学、
人間関係学、心理学、サイエンス、自然環境学、生活環境学そして、政策立案にいたるまで
多面的、総合的に研究する学問で邦訳は「老年学・加齢学」。
 これからの高齢化の問題は一国の社会問題なのですから、一つの領域だけで解決することは
出来ない、新しい社会環境とそのためのルールとインフラ整備等など、「社会システム」に至り考えように因ると、もう一つの新しい共同体即ち、新しい価値観に元ずくコミュニティ共同体を発想した”新-社会創生”となる。
 高齢化・エイジングを根幹に、関わるあらゆる領域の「知」と「経験」と「関係」を結集して、 課題解決に臨むことがジェロントロジーの特徴であり醍醐味となる分野です。
 皆さんが「人生、90年」と思い込めれば、どのような「夢」を持つでしょうか?
どのような関係性の元で安心して、より、クオリティの豊かな幸せな生活を望むでしょうか?
そのためには、何が要らなくて、何が必要なのか?、残すものは何か?引き継ぐものは何か?
消去させるものは何か?などを学際科学と産官学民と連携しながらの実学が
”ジェロントロジー”です。
 このジェロントロジーの視点での『人生90年プロジェクト』は新しい価値観による、
新しい共同体をデザインするまでのプロジェクトです。

 ○実際に現在行われ始めているジェロントロジーのフィールドワークは、;
生理面/遺伝子、細胞、臓器骨格、栄養、運動ほか、
高齢者医療/慢性疾患、臨床、薬、退院支援、医療コストほか、
介護/予防、アセスメント、ケアプラン、サーヴィスモデル、公的、私的保険、青年後見制度ほか 
心理/記憶力、性格、達成感、価値観、時間観念ほか、
死-倫理/死の定義、準備、送る側の準備、死後の諸事、尊厳死、ホスピスほか、
政治/政治への関心、投票行動、投票動機、高齢者団体の行動理論ほか、
経済/所得格差、税制、社会保障、生活保障、シニア市場、近代化理論ほか、
社会-文化/若者の高齢者観、メディアの高齢者観、公益法人制度改革、構造機能主義ほか、
生活行動/時間の使い方、余暇活動、同世代相談、生涯学習ほか、
人間関係/夫婦関係、親子関係、兄弟姉妹、友人関係ほか、
労働-退職/働くことの意味、退職と健康、定年制の是非、定年起業、ワークシアーほか、
家計/収入、支出、貯蓄動向、資産運用、相続ほか、
住居/どこに誰と住むか、買い替え、住み替え、バリアフリー、リバースモーゲージはか、
 
 これらは総体に、”ネガティフな発想”によるそして、打算的なるものが多い。
その証拠なのだろうか、ここには「ファッション産業」および、「デザイン産業」が
加わっていない。

ファッションの視点から「人生、90年。ときめきのある長寿生活とは、」を考えてみる。;
 しかし、新たに迎えるはずのこの社会問題に、ファッションの世界から視点を定めて社会への提言が為されていません。そして、今日までも、ファッションの世界は変わらず、”20世紀の
価値観”を根幹にした、「人生60年」のルールと方法論そして、”アーカイヴィス”の
諸バリエーションの世界でしかありません。この現実が昨今のアパレル産業の衰退でもあるでしょう。作る側も、報じる側も、商売をする側もそして、教育する側も、論じる側もこ
”20世紀の価値観”とイメージングとシステムによってもう既に、30年以上が経っています。
即ち、その生活意識の根幹は依然、「人生60年」感覚でしかないのです。
このファッションの世界からこそ、新たな共同体を構築するという視点での
『人生90年プロジェクト』が必然ではないだろうか? 
 戦後日本がこれほどまでの”ファッション大国”になった実力と経験と情報を駆使して、
世界が羨む”超高齢社会”を”少子多老化社会”をカッコよく築き上げるチャンスでもあります。
 参考サイト/
http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/research/2012/no389.pdf
https://www.nissay.co.jp/kaisha/csr/chiiki/shakai/pdf/gerontology.pdf
http://www.ducr.u-tokyo.ac.jp/jp/research/study_groups.html
空き家問題/
http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/research/2014/no416.pdf

○幾つかの現状参考数値。
*2030年/高齢者所帯のうち、約40%が独居世帯+約30%が夫婦のみの世帯となる。
*2012年からは、高齢者が年間100万人づつ増えている。
 ということは、昼間から彼らたちは地域に止まって生活をしている。
*地方社会では、地域の過疎化と高齢者による限界集落が増加。
*2005年来、出生率より、死亡率が増加。
*少子化は国力の低下衰退へ繋がり、労働人口は2030年には約1000万人の低下により、
5600万人ほどになる。
*「老老介護」が現実化する。
*「空家」の増加。現在で約800万軒の空き家がある。 
○今後の人口推移;/マクロで見ると、
2020年には/0-14歳:14,567千人(11.7%) 2010年は16,803千人 
2020年には/15-64歳: 73,408千人(59.2%) 2010年は81,031千人
2020年には/65歳以上: 36,123千人(29.1%)内75歳以上:18,790千人(15.1%)  
2010年は夫々29,245千人・14,072千人
  そして2022年には団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になります(3割以上が要介護)。
総人口は124,099千人(2010年は128,057千人)と余り減ってはいないのですが、
「少子多老化」が猛烈なスピードで進行します。
介護・医療に要する費用だけで国の税収をほぼそのまま使い切ってしまいます。

○”ジェロントロジー”『人生90年プロジェクト』をすこし、具体的に考えてみる。
 では、新たなローカリズムを根幹にした『人生90年プロジェクト』のための
共同体/コミュニティとは、その根幹は、”Aging in quality of life”
穏やかに、おおらかに暮らせるもう一つの共同体を考えることでしょう。
 目的は、「安心で活力ある豊かな長寿社会」の構築。
1)『人生90年』にふさわしい「真に長寿を喜べる生き方」
/ライフデザイン分野。
→生きる目的がある事と、身体が衰えても、QOLを維持できること。
2)安心で活力ある超高齢者社会の創造、”Aging in Place”の現実化。
/ライフエンヴァライメント分野。
→住み慣れた自宅や地域で最後まで自分らしく老いることができる共同体を考える。
3)健康長寿の推進と本来の安心を提供する「共同体ケアーシステム」の構築。
/医療ケアー分野。
→”寄り合い”システムなど、ローカリズムとしての”長屋”共同体が成し得るケアーシステムを考える。

○ここで僕たちファッション産業人がより、直接的に関われる分野とは?
「価値観、趣味、関係性、経験値、スキルなどで編み込まれ、重ねられた新たな環境としての
「共同体」を構築し、その共同体で生活すること、楽しむ事自体が”新-市場”となるような
”交流と触れ合いと学びと遊びと愉しみと安心と穏やかさのサーヴィス&ホスピタリティ”を、
マインドフルネスを根幹に考えた”CARE & CURE”のための倫理観から生まれる”品性”や
”品格”、”洗練さ”がシャワー効果となるまでの”緩やかな時間消費”環境を考えることでしょう。
→男女消費/文化消費/観光消費/学習消費/CARE & CURE消費/セキュリティ-福祉消費/
伝統回帰消費/ノスタルジア消費/エピソード消費/夢消費/マインドフルネス消費等など、
これらをどのように「ゆったりとした時間観」の中で実環境化して行くか。

○考えるべきミッションとその順序は、
→コミュニティ環境を構築する。そのための共有出来る価値の創生。
→新たな消費環境を”いりこ構造化”する。そのための新たな”風土”魅力をデザインする。
→ときめきあるQOL.のためのサーヴィス&ホスピタリティ”と”マインドフルネス”。
そのための人材エヂュケーションを行う。
→『人生90年プロジェクト』のための商材編集とプロダクツディレクション。
そのためのマーケティング。
→仮想空間を構築し、汎世界戦略を行う。そのためのC.G.テクノロジーと
デザインディレクション。

○そこでこの新しい時代に考えるべき問題の一つが「倫理観」です。
 ”お金の豊かさ”を「倫理観」の第一義としてきた戦後70年は、”THE END"です。
これからの「あり得るべき規範」としての”新たなる豊かさ”を"、QUOLITY OF LIFE"を目指し、
『人生90年プロジェクト』のための生活や社会にコミットさせるために、
今まで置き忘れられてきたこの「倫理観」を再考する時代性が今年です。
この根拠は、30数年間、パリモードを中心軸にモードに接してきた僕の結論的発想の一つに、
「成熟された倫理観が洗練さを生む」という信念を持っています。

○本プロジェクトのコンテキスト;
倫理観ある共同体。
→経験、スキル、資産、労働意欲、
コミュニティ、みんなが國力。
→高齢者が増えると集い、集まり、消費時間もスローに穏やかな流れへ。
目指せ、あり得るべき新たなるニュースタンダード、”クオリティオブライフ/QoL”の改善と
向上。
→生きがいと幸福感が増す。”昔取った杵ずか”の多重層異文化集約型ミルフィーユ効果。
みんなで価値観を共有し、一体となって連携、協労することそして、マインドフルネス。
現実の状況を正しく認識すること。悲観的な状況であろうと、現状を出来るだけ定量的にかつ、先入観なく客観的に見ること。
 課題を明確にした上で、その解決策を立案し具体的な計画を立て、行動する。

 参考文献/ 「2030年,超高齢未来 ―「ジェロントロジー」が、日本を世界の中心にする」:東京大学高齢社会総合研究機構刊
 文責/平川武治:平成27年3月:無断転載等を禁じる。必要な際にはご連絡をください。

投稿者 : editor | 2015年06月04日 17:22 | comment and transrate this entry (0)

桑沢合同ゼミ-19MAY’15で話したこと−3、

3)改めて、ファッションにおける”新しさ、アヴァンギャルド”とは、”創造”とは?;
  ファッションとは、何時の時代もその時代を生き生きと生きる先端の女たちを
”ミューズ”とし、彼女たちの生き方とリンクしてその時代時代の女性たちへ”アヴァンギャルド”というイメージングによって、ファッションの創造が展開されていた。

 20世紀のモードとは、産業革命以降の機械工業化社会=量産化の始まりによって、”新興中産階級”が登場しその新たな階級の新たな女性たちの自由な愛の生き方をアイコン化することから
始まり、2つの大戦を経て戦後は’60年後半からの新しさとして、教養ある女性たちの生き方と社会化=知性とともに強さと自由さを”象徴”化するためのイメージイング作業とその社会化が
高級既制服という”プレタポルテ”の世界を生み、この世界は時代の先端を生きる女性たちへ
”ミューズ性”を与え、讃えることによって、それぞれの時代における 新しさ=アヴァンギャルドを生み出してきた。そして、時代の進化という、20世紀の”豊かさ”(=消費社会化=物質的なる)の急激な進展とメディアの社会化により「あり得るべきイメージ」から「あり得るべきリアリテ」のための消費社会構造が誕生すると、その社会性のための”フアストファッション”が誕生
する。21世紀に入って時代がもたらした新しさとは、情報という”バーチャルリアリテ”による
ライフスタイリングのサンプリング化すなわち、”リアリテ”のバリエーション化でありこれはIT
モバイル社会による情報量の普遍化の象徴である。
 これらによって、実生活におけるイメージとリアリテが”逆転”し、新たにバーチャルリアリテが加わった世界、例えば、最近のディズニー映画の世界は”あり得るべきすべてのヴィジュアリィティ”が、[リアリテ+ヴァーチャル+3D+アニメーション]というミックスメディアであり、現代の新しさでもあり、醍醐味でもある。そして、「あり得るべきリアリテ」としてのイメージング即ち、望むべき手本であるQoLのライフスタイリングが新たな目標になる。そして、ファッションは物量と情報量によって、その実マーケティングの”速度”を減速しつつ、イメージング作業の一つとして時代のキーワードである「安心、安全そして、快適」のための”ユニフォームのアヴァンギャルド”化が始まる。
 その手法はファッションサイクルの中で”模倣=バーチャル”という手法を使って”時代の習慣”
=リアリテを生み出すことであり、ここ数シーズンでは、かつてのアヴァンギャルドを、例えばPUNKをコード化し始める。という事は、新たな新しさではなく、かつて在ったものからの選択と編集作業がクリエーションになる「Variation of the Archives」という世界の登場である。
 従って、情報も創造のための情報から”選択と編集という”ブリコラージュ”のための情報量に
変質した。

4)では、ファッションの最前線とは、;
  今、モードの新しさとは?について、はっきり言えることは、「モード産業は広告産業である。」(広告を産業化する時代のヴァリエーションの一つ。このカテゴリィーには
産業スポーツも入る。)
 時代性はより、『家で、みんなで安心、安全そして、快適に!』なる時代。
従って、モードの世界もこの現代という時代性の王道を行く、”工業製品のプライド”の復権の
時代でしかない。
 クチュール/手工芸の世界と、ラグジュアリィーファッションをトップとした”既製服”の世界
そして、ファストファッションの棲み分けが、あるいは、”ミュージアムショップ”と”スーベニールショップ”というクオリティの差異化がこの21世紀前半の”スタンダード”であろう。
(ノームファッションの登場もこの世界のヴァリエーションでしかない。)
 そして、モード産業とは、クチュール+ラグジュアリィ+プレタポルテ+アパレル
+ファーストファッションから、新たな産業化として、”スローファッション”のカテゴリィーが
生まれ、ヴィンテージの世界とリ-プロ/リ-メイク/リ-サイクルという手工芸化が加わる。
そして、ラグジュアリィレベルでは、個人デザイナーからアトリエチーム主体型へ、そして、
彼らたちをディレクションできる”ファッション-アースティックディレクター”志向へ時代は流れ始めた。
 一方、従来型のアパレルやファーストファッションにおけるビジネスでは、”生産企画&管理”
職が重要な構造になり、ファッションの世界も”リアリティ+ヴァーチュアルリアリティ
+イメージング”の三位一体化構造へ進化した。

 もう一つ、ファッションのクリアティビティとしての『新しさ』の規範が変化した。  
JUST NEWからSOMETHING NEW + OLD NEWへ、そして、”FRESH NEW”へ、あるいは、
今シーズンのコレクションに多く現れた”EPISODE NEW ”へ。
 従って、基本的なクリアティビティの根幹は、”VARIATIONS OF THE ARCHIVES”であり、
過去の集積から今の時代の空気感を感覚でセレクトし、そこへ新しさとしての”素材+色
+プリント”それに、”一味/ひとあじ”を加える、ニュアンスのデザインが重要な仕事となる。
ビジネスを考えると、大事な作業としてはプルミエールヴィジョン(1年先の素材を売り込む
ための素材見本市)が発信する”トレンド情報”のフレームからセレクトし、当て嵌め込んで行く
作業であり従って、”デザイナー”よりも、”ファッション-アーステイックディレクター”が重要な時代性であり、DIORのRAFやS.L.のHEDIEなどがその代表選手となった。(例えば、日本では”instagram”からパクってカッコつけているデザイナーブランドもある。)
 基本的な、”技術開発”が無ければこのファッションの世界のクリアティヴィティは
”モノのヴァリエーションの時代”が蔓延るだけである。
そのモノのヴァリエーションの世界に意味性と嗜好性と時代性を味付けするには
”エモーション”や”ノスタルジィ”と”妄想力”がキーワードとなる。
 もう一つの確実な新しさは、”スローファッション”の進展であろう。
このコンテキストは「使える物はみんなでより、使う」であり、時代の感覚と技によって、
全くの違った世界を、妄想力とともにリアリティへ落とし込む世界はM.Mのジョンの登場と
共に、これからの若い人たちへのより、現実の新たな可能性である。

*そして、今の時代におけるデザインすることとは;
 ファッションの世界で普遍的になった機能性を含む諸コードをレイアウトすることである。
そして、”時代の空気感”をデザインし、ライフスタイリングの”ニュアンス”をデザインする。
それらをデザインするための時代の感覚的新しさとは、”リアリテをイメージング”することであり、”イメージのリアリティ”化ではない。
 従って、時代の感覚的新しさとしては”素材+色+プリント=質感=3D感”が
形骸的なエゴ-デザイン性よりも、プライオリティを持つ。そして、ビジネスを考える場合は
”トレンド”を自分たちのマーク&ブランドの世界観とイメージでデザインすることである。
*ファッションをディレクションすることとは;
 自分たちのマーク&ブランドの世界観でモノとイメージをマーケティングディレクションが
できること。
 そのための”手法”とは、ファッション-アーカイヴからのバリエーションをブリコラージュすること。その根幹は、”時代の空気感”をイメージングし”ニュアンス”をモノと広告の世界で
ディレクションすることである。そして、デザイナーよりも”知性とスキルと創造性と感受性と
美意識と好奇心”の特化が必要とされる。
*ファッション-アーカイヴとは;
 ファッション世界におけるビジネスとクリエーションにおける”基本コード”の集積化である。
イメージングされたそれぞれの時代における女性の生き方の”コード”の堆積化である。
 ファッション-アーカイヴには、”スタイル+パターン+素材+色+ディテールとバランス
そして、イメージと概念の諸コード”があり、それらが堆積されている巨大な世界になっている。即ち、1860年以降、ワースがパリで初めてクチュリエのブティックを創業し,約200年余の
”ファッションリアリテ”の集大成である。
 ここに、それぞれの時代の出来事や生活情景をヒストリカルにラインアップさせ、
”ビッグーデーター”化し、マドリックス化すればあとはこのファッションの世界も
”確率”のでクリエーションがなされる時代が来るだろう。

*これからの時代にデザインするということとは、
  もう一つ、普遍的なることでは、人間が何かを「産み出す」ためには、
他の動物が持っていない、人間しか持ち得られない、違うことを組み合わせて、産み出すため、継続させるためのエネルギィイにすることである。
 ブランドビジネスにもこれは大切なことです。個人が持っている或いは、ブランドが持っている
『知性+感受性+創造性+美意識+好奇心』の五角形のバランスを知ること高めることです。
このためには「学ぶ」という構造とプロセスが必要です。
文責/平川武治:


投稿者 : editor | 2015年06月04日 16:42 | comment and transrate this entry (0)

桑沢合同ゼミ-19MAY’15で話したこと−2、

2)妄想という自由なる発想から、現実の先端/アヴァンギャルドへ、;
 「さまざまなものが遠くに逃げていくという感覚に包まれて、現代の私たちは生きている。
家族もそのひとつだろう。家族と縁が切れたわけでもないし、関係が悪化したわけでもない。
モノにも恵まれている。それなのに、少しずつ少しずつ遠い存在になっていく。それは自分自身にたいしても起きていて、日々活動をしているこの自分が自分自身であるはずなのに、それは頭でわかっていても、感覚の世界では、自分自身もまたどこか遠くにいるつかめない存在なのである。」
引用文献/ [新・幸福論「近現代のつぎにくるもの」] / 内山 節著/ 新潮選書:新潮社刊:
 
 この哲学者はこのような現象を「遠逃現象」と呼んでいますが、僕はこのような世界観から生まれる「妄想力」は現代の日本人が誇れる想像力のブリコラージュだと感じています。
日本が誇れるコンテンツビジネスの根幹であるアニメや漫画世界はその殆どがこの「妄想力」がイメージの根幹です。ここには想像力以上の雑草的パワーを感じます。「妄想力」が次には
ヴァーチャルイメージを喚起させ、持ち得たIT技術によって他国に誇れる新たなるパワーになり
これが、現代日本の産業のリアリティの一つにもなっています。この世界は漫画、アニメから
始まり、ゲームアプリとパチンコの世界を征服してしまっています。
 では、ファッションの世界ではどうでしょうか?そして、I.D.の世界はどうだろうか?
僕の専門のファッションの世界を見る限りではもう、”自由の産物”であったファッションにおける創造性は全く変質してしまっています。 結論を言ってしまえば、現在の”マーケットありき”の
ファッションの世界でのクリエーションとは、「Only Variation of the Archives」の世界でしかありません。ここでは”新しさ”が変質してしまったのが最大の原因でしょう。
 ”生活の豊かさ”とともにファッションの情報量とスピードの速さが「安心、安全そして、快適」のためのシステムを構築し、持ち得た豊かな生活によって、その時代の”価値観”が変化し、実生活としてのファッションの楽しみ方はバリエーションをどのような”雰囲気”で楽しむか?
これがファッションな最前線です。この実生活というリアリティは、ここでもその普遍性が生まれた事によってファッションの世界の新しさは「Variation of the Archives」から編集再構成する
”ブリコラージュ”な世界になり、妄想という自由な発想でのファッションの世界は辛うじて、
”コスプレ”の世界や”リメイク”の世界がその市民権を得て面白い”妄想”からの創造性が楽しめるまでの可能性が今という現実の先端/アヴァンギャルドなのでしょう。
文責/平川武治;

投稿者 : editor | 2015年06月04日 16:24 | comment and transrate this entry (0)

桑沢合同ゼミ-19MAY’15で話したこと−1。

テーマ:「閉塞感」と「自由」、「安心、安全と快適」と「傷み」というアバンギャルド。
 このような時代、これからの新たな時代のために、もう一度、”服やモノをデザインすること”とはを考えてみませんか?---

 『(大半の?)結婚と同じく、安全と自由はお互いがいないと存在できないが、
その共存は容易でない。自由のない安全は束縛に繋がり、安全のない自由は慢性的な不確実性に繋がり、神経衰弱に陥る恐れがある。万が一、パートナー(あるいは、もう一人の自分)と
帳尻を合わせたり、関係の修復を図ったり、なだめたりする試みがいずれも不調に終われば、
安全も自由も、熱烈に求められる価値から眠れない夜の悪夢へと変わる。安全と自由はお互いに独立していると同時に排除し合っている。それらはお互いに目盛りの異なる秤を持って引き合い反発しあっており、これらの矛盾する感情の相対的な割合は、その頻繁に起こる(日課とみなされくらい頻繁に起こる)「中庸」からの逸脱と足並みそろえて変化するため、それらの間で幾度も妥協が図られる。(なが続きしないことが多いが、)ー中略ー安全と自由の共生は、
常に激しくて緊張をはらんだものとなる。その本来的で解決しがたいアンビヴァレンスこそ、
無尽蔵な創造のエネルギーと強迫的な変化の源泉である。』
参考文献/「リキッド化する世界の文化論」
(ジグムンド バウマン著/青土社刊)

1)はじめに、ー「閉塞感」ー「安心、安全そして、快適」ー「マニュアル」
 よく、”今の時代は「閉塞感」を強く感じる。”と言われる時代のようですがそれは、
なぜなんでしょうか?こんなに、モノも食べ物もそれに、情報もなんでもある時代なのに、
なぜ、「閉塞感」が忍び込むのでしょうか?
時代が悪い、社会が悪い、政治が悪い、企業家たちが悪い、いろいろな原因はあるでしょうが、その本当の原因はどこに? 
 この現代社会の一つの普遍性とでも言える「閉塞感」は人間本来の、人間しか持っていない「自由」という権利を脅かし、それは知らぬ間に「飼いならされてしまった集団」化へ追い
込まれ当然ですが、「創造」する世界へも大きな障害を与え始めています。
 僕はその大きな要因の一つに、ヴァーチャル社会が進化しより、複雑に高度に広がり始める
ことで、「あるべき筈である”距離の消滅”の完了」が社会化されてしまっていること。即ち、
ヴァーチュアルなリアリティが現実社会になり始めたこと。これは”ケイタイ”と”PC”を現実社会に進化させた”サテライト産業”が根幹でしょう。当然ですが、もう一つには、「人間性」の根幹があるでしょう。言い換えれば、ヒューマンマインドとヴァーチュアルマインドの差異とそれぞれのテクノロジーのその強制的なる調和が”ノイズ”を生み出した結果の精神不安と社会現象の一つ
でしょう。モノにも人にも社会にも国にもすべて、”あるべき距離”があります。この距離を”自由に楽しめる”ようになることが次なる時代の人間に課された”豊かさ”、あるいは”プライド”ではないのでしょうか?そして、”価値観”なのでしょう。
 むしろ、短縮したり、ショートカットすることだけでは既に、終わっている”20世紀の価値観”でしょう。

 僕は田舎に住んでいます。時折、利用する電車での光景、プラットホームへ入ってきた電車に
急いで我先へと乗り込む人たちとは、どのような世代の人が多いのか? 観察してみると、
オヤジ世代もいるのですが案外、若い世代が多いのです。彼らたちは自然に目は”空席”を探し、
身体はもう座ることへ動き始めています。たとえ、周りにご婦人やご老人たちがいても、周りの
ことにはほとんど神経を使わなくこゝろ配らずただ、自分が座ることのために行為する。
そして、座ってしまうと決まったようにケイタイを取り出して安心し、次なる行為を行う。
これがほとんどの停車駅で乗ってくる人たちの、今では当然になってしまった、当たり前の行為と仕草の風景です。 
 ここで、僕の現代社会の読み方は、彼らたちは車内でも自分が安心できる場所の確保がもう、自然な行為として為されている。まず、安心と安全を確保する。そして、ケイタイで”繋がり”を
探す。あるいは、ゲームをする。”安心と安全そして、快適”なる時間を少しの時間の合間でも確保したいという願望がなせる行為が日常化されてしまっているのが現実社会。
 これも日本の戦後70年が持ち得た”豊かさ”という現実の一断面でしょう。多分、その「安心、安全そして、快適」ために、築かれた”社会システム”即ち、「マニュアル」をお利口さに読み込み行為することが長けてあたりまえになってしまった世代と、現代の日本社会の構造はこの
「安心、安全そして、快適」のために、築かれた”社会システム”すなわち、各々のそのための
「マニュアル」が非常に高度なシステムと構造で消費社会に組み込まれた構造のマニュアル社会になってしまった、世界に類を見ない「安心、安全そして、快適」な国なのです。
 しかし、この裏は「戦後の国民を巧く、おとなしく平均的に集団的に飼い慣らす」という戦後のアメリカにより、政府が与えた”シビリアンコントロール”のための社会システムのとても優秀な
実践結果の現実でもあります。
 多分、皆さんのほとんどはこの”社会システム”を自分自身の教養で”点検”しないで与えられた
システムを疑いもせず社会に巧く、順応してしまっている世代でしょう。だから殆ど、自然に
本能的にこのシステムを使って「安心、安全そして、快適」に社会で生きている。このシステムに順応することがもしかしたら「自由」な行為であると考えているのかもしれません。
 このように立派におとなしく飼いならされた日本国民を最近やっと、一部のメディアは「B層」と呼び、まだ、ほんの一部ですが、この集団を危惧し始めました。
 僕は「大衆とは思想なき群集」であると言い切っていますが、多分、今の自民党へ投票する人たちは世代関係なく、この「B層」の人たちが大半なのでしょう。 
 例えば、みなさんが、3日間”ケイタイなし生活”をある種の自分探しのゲームとしてやってみるとわかるでしょう。”ケイタイなし生活”で遭遇することとは、”不安””不信””不便”が殆どで、
そして、それぞれを行為するためには”時間”が必要であることも体感し、理解できるでしょう。
特に、体験した「不便そして、遅い。」はこれからの時代の生活には大切なるもう一つのキーワードでもあります。そして、”不安””不信”は勘と覚悟と勇気とコミュニュケーションによって
その殆どは修復されてしまうものです。あとはどれだけのこゝろある教養を持ち得ているか?
でしょう。
 このゲームによって、もしかしたら皆さん世代が「安心、安全そして、快適」を”モノの豊かさ”の次に求め始めたことによって、失われ始めている大事なことがあることに気が付くかもしれません。それが改めて、「自由」です。
 「自由」とは最も人間的なる、創造の根幹です。自由なこゝろの有り様が在って初めて、自分らしい創造が可能であるという根幹です。そして、「閉塞感」を打ち破ることができるのもこの
「自由」です。またこの自由の「軽さ」や「行き過ぎ」が閉塞感を生み出す要因でもあります。
 今の日本は「保守の進展」という時代性。グローバリズムを機に大衆消費社会を軸にして進化しているのが、ここ15年来の現実で、「保守化」=「中庸」でしかありません。自分たちだけの「安心、安全そして、快適」のためにマニュアル化人間になって終えば、当然このリスクとしての「閉塞感」は感じてしまう。従って、今みなさんが感じている「閉塞感」の原因と根幹は個人にも存在しているということです。個人が、より、オープンスタンスで堂々と生きてゆけば、
社会も国にも現在のような「閉塞感」はかなり、少なくなるでしょう。
 ヴァーチャルコミュニケーションも必要でしょうが、やはり、リアルコミュニケーションが
人間の「五感」へコミュニケートする最短、最良の方法でしょう。ですから、「窓は開けておくほうがいい。」ですね。そして、”「デザイン」の根幹は「コミュニケーション」”ですから
「閉塞感」を持ってしまった、日常ではデザインの豊かさへも関わってくる問題ですね。
文責/平川武治;

投稿者 : editor | 2015年06月04日 16:01 | comment and transrate this entry (0)

2015年04月24日

Paris collection’15~’16A/Wを読む- 1/COMME DES GARCONS

 Paris collection’15~’16A/Wを読む、-1 COMME DES GARCONS
「春が熱病のウイルスのように。」
文責/平川武治;

 『遥かに行くことは、実は遠くから自分にかえつて来ることだつたのだ。
これは僕に本当の進歩がなかつたことを意味してはないだろうか。それとも本当に
僕の「自分」というものがヨーロッパの経験の厚みを耐ええて、更に自分を強く表わし
はじめたのだろうか。今僕はこの質問に答えることが出来ない。(中略)
ただ僕は、自分の中に一つの円環的復帰が始まつたことを知るのである。よかれあしかれ
これが自分だというもの、遥かに行くことは、遠くから自分にかえつて来ることなのだ、
ということである。』森有正著/”流れのほとりにて”から引用。

 僕とこの本とは縁がある。
僕が5年ほどのヨオロッパ生活から帰国した折に偶然に出会った本である。
以後、しばらくは森有正の著作を読むことを帰国後の心と体験を自心の有り様へ沈めるための
”師匠”とした。TAO CHINGの言葉でもこの内容の言葉を覚えていて以後、メールにも
使っている言葉である。(“ Going on means going far. going far means returning. ”)
 先日、帰国後の落ち込みがひどい時に、偶然に町の古書店で再び遭遇し、早速再読した。
ちゃんと通読するのは’77年以来であるから38年ほどの時間が経過している。
なので余計に、面白味と好奇心と縋りを感じた遭遇だった。
 

 さて、久しぶりのブログ記載である。多分、今年最初であろう。
幾つもの、書かなければならないことが、思い出しておかなければならないことが
あったというのに、ちょうど、今年の僕の頭の中と同じようで、多くの好奇心が
散漫しているだけなのである。
それらをまとめるまでの好奇心と集中力に欠けていたのかもしれない。
その原因も自分では解っているから仕方ない。諦めと怠惰という僕の中の人間性の
一つに陥ってしまっただけである。そして、巴里から戻ってきて、約1ヶ月が過ぎた。
しかし、この諦めと怠惰はより、一層怠惰であり、殆ど僕のこゝろの隅の方から虫食い
始めているらしい。
 ”天然ボケと老人ボケとそして、時差ぼけ”という僕特有の3大ボケが久しぶりに重なって
一つの”調和”を僕の身体に兆したようだ。そんな僕の”3大ボケ”で浸食された身体の
大事な部分に一つの膿のような痼りが強烈に残っているものがある。
 それがこの間の巴里でのコムデギャルソン、川久保玲のコレクションである。
      
                                      
『自伝を書く川久保玲』或いは、コムデギャルソンという”ラッピングペーパー”;
 一言でそして、結論を言って仕舞えば、「このデザイナー、川久保玲は自分が持ち得た、
自分にしか使えないそして、自分にしか納得できないボキャブラリィーで自らの、自らを
語り始めた。」と言うことだ。
 彼女の人生特に、この”巴里”という大きな森へ迷い込んでしまった者のみが、来てしまったが
ために背負い込んでしまった”覚悟”と”リスク”と”コスト”をその主なるボキャブラリィーとして
”寡黙”という外ずらを踏まえて、全体は慎重に、細部に至っては執拗にそして、大胆に語り
始めたのだ。
 否、もしかしたらもう既に語り始めていたのかもしれない。
”3大ボケ”で浸食された僕が気ずくことに時間が掛かっただけなのかもしれない。
このデザイナーの創造の根幹の一つである、「人と同じことはしたくない。」を根底にして
始まった最終章の2、3シーズンはいつものように、僕なりの経験とスキルと教養で何かを
読み取ろうとしてきた。だが、虚しさだけが残った。その虚しさとは、向こう側としての
或いは、傍観者としての虚しさであった。通じない、向こう側へ辿り着かないまどろっこしさ。
しかし、この原因は僕の中に在ったもの潜んでいたものによってであった。
 そして、このシリーズになって今回初めて僕の身体の内部にも彼女が発している
ボキャブラリィーがかすかに、感じることができた。このようなコレクション様式に
なってからもう多分5シーズン目であろう。「鶴の恩返し」から「自らを語り始める」
コレクションとは?
 あらゆる、コムデギャルソンというコード、そして、川久保玲というコードのカオス。
有機的なまでのスタイルを取りながらこのデザイナーが身につけてしまった”巴里に於ける
自らの立ち居場所”で立ち続けるが為に身につけたコード、そのカオスと時間が堆積され、
服化されているコレクション。
 その”不調和なる調和”のマテリアルは”レース”であった。使われたレースには多くの
為すべき所作が為されそのレースを使って、ここ数シーズンに見られるディーテールが
繰り返し使われている。繰り返す事によってそのアヴァンギャルド性は模倣されると同時に
普遍化も辿る。僕が今シーズンの川久保玲のコレクションから撃たれた衝撃とは、
幾何学的にまで綿密な彼女しか使うことが出来ない、諸コードの技巧そのものから実に、
深い精神的雰囲気が溢れていることだけを言つておこう。
 そして、表層的なる眼差しで感じられる妄想は、
「巨大なる宇宙空母艦、その巨大さが故に戻れぬ、戻るところへ戻れない悲しみという名声。
向こうに白い太陽の白き輝きを望みつつ、真白きカオスに閉じ込められ守られつつ、」

 「共感こそはあらゆる種類の模倣の〔…………〕第一の源泉である」
習慣は自己による自己の模倣として自己の自己に対する適応であると同時に、
自己の環境に対する適応である。流行は環境の模倣として自己の環境に対する
適応から生ずるものであるが、流行にも自己が自己を模倣するというところがあるであろう。
われわれが流行にしたがうのは、何か自己に媚びるものがあるからである。
引用文献/『模索する美学ーアヴァンギャルド社会思想史』/塚原 史 著/論創社/2014年:

 僕が今シーズンの川久保玲コレクションを『自伝を書く川久保玲』と感じる発端は、
ランウエーの初め1/3ぐらいからのマヌカンたちの所作からであった。
(このシーンは実に美しいシーンが見られるのでぜひ、見て欲しいです。)
今シーズンのこのブランドで、僕が一番感動したこととは、川久保玲本人の想いと
ディレクションによってそれが為されたと後で、プレスの担当者に伺ったら教えていただいた
のですが、この独りが通れるが、二人は”袖触れ合うも人の縁”的なるそのランウエーでの
マヌカンたちが行き交うシーンであった。その細く設えられた独りは十分に通れるが、
二人は接触しながら、しないようにと気をつけて相手を見つめながらしかできない
交わるという所作。
 ここに、彼女が経験してきたこの世界でのこれまでの”関係性”の根幹を。
そして、千利休の”茶道の所作”にまで通じる美意識を感じ、ここに僕はこれは、彼女本人の
”セルフポートレート”である。と言う迄のもう一つの美しさを感じ知り、こゝろ密かに、
感動したのです。
 ここに、川久保玲という日本人の美意識と優しさと共に、彼女の”特異性”を再び、
久しぶりに感じたのです。

 『 しかし魂は、心は、自分一人で成熟することは出来ない。
このことを僕は痛切に感じている。そしてこの自分ではない他のものは、芸術品や
優れた文学作品では充すことが出来ないのだ。
偉大な作品を見、また読むのは一人でなければいけない。孤独の中に自分を
置かなければいけない。僕はこれまでこのことを痛切に感じて来た。
しかしそれと同時に、同じ程度に痛切に、孤独ではどんな偉大な作品も
心を充すことが出来ないこと、そこにそのことを知り、この孤独の心を知りつつ、
それをやさしく見まもるもう一つの存在、もう一つの眼が必要なのだ。
それがない時、孤独な心は自己を食み、自己を堕落させるのだ。
孤独は孤独であるがゆえに貴いのではなく、運命によってそれが与えられた時に貴いのだ。』
森有正著/”流れのほとりにて”から引用:

文責/平川武治;
 *蛇足的追記;
 1)ショーの後、展示会へお邪魔して驚いた事、今シーズンはこれらの川久保玲の
作品群にはちゃんと丁寧で上手な絵型が添えられてビジネスにも対応されていた事。
事実、そろそろ、個人のコレクションピースとしてのオーダーがあるという。
ここにも、このメゾンのビジネスにおける強かさが現実化されている。
実に、いつも時代の王道を数歩先を行っている、凄さ!
 2)ここ数シーズンの川久保玲、CdGコレクションをブリコラージュし、
音と幾語かの言葉を入れて編集すれば、この寡黙な女性の、
「川久保玲」らしい”セルフポートレート”フィルムが出来上がるだろう。

投稿者 : editor | 2015年04月24日 19:01 | comment and transrate this entry (0)

2014年10月13日

CdGパリ展示会を見て/考え想った事、なぜ、『凄い!』のか?

CdG速報―2/展示会を見て、考え想った事、「なぜ、『凄い!』のか」その根幹は?
 [『 ブランド『レイ-カワクボ』は訂正せねばならない。
今シーズンのブランド『コムデギャルソン』は又,もとの立ち位置へ戻った。]


 『模倣と習慣とはある意味に於いて相反するものであり、
ある意味に於いて一つのものである。
模倣は特に外部のもの、新しいものの模倣として流行の原因であると言われる。
流行に対して習慣は伝統的なものであり、習慣を破るものは流行である。[、、、、、、]
しかし、習慣も其れ自身一つの模倣である。其れは内部のもの、旧いものの模倣である。
習慣に於いて自己は自己を模倣する。自己を模倣するところから習慣が作られて来る。
流行が横の模倣であるとすれば、習慣は縦の模倣である。』

*引用/『人生論ノオト』三木清著/新潮文庫’54年初版;「習慣について」より:

 展示会へ訪れる。今シーズンのこの企業の展示会は見るべきものが多くあるシーズンだ。
CdG,J.W.は勿論、僕の古くからの友人で大好きなA.ウオーカーと今シーズンから
新たな巴里へ向けてのショーコレクションのプレを行なった、noire.
 
 先ずは、『コムデギャルソン』からだ。
会場へ入った瞬間の印象は、そこそこ映画に煩い人であれば、昨年リメイクされた
定番ホラー映画の王道中の王道、”キャリー”を思い出す。
昨年のリメイクでこの手のカルト映画が又新しい世代にウケた事も思い出す。
 今シーズンの”赤”のラッシュも読めた。
王道な発想である、“黒”“白”そして、”赤”。単純にこのデザイナーが好きで、使う事に
慣れと安心そして、自信を持っていると言う定説ともう一方では、このブランドが
過去30数年で儲けられて来た色合いがこの3カラーであるからだ。
 結論的予測になるが、この流れで、次回を予測すると、“タータン-チェック”であろう。
“タータン-チェック”もこのブランドは好きで、定番になり、使う事にも自信と上手さを持ち、
ここ30数年でやはり、儲けて来た素材だからだ。

 少し、”箸休め的なる”余談をすれば、
例えば、この”コムデギャルソンブランドとPUNK"の関係である。
ブランド、”コムデギャルソン”の立ち上がり期、’70年代中頃迄は所謂、
”巴里、大好き!”だから、このネーミングそして、“ソニアリキエ、”大好き!!”で始まった
コピーブランドが川久保玲のブランド黎明期。
その後、山本耀司と交際、この交際はお互いの“夢”を話し合い、彼らたちの“願望”を
共有し合うことから始まった。そして、この二人の関係の根幹は、”パリ上陸成功作戦”。
これの第1作戦が 国内での’70年代最後の年からの”黒の旋風”。
見事にお互いのブランドが共同戦略を張って、同じ様な世界観を創り出しそして、
“プレス陽動作戦”に出た。これは、当時のファッション雑誌では単独コーディネートか、
“Y"さんと一緒であればと言う作戦でファッションメディアを制覇した。
当時の新メディアとしての“anan"を利用し、その新雑誌のスタイリスト、慶應後輩の
原由美子さんや、元CdG販売員でその後、’70年代後半に既に、巴里へ出掛けた堀越絹衣さんたち
Topスタイルストたちを巻き込んで見事に成功。
 もう一方のこの世界のメディア、文化出版局が’72年に発行した“HIGHT FASHION"誌へは
耀司の名声を借りやはり、文化服装学院の「“文化”の耀司利用戦略」と共に、この時期の
2大ファッションメディアを手中にした。
 この戦略の根幹は「自分たちの”イメージング”は自分たちの”業”でコントロールする」と
言うものだった。これらの作戦も共同作戦であった事で可能になったものでしかないのだが、
この当時スタイリストだった人たちが必ず、悔しい思いで貸し出しを断られた事は
有名な神話に迄なった。
この”メディアコントロール”が川久保玲を『寡黙なデザイナー』『顔写真を出さないデザイナー』
『黒のデザイナー』等の『神話』をこれらメディアが勝手に作り上げ形成、構成され今日迄、
これらのエピソードが語り継がれ、現在の存在観の大きな原動力の一つにもなった。
 ここでかれらの“夢”であった、”パリ上陸成功作戦”の資金が捻出される事になった。
彼らたち二人の共通項の一つに『慶應出のインテリデザイナー』と言うのがあり、
その代名詞を地で行く様な“上手なお金の使い方”をこのタッグチームは見事に知的に実行した。
そして、国内での当時の流行語に迄なる迄の巨大なビジネスで充分に儲けた元手が
”パリ上陸成功作戦”の具体的な軍資金になった。
 そして、”巴里上陸作戦”がこの2人の当時、日本を代表するファッションデザイナーと言う
肩書きと伴に、成功を巴里でも収め始めた頃、耀司はその夢を”巴里クチュールの世界”へ。
川久保玲はここ、巴里で得た新たな自分の”立ち居場所”をよりラジカルなところへと、
メディアが作った『神話』を昇華すべき方向性を新たに求め、探し始めた。
立ち上がり当時は、先述の様に”ソニアリキエル”のコピーブランドでしかなかった
このブランドが、’77年の"LONDON PUNK"にどれだけ、直接的にこの時期の彼女が
狂れたかは解らないが横を向いたら、当時のロンドンストリート発の“PUNKファッション”の
存在とこの時代のテイストを持ってロンドンを代表するデザイナーになっていた
”ヴィヴィアン-ウエストウッド”に大いに、インスパイアされたことはその後の彼女が
”タータンチェック”を使い、黒のフエクレザ―とエナメルを使っての”PUNKYSH"な
スタイルとテイストに憧れオムコレクションと伴に多くのシーズン、コレクションを
行なって来た事でも理解出来る。
 この頃、実際に東京で“PUNK"を東京の路上へその種を撒いたのはあのブランド”MILK”の
大川瞳さんだった。UNDER COVERの高橋盾が現在在るのも彼が、文化時代に大川瞳さんに
可愛がられていた時代があったからであり、彼らたちが”東京セックスピストルズ”なる
コピーバンドをやっていたのも、彼女、大川瞳との出会いで、現在がある。
『ヴィヴィアンーヴィヴィアンーチルドレン―大川瞳―高橋盾』と言う流れが東京の路上へ、
'70代始まりから’90年代中頃迄続いた”東京パンク”であり、実際の“PUNK-FASHION"を
仕掛けた源流であった。川久保玲はこの東京での流れには当時殆ど、無関係であった。
 『ストリート+アナーキー+破壊+パッション+心意気+ノンフレンチ+ロンドンテイスト
+アウトオブモード』そして、カッコいい。
多分、これらの幾つかのキーワードによって川久保玲は自分のコレクションのレッテルの
一つとし、のめり込んで行ったのであろう。
 しかし、ここには、巴里に於ける自身の立ち場所継続のための冒頭、三木清の
『模倣と習慣』の関係性でしかない。決して、彼女のPUNKはパンキィシュでしかなく、
『当事者』でもなく遅れて来た『傍観者』の眼差しであり、その“負い目”を
巴里モードの”際”へもって来たが故に、今に続いている。
だから彼女にとっての“タータンチェック”は“PUNK”と言う記号に過ぎず、コードであり
アナーキィなレッテルでしかないと言うファッションレベルの造型性をモードへ
持ち込んだ事が巴里のジャーナリストたちにもウケたのである。

 さて、主題へ戻そう。展示会で拝見した今シーズンのコレクションは冒頭の一文である。 
『ブランド『レイ-カワクボ』は訂正せねばならない。
今シーズンのブランド『コムデギャルソン』は又,もとの立ち位置へ戻った。』
 基本的にはショーピースもそれなりのものはガーメントとして販売している。
その分、コレクションの根幹はここでも“BALANCE OF THE ARCHIVES”の世界である。
ここ4シーズンをベースにし、以前のコレクションでも既に、見せびらかしたエレメントが
”赤のバリエーション”という世界でブリコラージュされただけのコレクション。
 従って、今回の多くのモチーフエレメントも2000年早々の学生作品が"souceof the inspiretions"。
特に、アントワープ卒のA.F.やラカンブル卒のC.C.等はプンプン匂う。
結果、このデザイナーは若しかしたら本人は見ていないかもしれないホラー映画
”キャリィー”の世界観に何よりからも近くなる。
 “黒”や”白”のバリエーションより分量感が出し辛い“赤”を使わなくてはならなかった分だけ、
その分量感を演出するのにいろいろな、嘗ての”原反在庫”の素材”赤”をリボン状にして使った。
その為多くの”赤いリボン”を使い、パターンによる造型ではなく“トリミング”による立体感を
用いた。
 もう一つ今シーズンのこのデザイナーのコレクションに於ける”造型”に新たな救いの手を
差し伸べたのが、“背負い込む”と言う手法であった。この手法も以前のコレクションで
既に行なって来たが、今回はこのデザイナーの”立ち居場所”を堅持するために又、大いにその
“アート的”なる見栄えのために大変重宝した手法であった。
 “ラッピング”“カヴァーリング”そして“プロテクション”のバリエーションの一つとして
この“ハンギング”が身体そのものを覆い隠するのでなく、なんの機能性もなく見た目の
造型のみに即ち、どれだけ”芸術的に見えるか”のために用いられた手法でしかない。
 ”重いであろう。辛いであろう。しんどいであろう。”
このエレメントの手法はまるで、このデザイナー川久保玲の過去から現在迄のもう一つの
正直な憶いを表すものであろうか?とも受け取れる。
 又、この手法を使った事によって、“着る”と言う行為から“装着”すると言う行為へ、
ファッションの造型性を拡大解釈したと言っても良い。
しかし、このコンテンツも川久保玲が初めて試みたという手法とコンテンツではない。
もう一度言っておくが、これらは既に、アントワープのファッション学生の’90年代終わりには
多く見ることが出来た手法とエレメントであった。
ここにも僕の経験からの視点で言うならば、ここにも“当事者”の眼差しは存在しない。
 何も、今更ホラー映画”キャリィー”コレクションでもあるまいと思ってしまうが、
ここに一つ、大きな見落としては行けないアウトフィットが登場する。
それが“O.シュレンマー”のパクリモノである。
この”キャリィー”の中に2~3コーディネートのあのバウハウスのO.シュレンマーの
舞台衣装が登場する。
 今、ベルリンに滞在しているので、この街の僕が好きな『BOUHOUSE ARCHIVES』美術館へ
足を運び確かめる。
 数日前から始まった『モホリ=ナギ展』の素晴らしさとその作品群の”新しさ”に圧倒されて
しまったが、次回の展示が『オシュカーシュレンマー展』である事も知り残念がるも、
ここバウハウスアーカイブ室で見れるO.シュレンマーの作品の動画は今ではYOUTUBEでも
見ることが出来るし、学生コレクションにもよく見られるネタである、そんな時代だ。
 この同じエレメントが数シーズン前にも登場した事があった。
この時も既に、“HANNGING"と言う手法でコレクションに登場させている。
若しかしたらこの“HANNGING"という発想はここがネタ元であろう。
そして、ここでは“赤”に交えて”白”を加えている。このアウトフィットだけが所謂、
“パターン”による立体構成を行なった今シーズンでは数少ない異質なものになっている。
しかし、このネタ元があの”バウハウス”の”オシューカーシュレンマー”と言うだけで、
マスコミ受けする要素は確かにある。この辺りがこのブランドの上手い演出であるが、
今回の巴里でのコレクション’15年S/Sではこのブランドも“Variation of the Archives"コレクション
と言う当世流行の手法(?)を摂るに至ったのである。
 ランウエーでは“キャリィー”コレクションとしか見えないが、
展示会では売るものがいつものコムデギャルソンの顔つきで顧客を待ち受けている。
これは変らず、見事であるし、この顔つきがクオリティよく生産出来るこのブランドの
生産企画力が素晴らしく、この企業の立ち居場所とビジネスの継続の原動力となっている。
 “黒”がやはりメイン。そして“白”これらはここ3シーズンの継続トレンドでも有り
売れるものだ。“ビッグ―シルエット”、マスキュリンからフェミニン迄の相対性、
アンビギューティなアイテムとそれらをブリッジするインナー類のスポーツテイストや
ワークステイストがこのブランドでの顔つきのこなしで上手いもの。
 ランウエーしか視ないで論じる海外のお友だちジャーナリストたちからはこんなものが
売れるのだろうか?と言う質問は出ないのであろう。
勿論、日本のジャーナリストと称している”レポーター”たちからは直接は出ない、
だからランウーでイメージングをプロパガンダし、展示会で実を生み出す、
このビジネス手法も変わらない。
 実際には、もうこの様なビジネス手法が行なわれるにはそれなりの”資金”が必要であるが、
其れは大丈夫である。川久保玲はもう富豪になっているからであり、この会社の社長であり、
デザイナーであると言う立ち居場所に君臨しそのヒエラルキィー構造も出来上がって
しまっている。が、若しかしたら錆び付き始めているかもしれないという迄の
ここでも”習慣”が出来上がっている企業体質になっているので余計にこの様なコレクションを
川久保玲本人が未だに、プロパガンダしなければならないのであろう
否、やり続けるしか無いのであろう。
 ここで、このブランドとそのデザイナーへの賛美『凄い!』が生まれる。
“解らない”或いは”解りたくない”、だから『凄い!』である。

 ではこの『凄い!』は誰が実際に作っているのだろうか?
川久保自身がトワレで造型して行く事はないであろう。
選ばれたスタッフが基本形を構築し其れを見ながらこのデザイナーは
『ああだ、こうだ、こうして欲しい、こうしよう等等、、、』が発せられての製作行程で
あろう。
 彼女自身が最初の発想から全体のエレメントを構成する迄を独りでする事はないであろうし
このデザイナーはスタイリスト上がりそして、長沢節モードセミナーでモードイラストを
学んだだけで所謂、実際には自分の”手”は動かせられないデザイナーである。
 だから、最近のこのメゾンにはノアールを任されたアントワープアカデミー2年中退生が
入社し、そのレベルの使い勝っての良さからその後、多くの海外ファッション学校卒業生が
就職を許されている。この傾向は今迄になかった事でもある。
僕の親友デザイナーが先生をしていたヴィエナからさえも新入社員として2人、入社している。
 ある意味で、このブランドも多くの刺激ある海外レベルの”学生作品ネタ”を持参してくれる
構造が必要になり、作ってしまったようだ。この構造は嘗てのドリスを代表とする
アントワープデザイナーに多く見られた構造であった。

 70歳半ば近く、富豪でありながら、”自分の立ち居場所”を堅持継続させておく必要性とは
或いは、必然性とは?
このエネルギィイとは?問題意識とは?、この根幹は何なのであろうか?
これについては前回の僕のブログの、”コムデギャルソン”で既に書いた事。
 『何にご不満があるのですか?現代社会にどのような憤りやラジカルな視点を
お持ちなのですか?』
『巴里ではあなたはもう既に、ブルジョアデザイナーだとの評判ですのに、これ以上、
何にお怒りをお持ちなのでしょうか?世界の動きにですか?政治にですか?社会にですか?
経済状況にですか?男たちにですか?』
 これほど迄の”反骨精神”とは、何に反骨してのエネルギィーなのだろうか?
嘗てから、30年以上のコレクション継続に於いてこのデザイナーが自らのイデオロギィーを
持って自分の立ち居場所を示した事は全く皆無であった。
 なのに、”ファッションゲットー”の中ではこれほど迄に“反骨のデザイナー”として
騒がれていられるその要因と魅力とは何なのだろうか?
 ここに『創造性』と言う不思議さが存在し、それに取り憑かれてしまった、
その魅力を体感してしまった人間の『業』なのであろう。

 そして今、展示会を見せて頂き、解っていてもこの様な質問が湧いて来る。
僕は『ご苦労様です。大変ですね、ありがとうございました。』と。
そして、『一度、”ファッションゲットー”の外に出られては如何ですか?
ゆっくりと、美しい蒼空を眺めてみられては如何ですか?そして、深く、深呼吸を為さっては
如何ですか?美味しい味噌汁を作られては如何ですか?』
或いは、『なぜ、そんなに”社員たちを”信用出来ないのですか?』
そして、『あなたなりの、川久保玲流、”社会へのコミット”の仕方があるでしょうね。』
 『会社のため、社員のためのがんばり』と言う言葉は
以前、“Y"さんが倒産騒ぎを為さった折に彼との違いを言い表すのに僕が使った言葉。
それが今ではこの企業の標語の様になって社員の多くから反対に聞かされる言葉になっている。
 ここにも今ではこの企業の恐ろしさ否、個人が持ってしまった”コンプレックス”の
恐ろしさをその裏で感じてしまう。
 だから、コレクションが“キャリィー”だったのだろうか?

 多分、現在では日本人ジャーナリストの中では、と言う事は世界のジャーナリストの中でも
このブランド、コムデギャルソンと川久保玲の創造とビジネスの経過と言う
”巴里での立ち居場所”の現実経緯を30年に渡り見続けているジャーナリストは
このモードの世界では僕しかもう居ないはず。
僕が一番永く見続けているジャーナリストになってしまったと言う現実と責任感。
だから、こんなことを実直に無礼に又、不躾に、僕の人生の想いをも願って発言してしまう、
又は、出来るのでだろう。
 そんな時代に至ってしまったのです。

 さて、今の時代『新しさ』はどの様に考察され誕生可能なのであろうか?
ここで、1917年、アポリネールの「エスプリヌーボーと詩人」と言う講演で、
彼は既にこの様な趣旨の事を発言している。
(これが”エスプリヌーボー宣言”とされている一つである。)
『新しさの二つの基本的性格は、新しさを生む”組み合わせ”と”驚き”である。
そして、”奇妙”である事と”馴染みのある”ことは常識的には対立するが、
それらを組み合わせる事によって出現する”驚き”から”新しい流行”が生まれる。』
 ここに、モードと習慣の奇妙な関係性が存続する。
 
 関係者皆さん、ご理解あるお許しを。
文責/平川武治;ベルリンにて:


 

投稿者 : editor | 2014年10月13日 17:47 | comment and transrate this entry (0)

2014年09月28日

速報、コムデギャルソンコレクション−1;

 『あらゆる種類の闘争と紛争の終わりは、又創造的芸術の事実上の終わり
(The visual & of creative art) を意味していた。
おびただしい数のアマチュアやプロのパフォーマーが現われたが、一世代に渡って、
文学、音楽、絵画や彫刻の真に傑出したあたらし作品は出現しなかった。
世界は、相変わらず、再び訪れる事等あり得ない、過去の栄光に依存していたのである。』

A.クラーク/「幼年期の終わり」から。
 案外、有名なこのクラーク小説の一文がいやに思い出される。

 「例えば、世界的巨匠と呼ばれる人たちに共通する事は「時代への批判精神』である。
立ち場はいろいろあっても、社会の光と闇を敏感に感じ取っていなければ、
人を感動させるものは作れない。」
 これは飛行機内で僕が読んだ岩波書店が出している「図書』と言う小冊子からの引用である。
筆者は赤川次郎だ。(図書/9月号/岩波書店刊/「失われたプライドを求めて」より:

 もう一方で巴里の友人デザイナーたちの川久保玲の行為についての眼差しは"She is so Bourgeois!"である。

 会場にはもの凄いノイズジーな音が溢れ返り、それと同時に“作品”が歩き始める。
今回の会場となった周辺はチャイニースたちがコピーしまくって作っている
小さな衣料品工場が溢れている界隈の元機械工場跡を探して来た。
今回のショーには必然である舞台環境だ。最近のこのブランドにしては久し振りに”会場と
そのテーマ性”が一致したロケーションだ。
 いつもの様に観客を押し込めてその中でヒエラルキィーを構築した座席へよく訓練された
スタッフたちの多くが、この時ばかりと今期モノの“Made by CdG"を着て、手慣れた誘導を
行なって約30分が過ぎた頃、やっとそのノイジィーな爆音が始まった。
 川久保玲は彼女が創り出した”エモーション”をこの環境と雰囲気とそして音響で”
共有してくれ”と言うのかそれとも、”拒絶をしたいのか”或いは、”呆れ返ってもらいたいのか”
多分、そんな事はかまっていないであろう。ただ、”遣りたいだけ”或いは、
”遣らなければならない”だけであろう。
 今シーズンはこのブランドの”主役”のもう一つ、良く使い捲って儲けもした、
”黒”と”白”のシリーズから、『赤のバリエーション』がコンテンツ。
彼女はこれ迄にも“赤”は沢山作品にした。オリジナル素材を使わなくなった時点からの
コレクションはその大半が”黒、白そして、赤”でエレメントを構成していた事を思い出させる。
 だから、”赤”なのか?或いは何か、訴えたい事、反逆したい事のためには是非、
”赤”だったのか?多分そうであろうが、不明。ここで、プレスに聞くのは野暮だ。
「これが今の彼女の気分なです。」とのプレスの答えが解る。
 次から次へと、淡々とこのノイズのさなかを出て来る彼女の気分を作品とした
服の様なものを着たマヌカンたち。ヘヤーと靴だけがいつも変わる。
が、”作品”の内容とそれぞれのエレメントはこれ迄の4シーズンのバリエーションのように
見受けられるものが多かった。当然、今回のコレクション用にお色直しをしたものもあるし、
新たに思いついての造作であろう数体を見る事も出来た。
 例えば、彼女が大好きであったオムコレクションの襟のディテールが“THINKBIG"で
現われた時には思わず嬉しく、微笑んでしまった。だが、その胸部は見事に切り裂かれている。
いろいろな素材で集められ作品となった”赤の集積”はその素材の違いで
”赤”のバリエーションが輝く。
見事な感覚であるが、やはり、赤は以前の黒や白に比べるとその効果は難しいようだ。
だから、エナメルレザーや合皮のピースが使われてもいる。
それに作品自体の構造をより、3ディメンションを強くしないとその効果が現われにくい事も
計算されている。
 もう一つ、目だった事は今シーズンは“Hanging"と言うアイディアを結構、使ってこれらの
”作品”を創り出している。
 "Wrapping"から”Covering"は“被服が持っている"Protects"と言う機能性への当たり前の手法、
しかし、彼女は以前、自分のコレクションでもやった事のある、"Hanging"を使って
その造型性のバリエーションを増やしている。これを使えば其れ也に、
何でも”付け足す”ことが出来る。と言う事はここには彼女の特徴であった造型に於ける
”潔さ”が無くなり、“作品”を創り出さなければならないと言う想いからの”足し算”手法が
感じられる。
 新たに加えられた作品では作られた“THINK BIG"の服に鋏を入れて切り込みテーブ状にして
その流れを愉しんだり、組み込んでの3D.効果を見せる。
それらは今迄の怨念も入っているのだろうか?と思う迄の大胆さと緻密な迄の野暴さだ。
珍しくこれらに混じって、あのバウハウスで行なったO.シュレンマーが出て来る。
これによって案外、このコレクションの”想像のための発想”或いは,“SOUCE OF THE INSPIRATIONS"の”隙き間”が見えてしまった。
この辺りが”ファッションの可愛さ”とでも言えるのだろう。

  巴里のデザイナーたちの眼差し、"She is a so Bourgeois!"であるが効果を持つ。
行為を行なう事によって堅持されるその彼女のこのモードの街での”立ち居場所”がより、
鮮明になる。従って、『パンクを売り物にしたファッションブルジョワ』である事が
このファッションゲットーの住民たちからウケるのである。
’77年、彼女はPUNK だったのか? 憧れたのか? 傍観していただけなのか?
ライブへ通っていたのか?“ドクターマーチン”を履いていたのか?云々、、、
そんな事はお構い無い。
 では、今の彼女の生活で、何を”プロテクト”しなければならないのか?
日本社会への”反逆心”があるのか? あらゆる種類の”闘争と紛争”へのこゝろの有り様が
あるのだろうか?
 
 人間、『川久保玲』はどのような日常を送っているのだろうか?
殆どの”社員”たちも知らないであろう。
 どの様に、彼女らしさで日常社会へ”コミット”しているのか?
だから故に、これほど迄の”闘争と紛争”心が沸き立つのか?
 それとも彼女自身の”存在”そのものに、”闘争と紛争”し続けたいのか?
これらの『根幹』が全く不明。まるで、何かを隠す或いは、拭い去りたい迄に不明である。
 彼女に取ってのPUNKとは、あらゆる種類の”闘争と紛争”への、
社会へ対してのラジカルな”らしさ”であり、その立ち居場所を保持するための”記号”でしかない。
 
 いつかの、N.Y.で開催された『PUNK FASHION展』へのあのS.メンケス女史の言葉がここでも引っ掛かる。
 「もう、今の時代のPUNKとは総てが,PUNKY,そう、”らしさ”でしか無い一つのコードだ。」

 若者が未だに、“PUNK T-シャツ”を着ているのと同じファッション倫理でしかないのだろうか?
若者たちが憧れるPUNKと、富豪が憧れるPUNKの差異とは?
その背景即ち、”社会”が違うだけで其れはお金さえあれば見えなく出来る時代である。
 ここに僕はこの「レイ-カワクボ』ブランドのビジネス観を見てしまう。
やはり、強かなビジネス戦略である。
 “凄さ”と”がんばり”をありがとうございました。
文責/平川武治:巴里市/28th.Sep.:

投稿者 : editor | 2014年09月28日 03:09 | comment and transrate this entry (0)

2014年09月27日

速報、JUNYA WATANABE,Collection/ バイ、バイ、the 20's Fashions!!—その1

 君はあの、”ポリーマグー、お前は誰だ!”を知ってるかい?

 僕は今朝のJUNYA WATANABEの新作コレクションを愉しく読ませてもらった。
そこで想い出したのが、あの“ポリーマグー、お前は誰だ!”だった。
確か、’68年(?)、W.クラインの第2作目の映画だった事を想い出す。
’60年代を代表する否、この時代には早すぎた映画だった。
その後、この映画は“戦後のモダニズム”の多くのオリジナルになった。
映画は無論の事、グラフィック、アート、流行、アイロニィーそして、モードも。
 時は丁度、この街、巴里ではあの、パコ-ラバンヌが登場した時代だった。
この街で、メタルを使い、プラスティックを使いクチュールモードの世界へ一撃を
強烈に投げつけたフォトグラファー、W.クラインの快心の一作だ。
実は、この名前のバーが未だ、オデオンに存在しているのもこの街らしく面白い。
全く持って、全編が当時の巴里-モードを皮肉った映画。服、モデル、ジャーナリスト
そして、会場や音楽までもがその対称になり、アメリカ人がこの街の文化を多いに
アイロニーとユーモアでクールに讃歌した映画だった。

 冒頭のシーンは僕には『21世紀版ポリィーマグー』だった。
『全て、タギョール!!、もう20世紀のモードを引きづっていても何も、“新しいもの”は
出て来ないよ。』と言わんばかりのメッセージから始まった今シーズンの彼、
JUNYA WATANABEのコレクションは僕はもう歓喜の数十分だった。
 この街の連中は、A.D.J-P-グールドを思い浮かべるであろうが、その彼のオリジンには
この“ポリィーマグー”がある。マレーヴィッチ、S.ドローネさえも出て来る。
実にこゝろと頭が豊かなバランスで次から、次へと素晴らしい教養と感覚のバランス。
これは、実に教養深く、センスがいい1冊の『書物』、ありがとう、淳弥さん!

 どうなるのだ、これからのモードは?
そろそろ、僕が提言して来た『Without Sewing]』と言うコンテンツが
この世界でも見え始めて来たので余計に嬉しい。

 『今の時代、こんなに沢山のものがある時代、何を創作するか?
そこに“エモーション/感情”が感じられそれが共有出来るものであること。』
 これは昨日のUNDERCOVERを見ても想った事。
そして、今朝のJUNYA WATANABEも然り。
しかし、残念な事に、Anrealageには感じられなかった。
「見せてやるぞ!!のコレクションはもういらない。」
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2014年09月27日 20:23 | comment and transrate this entry (0)

2014年09月26日

Anrealageの事をもう一度、確りと書留めておこう。何しろ、初コレクションで、本人も力を入れたコレクションだったのだから。

 その遅れて来た『コムデギャルソン症候群』の独りが一昨日、
憧れの巴里コレクションデビューした。

 ANREALAGEの初ショーは、オーナー社長デザイナーの自己満足を満足させるものだった。
所謂『電気仕掛けのマジックショー』。
昔は人間なるマジシャンがすぐれたデザイナーであった時代があった。
が、今ではこの様な機械仕掛けマジシャンや或いはイメージングの上では
バーチャルマジシャンたちが登場し始めた。
 若いブロガーレベルは喜んだでしょう。内容がそのレベルの驚きをもたらしたのだから。
しかし、こちらのジャーナリストたち(プロ)の連中は、少し、引いていました。
日本の素材メーカーのためのプロパガンダと言う受け取られ方が一つの評価でしょう。
デザイナーとしての服ではその『ネタ元』が読まれてしまったショーでした。
それに、外国人ジャーナリストが少なくブロガーが多かった事も今であろうか?
 ”デスコンストラクション”が何を今、現在へ提言するのか?現在の日本社会なのか?
世界構造なのか?“ズレ”が時代感なのか?ある意味で、”時間概念”をズラす迄を
コンテンツとすればもっと、深みが在っただろう。或いは、ただのトレンドか?
そして、『日光写真』のプロセスを見せてしまったので、
これからの実力とセンスとスキルがどれだけこの街で通じるか?
どれだけ、ユダヤ人たちとの関係性へ即ち、メディアとビジネスへ広がるか?
 しかし、バイヤーたちへの手みやげ『客寄せパンダ』から始めなければならない
立ち居場所を選んだのだから今後は”売れる、売りたい服作り”のお手並み拝見が
彼らたちの本音であろう。ここが、例えば、SACAIとの違いである。
 この程度の自己満足を満足させるには自費でやるレベルである。
この自己満足を継続させる事で次なるステージへ上るためにも、それ位の企業の奥行きが
必要である。そうしないと次からがかなり質が落ちて当然であるからだ。
 しかし、現代日本のモノ作りにおける「何が”ジャポネズムか?”」と言う問いでは、
“素材が面白い”が”モード”レベルではないが、その問いの答の一端にはなっていた。

 過去3シーズン来、このデザイナーが日本素材の新しさを自分のコレクションに利用する
方法を自分のコレクションの手法のメインとしてしまった。
が、この場合のこのデザイナーの手法は利用でしか無く、“利用”はただ、単にその日本素材の
凄さと言う”情報”を見せびらかしただけのテリトリーでしかない。
この“情報”を自分の立ち居場所で”モード”にはクリエーションしていない。
若しくは、未熟である。
 この辺りが巴里と日本の”モードの世界”の現実の視点のレベル違いであろう。
“モード”としてどの様なクオリティあるものが作られるか?
ここがこの街の持っている眼差しであり、その強かさである。
ここに、この街が極めつけとしているのが”エレガント”と言う”格”である。
 翌日、あるショーでUAの栗野氏と同席した際に話題になり交わした際の『同意』であり、
お互いが長い間この街のモードを見て来た経験からの見解であり、この辺りが、
東京ファッションシーンにおける、最近の”ブロガー”たちとのレベルの違いでもある。

 これは先シーズンもそうであり、僕は彼へ進言した事である。
彼のプロパガンダの根幹は先シーズンと同じであり、進化していない。
今の若者が得意がる”こんなの僕知っている”レベル、所謂“情報集め”でしか無いのが
このデザイナーの貧しさである。
 “知っている事”と”考えること”は違う。
又、”知っていること”と”創造する事”は全く世界が違う事である。
 遅れて来た『コムデギャルソン症候群』で川久保玲に憧れ、その道を望むのであれば、
もっと深く、彼女が何を”創造”して来たか?を感じその根幹を学ばなければならない。
彼女は、その彼女の立ち居場所を巴里モードにおける30数年と言う時間を費やしながら
”モードの世界を創造”して来たのである。決して、”情報”だけを見せてはいない。
作られる彼女の作品には既に『品格』が創造された世界である。
残念ながらAnrealageのデザイナーがデザインしたと言う”商品”にはそれが未だ感じられない。
とても薄っぺらい、平面な服でしかない。(これは多くの若手日本人デザイナーの欠陥である。
この理由は自身の手を動かしてプロとして服が作れない連中の仕事であるからだ。)
 故に、僕はこの遅れて来た『コムデギャルソン症候群』のデザイナーの今回の仕事は、
『現代日本素材の素晴らしさと凄さ』をプロパガンダした行為でしか無く、
それ以上でもなく、それ以下でもない。
 彼が持ってしまった”自己満足”を焦って、満足させるものでしか無かった
デビューイベントだった。

 最後に、『これは感心すべき事なのか或いは未だ、こんな考えでファッションデザイナーに
収まっていたいのか?』と言う、そもそもの疑問が拭い払えない。
 『もう古く、しんどい考えではありませんか?』
 『未だ、この様な自己満足を満足させたいのですか、なぜ?』
 『多くの善意ある人たちの、他人の褌をかき集めて、この街で"来歴”を作るために
やって来た、その根幹は何なのですか?』

 彼は好奇心の旺盛さと繊細さを持って、”より、次ぎなる”を求めるであろう。
その時、“May I help you?"と言う彼のこゝろの有り様が”商品”の顔つきになってほしいものだ。
 ご苦労様でした。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2014年09月26日 08:17 | comment and transrate this entry (0)

2014年09月17日

倫理観を考えるとき、企業コムデギャルソンと川久保玲の場合は、

『もう少し、ファッションビジネスの倫理観を企業コムデギャルソンから
考えてみよう。』

 ——「例えば、コムデギャルソンはファッションの世界では凄い(?)けれど、
一体、社会の為に、どれだけの事を、何をして来た企業なのか?」
この友人の素朴な質問に、同じ世界に居た僕は考え込んだ。

 前回書いた企業、コムデギャルソンと川久保玲の活動とは、僕の眼差しは、
『結局は、自分の夢への現実から始まりその後は業と会社存続と利潤追求のためだけの
30数年でしかなかった。
 ここに、この『CdGは凄い!!』という根幹があるようだ。
その為に、どれだけの努力ある”虚言”をイメージングした時間とお金と人を
使って来たのだろうか?
 ”人間”としての川久保玲は何処で生きているのであろうか?
どれだけ、日本と言う国の実社会にコミットして来たのだろうか?
この人の実生活のリアリテはもう既に、オープン出来ない構造の元で生きて来てしまっている。
もっと、『倫理観』ある行為が為されてのこの30数年であれば、
晩年、あれほど迄の作品は作らないであろう。と、僕はあの作品群を見て感じる。
 これほど、”富”に恵まれながら、その富をどの様に社会へコミット為さって来たのだろうか?
在るようで無い”家庭”。或いは、”家庭”を必要として来なかった人生。
ただ、自らがイメージングして来た、”世界のトップ-ファッションデザイナー”として
その立ち居場所を堅持するためにのみのこれ迄の人生だったのだろうか?
その為の”企業”であり、“夫”であり、”社員たち”に君臨し続ける努力とがんばり、
その多くは『倫理観』少なき同業者たちからの見られかただけを意識しての今日迄であろうか?
 この様な生き方自体がもう古くなってしまっているのではないだろうか?
今の若い世代に共鳴する生き方だろうか?』
 友人と語り合った普遍なる時間の経過と、その会話だった。———

 この様な発想が出来る。
日本におけるファッションビジネスの世界に於けるクリエーションとはその大半、
約90%以上のデザイナーブランドものは『パクってナンボ』の世界で登場し、
そこで儲け、そこで立場を作り、恰好付けて着た世界でしかない。
彼らはこの世界を『イメージ』だとか『感覚』だとか『うちのデザイナーが言っているから』の
虚業のコンテンツで生きて来た世界であり実業である。
 だから彼ら同業者たちからすると、コムデギャルソンのその全てが『凄い!!』なのである。
『凄い!』と言う言葉がこの世界の挨拶の様なものである事がこれで解ろう。
そう言っておけばこの世界の住民で解っていると思われるからである。
これは編集者は勿論、ジャーナリストと称する人種も皆同じ釜の烏合の衆でしかない。
これでこの日本のファッションの世界が存在するからである。
これは何も、CdGだけではない。
文化勲章を取った一生にしても、耀司にしても他の有名とされるデザイナーの全てであり
彼らたちが吐く「当たり前の”虚言””虚業”」で持っている世界でしかない。
 だから、あの世界観を創造し続けて来た川久保玲、CdGは『凄い!』となって来る。
 僕の立場で言えば、そのフェイクの仕方がどれだけ上手いのか、センスあるのか、
品があるのか、時代感を感じる、人間性を感じさせる迄のものなのかそして、
教養があるのか売れるのかの視点と眼差しで見ていたに過ぎない。
僕が巴里の友人たちに言った言葉、“The fashions always in fake."はその後、僕への距離感が
変った友人が居た事でも理解出来る。 
 余談ながら、あのアントワープのユダヤ人7人組たちも、
’85年に日本へ大使館経由でのショーをしに来たがそのリアクションは散々足るもので
惨めなものでしかなかった。
その時、彼らが学んだのがこの当時の『カラス族』の流行の現実を見せつけられただけだった。
だから、その後のアントワープ派と呼ばれる連中もこの『業におけるMEIZM』が彼らたちの
クリエーションの根幹にもなった。そして、時代性もその様な時代であった。
 そして、ここからの帰国組も『遅れて来た,業によるMEIZM』でしか無いのが
彼らたちの願う世界の根幹である。ここではもう既に時代は先へ動いてしまって、
もう遅れてしまったこゝろの有り様でしかない。
従って、“育ち”とは恐ろしいものである。幾ら『パクって』儲けても、
それなりのブランドに成ればなるほど、結局は“育ち”へ戻り、又、そこからのスタートと言う
繰り返しでしかない。これがこのレベルのファッションビジネスなのである。

 僕が思うコムデギャルソンにおける『倫理観』を考えるとき、
海外のこのレベルのユダヤ系企業であればどのような事を為してその自分たちが置かれた
立ち居場所へコミットするか?である。
この違いの根幹は日本のファッションビジネスと海外のファッションビジネス界の相違でもある、
『宗教倫理』があるか、無いかのレベルの大いなる相違である。
これは戦後の日本人が失ってしまった若しくは、取り上げられてしまった現実と、
この時期の在日系の人たちの新たな社会環境への適合手段として、手のひらを返した
彼らたちのがんばりにも在った結果によるものでもあろう。
 彼らユダヤ系ファッション企業はやはり、『飴と鞭』を上手にスマートに使い分ける。
その為のお金の使い方が『上手なお金の使い方』になり、即ち、自分たちが関係する世界社会へ
どのようにコミットするか、そのセンスと行動と目的が彼らたち世界での”格付け”にもなる。
歴史を持ったラグジュアリィー系ファッション企業も美術館を持ったり、いろいろな催事イベントへ
チャリティ協賛し、エイズ基金や多種に及ぶ基金救済への参加、学校やファッション研究所、
ファウンデーション設立等への資金援助等々を行なっている。
ここに、世界のファッション産業が『文化』の領域へ入れてもらえる根拠がある。
その内容と成果にはいろいろな意見があるが、この根幹はやはり『宗教倫理』へ繋がった行為でしかない。

 では、年商トータル220億円企業であり、2/3日本企業、1/3はユダヤ企業であるところの、
今では世界企業になったこの企業、(株)コムデギャルソンはどのようなこゝろの有り様とセンスで
社会へコミットして来たのだろうか?ご存知であろう、コムデギャルソンは非上場企業である。
所謂“ファミリィービジネス”系態である。
 三宅一生も山本耀司も嘗て、”御三家”と称されたこれら企業も未だに、非上場企業でしかない。
例えば、広島の青果店の息子がその後の事故による障害が被爆であるとされているにも関わらず、
被爆都市広島に何を為されたのだろうか?自衛隊の音楽隊の制服のデザインは為さったと言うのに。
一方では、倒産当時の自己資産が倒産額と同額であったのに、自分の傲慢と怠慢で会社を潰す迄の行為等々。
これらの同業企業に比べればコムデギャルソンは潔い企業である。
だが、その潔さは結局は”自分を守る”事のために、自我と企業存続とのために潔いだけである。
だから“コムデギャルソンは凄い!!”のだ。
 
 以前、僕はこの様な提言をした。
 海外企業の様に、『ファンデーションコムデギャルソン』なりを設立為さって、
今後の日本のファッション産業のモノ作り、素材開発、人材開発と関係開発および、ライブラリィー等を
機能としたファウンデーションを設立為さっては如何なものでしょうか?と。
 これからファッションの世界に”夢と希望と憧れ”を持っている若い人たちのため、
現役デザイナーやファッション学を学びたい人たちのために役立つ知識の集積としてのライブラリィー等の
機関を設立して下さい。そうすれば、今後の企業コムデギャルソンの存続にも一役も二役も
その利用価値と存在価値はあるはずでしょうと。ここには、彼女が好きな、
“人と違った事、誰かがやらないこと”の日本初が誕生する。
そして当然、今後の日本人が世界のファッション界で大いなる可能性と自信が学べる迄の
”イメージ、テクノロジー&スキル”構造のファッション文化機関になり、世界のファウンデーションになろう。
これが今後の日本のファッション産業には必然である。
彼女が収集して来られた本だけでもそれを一般公開する様なライブラリィーだけでもかまわない。
 この発想は『文化は武器だ』を実感して経験し熟知している人間にのみ限られた選ばれた行為でしかない。
そして、今現在の日本人ファッション関係者でこれが現実化出来るのは川久保玲しか居ないと僕は思っている。
 年商の1割程がオーナーデザイナー社長の年収とすれば、川久保玲はかなりの富豪である。
彼女の日常生活が見えない分、彼女は儲けたお金をどのように使って来られたのだろうか?
下世話なレベルで考えて仕舞うといろいろ膨らんで来る。
多分、”自分を守る”=”自我高揚と企業存続”のためと、最近では世間並みに、”健康と美容”のために
その殆どが使われて来ているのであろう。
 独りの人間が当たり前の生活を、彼女が望む様に”潔く“暮らすためには
そんなに多額の生活費は必要ないであろう。
で在るとすれば、どの様に、今後日本社会へコミットするかを
或いは、しないのかはもうそろそろ考える時であろう。
 多くの『コムデギャルソン症候群』なるファッション人間が誕生した。
彼らたちは未だに『コムデギャルソンは凄い!』病に掛かってしまっている。
彼らたち若者に又、コムデギャルソン、川久保玲の辛苦を苦受させるのは可哀想である。
もう既に、そんな時代は終わっている。
 『コムデギャルソン症候群』の若者たちが彼女の様な世界のデザイナーになりたいと望むならば
やはり、ユダヤ人と組まなければならない事は現実である。彼らたちとの関係性を作る事である。
僕でも彼らたちとの関係性を持つことが出来たからこのような立ち居場所が持てたのである。
彼らたちとどの様な”手持ちのカード”で勝負するかである。才能、教養、センス或いはお金、育ち。
 彼女がユダヤ人と組んだ事によって、その後の彼女の世界は全て変革した。
彼女が創り出すとされている服作りにも、そしてそれを売る構造と目的も即ち、
クリエーションもビジネスもそして、メディア対応も変化してしまった。
で在るならば、今後、お金の使い方にも変化が在るだろう。
今後の、ユダヤ系企業としての次なるランクを目指すためにも。
ここ迄、潔き決断をしなければこの様な世界企業へのオープンドアは難しい現実が
この世界のファッション界である。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2014年09月17日 22:41 | comment and transrate this entry (0)

2014年09月10日

カルーセルに乗ってしまった以上、語らなければいけないのだろうか?

 “ 語らなければいけないのだろうか?
最近のコムデギャルソン、川久保玲のコレクションを??
――もうすぐ、次のパリコレが来るという前に、やはり語っておかなければならない事。”

 嘗て、ロランバルトは言った。
『神話はかたりの形式であり、内容の物語ではない。
神話の形式には限界があるが、内容には限界がない。
どんな内容であっても、神話的な語り口を持ってすれば、全て、神話になるのであると。
思えば、神話的な語り口というのは貧慾なのもである。』

 このような昨今の“ファッショングローバリズム”が生み出したファッションビジネスの
レアリズムを享受した結果、此処からどれだけ”距離”を持ち、新たなブランド戦略としての
“継続可能なる”立ち居場所を築き始めようとしているのが、敢えて言ってしまうが、
『ブランド-レイ-カワクボ』である。
 ここ数年間、多分過去4シーズンにあろうかブランド、コムデギャルソンのデザイナーで
あった川久保玲はまた新たな野心と大いなる業によって自分の立ち居場所を
先シーズンのコレクションから露にし始めた。その彼女が行ない始めたのは、
前述の”モード-コレクション”の諸根幹を悉く無視した所での
”アート”と呼ばれたいコレクションを巴里モードのランウエーで行ない始めたのだ。

 たいした精神力と度胸である。70歳を既に、超えた彼女に何がそうさせるのであろうか?
ここ迄来るともう、『女の凄さと恐ろしさ』を感じてしまう。多分、その根幹の一つは、
『生涯現役』という創始者が持ってしまう迄のがんばりであろう。
中途半端な事はしたくないという美学であろうか?僕が彼女の全盛時代に感じていた
彼女の素晴らしさの一つ、美意識としての『潔さ』はここには見当たらない。
 想い、感じてしまうこのコレクションからのイメージはやはり、彼女、
「川久保玲が歩んでいた”時間”とはこんなに重かったのだろうか?」であり、
そして、「彼女は『美』に対して何を想い、感じ何を求めていたのだろうか?」

 最近の川久保玲が作っている世界とは、”季節感や機能性など無視。着れなくてよい。”
しかも、”売れなくて良い。”ただ、川久保玲が作り続け、残し続ければ良い世界。
だから、コレクションピースはショーピースしか作らない。
受注を受ければそのショーピースを売ればいい。即ち”作品”を売る事である。
今的な言い方をすれば、『私はもう、アートスベニィールは作らない』と言う
新たな立ち居場所をお披露目したのだ。
 
 ショー会場でお披露目をして、お友達ジャーナリストたちを
ファーストローに座らせて『凄い!!』に極めの解説を付けてもらえば良い。
まるで、あの『裸の王様』の世界がここでも現実化し始めたとも感じた。
受注会ではその『凄い!』が陳列されてブランド企業のアイデンティティが錆び無ければ
良い世界。在庫にならずして、シーズン中に売らなくてもいい、着てもらわなくていいものを
作り続けるエネルギィイとは?何のためののだろう?

 此処では、もうかれこれ10年前に『もう、壱抜けたと、』あれほど迄の創造性と
イメージングで当時のCdGをも窮地へ追い込み震激させ巴里の最先端を行っていた
メゾンドゥ.M.M.と比較すると面白い。
今では本人は僅か、14年間にして生涯生活出来るだけの富を持って
時折、巴里のフリーマーケットで古着を売って愉しんでいる。
一方でこんなに潔く、痛快なカッコいいファッションヒッピーと言う輩がいるというのに、
彼女は今もがんばっている。
否、僕には失礼だが、苦しんでいるとしか言えないモノ作りを行ない始めた。

 『レイ-カワクボ』コレクションはそれなりに”お金”が有って出来るコレクションでしかない。
企業CdGの売り上げが使える。それに彼女には”社員”と言うなの優秀な“手”が有る。
CdGという”金看板”を利用すれば何でも使える。それらを使っての結果としての晩年の
コレクションシーン。これらを自分の意のままに使ってのコレクションは「凄い!」
だけど、「重い」「暗い」「辛い」そして、作品のトーンが「ネガティフ」である。
これらの言葉がショーが終わって巴里の友人たちそれぞれに感想を聞くと出て来る共通する
感想のコメント群である。
 人生も最終コース。彼女自身のこれ迄の生き方が、あんなに好きだった”オシャレ”が
ある男との出会いと、共有出来た”夢”とその為の共同二人三脚作戦その結果、
巴里の「ファッションデザイナー」という旅に出たが故に、
こんなところに迄辿り着いてしまったのだろうか?
 彼女自身が持っていた「潔さ」や「がんばり」や「躾け」「エスプリ」そして、
「軽やかさ」や「コケティッシュ」が煌めいていた時代が有ったはずなのに、
ある時期からは「人と同じ事は否」と言う迄の「特異性」に固執したようなモノ作りへ
変貌し始めた。巴里での自分の立ち居場所を実感し、その世界に固執し始めてからで有ろう。
若しくは、次なる男が違った血の掟を言葉にし、その言葉に酔い深けてしまったのだろうか?

 巴里での展示受注会へ伺うとその中身の思惑が読めるので面白い。
ブランド“CdG”がこのような「レイ-カワクボ」ブランドになってしまってからの”CdG”は
より、このブランドらしさをたっぷり沁み込ませ、”トレンド”をフレームとしたブランドに
なっている。所謂、バイヤーが売りたくなるものをデザインしてこの会場だけでビジネスを
取り仕切っている。これらはショーには殆ど出ない。
バイヤーたちをビジネス的に喜ばせるものでしかない。
ショーを見るだけでお仕事をする有名ジャーナリストと言われている輩たちは、
実際、ブランド“CdG”はどのようなものをデザインして売っているのか知らないで
ショーピースとしての「レイ-カワクボ」だけの事を書く。
ここにも『表と裏』の世界が構築されている。

 このような実際のビジネスの為の“CdG”が素晴らしいブランドとして構造化出来るのは
この企業の生産面の充実した経験からで有る。所謂、「工場さんとの付き合い」から
生まれるもう一つのこの企業の強さである。
ここにはこのブランドの生産ディレクターという役割の揺るぎない存在がある。
それに、この企業の生産背景はその大半が“made in Japan”という強みがここに来て
より、この企業の“モノ作り”の根幹をしっかりと築き継続している凄さである。

 ある時期から、”オリジナル素材”を使わなくなった。
この企業も“原反在庫過多”と言う非常事態に陥った時期が有った。
ここで登場したのが今のビジネスカップルの相手である次なる男の登場であった。
以後、彼のアイディアによって原反在庫と商品在庫を減らすべきに“ゲリラショップ”が登場し、
”CdG.HP”も作風が変った。以後、原反在庫量が落ち着き始めるとそれ以後、
ブランドCdGは「粗利の稼げるデザイン」の為の素材を中心にしたデザインへと変貌した。
その多くが”プラスティック系”の生分解されない合繊繊維が使われる。
 ここ迄来るともう、この企業『コムデギャルソン』は真の世界レベルのラグジュアリー
ブランドメーカーとなった。
 結果、昨年、11月のファッションサイトBOFでエイドリアン氏が語った
“CdG International"の総年商は220億円と発表される迄に至った。
http://www.businessoffashion.com/2013/09/adrian-joffe-rei-kawakubo-tending-the-garden-of-comme-des-garcons.html

**
 ではその「レイ-カワクボ」ブランドのクリエーションとは如何ようのものなのだろうか?
僕のこれ迄のモード経験から、30年程、毎シーズン見せて頂いて来たCdGコレクションからは
やはり、その“conception for the creations”も“image of the creations”もそして、
”source of the inspirations” も違う。それは当然であろう、『モノを作る』と言う根幹に於ける
自らの立ち居場所が変わってしまったのであるから当然である。
 前出した、『季節感や機能性など無視。』『着れなくてよい。』『売れなくて良い。』
ただ、『川久保玲が作り続けられるだけ、残し続ければ良い世界』に固執しての
”モノ作り”であれば良いのである。
と言う事は、彼女の今後の立ち居場所は“企業コムデギャルソン”の今後の即ち、
川久保玲の死後に、どの様に自分の作品が関わり、それがこの企業を今後も
“世界企業、コムデギャルソン”であり続けられ尚、この企業が変らずの発展継続のための
現在の彼女に残された使命とした行為でしかない。言い換えれば、彼女の死後、
この企業は彼女のビジネスパートナーであるエイドリアン氏が総統となる日本発の
”ラグジュアリィーブランド”と言う進路へ向かうしかない。
その為の、企業存続のための”モチベーション作り”としてのコレクションであると
読めてしまう迄の作品作りである。
 
 川久保玲の育ちも日本である以上、彼女のモノ作りの、”source of the inspirations”も
彼女自らが初体験として見たモノであったり、自らが強烈に感動体験したモノからの
インスピレーションが良いコレクションを発表して来た。
所謂、彼女が当事者としての経験からの”source of the inspirations”と、
彼女が傍観者としての経験からの”source of the inspirations”の深度とその振れは
当然だが違っていた。
 過去に於いて、彼女が”当事者”としてインスピレーションを得てのコレクションは
初期では、ポルトへの旅からの『黒』のシリーズやあの「瘤」コレクションや
「sexy」コレクションは印象に残っている。また、素材開発と共に行なって来た
オリジナル素材を使っていた時期のコレクションは素材の面白さ、特意性から素晴らしい
コレクションになったものも多く記憶にある。
僕の場合は ’85年’から88年位迄の数年間が最も印象に残っているコレクションであり、
この時期はこれでもモードか、こんなもの迄がモードかと感じる迄の見事な
『モード-マジシャン』の仕業であった。
 ’88年の秋、M.M.M.がこのファッション-ゲットーに登場して以来、
彼女はM.M.M.の服作りの根幹に煽られ始めた。
結果、力強いコレクションも見られた時期だった。

 後の多くは、彼女のモードに対する誠実さと真剣さと熱心さそして、勤勉さに因る
『人と違ったもの、同じものはやりたくない』と言う自由さと意志の強さに因って
もたらされた”傍観者の眼差し”からの”source of the inspirations”によって構成された
コレクションであろう。そんな中では、多くのカッコ良かったロンドンストリートテイスト、
タータンチェックの使い方と”パンク系”コレクションやC.ネメスを知った直後の
コレクションも美しい強さを感じられるものになり、その印象は強い。
 
 そして、オリジナル素材が使われなくなった以降のコレクションは即ち、結婚以後の
彼女の作品は所謂“大向こう”、お友だちジャーナリストたちを意識し始めた
コレクションとなって行った。ここからは自分の巴里での立ち居場所としての”特異性”、
巴里モードのスポットライトが当たる、ギリギリの際に立ち続けると言う綱渡りを
しかも堂々と始めた。”巴里モード”との距離の確立と位置に心掛け、嘗ての袂を分けたはずの
友人の様に決して、”オートクチュール”へは近づかなかった。
 また多分、この時期とは身内の渡邊淳弥ブランドが立ち上がって彼のコレクションも
全く違った眼差しで巴里の”大向こう”を多いに唸らせ始めた事に気が付き始めてからであろう。
彼のコレクションが良い刺激となり始めたと言う事だ。
 
 そして、時の流れは現在の様に自分のブランドでは売り上げをとらなくても良い状況と
境遇に入ってしまった。依って、そのコレクションは却って、“苦しみ”や”悶え”さえも感じる
結果のコレクションに読めてしまう。
 今のモード界に於ける『凄い!!』とはどれだけのリアリティあるクリエーションなのか
また、それにどのような意味合いがあるのだろうか?
(僕の体験からは、多分無いであろう。業界用語の一つでしかないからだ。)
 
 僕が’97年来ヨーロッパのファッション学校の卒業コレクションに呼んで頂いて
彼ら学生の作品群を数多く見て来た日本人もいないであろうと自負出来る。
アントワープ、ラカンブル、アーネム、ベルリン、ヴィエナ、バーゼルそしてバロセロナ、
トリエスタ、スイスと巴里、イエール。結果、これらの学校やコンテストを10年間程
卒業コレクションヒッピィーをさせて頂いた。僕の様な若い人たちの可能性を感じる事が
嬉しく即、素晴らしいエネルギィイになる様な者にはモード体験として実に愉しかった、
稀有で贅沢な時間の流れであった。(みなさま、ありがとうございました。)
 この時期の学生だった多くの者が今ではそれなりのメゾンのデザイナーをやっていたり、
自らのコレクションを大変ながら継続している。
 なので多くの素晴らしい学生コレクションを覚えている。
この経験が実は、『レイ-カワクボ』コレクションを読み解くすばらしい教養になっていると
自負してもいる。彼女のコレクションから感じられる僕にとっての”負”のイメージは
彼女自らが歩んで来た時間の姿なのか?若しくは、彼女の自心のこゝろの有り様からは
程遠いところで”source of the inspirations”を探している様が感じられるからだ。
 それが学生の自由で青い闊達な世界や勿論、ユーモラスな”プリミティブなアート”からも
”source of the inspirations”を探し彷徨っている。

 老いてゆくと言う事は、若さが無くなる事だと言う、確かに”身体”の機能低下は免れない。
しかし、若さは歳とは関係ない。僕もそんな年頃になったので言えるのだが、
老いてゆくとはそれ迄に無尽蔵の様に在ったはずの”好奇心”が無くなり始める事であろうと
僕自身は理解してしまっている。“好奇心”が無くなり始めるとは、
自心のこゝろの有り様に堆積しているカオスが整理分類され、テンプレート化されて来ると
もう“好奇心”が芽生える”隙き間”がなくなる。
 “時間”とは今しかないものであると言う。
今在ると信じられる”時間”をどの様に消費するか、使うか、それが今と言う”時間”を
生きると言う事であり、その今が在れば、昨日も存在するし、
又、明日をも思い巡らせることが出来る。これは先月読んだ『14歳のための時間論』から
改めて、教えてもらった事の一つである。/『14歳のための時間論』:佐治晴夫著/春秋社刊:
 この本を14歳で読んでいれば、その後の何十年かの人生に大いに役立つ“時間論”の本である。
ですが、現在の僕が読んでもこの本で再び知った”時間”を後、
何年役立てられるか?の違いが在る迄の事です。
 
 今、人間川久保玲はどのような”好奇心”を持っていらっしゃるのだろうか?
残念ながら、見えない。想像がつかない距離も存在してしまった。
 プレスに聞くと、勿論今後の会社の事、社員の事を思いその為に良いコレクションを
続ける事です。と言う王道な答えが返って来るだけであろう。
勿論この“王道”は必要である。
もう一つの顔、社長、川久保玲と言う立ち居場所からの義務であって、”好奇心”ではない。
 
 僕は最後迄、彼女の性格の一端である『人と同じことはしたくない。違った事がしたい。』
と言う、”大いに、自由なる好奇心”を自心のこゝろの有り様として、
今迄の全てに、”努力”と言うラベルが張ってある”時間”が自心のこゝろの有り様の中で
発光する迄の『見た事のない美しい白い光』を探し求める”好奇心”の旅へ、
そんな想像のためのカオスへ彷徨って下さい。
 『ありがとうございました。』合掌:
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2014年09月10日 01:33 | comment and transrate this entry (0)

2014年09月07日

そして、話をモードの世界へ

 『思想なきラディカルは名声を得る事で自己防衛へ廻るだけだ。』

 『その美は人間の欲望、奢侈、快楽、快適さを満足させてくれるものとしてのそれであった
と言えた。つまり、現実的欲求の範囲内のものであった。
 それに対し『自由』と結びついた『美』は現実の欲望を超越し、それとは無縁の地平で
求められるべきものであった。』
『芸術崇拝の思想ー政教分離とヨオロッパの新しい神』/松宮秀治著/2008年/白水社刊より。

 前回は、『アートとデザインの根幹の差異とは?』について述べた。
端的に言ってしまえば人間もそうである様にただ、“生まれ育ちが違う”事である。
どれだけ深く、自心のこゝろの有り様と言うカオスに自由に、本能ある美意識を持って
作品制作の為の“A source of the inspiration”を持ち得るか、その深度であり、そこにどれだけの
”倫理観”が介在しているか?でしか無い。結果、”パクる、パクらない”の世界は倫理であり、
大衆資本経済主義における”広告産業”との関係性が大いにこの“育ち”の違いを露にする。
 だから、また、『アートとデザイン』における造型の違いがそれぞれの世界観を面白く
”作品”として表層化しているのも戦後日本の育ちの悪さであり、特質でもあろう。
 
*そして、話をモードの世界へ
 本来、モードのコレクションとは、個別性としての「個性ある好きなデザイナーの作品」
時代の流行感としての「シーズンのトレンド/流行モノのシュルエットと色と素材」
そして、時代の空気感として、「愉しく、気分軽やかにカッコ良く」あと現代では
時代の特化性として「着てみたい素材が気に入った手法で使われている」。
即ち、モードとはいつの時代に於いてもこれら『個別性』+『流行性』+『空気感』+
『特化性』が根幹であり、それぞれのシーズンへ向けての作品世界を発表する。
ここにデザイナーたちが競いあうべき才能が彼らたちの美意識によって昇華され、
調和ある美しさや快適さを感じさせる服に仕立てられているかを問う世界でもある。
 2000年代迄に多様多感であった、ファッションの世界に於ける「作り手の思想概念」は
対象が”人体”と言う限定と、“豊かさ”というリアリテが肥満化し、
イメージがバーチュアルなデューンへ吸い込まれ、『距離の消滅』が完了。
 以来、その造型性の限界が即ち、此処でも20世紀のコンテンツの一つであった
『あり得るべき距離』が消滅した事により「モードの普遍化」を招き、
もう一方では「モードのグローバリズム」によってその資本主義経済の
ポリテカルパワーにこのモードも殆どが飲み込まれ、気が付くと
『ファストファッション』と言う新たな了解の登場。
 そして、少しづつモードは”過去”そのものが新しさを感じさせる“スロー”な時代感に
チューニングされてゆく。
その現実はただの“Variation of the Archives"が広告産業と化し、コマーシャリズムを
喜ばせるだけの世界になった。これが2010年以降のモードの現在点である。
 従って、ある時期まで存在したモードの世界の根幹の一つであった“新しさ”と
そのための”クリアティビティ”、その一つとしての造型性は“豊かさ”と言うリアリティの中で
孵化された情報量の過剰さによって埋没或いは消滅し辛うじて、その新しさのコードは
使われる素材とその質感そして、それらを処理するべき手技法性に残されてしまっているのが
現在のモードのクリアティビティでしかない。
 故に、モードの世界に於ける行為、”デザインする”と言う事はより、”服”であり、
”消費財”であり得る様になる。
即ち、それなりの”豊さ”を所有した大衆にとっての”ファッション”とは、
『服』=『身体』+『機能』+『時代の空気感』+『ブランドの世界観』+
『ブランドが提案する美意識=イメージング』=『豊かさの満足感』であり、
同時代に豊かにみんなで生きていると言う迄の共有イメージングの集合体コードでしかない。

**もう一つの側面であるビジネスは
 このファッションのもう一つの側面であるビジネスは故に、近年のデザイナーブランドと
称するカテゴリィーの世界も再び素材産業企業が情報発信した『トレンド』と言う
フレームがファッションビジネスの”安全パイ”と再度、なり始めている。
昨今の巴里-プレタポルテコレクションに於いても参加デザイナーの90%程が
この”安全パイ”としての「トレンド」のフレーム内でのデザイン活動である。
コレクションデザイナーでは、I.マラン、ACNE等を始めとする日本的に言えば、
大手資本のデザイナーブランドと巴里サンチェ発(フランスのデパート向けアパレルの俗称)の既製服のブランド、
マージュ、サンドロほか”キャラクターブランド”とそれらのコピーものである
”ファストファッション”の世界が売り上げを延ばしているだけだ。
 では、なぜ、シーズントレンドを素材産業界が発信しているのか?
答えは1年先のビジネスの正に、”安全パイ”としてである。
僕たちが未だ、創造性豊かなブランドだと思い込んでいる多くの世界レベルのブランドも
今、売れていると言われているSACAIもこの素材業界が発信した「トレンド」という
安全パイの中でそれぞれが築いて来た”世界観”をこなしているから売れるのである。
よって、メディアも取り上げるのである。
この現実はファッション産業そのものが何らは世紀前と変っていないという事実でしかなく、
この産業界で誰が一番儲けているのか?の根拠ともなっている。
 僕たちは、その表層の華やかなメデイアに煽られたコレクション=ランウエーの表情に
理屈を付けて、一喜一憂するのがファッション評論と信じているが実は、彼らたち
デザイナーを後で支えているのが素材産業であり、素材メーカーと付属部材メーカーが
一番儲けており次に、デザイナーとそのブランド企業が儲けている世界である。
現在でも、縫製工場は発展途上国に多くあって、双方の利幅の調整機構にもなっている。
此処にも”グローバリズム”故の必然的なるポリテカルな構造の根幹が見られる。
 という事は、やはり此処にユダヤ人世界が俯瞰視されるのだ。
どれだけ、”巴里”でイメージ気高く、ラグジュアリィーにプレゼンテーションを行ない、
レッドカーペットを利用し、広告メディア産業とブロガーたちとの駆け引きそして、
どれだけ”巴里”から遠くで生産してその“距離”性によって新たな儲けある世界を
構造化するかが現在のファッションビジネスのレアリズムである。
 ここには既に、彼らユダヤ人世界が構造化した、開発途上国との関係性が
「21世紀版コロニアリズム/新たなる植民地主義」化されているだけでしかない。
実際この構造によって”ファストファッションが新たに、登場出来たのである。
この現実は近刊書、『ファストファッション-クローゼットの中の憂鬱』を熟読すれば
もう一つのファッションの世界を知ることが出来る。
『ファストファッション』/エリザベス-L.クライン著:’14年7月/(株)春秋社刊;
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2014年09月07日 04:22 | comment and transrate this entry (0)

2014年09月01日

『アーチストとデザイナー、その差異の根幹とは??』その壱、;

『現代世界は反倫理的な構造によって支配、管理されている。
この根幹を世界システム化したのは白人たち。
そんな白人たちに未だ、コンプレックスを埋め込まれてしまっている
従順な多くの日本人若者たちよ。』

 前回の眼差しのデジュメは、 
 『若者たちは”東京オリンピック”までに自分たちのこれからの立ち居場所を、
その学んだ知識とスキルと技術を持って自分の世界観を現実化出来うる可能性を現実社会で
探し、事を為すことが今の時代の一番の面白さである。
 即ち、これから、2020年までが今後の人生において大いなる可能性を直接的に見つけ出せる
タームオブチャンスである。これを意識した生活行為によって仕事も、金儲けも人生までも
決まるであろう。この5年間でどのような自分未来の世界が見つけ出せるか?
 ”カジノ”と言う新たな都市構造が構築される東京がどの様に変貌し、”オリンピック”と言う
国家イベントが今後の東京をそして、日本をどのように変革させるか?
 ここに関われるか、関わらないか、無知であるか?の選択チャンスの時代が現代の面白さ
であると言う視点。
 建築やインテリア、ファッションの世界も同じであり、それらのクロスオーバーな
パラサイト発想が新たな商業形態を生み、東京を変貌させるであろう。』

 *プロローグとして、昨年読んだ本の中の1冊から、 
 「大事なはずの様々なものが遠い存在になって行く。
リアリティという物質的なる豊かさは、その豊かさ故に持つことが出来るイメージの世界
でしかない。遠い存在になって発生するイメージの世界と、
それゆえに自分が関われると感じられるイメージの世界。
こうして自分の生きる世界のイメージ化が進んで行く。」 
 戦後の豊かさによって、
「何が変ったのか?イメージである。なぜなら、人はイメージによって作られた先入観に
従って物事を認識するからである。そうすると、戦後の豊かさという作らされたイメージに
よって与えられたイメージは虚像で在り、その虚像という先入観によって物事を
認識するという図式が僕たちの戦後日本の高度成長後に一般社会化されてしまった。
イメージ/虚像に包まれて物事を認識し、その認識を正しいと感じる事が自由も平等も
手に入った。」/「新-幸福論」から;内山節著/新潮社刊:

**昨今、”自分アーティスト”が急増している。
 巷に溢れる“文化系”輩たちは、「自分デザイナー、自分アーチストそして私フォトグラファー」
云々がより多くなったようだ。
 この傾向の根幹は彼らたちの生まれた世代観即ち、戦後日本版”豊かさ”が
生み付けてしまった「自分が関われると感じるイメージの世界。」の選択の結果であろうか? 
或るいは、逃避でしかないだろう。
 そして、「イメージ/虚像に包まれて物事を認識し、その認識を正しいと感じる事によって
自由も平等も手に入った。」世代のジュニアたちが彼らたちである。
が、ここも、以前から僕が発していた”豊かなる難民”たちの所謂、日本的『族』化でしかない。
あのヤンキーたちでさえも“ユルキャラ化”し、”マイルドヤンキー”なる新たな『族』へ進化した
時代性と同類のアーチストと言う名の『族』化であろう。
 そんな”族”の輩たち、多くのファッション人間や自分アーティストたちは無造作、無節操
そして、無価値に『イメージ』という言葉を使う。
ただ、彼らたちが一同、一辺倒に使っているそれら『イメージ』という言葉の意味は、
真意は?彼らたちはその本意を何処まで理解して使っているのだろうか?
 彼らたちが使う『イメージ』という言葉自体も彼らそれぞれのレベルでのイメージであり、
それらをイメージ的に使っているのが現実だろう。ここには“イメージのコピーによる
上塗りがイメージ?”という彼らたちの軽い空気感なのであろうか?
その根幹は『虚像しか知らない虚像者による虚像のための虚像』と言うイメージであろう。
従って、この言葉の本意を知らずとも、個々によって意味様々に使われている可能性が高い。
 これも”豊かさ”が蔓延した結果の現代日本社会のリアリテのワンシーンであり、
その様な多くの“自分アーチスト”たちの立ち居場所は彼ら自身が“創造者/作り手”と感じ、
”自信と自心”無きユルイ、イメージの“族”の世界なのであろう。

 ちなみに辞書で『イメージ』を引くと、以下の様に出て来る。
 image(名)
① 心の中に思い浮かべる姿や情景。心象。形象。イマージュ。「美しい―を描く」
「インドは暑い国という―がある」
② 心の中に思い描くこと。「―していたものと実際は全く違った」
③ 〘心〙 目の前にない対象を直観的具体的に思い描いた像。「視覚的―」
松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』より:

***で、”アーチスト”と”デザイナー”の違いとは?
 この双方の”根幹の違い”を現在の日本の教育機関は正直に教えてい無いだろう。
従って、彼らたちは大いに自分勝手に自由と言う名で勘違いを愉しむ。
そこで、それぞれが”自由”という合い言葉と”平等”という彼らたちレベルでの自己肯定に
於いて、浅薄かな表層に戯れ、「自分が関われると感じるイメージの世界。」へ
観光客よろしく彷徨い始めた豊かなる難民たちの自称、自分アーチストたち。
 此の様な日本のファッションの世界の人たちも自薦他薦によって“アーチスト”になりたい
輩が急増して来た。これも“表層平和”のユルキャラの一つであり、
直接的には、最近の川久保玲の仕事の影響であろうか?或いは、モードのリアリティを
リスクとコストを張って経験-体験していない嘗ての、インドを知らない仏教気触れたちの
“オーム真理教団”的自薦教養人の”ファッション-論評ゴッコ”の悪影響であろうか?
 最近の東京ファッションにおける彼らたちの行為に僕は嘗ての あの“教団”の矛盾を
感じてしまう。ファッションを言葉だけで論じている傾向は実際、着る服と向かい合わず
頭だけで論じているセンスの悪い輩たちの自己満足的なる行動の原型と見てしまった。
 彼らたちが『ファッション学』と言う新たなジャンルを構造化する、リスクがはれる
『族』であれば、その役割が見えてくるであろう。
この分野は従来の日本文化に於いて遅れていた分野でもある。『被服学』や『衣装学』そして
『服飾史』が女子大系で教え込まれていた『服飾学』の進化であろう。
だから、日本におけるファッションを文化の領域へ広げられる迄の新たな
『ファッション学』が構築されれば彼らたちの学んだ知識と活動が役立ち初めて”教養”となり、
その社会的な役割も存在するだろう。

 では、アートティストとデザイナーの違いとは何なのだろうか?
互いにモノを作り出すことを立ち居場所とする彼らたちの相違は?
 その結論は、 それぞれの立ち居場所による“A source of the inspiration”の差異と位相である。
“アーチストと”デザイナー”の立ち居場所の違いとはそして、その作品の違いとは
何なのだろうか?
この発端は後述する、最近の”川久保玲の仕事”に誰も辛辣な直言をしていない事にも
由来するだろう。
 その根幹は当然であるが、それぞれの立ち居場所で何らかの”モノを作る”という行為を
仕事としている職業人である。では、彼らの“モノを作る”為の閃きや発端は同じなのであろうか?
そう、
「両者の“A source of the inspiration”が何処に由来し、所在した作品であるか?」
というところに尽きるのではないだろうか? 
 ”アート/芸術”と言われる世界で活動して、優れた作品を残した人たちの創作の発端、
彼らたちの作品の“A source of the inspiration”は“自心のこゝろの有り様”そのものからである。
“自心のこゝろの有り様”と言うカオス/混沌からのイメージやゆらぎ。
即ち、自分自身の日常性とそこから築いた”世界観”から、その為の教養と経験と美意識や
問題意識と関係性を自分らしく調和させ、醸造醗酵させた結果の創造世界である。
そして、彼らたちはこれが肉体の欲求と同調/シンクロした時に緊張感あるエネルギィイが
生ま得れる世界でそれなりのリスクを張って生き、創造している人たちである。
 では、デザインの世界を立ち居場所にしてモノをデザインしている彼らたちの根幹、
“A source of the inspiration”は所詮、何処かで見た事やモノ、または見慣れたモノ、
誰かがやっていた事などからの発端や閃きでしかない。
何処かで、何かで見た、聞いた、知っているというレベルの、最近では溢れれんばかりの
“情報の世界”からの”イメージ”も含めた“A source of the inspiration”が彼らたちの根幹である。
このデザインの世界では却って、この発端レベルが次にはビジネス的に”ウケル”という
表舞台が待っている。従って、その“A source of the inspiration”を見てしまった、
知っている人たちからは“パクった”と言われる迄の、何処かに “ネタ”がある世界が所詮,
デザインの世界の根幹なのである。従って、”パックっても”その結果がお金に成る世界や
メディア化される世界が待っているから彼らたちはそこを”下心”としていつか、何処かで
もしくは、誰かがやった事を自分たちの”A source of the inspiration”として”ネタ”を選択し
アレンジする事をイメージングしている世界の人たちである。

 例えば、人は誰でも旅をする。時たま、自らが体験や体感する事によって
自心のリアリテの領域を広げる旅もある。その結果としての”こゝろの有り様”の衝撃や
動揺やパッションが創作への発端になる。これを”精神世界或いは肉体世界への旅”と言う。
 他方、鎌倉に住んで街中へ出ると”観光客”の人ゴミである。
他人や情報が美しい、美味しいと宣伝された“ネタ”を拠り所に、名所と言う場所、
土産物というモノそして、ご当地グルメと言う食べ物に群がる。そして、写メをとる。
彼らたちを”旅人”とは言わない、ただの“観光客”である。
 この違いである。極論を言えば、アートを立ち居場所にする人とデザインを立ち居場所に
する人の根幹の違いがこの”旅人”と”観光客”の違いであると考えられる。
 もう一つ、金銭的に裕福な人たちの旅の仕方というものもある。
金が有るから為せる旅というものである。このような時代になれば金さえ有れば宇宙へも
行けるから何処へでも行ける。最近の川久保玲のコレクションを見ていると感じるのが
”金が有るから為せる旅”でしかなく、その金を使った”旅”は、”金看板”を今後もどのように
持続継続させるか。の為のこのブランド特有の現実肯定と定義の為の変らぬビジネス中心の
自己防衛的なる処方でしかない。
 
 ここも『表と裏』の娑婆世界。
 ファッションの世界の輩たちや広告代理店と絡んで仕事をして来た輩たちの『作品=モノ』
にはやはり、その根幹に深みが無く、軽薄さと表層が身上だけにモノの根幹やリアリテを
熟知している者にはそれぞれの”ネタ割れ”が当たり前である。
 ここでの、その手法の殆どは所謂、“小保方さん”方式でしかない。
(蛇足であるが、物理化学の、”仮説—実証実験—結果”と言う世界で彼女がこの方式を
用いた事自体が問題であり、そこから本当の結果が生まれ得るのか?が世間で騒がれ、
問題視されたのだろう。建築界にこの手法を堂々と持ち込んだのが安藤忠雄の存在だった。)
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2014年09月01日 19:32 | comment and transrate this entry (0)

2014年08月30日

三伏の候、”モード、ファッションを論じるより、社会の変貌と社会的責任を意識する事。”

 『 雨の後の寂しげな香りはもう既に、秋。みなさま、三伏の候、お見舞い申し上げます。』
 
 暫く、考え込むことが多く、書けなかったこの盛夏がもう既に、終わる。
そして、少し凌ぎやすくなり、火照り、疲れきった身体とこゝろを醒すには良い時節になり
時候の挨拶と共にまた、このブログへ書き上げてゆこうと始める。
今と言う日本の現状は社会、世間へ投げ込みたい発言は増えるばかりなのであるから、

 考えていたことの一つ、これからの近未来の日本で、若い世代たちが為すべきことは、
『成長と変貌ではなく”変革と洗練”の時代』であることを認識し、自分たちの生活環境を見渡し
社会的責任を意識する事こそ、今一番トレンドなことであろうとと言う認識と行為です。
 
 先春の終わりからひと夏の日本の政治、社会状況の変貌には恐ろしいものがありましたね。
“集団自衛権”や“移民法案”などを表層とした既存憲法の浅はかな解釈による改憲と新たな
“カジノ法案”の成立とその周辺の風俗法、賭博法の改定など等。これら一連の安倍内閣の動きも
ポリテカルに見えているようですが、実は、これらの根幹は結局は『金と利権の都合』で行なわれている諸行為。
 戦後69年目の日本も金の力で憲法迄もが変えられる国家に成り下がってしまったと言う次第でしょうか?
 これらの現実とこれからの日本國がどのような世界環境と状況の中へ漂う様になるのか、
或る、一部の大いなる勘違いをしている輩たちの強欲な悪知恵の”根幹”をより、誠実に興味を
持ってお知りになりたい方たちは学んで下さい。そして、行為して下さい。
 例えば、ぜひ、雑誌『世界』6月号/7月号をお読み下さい。/岩波書店刊 特に、今後日本にも登場する『カジノ社会』についてはこの7月号掲載の2本の記事が本格的な論説としてメディア化された初めてのものでしょう。
ぜひ、カジノ社会に興味ある方はご一読下さい。
そして、今後の近い将来の日本での”それぞれの立ち居場所”を確認して下さい。
 
 “裏”として、『3.11フクシマ』のその後の被害と後遺症の真実を世界レベルで隠し通そうとするための“表”/『東京オリンピック』への期待と残された可能性ある産業としての
『観光立国化』、その為のそれなりの輩たちには念願であった『カジノ産業=賭博産業の拡大』の現実化。
 確かにこの現実によって新たな産業が機能し、“表”は国内の経済効果と消費効果は発展する
であろう。が、その”裏”では“ギャンブル依存症”患者の増加とそれが及ぼす諸不幸がより、
多くの民事事件を起こすであろう。
 戦後の経済復興のために構造化された”競輪、競馬、競艇”は現在も”警察系の天下り”構造
として確実に構造化され発展し続けている。
そこへ、戦後の在日系への敗戦保障として委ねられ発展し続けて来た”パチンコ業界”が加わり、
確実に儲かる産業システムを日本のゲーム産業の技術が寄与し、”アキバ/ゲーセン”文化が
これを表層イメージ化した現在のこの業界の次なる発展が”カジノ/賭博産業”である。
これら所謂『新-賭博産業』は新たな”バブル経済”を例によって、メディアの煽りと伴に
一時はもたらすでしょう。
 
 先ずは、この”オリンピック/カジノのバブル”にどの様に乗っかるか?
例えば、ファッションと言う立ち居場所を持ってどの様に自分の距離観に置くか?
 これが「今後のそれぞれの立ち居場所を確認して下さい。」の本意であり、今の30代が
この近未来の現実を想像し絵図を描き、どのような『ジグソウパズル』遊びが出来るか、
その時の”夢/下心”が今後の彼らたちの日本で築ける可能性ある”立ち居場所”になる。

 此処で言いたいのは、これからの若者たちが時代の流れの表層に彷徨っているだけでは無く、
また、保身も含めた“過去のゆらぎ”に身を委ねただ、自己満足していないで、
より現実を直視すること、考えること。そして、今の現実の”ニュース”をどのように
読み解きそれがもたらす近未来の現実社会を予測し、イメージングしたところで、
自分がどの様に関われるか?若しくは、自分であればどの様に関わるか?と言う迄の
”自由さ”が必要であると言うことである。
 ここにしか、これからの30代の“夢/下心”多き輩たちがそれぞれの分野で手中に出来る
可能性多き、”現実になり得る未来”があるという自由なる発想と時代の読みどころが
必要であろう。ここに本来の”新しさ”と言う自由が誕生するであろう。

 『知的であること、誠実であること、ナチス的であることは決して3つ同時に成立しない。』
 これは、ドイツ第3帝国時代のジョークとして伝えられていたものです。が、もしかしたら、
今後の僕たちの国、日本の未来は『知的であること、誠実であること、日本的であることは
決して3つ同時に成立しない。』と言う迄の社会国家に変貌してしまう可能性があります。
 これを救うのは『倫理観』です。
個人の『倫理観』とその個人の集団としての社会が持つべき『倫理観』でしか無いでしょう。
この『倫理観』が『洗練さ』をも生むのです。
 そしてここで、改めて日本人本来の『宗教心』が希求されるだろう。

 この一夏が過ぎて考えることとは、表層のファッションではなく社会との関わり方であり、
どの様にこれからの社会にコミットするか?の行為である。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2014年08月30日 19:18

2014年04月28日

モードから読む『表と裏』−6;若手プレタポルテデザイナーの立ち居場所。

 コレクションも終わり時間が経った。
なので再度、考え現在のプレタポルテデザイナーの若手と称されるデザイナーたちとは
どの様なデザイナーが、どの様な仕事をしているかを改めて考えてみよう。
ここにも『表と裏』の世界になるのだろうか?
ラグジュアリー系の広告費を出している企業デザイナーたちが表層の”表”であれば、
自分の好きな世界観と実力で自分なりのコレクションをやる事で精一杯である
若手と称されるデザイナーたちのコレクション。
ここから、何人のデザイナーがそれなりの”サクセスストーリィー”を歩むことが
出来るのであろうか?
若手デザイナーたちは余りメディアに乗らなく、情報されないデザイナーたちであり、
彼らたちの認知度も低いのが現実であろう。
パリ-コレクションとその周辺;
 僕のように自分のファッション観を眼差しとしてインデペンデントに30年間、
このパリコレを見続けて来た者にとっては、最近ではコレクションカレンダーの初日と
その次の2日間が一番面白く見れる。後半になるとラグジュアリィー系と巴里のサンチェ系の
所謂、金銭的に余裕のあるメゾンと老舗メゾンがカレンダーを競いあう。
特に、ラグジュアリー系は週末に行なうのが多い。これは一般顧客を招待するからである。
又、愉しい事では、学校が休日であれば多くのシングルマザージャーナリストたちは
子供を連れて来る。
 日本のファッション誌関係者たちは大切な広告主との関係で純広をもらっているメゾンには
必ず顔を出さなければならない。
しかも、その広告ペイジ数によって編集者たちの観戦人数が決められる、という現実的な
世界でもある。又、それがお友達メゾンであればそのメゾンの今期モノを着て行かなければ
そのプレス担当者に気に入ってもらえなくなる事もある。
現実の”パリ-コレ”も此の様なシビアーな”広告世界”に成ってしまったのも2000年以降の
現実である。
 ファッションの世界自体が変貌した。一つは”ファッションクリエーションの世界”
もう一つはそれらを取り巻く”メディアの世界”の双方からで在る。
その結果が、『The fashion is not art, fashion is even culture,the fashion is an advertising.』
という迄のAnna Winter嬢の先見ある発言が現実に成ってしまった。
 僕は見始めた’85年来、変らず”フリーランス”という立ち居場所でチケットを請求し、
見せて頂いている。が、最近では僕も確りしたメディアとの契約が少なくなって来た為に
頂けるチケットも少なくなって来た。グローバリズム以降先ず、”ブロガー”と
”ファッションサイト”が登場した。最初の頃は各メゾンも警戒していたが今では諸手をあげて
インビテを出している。もう一方では、この4年来、完全に日本人は居心地の狭い境遇に
立たされ始めた。それは、中国組の進出である。メゾン側も日本よりもビジネスの可能性と
将来性を読んで全く、日本人には冷遇し始めた。会場のキャパシティは限られている。
従って、今迄入れていた人たちとの組み替えが当然のように行なわれる。
フロントローは勿論、中列も、立ち見も入れ替えが為されている。従って、僕のような立場は
先ず最初にこの入れ替え作業に引っ掛かる。現実、これで見れなくなり始めるメゾンは増えて
来る。しかし、そこは”30年来”というキャリアに助けられている。
見たいメゾンの殆どのプレスの人たちと関係性が功を奏しているのが事実上である。
現地メゾンとの間で日本のプレスエージェントが存在し始めたのも2000年来の事であるから
僕の方が遥かに沢山の人たちを知っていて助けてくださっている。ありがたい事である。
 初めから僕は『良いクリエーションは良いビジネスを生む。』という視点で見続けて来て
いるから若いデザイナーたちの動向には熟知している。その結果、いろいろなファッション校の
卒コレの審査委員をさせて頂いて来た。これも、助かっている。
今ではメジャーメゾンのデザイナーになっている人も出始めた。このような状況での
”パリコレを楽しむ方法”はやはり、若いデザイナーたちがカレンダーの初日や二日目に
まとめられるこの日を見るのが一番面白い。なぜ、彼らたちが初日かと言えば、
殆どの雑誌関係者たちはギリギリ迄ある”ミラノコレクション”へ気が行っているからだ。
ミラノが終わって巴里へのラッシュが大変である。よって、組合は彼らたちの為に最近では
若い面白いコレクションをやるデザイナーを初日と2日目にまとめているのだ。
解りやすく言ってしまえば、『広告代理店+メゾン』というビジネス関係が未だ、未完成なる
メゾンがこの2日間ほどにまとめられていると言った方がいい。
 僕なぞは、見慣れてしまっているから、この2日間でもうそのシーズンのトレンドは
読めてしまえる。従って、若手のデザイナーが感じ、発表したショーがその後、
企業デザイナーたちやラグジュアリィー系がどのようにこなすか?進化させているかを
読むのも面白い。 
 現在のパリ-コレ参加デザイナーたちのジャンル分けとは、
クチュール系メゾン+ラグジュアリィー系メゾン+サンチェ系メゾン(日本で言えば、
アパレル系)+インデペンデントメゾンそれに、政府関係による招待メゾンという分類が
出来る。シーズンごとに今では、インデペンデント系の数が減って来ているのが現実である。
それと、日本人デザイナーの数も減って来て、代わりに中国人デザイナーが増えている。
例えば、これはランウエーに出るマヌカンもそうである。それぞれのマヌカンの出身地への
ビジネスプレゼンテーションと考えてのキャスティングが行なわれるからである。従って、
今では日本人マヌカンは皆無であり、代わりにアジアンマヌカンは中国人マヌカンになった。
当然、フロントローの入れ替わりも今では中国人ジャーナリストたちとバイヤーたちが
優遇されてしまっている。
 という次第で、コレクション初日の若手プレタポルテデザイナーメゾンの幾つかについて
まとめよう。

若手デザイナーたちは;
 YANG LI/僕が今一番気に入っているデザイナー中国人26歳だと思った。
セントマを確か、中退。
 巧い。彼のバランス感覚はとてもセンスがいい。カッコいいショーをする。
最近の若いデザイナーではここ2シーズン、僕をとっても気にさせるデザイナーである。
今シーズンの彼は’90年代後半のアントワープデザイナーたちの造形を学習し、
そこに彼のセンスで、今何が一番新しいかを感知した所でのやはり、”日本素材”を
ブリ-コラージュした。個々のアイテムの素材の組み合わせ,色の組み合わせ,
分量の組み合わせ,後ろと前の重量感とそのバランス感,着丈のバランス感それに
素材が持っている質感のバランスのそれぞれが絶妙さがカッコいい。そして、
シルエットの作りも巧く、パターンメイキングも巧いという事である。
 このアントワープ+日本素材というアイディアは賢い。
そしてハイ-センスを感じさせるまでのバランス感で巧くまとめている。
 当時のアントワープのデザイナーたちが大いに使える素材とはウールのメルトンや
ギャバジンなどユダヤ人特有の素材でしかなかったからだ。
ここに、嘗ての”アーカイブ”をネタにしての”新たな素材”の組み合わせに”宝庫”が在る事を
今回のコレクションで見事に”センスと頭良く”見せてくれた、とってもすばらしくお利口さんで
バランス観も良い若いデザイナーが登場した。
 僕が発言している「これからのファッションクリエイティビティとは、
”THE VALIATION OF ARCHIVES”であり、今の音楽の世界と同じで、”カバー”の世界である。」
を実証した質の良いコレクションだった。
 彼がこなすメンズもメリハリが利いた所謂、ここでもアントワープ系をネタにレザーと
獣毛を巧くミックスしたダンディズムなメンズの世界もカッコ良かった。
 もう一つ、今回の彼のコレクションの裏側には、新たなバッカーが付くか、付きそうな
現実が在るらしい。この新たなバッカーとは既にC.ワイナンとA.F.バンデボルストを
バックアップしているアントワープの海運業で富を築いた資産家が投資し、元、V.Bのその後、
A.Dのセールスを経験したアントワープの女性を中心に造られたエージェントである。
このエージェントの次なる金の卵として、このYANG-LIを物色している。
 2000年初頭には、ロシアンマネーをコントロール出来るアントワープ出身の女性が
その夫から投資させてアントワープデザイナーたちのバッカーになった。A.D.,やH.A.それに、
ブリュッセルからのJ-P.L.たちが彼女からインベストされている。ハイダーが取り敢えず、
狭いフォーカスを度胸で派手なコレクションが継続出来るのはこのエージェントが在っての
彼の才能である。
 なぜ、日本からはこのような世界を舞台にする迄のインベスターが現れないのだろうか?
世界の”若手ファッションデザイナー”をインベストとしてバックアップする構造は現代日本では
成功していない。ただ、使い捨てする構造だけが残った状況。
ここには嘗て、全盛だった”商社”ビジネスの後遺症とご都合主義しか無いだろう。
現代日本でも、IT成金も多いという。彼らたちもファッション好きである。派手な世界、
派手な女たちも好きで有名人にも成れる。有名デザイナーであれば偽装倒産をした企業も
請け負ったIT企業も在るというのに。この世界にも、経済的余裕がなければB層も大好きな
”文化/カルチュアー”にも成り得ない世界が現実である。
 このままの現実が続く限り、世界におけるファッションデザイナービジネスでは企業、
”コムデギャルソン”を超える企業は出て来ないと断言する。今や、この企業は堂々の
”世界におけるファッション企業”である。(巴里におけるラグジュアリィーファッション企業の
ランキング/’10年調べに於いては13位にランクされていた。)
 JACQUEMUS/CdGの元販売員。
2シーズン目、”蒼空の元に浮かぶ雲”がイメージングか? ヤングマインドなコレクション。
若さが溢れている今回も愉しいコレクションを行なった。彼の若さと自由さをセンスよく
程よく自分の世界観で展開した又、これが出来るキャラクターを持っているデザイナーだ。
”不織布”をメイン素材に、ベルクロを使った自由な感覚で軽さの愉しさとカッコ良さを
爽やかな風が通り過ぎるようにランウエーを走った。
ビッグヴォリュム、フラットパターンを使って、僕が提案している“WITHOUT SEWING"+
"PARTS OF THE BODY"の世界観が伺えてうれしかった。メディア受けのいいデザイナー、
本人もカッコいい子。
 AGANOVICH/セントマ卒とその彼氏のスタイリストのドゥオブランド。
 巧く方向転換をし,プレスのディレクションが良かったのだろう、
フォーマルからの的を得たいいコレクションだった。
2シーズン目の”日本素材”のこなし方にも慣れ,自分たちのやりたい事と出来る事を
日本素材を使う事でより、新しく感じさせ,自分の世界観をトレンドの枠内で出していた
シーズン。バランスもボリュウム観を強調する。
そして、素材が持つ風合いを巧くデザインにしている。彼らたちは変らず、自分たちの
ファッション世界にどっぷり浸かっているナルシストなデザイナーだが、これでいいのだろう。
 今後の成長で少しづつ世間の風を感じるようになる。
その世間はポジティブでさわやかな風が吹いている事を体感すれば
もっといいコレクションが出来るだろう。
 CHRISTINE PHUNG/ ANDAM'13 年、ロレアル賞を受賞した新人。
 デビューコレクションなのだろうか?日本にもおなじみのCharlotte PERRIANDの言葉から
インスパイアされたコレクションは山岳スポーツアイテムによるスキースタイリング。
新しい事への挑戦こゝろがミックスアイテムやパンツのパーツ化などに感じられる。
雪の夜空がイメージでグラフィックに凝った。ビジネスが気になったのだろうか、丁寧な
造りだが未だこなれていない。今後の成長が愉しみ。このレベルは日本人の方が巧い?
 Corrie NIELSEN/彼女はロンドンからのデザイナー、
’10年に”ファッションフリンジ賞”を取ってスタートしたセントマ卒。
所謂、セントマタイプ、作り込みたいデザイナーである。分量観、バランス観は確りしている。
フラットパターン、ボリュームのあるロングコートは巧かった。珍しくショーの終わりに
マリアージュを出していた。彼女なりのトレンド消化型。僕は面白い新人らしさを感じたが。
 TEXSAVERIO/インドネシアからのゴールデンボーイ。
大使館文化交流による今回のコレクションだったのだろう。センスはいい。
僕がただ一つ気になったのはこのデザイナーが使った”ペーパーレース”の使い方であった。
必要な迄にこの自国の工芸性ある”ペーパーレース”を美しく見せる迄に使ったことだ。
 今シーズンも多くのデザイナーがインクジェットプリントに逃げる所を彼は自国の
“NATION IDENTITY"を軸にして、モダンにこれでもか、これでもかと使った。
この気分があの“L..GAGA"様も気に入って手を出したのだろう。
 所謂、“What's the Orientalism?"を理解している若いデザイナー。
 PASCAL MILLET/熟練デザイナーである。
その分いい所はしっかり、女性こゝろをくすぐる美しい服が作れる。
反面それが古いとも感じさせてしまうデザイナー。現在の立ち居場所でどのように”新しい風”を
感じそれを素直に造形出来ればすばらしいコレクションになるだろう。
しかし、今迄の延長レベルでまとめあげ過ぎては面白くない。レトロさを感じてしまうだけ。
 DEVASTEE/フェスティバルイエール出身。
V.B.S.がバックアップしようとしているフランス産ドゥオデザイナーブランド。
昨年その日本企業が彼らたちを初めて、東京へ招き青山墓地をうれしく楽しんだその後遺症が
今シーズンも。そして、その後ろで日本の消費社会の大きな森へ足を入れてしまったためか、
その世界で迷い始めてしまった、残念なデザイナーたち。
愉しい、フレンチ-エスプリが利いた”グラフィズム”が持ち味に成ってしまっただけの
コレクション。日本マーケットでどれ位行けるのだろうか?B.W.のお嬢さん晩を狙うのか?
JURIEN DAVID/東京在住フランス人デザイナー。
その成長が順調よく多くの周りの友人たちに支えられて今シーズンもいいコレクション。
色目てきに、”黒”を沢山使ったせいであろうか、以前よりも大人ぽいモードに感じられた
シーズン。素材は今シーズンも90パーセントは日本素材で日本生産。
この変らない信念と生産構造との関係性がいい。東京に住んでもう6年にはなるだろう。
その立ち居場所を最大限利用しての彼のコレクションは変らず、
”外国人が見た東京ストリート+α”が身上。トレンドである素材の分量感あるものの組み合わせ
もいい。刺繍、プリーツ、ストレッチ、表/後、分量感ある軽さ等など、トレンドを上手く
自分の世界観へ。
 UNDER COVER/今シーズンも巴里へ来た。
今年で20年目になるメゾン、それなりのファンがついているデザイナー。
 今シーズンは”東京デカダンス”あるいは”東京キッチュ”。コレクション。
インキジェットプリントで逃げてしまったがその逃げ足が大胆かつ繊細。
大盤振る舞いなスカーフコレクション。陶器のブルーチャイナからのグラフィックなど。
リボンをふんだんに思い切って使いましたコレクションだが、ガーメントには繊細な熟しが
施されていてもしかしたら、バイヤーたちが”売ってみたくなる”コレクションに
仕上がっているのだろう。がんばって続けて来てほしい数少ない日本人メゾン。
 Bernhard Willhelm/10年目の巴里を逃げ出しL.A.へ引っ越したメゾン。
ショーはやらなくなって久しい。
が、展示会の内容はこのデザイナーらしく”お遊びと驚き”がカッコ良くスマートに
デザインがなされたアイテムが多くやはり、バイヤーで在れば”売りたくなる”モノを彼らしく
デザインし出していたシーズン。プリントと刺繍のコンビ、大胆なパターンメイキングによる
ジャケット、コオト等々。パターンメイキングが上手いメゾンでもある。
このメゾンのデザイナー、ベルンハルトたちが愛するものは”自由”。そして”愛”。
これが継続されているコレクションは幸せである。
巴里はもう、不自由になった。と感じて昨年来メゾン毎L.A.へ移住してしまった心意気が
読めるコレクションだった。

 終わりに、若手デザイナーたちが、
 『”継続”を必須とするならば、いかに”自分流トレンド”によって自分の世界観を、美意識を
デザインして行くか?』
 これしか無いのが今の否、これからのモードのクリエイティビティと成功の関係性であろう。
世間のトレンドをどのように深読みし、あるいはパロディって自分の世界観へ落とし込めるか?
それにアイロニィーやユーモアまでもが造形出来るバランス観を持っているか?
この時にどのような”素材”と”素材感”をブリ-コラージュ出来るか?
その時にどれだけのスキルあるパターンメイキングが使えるか?
 ここに若手デザイナーの才能が懸かってくるのが現代と言うモードの時代性でもあろう。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2014年04月28日 18:33 | comment and transrate this entry (0)

2014年03月13日

モードから読む”表と裏”−7;ラグジュアリィ-モード評論編

表の世界である、巴里-コレクション’15A/W

 ミラノに来る前に友人の別荘を訪れた。
 ここはあのコモ湖の近くで、古くからのミラノの富裕層たちの立派で大きな別荘が立ち並ぶ
街、この別荘を彼女のお父さんから受け継いだ友人と久しぶりに広い庭に春の兆しの輝きと
匂いが転がって来る週末の午後、終わった巴里-コレクションの事を論じ合う。
—時折、近づく3匹の老犬が戯れている。—が、改めて、style.comを見ながら論じるが、
論じあうどころかまるっきり意見が一緒だった事に驚く。

 ラグジュアリーモードのレベル;
 今シーズンのトレンドが”悪趣味&キッチュ”なのかと思ってしまうぐらい、
殆どのラグジュアリー系はセンスもなく、クオリティもなく、広告で売る為のレベルの
コレクションが多かった。
 良かったのは3シーズン目のエディがディレクションする”ブランド サンローラン”のみでは
なかっただろうか? 
いい女で、自分がセンス良いと信じているブルジョア顧客ジュニアたちであれば多分、
今シーズンのエディの”ブランド サン-ローラン”は着たくなるだろう。

 DIOR by RAFもL.V. by NicolasもHermes by C.Lemaireもみんな安直なコレクションだった。
ファッション広告ビジネスにおけるF.ディレクターという役割だけを果たしているのは
それぞれ見方を変えれば凄い。きっと彼らたちにはそれなりのセンスがあるのだろう。
だからこのような大役を引き受けるのだろうが、このレベルで騒ぎ過ぎる
ファッションメディアも地に落ちてしまったのだろう。
DIOR by RAF;
 DIORのラフ君には2つの致命傷がある。
 一つは、彼は何か土台になるモノが言い換えれば、お手本があればそれをセンスよく
自分の顔つきにアレンジする事には丈ている所謂センスがいい、ファッションDJ-ディレクター。
従って、誰か自分のために”土台”を作ってくれる相棒が必要の、”元ネタ”在り気というタイプ。
(He is one of a typical fashion people.) アントワープで見よう見まねで立ち上げた自分のメンズ-
ブランドには初めからそんな相棒が居た。そして、若いセンスのいい子を回りに置いてお頂戴
するのが上手いタイプ。あのJill Sanderの時はヴィエナの先生たちとPatrick V. O.をミラノへ
連れて行った。そして、Patrickが才能ある本格的なデザイナーでありそれが功を奏した。
 しかし、今回のDIOR社とは自分一人の契約条件だった。それでもやはり、”輝ける椅子”には
座りたかった本人の野望とその結果が、もうこの3シーズン目でまんまと曝け出してしまった
コレクションだった。
 もう一つの致命傷は彼の育ちである。彼の育ちから、残念ながら”エレガンスが解らない、
知らない。”と言う致命傷である。この欠陥は巴里のクチュールメゾンでこの大役を果たすには
恐ろしい。本人に取っては非常に勇気が居る事である。彼はアントワープのストリート派で
育った。だから自分のメンズ-ブランドは大丈夫だった。カッコ付けから始まり、日本人と
仲良くなり日本素材を使う事、その後、ヴィエナのクンストの先生を経験した事などで
その関係性が広がりあのJ.S.を経てここまで伸し上がって来た。
ジューイッシュコネクションと例えば、引退したロンドンのI.D.マガジンのT.ジョーンズに
可愛がられた。ここでも、彼はティピカル-アントワープ出身の優等生デザイナーであった。
 しかし、ラフ君は嘗ての”若きY.S.L.の育ち”ではない。”フレンチデカダントとエレガンスと
ボングー”と言うフレンチ3大テイストは所詮、一夜漬けである。従って、今シーズンはこの
2つの彼の致命傷がもろ表出してしまったコレクションと言えるもの。
 J.S時代の嘗ての伴侶、PATRICKがした事を、使った色合いをコピーし始めた。
でも、自分自身が"センス オブ エレガンス"が解らないのでそのままのコレクションに成って
しまった。PATRICKからのコピーでもその色彩バランス感覚もセンス悪い。
 予測通り、取り敢えず、”メディアで騒がせてくれればいいデザイナー”を今シーズンは
証明した。しかし、彼がクレバーなところは、自分のDIORコレクションが駄目でも、
ジェネラルなDIORブランド商品が売れればいい事も熟知している。その為に先シーズンから、
コスメとバッグに次いでよく売れるアイテムである“DIOR-スカーフ”のデザイナーに
あのロンドンのSARAH & TOSHIOのヂュオブランド、”SWASH”を起用して自分が
ディレクションする構造を作った。この辺りが彼のお利口さんな旨味なのである。      
L.V. by Nicolas;
 ニコラのL.V.コレクションもだめ。センスが悪い。何のクオチティもない。
全くと言っても良い酷いコレクション。このブランドで為すべきコレクション全体の
バランス観が未だ掴めていない。彼も自分の元で働いていた嘗てのチームメイトたちが
どれだけ現在も彼をホロしているのだろうか?それに以前のメゾン Vにはそもそも優秀な
小針子さんたちが居た。しかし、今回からのメゾンは所詮、服では成り上がり
メゾンブランドでしかない。”お針子さん”をかこっている、そのような上質の構造を
持っていない。此処でも、以前の立ち居場所が実質替わった分だけこのメゾンでの役割は
”広告メディア”の為の囲われデザイナーでしかなくなったのか?
 デザインクオリティ、バランスクオリテ、それにブランドクオリティなし。
今後、コレクション後のメディアと関係者たちのお言葉によってこれから、多くの修正を
入れられてしまうだろう。このメゾンは最近では、時計で粗利をむさぼっているから所詮、
今回からのニコラ君は広告メディア対応の役割が立ち居場所なのであろうか?
勿体ない気もするのだが、今後の活躍を期待しよう。
 このところ、L.V.バッグはもうそれなりの階級顧客からは飽きられて久しい。 
彼らたちは自分が次は何を持ったらいいかを感じている層だから余計にうるさい。
巴里の業界編集者やスタイリストたちは今、その昔は愛犬用バッグ屋であったG.がウケている。
この流れは日本も同じ波長だ。
Hermes by C.Lemaire;
 マッチョなC-ルメール君のエルメスも何もない。
所詮、”エルメスごっこ”でしかない。此処には残念ながら、あのエルメスのエスプリがない。
フランス政府によってメゾンが保護される状況を持ち得てしまった為に、ここに来て、
”フランス人デザイナー”起用という条件に見合っての彼の起用には少し、無理があろう。
フランス人でも凡そエルメスとはほど遠い所で対峙していたはずのデザイナーでしかなかった
はずが、”カネの魔力”は凄い勘違いを生む。嘗て、このメゾンにM.M.マルジェラが登場した。
この時は彼のセンスの良さと頭の良さと自分の立ち居場所が熟知された上でのコレクションを
確か、3年間発表した。”エルメスというフレーム内”でどのように自分らしいコレクションを
それなりにイノベーション効果も含めてやった事である。その後のJ-P.ゴルチェは
”ゴルチェという自らのフレーム”の中でのエルメスコレクション”だった為不評。
C-ルメール君は自分の”フレーム”そのものもウイメンズでは無いも同然のデザイナー
今後、お勉強しながらの”エルメスごっこ”しか期待出来ないだろう。             
S.Lby H.スリマン;  
 結果、今シーズンは冒頭でも述べた、不良少年(?)ぶったお利口さん、エディ-スリマン君が
いい。”これしか出来ない版”のエディのセンスの良さが出ている。
映画、写真の世界から学んだヴィジュアル的な巧さと時代のバランス感を感じさせるセンスが
いい。エディは自分がイヴの育ちではない事を自認しているし、その結果の起用であり、
ブランド名から“Y”が消えたことで自分の好きなモノ、やりたいモノしかやって来なかった
この手法が功を奏した。服の巧さよりはフォトジェニックなショー全体のバランス感の巧さが
感じられた今シーズンだがただ、これしか出来ないという怖さが今後、残る。
CARVENbyChristopher;
 元ポルカの企業デザイナーであったクリストファー君を起用し成功を収めたCARVEN。
ここ2年程のビジネスも好調なこの再生CARVENもここ迄か?
 何か新しい事、ちょっと違った事をしたいこのデザイナーの、彼が持っている器量の限界か、
もしくは彼をバックアップするチームメイトたちの問題なのであろうか?
 barmanのデザイナーは未だ、若い分だけ冒険を行なった。
次回のコレクションでは多くのデザイナーたちが試みるであろう、”フォークロアコスチューム”に
インスパイアーされた、愉しいコレクションであったが、
売り上げは取れないであろう(?)
 
 このようにこれら、巴里のモードの主役だと自認しているラグジュアリーメゾンもやはり、
”時勢”には孤立奮闘、がんばる事が難しいのだろう。この街のモードの世界がこの結果
『広告メディア産業』と化してしまってもう、5年ほどが過ぎてしまった。巴里の街で出会う
本当の”クチュリェ仕事”を知っているお年寄り世代の人たちは口を揃えて”こんなのは
クチュールの仕事ではない”と嘆くのみ。ここにも”金鍍金な虚飾”が沁み込んで来ている。
 従って、今シーズンは”キッチュ、悪趣味バッドテイスト”がトレンドなのだろうか?と
考えてしまうまでのシーズン。若しかしたら、この傾向とは極論、誰が儲けるのか?に
尽きるかもしれない。多分、これら発表された各メゾンのコレクションで
メディア編集者たちが口だすアイテムだけが、ほとんど“H&M”や”ZALA”でコピーされて
”売れる世界”に放出される構造になって来たのだろう。
僕はこのようなすばらしいビジネス構造が強かに出来上がっているのを改めて感心する。
従って、ここで儲けるのは所謂、業界かざかみのジューイッシュ系”素材屋と部品屋”だろう。
後はやはり、育ちの違うジューイッシュ系の所謂、”サンチェ系”コピーブランドである。
従って、変らず、この世界からのmaji,sandor,koople,等が依然、高ビジネスを行っている
現実が理解出来る。
 それと口添え料としてのジューイッシュ系メディアが広告ビジネスとして儲かる仕組み。
実際のラグジュアリーメゾンビジネスはもうとっくに服からバッグ、靴とコスメへ移行し
その後は、より粗利が取れるハイ-ジュエリィーとハイ-ウオッチへ更に移行。
更にそれぞれのメゾンが”ラルフ-ローレンビジネス”体制へブランディングしてしまった
結果であろう。
 であるから最近のデザイナー起用というブランドの新陳代謝は
この根幹によって為されているだけで、結局”メデァを騒がせる
”特技ある40代迄、ゲイデザイナーに絞られている。
 ここには『広告メディア関係者たち』とどのように付き合ってゆくか?
その為の”パリ-コレクション”でしか無くなって来た。
 
 そう、”ラグジュアリィ-モード”とは元来このような“BAD-TASTE"がその殆どである世界。
この事を再度、思い出したシーズン。
彼らたちの顧客たちがその世界の住民であるのだから、
だから此の国では“BONE ELEGANCE"が尊ばれるのだ。
文責/平川武治:

 

投稿者 : editor | 2014年03月13日 02:01 | comment and transrate this entry (0)

2014年03月12日

モードから読む”裏と表”−5;

 デザイナーぶるという名の『表と裏』
ここでも『世界は騙される事を欲する!』/Sebastian Brant;15世紀ドイツ文学者「阿呆船」より、

 『デザイナーぶる』と、
 思い出す事、ある人はウエディングのオーダーを自分の身内から受けて
今でも40年前にやっていたように外国雑誌の写真からパクったものをそれらしく見せ、
それを今度はそのまま、お仕立て屋さんへ出して作ってもらい
それを自分が仕立てたように、
自分の展示会に展示し、自分の仕事にしている人がいましたね。

 この場合のデザイナーのこゝろとは?
大切な、好きな服を作るというこゝろが何処に所在しているのでしょうか?
大切にしなければならないそのこゝろの誠実さと行為をなさづ、
平気で、本人はこのような行為をデザイナーぶるために
本気でやっているのです。
ネットで落としたブランドものをカッコ付けて着て、
学歴を振り回してのデザイナーぶりに
それに、まんまと騙され、メディアも編集者もごまかされて、
解った顔して、”まあ、すごい!”“ニコニコ”の世界。
こんなメディアや周辺のいい加減さに慣れて来ると、
怖いものです、このレベルの人間は
もう、その頃は一端のデザイナーぶっている。
厚顔で、世間に慣れるとは恐ろしいこと。
ここでの根幹は”育ち”なのでしょう。

 こんな世界がファッションの『裏と表』。
これがデザイナーぶっているレベルの、
こんな虚飾が真実として、イッパイ罷り通っている
怖い怖い世界。
ほとんど、あの『佐村河内 守』の立ち居場所と同じ。
そんなファッションデザイナーぶった輩がたちが
今では、ブログという自分勝手なメディアを
ここでも、カッコ付けて耳年増ブルのみ。

 自分が出来ない事を
”インターシップ”と称してこき使う構造でイキがっている。
一生懸命、デザイナーぶって
金儲けと有名人になりたがっている、
変らぬ日本の”有名人”という名の貧しさと、
メディアに出れば”有名人”という世界の空虚さ。
根幹を理解していない、
本当のクオリティある世界で生きて来ない、
偽物の、偽物の上塗り世界でしか経験が無かった、
このレベルの多くが勘違いしてのデザイナーぶっている世界。
ここはファッションの『裏と表』の世界の限界。


 あのような『佐村河内 守』スキャンダルは
ラジオから流れて来ても、非常に気分が悪くなるものでしかない。
僕の知っているファッションの世界では日常茶飯事。
有名デザイナーに成ればなるほど
自分がプロパガンダした名声を笠に着て当たり前の行為としてやっている事。
彼が所謂”ブランディング”として世の中にその立ち居場所を持つならば、
ファッションブランドビジネスのコピー騒動と同じと考えるレベルの問題。
メディアと世間のB層たちの”似非ヒューマニズム”が発端でしかなく
彼を音楽家として構えてしまったのだ。
ファッションデザイナーブランドの世界では
有名デザイナーに使ってもらう事でうれしがる風潮は不変。
そして、ここでも
『世界は騙される事を欲する!』がビジネスに成っている世界であり、
うまく騙す事、騙す事で騙された方もHAPPYに成り、
騙した方は有名になり、儲かればそれがファッションの世界では『表の世界』。

"The Fashion is always in fake."

文責/平川武治;VIA VIGANO 4, MILAN:


 

投稿者 : editor | 2014年03月12日 02:50 | comment and transrate this entry (0)

2014年03月11日

モードから読む”裏と表”−4;

 表、それは虚飾の耀き、

 都市に構造化される『カジノ産業』とは、”入れ子構造”/" Nested structure"という
囲い込む新たな『表』環境構造。

 この現実の今後の悲惨な『裏』の事実を覆い隠そうと、遂にこのように「パチンコ業界」の
上場化が日経ビジネス誌上でプロパガンされ始めましたね。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20140227/260342/

 既に,僕が10年前のこの「カジノ学会」が出来上がった時の妄想思考がそのまま現実へ。
そして、この記事も深読みする必要が有ります。ここに至る発端は’04年に構想化された
「徳島カジノ学会」です。このアイディアは医師を中心にした富裕層が投げ掛けました。
http://www.casino-kenkou.jp//web/presentation/casino_health_system.pdf
 その後、当然のようにこの案に乗かって来たのが「パチンコ・チェーンストア協会」(PCSA)
http://www.pcsa.jp/member.htm

 そして,「観光立国化」としての大きな役割を果たす「東京オリンピック」を機に
このように堰を切って流れ出したのがこの『カジノ産業』の立法化と産業化の現実情。
この根幹は,戦後の在日系が主導権を摂っているパチンコ業界の上場化と拡大化。
その裏にべったりとへばり着く愛国心擬を持ったコバンザメ族ジュニア議員たち。
そして、極論はもう一つの「ハコ」を構造化する試み。
 B層たちに解り易く言えば,”ラスベガス”という”ハコが東京に出来る。
その為にはここで通用する”貨幣”が必要。そこで、現在のパチンコ業界が行っている
「換金制度」を改定しなければならない。
この流れです。現在は別構造になっている「換金制度」の仕組みをパチンコ店内で換金出来る
構造即ち,これを改訂する事からこのカジノ構造の事の次第が始まります。
 一度でもカジノへ1週間ほど滞在した人であれば,お解りでしょうが,
ここはもう“ある一つの國”構造になっていますね。カジノには,欲する事を満たす全てが有る。
それは人間の虚飾や業慾を充足させられると思うものが全て有るという事です。
否、それを根幹に構造化された環境なのです。
 所謂,美男美女たちと,小カネを持ったリタイア組たち。金、愛、慾、色が揃っている。
例えば、ファッション。ここでも行われるであろう“東京レディス−コレクションショー”を軸に
ラグジュアリーブチック,各種ブティック、レストラン、ショーライブ、劇場、スポーツジム,
エステ,シネマ,コンサートボクシング等々と日本的には、“エヂュケーションビジネス”も、
もしかすると参入しカード,ルーレット、ゲームスロットなど所謂、”賭博”で儲けられ
愉しむ生活が出来る、それなりの元金を使えばそれなりに儲けられ、カッコつけられる構造が
”カジノ”構造です。この構造は現代の日本における資本主義経済社会のオリジナルなひな形の
一つでもある。日本的に言ってしまえば、『芸能、エンタメ、プロスポーツ、風俗、高利貸し』
などの産業をパチンコ業界がもう一つの”ハコ”を構築し、「囲われた賭博」営業を母体に
”入れ子”構造化し、新たな都市機能環境とする。
 ”戦後のドサクサ東京”をもう一つ”入れ子”状態で構築化する根幹が読めるだけですね。
従って、パチンコ業界が”上場”をここに来て望み始めたのです。
これはこの『カジノプロジェクト』の必然的なる結論の一つです。

 例えば,カジノホテルに泊まってそれなりのカネを使ってそれなりの稼ぎが出来れば,
このカジノホテルで極論すれば一生,棲みつけられる迄の構造が環境化されている。
即ち,『人間の見栄と傲慢さと慾』をプロヂュースした構造でしか無い。金さえ有れば
セキュリティも確りとなされ、ホテルから逃がさない様に迄,ガードしてくれる。
そこで,多分、誰かがこのカジノ専用“SUICA”版を構造,現実化すれば,もう一つの”國”を
造る事と同じ構造になる。故に,このカジノそのものが『国定特化指定区』になり得る
可能性も今後は有り得るだろう。

 例えば、カジノについての構造やその内情を知りたければいい映画が有ります。
1995年のアメリカ映画、『カジノ』(Casino)です。
監督マーティン・スコセッシ、ロバート・デニーロ演じるある天才賭博師を通じて、
まだマフィアの支配下にあった70年代のラスベガスが描かれています。
古いカジノですがその雰囲気は参考になります。

 従って、僕は実感として改めてこの恐ろしさを感じます。
これから,どんどん恥ずかしい國に成り下がってゆくでしょう。
そして、『表層』すなわち『表』として、エンタメ、ゲーム,お笑い,アキバ、風俗,
それにここにも書かれている”ダンス系”も新たに組み込まれそれに,ファッションも
絡み合った”バニティ特化区としてのカジノ”が現実になって行く。
 今後の日本経済のカンフル効果はあるでしょうが,自然に育まれて育って来たあの
『やまとこゝろ』や、日本人としての『気骨』は何処ヘ行ってしまうのでしょうか?
ここには『日本で、日本ではなくなる』将来への可能性も感じてしまう危機感があります。
これではまるで“OZの魔法使いのエメラルドの館構想”。約100年は遅れていますね。
その横で、市民運動家たちの”エコ運動”がもっともらしく缶バッジの如く、継続されてゆく。
 僕たちの「国土」を自らが穢してしまったという現実に”臭いものに布を被せ”もう一方では
このレベルの「未来構想」が現実化する『表と裏』構造の國になってしまいました。
その原因の一つには、政治家とは任期中に自分たちが関われる「利権」、日本的な表現では
”天下り”構造をどのように制度化するかでしか動かなくなってしまった,所謂、
”政治家役者”が人気を浴び始めましたね。与えられ、仕組まれたシナリオを政治家らしく
只演じるだけ。これも「合衆国のレーガン政治」以降から学び始めた”擬政治”。
これが小泉以降の”流行政治”行政。

 あの「3.11東京電力福島原子力発電所企業事故」の丸3年が来る前に、その責任も
投げ出してこの状況が現実化し、メディアによってプロパガンダが始りましたね。
 ここには『戦後のドサクサでガサツな社会』が、『人格、品性無き、金さえ有れば全て』の
国家へ再び逆走、これからの21世紀にもあの様な戦後ドサクサ社会のリメイク化、
”虚飾のテンプレート”が構造化されてゆくしかない僕たちの國『日本』の未来なのでしょうか?
これからの日本という国家は『表、それは虚飾の耀き』しか放つことが出来ないのでしょうか?
文責/平川武治;VIA VIGANO 4,MILAN:

投稿者 : editor | 2014年03月11日 01:52 | comment and transrate this entry (0)

モードから読む”裏と表”−3;

 パリ-コレA/W’14トレンドという名の『表と裏』
『世界は騙される事を欲する!』/Sebastian Brant;15世紀ドイツ文学者「阿呆船」より、

 「もう、僕が見ていた眼差しからはモードの世界はどんどん遠くなってゆく。」

このところの日常は、決して幸せな事ばかりではない。
知らなくていい事を知ってしまう。

明日も幸せな日だとは信じられない。
何を求めてよいのか迷ってしまう
その比較項も無くなり始める。

夜空から星が一つづつ消え去るように。
まるで、あのA.C.クラークの書いた
『天の向こう側』(1958年)の冒頭の如きを思う。
満天の星空から一つ一つ星が消えてゆく。

こんな時代に、
大金持ちは何をするのだろうか?
何をしたくなるのだろうか?

小金持は何を考えるのだろうか?
何を欲しくなるのだろうか?

お金を十分に持たない人たちは
何を思うのだろうか?

こんな彼らたちが一堂に集まる世界が
もしかしたら、モードの世界にはある。
そこはバニチィーな世界。

虚飾が表層を覆っていて
いつも何かで輝いている世界。
純粋な輝きを求めて、

“OZの魔法使い”の世界。
ドロシーが辿り着いた”エメラルドの館”
閉塞感漂う世間へバニティな冷たき耀き。

バニチィーには慾と業が共に蠢いている。
慾と業には『表と裏』の宇宙が存在している。
表へ出るための”技”が小賢しくなる。

FORMAL-WEARとはどのような世界観か?
ここにも『表と裏』の世界がある。 
”聖”と”俗”あるいは、"ハレ”と”ケ”

’30年代のハリウッド。
閉塞感漂う世間へバニティな冷たき耀き。
☆、夜空,雪、水,氷,雫、クリスタル等々。

消え落ちる星や輝きが纏い付く
”女ぽい女と男ぽい女”という『表と裏』

素材の組み合わせ,
色の組み合わせ,
分量の組み合わせ,
後ろと前の重量感,
着丈のバランス
それに,
素材が持っている質感の
バランス感の絶妙さ。

文責/平川武治;VIA VIGANO,4 MILAN

投稿者 : editor | 2014年03月11日 01:38 | comment and transrate this entry (0)

2014年03月10日

モードから読む”裏と表”−2;『丸、3年』

裏若しくは、影、
 明日で丸3年。海外からはどのように見られているのだろうか?

 変らず、隠蔽され続ける『東京電力福島原子力発電所企業事故』の被害実態が今も尚、
海外メディアの報道によってより、現実を知らされる事になる。
 この原因は日本人が持っている”曖昧さ”や”被害者意識観”がそうさせるのだろうか?
日本メディアが偏狭に報道するここでも”表と裏”がある。
現実は想像してた様に,汚染状況がその後、発覚して来る人為的あやまちも多々、重なり
大変な実情況になっている現在です。
変らず、諸責任の当事者たちの認知感覚は
『加害者が被害者から、加害責任の為の諸経費を要求、搾取する』というベクトル、
”電気料金の値上げ”行為なのです。ここには、自分たちも”被害者意識”をちらつかせ始める。
そこには自分たちの「國土」を穢したという意識もなく、未来をこれほどまでに
危うくしてしまったという「やまとこゝろ」ある責任意識ある行為は未練も感じない
この群衆レベルが現在の東電と政府の手法です。
 ここに、幾つかの海外メディアが報じたものを紹介しておきます。
まず、一つの汚染記録が有ります。これは昨年の10月の現実でした。
が,現在はもっと酷くなっています。隠蔽させ続ける事で”風化”させる手法ですね。
ここにも、日本的なるこゝろなき、『ちりも積もれば、』論法しか有りません。
http://echoechanges-echoechanges.blogspot.fr/2013/10/131007.html

 また先日、僕のところにもオランダの友人からも
やっと発表された人為的事故による汚染水漏れのニュース後、その被害の酷さに驚き、
心配のメールが届来ました。実はこの放射能汚染水が大海に及ぼす被害の現実は
海外ではかなりナーバスに報道されています。ヨオロッパの人たちが見ている
この『東京電力福島原子力発電所企業事故』の被害実態はEU圏で活動している
独立系環境ジャーナリストたちで運営されている参考サイト“NaturalSociety”があります。
http://naturalsociety.com/new-eu-report-states-20000-square-miles-contaminated-japans-fukushima-daiichi-incident/ 
 この最新記事は“Kaleidoscope”で読めることが出来ます。http://kaleid11.brog.fc2.com/
 
 また、日本人であれば喜ばないと国賊だと言われている事を知らなかった僕ですが、
2020年の開催が決定した「東京オリンピック」においても辛辣な記事が出てきています。
 この東京オリンピック’20年頃には程良く放射能汚染大気が東京上空を
気球船よろしくゆっくりと被ってしまっているであろうという危機感を訴え煽る報道です。
/「揺らぐクーベルタンの理念-日本と国際オリンピック委員会」
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2654.html

 安倍政権での彼のセールスマンぶりは性格なのでしょうか、ちょこまかちょこまか
乗り遅れた電車に乗り込もうとアフリカや中東へ出向いて何を売りにしているかと言えば、
『原発』なのです。事故被害規模も自認出来ず、事故被害処理をまともに出来ずに
外国へ出掛けるセールスマンぶり。
 しかし、その裏には彼がセールスをしている『原発』は100%日本製ではない事を
知って下さい。現在日本の原発メイン企業は東芝と三菱の2社が仕切っています。
しかし、この2社は日本にある原発をそもそも売り込んだアメリカのGE社とW社がべったりと
内蔵されています。表向きは日本の2社がそれぞれを買収しているのですが、
ここにも軍事産業と同じ構造が構築されていて、外装構造部は日本企業が担当そして、
中心部の原発の中枢ソフト関係は全てこのGE社やW.社が仕切っているのです。
従って、そのビジネスアマウントには格差があり結局は彼らGE社やW.社が儲かる為の
セールスをしているのが根幹です。
 それに『原発=原爆』であるという機構構造も知っておいてください。
そこに、『東電福島原発企業事故』を偽りで固めたプロパガンダセールスですから全くもって
非道なる行為であり、ここにも新たな“原発利権”が存在しての行為でしか無いのが根幹です。
この責任認識で現在の安倍内閣のそれなりの立場の政治家たちは『国家のため』という
大義名分で税金を使って自分たちの”ファミリィー利権”に一挙一動しているだけなのです。
ここでは『原発』をセールスすれば、誰が儲かるか、そのためにどのような
ビジネス構造が構築されているか?の”根幹”を知っておくべきなのです。
 ここにはこれまでの我が国における正力松太郎や中曽根康弘たちによって始まった
『原発』産業発展の”根幹”が政治家は替わっても、その”利権”構造は不変で継続されている
という事実です。そして、この周辺にあの”原子力ムラ”構造が構築されています。
 
 どうか、『未来とは自分たちのための事ではなく赤子や子供たちのためにある。』
ということをこの3年迎える事でより、忘れないでください。お願いします。
文責/平川武治;Corso Magenta, Milan:

投稿者 : editor | 2014年03月10日 15:22 | comment and transrate this entry (0)

モードから読む”裏と表”−1

 今年になって素早く動き始めた新たな『光と影』。
『世界は騙される事を欲する!』Sebastian Brant/15世紀ドイツ文学者「阿呆船」
 
 物事には全て『表と裏』が有ります。
 例えば、今、巴里で行われている今シーズンのコレクションのトレンドの一つにも
この『表と裏』が先シーズンからの継続トレンドとして有ります。表向きの表情と、後ろ姿の
表情の相違を着る女性の身体に世界観としてデザインする。
過去からこの手法もよく使われてきました。意外性やユーモアという世界観から
特意性に至る迄多くのデザイナーが試みました。
 この“一粒で二度美味しい”論法ではもう一つには“リバーシブル”という手法も有ります。
ここ数シーズン見え隠れしながら大きなファッション潮流にはならなかった。
却って、この手法は’60年代のような昔に流行したものでしたが、現在の様にモノの豊かさが
日常的になっている時代性では然程、大きな潮流にはなり得ず、造る側の”お遊び”程度になって
しまっているのでしょう。ただ、時代の経済環境や社会性によってもう以前の”機能性”や
”経済性”に委ねたイメージングからの”二面性”というコンテキストではなく、時代の表層と
深層構造が日常的に二面性の世界である事、その虚偽性、虚構性に気が付き始めた
リアリティーにたいしての所謂、”時代性”というコンテキストによってファッションの世界でも
デザインが為されている。
 ここでは僕が発言して来た、『もう時代はイメージからリアリティが生まれるのではなく、
リアリティからイメージが生まれる。』の現実が読める。
 ”二面性”というコンテキストの根幹は、“一粒で二度美味しい”でしかない。
ここに“愉しみ”が存在しているから魅力となり創造性が膨らむのでファッションの潮流に度々
現れてくる。しかし、過去をみても此のコンセプトが出る時代性とは決していい時代ではなく
不況時や不確実性が広がる時代に多く出たもので、現代ではそれに不平等性が加わった
時代性と読める結果であろう。
 なので、この“二面性”も最近では素材が持つ”表と裏”の“リヴァーシブル”ではなく
構造が違う“表と後ろ”の二面性である。即ち、着る事によって”表の見え方と後ろ姿の見え方”が
違うと言う”表層に於ける二面性”であり、ここには大きな相違が有る。
それは、隠された”二面性”ではなく見える”二面性”であり一種のフェイクを愉しむという
コンテキストが読める。僕が発言しているファッションとはの根幹である
”The fashionis always in fake.”がここにも理解されるであろう。
 現実世界においては、これを熟知し、巧く使い分けられる民族がこの世界で富と権力の
イニシアティブを執っています。何故ならば、物事の”根幹”/”二面性”を理解させられている
からです。ですから、彼らたちが先端を担い、富を築きその格差は年々増すばかりです。
“世界は一つではなく、その一つのモノには表と裏が在る。”
これを愉しむとは?どこに立つかの、富と権力の為の立ち居場所確保に尽きる。
 こんな時代性とは、ここでこのパリコレのトレンドを交えて、日本の新たなる『表と裏』
が表層化し始めた、今後”見えて来る二面性”を妄想して見よう。
文責;平川武治:巴里市にて;

投稿者 : editor | 2014年03月10日 01:46 | comment and transrate this entry (0)

2013年10月20日

瀬尾君のオークション結果とメールでのご返事と世界のアートビジネスとは、

 今回の倫敦での古い友人との再会と死。
時間の経過は残酷な場合も在ります。
それは自分が怠っていた何かが在る時でしょう。
僕自身が悔しくて惨めにさえなりましたが、
これが自分だったんだと後悔と
今後の可能性へ残された時間を向けるのみ。

 そして、倫敦での最後の日。
瀬尾君からたいへん嬉しいお知らせを頂いた。 
早速のお喜びをお裾分けして頂き、ありがとうございました。

 18日に終了したオークションの結果、
WORLD CHESS HALL OF FAMEの館長が15000ドル落札される。
この落札価格は同じオークションに出ていたA.マックイーンより断然高い値段!
そして、その主催者である館長が今回のシンポジュームのゲストとして招いた
ニューヨークのF.I.T.のVALERIE STEELEさんに寄付なさり、
瀬尾君の作品は今後、N.Y.のF.I.T.が保管管理されることになった。

 この結果の読み方は、
初めてのオークションで彼の”価値”が認められ、今後への可能性が与えられた結果であり、
これから世界のアート市場で瀬尾君の作品がアーティスト作品として流通されるという事実。
即ち、彼が創り出す”価値”とその作品としての”世界”がアーティスト作品として
ウエルカムされたということである。

 志しいずこか? 自己満足で他人の褌の上で踊っているしか仕方ない“バカの学校”の
お得意の”客寄せパンダ”行為或いは、お芸術ごっこではここ迄、辿りつか無い世界。
この違いは、『自分の創る世界に自らが”価値”を認めるか?スポンサーの為に創るか?』
の違いが根幹である。

 芸術作品に誰が価値を付けるか?の、この世界の根幹が解らないで
”アート”“アート”とのたうち回って“おアートごっこ”に勤しんでいる輩たちと
その周辺のファッション長屋のおばさんたちは
もっと、”アートとは”の世界を世界レベルで学ぶことである。

 この実際の世界を学びたい人は、
学ばなければならない多くの日本の”アートコンプレックス症候群”のお芸術家と
各種キューレターたちはこの本1冊を読むべし。
 『偽りの来歴』。

 この本は“眼から鱗”である。
所詮”農協アーチスト”のレベルでセコンダリーマーケットでイキがって居る
アート関係者たちよ、”世界のアート”ではここでもユダヤ人たちの独占立ち居場所。
いつまでも”笑顔と握手だけで儲けられる日本人さま”でいて良いのか?
彼らたちが構築した”世界”とは、”アートビジネスの世界構造”とは?の根幹を学んで欲しい。

 1983年以来、『ニンジンを売るのもお芸術を売るのも同じ。』という
豪快な独断と自由さによって新たな美術市場が構築された。
それも、アメリカの土地成金によってである。
Mr.Adolph Alfred Taubmanがその当事者。彼は合衆国におけるショッピングモール構造を
不動産業のソフトとして構築し”A&W”億を起業し億万長者になった成金。
彼がオークションハウスのあの” Sotheby's”を買収価格1億3900万ドルで買収し、
(当時のレート)その後、彼が為したことが
以後の『世界のアート市場』を現在の様のアートビジネスモデルに構築した張本人である。

 残念ながら、日本の美術市場の人たちはこの世界を学んでいない。
多くの美術館関係者も、キュレタ−志望のヒヨコたちも何も知らないで、
”展覧会企画”が出来れば、美術館で働ければという所詮、日本的なる浅はかな世界で
イキがって居るだけである。
この本には美術館の仕事とはも書かれている。
ただし、このほんの読み方と読み込み次第である。
この本の根幹を読み得れば、今後、『世界のアートビジネス』がどのような方向性で
成立するのかが理解出来る。

 これからのファッションの世界も『モードビジネス』と『ファッションビジネス』の
世界に”2極化”されてゆく。もう、その兆しと現実は動き始めている。

 世界は確実に動いているのだ。
この本にはその一方の根幹が明確に書かれている。

 もうソロソロ、”バカも煽てりゃ木に登る”世界でとやかく言うのは辞めよう。
またもや、ユダヤ人たちに“ネギ鴨”扱いされない為にも「学んで欲しい。勉強すべきである」


 瀬尾君のこれ迄のA.アライアさんの元での苦労と
そこから持った彼自身の自由さからの視点のよって作品を創って来た全てと甲斐が、
一つ報われた結果に。

 そして、今後の新たなる可能性へも。
奥様にも感謝ですね。

 これをスタート時点と励みとしてそして、バネに今後も、
思い切り”更なる狂気の沙汰”を彼方自心の新たな価値へ昇華するまでの世界を創造する為に
どうか、お気張りください。

 寒さへの巴里、ご自愛とともに
更なる“GOING YOUR WAY!"

 瀬尾君、すばらしさと興奮を共有させて下さって、ありがとう。
相安相忘。
合掌。
ひらかわ:

 蛇足ながら、
私事ですつ礼ですが、来月11月16日、
金沢の21世紀美術館で僕のトークの会を催して頂きます。
その折にはこの『モードビジネス』と『ファッションビジネス』の相違とこれからなどを
話す予定でいます。
もし、ご興味の在る方は是非、金沢へ。

http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=24&d=1731

投稿者 : editor | 2013年10月20日 16:22 | comment and transrate this entry (0)

2013年10月19日

ひらかわ流-2/最近のコムデギャルソンのコレクションの見方、感じ方、読み方。クリエーション編/’14年Paris S/Sコレクション論

 時折、東京へ出掛け出会う人たちの世代によるのだが交わされる会話が、年金の話、
がん保険の話そして、病気の話と異常気象の話若しくは、ガーデニングか旅の話。
多分、これらが僕たち世代が交わす会話の今様の当たり前な話題なのであろう。
 しかし、それなりの世代の会話にも然程、変化は無く加えて自らの自慢話。
最近は殆ど、新鮮な個人の世界観を感じさせるまでのボキャブラリィーを使った話が無く
貧しい会話で所謂、テンプレート化されたものが多い。
ここでも『自由』の根幹が実生活で発育不良化し萎えてしまっているのだろう。

 その現象結果が現在の”東京コレクション”の現実の多くであろう。

 そのような現実とそこでの生活が平和を象徴しているのか、諦めが顕在化しているのか?
僕のような生き方をして来たものにはやはり異界の会話になってしまっている。
従って、そんな輩たちとは再会も憚ってしまう。
 トンネルのこちら側の竹藪の中にいる方が冷静なる好奇心を未だ、引きずることが快感な
生活である。それは、決して快適ではない寧ろ、不便さの中の日常性を周囲の生態系の
摂理の中で心地よさを感じられるからである。

◎はじめに;
 デザイナー川久保玲もそんな“年金云々”などと言う現実からは途方も無くほど遠く、
かけ離れた生活を為さっているから、この様な『服で無い服』に拘ってしまった、
“豊かさ故の反抗心”と言う倫理観からコレクション発想が出来るのであろうか?
と、訝しい考えを持ってしまったCdGの先日のパリコレクションであった。

 僕の様に”捩じれて生きて来たものには”年金の話やがん保険の話を聞かされるよりは
僕向けである。以前、僕が約20年ほど前にインタビューした折には、
川久保サンと“捩じれて生きている”という発言を交わし合ったことを覚えている。
 が、彼女の場合は決して、それが現実の生き方ではない立場と環境からの言葉でしか無い。
元々、若き時代から彼女の実生活のクオリティは“スノッブ”。

 しかし、この様な川久保玲が発する世界がどれだけ通用するのだろうかとも
思ってしまうが、その彼女の強気に僕は魅かれ、より、好奇心駆られ乾杯をしてしまう。
 一方では、この世界が通用する世界が現存することの方に恐怖を感じてしまうし、
また、この世界が本意ある解釈の元に理解されてしまっているのだろうか?との
懐疑的な思いもある。そこに、最近のこのデザイナーが見せる『特意性』からの
『特殊性』とはを感じる。

 既にのべたが、このようなクリエーションアイディアとショー形式に変化し始めたのは
僕流に言えば『特意性』が変化し始めたこの3〜4年来の現実のショーである。
 この変化の要因とは、川久保自身の高齢化もあるであろうし、社員の増加もあるであろう。
何よりもモードにおける環境そのものが変化し、クリエーションの新しさも
変質してしまったという外的要因の現実性からでもあろう。
だが、”継続と繁栄”という実業の世界の義務感も他方では必在するからだ。

◎一つの造形の世界としての”ブリコラージュ”;
 また、結論的な視点から入ろう。今シーズンのコレクションの僕の眼差しは、
このデザイナーの発想になる従来からの『特意性』をより、表層化させた
コレクションピースの”ブリコラージュ”である。
 
 言い替えれば、ここにも、川久保玲流”アーカイブスのバリエーション”と
”アーカイヴスのブリコラージュ”と言う手法が読める。
多分、時代がここ迄来てしまったという迄のこれも新しさの手法なのであろう。
勿論、その時の”自心のアーカイヴス”がオリジナリティあるクオリティが高ければ、
高いほど、今後の利用価値を生む。
 であるから、現在に至る迄のこのブランドのクオリティの高さだけがその立ち居場所と
求める『特意性』に差異を付けられる迄の”ブリコラージュ”手法が可能となり、
『特集性』に耐えられる。

 東北大震災以後のコレクションで見かけるようななった僕流には“アトリエの瓦礫の集積”
以後、”エアー & 詰め物ボンディング”から”フラットクロージング”そして、以前から
時折出て来て彼女が好きなコンセプトの一つ、“エンゲイジングゲイジ”とも言っていい
であろう、”四角い駕篭の鳥”シリーズ。
 結局はこれらのこのデザイナーが提案して来た『特意性』の造形的ブリコラージュが
今回のコレクションに於ける『服で無い、、、』の重要性を委ねた根幹である。

 例えば、彼女の経験からは、先シーズンに発表した”フラットクロージング”は多分、
新しい領域で在ったであろうし、今回もその継続性と発展性が僕には一番美しく、面白く
その後の可能性も読めるまでのものであった。”エアー & 詰め物ボンディング”はご存知の
シリーズ。そして、“エンゲイジングゲイジ”は彼女の「創造の為の発想」の根幹の一つに
位置するものかもしれないと感じたのも今回であった。
若しくはただ、彼女が好きなパターンということも出来る。
 ちなみにこれらの『服で無い、、、』の販売価格を調べると、
一番、価格が高いのがこのシリーズであった。

 ”拘束されてしまっている自分”と“拘束されている他者”との対峙とパラドックスな眼差し。
この“四角い鳥かご”の中にはいつもそのシーズンのメインアイテムが着せられている様だ。
今シーズンは、ジプシー風若しくは、スパニッシュ風フリル付のゆったりとした分量の
ローブである。
 
 ここでは、”丸い鳥かご”ではなく、“四角い鳥かご”もキーワードであろう。
“丸い駕篭”=”コルセット”では、”パンク”ではないのである。

 このデザイナーの「創造の為の発想」は彼女が持ち得た実経験からの発想は現在では、
殆ど無い。寧ろ、「時代の傍観者的なる視点としての距離観」が大きく発想の為の発端として
働く。そこには、現代の若い世代のデザイナーたちとは”遅れ”という差異を感じる。
それは“身体性”ではなく“肉体性”で着るという迄の時代感覚と実生活感が感じられない。
『皮膚感』で着る服ではなく、『装飾性』を着る服でしか無い。

 そこで彼女はファッションビジネスの根幹である”トレンド”という”フレーム/安全パイ”を
大きい外枠としてコレクションを手掛け始めた。
 従って、今回の『服で無い、、、』コレクションも熟視すれば、今シーズンの”トレンド”
要素が程よく旨く含まれ、川久保玲流にこなされたものである。
—BLACK, PINK, チュール、不織布、プリーツ、フリル、フラット、I.J.プリント等々。

 この数シーズン来のこれらの『特意性』の継続の為の創造のエレメントは決して、
着る女性の身体や肉体性には感知していない。寧ろ冷酷に無視されてしまっている。
ここで、川久保の言う『服で無い服』とは着る女性の身体性を無視した服的なる形態をし
それなりの装飾性を幾つも附加させた”オブジェの世界”で在ると言える。

 このCdGのショーの数日前に、僕も『アズジン アライア展』を見せて頂く機会を持った。
従って、このショーを見ている間にどうしても同じファッションのカテゴリーとして、
川久保玲の世界とA.アライアの世界が重なりながら見え隠れしたので、
もう、このCdGのショーの造形美はやはり、単なる空恐ろしい“見得”的なる隙間が却って、
着る女性の為に作り込まれたものとしての感覚を排除された世界でしかなかった。

 そこには創られた造形としての”服”にナイーブさが感じられない。
寧ろ、個人的なる変らぬ”業”が屈折されて感じてくる。
“手”の温もりも感じられない。
―“ああしたい、こうしたい、こうして欲しい。” “ここをもっと、云々、、、、” 
 
 ここでは、“手”の温もりよりも聴こえて来るのは発せられる無数の言葉でしか無い。
悪く言ってしまえば、その多くが既に、貼付けられた装飾性のみが眼につき始めた
今シーズン。

 その中でも僕が興味を持ったのは、”フラットクロージング”による造形美であった。
このシリーズには美が感じられた。河井寛次郎を持ち出す迄でもないが、彼の美意識の一つ、
『醜さもまた、美』も理解出来る。そして、新たな展開による可能性も感じれた。
 後、救われたのは不織布によるインクジェットプリントによる極彩色のシリーズ。
即ち、色が極楽色で詰め物によって、より立体的に、今的な3D発想で構築された美しさと
新しさをも感じさせるものであった。
 
 また、毎回のコレクションで見せるストイックな迄に拘る幾つかの彼女自身が持っている
造形の為の素材の”タブー”も健在であった。
出来るだけ、”原素材”的なる工業素材とその感触を楽しむ迄に。

 従って、出来上がった世界は『服で無い、、、、即ち、オブジェ』の世界。

◎そして、展示会という実業の世界では;
 ショーで見せるのもは『服で無い、、、、即ち、オブジェ』
そして、展示会によって、見事にCdGが売りたい、CdGの売れる『服』を売る。

 この川久保のブランドである”CdG"は既に、前述の“デザイン力学”を熟知した数少ない
優れたデザイナーのブランドである。この“ビジネスとクリエーション”のテイクバランスの
現実はこのブランドの展示会ヘ行く事で多くの事が読め学べる。

 そして、この企業が死守すべき『立ち居場所』とその『継続』のためのビジネス的な
構造によって為されるバックアップ力の集約は“展示会”の根幹であり、培って来た経験と
努力による商品化の巧さとコーディネートアイテムのバランスの良い商品構成は、
変らず、世界のバイヤーたちからの信頼と人気を得ている。
 
 実際にこのような処方の『特意性』のブリコラージュ手法によるショーと
シーズン“トレンド”の幾つかの要素をCdGブランドの世界観ある“テイスト&クオリティ”を
確りと変らず根幹に為された”コムデギャルソンらしさ”を商品化している強みによって、
最近のCdGブランドの実売り上げは伸びていると言う。

 ショーはプレス用。”驚かして価値あること。”
展示会はビジネスバイヤー向け。”世界観を価値として売って価値を生み出すもの。”

 “The Chaos of Idea "は
死守すべき『立ち居場所』とその『継続』のための30年間の創造と販売の経験と
それらを現実化する為の努力によって、初めて全てが可能なるという『根幹』が
全て大切であると言う当たり前の認識を改めて学んだコレクションでもあった。
文責/平川武治:巴里−倫敦−鎌倉にて、

投稿者 : editor | 2013年10月19日 05:04 | comment and transrate this entry (0)

2013年10月17日

見に行けなかった、ANREALAGEのショーをDVDで見て交わす文+α-。

 森永様;
    今、こちらでDVDを見ました。

 DVDのみで失礼ですが、少し書きたくなりました。

前半はパリトレンドをビジネスを考えてのまとめ方。
後半はまた、日本素材の面白さを使ってのマジックショー?

“分量”が新しさを生むのか?その分量の”バランス”が新しさを感じさすのか?
“ユニフォーミズム”も今回のトレンドの一つ。
その場合のユニフォームに思いを馳せるこゝろの有り様とは?
トレンドだから?

 僕が発言していた”インダストリアルなテイスト”は現実ですし、
“プロダクションテイスト”もそうでしょう。

 この根幹は20世紀の人間が考えた”機械礼賛”観と、
21世紀の人間が感じ思う”機械礼賛”には大きな違いと差異即ち、
慈しみ感が違うものです。
 
 21世紀の人間が機械に念うこゝろとは機械文明に対する“オマージュ”でしょう。
機械への可能性を謳歌した20世紀との違いがここに在るでしょう。

 そこには既に、優しさと気遣い。
そこでは着る人への優しさとしての素材感と分量感。
ここまでのことが読まれていての”ユニフォーミズム”であればハッピィーですね。

そして、気になったのが靴。


 もう一方、この素材がどのような機能を持ったものなのか不明なので何も言えませんが、
その新しい素材を”自分の世界観”に落とし込むという作業が未だ、未熟な様に思われました。
素材の新しさを紹介するだけであれば、それは“情報”の世界。

 結局は、自分たちの”世界観”を美意識と共に服というモノに造形して下さい。

そのためにはまず、あなたたちのたちの”世界観”は共有出来るものなのか、
増幅出来るものなのか?その価値観は、根幹は何なのか?

その為に、どの様な服を誰に向けて創るのか?
その時には、どの様な素材が必然なのか?
その素材をどのように仕立て上げることが一番素材を着る人の為に生かすことか?
その時に、どの様な”さじ加減”を付ければ、より、着る人が自分たちの世界観の”価値”に
満足し、感じてもらえるか?
そこに、彼方たちの世界観による”美意識”がどのような世界観へ昇華させるか?

 後はビジネスです。
創った以上は売らなければなりません。
売れる服を創るのか、買いたくなる服を創れるのか?
その為のまた、ここでも、彼方たちの”世界観”が必要になるでしょう。

 人がお金を払ってモノを買うということはそのものに在る“価値”を認めて
その価値にお金を使うのです。

無いからモノを買う時代は終わりました。
欲しい”価値”の為にお金を使う時代です。
その価値がどれだけあるのか?価値あるものが創れるのか?
創ったシルエットの価値、センスでまとめたバランスの価値、気分の”価値”、機能の”価値”
そして、選んだ素材の”価値”、と技術の”価値”など、いろいろな価値がありますが、
どれだけの”価値”を自分たちの世界観で服というモノに表現し落とし込めるかです。
売る為にはこの自分たちであればどんな”価値”を着る人たちへ差し出せるかでしょう。
それが創造出来るかでしょう。

 価値のないものをそれらしくアートだと勘違いして創っている連中と
それら自分たちが知らないものが出て来ることでバカ喜びするファッション長屋の
おばさんたちには巻かれないで下さい。

 失礼ですが、DVDで見る限りの僕なりの変わらぬ総論です。

 そして、蛇足ですが、
『関係性を創ること。これは成熟の為の余裕です。
世界を知ること。これは価値観の為のデシプリンです。
己の立ち居場所を知ること。これは謙虚さを失わない証です。
そして、感謝することです。これは自分のための世界です。
勿論、お金を儲ける事。これは継続の為の水です。』

これだけをこゝろして、”覚悟”していれば、
いつでも”世界”ヘ羽ばたくことが出来るでしょう。
世界は逃げません。
自分が望めば自分の世界になります。
全て、自心のこゝろの有り様次第です。

 その為にどのような”自心の世界観と価値”を創るか?
その時に、何が出来る自心であるのか?
ここが『根幹』です。

 彼方に取っての”世界”とは何なのでしょうか?
世界とは只の”場”です。
それほど特別のものではありません。
只言えることはそれなりの”質”を持った『場』であることです。

僕は22日からは鎌倉です。

 彼方の現在の立ち居場所はその努力と共に立派な所に立っていらっしゃいます。
僕も好奇心強く彼方の立ち居場所を見続けていたい独りです。
ありがとうございます。

 再会が新たな興奮になる様に。
ご自愛とともに、ビジネスもお気張りとお励みください。
相安相忘。
ひらかわ:
合掌。
文責/平川武治:倫敦市にて、

投稿者 : editor | 2013年10月17日 22:59 | comment and transrate this entry (0)

2013年10月15日

『倫理』観が希薄になってしまったら人間の『品』が損ない始めます-6;

 また自然にやってくる”東コレシーズン”そこで観られるのは
『倫理』観が希薄になってしまったら人間の『品』が損ない始めるという
現実としての”ファッションゴッコ”。 

 『哲学者がモードに熱烈な関心をそそられるのは、
モードがとてつもなく未来を予感させてくれるからである。
 確かに、芸術が、例えば絵画の場合がそうであるように、
現実を我々が実際に知覚するよりも何年も前に先とりして捉まえていることは
良く知られている。』/『パサージュ論』[B1a、1]

 巴里在住、アズジンアライアのアトリエで7年間のアシスタント、
その結果、10年”VISA”を取得した瀬尾英樹氏の世界が感じ取れる始めての展観が
僕の嫌いな“ROOMs"で行われた。(嫌いな理由はいろいろある。昨年に僕の写真を無断使用し
その後の謝罪のこゝろが不誠実だからである。この企業の根幹はこのようなレベルであろう)
 年々、参加者が減ってゆくこの展示会イベント、なのに変わらない高額参加費。
補助金と援助金そして協賛企業からの合計と支出費用を差し引いても誰がどれだけ
儲けているかの解答は歴然である。が、続いている。不思議な世界である。

 さて、そんなレベルの事を書きたいのではない。
瀬尾君の事、作品であり、彼の世界観である。
そして、彼のお師匠、A.ALAIAの事である。
 
◎プロローグとして;
 東京におかしな集団がある。
瀬尾君の行動とその自らが選び取った”立ち居場所”と比較出来ない集団である。
 イタリアデニムカジュアルブランドDIASELの広告塔であり、彼らに去勢された
『犬の遠吠え集団』バカの学校。或いは、最も日本的なるムラ集団主義構造。 
“アート”と“ファッション”の世界の根幹の区別すら吟味されず、
所詮、”集団で長いものに巻かれろ”型人間の小衆。従って、『自由』が何なのであるか解ず、
”ファッションデザイン”がどれだけ人々の生活に直接寄与しているか、
どのような世界であるかも殆ど皆無。未熟なる経験と大いなる思い違いのスキルのみを
振りかざして幼い自分たちの立ち居場所をより特殊なる狭軌な状況の元でマスターベーションを行っているレベルの集団がある。
 
 また、この集団を褒め称える元編集者等否、ファッション長屋の世話焼きおばさんたちの
存在も摩訶不思議な東京という街のファッションゴッコ。

  なぜこのような”バカの学校”を引き合いに出したかと言うと、
今回の瀬尾君の“room's"展示へ殆ど彼ら集団は観に来ていないから不思議に想ったのである。
ここにもこの”バカの学校”の集団性がつまらなく古く見えてしまった。
時代遅れに既になってしまったアントワープの後輩たちさえ避けてしまっていた。
 人のモノを欲しがるというよりはパクる事が好きなタローが卒展の時に何を瀬尾君から
パクったのか覚えていないのだろうか?もう、忘れているだけ?
ここでも、『忘恩の徒となるな』を言いたい。“布団屋の息子”もそうである。

 よって、ファッションデザインの世界が何であるかも熟知していなく、
自分たちの遠吠えのみで決めつけた世界観で持ち得たコンプレックスである
”アートの世界”へただ、下心とい自己満旺盛にメディアや権威にそして
広告代理店に擂り寄って“他人の褌”でしか相撲が取れない、事が興せない、
責任を持たない輩たち。
そこにはアートの世界への価値観も持たず、”覚悟”も無く、自分たちが海外で見せつけられ
植え込まれた外国人コンプレックスとそこで染込んでしまったアートコンプレックスで
大いなる偏狭な”アートの世界”をただ妄想しているだけのセンス旧き島国小心者集団レベル。
 
◎瀬尾英樹のオークションと『A.ALAIA展』;
 巴里の小さなアパートで、奥さんと2人でA.アライアさんのところで厳しく、狂気に、
培ったスキルと技術を基盤に自分世界に”価値”を認める為に自心の自由さを大切な
こゝろの有り様として当然であるが、自費によって作品制作を続ける。
 後、3日になってしまったが、現在、瀬尾君の作品がアメリカの美術館から
オークションへ出展されている。ここでどのような結果が出るかによって、
彼の今後が美術市場でどれだけの”価値”を持った、立ち居場所になるかの
スタートラインなのである。https://paddle8.com/work/hideki-seo/21359-metamorphose
 このオークションには、Cameron Silver, Anne Deniau, Valerie Steeleなどが参加の
トークセッションイベントなどもあり、オークションには瀬尾君の他、Alexander McQueen, Charlie Le Mindu, Anne Deniauなどの作品も出品されているようです。
 今回の”World Chess Hall of Fame”の詳細サイト/
http://www.worldchesshof.org/news-events/event-calendar/event/2013/10/18/queens-gala/

 そして、今、巴里で一番の話題はガリエラでの『A.ALAIA展』である。
見事な審美眼と素材美で造形された”トルソー”の世界。
ここには“ナイーヴ”さが感じ取られパッションが存在する。
昔、多くを書いたのでいろいろは省略するが、
今回の展覧会で感じ、考えた事は『素材美と造形美の極限までの調和感』が着たくなる服へ
仕立てられ、着る女性のボディコンシャスな美しさへの挑戦でしか無い。
 先ず、彼A.アライアは皮革素材を主素材とした時代から本格的なクチュリエとして始めた。伸びが少なく正目逆目の織り目もない素材、皮をどのように着る女性をボディコンシャスに
着たくなる服に仕立て上げるか?その為に学び、自らが創作したトワレ術。
その根幹には彼が学んだ”彫刻”の世界が裏付けされている。
 次には、ここで身に付けた彼のトワレ術を即ち、トワレメイキングを
今度は伸縮性のある素材で挑戦を始める。
この時に新たに彼が知ったテクニックの発想は“張引力”のバランスである。
素材自体が持っている”張引力”と着る女性の皮膚即ち、皮の”張引力”との攻め合いとなじみ合というバランスと勘の調和が生み出すフォルム美である。
 そして、以後は彼が選び使う素材そのものが装飾性を”ボディーコンシャス”に
附加するだけの世界である。
 すばらしい『素材美と造形美の極限までの調和感』が作品そのものであり、
着る女性たちを当然であるがより、いい女に見せる服となる。
http://parismusees.paris.fr/en/exhibition/alaia
 このA.アライア展の正面に展示されているトルソーを観ると僕はいつも大和松尾寺の
”千手観音像トルソー”(秘仏/奈良時代8世紀)を思い出す。このトルソーと出逢ったのは
2011年春、白洲正子生誕100年特別展が世田谷美術館で行われた際であった。
「白洲正子 神と仏、自然への祈り」展
 また、ケ−ブランディ美術館でアフリカの木彫にもこれに類似のトルソーを幾体か
観た事も思い出す。
http://www.matsuodera.com/special.html
 
 もうひとつ、 琵琶湖守山市の蜊江神社の天部形立像(吉祥天)もこの類と感じ、
今僕は“トルソー”と”ボディコンシャス”が気になり始めている。
http://www2.city.moriyama.lg.jp/koho/040615/body2.html

 そして、このアライア展の影響が今後の巴里モードへどのような流れを生み出すか?
僕は愉しい思いを馳せる。
それは、また再び、”ボディコンシャス”が崩れてしまった”パンクボディ”から復活する
であろうと。その時、新たな”ボディコンシャス”に選ばれる素材とは?
もう一つ、今現在の若手デザイナーの誰が”ボディーコンシャス”を
一番旨く造形出来るか?気になり始めた。が、誰もいないだろう。
ここにもアントワープの悪影響が読めるし、その殆どが”ファッションディレクター”に
成り下がってしまった広告の世界が現在のファッションの世界の現実であろう。

◎自由の価値を知らない『センス旧き島国小心者集団』とは;
 僕が彼らをこのようにコキ下ろす原因の一つに、
”彼らたちの作る世界はその作り手本人がその作品に自ら”価値”を認めていない。”と
感じてしまう迄のレベルでしか無いからである。
 自由の裁量で創られる作品にはその作り手の”価値”があるから作品になり得るのである。ファッションの世界にも、アートの世界にもどちらの世界にも“ただ、中途半端”だけ。
その程度のレベル世界を『犬の遠吠え集団』で自己満足し合っている又は、
同じ傷を舐め合っているだけでしかない作品だからだ。
そして、折角の知性やスキルのその殆どが社会に直接コミットされていないし、
産業にも寄与されていない。教えるという立ち居場所を持ったなら、ヒエラルキーを
特権として“自己自慢と、自己宣伝と苦労話”だけは辞めるべきであろう。
従って、僕のような経験主義者から見ると、『最も日本的なるムラ集団主義構造』
或いは、『センス旧き島国小心者集団レベル』としか言えないのだ。

 本当のお芸術家になりたければ意気がりと思いつきと下心で只、作品作りに精を出さず、
自心の人間性を暴露させ先ず、人間として人間に対して律儀に謙虚であり感謝という
こゝろと共に堂々とした生き方を為すべきが始まりである。
 ここに彼らたちの『倫理観』がどのレベルで持っているのかが問われる。
 そして、藝術の世界の人たちに失礼のないような立ち居場所と行為と発言と
ディシュプリンがなされるべきであろう。ただ、お芸術の世界も現在では“セコンダリー
マーケット”が構築化されそこではしゃぎ廻って、アートスーベニーアのレベルを作品と
勘違いしている輩たちが殆どの自己満アート消費社会の住民が多い。
 ファッションの世界からそんなアートの世界を覗き見し、それっぽいものを他人に
作らせて芸術作品だと自己満足の世界で戯けているレベルの集団ではその最終目的駅へ
達するのは“銀河鉄道”以上、可能性が薄い。
 折角もち得たそれなりの”夢”と才能も只のそれなりの世界のものでしかない現実。
”勿体ない!限り? 全てに慌て過ぎてその立ち居場所を見間違ったライオンと案山子たち。”

◎エピローグ;
 そう、そろそろ発展的希望を抱いてこのカッコ悪い、宗教団体レベルの”バカの学校”も
解散すべきでしょう。嘗て、ヤマガタ初め、この首謀者たち7人ほどが僕の鎌倉へ押し寄せ、
”泣き”を言いに来たあの惨めなる集団性を忘れてしまってのご活躍。
ここにも彼ら流の『倫理観』しか存在しない。
 前述のような事を理解出来るこゝろの有り様と知性があれば、こゝろして独り本来、
自分が求めるべき自由な茨の道を持ち得た旧型300%の夢へ、独り旅立たなければ
余りにもただ、カッコ悪さを垂れ流すだけ。お世話になった安達先生や、エスペランサ学校
等に礼節を正して、ただ働きさせた生徒たちに感謝を胸に独立独歩を執るべきだろう。
”無理”をしている人は早死していますよ。
 そして、『忘恩の徒となるな』/聖書コリント人への手紙。

◎お勉強の為に;
 今読んだ本から一つ、”バカの学校”の生徒諸君は理解出来るかな??学歴をファッションの世界で振り回している輩たちであるから大丈夫であろう。

 『生物を模倣するのは経済発展の一形態なのだと思う。生物模倣に関心を持つには、
経済発展に関心を持つ事、力強い経済発展が続くよう望む事が必要だ。
でなければ、より良質な製品、安全な製法を求めるはずがない。
そうでなければ製品や製法を手に入れる事もないはずだ。発展について考えていて、
経済と生態系がとても良く似ている事に気づいた。
つまり、経済と生態系の二つに作用する原則は同じなのだ。』
「経済の本質 自然から学ぶ」/J.Jacobs著:日経ビジネス人文庫より。

 『死滅するものは何も無い。全てはかたちを変えるだけだ。』
バルザック/『思想、主題、断片』1910年 
文責/平川武治:倫敦市にて。

投稿者 : editor | 2013年10月15日 08:40 | comment and transrate this entry (0)

2013年10月13日

ひらかわ流、最近のコムデギャルソンのコレクションの見方、感じ方、読み方。/’14年S/Sコレクション版

 ひらかわ流、最近のコムデギャルソンのコレクションの見方、感じ方、読み方。
’14年S/Sコレクション版。

◎はじめに、;
  ショー終了後、会場から聴こえて来たざわめきの中からの会話にならない言葉たち、
”It was a really something!"
"What's a amazing,stunning & terrific!!"
"It was a little heavy but,she has a courageous,always."
"She never changed her ways of directions that was great!"
",,,,,,,,,,,,,,,,,,,,"
 その厳選され、厳密に考えられて座らされた大半の人たちは無口でその会場から出来るだけ早くという感じが今回のショー後の雰囲気だった。

 僕は今シーズンのショーを重く感じた。
空恐ろしいものが出てくれば、出て来るほどにノイズが響き始め、重く暗くある種の
恐ろしさまでを感じた。原因は幾つか、単純だがただ黒が多く出たこと。作品の造形要素が
’12年来ここ3シーズン程のブリコラージュであった為に、よく見ると 個々の作品に
それなりの新鮮味が無かったし、ショーに流れを付けずに断続化させ見せる形式を
取ったこと。そして、会場が計算された演出によって暗闇的であったこと。
"ARE YOU A ARTIST?"
"DO YOU WANT TO BECOME THE ARTIST?"
"JUST,IT'S A OUT OF CATEGORY OF THE FASHIONS CLOTHING,
SHE WANT TO MAKE THAT, ALWAYS." 
"I HAD NEVER SEEN ON THE CATWALK."

◎思い出した幾つか;
 そして、毎回であるがショーを見ている間に思い出したこと幾つかが。
向こう側のフロントローに座っているコレットのサーラやバイヤーたちに混じって、
いつもの様にA.アライアさんが、その隣にカルアさんがいらっしゃった。
そして、 僕は彼らの顔の表情の変化を見た。
もう一方で、先日オープニングレセプションをなさった“A.アライア展”の彼の作品群が
僕の脳裏に現れ始めた。
 そして、また一つ確か、’69年のW.クライン作の映画”ポリーマグー、お前は誰だ”の
1シーンをも思い出し始めた。この映画はその後、幾度もこの街のモードの世界で
インスパイアーされて来た。そのシーンとは、切り開かれた石切り場なのであろうか?
その凹みにファッション編集者たちが座らされて観る、パコ-ラバンヌの作品を思い出させる
アルミミュームを使った所謂“前衛服”群、モードでないモード。今でもそれらが
ランウエーに出てくれば新鮮さと驚きが在るであろう、マヌカンが素肌に着込む金属服。
それらの登場と共に唖然とした顔の観衆たち。即ち、ファッションジャーナリストたちの
表情。驚きと解んないものを見る恐怖さと憤りそして、感嘆。そこで、“凄い!!”という
形容詞しか出てこない直後感。
 約30数年を経て現実として、今再びこのような”モードでないモード”、川久保流に言えば、“服でない服”の登場が時代の必要性になったのであろうか?と思いを馳せた。
 もう一つは、僕が'90年代後半の10年間ほどをヨーロッパ各地のファッション有名大学の
卒業コレクションの審査員をさせて頂いた経験が思い出された。
その”立ち居場所”を変えてみると、まるで“School Show"である。
ファッション学生たちがこのショーをやったと考えるとその全て見方は変質する。
彼らたちはこれからのモードの世界へのある種の可能性を求めて自分の創造性を限りなく
ナイーブに求めて作品化する。川久保玲のコレクションにはこの熱き、青き可能性を秘めて
いるのだろうか?残念ながら”否”であろう。この答えはその後に開かれた展示会へ伺うと
理解出来る。ただ、”服でないものを作りたい。”と言うある種のプロフェッショナルな立場の ”業”からの行為でしか見えない。
 ファッション学生たちはこのショーを見て僕たちもと、勇気を貰った事であろうか? 
ここでも、”否”、今の彼らたちはもっと醒めてしまっている。このデザイナーの”立ち居所”を読んでしまっている。モードの現在点も知ってしまっている。

◎なぜ、今、川久保玲のブランド”コムデギャルソン”は
この様なショーをやらなければならないのか?;

 ’80年代も終わりの頃に、既に彼女の口から直接に聞かされた、
「パリコレは勿論、商売のためよ。だからリスクを張って、必至でやるのよ。」という
彼女の”オーナーデザイナー”のこゝろの有り様はこの30数年来、不変であること。
 僕が知ってしまっているデザイナー”川久保玲の凄さと偉さ”の根幹とは、
『自分の立ち居場所の確立とその継続』そして、その為の『距離間』である。
 即ち、巴里のモード界から”どの様に見られたいか?”から”見せたいか?”へ昇華し、
その持続の為の自分たちに必要な”距離間”である。
これが以後、この巴里での60回ほどのコレクションに掛けた想像力と情熱と努力と
そして、資金でしか無い。
 ”巴里のモード界からどの様に見られたいか?見せたいか?”これは多分、
川久保と山本がこの街へ“夢の共有”の為やって来た当時の”真の目的”でもあっただろう。
そして、社員たちは彼女の望む『立ち居場所』を共有出来る事にそれぞれの人生を
掛けたのである。ここには正真正銘の”実業の世界”が存在する。
その為、自心の業から発して、今では社員のためイコール会社の利益の為の持続行為、
実に立派なセオリーでありその実践である。この“持続継続可能”なる根幹を見失う事無く
このように『自分の立ち居場所の確立とその継続』を自分流の『距離間』を保ちながら
日本人として実行継続してゆく事のどれだけ至難な現実へ、いつも晒されながら
ここまでやって来た現在では、決断力ある唯一の潔いファッションデザイナーである。 
 異邦人デザイナーとして誰でもが持つ憧れの巴里へ山本耀司と二人三脚でやって来て
ショーを継続しながらこの巴里のモードの世界の構造を本格的には、耀司と別れて結婚後、
学び始め、自分のそこでの”立ち居場所”がなければそのブランドの価値が築けないということが解ったことが現在の川久保玲とその後のブランド”コムデギャルソン”の継続、持続可能の
根幹である。
 ではその『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその為の『距離間』とは?
そこにこのデザイナーが毎コレクション後、夫の通訳によって発する『アヴァンギャルド』『反抗心』『PUNK』『見た事もない』『塊に流されたくない』そして、『服でない服』など
という言葉がキーワードとなって常に発言されている。即ち、巴里のモードの世界における『特意性』であり、『意外性』とそのバリエーションとしての『特殊性』のモード化である。これらがこのデザイナーの常套言語となっているのだ。
 それなりにパリコレに興味のある輩たちの頭のいい人たちは巴里のモードの世界の根幹が”オートクチュール”であり、その最終目的は女性たちをどのように”エレガント”な
その時代の淑女たちに仕立て上げるかである事はお解りであろう。
ここには時代性と社会性に委ねられた一つの”規範”が存在する。
このフレームに見合った創造性が求められ継続しているのがこの巴里のモードの世界の
根幹であリ、この街が今なお、現在まで”モードのキャピタル”であり得る
由縁の”流れ”である。
 ’82年、ブランド”コムデギャルソン”がこの街でショーをした時のメディアリアクションは
凄まじいものであった。この凄まじさを現在まで”持続継続”する事で
『自分の立ち居場所の確立とその継続』の為の解答である事を、このもう一方で頭の回転の
良いデザイナーは気付き、彼女の”潔さ”が”覚悟と決心”を為せ、
現在に至っているのであろう。ここで嘗ての同胞との差がで来てしまったのも当然であろう。
 川久保が死守している『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』は以後、
年を重ね、シーズンを重ねる毎に新たな価値を生む。その価値は関係性から生まれる他者の
眼がその価値をより、増幅させる装置になる。この事を感知した川久保は以後、
自分のオーナーデザイナーとしての役割イコール、『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』の為に『特意性』を彼女自身のその創造性の根幹に精進し続ける。
そして、その『特意性』がマジックを生み出す創造性であり、『自分の立ち居場所の確立と
その継続』とその『距離間』そのものが”マジック-ポジション”となる事をも既に
熟知してしまっている事が日本人初のパリ-ファッション-メゾンであり世界のブランドに
成熟成長した根幹である。

 しかし、ここにも当然であるが”ビジネス”という世界のマジック即ち、”二枚舌構造”が
隠されていなければ成立し得ない。その『特意性』でファッション企業としての実績を
生み出せるのか?実商売として継続可能であるか?という問いである。
即ち、デザイナーに課せられた仕事のもう一つに、『売る為の努力』とともに、僕が良く
発言している、『粗利の取れるデザイン』や『儲けらるデザインアイディア』の創成という
”デザイン力学”が必需となる実業の世界への挑戦によって初めてこのマジックが功を奏する。
 当然であるが、もう一方ではこの企業はそれが、結果的に”日本的なるブランド構成”が
ビジネスの継続及び、拡大化の後ろ盾となる構造をも既に、巴里へ上陸する前に構築し、
それらのブランド“トリコ”を代表としたバックアップブランドからの売り上げと、
直営店ならびにFCシステムによる高粗利がオーナーデザイナーの”業”と『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』の維持と継続に大いに寄与した事は言うまでもない。

 もう一つ、この企業ならではのビジネス面における”特意性”がある。
それも、結果そのようになって行ったと言えるのであるが、やはり、結婚後のこの企業の
ビジネス戦略が大いに他の日本企業との差異を生んだ。
 世界レベルで”ファッションビジネスはユダヤビジネス”という現実を学びそのスキルから
今度はユダヤ人パートナーとの“二人三脚”が全く、高品位な日本発のファッション企業家へと驀進、邁進している。例えば、此れ程の高成功例は日本企業でも皆無であった
“パルファン事業”がある。同じ時期の嘗ての同胞、山本耀司もJ.パトゥ社との間で香水を
手掛けたが、これは見事に失敗し、撤退を1年も見たない間になされた。
(イッセイの香水ビジネスはこの企業のお得意である”ライセンスビジネスの一環であり、
香水の製造発売は資生堂であり、単純に言ってしまえば、只の”名前貸し”ビジネスである。) このコムデギャルソンのパルファンビジネスはコムデギャルソンフランス社の仕掛けと
その後の小規模なビジネスコントロールであるが、やはりここにも
”ユダヤ人シンジケート”との直接的な関係性がなければ成立しない分野でもある。
このパルファンビジネスの成功例と共に、この企業はより、ユダヤ人世界のファッション
ビジネスの佳境と中心部への接近という現実を生む。
従って、ブランド”コムデギャルソン”のコレクションに於ける、『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』は出来るだけ、巴里モードの中心軸から離れ、
そのビジネス構造は最早”ユダヤ人企業”化した立ち居場所でこの企業が執っている
”クリエーションとビジネス”のバランス化が絶妙な”二層構造”の元で成立された
他に類を見ない世界企業になっている。
 ブランド”コムデギャルソン”の『立ち居場所』とその『距離』は巴里のモードゲットーの
極限に位置している。この場が”マジック-ポジション”そのものであり、
これを持続継続する為の戦略と方法がこの様なショーをやらなければならない必然性である。

◎一つの造形の世界としてみた時には、;
 このようなクリエーションアイディアとショー形式に変化し始めたのは僕流に言えば
『特意性』が変化し始めたこの3年来の現実のショーである。
 この変化の要因とは、川久保自身の高齢化もあるであろうし、社員の増加もあるであろう。何よりもモードにおける環境そのものが変化し、クリエーションの新しさが変質してしまったという外的要因の現実性からであろう。
 この川久保のブランドである”CDG"は既に、前述の“デザイン力学”を熟知した数少ない
優れたデザイナーのブランドである。この“ビジネスとクリエーション”のテイクバランスの
現実はこのブランドの展示会ヘ行く事で多くの事が読める。今回のショーでは余計である。  ショーとしてのため計算され、構成されたショーでしか無かったからである。
ランウェーに勾配を付け、照明を落とし、天上にフローティングライトを取り付け、
それがゆっくりと揺れ動く下をマヌカンがゆっくりと歩く。黒い服を更に暗い空間、
ブラックボックスへ変質させる為の陰影を付ける。(つづく)
相安相忘:
文責/平川武治:倫敦市にて、

 次回は、
 ◎一つの造形の世界としてみた時には、;
 ◎結果としての展示会は、;
その結果、
『服で無い服』という発言の読み方までを。
お愉しみに!!

投稿者 : editor | 2013年10月13日 19:21 | comment and transrate this entry (0)

2013年08月16日

猛残暑お見舞いと共に、『倫理』観が希薄になってしまったら、-5;

『倫理』観が希薄になってしまったら人間の『品』が損ない始めます。
そして、『國体』が損ない始めます。-5;

 昨日は終戦記念日でした。
何らかのこゝろの有り様を自覚して下さい。
又、あの「FUKUSHIMA」から2年半以上が経ちました。
どちらも、“火”が元での災いです。
その”火元”を”風化”させないで下さい。合掌。
そして、この酷なる残暑をお見舞いもうしあげます。

◉『エコエティカ』という本に出会って;
 『エコエティカ』/生圏倫理学入門:今道友信著;講談社学術文庫刊:
 本書は、’60年代半ばに著者によって提案され、’70年代から国際的に通用する学名と
研究課題となって世界に注目されて来たものです。が、著者は世界共通言語によって
外国語で発表された関係で日本国内でのその後の反響が未だ不十分です。
(ほとんど黙殺されてしまっています。ひらかわ)本書は『エコティカ国際シンポジユウム』
が10年目を迎えた機に講演内容を元に出版計画がなされて’90年に発刊されたものです。

 本書の第4章の”道徳と倫理”の章で「火のミュートス」という項で既に、「原子力と倫理」の
問題が提議されています。20年前にこの書を多くの人たちが知って、読んで居ればという
懺悔の念しきり。
<エコエティカ>よりの引用、
『日本神話で火が出た時にどうなったか?イザナギとイザナミによっていろいろな神を
生むのですが、迦具土の神という火の神を生んだ時にイザナミは火で「ホト」を怪我をして
それが元で死ぬのです。
 火は動物に対して,人間の”象徴”でありました。その火が出て来る時に、何時も、
火をもたらしたものは罰せられたり死んだりしているのです。
 原子力も、大きな電気のエネルギィイでありますが、ものすごい火であります。
そう言う火を扱う人たちは、昔のままのモラルの考えでいれば罰せられるという事を忘れてはなりません。
(プロメーテウスにも同様のことが起こりました。略)

 ですから、私どもは本当に、まったく新しい考え方をしなければ、原子力を使うのを
やめなければならない、ということだと思います。まったく新しい考え方というのは
何なのか。何か企業をするときに、利得や利益のことをまず考えるというのは、
新しい考えではなくて古い考え、何千年も前からあった考えなのです。この力で自分の国を
守ろう、自分の敵を攻めようというのは何千年も前からあった考えです。そういう考え方を
捨てることができるときにのみ、人間は原子力を使っていいと思うのです。
 すなわち、今までよりも遥かに道徳的な人間でなければ、原子力は使えないと思うのです。
私は、原子力のことは何も知りません。しかし、誇り高く、技術者が、この装置ならば
絶対に間違いないと、人間の分際でなぜそういうことが言えるのですか。
壊れるかもしれないときに、どうしたらいいのかということを二重、三重に考えなくては
なりません。災害学と災害処理学がより完全に研究され、充分に整備されなくては、
この恐るべき火は使ってはならないのです。
 しかも、原子力の仕事にあたる人は倫理学を一度も勉強したことがない人がほとんどです。
それでいいのか。遅くてもいい、たんなる理論かもしれない、
しかし倫理学を学ぶことなしに新しい道徳の模索なしに、いや、古いモラルすら学ばずに、
科学技術の力を、ただの常識や法規や工学的知識や企業戦略で扱うというのでしょうか。
日本政府はなぜ哲学や倫理学を高校教育でも軽視するのでしょうか。
 倫理学と言う知識は、倫理学に対する情熱を持った学者たちがつくっていった書物に
込められています。そういう書物の一冊も読むことなしに、そういう仕事をしていて
いいのかということです。まじめに働く原子力関係の人は怒っても結構です。
何を言われても私は言いつづけます。謙虚に、謙虚に、倫理学の書物を一冊でも心をこめて
読んで欲しいということを。たとえばこの私の書物は、つまらない書物かもしれないが、
そこに倫理学の伝統と言う先人の哲学的いとなみと、未来へのエコエティカというわたしの
懸命の哲学的思索があるのです。それをくみとってください。』
『エコエティカ』/生圏倫理学入門:今道友信著;講談社学術文庫刊:第4章/6
          「火のミュートス」より抜粋。


◉こんな事を見始める; 
  僕にとって東京へ出掛ける機会とはかなりの時間、乗り物としての電車を乗る事です。
そんな、折に目にする光景で最近、気になり始めたのが車内のシートに座るという行為です。
 嘗て、僕たちが親や学校の先生そして、目上の人たちから教わった事は、
「乗り物に乗れば出来るだけ、子供たちは立っていること。空いた席に座っていてもお年寄や
産婦や躯の不自由な人たちが乗って来れたら席を譲って上げなさいね。」でした。
そして、これが出来ていなければ叱られもしましたし、席を無理矢理立たされたという経験は当たり前でした。
 ここ1年来、帰国する度に僕の経験とその眼差しからですが、停まった駅事に空席を
目指して乗り込んで座る人たちのその殆どが若者たちになってしまったようです。
彼らたちにとっては“席とりゲーム”感覚なのでしょうか?車内に乗り込んで空席を目指し、
座り、すぐに、ケイタイを取り出してというパターンがその殆どです。
周りの乗客の状況には多分、無関係で座るそして、自分のケイタイ世界に入る。
(その大半がメール確認かゲームをしているのですが、)お年寄りが乗ってこられても
関係ない。最近のお年寄りはその姿格好では判断出来ずらいから余計なのでしょうか、
ケイタイを始めるともうシャッターが下りてしまうのだろうか?そこが、”優先座席”で
あっても容赦なしなのです。又、プッシュチェアー離れが始まった幼子たちも一席を貰って
お母さんの横に座り、その親たちは子供たちがはしゃぎ廻る事には注意をしても譲席には
無頓着さ。
 僕は確実に高齢化した。だから、利用する車中のこのような、ケイタイ-ゲーム社会以降の
光景が気になってしまう。彼ら、彼女たちの親とはおおまか、僕の子供世代たちであろう。
このジェネレーションギャップによって失われたものは大きい。少し前迄であれば、寧ろ、
若者たちは立つ。座る事そのものがカッコ悪いと言う風潮があったはずだが。無論、
現代の高齢者たちは余程の高齢でないと座りたいと思わなくなっている事も確かではある。
が、ここにも『倫理』観が風化している光景が読める。
そして、新たな科学技術とモノと人間との関係における『倫理』を考える必要性も読める。
ここには、何も”原発”だけではなくもっと身近かなモノとの新たな関係性の再確認がある。

**
◉プロローグとしての現実なることを一つ;
事実から予知出来るこれからの時代とその社会性;

  幾つかの事実としての人口推移を見てみよう。
事実-1)2025年には65歳以上の、所謂高齢者と呼ばれる人たちが日本人人口の    
    65%以上になる。
事実-2)2050年以降は日本人総人口は現在より、9500万人に減少する。そし 
    て、労働人口は4228万人に減少する。
参考;人口推移/厚生労働省/www.stat.go.jp
 結果、高齢化社会の拡大化と少子化現象により僕たちの國そのものがこれから”虚弱体質”
国家になる。それに加えて、自民党が政権を取った現在、今後の政治は彼らリーダー世代の
ファミリィーメンツ政治が行われ、国内の時代性は『虚弱体質国家のより保守化の進展』と
言うコンサヴァティブで囲われた自由を望む時代が高齢者たちを軸性として継続するという
読みしか出来ない。
 今後の日本國は対外交にしても、世界では発言権無く大国化を余儀なくされ、もう既に、
アジアでのイニシティアティブも取れない。嘗ての、大東亜経済圏の夢は勿論砂上の夢、
そして、TPP交渉加盟によって今後の経済基盤のその大半は外国企業が美味しいところを
持ってゆくと言う気骨無き国家状況を迎えるしかない。
 例えば、『憲法改定』という表層とアメリカの軍事産業への寄与という裏層、
この表裏一体構想の根幹も何ら政治家が執るべき『倫理観』無き責任不在。
嘗ての郵政の時と同じく、自分たちの立場を利用した”ファミリィー利権”と
”ファミリィーメンツ”の為の政略政治。
 国家という環境内部がこのような「個人の夢」で抗争化されればされるほどに
善良で勤勉である内側に置かれた国民の動きは「集団の夢」へ託する。
新たな国民としての若い世代人たちは自然にこのベクトルへ彼らたちの『気概』を求めて
向かうであろう。

***
◉新たな世紀の違いの確認を;
  「『新しさ』は近い将来の人々の生活環境に新たな可能性をもたらすものである。
一方、『変種、変型所謂、バリエーション』は時代の欲望をより、末梢的にまやかし
細分化するものでしかなく、両者の間にはその“根幹”が在るモノと無いモノの相違でしか
無い。」

  もう既に、21世紀は13年と7ヶ月が過ぎました。
地球上ではそして、日本でも今世紀になってからたくさんの想像を絶する想定外な出来事が
まるで、何かを警告するように自然界を軸に起っています。
 そこで、もう一度、20世紀と21世紀の相違点をそれぞれの根幹から憶い興し、考え、
この相違性から今後の時代性とはを再考してみようと。そこでのランディングポイントは、
先ず、W.べンヤミンの『パサージュ論』です。

◉「個人の夢」から「集団の夢」へ;
 モードとはその存在そのものが資本主義であリ、資本主義の産物である。
プロレタリア社会におけるモードは考えられないとされていた。
その社会においては、各種のユニフォームであればいい社会性である。
フーリエもこのモードについては充分に彼のユートピア思想の中では論じていない。
 しかし、21世紀、新たなる”中国”の登場によって、彼らたちの生活状況や環境は如何で
あろうか?ここにはもはや、”プロレタリア社会”におけるモードの存在が認められるまでの
現実である。ここでは、もう既に、モードはプロレタリア社会を新しさとして味方に
つけ始めた時代性と読む。

◉イメージからリアリティへ即ち、「個人の夢」から「集団の夢」へ;
  それなりの物質的なる豊かさと高度なるイメージングを情報社会がもたらした広告産業
によって享受してしまった現在の中流階級者たち。
 そんな彼らたちは先ず、価値観が変化した。所謂、「モノの価値」から「行為の価値」や
「プライドへの価値」へ即ち、『気概』を求める価値観が一般化し始めた。
もう、イメージよりも持ち得たリアリティの方が愉しいという迄の時代。従って、この様な
時代では、個人が持った「夢」は最早、嘗ての様に国家や社会をより、豊かに出来ない。
國力が弱って来た時代性では持ち得た自分の世界観や技術やスキルを持ってどのように
社会にコミットするか?又より、産業に寄与するかが必要な時代性となる。
そこでは「個人の夢」は既に、「集団の夢」の方向へ委ね始めている。
 「個人の夢」を持ち続け、それに挑戦するのであれば、その夢が時代を動かすまでの
クオリティとキャパシティとエネルギィイそして、その為の覚悟と責任所在としての
『倫理』観も必然となる。個人レベルのアートコンプレックスがその「個人の夢」であれば、
そんな夢は所詮、「自己満足な遅れて来た夢」でしか無い。
 近代デザインを提唱し教育において確立した、『バウハウスとその運動』が’30年以降
当時の新大陸、アメリカ合衆国の時の”ニューディール政策”との絡みによって工業化国家を
目指し、新たな中産階級を生み、国力を増す為にデザインの役割と成果が国家に大きく寄与
した時代を思い出さなければならない。1935年に行われた“N.Y.世界万国博によって見事に
20世紀の『インダストリアルデザインの時代』がプレゼンテーションとプロパガンダされ、
ここに始めて”近代デザイン”が確立された。以後、デザインの効力とデザイナーの存在が
大きく影響し、一人歩きし始めた。(日本においてもデザイナーという単語が一人歩き
し始めたのは’60年代終わりを待たなければならなかった。)
 時代の読み方の一つとして、新たな國力を育む為に興したあの”ニューディール政策”の
工業化時代と重なり始めた現代という時代性。即ち、『集団の夢』が新たな生活に可能性を
もたらすと言う迄の認識。
 今、巴里で新たな流れになり、この流れが日本にも来始めている。
それが、“ACNE"などで代表される、『トレンドコレクション』であり、
“サンチェ出身-ブランド”/マージュやサンドロやクーポルが好調なビジネスをしているのか。
EUのモード学校の優秀な卒業生たちが近年は大手メゾンで働きたくその競争率が凄いことも
由来した時代性である。
 そして、ここでも『時代性のリヴァース』が始まったと読める。

◉新たな世紀の違い;
  20世紀の終わりにPCの登場によってもたらされた新しさとは何であろうか?
これは20世紀と21世紀の単純なしかし、根幹的な違いである。
 20世紀とは個人の知識や技術をどれだけクローズドする事。
その結果、それらの”利権”によってビッグビジネスが展開出来た時代性があった。
しかし、この21世紀とはPCを稼働する事で生まれる、“オープンリソース”と
”パーソナルリソースイング”が新しさである。”僕のものはみんなのもの”の時代性である。
個人の知識の集積化はPC以降最早、全てがオープンリソース化されてしまった。そして、
ここでの差異は個人が持ち得たリアリティそして、エピソードとノスタルジアを
”プライド”と発想する”パーソナルリソース”でしか無い。
 20世紀のファッションの世界とは基本的には商標権がなく、代わりに”トレンド”と言う
新しさを産み出すサイクル構造の世界である。依って、人が創ったモノをいち早くパクって
自分のモノのように”イメージ”という包装紙によってラッピングし商標登録したブランド
ビジネスが一世を風靡し資本主義における消費社会構造をより強靭にした。
ここには、若しかしたら『植民地政策主義』がこの構造の根幹に多いに寄与したであろう。
他民族の造ったモノを白人であるからと奪って来て自分たちで見せびらかし愉しみ
ビジネスの商財にする。そこに“エキゾティズム”とか“異文化”を持ち出しての変わらぬ
白人優位主義的なる芸術志向論。ここでも”イメージ”の優位性は必然であり存在した。
 現代という情報消費社会ではそれぞれが持ち得た情報と消費という行為の”リアリティ”に
よってそれらのイメージ群も又、瞬時に消費される。この消費力が全てを優先して社会が
パワーフルにそれなりの豊かさを生むまでの構造が構築されてしまっている。
この構造は特に日本が世界の一歩先を行っていることは確かである。(ここにしか、
現代日本が世界に誇れるリアリティは無い。)
 従って、”社会にコミット”出来た集団だけがその夢を果たすことでパワーフルに豊かさを
生むという図式が読める。
 この『集団の夢』の現実化とPCの発達と情報量によって、誰でも興味ある人たちへ
開かれたオープンリソース。即ち、誰でもが”作り手”に成れると言う「夢の集団」化も
この21世紀の今後の面白さと新しさである。
 多分、デザイナーという職業とその職能は今ほど必然性を持たなくなる。
寧ろ、”デザイナー不要論”さえ出る可能性の時代になろう。(これに付いては次号で、)

  豊かさと言う浮力と新たな科学技術の発達による商品群の登場によって、
それまで”閉じられて”いた全てが今後、より究極のオープン化という時代性へ。
そこで持たなければならない「倫理観」とそこで興り得る「可能性」が新しさの違いであり、
時代の差異としての『ヴァーチャル』が産み出す『リアリティ』と言う新たな環境と構造。
文責/平川武治:


投稿者 : editor | 2013年08月16日 22:52 | comment and transrate this entry (0)

2013年07月15日

『倫理』のことをとやかく言うのは時代遅れだろうか? ”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−4”ー

 ”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−4” 
  『自然が環境であった人間に於ける環境と、技術が環境となった場合の人間の環境とは
相違しているのではないか?なぜかと言うと、環境は関係を変容するからです。』
 『これは結局、従来の倫理学は対面倫理学―顔と顔とを面し合っている倫理学―
であったがその対面倫理の限界が明らかになって、倫理は遠隔操作の及ぶ非知覚的距離に
於ける行為と関わりを持つようになって来たと言う事です。
 技術、生産はそれを媒介として不特定と多数の人々との見えざる関係を結ばしめる。』
『エコエティカ―生圏倫理学入門』より、今道友信著/講談社学術文庫刊より;
 *
 巴里で思った事を少々。
 今の巴里は既に、バカンスシーズン。
それは、この街の住民たちが入れ替わるシーズン、近郊のEU諸国の家族連れが目立つ。
それに未だに増える中国人が目立つ。 

 この街を訪れる外国人観光客が増えるシーズンになると働きがいが出て来る商売に
メトロのスリがある。メトロでのジプシーの子供たちによるかっぱらいやスリ行為である。
 彼らたちは4〜6人ほどが集団になってメトロの列車から列車へ、改札出口付近で仕事を行っている。
必ず、子供たちであるという条件がある。捕まっても少年法ですぐに釈放。
それに、彼らたちは巴里市郊外にイミグレーとしているパスポートを持てない連中である。
巴里で仕事を行って、郊外の所轄署でお叱りをうけるという構造が出来上がっていている。
だから当事者たちも然程、犯罪意識が無い。ジプシーの子供たちの通過儀礼的行為である。
結局、観光客が狙われて、観光客がとら取られ損という繰り返しである。最近では形式上、
日本語のアナウンスもメトロの各駅に入るようになった。
 
 今回発見した面白さはそんな彼らたちのファッションである。
もう、そんな彼らたちでさえ”ファッション”しているのである。
嘗ての彼らたちは未だ”フォークロアファッション”であった。
見ると、彼らたちはジプシーだ!という事が雰囲気も含めてすぐ解った集団であった。
ところが、今回は彼らたちに会うと、もうすでに”ファッション”を着ているのだ。
だから、彼らたちはどこから見ても周りから浮いて見える事が無くなった。
 彼らたちも“集団の夢”のフレームの中で生活が出来る迄の時代性になったのだ。
このリアリティは僕なんかはもう、金鍍金なキャットウオークを見るよりも痛快。
そのファッションの現実の面白さとして、改めてファッションの機能と役割を愉しく、
面白く、この街の新たなリアリティとして現実に見せてもらった。
 これは”豊さ”が日常生活への新たな可能性を生むという現実?そして、ファスト
ファッションの発展化?の現実だろう。きっと、彼らたちはファッションの凄さを、
面白さを、愉しさを実感している事であろう。こんな格好をすればより、仕事が巧くゆく
という事が解ったのだろう。

 これに似た事がこの街のリアリティにもう一つある。
ベルビル界隈やサンドニ界隈に“中国人売春婦”が目立つほどに仕事に勤しむ姿を多く、
見かける様になったのも最近である。彼女たちも、その着ているファッションが変化し
始めている。歳に関係なく、いわゆる、“ファッションセンス”がいい娼婦たちは忙しそうに
働いている。ここにも、ファッションの本質と王道が現在の”路上”においても
継続されている。

**
 ある、テンプレート、
 モードのキャピタル、巴里も20世紀末期の日本人が賑わったこの街が今ではすっかり、
本土から進出して来る中国人たちと入れ替わってしまった。
’85年来からこの街でのモードコレクションを見る為に訪れ、棲み始めた僕にはその後、
この街のモードの人々の多くがユダヤ人たちであり、彼らがどのように自分たちの
ビジネスチャンスを世界レベルへ拡大してゆくかの、その時間と行為の繰り返しに
ある種の”テンプレート”が幾つか読める様になった。
 この時期はモードの世界が”新境地”をディスカバーリングし、大いなる富を求め始めた
時代だった。クリエーションとビジネスがバランスよく社会に寄与していた時代でもあった。
 結果、余計に現実としてその事実の中で僕もいろいろな体験と彼らユダヤ人たちと関係性を
持ち得ることが出来た。自分たちのビジネス発展への更なる可能性を多くの商才と才気
豊かなユダヤ人が日本人社会に求め、その直接の“OPEN DOOR"の把手に日本人女性たちが
ターゲットになった。折からの時代の風は”キャリアを積み、自立出来る女”の登場であった。
 自国のバブル経済と本人の多くは異性問題や仕事関係のノイズから自分を守る為、
キャリアを持つために所謂、新たな人生へのチャレンジを、その為には過去を消去したい、
”リセット”する為にこの街に憧れてやって来て語学学校で3ヶ月から1年ほどの語学を学び
少し、日常会話が出来ると次は、異性友達が出来る。当然だが、彼女たちはこの街の
ファッションに憧れ、学んだ中途半端なフランス語を携えてその周辺をうろうろした。
それが彼女たちにはカッコ良いと思えた時代でもあった。
 この様な女性たちはファッションユダヤ人たちの格好のターゲットとなり’90年代以降の
彼らたちのブランドビジネスの発展に、その大いなる日本人の“パワー”?を振る舞った。
そして、20年近くを経た現在、この様な日本女性たちと現地人の離婚が増加している。
滞在許可の問題、子供の成長そして何よりも、経験等によって外国でも生きてゆく為の
面白さと強かさを備えたからだろう。一方、“リセット”を終え帰国した連中も
当時のバブル経済の流れと共に、巴里留学を云う来歴を携えて”外資系”企業へ再就職を
果たし新たな”キャリアある自立”した生活を強かに生きる。

 この数年の巴里ではもうすっかりこの様なテンプレートは日本人に変わって、中国人が
その勢いを定位置にして主人公になってしまった。ファッションユダヤ人たちは
’90年代迄で構造化された日本とのビジネス構造とスキルをまったくの手本として、
もう彼らたちの本心は“中国”に有り始めた。
 嘗ての、彼らたちの手法を中国人相手に先ずは試みる。
そして、日本人と中国人の国民的性格とキャパシティの違いや『倫理観』の違いと
スタンダードの複雑さで戸惑い始めたユダヤ人たちも既に現在では現れ始め、
21世紀型のファッションビジネスへと、これからが新たな修整時期へと入ってくる。
 デザイナーの立場もそうである。ここ数年来迄、日本人デザイナーたちへの好奇心ある
眼差しは嘗て、あれ程に騒いだはずだったのに、今では皆無である。例えば、昨秋から
若手プレタポルテデザイナーたちを十人ほど集めてサンディカがその大半の費用と
広報をし、始めたサロン展示会「APARTMENT」にも日本人は入れてもらえなかった。
勿論、該当する日本人デザイナーがこの巴里には少ない事は事実である。概ね、ユダヤ人と
中国人で構成されていた。僕が思うこのプロジェクトに該当する日本人デザイナーは
この機会を与えてもらって次なるステージへ行く為のUNDER COVERでしか無いと思った。
が、多分このプロジェクトをプレスがU.C.を推薦する迄に至ったのであろうか?という
初歩的疑問しか無い。例えば、彼らたちはあのCdGがファッションユダヤ人たちの
”仲間企業意識”へ広がっただけで十分なのである。後は、今では“SACAI"の様にどれだけ
儲けさせてくれるジャポン-ブランドがあるか?でしかなくなって来た。
ブランドに“文化”が無いものは、売れる時に売リ、儲けられる時に儲けるブランドの一つで
あればいい。弱肉強食の世界だ。

***
 気が付けば、最も”嘗ての、農協的集団としての、
 そして、今年のあのイエールコンテストでも中国人新人デザイナーの大歓迎会であった。
言っておくが、一部の世界知らずたちが“IT'S"というコンテストをネタに
郎党を組んでいるが、このコンテストの”育ち”はそのスポンサー企業の広告宣伝の為の
客寄せパンダコンテストでしかない。日本人が受賞する時は本体企業の日本ビジネスの
業績が芳しくない時である。
そんなコンテストに出す為にタダ働きさせられてイキがっている、ここにも日本人特有の
優しく優柔不断で覚悟なき、世界知らずな、馬鹿な学校郎党が出来上がってしまっている。

 もう、「個人の夢」の為の時代は終わってしまったのである。
「個人の夢」の成就が社会を豊かにした時代は終わってしまった。
無論、彼らたちやその周辺のリタイア組の大学講師をしているB層的輩たちには
以下の事は殆ど、解らないであろう。
 
 今、なぜ、”モダンデザイン”の誕生期を思い起こさなければならないか?
デザイン”という言葉が一般化し始めたのはいつ頃かも知らない輩たち。
今、なぜ、『uniformizm』なのか?なぜ、”コスチューム”や”舞台衣装”が面白いのか?
今、人気のあるブランドとは?"I.Marant"や”ACNE"そして、“A.P.C."や“KITUNE"が、
あの”PLAY"が売れているのか?
今回のジュンヤのメンズコレクションを見ても解るように、“コラボ-デザイン”の限界は
なぜ今頃来たのか?
そして、巴里のモードは“サンチェ出身-ブランド”/マージュやサンドロやクーポルが
なぜ、そのビジネスを延ばしているのか?
なぜ、“R. Herman"などのライフスタイリングタイプのショップが売れて
今迄のセレクトショップやD.V.S.M.GINZAが終わりかけているのか?
なぜ、あのラルフローレンの売り上げが世界規模であれ程迄に成ったか?等など、、、、、、

 これらも解らず、リアリティも持ち合わせていなく、この時代観が感じられず、
このリアリティが読み込めないのなら、彼らたちが大好きな、ご近所芸術ゴッコ作品も
排卵出来ないであろう。また折角、登った教壇でも”昔取った杵ずか”しか語れないであろう。
 
 ファッションは、J.コクトーも言っているように未だに、時代の“逃げ足”が速い。
その持ち得た”早熟さ”で既に、『個人の夢』から『集団の夢』の時代を奔り始めている、
芸術や建築よりも、誰よりも早熟に。

 ここがファッションの面白さであり、全てである。
僕が未だ、愉しく楽しんで居られるのもここに根拠がある。
これがずれてしまったら、僕はモード評論廃業である。
 
 ファッションの世界の根幹の一つである「イメージ」が「リアリティ」と逆転してしまった
’90年代末期、イメージがリアリティを産み出せなくなり、反対に持ち得たリアリティが
イメージを産み出す迄に至った時から、この「個人の夢」はもう終わり、
変わって『集団の夢』が多くを語り始めたのだ。
 アイロニーであの映画『ZABRISKIE POIT』の有名なエンディングシーンの3分間を
ピンクフロイドのサウンドと共に愉しくクールに思い出そう。
 
****
 既に、”2等国”に?
 この現実は既に、ファッションの巴里でも僕たちの國日本は“2等国”に成り下がって
しまった風景の一つとしてこの様な中国人の進出が有る。
 今、それなりの彼らたちの思いは”願わくば、中国に於けるCdG”のようなブランドを
見つけられるか?育てられるか?自分たちが組めるか?がある。中国デザイン、中国生産
そして、ワールドワイドなビジネスが可能なデザイナー若しくは、資金力とブランド力ある
クオリティ高き企業を捜せ!!が現実なのだ。(現実は蜃気楼の如きであろう、
CdGはCdGで終わりであるからだ。)
 これが現在のユダヤ人たちと中国人たちのファッションビジネスを通じての経済的
絡み合いの一つの解り易い現実である。そしてその後ろに、ポリテカルなそれぞれの下心が
見える。『文化は武器』というスキルを持っての”世界規模”という発展である。
その本心は嘗ての『植民地政策時代』を彷彿させ、殆ど変わっていない。
国政が前に出てくるか、民力によるかの相違でしかない。嘗て、日本をある種の
『ファッション自由居留地』とする為に構造化されスキル化したこの手の“テンプレート”は
もはや、中国人専用に入れ替わってしまっているという現実が今の巴里である。
この“テンプレート”のキーワードは“フランス語という外国語によるコミュニケーション
ツール”と”外国人コンプレックス”という古いものでしかなかった。
 そして“中国”の次に待ち受けている大きいターゲットは“AFRICAN BLACK"の社会”である。
嘗て、ファッションが持っていたファッションの夢としての「個人の夢」の時代は
もう遠のき、この様な世界迄に、「集団の夢」として広がって来た、
『イミグレーターたちがターゲット』と言うこの国のリアリティ。

*****
 そして、もう一度、「個人の夢」と「集団の夢」について、
 今、ファッションに関わりたい人が考え思い悩む事とは、「集団の夢」に対しての
個人の関わり方である。どのように自分が学びもち得たスキルと価値観を持って
”実社会にコミット”するか?そして、産業に寄与出来るかである。
いわゆる、”恩返し”思想である。そして、國を想うこゝろが有るか?の責任感である。
 その為のこゝろの有り様が必要である。
その場合の”覚悟”が、”勇気”がどれだけ有るかでしかない時代性である。
そんな現代と言う時代性に未だ、「個人の夢」に逃げ込んでむやみにデザイナーぶっている
覚悟無き輩たちの哀れな自慰行為そのものと自己肯定。
そこには自心のリアリティ、経験から生まれ持ち得た『倫理』も感じられない
大半の輩たちである。大いなるズレからの自己肯定による“他人のプライドに縋り付く
自惚れ”集団化、ここでは所謂、“礼節”と思いやりが欠如してしまっている。
家庭教育がなっていなかったのであろうか。それ以上の、自分たちのコンプレックスな
下心の為の気骨なき、”米つきバッタ”ばかりである。
こんな”馬鹿の学校集団”を一緒になって煽る一部メディアや教育関係者の貧しさは
もう、今更ではない。
 ここでも『FUKUSHIMA』を忘れてはならないはずだ。

 もし、ファッションをこれからも論じるならば、「個人の夢」を弄くり回しても
終わっている。現実離れをしてしまった時代遅れであり、論じる側の良くある、
インテリ-マスターベーションでしかない。
あのオウム事件のインテリと呼ばれた輩たちを、
宗教本を読んで宗教を解ったと思い込んでいた教養ある彼らたちを思い出してしまう。
 ファッション論を報道された見え透いた虚実/如何様/イメージを元にして、
リスクを持たぬ自己肯定論説は所詮、そのレベルでしかない。
 この実社会の現実、”リアリティ”即ち、「集団の夢」を自らの立ち居場所によって実感し、
スキルと眼差しでコレクションと読み合わせをすると言う持つべき”リスク”を持たなければ
もう、逃げ足が速いファッションは論じられない。
即ち、東京に居て、巴里のモードは論じられないという事である。極論すれば、
東京の生活というリアリティがあれば東京のファッションは論じられるという事である。
そんな時代が今である。与えられた、求めた”情報”を手段として自分のリアリティを
進化させてゆく。若しくは、与えられた”情報”を鵜呑みにしてそこで論じる。
この違いであろう。

 3年目になる日本人はあの『FUKUSHIMA』から何を学んだのだろうか?
「集団の夢」が余りにもお粗末であり、如何様ばかりだった事を学んではないのだろうか?
 これをこれからの若い世代が立て直してゆかなければならない。
彼らたちはもう、行動をし始めている、彼らたちの本能で既に! 
 ここに、新たな『倫理観』や『エコエティカ』思想が勇気と力を与えてくれる。
 「個人の夢」でファッションを論じても所詮それは既に、通過してしまった絵空事、
子供の書いた絵本。自分たちの生-生活場所である「集団の夢」からファッションを
論じ始めなくては、もうそのような時代なのである。

******
 巴里でのもう一つ、
 もう『PUNK』は起こり得ないのである。
あのS.メンケス女史も、メトロポリタン美術館で行われている”PUNK展”についての論評は、
”全てがゴッコ”になってしまたのだ。それは『生社会』が不在であるからだろう。

 今シーズンのCdG,H.P.のショーにしてもそれが云えた。
ファッション誌的カッコを付けて言ってしまえば、
「ソフュスケーテトされてしまったパンキィッシュコレクション。」
巧いこなし方であり、まとめ方である。が、PUNKでは無い。
やはり、"Just variation of the Punk Collection"でしか無い。
だから、売れるコレクションである。
という事は、時代性を狙った、“PUNK"というフレームにおけるビジネスの為の
”PUNKゴッコ”である。
”それでいいのだ!!”バカボンの親父ではないが、これが売れるという味付けである。
 もう、「個人の夢」が消滅し始め、それが「集団の夢」、「大衆の夢」へ広がった時間は
逆行してしまったのだから仕方ないであろう。
あの、V.ウエストウッドのキングスロードの店頭にある大時計は時間を今だに、逆走しる。
それが彼女であるからだ。

 ここでは、『ブルジョアのプロレタリア化』と『プロレタリアのブルジョア化』という
公式が読める迄の時間の退化へ。

 もう一つ、このブランドのコレクション後に考えてしまったのが、
作り手とリアリティの距離間である。
この川久保玲というデザイナーにおいては、創造とリアリティに距離がある。
その彼女が持ち得た距離間をコンセプトとして創造がなされて来た。
しかし、これはもう古くないだろうか?という疑問だ。
例えば、決して、彼女の実生活ではいまだ、“ブルジョア指向”の実生活である。
慶応幼稚舎、朝日新聞、日本航空、 紀伊国屋、Hôtel Ritz, 18Place Vendôme,などなどいろいろ、
PUNKとは程遠い寧ろ、一流志向のコンサヴァティブな生活様式である。
決して、彼女は自分のリアリティからのファッションは最近でも作っていない。
”観光旅行”というある種の仕組まれたブルジョア-リアリティからでしか今迄も、
作品を創作してこなかった。ここにも「個人の夢」からの創作という視点が読める。
 それに引き換え、今の若いデザイナーたちは彼ら自身が持ち得た実生活としての
リアリティから創作を産み出す。それだけ、彼らたちのリアリティは豊富さと豊かさが
既に、あるからであろう。ここには、創造とリアリティに距離が無い。
あるのは彼らたちの選択肢多い、リアリティである。
 「集団の夢」が創造の為の発想と成っている世代にこの世界は変革してしまった。
ここでもこのデザイナーの在り方の時代観が読めるし、もう古くなってしまったと
感じる原因であろう。特に、このブランドのメンズはデザイナーが女性であるから余計に
無理がひび割れして来ている。
でも、”それでいいのだ!!CdGH.P.だから!”

*******
 今後のモードとファッションの行方は、
 嘗て、M.-フーコーが講義し論じた、『生政治』論はこのファッションの世界にも
顕在化し始めた。
これからは益々、“ファッションにおける創造とは只単に、
“VARIATION OF ARCHIVES"でしか無くなり、
その全てが消費社会へ放り出されるとすぐさま、”単に,モノのバリエーション”の世界
に成ってしまう迄の『生-社会』の誕生である。
 それが、『BIG-DATE & ARCHIVES』の関係性であり、
『FASHION ARCHIVIST』という新職種の登場であろう。
ここでは、デザイナーという「個人の夢」と一般消費者という「集団の夢」の
パラレル化が起り、誰でもがデザイナーに成れるというシナリオである。
これによって、『ファッションビジネス』と他方で、『モードビジネス』が確立されて、
これらが対峙する新たな産業構造が誕生し、進化してゆくのが、
今後の巴里の強かさであろう。ファッション産業の継続化の為の未来構造であり、
これがこれからのファッションビジネスの大いなるコンテンツともなる。
 
 これは次回に論じよう。
リアリティ知らずして、ファッション学生たちにファッションの未来も語れない、
昔取った杵ずかばかりを喋っている人たちの為と
ファッションが好きでこれからのファッションがどのようになってゆくかに
大いなる関心とそれに負けない位の不安を持っている学生諸君の為に。

 『云うまでもなく、個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、
集団にとっては内的なものである。
個人の内側には臓器感覚、詰まり病気だとか健康だという感じがあるように、
集団の内側には建築やモード、いやそれどころか、空模様さえも含まれている』

[k1,5]:W.ベンヤミン/『パサージュ論−1』より:岩波書店刊:

長文の拝読、ありがとう。
相案相忘。
文責/平川武治:巴里ードバイー鎌倉にて、

 

 

投稿者 : editor | 2013年07月15日 16:33 | comment and transrate this entry (0)

2013年07月12日

“倫理”という事に意識を持った事がありますか?”時代性に適合した『倫理』観について、−3

 ”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−3”

 『エコエティカと文明』
東京大学名誉教授/哲学美学比較研究国際センター所長/今道友信
論文/http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/42imamichi.pdf
森永フォーラム/http://www.angel-zaidan.org/dante_miniforum_2008/

  「今、世界の人々は、世界を戦場化する方向に向かいつつありますが、それをやめて、
世界を美しくするように考えていかなければなりません。安倍首相が言った「美しい国」の
ような標語的なものではなく、真の意味において内面的に美しくする事が大事です。
「美」という字は「羊」と「大」からできていますが、羊は中国では古来犠牲の獣です。
犠牲が大きくなるとき美が輝き出てきます。犠牲というのは自分を何かに捧げることです。
しかし命をそんなに簡単に捧げる必要はなく、時間や労力を捧げればよいでしょうが、
そのようにして世界を美しくしていくことを、私は「実践美学」と呼んでいます。
この「実践美学」がエコエティカの一つの行動原理になるのではないかと思います。」

 ◉
 さて、人間が生きて行く上で持たなければならない『倫理観』を欠如させて迄も、
個人の小さな“夢”、それも今のような日常生活の豊かな時代性になっては泡沫的でしか
無くなってしまった、殆ど自我のみの”夢”を追い求めていてもその結果が
どれだけ社会や他者に役立つ事なのだろうか?“夢”を成就した者のみが、
そう”選ばれた者”が捧げられる“GIFT"があるのだろうかということを考えてしまう。
ここにも戦後日本の主流となった”表層主義”うわべ良ければそれでいい的なる根幹から
現代教育の視点のズレまでを感じるが、そんな彼らたちが好きなファッションの世界で
がんばっているのだろうか?という疑問ばかりが、変わらず、東コレやその周辺の
海外帰国集団デザイナーたちを見ていると一番、”時代遅れ”で”終わっている”と
感じてしまう。そして、彼らたちの作る服の世界よりも遥かに深く
僕には心地悪い彼らたちの下心な”ノイズ”になって聴こえて来るのだが、
それは僕だけなのだろうか?
 
 彼らたちが作っているモノの大半が、それが人間らしく生きようと思っている人たちの
”着るもの”であれば、もう少し、人間の暖かみなこゝろを感じられるもの、
穏やかさを覚える迄のもの、おおらかさを着込める迄の根幹を感じさせてくれるもの
そんな、今の時代のこゝろの豊かさへの“OPEN WINDOW"を与えてくれるデザインを、
素材の選択とそれらの調和あるものを望んでしまうのだが、間違っているだろうか?
それ以外の”ファッションな服”は今はもう、至る所で容易に手に入る時代ですからね。

 例えば、“鮮生食料品”としての“人参”を買う場合と同じでしょう。
人参を買うには何処へ行けば欲しい人参が買えるか?
買い手のいろいろな都合で、今ではいろんなところで買えますね。
紀伊国屋で買うか、デパ地下で買うか、ピーコックや東急ストアで買うか、
地元の食料品屋さんで買うか、地場の市場で買うか、コンビニで買うか、
又は、ネットで買うか?
これもリアリティの“豊かさ”の一つでしょう。

 では、この場合の差異のファクターは?
自然の土がついているもの、見た目が揃っているもの、安いもの等など、
作り手の覚悟あるこゝろと、倫理と、努力によって持ち得たリアリティと
そこから生まれた”文化度”。それが、”ヒューマンカルチュアー”、
これだけでしょう。

 “鮮生食料品”としての“人参”を作り売っていても、
今では、自分で種を蒔かない決して、畑へ出掛け土を耕さない、自分で水もやらない
出来上がって来たものを送ってもらって、ブランドと称して”ラッピングペーパー”で
イメージングしてデザイナーぶって並べる、ここ迄でしょう。
従って、最後の”商品”に成った時には殆どが,“OEM"レベルのクオリティ商品。
これって、21世紀にもウケる事なのでしょうかね?

  ある友人から頂いたメールに、
『服はつくって手が覚えて、それに目が慣れて技術がついてくるんだから、
自分の才能を過信して、学歴を見せびらかすだけで、努力しないなんてもの作りには
ありえません。ソフトに頼った(フォトショップ、だとか)作り方だったらべつだろうけど。』

今の時代のインデペンデントなファッションデザイナーとは
自分という個人銘を売り物にしているのですから、作るモノと世界観に
どのような”文化”が存在するか、どれだけの”ブランドカルチャー”が染込むまでに
し見込んでいるか?を根幹に考えなければなりません。
言っておきますが、所謂“個性”と言われているものは今の時代、誰もが持っています。
そんな時代性に成っていますから、ここにはその自分という個人が持ったコンプレックスや
趣味性や志向性や癖迄もが必須必然となるでしょう。

 “新鮮人参”は何処でも買える時代です。
デザインを売るとは、”自分文化/ブランド文化”をどれだけ”GIFT"として差し出せるかが
これからも生き残れるブランドなのです。

 ◉
 『自分が社会や国家へ差し出せる“GIFT"があるか?
家族や友人そして、自分への“GIFT"は在っても。』

(つづく)
文責/平川武治:巴里市マルテル街。


投稿者 : editor | 2013年07月12日 07:23 | comment and transrate this entry (0)

2013年07月11日

“倫理”という事に考えた事がありますか?”時代性に適合した『倫理』観について、−2

  ”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−2”

 そうですね、”医者”には人命を救うという職務から国家試験が必要です。
その為の教養やスキルや経験やそれなりの技術が人命を救うという目的から必要である事と、
もう一つは人の人生にも関わる職業だからというところでの規範や倫理観が教養にも
必要になる極めて、普遍的なる人道的な立ち居場所での職業です。

 『エコエティカ』には今の時代性に適合した『倫理』が必要であることを筆者が学んだ
教養と経験とから堂々と述べている書です。
 『倫理学』とは関係性の為の”関わり学”であるとし、
それが”対人との関わり”だけでよかった時代から今では”対自然”と”対技術”との関わりへ
広げた『倫理』と『倫理観』が必要な時代性であると解いている本です。
今、エコロジーを発言して商売をしている輩たちには是非、必読の書です。

 多くの書物を読んでいると気ずくのですが、日本人の教養ある人とは、
”書物の世界から書物を書いている”人がウケる世界です、特に西洋の書物から書物を書く。
今ではその書物が”電脳ボックス”に変わっただけ依然、変わらずの”明治時代の教養主義”が
蔓延ったままです。ここには“経験”は殆ど欠如され、経験無くとも学んだ知識をより子細に
広げる事が教養とされて来た古い時代の刷り込みでしかありません。
例えば、ファッションの世界の哲学書と言えば、最近の鷲田氏迄の軽さがウケる原因は
今の若者たちの保守性とこの旧さと覚悟の欠如にあるでしょう。
 この著者、今道氏の場合は東大哲学科から巴里で学びその後、その学校、
パリ大学で教壇にも立ちそこからの彼の経験と関係性を根幹に彼の哲学が生まれ
それが『エコエティカ』なのです。

 ◉
 多くの“如何様、なんちゃってデザイナー”諸君たちもきっと、
”ファッション”が好きなのでしょう。“服”が好きなのかどうかは解りませんが、
 ファッションには所謂“国家試験”がありません。
例えば、パターンメイキングや今では、カラーコーディネートなどの職種に携わる人たちの
職業、職域では試験のような資格範囲はありますが、
“デザイナー”に成るには何もいりません。
極論すれば今では、”明日から僕デザイナーになる。”と言ってそう慣れる世界です。
そんな世界なのです、現実は。まったくのフリーな職業です。ですから、ファッションが
”自由の産物である”事の証かもしれません。
 又、ファッションは資本主義社会から生まれ落ちた消費産業の一つだからでしょう。
その後ろには“金権”という大きな囲みがありますね。
 又、そこへ辿り着くには“OZのエメラルドの塔”(これが解らない人は、“OZの魔法使い”か、
あのM.ジャクソンも出演している映画“WIZ"を是非見て下さい。http://movie.walkerplus.com/mv870/
に辿り着き、”選ばれて”入れてもらわなければなりません。
 多分、“如何様、なんちゃってデザイナー”たちもここへ行き着きたくて結果、
出来ない事や、やっていない事知らない事も知っているように度胸やカネやコネを使って
下心いっぱいにして、その結果がメディアに登場出来る”有名人”に成れるからでしょうか?
その結果が、”儲かる”からなのでしょう。
 こんな育ちをこの現代でも堂々と受け継いで構築されているのが変わらぬ、
国家もお金を出して祭り上げている日本のファッションの世界なのですね。
 未だに、あの名作童話”裸の王様”がここでは真に生きている世界です。
『王様は何も着ていない!!』
そう論じられる人種も不必要な時代性と共に皆無になってしまった為でもありますね。

 僕が長年のこの世界での経験出会った沢山のファッションに関わっている人たちには、
共通して3つの根幹タイプがあります。
一つは“服が好き、作るのが好きだから創りたい”。もう一つは、“ファッションの世界が好き”
そして最後は、“お金が好き”。に尽きるでしょう。
(もう一方では、女が好き、男が好きバニティが好き、もありますね。)
 僕たちは“服が好きで、創る事が好きな人”がファッションデザイナーになると
教えられ、そこに”夢がありますよ”と刷り込まれて来た世代でしょう。
今でもこの根幹を持ってデザイナーになっている人たちも居ますがかなり狭軌な
より、コアな世界です。大変な覚悟とその為の努力が必要な世界です。
 現代のファッションの世界では“ファッションの世界が好き”と“お金が好き”な人たちが
当然ですが、お金を儲けていますね。有名人になっていますね。
そんな彼らたちを請け負って商売をしているのが”広告産業”です。
 いつの間にかこの”モードのキャピタル、巴里”のファッションの世界も完全に、
”広告産業”化構造になってしまいました。
どれだけ資金を使って、それ以上、数倍のお金を確実に儲けられるかの世界です。
その為に機能するのが広告産業です。彼らたちの美徳は“美しすぎる嘘を思わせぶるか”です。
この構造の中に“有名デザイナー”たちの誰それがと、飼われているだけの世界です。
 
 今シーズンのクチュールコレクションでは、
呼び寄せたジャーナリストと称される人種たちに例の、大きな瓶のオーデトワレNo.5を、
(決して、パルファンではなく)撒き配ったメゾン-シャネルのパフォーマンス。
貰い物で着飾る事に慣れてしまっている人種たちを手なずける順当なる手段。
その結果はどう出るか?カール君もリタイア時期でしょうか?
ラグジュアリィーブランドの総合売り上げでは
依然、このメゾンがトップを行っているのですからね。
 此の古き手法は日本では“付録つき女性誌”の手段です。
そう言う意味では、社会構造の違いから日本のファッション誌の方が大衆消費社会に
直接、接点を持った”リアリティ”を生む迄の戦略ですね、流石です。

 思い出しますね、僕たちが少年の頃、やはり、沢山の”付録つき”冒険王や少年画報を
毎月の発行日を待ちかねて買いに行った事を、、、、、、
(つづく)
文責/平川武治/チューリッヒ市にて:

投稿者 : editor | 2013年07月11日 16:58 | comment and transrate this entry (0)

考えてみませんか?”時代性に適合した『倫理』とはを。−1”

 ”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−1”
 この様な小難しいことを考えようと思い始めたのが最近の日本社会で起った
大小の事件の殆どが”倫理”観喪失若しくは、鼻っから”倫理”なんて持っていない程度の
人間たちのしでかした粗相事でしかないと感じてしまった。
 そこで出会ったのが’90年の11月に発行されてその後、なぜか、フタをされてしまった
『エコエティカ』という本だった。
読後、最初に思った事は、この本をもっと早くに確りと読んでおけば、
あのような福島原発企業事故の一端の責任がある”原子力ムラ”にももっと、強い
それこそ、時代に見合った”倫理”観ある眼差しが向けられたであろうと
悔やんでしまったからである。

*エコエティカ /講談社学術文庫刊/ 今道 友信著:
 http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1589466

 ◉
  今回、日本を発つ前の6月初めであっただろうか?
ラジオで聞いたニュースが面白かった。
そのニュースとは時折在る話しなのだが、無免許で医者をしていたというものである。
所謂、如何様で医者をして何年も生活をしていた人物のそのバックグラウンドが
バレてしまったという“偽医者”もの。
そのバレ方が面白かった。彼が執刀していた手術後の縫い糸の始末が”おかしいぞ?”と言う
発端からバレてしまったのである。
その後、このニュースをテレヴィジョンで見る機会があった。
手術後の縫い糸の始末を彼自身のその性格からであろうか?若しくは、
警戒心がここ迄来たのだろうかというまでに几帳面に”蝶結び”をしてしまっていたのである。

 嘗ての時代に、手塚治虫の作に『ブラックジャック』という名作があった。
確か、’73年頃から始まった漫画であったと記憶しているがこの時期は日本経済が
高度成長期へ入った、戦後の倫理観の歪みが激しくなり始めた頃であって、
ああいう一つの倫理観の現れとしての”正義”が必要であった時代だったのであろう。
が、現在という時代性に於けるこのような行為はそれが人間の生命を扱う職業人としての
”医者”という立ち居場所での“倫理観”喪失事であるからこのような事件として
メディアでも騒がれたのであろう。多分、当人は自心でそう思い込んだ上で”医者”に
成りきっていたのであろう。
そこで見破られてしまった手術後の処理に於ける“蝶結び”。
結果、大いに笑える事件になってしまった。

 僕はこの事件を現代日本社会の在る意味では一つの象徴的事件とも読み込んでしまった。
なぜかと言うと、これが僕の立ち居場所である”ファッションの世界”に置き換えて
考えてみるとそう不思議に思わない事件なのであるからだ。
 というのは、この日本だけに限らないファションの世界では縫えない、
パターンメイキングも出来ない、素材のスキルも無い、工場も捜さない、出向かない
そして、自分でやってない事迄、やったような顔つきをする“ナンチャってデザイナー”や
”如何様デザイナー”がより、多くなりつつある。
そのような産業構造化が進んだからでもあろうが、彼らたちに共通する事は
”出来る事より、下心の方が多い”事だ。そして、彼らたちは必ず、当たり前のように
先ず、放言をし、目立ちメディアウケを狙う。
次には、その周辺の人間たちがそれらに食らい付き”デザイナー振っている”輩たちを
それなりのデザイナーだと”嘘も方便”なる古い手法と彼らの”下心”を読み込み、商売を、
カネを絡ませて”メディア”を使い、煽ってはしゃいでいるだけのムラ世界でもあるからだ。

 長い間、日本とヨーロッパで生活環境を持ってファッションの世界を生業として来た僕は
世界のファッションの現実がどのようなもので、ファッション-デザイナーという人種が
どのように企業とそのユダヤ人ファッションピープルたちに育成されて来たか。
若しくは、厚顔に自分自身から”僕はファッションデザイナーです”と
カネと度胸と嘘と下心で登場して来た多くのデザイナーたちを熟知し、生活体験として
27年間も関わり見て来た者にとっては、本当に創造性豊かなファッションクリエーターや
人間的にも“リスペクト”出来る“倫理観”を感じる迄の誠実な人たちが極少である事も
僕のこのファッション人生で知ってしまったからこの“偽医者”事件は
”ファッションの世界”では当たり前に近い事と受け止めてしまった。

 これを”現実社会”と悟り、解った顔をして生きて行ける迄の自己自信あるいは
自己肯定はこの歳になっても僕は持てない。
ここに僕なりの『倫理観』が作用する。
 寧ろ、知り始めると余計に恥ずかしくなり、もうこれ以上このファッション世界の
OZのエメラルドの城、『金メッキなバニティーな世界』からどれだけ遠くへと
考え込んでしまう。
その為には、これからの新たなファッションの世界に変わらぬ好奇心と可能性を持って
出来れば、いまだ、青年としてこゝろ馳せたい。

 この戦後の日本人がなぜ、”イエローモンキー”と呼ばれていたのか?
ファッションの世界だけでもないだろう、多くの表層的なるカタカナ職業の世界では
これ以上に「なんちゃって、如何様家業」―パクって、カッコ付けて―”大きな顔をして
儲けて、今では腹が出てしまっている人種たち。
即ち、『倫理』観乏しき若しくは、無き日本国民になってしまったのが
戦後からの現代日本の一面にあるのではないだろうか?
 従って、僕はこの『偽医者、蝶結びで発覚』という事件を現代日本社会をある在意味では
象徴する迄の事件とも読み込んでしまった。(つづく)
文責/平川武治:チューリッヒ市にて:

 

投稿者 : editor | 2013年07月11日 06:31 | comment and transrate this entry (0)

2013年04月13日

写真家 伊島薫の新作展『あなたは美しい/NICO』展若しくは、写真の現在点について。

写真家 伊島薫の新作展『あなたは美しい/NICO』展、
若しくは写真の現在点について。

 『技術的に新しいものは、もちろん始めはもっぱら新しいものとして現れてくる。
しかし、すぐそれに引き続いてなされる子供のような回想の中で、
新しいものはその様相をたちまちにして変えてしまう。
どんな子供の時代も、人類にとって何か偉大なもの、かけがえのないものを与えてくれる。
どんな子供時代も、技術的なさまざまな現象に興味を抱く中で、あらゆる種類の発明や
機械装置,つまり技術的な革新のせいかに向けられた好奇心を、
もろもろの古い象徴の世界と結びつけるものだ。』

[認識論に関して、進歩の理論。]より。/Walter Benjamain
 *
 伊島薫の久し振りの個展をAI KOWADA Galleryで見る。
「ある意味で,写真の新しさそして,古さ。」
今の時代の普遍的になった写真の面白さであり或いは,写真の”墓穴”でもああろうか?

 作品の新しさとは,
“20世紀のハードウエアリング+21世紀のソフトウエアーリング
+パーソナルソフトウエアーリング”=『あなたは美しい/NICO』と云う構図。
 古さとは,’60年代後期のあの写真家、故加納典明氏が当時,N.Y.滞在中に制作した
ヌード写真を想いだした。白人女性の横たわる全裸と黒人男性の横たわる全裸写真。
真っ正面から,堂々と“外国文化”と向かい合った作品。
当然だろうが,この時代に於ける故加納典明の写真の新しさを知っている者はかなりの
高齢者であろうし,それなりにこの時代の面白さにサーフしていた連中たちは
この展覧会へ来ていないだろう。
 また,もう一つの古さは”又,なぜ外国人女性なのか?”と云う古さ。
例えば,先の故加納典明の写真には,あの時代に感じさせる”カルチュアー”があの被写体の
裸体そのものには存在した時代性があった。
が,現在の日本においてあの巨大な被写体の裸体からはどのような”カルチュアー”が
メタファーされているのか?どうも,僕は読み取れなかった。
今回の作品の被写体には”文化”があるのだろうか?と云う疑問。
そして,それ以上に気になる”8本の継ぎ目”とその裏にある作家の手仕事?

 コンピューターリングを駆使したところでの分割された超高精細画像による写真が
今回の作品。その写真の大きさと繊細さから生まれる作品の迫力と存在感は
作者の芸術意識と熱意そのものをも表している。
作品のサイズは縦2400X横9360mmの大きさのものである。
これを横9等分に分割し一つの作品に構成されているのが実際の作品である。

 写真の現在地点とは、当然であるがこの表層の主流は”超高精細画像”にある。
一つは,この技術を拠り所にした“レタッチ作業の進化”がファッション写真から
広告写真において一般化している。
もう一つの写真の現時点は”コンピューターリングソフトウエアー+
パーソナルソフトウエアーリング=リアリティのハイパー-リアリティ化”である。

 今回の伊島氏の作品『あなたは美しい/NICO』もこの世界である。
従って,見応えのある存在感と細部に至る表層の面白さや痛快感を感じさせる作品である。

 自心の中に染込んだモノへの表現方法?
たとえば,この作品で感じられるヒューマンテクノロジーは
あの8本の縦に入った継ぎ目です。
あの8箇所に作者の生の感覚を感じ,手仕事が読めます。
僕はあの継ぎ目に関心がありました。
なぜ,あの継ぎ目なのか?
あの素材なのか?
あの手法なのか?
そして、それらに依って隠されているところの所謂,”作家の労働”です。
従って,幾本かの継ぎ目は作品のもう一つだと云う発想で見ました。
その結果、”新しく,古い。”と感じた僕の根幹でした。
参考サイト/AI KOWADA Gallery;http://www.aikowadagallery.com/ 

 見た目、”外国人”起用は僕たち戦後世代に染込んだ古さでしょうね。
”外国人=アメリカ人=カッコいい!”の世界でしたからね。
そこには当時の”外来文化”を必至で求めていた僕たち世代の姿があり,
“横文字”と共に日本の広告産業は発展し,これに身軽に”サーフ”したものたちは所謂,
“一代”を築き上げました。商業写真家/コマーシャルフォトグラファーもそう,
広告図案化/コマーシャルグラフィックデザイナーに始まって,
多くの広告業界からの横文字職業がそして,服飾意匠家/ファッションデザイナーも
加わって、とっても”横文字文化”がカッコ良い時代性でもありましたね。
この時代には新鮮だった事実、そこに進化を求めた現実。
これも敗戦後の日本人の当時代のそれぞれの”こゝろの有り様”でしか無かったでしょう。
そして,戦後日本の文化的環境と土壌がこの60数年で変革したのでしょうか?

 **
 この作品を見ていて考えられたもう一つの世界が、“エンターテイメント”の世界での
”4K/超高精細4K”の世界です。
これは既に,米大手映画会社7社を中心とするデジタルシネマ標準化団体「DCI」
(Digital Cinema Initiatives, LLC)が提唱するフォーマットで、フルハイビジョンの
4倍以上の885万画素(4096×2160ピクセル、4K×2K)の解像度のことです。
ですからハリウッド映画を劇場で見ると既に、この世界を日常の中で娯楽化しまっている
のです。この手はもう一つ、美術館等で見かけることが出来る芸術作品を扱った
DVDフィルム群です。これも印刷企業とのコラボレーションで現実化されてしまっています。
 僕たちの日常性の中には既に,もの凄いモノが,嘗ての20世紀には考えられなかった
技術発達の恩恵を受けて日常化され,生活していると云う事です。

 ここで面白い事とは,もう一つの時代性としての”イメージとリアリティ”の関係性です。
既に,最近のハリウッド映画は”実話=ノンフィクッション=持ち得たリアリティ=実話”を
その殆どの材題として、映画化がなされ,製作されています。
そして,それらは今世紀のハイパー技術、CGから4Kまでを駆使して作られている映画が
ほとんどになってきましたね。
ここにも、嘗ての”ハイパーイメージ”から”ハイパー-リアリティ”化が読めます。

 先週、東京国立博物館に出来た、『TNM&TOPPANミュージアムシアター』へ出掛けて,
3月で終わってしまうプログラム、「アンコール遺跡バイヨン寺院”尊顔の記憶”」を
見てきました。この『TNM&TOPPANミュージアムシアター』は愉しいところです。
 今回の「アンコール遺跡バイヨン寺院”尊顔の記憶”」は凸版印刷が全面的に企業参加し,
彼らたちのハードウエアーを東博の学芸員たちと東大の池内研究室の三次元計測データーを
持ち寄って製作された作品で最新のヴァーチャルリアリティ技術で完全再現された、
目眩もするまでの50分ほどの映像でした。
 規模、100万m3の世界最大級の立体形状計測データーに依って再現された
49もの石塔が林立する『バイヨン寺院』と173体の尊顔と
その世界遺産(東西160m,南北140m,高さ45mに広がる)がみごとに
ヴァーチャルに再現されたフィルム。
ここまで見えてしまうのか?と云う驚きの連続が静寂と神秘を現実より深いものにしている。見えるはずのものが見えなかった現実をヴァーチャルに3Dによって見せてくれている
この世界も現代の映像技術の高度なる発達の産物でしょう。

 同時期に公開されていたのが,『洛中洛外にぎわい探訪、舟木本屏風を歩く
ー京のごちそうー』。これはこの屏風絵の実物からはあまりに小さくて見ずらい
花見の重箱の中身などを”食”を切り口にやはり,”高細密画像”技術に依って
400年前の京文化をハイパーリアリティで見せています。

 若しかしたら,伊島氏の今回の展覧会のコンテキストと同じ発想かも知れませんね。
人肌の“毛穴”までが見える写真とお重箱の中の当時の食べ物までが見える映像作品。
一つは伝統美と云うアーカイブをハイテクノロジーで伝承する。
もう一つは,現代と云うリアリティをハイテクノロジーで新らたな眼差しで見せる。
この世界が今と云う現代性を生み出しているのでしょう。
そして,ここでも”新しさ”が今後の日常生活への“リアリティ”と云う可能性を生む事を
示唆した作品でした。
参考サイト/"http://www.toppan-vr.jp/mt/"

 ***
 次は,巴里で出会った写真の話です。
 また、あのアラーキー氏が今度は“外国人女性”を縛った写真を昨年、
フランス日刊紙の別冊誌”W"で撮ってしまったのです。
もうこのレべルの世界になると一つは単純な”見世物小屋”ですね。
所謂,”特殊性の上塗り”の世界でしょう。ここには決して,彼の”特意性”は見当たらず
縛りを専門に行う日本人”縛り師”に依って縛られた白人女性を唯、撮っていると云うまでの
写真ですが実は、その現場の空気感を彼一流に取り込んでいるところはさすがでした。
 このアラーキーの作品は僕が好きで大事にしている,JOHN WILLIEが撮った写真集
”plusieuis possibilites"と比較すると面白いです。
(そう言えば,どこかでこの.JOHN WILLIEゴッコをしていたコレクションがありましたね。)
ここには恥じらいと拘束観とそこから覚えるエロティズムが空気感として漂っている世界。
下心と煽てられたはしゃぎのレベルでがんばったのだろうか、アラーキー氏もこの
J.ウイリーの写真集を知っていて撮ったのだろうか?
 
 しかし,この“下こゝろ”がこの世界では“アート”と呼ばれる様になるのでしょう。
今回の“W"誌の様に,それなりのユダヤ人メディアとやはり,ユダヤ人写真関係者たちの
御呼びに依って,声を大きくして持ち得た度胸よろしく立ち回り,メディア化すれば、
伊島氏も望むところの”フォトアートの世界”で作品が廻されその結果、
”値段”と云う解り易い”価値”が決められて、美術館入りと云う世界へ到達出来る。
 この道程と関係性を自らの世界観と技術とに依って立ち回れるか?が
”フォトアートの世界”なのです。
 これは何も”フォトアートの世界”のみに限りませんね、ファッションの世界もそうです。
 
 僕たち“Yellow"は所詮、彼らたちにとっては“異国人”でしかありません。
彼らたちの”異国趣味”に適ったモノ、驚かせるモノ,はったりが必要と云う訳です。
 その“異国人”、”Yellow"がどれだけの面白い,変わった事,凄い事カッコいい事,
センスのいい事そして,頭のいい事をやってくれるか?を求めているのです。
現在ではこの"Yellow"には中国人も既に,ウエルカムされてしまっています。
従って,アラーキーがウケた根幹はここに在りましたね。
 
 変わらず,いつも,彼らたちは自分たちの目線下にその目標を置き
自分たちが”サプライズ”出来るものを待ち構えたり,探しまわったりしているのです。
その内容そのものとそのレベルによって、彼ら関係ユダヤ人世界のレベルも変わってきます。これが彼らたちが構築した世界の”アートの世界”であり,”フォトアートの世界”でもあり
“アンティックの世界”やまた、“ファッションの世界”でもあるのです。
もっと云ってしまえば,ダンスもバレーもクラッシック音楽等もこの世界観で構造化,
構築されています。この背景には17世紀ドイツ哲学が根幹としてあり,
そこから生まれた”美意識”であり”西洋美学”が根拠性となっている
所謂,“単一文化的認識論”。これが未だ21世紀になっても並々と“主流”として流れ
受け継がれているのが現実です。
 残念ながら世界のアートと称されている,”憧れの世界”は殆どがこの構造とこの世界です。

 *
 伊島氏も今回の展覧会のこの作品を見る限り,アートへのご関心が感じられますが,
その為にはこの世界の”関係性”へ、“Keep in touch"為さらなければ、
お望みの世界の”フォトアートの世界”へは入れません。この世界の関係者ユダヤを,
“アッ”と云わせるだけのはったりと度胸と持ち得た”自分世界観”とそれを表現し得る
技術とやはり,現代に於ける“伊島流JAPONEZM"が必要です。
若しくは,”資金”(即ち,金とコネ)が必要です。
そして,先ず,誰にそのレップ役を任せられるか,若しくは,任せて欲しいと云う
ギャラリストや美術館キューレターが居るか?又は彼らたちとの“Keep in touch"が可能か?

 今の時代の“JAPONEZM"とは先端IT技術をソフトウエアリングとパーソナル
ソフトウエアリングに依って、それらを自分カルチュアーでどれだけ見事に使いこなせるか?
現代日本に於ける"Yellow-izm"を題材にどんな可能性が作品化出来るか?
 もう一つ,どれだけ今後の写真界へ影響が与えられるか?なのでしょうね。

 でも、今回の展覧会のこの作品への作家としてのご自心が掛けていらっしゃる意気込みと
エネルギィーは凄いモノですね。これも,一つの伊島イズムでしょう。
そして,確実に新しい”伊島ワールド”の一つでしょう。
 ぼくは彼の”好奇心”が好きです。そして彼の実行力も好きです。努力家ですね。
この彼の好奇心がこれまでの彼の作品を生み続けて来たのでしょう。
“新しさ”,時代の新しさとは?を写真世界で追い続けている部類の好奇心でしょう。
 
 もう、その”新しさ”とは
ファインダーからレンズを覗き込んでいるだけでは捜せない新しさと、
レンズなしで見つけられる普遍性なるモノの“アーカイヴスのバリエーッション”の
新たな発見と云える新しさ。“嘗て、見た事のあるもの”への新たな眼差し。
これだけでしょう。
いつの時代でも,”新しさ”は
これからの僕たちの日常性へ大きな影響と可能性を産業技術を通じてもたらすからです。
 
 後、もう一つの大切な事は、
見る側にどれだけの”教養”があるか?”美意識ある経験”が豊かか?
また,熟視された”日常”を感じるか?の好奇心のレベルでしかないでしょう。
そして、“ハイパーリアリティ”がもたらす日常観を感じ自心で楽しむ事なのでしょう。

 僕はここにも、新たな課題として”五感の新たなバランス化による調和”と云う問題が、
今後の時代を生きて行く上に必要な新たな”人間性”として提起される事を
読んでしまうのです。
文責/平川武治:早春、鎌倉にて:


投稿者 : editor | 2013年04月13日 13:24 | comment and transrate this entry (0)

2013年03月18日

ひらかわ版”雑感、東コレ’13'14A/W”、其の一/3月17日版;;

 Conny Groenewegen:
 残念ながら、見せて頂いたショーの内容からは
未だ、助走中のデザイナーレベルである。
 
 彼女の一方の主翼が”テキスタイル作家”であるためのクラフトマンが持ち得る重さが、
もう一方の主翼の”ファッションデザイナー”のバランスを崩しがちである。
が、もう一方で典型的な”ダッチスタイル”のデザイナーでもある。
この手のデザイナーは同じオランダでもV&Rたちを生み出した“Arnhem"系とは
対称に位置する、寧ろクラッシックで地味なタイプである。

 プロファイルに出身学校が明記されていなかったので聞いたが、
案の定”ロッテルダム”の工芸性が強い学校の出身である。
しかし、工芸性が強いこの國の、この系列のデザイナーたちが憧れ、
創成される産業工業的背景が此の国には未だ少し存在している。
それは伝統を引き継ぐクラフトマンマインドたちの
紡織やフェルト工房が利用出来るとこであり又、良き先輩作家、Claudy Jongstraたちが
活躍しているからである。

 現実の日本には、残念ながらこの構造が激少化している。
自ずと使い、自分たちの世界観でプレゼンテーションすべき日本人デザイナーたちが
不勉強で浅学、変わらず、”デザイナーぶる”事に煩わされ、巴里のトレンドを追随する。
又、その方向性を日本メディアやその業界が消費社会目線のみでカッコいいと
持ち上げて来たここ20年来の偏ったコンプレックスの現状結果であろう。
 
 余談になるが、彼女、Connyの前を走っているのが、Iris van Herpenだ。
僕はこの間、巴里で再会し少し、インタビューをして来た。
(このインタビューは後日、報告をする。)
 彼女、Irisは同じダッチ出身のクチュールデザイナである。
先シーズン,1月の巴里、オートクチュールコレクションでアメリカの3Dプリンター会社と
ソフトCD会社のコラボレーションで、”3D-PRINTERE"を使って
完全なるコスチュームを構成創造し、発表したデザイナーだ。
Irisはアーネム工科大を卒業。(僕はこの時、審査委員をさせて頂いた。)
その際、Claudy Jongstraのところでインターンシップその後、
Lee Alexander McQUEENのところでもインターンシップを行い、彼の元で”3Dデザイン”を
オランダの伝統的工芸技術を使った皮素材を中心に製作し、
独立後は既に、’10年来から”3D−デザイン”に、世界を先駆けてチャレンジしている
今後、注目すべき若き、クリエーターの一人である。

 以前から僕が提唱している『縫わないでいい衣服』の時代への先駆けを
今後への新しさと考え、自分の世界観として実戦しているからである。


 このIrisとConnyの共通点が面白い。
それは、共に、自分たちの國の良き時代からの伝統あるクラフトマンシップが
生き続く世界へ先ず、興味を持って技術とそこでしか身に付かない”美意識”を学び、
それらを自分たちのクリエーションの根幹としてそれぞれの世界観を築きながら、
それぞれが望む方法で社会へコミットしている事である。
即ち、伝統工芸技術や工房システムや職人とクラフトマンシップを交流させながら
そして、その世界を守りながら彼女たちが求める新たな世界観を独立させている事である。

 この二人のダッチスタイルの女性デザイナーたちに共感出来る事は、
Connyも発言していた事であるが、「伝統工芸の手法を学び持って、
コンピュータリングによるソフトウエアーリングに委ねる事で出来上がる
世界そのモノに興味がある」
と云う事である。
真の新しさとは、この覚悟ある世界観からしか生まれない。
 
 極論すれば、『20世紀のハードウエアーと、21世紀のコンピューター
ソフトウエアーそして、持ち得たそれぞれのヒューマンソフトウエアーとの
コラボレーションによるディレクションである。』
 ここに本来のデザインの役割が有り、それによって時代や生活環境、
生活者たちへの新たな生活様式を豊かにする事がデザイナーと云う役割の仕事である。

 ここで、日本のデザイン教育者たちの遅れた考えを修正統べきである。
表層の持ち得た教養も才能も低レベルな個人の夢を成就させるだけでは
國のためにはもう、決してならない事に気が付くべきである。
この様な豊かさを知ってしまった世代と時代への新たな眼差しを持った時代観ある
教育が遅れ過ぎた。
 
 それ以外はファションの世界もコンシューマーデカダンスに委ねた
“アーカイブから只、モノのバリエーション”の世界でしかなくなる。
 しかし、今の若者は作り手もメディア側もほとんど、“アーカイブス”を知らなすぎる。

 彼女、Connyのショーから何を読むか?
それなりのお金を使ってのこの手の試みであるからには、
僕たちの國への現実に何か本質的なる根幹を読み取るべきである。
それぞれの國が持ち得た産業構造とそのフローのスローさが一つの差異であり
そこに何か今後、大切にしなければならない僕たちが嘗てに、捨てて来てしまった
大事な産業構造へのインフラの見直しと実行が考えられれば、
今回、東コレでの彼女のショーが為された目的があろう。
 
 興味を持ったアイテムは、ショーの半ばに出て来た”ウールニットレギンズ”。
編立てを前後で変える事で装飾にしたデザインのレギンズは好きだった。
このタイプの発想をもっと広げ、”ボディーウエアー”を熟考してマスターピース化すれば
新たな日常着としての”キュアーアイテム/CURE ITEMS”への提案になり、
インダストリアル化する事で社会へコミット出来るだろう。
文責/平川武治:平成二十五年三月十七日:

参考/
Claudy Jongstraのサイト:
http://www.claudyjongstra.com/

Iris van Herpenのサイト:
http://www.irisvanherpen.com/

投稿者 : editor | 2013年03月18日 05:38 | comment and transrate this entry (0)

2013年03月06日

あの日から丸2年そして、CdG'13/'14A/Wコレクションについて。

 今日はあの日から丸2年が経った。
あの日から始まったそれぞれの”こゝろの有り様の変化”は
どのような進展をもたらしたのであろうか?

 政権の変化から始まってその実情はさほどの変化が生まれないままに
今日と云う日を迎えてしまった政治の実態。
変わらずの、自分たちの戦後のコンプレックスをそのまま未だ、僕たちの國日本を
”アメリカのポチ”化へより、それぞれの笑顔でいざない顕現化しているだけの政治家たち。

 もう残念だが、僕たちの國は“アジアの二流國家”化でしかない。
世界の一流国家でもなく、今後もただ、アメリカのポチ化させられてしまう”日出ずる國”。
ファッションの世界もこの巴里ではもはや、どうしてであろうか、
二流国に成り下がってしまった。

 あの日以来再び、僕たちの國の事を、”未来”を考えるいい動機となったはずが、
“未来”とは、僕たちのためでは無い。
“未来”を考え行動すると云う事はとは、
僕たちの子供たちや、赤子たちの事を、その母たちの事を思う事である。
そして、彼らたちが本来の豊かさを持って堂々と生きて行ける國の事を思う事である。

 どうか、今日と云う日を”風化”させないで下さい。
あの恐怖と惨めさを、自心のこゝろの有り様として忘れないで下さい。


 今シーズンのCdGのコレクションは
ある意味で、このデザイナーの世界のアーカイブからの"zapping"。
基本ソースは、今シーズンのトレンド-キーワードの一つである” MASCULINE FEMININE"を
”FEMININE MASCULINE "の世界へ。
そこでこのデザイナーが自分世界のコンテキストとしたのが、”TAILORING"。
そのコンセプトが”INFINITY OF TAILORING/テイラリングの無限性" というもの。
 
 もう、然程先シーズンやその前のシーズンに比べると感動もなく、驚きも減り、
考える事の方が多いものであった。

 ジェンダーアイデンティティにはその振幅がある事が歴然としてしまったリアリティへの
挑戦だけだったのだろうか?果たしてそれが実戦となったのだろうか?

 若者たちの世界では既に、このリアリティへ自らを委ねてしまって
ポジティフに大いに、楽しみ心地よさを享受していると云うのに、

 結果的には“TAILORING"と云う完成された服の世界への新たなる可能性若しくは暴挙。
可能性となるのはファッション学生たちの課題への新たなサンプリングそして、
暴挙となるのはこの”TAILORING"スーツの完成の裏に染込んだ“マナー/モラル”
そして、それぞれの時代が産み落とした立ち居振る舞い”の世界へだけか?
これを寧ろ、このデザイナーはテーマ性と念い込んだのであろうか?

 当然、使われた素材はメンズ素材しかもこのデザイナーの特徴の一つでもある合繊の世界。
ショーで見るところでは、
後半に登場したインクジェットで施された”サイケ”の再来と感じたプリントものは
綿ベルベット。後は、シルクウールのカルゼが1アイテム。
これだけの装飾をこれでもか、これでもかと素材で施した前半の白、黒、中間色の世界では
その使われた素材の分量も半端ではないだろう。従って合繊使用は納得か?
若しくは、このブランドの特徴である”粗利の稼げる”デザインの一端か?

 読み込もうとする、装飾過剰の世界の前半はその殆どが今迄のアーカイブからの形状装飾。
切り込まれたテーラリングへカードの様に重ねる素材生地片群若しくは、
縛る、巻く、捻る、摘む、丸めるそして、切り裂く行為の形状が華であり、蕾であり、
皺である、嘗て見た事のある形状の集積と云う装飾性。
これらによって装飾され誇張された”肩”と”袖”はテイラリングが持っている
端的な美しさそもそものを消去させる。

 変わって現れるのが“女性の強さ。
”女性はただ強いだけでなく“威風堂々”としかも”上品”に生きている。
これは自分人生への肯定からのコンテキストなのだろうか?

 ランウエーを交差するマヌカンが触れ合う袖を譲り合って歩く姿は新しかった。
もう一つの新しさは、“AIR BAG"よろしくドーナツ状に詰め込まれ連鎖されて施されていた
無意味なる装飾を拒否するための装飾。
総てがトレンドの範疇に成ってしまった”分量とシルエット”の再バランス化への挑戦。

 前半が素材による”装飾”によっての表現と後半はその色彩によっての”装飾”に委ねる
潔さはこのデザイナーの巧さでありここで新たなもう一つの”女の世界”をも表現した。
顕微鏡の中の世界か?花園における昆虫の眼差しか?
このインクジェットによるプリントは今シーズンの新しさであり、
”Psychedelic/サイケ”を知らない世代への”サイケ”の逆襲か?

 “装飾を拒否した装飾性”と”装飾を膨張させた装飾性”
素材で同化させた装飾性と色彩によって増殖された装飾性。
このアンビギュウトなるコンセプト。

 この対比によって、初めて今シーズンのCdGコレクションの女性への強さと優しさ、
或いは、脆さと新鮮さの在り方がメッセージとして感じ読めるのだが、、、、、、

 これとは、変わらぬ自分自身の”立ち居場所”のためのアイデンティティ、
即、ブランドビジネスへの念い。
或いは、変わらぬ、”特意性”若しくは、”プロパガンダ”???

 もう一方で、これをやってしまえるこのデザイナーの”強さとがんばり”と云う自我と
企業構造の凄さ!!
故に、『コムデは凄い!』と云う所以になるのであろう。

**
 このデザイナーはどんな現実に生きているのだろうか?
という疑問がショー後に、改めて考え始めた。

 このデザイナー程に有名になり、“凄い!デザイナー”という役柄の人間は
“雲の上”に住んでいるのか?或いは、僕たちと同じ地上に住んでいるのか?
どの様な眼差しを持って社会とリンクしているのだろうか?
 
 このデザイナーはどのような”日常”を生活しているのだろうか?
どの様な日常性を感じて”生活”しているのだろうか?
或いは、ここでも何らかに”拒否”した日常性?
このデザイナーの”日常生活”とは、どの様なものなのであろうか?
 
 例えば、モノを作る人間も一人の市民で在り国民意識も
市民感覚もそして、仕事柄の時代感覚も持ち合わせているはずだ。
その上に立っての“モノ造り”であり、それが可能な限り人間であるところに
その作り手としての人間の”世界観”が見えるであろうと思っている。
だが、今回のコレクションを観ていてこれが見えなくなった。
そんな事は余り関係ないと云う迄のコレクションだったからだ。

 ”世間知らず”なのであろうか、若しくは、実際に“世間で生きていない”のか、
又は、もう”世間と共に”生きていかなくてもいい境遇と環境と年代になったからなのか?
街を、地元を歩いているのだろうか?
以前、良くその姿に出会ったように犬を散歩させながら地元を歩いているのだろうか?
紀伊国屋へお買い物に行っているのだろうか?

 この様なある意味で虚飾な職業人は自分たちの性格観やそこから生まれる日常観が
決して表層化かしない方が未だ、カッコいいとされた世界なのであろうか?

 僕のもう一つの立ち居場所としての巴里で出会うデザイナーたちには
そのカッコ良さは無い。寧ろ、当たり前の人間としての彼らたちの日常生活や
時としてのバニティさがそして、生業観が感じられる。
だから又、彼らたちが創造する世界観に感動したり、
共感を覚えたり人間的なかわいらしさをも観てしまう。

 日本人デザイナーの代表とされて来た”御三家”の周辺や、JUNYAとか最近のSACAIにも
この所謂、“匂い”が全く感じられない。
又、夜毎、バニティな世界にいざなっているとも感じられない。
寧ろ、未だに、作られた情報環境と密閉された構造の中で創造が為されている。

 僕は、今の時代にはもうこのような作り手の生活感や彼らたちが持ち得た思想が
その作り手の”自分文化”に成る迄のリアリティが匂って来て当たり前だと信じている。
UNDER COVERにはこれを感じるから何処かで信じられるものを共感出来る強さがある。

 ここにも僕が主張している時代観、
“The image,no more making a reality. The reality are making imaginations."
根幹が存在する。
 
 このコンテキストは決して、作られたモノだけからではなく、
その作り手であるデザイナーたちのリアルな生き方が
それらを創造する“The sauce of the creations."の源泉である時代になってしまったからである。
もうそのような現実の豊かさが時代性の現代である。

 これは、僕だけの知覚への現象なのだろうか?
若しくは、多くの人たちがもうかなり以前からこのような眼差しを持っていたのだろうか?
又は、このようなことを感じないところでファッションを、デザイナーの在り方を
そうであるべきだと信じて観ているのだろうか?或いは、見せられているのだろうか?

 そんなにデザイナーとは凄い、立派な人間であるのだろうか?
否、僕が見、接して来た多くのデザイナーとはそんなに立派で凄くない人がほとんどである。

 多くは“お金”が好きな人種である。
好きなお金をカッコ良く儲けたい、そこで好きな世界でがんばって、カッコ付けたい。
だから、作られたものにそれなりの凄さは感じられるが、“人間に対する愛”を
感じられるものが少ない。究極はここが彼らたちの根幹である。

 従って、巴里を軸にして多くのデザイナーたちと出会って来た僕の人生に於いて
”尊敬出来る”デザイナーたちが本当に数少ないのも
僕にとってはとても残念であるが現実なのだ。

 僕の30年来の経験によると、
自ら”創造”したと思うものを、自らが創造したと”売る”職業。
これが”ファッションデザイナー”ビジネスの根幹である。
考えようによると実に奇妙な職業であろう。

 人が作ったモノを売る。これは商売/商人という職業。
しかし、自ら”創造”したと思うものを、自らが創造したと”売る”職業とは
実に、まやかし商売だとも考えられる。
ここにユダヤ人ビジネスとしてのファッションビジネスの根幹が存在する。
自らが創造したと思うものと、人が作ったモノを混ぜ合わせて売るパーケージングビジネス。
今では、これが現実のファッションビジネスという世界であろう。

 時代がもたらした”豊さ”によって、
 “The Fashion is always in the fake."の世界から、
“The Fashion is always in the real."の世界へ。

***
 女の強さとは男に勝つ事も大事な要素なのか?
女と男の性差を認識し、その肉体的特徴の差異も熟知した上でそれぞれが出来得る特徴を
お互いが出来る行為として助け合い、交換しあう、共有しあうそして共棲し、調和し
生きて行く。多分、女の、男の”強さ”とはここに帰する事であろう。
この最小の関係性が恋人であり続き、家族でありそして会社社会であり、
コミュニティであり社会であろう。
という事はそれぞれの”強さ”とは男と女の関係が存在しての、それぞれを思い遣る、
認めあう事から初めて生まれる”男有り気”、”女有り気”から生まれるのもであろう。

 当然であるが、僕自身も自分独りががんばって来たからここ迄来れたでもあるまい。

****
 しかし、日本の現実社会には歴然として”男女格差社会”が構造化されている。
<参考>
 『それは、男女格差の数字だ。ダボス会議という名で知られる世界経済フォーラムが
発表した2012年のGlobal Gender Gap Indexつまり世界の男女格差のランキングでは、
日本は、世界135カ国の中で、101位と惨憺たる有様だ。
そもそも日本は、3年前の2010年でも94位と、多くの先進国や発展途上国の後塵を
拝していたのだが、状況はさらに悪化して、2011年の98位、
そして'12年の101位とこの三年間、降下を続けている。
 このランキングは、経済、教育、健康、そして政治の4つの部門の総合評価なのだが、
対象としているのは、女性進出のレベルではなく、男女間の格差である。
過去4年間、総合評価で一位に輝いているのはアイスランドで、2位から5位まで、
フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、アイルランドと北欧の国々が占めている。
米国は22位、中国は69位、同じく世界経済フォーラムによる国際競争力評価で一位の
スイスは10位。アジアでの最高位はフィリピンの9位だ。
ちなみに女性格差の少ない北欧諸国は、国際競争力でも上位を占めている。』
松信章子のブログから、
http://careercafe-perspective.blogspot.fr/

合掌。
文責/平川武治:巴里市アルレット街にて。

 

投稿者 : editor | 2013年03月06日 05:21 | comment and transrate this entry (0)

2013年03月02日

OLYMPIA LE TANとUNDER COVERの共通性??

 昨シーズンから始めた本格的(?)なコレクション、”OLYMPIA LE TAN”。
 父上の凄さを遠慮なく引きずってのブランド価値はやはり、此の国の
それなりの階級家族の凄さを幸せに、愉しく堂々と見せてくれるから
さすがだというべきであろう。
 
 テーマは“SOUND OF MUSUC"確か’59年の映画である。
裕福なユダヤ人家族が日毎に激しくなって来た戦争から大事な子供たちを守るため
新しいナニに委ねて子供たちを愉しく、かわいく、安全にチロル越えを
決行する実話を映画化した内容だった。

 今シーズンのLE TANのコレクションはこの映画をお勉強に、
まるで”衣装”とでも云い得る程の念入りな愉しいものだった。
エンブロイダリィーやブレードを使っての、
このデザイナーが身上としているクラフトティックなこなしの巧さを
質良く上手に生かした装飾性も上品さを漂わせる迄。
今シーズンのトレンドの切り方が知的なのであろう、
そして多分、それなりの女性は着たくなるかわいらしさと懐かしさをも漂わせた
コレクションだった。

 終わりも近いところでOLYMPIA LE TANに散らついたのが”FETISHISM"。
ここで想いだしたのが、UNDER COVER COLLECTION。
どちらもの根底には”CHAILDHOOD & SEXY"である。
そして、”制服”。従って、コスチュームなコレクションに仕上げた知的センス。
 所謂、”イノセントと性”なる関係性がUNDER COVERとの共通点。
そして、日本人とフランス人の違い、男と女の違い。
こんな味わい方も出来る愉しさが在った上質なコレクションだった。

 会場に使われた館もそのアトモスフェールを巧く活かしていた。
住人の知性と感性が未だ残っている世界、
知性ある趣味性によっての陳列されているコレクション群は
愉しくおおらかさを味わらせてくれた。
文責/平川武治

投稿者 : editor | 2013年03月02日 06:56 | comment and transrate this entry (0)

2013年02月28日

UNDER COVER PARIS COLLECTION, IT WAS A GREAT SURPRISE!!

 コレクション前には小雪が散らつく朝を迎える事が多かった先週も
やっと平常の巴里の寒さになった。

 UNDER COVERが巴里へ帰って来た。
この街でやるために、この街の観衆へ観てもらうために帰って来たUNDER COVEは
“GREAT SURPRISE!!"なコレクションを見せてくれた。

 この会場もGOOD SELECTIONの会場であった。
以前、CdGがその切っ掛けを作り以後も数少ないコレクションしか行われてこなかった
閉鎖的なソルボンヌのボールルームが今回のU.C.の会場。
200人も入ればという躾と知性で構築された会場、
今回のU.C.のコレクション世界の雰囲気を作るにもこのボールルームの雰囲気は
最適であり賢明な選定であった。

 最近のメゾンはいろいろな場所でコレクションをやるのが当たり前になっているが、
案外、コレクションのコンセプトやアトモスフェールを空間化するために
選んでいる事は少ない。
 あの、CdGでさえ、最近の会場の選定とコレクションとは
以前ほどの強い関係性を感じさす迄のものではなくなって来て、
それなりの理由があるとは思えない会場選びである。
多分、現在の多くのメゾンの会場選びとは、
ただ演出的に使い易い又は、多数が入るという理由からの会場選定であろう。
以前よりはコレクションに賭けるイメージング経費も節約が
当たり前の時代性なのであろう。
’80年代後期からのCdGやM.M.M.のコレクション会場の選定とそれに賭けた神経の凄さ、
実際の会場へ委ねる時の興奮がパリコレの凄さの一つでもあったはずだし、
その後に続いたアントワープ系たちがこの手法をも真似る事で
当時、一世風靡した事もあった。

 今夜のU.C.のコレクションにはこの様な嘗ての時代の巧さと暖かみが在った。
このデザイナーと演出家の良いチームワークの元で丁寧に神経を使って
コレクションが必要とする雰囲気を巧く環境によって演出したと云えるだろう。
当然、このメゾンのもう一つの凄さである音楽の素晴らしい事も申し分ない役割を
担っていた。という事で、この久し振りの巴里でのU.C.コレクションは
日本人が特徴とする、細かい神経使いとチームワークの良さと音楽センスの良さを
十二分に使っての結果の“GREAT SURPRISE!!"だった。

 巴里のデザイナー、JEAN COLLONAのコレクション後の感想が“VERY SURPRISE!!"
友人のVESTOJという良いモード誌の編集長のANJAも“心地よいコレクション”と。
音楽も好きだと言っていた。/ www.vestoj.com

 僕が付けたタイトルは”CHILDHOOD"&”SEXY"。
僕の好きな世界だから余計に、好きなコレクションだった。
この“世界観”へ挑戦したジョニオ君に乾杯である。
”CHILDHOOD"&”SEXY"、この儚い微妙なる差異を彼は今回のコレクションテーマにした。
決して、これ迄彼が関わらなかった世界観を創造し、自分自身をも昇華させた。
シルエットで見せるバーニィー。そして、それがレインウエアーなのであろうか?
子供が雨の中をこれを着ると飛び跳ねたくなるような眼が、見る眼と観られる眼が
いっぱい附いた早熟なレインウエアーから始まったこの世界。
それらと交差する”フェッティッシュなボンテージの世界”、被り物とマスクも良い。
ここにもチームワークの良さが見事な世界を生み出した。
後半の猫に変わり、ゴールディーなマスクとネックレスで最高潮の世界まで。

 今シーズンのコレクションは先シーズンの自らのコレクションを反芻いし、
良くお勉強し刷り込んで出来上がったものである。
ここにも彼の素晴らしさ、忍耐力が生まれた。
先シーズンがなければ、今シーズンのこの世界が生まれなかった。

 案外、ファッションデザイナーぶる連中のコレクションほど、
自分の先シーズンのコレクションを自分から進んでお勉強するデザイナーは少ない。
むしろ、殆どがしない。
その理由は、そのレベルのデザイナーたちは俗な“トレンド”が総てであり、
その為にコレクションを作っているのがデザイナーだと思い込んでいるからだ。

 剥ぎ取られたトレンチやボンパーの後ろ見頃がニット、シャツの胸元は心臓が
プリントされ後ろがシースルー、アンビギューティなバランスと
それらに使われた素材、ラバー、レザー、レース、ニット等の本物観を
子どもごころで遊び、ブリ-コラージュして行く。
日本のプリント技術の進化した愉しみも使いこなし、
時にはパンキッシュにさえ、
圧巻は、剥ぎ取られたシャツカラーを、引き裂かれたコルセットを、
有機系形態の詰め物たち、それらもCHILDHOODな遊びこゝろで切り刻み剥ぎ取り
自らのアーカイブを幾重にもブリコラージュし、
着る女たちをより、自由な身体へフェッティシュにボンテージする。

 現代の若者たちが持ち得た自由が選択した不自由さがこの根幹には存在する。
“縛る”“縛られる”事への願望と不自由という安心に恋いこがれる同一性。
何も知らない時の自由と知りすぎてからの自由の差異とは?
きっと、今のジョニオ君の新たな出発がここに所在するのであろう。
彼の”こゝろの有り様”がここ迄熟し始めた。
文責/平川武治:巴里ソルボンヌでのUNDER COVERのコレクションを観て、’13/02/27:

投稿者 : editor | 2013年02月28日 07:25 | comment and transrate this entry (0)

2013年02月24日

東博に於ける飛騨の円空展を見る。

 飛騨の円空展を見る/平成二十五年2月十日。

 円空の作品をこのように一度にたくさん見ることは初めてであり、嬉しい、
心地よい興奮と好奇心が軀中をめぐる良い機会であった。

 
 規模と会場は思ったより小さいかった。
列ぶ事なく、入場制限無く見ることが出来る規模だったので幸い。

 僕が感じ今迄、彼の作品が好きであった理由がはっきりと確認出来る。
その結論は、”神/仏+信仰心+民衆+自然+気+木目/節目=円空仏”という
実に解り易い、明解、明晰なるこゝろの有り様からの覚悟で生涯5000体以上を
作り上げたエネルギィーと結心に観る者への激情や情感を含むエモーションを
与える強さが在るという事だ。

 ここには、彼、円空の世界には、“媚びる”という概念が存在しなかった。
彼の生そのものが彼にとっては“媚びること”であるという迄の覚悟を持っての生まれから、
その後の人生が始まった人であるから、作品で”媚びる”という世界で仏像を造っていない。
媚びる事によって要らぬ装飾が必要になる。
媚びるためにそれなりの様式を重んじなければならない。
媚びるためにそれなりの大きさが必要になる。
これらを総て排除したところに彼の世界観がその中心軸に神仏観が大きな幹として
直立していた。
だから、木片でいい。廃材でいい。老木でいい。枯れ木でもいい。
円空のこゝろの有り様は総て彼の作った神仏像の”眼”の表情に現れている。
これだけ充分である事も彼は見ぬいていた。
一宿一飯と見窄らしい衣。
この様な姿であっても、このような彼の世界観がこの後世迄残せ、
観る多くの日本人にその時代時代による安心を与え、感激が与えられる。
ここには安っぽい西洋美学は入り込めない。
アフリカのシャーマンが造った木像や面など、
世界各地に残っているシャーマニズムが持ってしまった
ピュアーな神への畏敬なこゝろの有り様だけが入り込める相手である。
白人社会では11世紀迄のロマネスクにしか太刀打ち出来るモノは
余程のモノでない限りないであろう。
 彼、円空の世界には“プロパガンダ”という下こゝろがない。

 自分のためでは無い。自分の存在を、育ちを神仏心を持って"GIFT"として
どれだけの他者たちへ、彼の場合はそれが民衆へ何か出来る事が在る。
という迄のこれは覚悟を決めてしまった者だけが持ち得る自信であろう、
これを見せびらかすのではなく、実に、淡々と自分が出来る事を
神仏こゝろ100%以上に込めて為せる事を即ち、“GIFT"を残して行っただけであろう。
 
 白山信仰をその根幹として始められた彼の神仏への畏敬のこゝろの有り様が
為せた業でしかない。ここに、後世迄も観る者にその持ち得たこゝろの有り様を
重ねあわせる事で得られる安心が未だ生きているのであるから凄い。
多分、観る者に神仏こゝろが在れば在るほどにその尊さに自心を委ねたいであろう。
その多くの鑑賞者たちはどれほどの宗教こゝろが在って、重ね合わせて
観賞した事なのだろうか? 
でないと、その表層の形骸的な驚きだけで”良かった、物凄かった!!”という
例の、文化モノも消費される構造の中でしかの展観に過ぎないであろうし、
それだけの感嘆だけの展観であろう。

 彼のこの神仏を崇め拝む根幹であった”白山信仰”とは?
がまともに解説されていればもう少し彼のこゝろの有り様へちかずく事が
出来たであろうと、
この辺りの当時の日本人が持ち得ていた信仰こゝろの有り様が理解も出来、
より彼の作品の生まれでるまでの苦悩とその道程とそれを拝む民衆たちの
こゝろの在り方も感じられた事だろうと。
 
 若者は今回の展観を観て、“円空”の存在と彼の仕事と生き方に好奇心を持ったなら、
先ず、彼の全体像を知る事から謙虚に学んで欲しい。
本展観はタイトルの如く、”飛騨地方、千光寺を中心とした規模と範囲に限られた”
展観であるからだ。
 これは彼の世界観と彼が生きた証の僅か、100分の1ほどの規模と内容なのだ。
 
 興味を持たれた方が参考に読んで欲しいのは;
『歓喜する円空』/梅原猛著:新潮文庫刊

 幾つかの彼の足跡を訪ね、神仏こゝろと共に尋ね歩きたくなった展観でした。
ありがとうございました。
合掌。
相案相忘。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2013年02月24日 00:18 | comment and transrate this entry (0)

2013年02月21日

久し振りの巴里で交換した幾通かのメールより。

 太陽を 追ってちかずく 灯る巴里
 会の後、幾通かのメールを頂きました。
それぞれが、僕が学ばなければならない多くを示唆して下さっている内容でした。
変わらず、おこゝろ、ありがとうございました。
 *
 僕の未熟さを見抜いての、言葉足らずを救って下さった“瘤ドレスと中川先生”の関係性。
ここから始めましょう。
 僕の経験からの見解では当時のCdGを救ったとも云える“瘤ドレス”の件の本質は、
中川先生との出会いでした。
激しいまでの美しさを生むお人のこゝろの有り様とお軀の実態。
この所謂、超現実。
これに接した時に感じられた衝撃とその後の衝動。

『驚き』+『美しさ』はより、激しさを持った『感動』や『感激』であり、
そこにこそ美意識と想いを入れ込んで出来上がるものが”特意性”あるもの。
そして、初めて見る畏敬による”モノ”としての服。
人間の躯つきまでを変えるものとしての”服”がここに存在したのでしょう。
瘤という見掛けの形態とその内面の美しさが根幹だったのでしょう。
例えば、J.コクトーの”美女と野獣”ですね。

今までに”なかったあやういモノとそこに漂う美しさ”
ここまで考えられた川久保玲の”瘤ドレス”が生まれたのでしょう、きっと。

「表層のカッコ良さから目覚めた眼差し。」
とでも呼べるあやうい美しさなのでしょう。
が、その根幹は一瞬の眼差しの交差だった。

ある時期、嘗ての’90年代の半ばは、
例えば、もう既に古くなってしまったご存知のあの当時のアントワープ校でも
“表層のデザイン”、形骸的なる驚きを服化する事を
西洋人の美意識外への方向性へ委ねて、
そこに現在に生きる女性像を重ねあわせた”特殊性”として
教えてしまっていた。
あの頃は未だ、“イメージ”が先行していた時代でした。

結局は自心のこゝろの有り様を覚悟し、重ねあわせるのか?
自心のこゝろの有り様の差異を写し取るのか?
その時の眼差しの広がりと深さを何処までに?
ただ、表層を切り取る事は容易な時代になってしまった。
写真ででも、言葉ででも、モノででも。

『 頭はすぐに忘れます。
こゝろは感じます。
躯は覚えています。』ひらかわ/
この三位一体が今後のクリエーションの一つの根拠性へ?

では、これからの新しさとは何で時代の表層を切り取るべきなのか?
ここで僕は一昨年から“五感”を学び始めました。
身体における五感、
仏教における五感、
哲学における五感、
モノに現れた五感、
作品に使われる五感、
生活に必要な五感、
そして、”五感”とは、

視覚+聴覚+触覚+味覚+臭覚=五感。
結局はこのバランス在る”調和”とは?
時代を象徴出来るバランスとしての”調和”とは?
そのとき、服とはどのような佇まいとありようを見せるのだろうか?

僕が言って来た、現在という時代性は、”視覚+聴覚”がより、先攻、先鋭化してしまった
時代性というほか在りません。
これでは人間”という哺乳動物が、
この生命体が益々、異型化して行く進化は拒めません。
新たな時代への、新たな”五感のバランス化”という問題を定義しなければ、
四足歩行から二足歩行へ進化した人間が一番進化した感覚は“視覚”だったのでしょう。
が、

今は、『皮膚感覚と人間のこゝろ』/伝田光洋著/新潮選書刊というのを読んでいます。
学ぶところが多く、興味たくさんの内容の本です。
“皮膚感覚”で作るイメージ。
“皮膚感覚”でデザインする服。
“皮膚感覚”で読む評論。
“リアリティ”が先行してしまった時間軸には
“皮膚感覚”に因って、躯で覚えてもらう。

頭脳が先行するのみの時代は後退してしまった。
理屈でこね回す世界はカッコ悪くなる。
"日常”をどのように経験して感じるか?
この様な時代性では“皮膚で感じる”事の
直感が一番的確でしょう。
その時の形容詞とは?
ぞっとする、ざらざらする、粘り着く、むずむずする、冷ややかな、温もり、
よだつ、痒い、くすぐったい、こそばゆい、ひだるい、気だるい、
寒い、熱い、暖かい、冷たい、ふんわり、じゅっくり、滑らかな、つるつる、、、、、

日本の従来からの”美意識”を表現する言葉は
この皮膚感覚/触覚感覚の言葉がその大半でしょう。
http://www.sony.co.jp/Products/SC-HP/cxpal/vol82/pdf/angle82.pdf
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/31247/1/WasedaNihongoKenkyu_01_Hosokawa.pdf

 **
 友人から紹介されたアーチスト、Gordon Matta-Clark。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gordon_Matta-Clark
川俣正がインスパイヤーされたアーチスト。
川久保さんたちの世代ですね、ちょうど。
ほぼ、僕と同時代の人。35歳で夭折しています。
双生児で、建築を学んでの活動。
彼の作品はあれだけの”遊び”をするに、相当の学んだものが在っての
それに対する“狂気”と“覚悟”の世界でしょう。

 「われわれはただ賭けるだけである。
それが生きることだからである。」/大森荘蔵:

あの時代には未だこの“賭ける”というこゝろの有り様が
一つの強い生き方であった時代でした。
彼は’68年に巴里へ来て巴里大へ留学しちょうど、当時の“MAY'68"革命に遭遇し、
参加もしたらしいですね。都市を”美しく壊す”という発想が当て嵌まる一つであれば
もしかしたらこの体験に因るところも考えられるでしょう。
『フィロソフィー』+『美意識』+『愛』+『生き方』+『社会性』+『日常性』
此の関係性の途中での現れる”ノイズ”が若しかしたら
”狂気”を生み出す要因なのかも知れません。
また、当然ですがそこにも”覚悟”が要りますね。

 ある時から、総てが”ゲーム”に構造化、組織化されてしまった社会構造。
そこで見事に、惨めに”飼いならされて来た僕たち。”

そこに巨大なるこの時代のパワー構造としての
”資本主義”構造が“自由主義”というルールを携えて、社会化し、日常化し始めたのも
この’60年代から。
そして、いつの間にか、この“自由”というルールがマニュアル化させられ
総てが”ゲーム”化し始めた’70年代。
確か、’60年代は“ハプニング”でしたね。
“シュミラクル”と”パフォーマンス”そして、今では“イベント”。
広告代理店の仕事に成り下がってしまったのが現実。

ここには”哲学者”が必要なくなり始め、代わって
資本の流れに都合良い事を構造化するための“理屈屋”である
”社会学者”という立ち居場所が出来始める。
彼らたちとそんな社会の現実化をバックアップするところの”広告屋”がたちが今度は
“情報社会”という自分たちに都合の良い構造を表層化し始めたのが’80年代でしょう。
そして、それらに必需である”マネー”の流れ、即ち、金権資本主義の登場とその仕組みの
“マネーゲーム”という”ゲーム化”の出現。そして、ここに登場したPCという
ブラックボックスを利用したゲームが“仮想”化された手法が仕組まれたのが’90年代。
人間が未来の世界観を覗き見したいという願望が”芸術”という世界と手法を
こゝろの有り様で”芸術家”という立ち居場所の人たちが生み出したとすれば、
現実の”仮想社会”が構築され始めるとこの“芸術”の世界もゲーム化され始めたのが
21世紀へのプロローグで在ったかもしれません。

 こうして考えてみると、これらが現代である総ては、“過去”に成ってしまったのです。
そう、僕たちは”現代”という”過去”に生き始めているのです。

 ”また、僕たち、人間として生きて行きたいよね”という人種たちが生き残り
求めなければならない事とは?
ここに、新たな”賭け”が必要であり、その“賭け”に参加するため、勝つための
“決心”と”覚悟”が必要。
その為の、新たな”自心のこゝろの有り様”とは、
“決心”とは??????
”結心”で在る事の誠実さへ。 

 Gordon Matta-Clark、彼の展覧会のヴィデオは
この時代に生きた人間の”賭け”と”覚悟”によってやはり、潔い自分の世界観を構築した
作品群です。全く、シンプルで斬新、だからカッコ良い!!
これがまた、建築専攻だったというから驚きというか、納得。
まわりの建築家ぶる事に煩わされている若い建築家や学生に見せつけたいくらいですね。
構造を理解しているから、切るべき切りどころを押さえているのでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=-NOad-06Ms4&feature=player_detailpage
この論文も併せて読まれると興味が広がります。[作者/平野千枝子/山梨大学]
http://www1.doshisha.ac.jp/~bigaku59/youshi/h_12_2_1.html


 ****
 巴里には、何か、いつも新しさを感じさせる気配とその状況を生み出しても居るので
愉しくも、好奇心が僕のようなものには大いに働かせてくれます。
これもこの街が持っている魅力である潜在力の一つでしょう。
東京にはこれが本質的には既に消費されてしまう構造の中での
新しさでしかなくなっています。

そのパワーには凄まじいものがありますね、
一番、誰でもが嵌ってしまい易い、
人間の解り易い”業慾”の近くに位置しているからです。
この、安直なる恐ろしさは
もうすぐ3年になる、あの『3.11』で多くの犠牲者と共に啓示された事を
忘れないように。

日本を発つ前に起った事の重大さとは?
きっと、今の日本に居ると気ずきずらい構造なので
気ずかずに居ようとしてしまうでしょう。
いろいろ、地球が人間たちの強欲に幾つかの警告を
タイミング良く発し、それらを受け始めたのではないでしょうか?
今年は世界レベルで日本と日本人が”覚悟”せねばならない元年になるでしょう。

巴里は思ったより、寒い空気が。
でも、春はもうすぐなのでしょう。
木の芽の脹らみが公園の樹木に
そのおさな姿を見せ始めていますから。


 *****
 以前に調べた事なのですが、『寂と侘』の事を想いだしました。
これからの”賭け”のためにこゝろするものは多くの中から選ばれたARCHIVES.と
この『寂と侘』の関係距離でしょうか?
この関係距離を20世紀のハードウエアリングを21世紀のソフトウエアリングと
全世紀のラブヒューマンウエアリングに因ってコンピューターリ-ミックスが可能か?
そこへ何を”賭け”るか?ですね。
地球、自然、人類、家族、友、そして、命、過去又は、未来??????????????
いずれにせよ、”取り返し”の効かないものを“決心”と共に”賭ける”しかないでしょう。

 『さびとわびについて,』/唐木順三著『千利休』より,:
 『寂』は無を根底としているのに対して,『侘び』は有と有との対比の観念である。
―巨大なものに対する狭少,派手に対する地味,豊富に対する欠乏,豪奢に対する謙虚でありながら,どこかに自己の優越を感じているという所に『わび/侘び』の世界が存在する。
 *
 元々『わび』の観念は“有”と”有”の対比の観念である。
このただの,対比だけの観念であればそれは西洋人たちでさえ持ち得た観念である。
 『わび』が『わび』と成りうるには,この観念の元で,そして,此の関係性のどこかで
作者の人間的優越なるこゝろの有り様が存在する所に『わび』が生まれる。 
 この人間的優越なるこゝろの有り様によって『わび』の世界に日本人特有の自然との
ともいきによる,こゝろのゆとりと調和が日本人の湿りをともなった情緒を生み,
“諧謔”や”哀愁”や”皮肉”さえも一つの姿を現す。
 **
 多くの日本人が、特に海外へ出た経験のある若い世代の輩たちは
それを外国人によって教えられたかのように当然の如く、
『さび』『わび』を簡単に、単純にさも,自分の言葉の様に使うが,
その大半の日本人の輩たちはこの『さび』と『わび』の世界観の相違が理解出来ずに
もしかしたら,ただ無闇に日本人ぶる事のワンポイントワッペンのごときに
使っているだけであろうと思ってしまう事が外国に居ると多くある。
文責/平川武治:平成二十五年二月二十一日:巴里市オウルレット街52番地にて。

投稿者 : editor | 2013年02月21日 19:16 | comment and transrate this entry (0)

2013年02月18日

3Dプリンターの面白さ?!"MAKERS"から学ぶこと。

 15日のLEPLI/VACANT会へご参加、ありがとうございました。
久し振りの、今年最初の会,愉しくのんびりとたくさんの事が
皆さんと共有出来た時間に感謝です。

いつもの如くしゃべり過ぎた僕ですが、
熱心に聞いて下さった皆さんのこゝろの有り様が嬉しかったです。

 今回の1部で喋った、“MAKERS"の現実と今後には注目する価値があります。
「PC+3Dプリンター」は今まで、”パクってなんぼ”をデザインと称して来たレベルの
デザイナーたちにはやはり恐怖でしょうか?

 20世紀はもう既に終わってしまっています。
21世紀はこの20世紀の構造に新たな万能ツールの一つとして、
PCが定番必需品になってしまいました。
これによって、例えば、“パクってなんぼ”であったファッションの世界がもう、
オープンリソース、パーソナルリソーリングの時代性になってしまったという事です。
パクリ合っているのにクローズドな構造をイメージングとメディア戦略で
構築して来た時代が20世紀。
この時代錯誤が現実に閉塞感と共に自爆し始めるでしょう。

 僕が言い切って来た“TOPPING+OPEN-KICHEN+CLEAR MANAGEMENT"方式が、
「PC+3Dプリンター」という21世紀の必需品の登場でより、パーソナル仕様のモノが
製作可能になるシーンを生み出す。
ここに、21世紀の新しさが”豊さ”のベクトルの差異によって誕生する。

 この20世紀の”豊さ”は『ARCHIVES』という新たな21世紀の”知とモノと人”を
PCによる集積のカテゴリー、それはまるで17世紀の”知のための図書館分類学”の
構築の如くによって、新たの時代へ向けての分類学へ進化する。
例えば、この様な嘗てのアーカイブ即ち、語り合えるエピソードが
"PUNK"という螺旋階段出のワンシーンを意識し始める。
そして、「PC+3Dプリンター」の新たな産業化によって次期へ産業寄与する。
現状のままでの進化の後退とは、その決定的なる根幹は
『作り手の一方的なる発想と構造』によるものである。
これではただモノの”バリエーション”の世界の蔓延化。

 そして、ARCHIVESとはモノだけではなく最終的には究極のソフトである
”人間”もアーカイブであるという認識。この利用方法が案外と根幹でしょう。
20世紀のハードウエアーは21世紀のソフトウエアーでより、
オープンにそして、パーソナルに制御コントロールされる。

 ハイ-メディア化+「機械化された手工業」=新たなファッション産業の手工業化。

 LEPLI?VACANT会のデジュメから;
  参考書/新刊『MAKERS』21世紀の第3次産業革命が始まる;
*クリス-アンダーソン著;http://pr.nhk-book.co.jp/makers/book
 3Dプリンターを使う事によって出来得る新たな可能性。
 作り手と消費者の距離と際を完全に超越出来る事を示唆した入門書。
ー「デジタルマニュファクチャリングとパーソナルマニファクチャリングが
 一体化された時に,”第3次産業革命”が興る。」
—「今時は全員がインディーズなのだ。」
—「ハードウエアーはソフトウエアーになりつつある。」
ー「オンデマンドで商品が生産されるなら,オンデマンドでデザインも出来る。」
ー「これはデスクトップ-マニファクチュアリング』
ー「もののインターネット化がデザインのインターネット化へ。』
ー「小規模でもグローバルになり得る能力。職人肌でありながらロウコスト。」
ー「小さく生んで大きく育てる。そして,旧い大量生産モデルに煩わされないで,
 優れたもの,世界が望む製品が作れる可能性。」
ー「コンピューティングとコミュニケーションもまた,”能力増幅装置”。」
ー「マスマーケット文化は,ロングテールを持つマイクロマーケットに変革した。」
—「これはアマチュアのルネッサンスなのだ。」

 *”L.V."のビジネスコンテンツの根幹(?)/「機械化された手工業」の発想。
『歴史的条件がもう少し異なっていたら,クラフト的技術と柔軟な工業設備を組み合わせ,
それを生産体制の基盤とした企業こそが,現代の経済社会の中で中心的な役割を
果たした事であろう。その場合には,大量生産体制が製造業の分野を制覇するということも
起きなかったはずである。若し,この機械化されたクラフト的生産体制が普及していたと
すれば,(中略)特定のコミュニティと深い関係を持つ製造業者が一般に成立していた
はずである。』
/『第2の産業分水峯』より;M.ピオリ& C.セーブル著:筑摩書房'84年発刊:


 参考/3Dプリンターの面白さ愉しさの現実は、
http://cunicode.com/
http://cunicode.com/one-coffee-cup-a-day/
 こんなのを応用して行けば、自分使用のパーソナルものが出来てしまう。
新たな”豊さ”の時代、凄い時代ですね!!
ありがとう。
相案相忘。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2013年02月18日 02:28 | comment and transrate this entry (0)

2013年02月13日

“モードにおける新しさは進化している。−2” [MEKERS]と”Iris van Herpen”。

“モードにおける新しさは進化している。−2” 
 昨年の12月の話、
ANREALAGEの出版と展覧会記念で渋谷PARCOで行われたトークの会での
僕の発言がもう既に世界レベルでは、時代の新しさを生み出した。

 *
 その日の僕のデジュメをここに紹介しておく。
 『 僕の見つけた新しさ。/ひらかわたけじ:平成二十四年十二月十五日:

1)マイノリティたちの“nation identity"が情景化し始めた。
 ユダヤ教を信じている正統ユダヤ人たちの民族衣装の日常化と
 マグレブのニュージェネレーションたちの民族衣装の日常化。
 ファッション広告に現れたイメージとしてのユダヤ人。
 ここで,完全に”The image no more making a realty.
The realty making a image."という時代性が日常化し始めた。
参考図柄/
映画"NewYork,I love you."から、N.ポートマン、
―マグレグニュージェネションズの民族衣装の日常。
ーD&Gのグラスの広告写真。

2)もう一つ,感心した新しさ。
巴里のそれなりの路上に於かれた”リサイクルボックス”。

3)巴里で出会ったモード誌、“vestoj”
北欧からの南下組たちが作っている本。
http://www.vestoj.com/

4)なぜ、「秋元康の一人勝ち」か?
 AKB48の登場とそのイメージング。
ー此処で”ギンガムチェック”の駅ばりポスター。
日本の豊かさの後の、豊かさを象徴するものはこれであろう。
彼らたちが完全に従来の戦後日本のエンタメ世界のビジネス構造を変革させた事。
 これが現在、日本社会の豊かさのシンボルンであり,日常性となった。
彼の発想の根幹には、
―発想の違い。/ここには江戸時代の『大奥』の構造仕組みが読み取れる。
―時代の読み方の新しさ。/誰でもがそれなりのことが出来る豊かさの現れ。
             誰でもがデザイナー、アーチストという時代性。
―構造としての”情報社会”を熟知している。/構造の強さと脆さ、生身さを熟知している。
―それを新たな”コンテキストと構造”によってメディア化した現実。/リアリティの集団化。
 それによって,”秋元康”は現在のエンタメ世界で独り勝ちしている。

5)新刊『MAKERS』21世紀の産業革命が始まる/クリス-アンダーソン著;
 3Dプリンターを使う事によって出来得る新たな可能性。
 作り手と消費者の距離と際を完全に超越出来る事を示唆した入門書。
http://pr.nhk-book.co.jp/makers/book
―「今時は全員がインディーズなのだ。」
―「これはアマチュアのルネッサンスなのだ。」
―「機械化された手工業」
―「ハードウエアーはソフトウエアーになりつつある。」
そして,「ゴールドやシヴァーという色はもう特別な色では無い。」
 POINT/
ここで、“豊かさ”によってもたらされた新しさとは,
「みんなが作り手。」であり、
「全員がアーチスト又はデザイナー若しくは書き手。」
此処で“THE REALITYの新しさ。”を熟知する事。


6) 「秋元康の一人勝ち」+「機械化された手工業」/3Dプリンターの登場
 =新たなファッション産業の手工業化。
 ここで、『新たなアパレル構造の構築化。』

7)結論的な事、
 僕の本心は,
若い人たちがより,“自分たちがやりたい事、世界観”で
実産業へコミット出来るか?コミットして欲しい。
そして,社会に寄与可能な自分世界を持って欲しい。
その大いなる意志を持ってほしい。
『現代という時代の豊かさの現実とは、もう既に,誰でもが,
デザイナーぶったり,アーチストぶりたいのが当たり前である時代。
GOLDはもう特色ではないという事。』
従って、この豊かさから生まれたリアリティの”新しさ”、
『もう,誰でもがデザイナーであり,アーティストである時代という新しさとは,
誰でもがそれ何の手順を踏めば,何でも作る事が可能になるということ。』
この新しさを日本の低迷中であるアパレルが芯激に受け止めて
新たなコンテキストとコンセプトを持って”ファッション産業”に寄与する為の
産業革命を興すべきである。/”第3次産業革命”のための発想と妄想。

8)読んでいて不思議と今の時代観とチューニングした本。
『虚空の彼方へ』A.ロース評論集/A.ロース著/
http://www.acetate-ed.net/bookdata/021/021.php
 僕がアパレル後,この世界、モードッ評論への切っ掛けになった
建築家,A.ロースの評論集の翻訳本が出来た。
19世紀末から20世紀初めに書かれたもの。
不思議と今の時代観にチューニングされ,読みがいがあった。
此処に書かれている事を現代という時代性の螺旋階段に仮想すれば
例えば,現代日本のファッション世界へその異差をチューニングすれば
いろいろ,学ぶところがある。

 *そして,皆さんが可能な一番新しい社会を,リアリティを生む為にも明日の投票には是非!!『リスクある決断』を。

 *オマケ/+α-
"The Modern Art means?"
 "Art is defined only within the story called Art History.
Artifacts shown at this exhibition are not works of art.
They are rather souvenirs, selected specimens of our collective memory."
–Walter Benjamin

 One day, long long ago, when young Alfred Barr, Jr. was in Paris, he visited Gertrude Stein in her Salon. During the conversation, he told Gertrude about his plans for establishing the Museum of Modern Art in New York. Puzzled, she looked at him with a smile: "That's nice, but I don't understand how it can be both a museum and modern."

 Clearly, the name Museum of Modern Art was an oxymoron, and Barr almost certainly did not have a ready answer. It took him several years of a bumpy ride on the "Torpedo in Time" to realize what the Museum of Modern Art was going to be. It was the 1936 exhibition Cubism and Abstract Art and the now-legendary diagram on the cover of the catalogue that showed Barr the way.

<これがその会のために準備したデジュメ。>


 **今年になって興った”リアリティの新しさ”そのー1。
 今年の経済雑誌”東洋経済”誌の年頭特集に
この新刊、『MAKERS』/21世紀の産業革命が始まる/クリス-アンダーソン著;
PCと3Dプリンターを使う事によって出来得る新たな可能性が特集化され、
その現在地点と今後の可能性が報じられた。

 そして、その次は、
 僕が考えていた3Dプリンターによるモノ造りをこのファッションの世界で
試みたデザイナーがもう既に登場した事である。
 先月行われた巴里のクチュールコレクションで、
『オランダ出身で現在はロンドンを拠点にしているデザイナー、Iris van Herpenが
アメリカの3DプリンタメーカーのStratasys、CAD ソフトを開発・提供する
Materialiseの3社がコラボレーションを行い、パリ・ファッション・ウィークでのオートクチュール・ショウ「VOLTAGE」にて3Dプリンタで出力したドレスを披露した。』
http://www.irisvanherpen.com/
http://vsmedia.info/2013/01/25/iris-van-herpen-3d-printed-dress/

 彼女はオランダのアーネム卒業、僕も彼女の卒展では審査をし、
その後の彼女の世界の作り方に興味を持っていてリー-マックイーンの後、
幾度か会って話しをした事のあるデザイナー。
 以前僕が論じていた、”『もうミシンと針と糸で、』の世界ではない服作り。”に
やはり登場させたデザイナーである。
 ファッションの世界でこの時代の新たな流れは今後どのように
”巴里のモードへ浸透して行くのか?
ただの”プロパガンダ”で終わってしまうのか、”立ち居場所作り”で終わるのか、
それとも、アメリカのこれらの新産業が新たなモードの地平線として、
可能性ある新たな”モードのキャピタル”へ向けたプロローグか?
確実に、歴史的に見ると従来の”巴里”は決してこれをウエルカムはしない。
単純に、“特意性”としてその立ち居場所を与えるが正面玄関は開かない。
ここが”巴里のモードキャピタル”の恐ろしさで有り強かさで有り弱みでもある。

 何れにせよ、これが今後どのように進展して行くのだろうか?は見応えの在る
モードにおける、一つの新しいシーンであろう。
ここには大いなる可能性が僕たちの國にもある。
そして、新たなファッション産業への寄与が存在するであろう。
これに依って閉塞化した”アパレル産業”のリノベーションと生産構造の再生が読める。

 僕が考えていたPC+3Dプリンターによるモノ造りは”日本アパレル産業”への
何らかの救世主になるという眼差しで在るり、その根幹は”1ブランド、1デザイナー”
という構造の必然性が無くなる時代性を予告している。

 ここにもう一つくわえる新しさとは、『ARCHIVES』がある。
これはVACANTの会で話そう。
相案相忘。
文責/平川武治:


投稿者 : editor | 2013年02月13日 19:16 | comment and transrate this entry (0)

若き二人の発言者、蘆田裕史と工藤雅人のレベルとは、/昨年末のANRAELAGEの会で。

 “モードにおける新しさは進化している。−1” 
昨年の12月の話、
ANREALAGEの出版と展覧会記念で渋谷PARCOで行われたトークの会での
僕の発言が時代を予告した結果となった。
が、その前に、言っておきたい若き発言者の二人へ気になった事を発言する。

 *
 森永邦彦 と参加者のたち若き評論家と称する人たちと共に僕も交え語る会。
参加発言者へのテーマは“今それぞれが思う新しさとは?”であった。
 一人は京都服飾財団の団員であり造形関係の学校の先生をしている蘆田裕史 。
残念ながら彼のモードへの眼差しは書面教科書程度。
モードのリアリティを知らない日本的ファッション文化人を装うお利口さんレベル。
彼の発言は“M.WORTH/Charles Frederick Worth"のクチュールの時代が
現代の時代性に類似しているというもの。
1911年に彼がロンドンから巴里へ進出し、自分のオーダーメイドシステム
今で言うところのクチュールハウスを開きそれ以後、
巴里でのオートクチュールビジネスの時代が始まった。
 この様な時代性が現代に類似しているとうい単純な表層からの一般的な知識の
見せびらかしを行った。しかし、それを視点にするなら彼、M.WORTHの
当時の時代性と社会性からその時代の新しさを先ず説明すべきであった。
M.WORTHが何のよりどころも無くロンドンから巴里へ来てクチュールハウスを
開店したのではない。彼なりの”時代の読み”が根拠としてあったからであり、
これを先ずは説明した上でこの若き評論家は学んだ事と経験とによる視点で分析し、
比較した上での論点でなければ無ければその論説は主張出来ない。
難しいカッコ付けの言葉の空売りがモード評論では無い、
モードとはその時代の社会性と時代性に乗っかって展開して来たものである。
思ったとうりの、所詮、『論語読みの論語知らず』。

 身じかな人間に入れ知恵されてのお仕事だったのだろうか?
彼の穿いていた下モノはM.ブランドの200%エゴに挑戦しているデザイナーからの
貰った物を身に付けての登場も含めて、森永君をナメての登場か?
或いは、このレベルのカッコ付けの”安請け合い”お仕事だったのか?
彼の”表層的なる短絡”的視点は惨めでカッコ悪い限りである。
彼をそれなりのファッションを語る側の人間として持ち上げられ、
その立ち居場所だけを利用した銘柄に弱い“下こゝろ”に溢れた輩たちに、
僕流に言えば、”むやみにデザイナーぶる”若しくは、”ファッション長屋の世話焼き
おばさん”たちに利用されているに過ぎないレベルと実感した。
もっと、リアリティを見詰め、既に、折角の立ち居場所を持っているのだから
学び、大いに豊かな世界にして欲しい。

 もう一人の若き発言者、工藤雅人は正論を、技術の新しさを発言した。
が、その根拠にはどの様な新たらしさが新しいのかの探究心ある分析は
感じられないものだった。彼には時間が足らなかったのだろうか?
 序でであるが、彼が着ていたシャツはデザイナーから貰ったもの。
未だ、ある種の彼らしい無邪気さ(?)とGOOD WILLを感じるがやはり、
この二人の若き発言者は、このレベルと世代ではしてはいけない事である。

 慣れは恐ろしい、“飼い慣らされてしまってはお終いである。”
“発言者”であろうとするならば、”こゝろと美意識は贅沢さ”を持たなければならない。
この世代もファッションへ発言するならば、ジャーナリストと称されるならば
その立ち居場所で持つべきプライドというか、含羞も必要である。
ここにも、ある種の”原子力ムラ”と類似する構造が見て取れる。
惨めであり、危険である。
 
 ファッションを論じるとは、単純にいってしまえば、
自心のセンスと知性で覚悟を持って、”時代と寝る”事で論じられる世界である。

 **
 この会が終わって頂いたある人からのメールを紹介しておこう。

『——―二人の発言者が血迷うが如く選択肢が無いと言った時には
自由が故の不自由、
枯渇が産む貪欲の欠如、
探究心って言葉を知らない世代
正直バッカじゃねーのって言いたくなり、
知りもしないのに(中略)同じ土俵に上がったつもりで、
アンリアレイジに新しさは無いとか言い腐る様には
背景の想像力の欠如モノを作った事のない表層の上っ面だけ舐めて
分かった気になってるだけの論者に次世代の感覚を肌で感じました。
ちょっと怖かったです。』
第1部終わり。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2013年02月13日 16:39 | comment and transrate this entry (0)

2012年11月10日

あの瀬尾英樹くんが巴里で、このような展覧会をやります。

 皆さん,あの瀬尾英樹くんがこのような展覧会をやります。
アントワープアカデミィーの卒コレで審査にいらしていた
アズディン-アライヤさんに認められ、
卒業後,彼の要請で日本人初のアシスタントとして丸,5年を勤める。
そんな彼が行う, “The 1st. Exhibition in the Paris."
是非、彼の知的好奇心と狂気溢れる創造による世界観を楽しんであげて下さい。 

http://www.connaissancedesarts.com/design-decoration/agenda/hideki-seo-98958.php

 僕の26年間の経験から言って,
 海外で学んでも,海外に残って、海外メゾンやデザイナーからビザを取ってもらって
仕事が出来る迄の才能ある、この瀬尾くんのような人たちは殆ど皆無な現実。
スタージュ/インターシップと称するタダ働き研修(3〜6ヶ月)は在る。
大半の海外留学生組は此れで満足し、帰国後話しを広げるだけである。
パターンメイキングでは日本人の器用さと勤勉さと集中力さと巧さで職はある。
しかし,デザイナーのアシスタントでは極希少である。
嘗ての、“IT'2"で日本人最初の大賞を受賞したの菅谷鉄平くんは実力も在り,
その後、主催者の"DIESEL"社のリゾー社長の肝いりでビザを取ってもらって3年程働いた。
だが,それ以後の連中は所詮”客寄せパンダ”受賞。
 
 そんな殆どの帰国組の連中は日本へ帰国し,このファッション-ゴッコの世界で
自己満足な学歴を振りかざして、大声を上げる。
彼らたちの大声に声に振り回される海外コンプレックス旺盛なファッションメディアと
称する狭軌な世界の連中が構造化している東京ファッション縮図。
ここで”ファッションデザイナーぶる事”に必死な、”ファッション-ゴッコ”業界人たち。

 ファッションに必要なのは,”教養とファッションスキルと経験と技術と関係性”。
この5つのバランス有る調和がその人の”創造の為の世界観”であるはず。
ここに,その人間が持ち備えている”自由の裁量”と人を思う”こゝろの有り様”が
その世界観のテイストでありクオリティであり,人間性である。
 
 自分に才能が無いのなら,辞めるか若しくは,死ぬか,
又は,その大半がそうである様に,何処迄も誤摩化して親の金や立場を利用して
傲慢に生きるかしかない。
そのうちには,儲けた金で小粒なデザイナーに固まってしまうだろう。

 嘗ての様に,”自分の持った夢”への努力とその成就が国家や社会へ貢献するという
同軸性、同時代性が在った時代からもう既に時代そのものが変化してしまっている。
“豊かな時代になった”という事とはこの事である。
デザインの世界で言ってしまえば,禄に勉強もしない個人が持ち得た
狭軌な自分勝手な”夢”は既に、
”国家や社会”に役立たなくなって来たのが現在という時代である。

 この現代という時代性を読んだ時に自分は国家や社会に自分の望む“夢”の世界と
デザイン力でどのように国家や社会に”コミット”出来るか?を学び考える時代である。
 ここには新たなデシプリンと他者の為に何が出来るか?という
21世紀の,また,『3:11FUKUSHIMA』以降の日本人が考えるべき義務が在る。

 ただ単に,教養亡き個人が,”自分がやりたい事をやる”と考えるよりも,
”人のためになる事をやる”事が自分のやりたい事であるという迄の
パラドッックスな発想とこゝろの有り様が,
多分、今は必要な新しいコンテキストであろう。
し,そんな時代が今である。

 巴里へ戻ってこられた奥さんのおいしい手料理で瀬尾くんの狂気感じる迄の作品を
見せて頂き、一足先に帰国しなければならなかったのは痛恨。
合掌。
相案相忘。
文責/平川武治:鎌倉竹響庵にて:

投稿者 : editor | 2012年11月10日 12:47 | comment and transrate this entry (0)

2012年10月20日

ファッションデザイナーたちはファッションデザインで産業に寄与しているのだろうか? その為には“世界知らずにならない様に”も忘れず!!

 此れ程までにこのシーズンの巴里が寒かったとは殆ど記憶に無い。
そんな時期の巴里もファッション業界人が去ってしまった後は
風景が全く変わってしまった。
今週末から行われているアートフェアー“FIAC"でどれだけ、
この街の風景を塗り替えられるか?
ここにも,この国の経済情況の芳しくない情況が全てを見せてしまっている。

 * 
 しかし、僕たち日本人は母国の借金地獄がどれほどなのか?
約7000兆円もの借金と国債が繰り返され殖えて行っているだけのこの現実を知り,
理解し,今後の自分たちの國の将来へ何か,こゝろある決断や思想を持って
生きているのだろうか?
この7000兆円のツケは君たち若者が今後,背負う事になっているのです。

 国民とその国民が生み出した構造の働きにより,
国家が平均的に潤っているときは国民へものその潤いは平均的に寄与される。
此れが国家の根幹的な良い政治における構造である。
しかし,その国家が民力とその構造をうまく使えなくなり
経済の循環効率が悪くなり始めると国力は低下し,
民力の割に国民への潤いと循環が鈍化する。
政治が悪いと言われる発端はここにある。
従って,現在の様に国力が低下し,借金、国債地獄の国家になってしまうと
それなりの人間が自分たちの強欲を持って,国家予算をうまく自分たちに
廻ってくる様な構造や制度を作り、もっともらしく貧しい人をより貧しくして行く。
それなりの人間とは日本では政治家、官僚に多い。
此れは世界レベルでの現状である。
日本を含めた先進国という国々アメリカ、EU諸国は残念ながら自分たちの強欲によって
その殆どが”借金地獄国”である。しかし,そんな彼らたちの日本以外の国々は
戦後,イミグレーターたちを受け入れ、殖える。
これらの国々ではこの国家の貧しさを彼らたちイミグレーターにしわ寄せさせ、
それなりの階級の立場にある白人たちはここでも巧く立ち回っている。
しかし,戦後の日本の現実にはイミグレーターたちが国力の中に
内蔵されてしまっているためにただ,貧しい人たちがより,貧しくなる
構造を作りつつあるのが現在の日本という国の政治であり,現実であり従って、
政治力の貧しさであり,国力の弱さになってしまっている。

 グローバリズムは日本の国力を救わない。
グローバリズムとは強いものが勝つ嘗ての帝国主義列国の植民地政策主義でしかない。
この根幹を知らないで,グローバリズム、カッコいいでのレベルは
今後の日本の将来がない。
現在問題にしなければならない,TPPの問題もそうである。
最後には弱いもの即ち,貧しい者たちだけがより,貧しくなるための
世界戦術であると考えてこのTPP問題に向かい合って下さい。
これのTPPに加入してしまうと現在の日本の国力と政治力ではその後,
ますます中国にも追い抜かされて,アジアのただの國に成り下がってしまうしかない。
そのために,このTPPの周辺で個人のエゴで動き回っている輩たちの下心を見抜いて下さい。
 
 僕が立ち居場所としているモードの世界における日本の立ち居場所も、
この巴里ではもう完全に変質してしまって嘗ての、この巴里を騒がせたデザイナーたちが
こぞって日本人に笑顔と強かさを持ってすり寄って来たあの時代が
もう既に、終わってしまっている、殆ど無視されてしまっている。
そんな連中は器用に”中国”へその強かさを向けているだけである。

 そんな世界の現実があるのに,このモードの世界へ飛び込んで来る
日本の若者たちは物質的なゆたかな時代性と親の世代のコンプレックスから
海外留学も自由に選択出来る迄の当たり前さとプリミティブな判断によって、
変わらず“豊かなる難民”よろしく,それぞれが持ち得た育ちからの表層の
”夢”物語の多くを語っているにしか過ぎない。
自分たちの夢だからそれで良い、の考えから今だから、少し足を地につけた考えと行為を
自分たちの国を念い,決断するべきである。
即ち,僕たちは僕たちの國のために,社会のために、生活者たちのために何が出来るか?
どのような豊かさをこれから提供して行けるか?
その為にどのように産業や経済それに社会にコミットすればの良いか?
という様な成熟な考え方が必要であろう。

 例えば,自分たちが持ち得た”夢”がその最終ではどのように役に立つのか?
自分が持ち得た夢は自国の産業に寄与出来るのか?しているのか?
夢とは最終的にどのような情況を,環境を作り得る事であるのか?
多分、殆どのデザイナー振りたくてこの世界へ下心持って飛び込んで来る
ノー天気な輩たちにはこの考えや発想が皆無であろう。
仕方ない事である,国の経済情況が好調なときは良い。
しかし,日本のファッションデザイン教育にはこの根幹が欠如してしまって
見切り発車してしまっている世界でしかない。
当然,この考えや思想は殆どが無関心なる世界であろう。
親も教えない、世間のジャーナリズムも無関心を装いメディア受けする表層のみを
でっち上げて来たこの20年程であろう。


 **
 頂いた若い人へのメールにこのように返事をしました。
 『如何ですか?
この現実は東京のファッションウイークとやらの現実レベルを見れば解るでしょう。
僕は巴里なので遠くから少し,垣間みるだけでも,センスが悪く,
自分たちの立ち居場所が解らず,ただ無闇にファッションデザイナーぶる事に
煩わされてしまっている殆ど、冒された輩のファッションゴッコショー、
変わらず,枯れ木も山の賑わいショーですね。
それにメディアと称する世界がただその下心として広告ビジネスを繰り広げている
この新たな構造における関係性しか読めません。
しかし,この構造はこの巴里でも同じ構造ですが,
未だ、そのスタンダードレベルが違うので,カッコ良くは見えているのでしょう。
でも,既に此の国のモードのラグジュアリーの世界は“金メッキ”の世界です。

 この様な日本のファッションの世界に,もうひとつ気になる情況は,
ファッションの世界には”学歴”は要りません。
 必要なのは“教養とファッションスキルと技術と経験と関係性”
それに,人間の品格でしょう。
それらを何処で,どの様にバランス良く身に付けたかが現実なのです。
 それ以上に今一番大切な視点は、今現在の僕たちの國が世界でどのような情況と
経済状態にあるかは日本人としてご理解為さって下さい。
それぞれがそれなりの貧弱な自分のエゴでモノを作っていても
その殆どは何も将来の日本に繋がらないでしょう。
ただの“客寄せパンダ”、自己満足のレベルとはこの事です。
 学んだ経験と世界観で実際の日本の社会にコミットし,産業に寄与する事が
考えられる謙虚な”こゝろの有り様”に必要でしょう。

 そうしないと今後の日本は世界からもアジアからも取り残されてしまうのです。
どれだけ自分の世界観で作ったものが社会のため,生活者のために
その為に、実産業にどれだけ寄与出来る様な,モノ造りとそのビジネスを考えて下さい。
そして,それを喚起出来る様なメディアや評論が出てくれば良いのです。

 そのために若い人たちのそれぞれの新しい立ち居場所があるのでしょう。
今の僕たちの母國日本は7000兆円の借金と国債ばかりが在る國になってしまったのです。
先ずは,国力をつける事、産業力と経済力ですね。
それが最後には自分のしたいことが出来る豊かさを再び,生む
可能性ある国家になるのです。
そのために身につけた,“教養とファッションスキルと技術と経験と関係性”
それに,人間の品格のバランス有る調和が大切でしょう。
それらが自心に自信と責任観念を生みます。

 それに依って,本来の好きなファッションデザインの世界で
どのようにカッコ良く愉しくその仲間たちと生きて行けるかでしょう。
 今の若者たちが先ずは,自国がどのような國になっているのか,
その國の将来を念い,考える所で,それぞれの立ち居場所を見つけて下さい。
その為にも”世界知らず、日本知らずなな日本人”にはならないで下さい。』


 ***
 ファッションイベント”東コレ”の本質が変わらぬ,
“ファッションコレクションごっこ”で在る事の一番の原因はここに顕在するでしょう。
自分たちの世界観でデザインしたものが最終的に大げさに言ってしまえば,
国家の産業にどれだけ寄与するか?社会にどれだけコミットしているのか?
惹いては,豊かなる国家にコミット出来るか?
という大きなる視点と志が皆無に等しい輩たちがデザイナーと称して
”ごっこ”をやっているに過ぎない。ある見地からでは,税金の無駄使いでもあろう。

 しかし,今だから,僕たちファッションデザインに関わりを持って
生きて行きたい人間が感じ持たなければならない”責任観”とは?を
もう一度問う事も必要な時代性であり,問わなければならない時期である。
 今,僕たちは,あの“3.11/FUKUSHIMA"以降の日本を見てしまった現実を
嘆くのであれば,先ず,その現実を熟知すること。
21世紀の日本がまだ”戦後”が終わっていないこと、
構築して来た”日本システム”の何が破れてしまったのかの認識、
メディアとはこんなにご都合主義だったとかに問題意識を持つこと。
次には、僕たちの国の復興とは”国力を強くする事であろう。
先ずは,国内における経済的再発展を考える事である。
僕たち国民性には戦後の復興という実際の自信がある。

 そのためには先人たちの苦労を土壌に豊かにしてもらったこの日本で、
自分たちが望む事を,好きな世界で大げさに言ってしまえば,
ファッションによって”国家”とどのような関わりが出来るのだろうか?
ファッションデザインの力によって社会を、生活者たちをどれだけ豊かに出来るか?
どれだけ経済効果を上げるか? ファッション産業へ寄与出来るか?
 僕たちが持った教養とスキルと経験と技術と関係性で持ち得た世界観を武器にして,
デザインというカテゴリーを使って日本の産業をすばらしい情況へ復興,寄与出来るか?

 本来,アートと違い、デザインする事とは?の意味と本意がここに在り,
嘗ての、’30年代以降のアメリカで興った”近代デザイン”運動の根幹もここが
発端である事を今想い出してみる必要がある。

 ****
 視点を大きく変えてみよう,
例えば,このレベルのファッション餓鬼どもがいちおうに口にし、
この世界を解ったふりしているあの、“CdG凄い”の川久保玲の今後は?

 どのように彼女の持ち得た嘗ての”夢”の世界から新たな”夢”へ、
どのように完結為さるのだろうか?
 立ち続けて来た自分の立ち居場所を動かず、“特意性”豊かな創作に励み,
富も,地位も名声も関係性も全てを、スタイリストを辞めて好きなファッションの
作り手世界へ友人3人と始めたブランドの当時の夢はもう既に
総て、手中に為さっているのだ。
 この43年間の継続とは,持ち得た”夢”次なる,新たな”夢”へ,
彼女も又,自分が持ち得た世界観を”教養とスキルと経験と技術と関係性”を意識し、
それらが自分にしかない武器である事に気ずき、自分の望むバランス観で
調和し昇華させるために,全ては理性と努力と勤勉と責任感と決断力、
それにこの人の極めて明解な正確であろう,”潔さ”を持って、
もう一つ、”教養ある上手なお金の使い方”で創作と経営を
バランス有る調和力を身に付け持ち得た、200%の自我を
ここ迄集約,集中し継続して来た結果なのであろう。
 
 では,そんな川久保玲のこれからの”夢”若しくは、それに変わるブランド継続の
大きなモチベーションとは何なのだろうか?
 僕の結論は以前にも書いた事があるが,
川久保玲という人間が持ち得た“人間のがんばり”である。
彼女にはこの“人間のがんばり”が持ち得た責任感の強さと、
とてつもない決断力と潔さのバランスで依然,カオス状態でエネルギィイ源になっている。
此れに僕は彼女の人間としての深さそのスケールを他に見られない凄さとして感じ
リスペクトするのだ。
 インデペンデントなデザイナーブランドでは
多分、日本一のファッションビジネスを展開しているだろう。
(世界レベルでも’09年の統計では、既に世界で19位のメゾンブランドだった。
/Xerfi700より,)よく並び称される”イッセイや幼時”にはこのがんばりが少ない。
残念だが,単純な理由は男性デザイナーだからというより仕方ないだろう。
 
 彼女の”人間のがんばり”には三つの寄与があり、
此れが彼女の”夢”への最後のモチベーションであり真の立派さである。
 一つは此れだけのビジネスを行う事による日本のファッション産業界への寄与である。
素材やプリントの開発,デザイン性や生産工程への無数なる感性と技術の調和による
産業寄与そして、それらは99%は国内生産品(小物革製品を除けば,)であり、
使っている素材も多分、全てが国産製品であるという迄の産業寄与を行って現在がある。
イタリー製とか中国製という世界はこのブランドには無い。
(海外デザイナーたちでさえ例えば,あのP.スミスブランドの嘗ては,
その全てが自国,英国素材を使ってのブランドビジネス。)
 それから,彼女の世界を好きで買って着てくれる消費者たちの欲望への
満足度や喜びや安心感や豊かさを与えている寄与。
 もう一つはその結果によって,共に働いてくれている仲間即ち,
600人と言われている社員たちとその家族たちの生活保証という
現実への責任ある寄与である。

 この“人間のがんばり”というエネルギイにはその最終着点は無く、
カオスであり,在るのは独りの人間の死でしか無い。
従って多分、本人は当然であろうが独りの人間としてどのように与えられた生を
自分の世界観の内なる立ち居場所で全うするか。
そのためには以前と変わらぬ自分自身の世界観を調和させる事。
その立ち居場所で彼女にとってはそれが日常性となってしまっているであろう,
“200%”の自我の世界へ変わらぬ”特意性”を感じる迄の創作活動を続ける努力と
忍耐の日々が無事に繰り返される、その継続そのものが今の彼女の”夢”であろう。

 この“夢”とは三つの寄与、産業のため,社会のため,生活者のためにという
自由なる生き方を選んだ人間たちが求めなければならない、為さなければならない
”夢”の最高度なる最終段階であろう。
従って,CdG,川久保玲は人間本来が持つべき当たり前の
崇高なるレベルに迄達してしまっている希有なそして,とても幸せな人である。

 努力するとは?,何に努力するか?
それは持ち得た自分の自我の成就に対するために為さなければならない
責任感と誠実さによる諸行為の不連続な連続へであろう。
従って,可能であるならば,可能にするだけの勇気と決断があるならば,
持ち得た”自我”は人より多く持つ方が良い。

 おわりに−1;
 先ず,この様な時代性と借金多き僕たちの母国である。
この国のためにみなさんの世界観をデザインに落とし込み,
好きなファッションの世界でファッション産業に寄与する事
そして,どのように社会にコミットするか,
デザイナーの役割であるかを認識してからデザイナーぶって下さい。
 
 そのためにはデザイナーという立ち居場所に居るものは
何を夢の根幹にして行けば良いか?
自分の持った夢のために最後は健全なるビジネスの継続である。
自分の作った世界観あるものが自分以外の人たちに買われて使ってもらえる事の
嬉しさと幸せさを思い,それを使った人たちが少しはこゝろが豊かになり,
しあわせ感や喜びや優越感や安心を持って下さる。彼らたちの生活が豊かになる。
この当たり前さである。
この当たり前さを僕は以前からデザイナーのこゝろの有り様に,
"May I help you?"が必要だと言い続けて来た。

 これが,日本のファッションデザインの世界に欠如している
意識とこゝろの有り様である。
自分の世界観とは,自分が学びデシプリンをし,
持ち得た”教養とスキルと経験と技術と関係性”のバランス有る調和を言うのである。
ただ,人と違った特殊性を見せびらかすのではない。
このレベルは所詮、現代では誰にでも可能なるガキのはしゃぎ行為でしかない。


 おわりに−2;
 もし、”世界知らづになりたくない”のであれば、
自分の中で比べるものの”根幹”を持つ事が教養の第1か条です。

今回はこのサイトをご覧下さい。
そして,”TPP加入問題”を自分世界ではどのように認識するか?
又,村田光平氏の著書,「原子力と日本病」も是非!!

合掌。
相安相忘。
文責/平川武治:巴里19区にて,

投稿者 : editor | 2012年10月20日 21:13 | comment and transrate this entry (0)

2012年10月12日

川久保さまのお誕生日のお祝いと彼女のパリ-コレについて。

 今日は川久保さまのお誕生日です。
不躾ですが、この様な場を借りて、お誕生日のお祝いを申し上げます。
どうか、お元気で変わらぬファッションクリエーションと
ビジネスにその絶妙なるバランスを持って、
エナジーと人間のがんばりが重なるまでの調和を。

 そのためのおこゝろの安らぎと激しく豊かな迄の好奇心をいつまでも。
 お誕生日、おめでとうございます。
そして、変わらないおこゝろ、いつもありがとうございます。

ひらかわたけはる:


 ***
 コレクション記;
 僕の好きな映画監督、D.クローネンバーグの作品に”CRASH" というのがある。
確か、J.G.バラードの小説を映画化したものだった。
その内容は、交通事故は性的な絶頂が存在し、
車自体が人間的な要素を持っているという内容で語られていた映画で、
交通事故をショー化した挿入部も有った。
 そして、この"crush"は"crash”と“clash"もほとんど同意語として英語には有る。
押し潰される、挟まれて潰されると、衝突である。
又、最近ではPC用語としても使われている。ハードディスクドライブの破損であり
この場合はデータ破損と物質破損を意味している。
 
 いつもの変わらぬ顔ぶれの人たちがそれぞれの興奮を携えてショー後の
バックステージへ押し掛けていた。僕も今回も強烈なパンチを喰らったので、
興奮と昂りが冷めやまないうちにバックステージへ行って待っていた。
列の殆どが居なくなった後、今シーズンのCdG,川久保さんは
ショーのコンセプトが"CRUSH"だと教えて下さった。
 僕の長い間の体験からでは、この様に彼女から言葉を発せられる事は
滅多になかった事だと瞬時に思い起こした。
そして、この彼女の稀な行為に、僕は即座に当惑をしながら
この彼女の言葉から幾つかの事を感じたが、
それ以上に僕のこゝろが明るく軽くなり、感動し素直に嬉しくなった。

 当然だが、コレクションが始まりだすと血液が充満してくる。
この充満度によってコレクションの善し悪しが感じられ、以後、見ている間中、
僕の軀に感覚としての言葉、”CRUSH“が充満。
先ず、パンクミュージュックの"CLUSH"。
そして、冒頭のD.クローネンバーグ監督の映画“CRASH"次に、
この街の嘗て、’60年に結成した”ヌーボーレアリズム”の芸術家たちの幾人か、
セザールとアルマンを思い出した。彼らたちの作品は日用品や廃棄物を
大量に集積した作品で知られ、当時の時代においては見事に現代という”未来”を
予知した次元の作品を生み、その作品が持つコンセプトは現代社会への
新たな変わらぬテーゼでもある。次に、彼らたちの亜流として、
解り易く今回もその役割を果たした、若手イギリス人でDSMにも関わっている
作家の作品だと言う解読し易い若しくは、これが発端で展開し始めたかの様な
ヘッドアクセサリーの表情を確認し、セザールやアルマンの作品を思いつつ、
最終的には、僕は僕たちが日本人である以上、彼らたちの時代よりも、
さらに現代に強烈に未来を示唆するあの昨年の天災後の惨事な風景へと
想いと眼差しが移り始める。
軀で感じられる迄の創造性というものが在る。
それに意味をつけようとする思考と、次から次へと現れて軀へ押し寄せて来る
塊の物体を僕は遂に”瓦礫”と認識した。
 そして、これらの”瓦礫”をどうにかして”服”それも、”MODE"と認めようと
繰り返し、繰り返しまるで、災害時に喪失してしまった生活を共にしていた
大切なモノの探し物を”瓦礫”の中から探す行為の如くに、
その僕が最後に決めてしまった”瓦礫”の中から
何処に“服”化された仕掛けが在るのだろうと。
 その僕が探していた大事なものが何なのかが解り始めたのは
“黒”のシリーズが出て来てからだった。
やっと、そうなんだ、これはモードのコレクションなのだ。
そうだ、CdGのショーなのだという安心が生まれそれと同時に
今迄の探し物をしていた疲れも感じてしまった。

 CdGのコレクションで、僕のコレクション-ノオトに書いたコレクションンの
始まりのキーワードが“CRASH"そして、最後に書いた言葉が”瓦礫”。
僕にとっては、これは正に”モードの瓦礫”と”人間”という”二抗対立”のコンセプトを
読んだのである。
そして、あの天災と人災の1年後にこのようなコンセプトを強烈に堂々と発信する。
初めて、日本人ファッションデザイナーが正面切ってあの“3.11/FUKUSHIMA"と
向かい合って潔く、自分の世界観へ落とし込んだ強靭な
すばらしいコレクションだと感激した。
だから、僕には今回のコレクションでは軀で感じられる迄の創造性というものが
在るという事を実感させられたコレクションでもあった。
 
 何処のアトリエでも目にする溜まり尽くした”モードの瓦礫”、
パターン紙、チーティング、原反在庫、トワレ後のシーティング類、
切れ端の布切れや裁断途中で捨てられた未完成な部分箇所、チュールや糸切れ等等、
この様な多くの何処にでも服を造るアトリエには日常、主役として存在している
空間と環境に詰め込まれ積み重なっている“モードの瓦礫”。
これらに潰されそうにまた、潰されない様にと、どのように使ってやれば良いか?
の戦いの連続がこの30数年間というこの環境での時間でしかなかった。
その結果から生まれたものが作品であったという
僕なりの”妄想/delusion"な発想を最後にしてしまった迄の、
それ程強烈な、すばらしいパンチ力が未だ、十分に効き残っている
今シーズンのCdG,川久保玲のコレクションだった。

 川久保さんの“CRUSH"よ!!を聞いて喜んだ僕は、
コレクションノオトを取りに戻って、川久保さんとエイドリアンに
僕の”CRASH"と書いたノオトを見せる。
彼が、「“CRUSH"、“A”ではなく“U"だ!」とすぐに指摘する。
僕はすかさず、
『僕は“瓦礫”だと、最後には“瓦礫”になってしまいました。』と切り返す。
川久保さんの『えっ、”瓦礫”???、違うはよ!!!』が聴こえ、フェード-エンド。


 ** 
 では、なぜ、このブランドだけがこのような”特異性”が強烈な
コレクションで出せるのか?

 勿論、この入り口へ到達するには,
それなりの長い旅路の努力と経験を積んで来たからである。
その結果の集大成がこの“新たな入り口”の前に立つことが出来,
その立ち居場所で尚,今でも上質な”特異性”を自分の世界観の上で
生み出して来たという現実が在るからだ。

 ”トレンドでもなくって良い、着れなくっても良い、売れなくっても良い、
そして、高くっても良い、”この4つのいい”は今迄では全くの
MD違反のモノ造りである。
こんな服をシーズンごとに創作していれば会社はどうなるのだ?
当たり前の疑問である。
 これをクリアーした所に、現在のこのブランド、コムデギャルソン、
川久保玲の凄さと、がんばりと、特意性に拘ったモノ造りと、
継続という経験とそこから生まれた関係性が在り、
彼女の決断がこの新たな”入り口”を開かせたのである。

 この入り口とは、従来迄のファッションビジネスにはなかった入り口である。
即ち、従来のビジネスカテゴリーには無かった今の時代だから生まれた
新たな入り口なのである。この入り口を出入りしたいのであれば、
先の”4つのいいでつくられた服”でないと
なかなかこの入り口を通る事は必死のわざである。
そして、この様な時代性に成ったから生まれた入り口でもある。
これは、”トレンド”というこの産業の特殊な構造がスローに緩んで来た時に
始めて表層化し始めた入り口である。
だから、現代は“アーカイブ”が価値を生み始めるという時代性を呼び込んだ
コンテンツの新たなもう一つのファッションビジネスの登場である。
そこでは、ファッション産業に実際的に寄与したブランドが、
そのデザイナーの世界観を持って、アート的な発想で自分しか出来ない
”特意性”高い服作りを継続してきた経験を持ったブランドと
そのデザイナーしか通れない入り口である。
この入り口とは、”ミュージアム”という入り口である。
“ミュージアムピース”に選ばれるか?という新しい入り口がここに在る。

 このモードの街,巴里に於いて,なぜ,モードが文化のそれも,
アートの領域に置かれたか?
 ファッションをアートだと大いなる勘違いをしている浮ついた若者たちは
この事を自分の教養として学んだ事が在るだろうか?
 巴里はアートの街だと言われている。
この巴里で行われている『サロンドートンヌ』という
その名の通り,毎年、現在も行われている由緒ある秋の芸術展が在る。
この“Salon d'Automne"の1919~1925年迄の間、モードが参加出展する事が
許された時期が在った。
 以後,此の国のモードの世界が,文化の領域へそして,
それなりの仕事をした当時のクチュリェたちがアート化された。
当時はこの”入り口”を通過する事で,モードがアートに変換出来た時代であった。
この時期とは巴里のオートクチュールの世界が誕生し,
オートクチュールビジネスの発展期であり,
新しい産業として社会にコミットし成立し始めた時期であった。
この時期に『署名』化即ち,ブランド化という方法がシステム構造化された。
仕立てられた服に『サイン』を入れその独創性を保証する事によっての,
広く認められた顧客に支えられるオートクチュールメゾンビジネスの構造である。
 例えば,’24年にはマルセル-レルビェ監督の映画『人でなしの人々』によって
この時代の映画というもう一つの新たな産業が発展途上のモードの世界を
プレゼンテーションしバックアップした事によって
更に、この街巴里が『モードのキャピタル』構造を産業として構築した。
そして,それが現在迄価値を持ち続けている発端である。

 この入り口を自分の方へ向けてしまった、コムデギャルソンの
川久保玲というデザイナーの本質的な凄さであり、
見事な業の終着点であり尚かつ、
今後のビジネスへ繋がる迄のエターナルな可能性を残し始めたのが
ここ4シーズン位前からである。
この彼女の動き、これに気ずき、これにシフト出来る企業とそのブランドと
デザイナーが未だ少ないのが現実の日本のファッションの世界のレベルである。
この入り口を堂々と通れるのは個人のアート振った低い自我を撒き散らす
個人作家のレベルではない。
どれだけ、社会や産業とコミットし、生活者の豊かさへ寄与した仕事をして来た
ブランドのデザイナーがウエルカムされる入り口である。

 この新たな入り口を頻繁に出入り出来るブランドとそのデザイナーは
例えば,そのデザイナー個人が死んでもデザイナー名とブランド名は
永遠に残り、その元でのファッション産業ビジネスの継続という
新しいコンテンツでの今後のファッションビジネスの可能性が
エターナルに手中に出来る事にもなる。
勿論,このための”庭師”が新たなLe Jardin des Modeに
必要である事には変わりない。

 という事は今後,この株式会社コムデギャルソンという
日本発のファッションデザイナーブランド企業は、
日本最初の”レグジュアリィファッションハウスメゾン”として
世界に残れる可能性をほぼ,手中にし始めた。
このブランドが新たな独自の戦略へ、ここ4シーズン程前から
打って出て来たと読めるから愉しい。

『ドロシーがトトと一緒に,ライオンや案山子やブリキの木こりたちと
やっと、長い旅路の後たどり着いたOZの塔の前に,』OZの魔法使い/ボーム著:

 *
 今シーズンもこれだけの“特異性”あふれた世界観を見せていただき
ありがとうございました。
僕が幸せなのは、好きなモードを好きな街、巴里で26年間も実際に
当事者として見る快感と優越感を今日迄、経験し続けて来れた事であろう。
合掌。
文責/平川武治:巴里市19区にて、平成24年10月11日:
        
 

投稿者 : editor | 2012年10月12日 03:44 | comment and transrate this entry (0)

2012年09月05日

『ビーズインアフリカ展』の愉しさ、すばらしさとは、

 村田明子嬢とのチャットを発端にして、;平成二十四年九月三日。

[12/09/02 17:13:56] akikomurata: アフリカビーズ展みてません。
[12/09/02 17:34:43] Taque.Hirakawa: これは、大阪の国立民族博が持っているモノが“アフリカンビーズ”と言う括りでこちらへ来た展観。
/ビーズインアフリカ展:神奈川県立近代美術館葉山;WWW.MOMA.PREF.KANAGAWA.JP

  鎌倉は連夜の雷雨のさなか。
今、以前にあなたとご一緒した葉山の美術館で展観中の”アフリカのビーズ展”は素晴らしいし、愉しいもの、一見の価値有りです。この様な展覧会は日本で見る機会が少ないので愉しいですね。しかし、今回の展観も日本ではこのカテゴリーを収集している施設が数少ないのですが、大阪千里にある唯一の博物館、国立民族博物館、(これはあの’70年大阪万博の出展展示物を根幹にその後、この地に民族博物館が設立された。)からの持ち出し企画の内容は残念ながら、その殆どが最近に製作された所謂、今ものなのでそれを踏まえて楽しむことが出来れば面白いもの。従って、ビーズの世界の考古学的展観ではない。テーマは、”アフリカにおけるビーズ工芸の世界”。アフリカ大陸に根ざして、今も現存している西、東、南と北そして中央アフリカの各々の民族が継承して来たシャーマニズムに由来する多くは、冠婚葬祭時に時の権力者たちが、自分たちの身分の違いを見れびらかし、富と位を保持するための衣装と被り物とマスクとアクセサリィーそれに布が少しという内容の展覧会である。そういう意味では、世界レベルで、”モードの世界”の発端と”根幹”は黒人社会でも同レベルであり、モードとは”見世/魅せひらかす世界”であることには今も変わりがない。だから見る方も解りやすく楽しめる。
  その決して、その内容も大きな、詰まった展覧会ではないが展示物がかわいい、チャーミングでユーモアが見事に調和を生み出している、小規模ながら、まとまったアフリカにおけるビーズ工芸の世界を垣間みるには十分な展覧会である。中途半端に解った振りをして、インテリデザイナー振って、知ったかぶりでマスコミが撒き散らす誇大宣伝に煽られたり、ファッションと名が付くモノしか興味を持たず、行かないというような輩たちは見当たらない。ある意味で観客たちも素朴である。土曜日の午後というのに、おおらかな”大いなる午後”であった。
  僕がこの手の展覧会が好きで、また西アフリカをヒッピィーし、彼らたちの世界に馴染む一番の原因は、”プリミティフ””グッドバランス””ユーモア””メタモルフォゼ”そして、”おおらかな人間性”に依って”五感”を刺激し、好奇心とエネルギィーを与えてくれることに由来する。即ち、既に”文明国”と称されて文化を誇っている国の、造られてしまった都合の良い環境に囲われて都合良く生きている人間たちが失ったものがこれらを造ったアフリカの国々の自然と彼らたちのこゝろと軀にはまだ染み付いているからだ。今回の展示物も、それぞれの会場からこれらが転がるように見る者のこゝろと五感に触れる心地よい快感があった。それは自然に展示物の表情の後ろから、周りからドラムビートや投げつけるような言葉の転がりが聴こえるようであり、灼熱の太陽の輝きと光線が痛く感じられ静かなこの美術館空間で僕は一人、笑みをこぼす。
  展示物のすべてから、ルドフスキーの名著、『建築家なしの建築物』の世界観がこじんまりと展示されている。僕がこゝろ奪われるのは、これらの展示物に作者が記名されていないこと。所謂、今はやりの誰でもがクリエーターである世界がここには存在し続けている。従って、展示物の見事な”バランス/調和”で造られた縞模様や、色の配色や形態そのものは“Creations without design."のみの世界である。彼等たちはアントワープもセントマも出ていない、CdGやYSLを知らない、デザインを学んだことのない人々たちが彼らたちの日常性の中から、彼らたちのデシプリンからそして、何よりも自然との対話と共生きの環境とそれをリスペクトする宗教こゝろ。これら彼らたち日常の当たり前からその美しさが自然と“ともいき”するこゝろの有り様を行為しているだけである。彼らは自分たちのエゴを”自然”と持ち得た”宗教こゝろ”に委ねての仕事でありすべて、彼らたちが造るオブジェはそれが動物であったり、昆虫であったり、鳥であったり、花であったり水や雲の動きから五感を駆使して、オブジェのフォルムや色彩と素材の使い方になり、生み出すバランス/調和になっている。この世界はもう一方では日本では、”民芸”と称される世界が嘗てはあった。が、この世界も物識り資産家たちの業としての美意識に結局は翻弄されて自滅してしまった世界だった。しかし、最近はこの民芸の世界にも新たな若い人たちが自心のこゝろの有り様を委ね、彼らたちのもの作りの下心薄い、こゝろの有り様へ好奇心を持って近付き始めて来た。ここにも”芸術”というまやかしの言葉が届かないように祈ろう。もう、既に今の時代の”芸術”という言葉は”まやかし”以外の何者でもない現実逃避の消費財である社会性になっている。”芸術”がこゝろを慰めた時代はもう終わったということである。”芸術”はこゝろの欲望を消費させるオブジェでしかない。従って、最近のファッションの世界とは、この”欲望”がデザインされているモノだけが売れているのである。その舞台は広告産業という舞台であり、巨大まやかし産業のサイバーワールドの手の上で。

  この『ビーズインアフリカ展』の世界は僕が提言している”五感の新たなバランス化”を示唆してくれる。
 “臭覚”、”触覚”、“味覚”、“視覚”そして、”聴覚”と言う”五感”の現代のテイクバランスとは?
今後の迎え得られる可能性についてです。
それは文明がより進化すると言うことは、科学技術と現在の時代性に委ねた現実の進化とは、人間本来が持っているべき“五感”のアンバランス化へ進展するだけと言う見解があります。当然ですが、17世紀以来、西洋人たちが作り出した哲学を根幹として生み出された彼等たちの価値観の元に人類がそして、白人たちが他の動物に勝っているという”進化論”を根幹に、以後、総ての基盤に“視覚”と”聴覚”をターゲットとし、絞り込みましたね。そこにこそ文化ありと言う世界価値観を創成しこの300年程が経過して来ました。人間が”視覚”と”聴覚”それに“味覚”に委ねることが文化である様な人間優位主義に立った文明哲学論が西洋社会で創成され、その結果の環境が現在の僕たちが生活している環境社会。人間が本来持っているはずのそれぞれの”五感”のバランスに変化を作り出し自然界、他の哺乳動物からの人間存在の絶対的優位性を構築して来たユダヤ教、キリスト教団、啓蒙思想、、、「先ず、光りありき、」の始まりからしてそうである。特に,芸術を特化させ,その後、情報メディア産業や今では、ファッション産業、生活産業に至るまでこの現代人間に更なる“電脳box"が与えられ、持たされてしまった”五感”のアン-バランス化がカッコいい世界であるかのように大いなる勘違いをさせられて来てしまったことに,気が付いてください。これら彼等たちが生み出した文化価値がより、文明化することで現在までの歴史の本流があります。他の感覚機能である”臭覚”と”触覚”が動物的だと言う狭軌で解り易いキリスト教的な発想から文化の領域の王道へは残って来なかったようです。これらは文化の領域に於いても異端であるとされ、シャーマニズムやオカルト、呪術、フェチシズムやエロティズムの底深くに隠されてしまいました。

 と言うことで、もう一度、新たな時代へ向けての人間が持ち得た”五感”のバランス化の必要性を感じ始めたのが現代と言う時代性の根幹でしょう。これに気が付き始めた多くの人たちはやはり若い人たちですね。例えば、少し以前から物質文明に危機感を感じ、自然との関わりや精神文明への回帰の手順としての”東洋哲学”即ち『佛教』をまた、精神性を大切に”スピリチュアリズム”へ動き始めた人たちが居ましたね。彼等たちに共通して感じることが”五感のバランス化”を無意識の内の自分たちの日常性へ具現化して来た人たちでしょう。彼等たちは“臭覚”と”触覚”を慈しむように自分たちの身体感覚に取り戻そうと、そこに新たな安らぎが発見出来ると言うまでのこゝろの有り様を再び、行為ヘ移し始めたのです。その兆しとして流行したのが”癒し”がありました。カシミア、ファー、キャンドル、インセンス、パルファンなどのブームものでも理解出来ますし、モードでももう既に、作り手の自我の造形化の時代は終わり、今は着る人たちへの新たな”五感“に委ねた素材が持っている質感を大事に服化する工芸性が一般的になっているのです。

 “視覚”と”聴覚”は変わらず、進化しつづけるでしょう。しかし、それに追い付けとばかり、もう2つの感覚、”触覚”と”臭覚”が新たな世界へ導くための可能性ある身体感覚の拡張になることを今回は提言します。現在迄のファッションの世界も、これらの”視覚”と”聴覚”に委ねたものがメインアイテムでしょう。ここに、新たな眼差しとして、”臭覚”と”触覚”を考えた新しい日常生活衣服を考えられることも今後の可能性と愉しみ方の一つかもしれませんね。

 僕はここで以前から言っている“CARE& CURE"と言うコンセプトがファッションの世界へもやって来る時代が、やっと来たようです。
 シャーマニズム、呪術、フェティシズム、ボンテージから、現在のスピリチュアリズム、ヒーリングそして、僕が発言している、“CARE & CURE"へ。今現在、巴里のケラブラリィー美術館で開催されている”Maitres de Desordre展”や“J-P-WITKIN展”、昨年のN.Y.での写真展”MASKE", ギリシャでの”NOT A TOY展”やカルチェ財団での展覧会、”呪術展”古くは、シュバンクマイエル夫妻が提案した、“触覚主義/TACTICISM"(U.C.の素晴らしい、コレクション“BUT BEAUTIFUL ’05"にも見られた)このカテゴリィーの美術館としては巴里のケラブラディ美術館はその収集量と考察力と分類方法がとてもすばらしく、珍しい’30年代のモノからいいモノをたくさん貯蔵している美術館です。建築もジャンヌーベル作です。前庭の自然が時間とともに生きている風情を見せてくれるのもいい。改築後は時代性にリンクし、タイムリーな展覧会を企画して多くの観客を集めている。

                    **

  これからのデザインの役割としての、デザインの新しさは “シンプルな形態における工芸性”と僕は予知しています。『複雑な形骸的な装飾性の強い工芸性から、シンプルな形態の美しい工芸性へ。』そうです、嘗ての”デコ”や”流線型”なる工業デザインに近い復活を読んでいます。
  これは現代と言う時代性が又必要としはじめているデザインの新しさです。この根拠は、あの”アールデコ”や”ストームライン”が生まれた時代背景を読むと理解出来ます。'25年の巴里万博で発表された”アールヌーボー”に代わっての”アールデコ”はヴィエナの建築家、A.ローズが’11年に発表した『装飾と罪悪』という論文によってヨオロッパで生まれ以後、一つの新たな芸術運動へと進化した。そして、’29年には世界恐慌がアメリカを襲う。これを工業で救うためにアメリカで為されたのが”ストームライン”の誕生であった。経済が不況になり、それを工業で救う。そのために、デザインが役割を担った。これが、”近代デザイン”の誕生だったのです。デザインによって当時の工業生産を出来るだけ効率よく、コストと手間をかけずに新しく見えるものに仕上げ生産すること。そのための、丸みのあるシェープ、コールタールから再生された”プラスティック”素材の誕生も忘れてはいけない。新しい素材の誕生によってその素材をどのように使いこなすか?ここにも、デザインの必須がある。以後、アメリカにおける”工業デザイン神話”が生まれ、グラフィックも、ファッションも含まれて、”近代デザイン”というカテゴリーが登場した。実際、アメリカの産業は工業性が向上したことで大きく好転し始める。 先ず、ヨーロッパで芸術が生まれそれを量産するデザインという世界はアメリカで生まれるというシステムがこの時より始まり、これは現在もこのスタンスは変わらなくそれぞれのユダヤ人たちが各々の持ち場を分担しているのが現実でしかないことも変わらない事実である。
  この視点でこの展覧会をみると愉しく面白いです。アート学校もデザイン学校も大学も出ていない彼らたちの感性の豊かさとバランス感覚の良さは、何処から生まれるのか?展示物の幾つかはとてもシンプルでしかも斬新で色の配色もいいビーズネックレスがあったり、ビーズベルトがあり、ビーズで出来た男が婚礼用に着るというトップスもあり、CdGのバランス観があったり、フセインが好きそうで出すであろうスカートとの組み合わせがあったり、加茂さんもびっくりのヘヤーハットの被り物がたくさん並べられ、打ち込みフェルトに12枚の布とビーズが愉しい文様で並べられている婚礼衣装があったり。ビーズで出来た下着もある。何しろ、見る眼を持っていけば面白く好奇心をそそってくれるのが、この展覧会の楽しさであろう。ここは僕が感じる次なる新しさの宝庫、シンプルで有機的な線であり、配色と選ばれた素材感が思いもよらない愉しさを出しているしかし、ビーズ工芸なのである。触覚を喚起する質感とシンプルなフォルム、次なる”工芸性”とは手ずくりですよと、弄くり回した装飾過多のそれではないはずだ。
  此処で、また、’80年代のはじめのレヴィーストロークの『野生の思考』が再考されますね。あの、僕がやっていた、季刊誌“ブリ-コラージュ”です。今の社会性と環境性と時代性から“野生”を再考する視点。近代の次が”超近代”とは限らないのが今。近代の便宜性と快適性を享受した人間たちが次に求めるものは気概を手に出来る”人間回帰”でしょう。どういうことかと言えば、人間が持っている”五感”とその身体機能の”拡張”から、サイバーな世界によってその拡張そのものがバーチャル化し始める。其処では身体機能の”移転”が為されそして、今度はそのどちらもの世界、”拡張と移転”をほとんど同時に選別されこなすことが新たな気概へ通じる”人間回帰”。従って、嘗てのレヴィーストロークたちのロジックがサイバー空間をも透過して、ブリコラージュされるだろう。即ち、人間の身体性を伴って原始的なるものとサイバーなるものとをつぎはぎ、繕い、ごまかす時代でしょう。ファッションの新しさの一つがこのブリコラージュのコンテキストによって生まれるだろう。例えば、”ビーズという皮膚”というコンテキスト。ビーズという温もりを使っての”近代デザイン”等など、
/http://ja.wikipedia.org/wiki/ブリコラージュ

 「いいえ。誰かの肖像画を描くということは、ある静止した状態の皮膚を捉える事を意味しています。もっとましな場合で、魂の外的現れを示す試みでも、おそらく、観衆に向かって怒りを表すために、演じている舞台装置を引き裂く俳優のようなものです。このゲームは私にとって感覚の逆転を意味しています。劇の役は本来交代できるものではありませんが、感覚は可能です。」(シュバンクマイエル夫妻/'05の展覧会カタログより、)

相安相忘。
文責/平川武治:鎌倉晩夏に。

 

投稿者 : editor | 2012年09月05日 02:38 | comment and transrate this entry (0)

2012年08月11日

妄想的、「CdGの37.2度」晩夏版:

 「立秋過ぎた夏。
吐き出されるような残り陽に戯れとご注意を。
残暑お見舞いに代えて、ひらかわ。」

 「僕が一番好奇心を持ってご挨拶をしていたAnna Piaggiが亡くなられた。
その彼女の存在そのものが”モード”だったanna。

 幾度か、アントワープアカデミィーの審査でご一緒しその後、お話を交わす様になった、
僕には最も興味ある信頼出来るファッションジャーナリストであった。
着る事、即ちファッションする事そのものがお好きで、
いつも周りを楽しませてくださっていた。
そんなおこゝろを使っていらっしゃたフランスに居ないタイプのジャーナリストでした。
こゝろより、お悔やみを申し上げます。
どうか、御成仏なさってください。」

*或る友人とのメール交信+α;
 「そうですね、
哲学=根幹を学習して来なかった戦後の僕たちや後進国と言われている国々では、
未だに”表層的な物作りと物売り/distribution”が“広告産業=情報産業”という
プロセスの上に立った消費国家経済の主軸というシステムから
脱皮されていないのが現実でしょう。
 という事は、根幹を学んで来なかった”豊かなる難民たち”と
彼等たちによって教育され、甘やかされたガキどもたちそして、
ゆとり教育世代たちが主役であるこの奇天烈なポジティフ社会の根幹はもしかすると、
焼け跡時代の“戦後システム”から何も変わっていないのでしょう。
それを利用しターゲットに活性肥大化する為の“広告産業=情報産業”というプロセスが
時代の新しさとして参画参入しただけ。
以後、この類の産業は資本主義に於ける分かり易い消費社会のヒーローたちになりましたね。
この産業の根幹は“FAKE"によって人間のリピドーの一つである”欲望”を
いかにコントロール出来るか?の世界でしょう。
(“FAKE"=付加価値=イメージ=表層=いかさま=似非=虚業=虚飾=カッコ付け=
“ゴッコ”=“やらせ”=不自然等など、、)
 
 “20世紀”の他方の本質とは、“距離の短縮”の為の諸産業に加えて、
特に戦後以降は新たな時代の人間が持ちえた「”欲望”の民主化」によって
この“FAKE"産業が進化発展を遂げて構築された時代であるとも言えるでしょう。
そして、“20世紀”は“距離の短縮”産業を基盤としてこれら、“広告産業=情報産業”から
どのようにお金を儲けるか?即ち、どのようにカッコ良く"FAKE"するか?が
優先され出来上がった世界と時代性ですね。
ここには”距離の短縮”+”情報”+“広告”+”FAKE”+”サイバー世界へ”という
公式によって進革した構造が読めますね。
ファッション産業も“流行”という情報と広告と欲望をミックスされたカテゴリーであって、
従って所謂、”芸術”の世界ではありません。
 だからご存知でしょうが、このアメリカンヴォーグの名物編集長の,
彼女の言葉が現実の一端を的確に語っているのでしょう。
「THE FASHION IS NOT ART, FASHION IS EVEN CULTURE,
FASHION IS ONLY ADVERTISING.
THE ADVERTISING IS MONEY.
THE ADVERTISING BUSINESS WILL BE MAKING A LOT OF HIGH AMOUNT
OF GUARANTY.」Anna Winter/by GIA.

**妄想としての『CdGの37.2度』; 
 この手の、遅れて来た”20世紀”手法ではゲームは闘い辛くなるばかりでしょう。
もう魔力/魔術は使えません。このレベルでゲームするとすぐにエネルギィーが無くなり、
エネルギィー補充が頻繁に必要になる。
一つは”資金”というエネルギィー、もう一つは、”モノ”というエネルギィー。
この2つのエネルギィーの循環装置が頻繁に必要ですね。
若しくは”新陳代謝”機能ですね。この為の“イメージング”という潤滑油が必要だった時代性と効力は
変化,減力し始めています。
 ここに“21世紀”のためのコンテキストが必要になるのです。
所詮、今後も資本主義世界における消費社会、”商い”と言う土俵の上ですからね。
ですから、この二つにどれだけ嘗て、存在した時代を喚起する迄の武器としての”特意性”が
『世界』として創成出来るかに係ります。 
ただの“特殊性”は現代では、時代の平常のバリエーションの“one of them"でしか在りません。
そこで考えられる武器として、この企業が未だ、今後もどれだけの”特意性ある世界”を創成出来るか?
または、もう一つの発想としては、かつてのCdGの”前衛的体験”のパーツを
特化し、時代に迎合した“CdGの世界”を新たに構築してゆくかですね。 
 ここには”普遍的なる”コンテキストが在ります。
それはもう既に浸食し始めている”中庸の世界”のブランド化を実施実行することです。
コンセプトは“手頃な洗練さ”/Going Out in Style.“のCdG世界の中庸化です。
そして、このコンテキストの根幹は、
『真の保守主義とは人間の本性にも社会慣習にも適応出来る概念である。」
Edward O. Wilson著/「知の挑戦』第十二章”行き先”/山下篤子訳より、(P.339 )
 特効薬としての新薬はこのCdGらしさと言われているものによる“五感の再バランス化”でしょう。
"視覚”と”聴覚”に多くを委ねないところの地球的発想とサイバー的発想をミックスした
ハイセンスな好奇心を喚起する“The 5th. Sense of Re-Balance"を空間化する事でしょう。
この新薬はブランドCdGらしさを新たに構築出来るおおいなる可能性でしょう。
 
 企業の可能性の結論は、どれだけの”資金”と”モノ”と言う2つのエネルギィーが潜在しているか?
それを産み出す為の関係性と言うシステムが構築されているか?これに尽きますね。
あとは“ソフト”ですね。“妄想”と“人”です、誰が奇天烈な妄想を出せる人材か?その役割の人材が居るのか?
このCdGでは勿論、それが複数であっても“川久保玲”の分身の育成に掛かりますね。 
 CdGも今では、きっと、持ち得た世界レベルでのこの”システムとプロセス”が織りなす
傲慢という名のテクスチュアーの渦中でしょう。
かつて、ドロシーも巻き込まれてしまった“竜巻”の中、抜け出したその彼方とは? 
向こうに見えるOZの魔塔???
 早く目覚めないと、早く目覚めないと、、、、、、

 嘗て、この”銀座”にはそれぞれの時代に“銀座”を代表し、日本人の為の時代を喚起したお店が在りました。
『丸善』が在りました。その次に出て来たのが『和光』でした。
それから?もしかしたら、『サン-モトヤマ』であり、『ザ-ギンザ』であったでしょう。
そして、これらの“お店”に常に対峙した『三越』が暖簾を張っていました。
“銀座”という街並が、界隈が未だ、贅沢という名誉と躾を持って“耀き煌めいていた”時代でした。
この後はご存知でしょう、散々たる界隈に成り下がってしまいました。
海外ブランドの出店に飼い馴らされ、その後はフアストファッションに翻弄されているのが
今の”銀座”の現実でしょう。
そこへ進出した僕たちのCdGの"DSM-GINZA"は本来の企業オーナーの嗜好性と
「大集体=業/カルマ」だったのでしょうか?
“腐っても鯛”という時代性を読み込んだ保守的コンセプトの為なのでしょうか?
それとも、”ご近所さん”との新たな関係性も読んでの事でしょうか?
 果たして、僕たちのCdGの"DSM-GINZA"は次なる『丸善』や『和光』や『ザ-ギンザ』になり得るのか?
日本に於ける『中庸』を代表し、”時代”と”界隈”性という匂いをまき散らす“暖簾”が掲げ続けられるのか? 
又は、『H-P』レベル止まりで右往左往してしまうのか??? 
 そして、いつ、お母さんは働きものの伴侶を使って嘗て、
近隣の『U』サンへ”knock on door” をするのだろうか? 

 今も、嘗ても“前衛”というレッテルでそのファンたちを喚起して来たこのブランドCdGにとっても、
繰り返しですか?歴史は。

 21世紀は“根幹=アーキテクティズム”が必然を負います。
今の、CdGには日本発でこれが理解出来て、今後のアーキテクトな展開図面と、
シナリオが描ける妄想力豊かな人材がいませんね。
CdGに念うこゝろがあるならば、この妄想力が必要でしょう。
この集団には今、イエロー特有の面白い”妄想”が出来る根拠なき夢豊かな人が不在ですね。
日本人特有の真面目で、お利口さんで良く働くイエスマンたちが彼等が好きな“そろばん”の世界に
漬かり切ってしまいましたね。ですから、早く目覚めないと!
 この企業力を利用して妄想出来る役割とは、これは大変に恵まれた立ち居場所になりますね。
現在のCdGに備わってしまった、”名声と信頼と関係性とお金の使い方”は
最強力なエネルギィーで上質なパワーでしょう。利用する価値は充分にありますよ!
“21世紀”も健在なる国際企業としての可能性豊かなCdGグループです。
 
 今のままでは危うさを感じてしまいます、勿体無い。
“砂糖菓子”が崩れる時は音も無くいつの間にか、
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2012年08月11日 10:55 | comment and transrate this entry (0)

2012年07月12日

『再生消費社会構造を環境化し、共有し合おう。』 新たな資本主義構造としての、”分ち合のための資本主義”を考える。

 現在という時代、
僕はこれからのファッションのビジネスとクリエーションが
新たな時代観と社会性により大きく変化をする
ターニングポイントであろうと感じています。

 単純な発想では
“店作店売”的な構造、そこには“手”と”こゝろの有り様”が存在している売り場。
もう、ブランドだけの虚仮威しや
客寄せパンダ的な虚仮威しでは無く、
”人間の営みへの温もり”が共有共作出来る空間。
そこでの”新たな望むべき社会性のための出会い”の空間。
都市をスラム化してしまう迄の”妄想”化都市空間。

 そこには“土”と”水”と”太陽”が存在する空間環境を
新たな商業資本主義のための“田園都市化”。
こんな乱暴なことを妄想しています。

 「いらないものはいらない生活のための新たな”消費社会”」を築く迄を念う。

 よって、あのD.S.M.G.とはもう遅れて来た、
”小ジャレてしまって、汚れてしまった洗練さという名のファッションゲットーの墓場。

 原反在庫も、商品在庫も、20世紀の消費社会の在庫それは20世紀の消費の瓦礫。
これらの瓦礫を積み上げよう。
タワーを造ろう、アンテナが必要な時代性。
ここから、新たな何かが見えて来る迄に、

 本当はもう何も作らなくていい。
潰すか、埋めるか、盗むか、
戦後の餓鬼たちが嘗ての焼け跡を探しまわったように
本当に必要なものだけを、
こゝろと軀に必要なものを
“手”と”こゝろ”で温もりとおおらかさを優しさを、
こゝろと軀の穏やかさを、
自然体の自分をカヴァーリングする迄のものを
自分テイストで繕ろう。

 “CARE & CURE for my mind & the body by my self."

 シャネルとユニクロのコラボではなく、”自分リメイク”。
CdGとユニクロのコラボではなく、”客がリメイク”。
“百貨店の中に縫製工場を。”
“銀座に縫製工場を。サンプル縫製からリメイク縫製まで、”

 いらないものはいらない生活のための新たな”消費社会”を築く迄を念う。

 ヴィニィールテントが環境空間。
地面の土の上に子どもたちが必要な無農薬、無放射能野菜を植えよう、育てよう。
“アウトレットの中は家庭菜園とリメイク工場”。

 こんな環境空間が今後の東京。
こんな空間が都市に妄想化され、構造化される時代性。
都市という根幹を考え直そう。

 『再生消費社会構造を環境化し、共有しあえる都市を妄想しよう。』

 僕たち日本人は今後もこれからも”消費”し,
“消費”させられてしか生きて行けない国民になってしまっているのだから。

 『無知というのは知識がない事ではない。疑問を発せられない状態を指す。』
フランツ-ファノン:http://ja.wikipedia.org/wiki/フランツ・ファノン

 では、疑問を発せられないジャーナリズムとは?
文責/平川武治:平成二十四年七月十一日:1年4ヶ月目。

投稿者 : editor | 2012年07月12日 01:39 | comment and transrate this entry (0)

2012年06月12日

シリーズ/ひらかわ版 “世界知らづにならない為に”:

 今日,6月12日はこれです。
アーロン・ルッソ渾身のドキュメンタリー映画/
[アメリカ:自由からファシズムへ』その1~5]

http://video.google.com/videoplay?docid=6151715899324004105
http://video.google.com/videoplay?docid=-5987548287308161774
http://video.google.com/videoplay?docid=-5027144445168035825
http://video.google.com/videoplay?docid=2822743861153246905
http://video.google.com/videoplay?docid=-1834419195483711220
 
 これは長く、5部迄ありますが、現代のアメリカと言う恐ろしい怪物の現実を知るにはいいフュルムでしょう。
しかし、日本も’97年以降、この”連邦準備局”構造が,
三重野康(第26代)以降の日銀総裁たちの勤勉さと愛国心亡き努力とによって
成立してしまっていることも熟知しておいて下さい。(平成9年法律89号)
この詳細は『円の支配者たち』と言う本をご一読ください。もう古くなりましたが一読の面白さありです。
「円の支配者—誰が日本経済を崩壊させたのか」/リチャード・A・ウェルナー / 草思社 / 2001/05/14

 "For not without knowing the world" series / version Taque.Hirakawa.
It 's a long video but until you have 5 parts, to know the reality of modern America
and say horrible monster would say one of cool the video.
However, please keep also be familiar with since 1997, this structure "Federal Reserve System( FRS)"
which had been established in our Japan, already.

 特に,この(その4)は必見です。
http://video.google.com/videoplay?docid=2822743861153246905
Especially this part-4 necessary is seeing.

 ここに僕が、『LePli-2号』にて今編集している『UNIFORMIZM』の根幹があります。
発刊予定は7月末です。乞う、ご期待。
文責/平川武治:平成二十四年六月十一日。

投稿者 : editor | 2012年06月12日 15:32 | comment and transrate this entry (0)

2012年05月31日

『今僕が考えているモードのこと。』の幾つか。/先日5月4日、VACANTで話した事。

 これはVACANTで話しをした事のデジュメ的なるものです。
 東京は変わらぬ”消費社会の坩堝”、
世界でも類をみない“長いものに捲かれろ!”的な世界へ進化するだけの都市。
あの、鳴り物入りで,煽るだけメディアを煽ってオープンした、DSM-GINZAに”新しさ”はありますか?
 そこで、
 『再び、ファッションを通じて、“新しさへの可能性”を考えるための幾つかの提言。
そのための”発想のためのコンセプト”として、最もベーシックな事、”モードの根幹”を考えてみよう。』

 はじめに)
 「みなさんのこゝろの中で”何が変わったのか?”の確認をして下さい。」
 昨年のあの“3.11”体験によって、本当に「変わった事」とは何か?
「気ずいた事」は何か?そして、「知ってしまった事」は何か?
気が付かない人たちの遅れて来た外国人コンプレックスによる
”変わらぬ、消費社会の過剰商業施設”はいつ迄続くのでしょうか?

 みなさんそれぞれが再確認と再認識を忘れないで下さい。
そして、カタログメディアに惑わされないで、みなさんの”こゝろの様変わり”が何かを忘れないで下さい。
大いなる犠牲を今後の”より、おおいなる可能性へ”ポジティフに
転換させるための”分かち合う”行為の根幹にして下さい。
 ここから新しい可能性が生まれるはずです。

1)人間も”哺乳動物”でしかない。
 21世紀になっても、30世紀になっても人間は変わらず、”哺乳動物”でしかない。
これを人間の根幹として再確認して、”服”を着る人間の感覚に付いて考えてみる。
“五感”とその“五感”のバランスに付いて。
そして、新たの時代性へ向けての”感覚の解放とそのバランスの組み替え”を試みる必要性に気付くべきである。
“臭覚”、”触覚”、“味覚”、“視覚”そして、”聴覚”と言う”五感”の今後のテイクバランスとは?
その目的とは、”哺乳動物としての人間”が備えなければならない新たな『身体機能の拡張の原理』です。
ここにはもう一つの感覚としての”共通感覚”と言うものもあります。
そして、ここに『Nation Identity』に気付く事が必要になります。
 今後の迎え得られる”可能性”についての大切な根幹発想です。

 それは現在の白人優位の文明が生み出した現実の社会構造と環境それによって生み出された文化文明が、
より進化すると言うことは、科学技術と現在の時代性に委ねた現実社会の進化とは、
人間本来が持っているべき“五感のアンバランス化”へ進展するだけと言う見解があります。
そして、白人優位主義者たちが“視覚”に頼る発想のもう一つの役割には
“欲望のリビドー”から”支配のリビドー”への願望があります。
参考/
 今現在、巴里のキラブラリィー美術館で開催されている”Maitres de Desordre展”や“J-P-WITKIN展”、
昨年のN.Y.出の写真展”MASKE",ギリシャでの”NOT A TOY展”やカルチェ財団での展覧会、”呪術展”
シュバンクマイエル夫妻が提案した、“触覚主義/TACTICISM"、
U.C.の素晴らしい、’05/コレクション“BUT BEAUTIFUL "にも見られた。


2)創られた”服”は誰が着るのか?
 創られた”服”は誰が着るのか?誰に着てもらいたいのか?着るのは“人間”が着る人間の軀が着る。
人間の軀はどのような構造で出来ている?此処でも、究極、”肉”と”骨”そして、”皮”で着る。
此処から“服”を作る、即ち人間が着るモノとしての”服”を考えてみる視点です。
今一番の僕が興奮して感じ、考えている事です。
”骨”-“肉”そして、”皮”、この関係性は?”骨で着る”="肉で着る”=”皮で着る”モノが被服であると言う
根幹を知る事です。即ち、此の関係性です、
”肉”=wrapping=円筒=3D.=西洋服 /“骨”=covering=1枚の布=平面=和服 /”皮”=tube=袋=3D
=肌着と言う関係性。そして、“切る”=“折る”=”縛る伸びる”―――着る=織る=伸縮。
此れが、西洋=東洋=原始社会(ボンテージ/プリミティフ)/ 物質世界=精神世界=呪術世界。
人間が、服を”着る”という世界もここまで来ていますね。
 これらの身体構造に於けるカテゴリーでは「”皮で着る”=袋/skin.=”伸びる”=身体拡張」が
今、一番鮮度あり、可能性高きカテゴリーでしょう。
此れが今の新しさの趣きを出す愉しい一つの”創造の為の発想”です。
例えば、最近の映画、『私が、生きる肌』の世界もここに面白さと可能性への愉しみな視点が有ります。
この世界は以前は“プリミティフ世界”には既に存在していたもの、例えば、”シャーマニズム”も、
”フェッチシズム”や“オカルティズム”もまた、僕は“全身マスク”と言って楽しんでいる日本の幼稚さからの
ユーモアたっぷりな”着ぐるみの世界”もこの世界の表層化の一つでしょう。
従って、視点を変えてみる事で又新たな可能性が見えるのです。
 
 これらが素材技術とプリント技術の進化によって、ミックスされた新しい世界が
これからのファッションの世界に確実に新しさをもたらす可能性の根幹になる。
この根拠は、「人間の美しさとは均整あるボディーシルエット」という西洋美学的発想に於いても頷ける事。
”バランス観”がよくなる事が文明の進化であると言う視点へ”こゝろと軀と知恵”を向ける事に尽きるでしょう。
http://www.yankodesign.com/2011/09/16/seamless-wear-of-the-future/
少し古いものでは、http://www.kotaro269.com/archives/51098852.html
映画/http://www.theskinilivein-movie.jp/
オリヴィエのディレクションで巴里で最近行なわれた、
着る女性のプロポーションが美しく進化すれば、と言う逆視点で行われた興味深いショー
http://dianepernet.typepad.com/diane/2012/04/models-at-work-directed-by-olivier-saillard-part-4.html

3)もう一度確認してみよう、”創造性”に必要なこととは?
なぜ、”創造性”が必要なのか?
創造とはどのような”こゝろの有り様”による行為なのか?
創造によって他の人間へ“感動”を与えられる。
そして、その創られたモノと作り出した人の”立ち居場所”が世界を創る。
従って、創造にはその人間が持ち得た”自由”と”自由性”が
人を感動させる迄の世界を創る事が可能である。
“自由”について、此処で再確認してみよう。
 例えば、”ファッションヒッピィー”とファッションヤッピィー”の違いは?
ビートニック=ヒッピィー=ヤッピィー
“安心と安全と健康そして、快適さ”を得た後の”自由”とは?

 みなさんの世代に於ける”自由”とはどのようなこと?
それと”創造”とを結びつける発想と創意工夫とその為の技術ある努力が
”クリエーター”と呼ばれる立ち居場所を持ちたい人たちの創造の為の根幹である。
合掌。
相安相忘。
文責及び、著作権/平川武治:

投稿者 : editor | 2012年05月31日 15:37 | comment and transrate this entry (0)

2012年05月25日

『見て下さい!世間知らずならぬ、”世界知らず”に成らない為に,』

 
 http://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI&feature=related
 
 『世間知らずならぬ、”世界知らず”に成らない為に是非、これを見て下さい。
出来るだけ、若い人がこれを見て、現実のそして、これからの世界がどのような世界へ、
どの様な人たちによって生み出されようとし始めているかを、
先ず、知るべきみなさんの義務です。
 
 自分たちの現時点の世界における”立ち居場所”を認識してください。
これがこれからのあなたたちが自分らしく、自由におおらかに調和のとれた生活をしてゆく為の”責任”であり、
与えられた”生”に対しての誠実さの一つの行為です。

 どうか、少し長い映像ですが、大変解り易く親切に作られた映像です。
自分一人でもいいでしょうし、友人たちや恋人とまた、ご家族のみなさんとご一緒に見て下さい。

 そして、先ず現在の“世界”とはどの様になってしまっているかのを知って下さい。
ここが僕たちが棲んでいる地球上に構築されてしまった”世界”と言う根幹です。

 どうか、”世界知らず”な,無知な消費ボケの日本人に成らないで下さい。
僕たち、”日本人”がこれを見、何が出来るか? 
何をしなければ?を問うてみて下さい。

 ここにこれからのあなたたち若い人たちの”可能性”の総てが在るはずです。
”未来”をそして、”夢”を分かち合う為の“Nation Identity"が喚起出来るはずです。
ありがとう、
合掌。
相安相忘。
文責/平川武治:平成二十四年五月二十五日:
http://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI&feature=related

投稿者 : editor | 2012年05月25日 14:17 | comment and transrate this entry (0)

2011年06月18日

『 3.11/東日本大震災と東京電力福島原子力発電所における企業事故災』 で学んだ事-2。

僕が『 3.11/東日本大震災と東京電力福島原子力発電所における企業事故災』 で学んだ事とは、その2
 結論から言えば、これは我々日本人が選ばれた、”神=自然の啓示”であるというポジティブな発想を願って。
文責/平川武治:平成23年6月11日

**僕が学んだ事とは。
1.)『国が、国土が、海が、国民が穢された。』
2.)『天皇皇后両陛下を初めとする皇室ご一家が、自らの”立ち居場所”を見つけられた。』
3.)『「地盤や地殻構造の違い」によって、どの様な物でも、総てが変貌する。』
  
4.)『知った事に対して、何をしなければならないか?』
5.)『”リスク"の範囲が変革した。』
6.)『「新しさが変わる」”新しさ=モダン⇒近代”が変る。20世紀は終った。』
7.)『"無知"、"無関心"ほど恐ろしいものはない。』
8.)『戦後の日本国は依然、変わらぬ”アメリカのポチ”。』
9.)『「大和こゝろ」を持った国家戦略シナリオが書けるアーキテクチュアーが不在。』
10.)『僕たちは”イエロー”であり”大和こころ”を持っている。』
11.)『「育ち、表層、深層」それぞれのボキャブラリィーが何事にも存在する。』
12.)『”立ち居場所”を捜し始める。そのための”決断”が自由さと勇気。そして、責任が必要。』
13.)『2025年へ向けた”ビルダーバーグ・グループ”の眼差しは?』
14.)『日本という國には原子力発電所という“商品”は不適格品だからいらない。』
15.) 『原発の怖さ。人間のエゴの怖さ。』

投稿者 : editor | 2011年06月18日 18:06 | comment and transrate this entry (0)

『 3.11/東日本大震災と東京電力福島原子力発電所における企業事故災』 で学んだ事。-2

 僕が『 3.11/東日本大震災と東京電力福島原子力発電所における企業事故災』 で学んだ事とは、
 結論から言えば、これは我々日本人が選ばれた、”神=自然の啓示”であるというポジティブな発想を願って。
文責/平川武治:平成23年6月11日

*はじめに;
 事故後3ヶ月が経た今も
「恐怖と不安そして、無念さと悔しさ,悲しみと哀れさ」にこゝろ同じくする者たちは
今回の”3.11/東日本大震災”という思いもよらない過大な自然災害により
東京電力福島原子力発電所における企業事故が併発し、
この想像を絶する事故の大きさと悲惨さの現実を知れば知る程に
又、この事故が及ぼす今後の僕たちの母国日本に及ぼされるであろう諸被害と多くの悪影響を考えると
僕たちには何が出来る事なのか? そして、何をしなければならない事なのか?を
意志強く自問し続け、そこから僕たちに出来る事を見つけ出さねばならない。
即ち、それぞれの『立ち居場所』を、
ここには決して、見えている表層の哀れみにのみこゝろを囚われる事なく、
冷静に強く謙虚に受け止め、真に学び
これからの僕たちの國への新たな可能性を
そして,僕たちの國を想うこゝろと共に
それぞれが新たな日本人としての『こゝろの在り様』を見つけ出さなければならない。
「がんばろう、日本」レベルだけではダメなのである。

**僕が学んだ事とは。
1.)『国が、国土が、海が、国民が穢された。』
2.)『天皇皇后両陛下を初めとする皇室ご一家が、自らの”立ち居場所”を見つけられた。』
3.)『「地盤や地殻構造の違い」によって、どの様な物でも、総てが変貌する。』
4.)『知った事に対して、何をしなければならないか?』
5.)『”リスク"の範囲が変革した。』
6.)『「新しさが変わる」”新しさ=モダン⇒近代”が変る。20世紀は終った。』
7.)『"無知"、"無関心"ほど恐ろしいものはない。』
8.)『戦後の日本国は依然、変わらぬ”アメリカのポチ”。』
9.)『「大和こゝろ」を持った国家戦略シナリオが書けるアーキテクチュアーが不在。』
10.)『僕たちは”イエロー”であり”大和こころ”を持っている。』
11.)『「育ち、表層、深層」それぞれのボキャブラリィーが何事にも存在する。』
12.)『”立ち居場所”を捜し始める。そのための”決断”が自由さと勇気。そして、責任が必要。』
13.)『2025年へ向けた”ビルダーバーグ・グループ”の眼差しは?』
14.)『日本という國には原子力発電所という“商品”は不適格品だからいらない。』
15.) 『原発の怖さ。人間のエゴの怖さ。』

 これらについての想いを数回に分けて書いてみます。
どうか、みなさまの思いと比較、対比されて今後の可能性へのために!!

***第1回;
1.)『国が、国土が、海が、国民が穢された。』
 僕たちの国土が、再び、穢された。
この百年も経たぬうちで3度目の沈痛極まりない出来事である。
先の2度の”穢れ”は敵国によってであった。忘れていないであろう『広島』、
世界最初の原子爆弾の投下と、続く『長崎』。
結果の「大東亜戦争」敗戦と続く、その敗戦処理によって日本人本来の魂が抜かれてしまうまでの”穢れ”。
しかし、今回の”穢れ”は同胞たち即ち、僕たちと同じ日本人によるしかも、
”教養あり、社会的立場を持った、高収入を得てそれなりの生活暮らしぶりを”していた人たちによる、
彼らの思惑と自信と傲慢さと驕りによって”穢された”、とてつもなく悲痛激しい辛い事故である。
 僕たちの國、日本は自然と共に、自然の恩恵を受け自然と共棲し
そして、自然と戦いもし乍ら、2千5百年程を生かされ続けて来た『日出ずる国』日本であった。
その一部分である東北地方が今回のような悲惨で罪深きダメージを蒙ってしまった。
 自分の國に想いを寄せるこゝろがあるならば、今後の國体を念い労るならば
このようにこの原発企業事故災害を悲痛な心境で受け止めてしまって当然であろう。
事故後、当事者たち、関係者たち、政治家たち、傍観者たちの多くがメディアへ登場しているが、
その大半の人たちからは、彼らたちのこゝろの在り様が感じられない、見えない。
自分たちの國を母国を”穢した”という本心と自覚があっての発言では無い。
彼らたちなりの立場と役割上の責任回避的なる言葉の羅列でしか受け止められないものばかりであった。
これが結果、「メディアは何も本当のことを伝えない。」と感じ、読まれてしまった最大の原因であっただろう。
 そして、今後の僕たちの國体と同胞の事、
そこに生活する若き世代と赤児たちの未来の現実がどのようになってゆくのだろうかと考えると
悲痛なこゝろの想いでこの3ヶ月程を過ごした。
その裏には「僕たちの世代が、あの時に、もっとどうにかしていれば」という
自責の念が消える事なく大きくなり乍ら。

2.)『天皇皇后両陛下を初めとする皇室ご一家が、自らの”立ち居場所”を見つけられた。』
 今回、被災地を幾度か訪れになられた天皇、皇后両陛下を初めとした皇室の
ご一家の報道を観ているとこのような事を感じた。
天皇皇后両陛下を初めとする皇室ご一家が、今回のご行為を通じて
戦後、初めて自らの”立ち居場所”を実感として見つけられたのではないだろうか。
 戦後、敗戦国の戦争責任者としての天皇、皇后と皇室ご一家は
『国民の象徴』という包装紙としての”立ち居場所”をGHQによって与えられた
寧ろ、命じられてこの与えられた役割に穏便に徹して来られた65年間でいらっしゃったであろう。
 しかし、今回のこの3.11/東日本大震災の被災者たちを見舞われた報道を観て、
あのように被災者の人たちと同じレベルの床に膝まつかれて
差し伸べられる手と励まし交わされる言葉は
『人間天皇』以外の何ものでもなかった。
 このような考えは生意気で失礼であるかも知れないが、
今回の一連の天皇、皇后両陛下を初めとした皇室ご一家の
被災者たちを見舞われた行為によって見舞われた被災者たちもそうであっただろうが、
何よりもその行為によって当事者となられた天皇皇后両陛下を初めとする皇室ご一家が
戦後66年目にして初めてご自分たちの ”立ち居場所”をご確認為されたのではないだろうか?
 これは今後の日本国のために或る意味ではもの凄い事であり、
大いなる新たな可能性を産み出す根源にもなるはずであろう。
しかし、当然であろうが、メディアはその光景のみを報道して、
その本意は決して報道しなかった。
(第2回へ続く、)

投稿者 : editor | 2011年06月18日 05:25 | comment and transrate this entry (0)

2011年06月10日

僕たちの國が穢されました。−1

僕たちの國が穢されました。
「どうか、『近代性』が『あきらめ』の同義語となって行く事の無いように。」 
 周りの表層に誤魔化されないように、
このような事態になるとメディアは“表層のボキャブラリー”を報道するだけです。

 原発の実態については
広瀬隆さんが以前に書かれた本がありますね、「東京に原発を」ほか。
電力会社とは、或る種の國策企業です。
ですから’56年以降、国家予算をふんだんに使っています。
日本に原発が設置された当時は
財界、官僚、政治家(当時の自民党議員)と学者たち。
そんな彼らたちをたらし込んで”商品”を売り込んだ
当時のアメリカ政府と米國企業が絡んで出来上がった
日本の原発事業政策です。

 広島に、長崎に世界で初めて使った
戦争核兵器としての原子爆弾の平和利用が、
その裏には、”第3の燃料利権”として
世界レベルでユダヤ人たちを中心に深く絡んでいる現実。
国民の為の真意の結果の”原発事業”ではなかったと言う事実。
儲ける側の、自分たちの考えを実行、現実化し、
儲ける為に進行させたもの。
決して、国民の将来迄も考慮されて
決定された事業ではないと言う事です。
これが日本の原発の『育ちのボキャブラリィー』です。

 電気がなに不自由無く無節操に使える環境は
そのものが豊かさのシンボルンとなり、
以後、進化する消費社会環境に必然であり
これには国民が思うレベルの”自由と豊かさ”への、
無意識に慣らされてしまったシナリオの巧さがあります。
これが’70年代以降の”日本の高度成長”と言われて来た
『表層のボキャブラリー』です。

 適当に”餌”を与えれ続ければ、
大衆と言われる国民はその餌の為に”勤勉に働き”
与えられた餌”は満腹になる迄みんな食べる。
不足すれば不平を言ってその分だけ又、蒔かれる”餌”。
この繰り返しと、この状態の継続化が
戦後よりの”大衆のしあわせ”日本版シナリオ。
このレベルの”しあわせ”を選択出来る選択肢の多い事は
大衆たちの”自由”度。
この”しあわせと自由”が大衆たちに満足と平和を与えて来ました。

 戦後の日本人はこの非常にシンプルな回路で
国家とその周辺企業が目論んだ大衆消費社会に
飼いならされて来た戦後の60年間程。
それを”豊さ”と勘違いをした思想なき群衆、
僕たちが本心、忘れてはならないものを
沢山、置きざりに来てしまったのもこの60年間ほど。

 そこで見えたのが
多種多様な欲望に委ねた“豊かなる難民”。

 再び、活動期に入った日本列島の地殻。
その為に迎えてしまった2つの大災害。
一つは天災。
そして、もう一つは企業災。
同じ優れた”商品”も
使われる地盤や地殻そして、世界が違えば
恐ろしい、新たなリスクを生み出す”凶器”になる。

 時代が変わりますね、
変わらないといけません。
変わる為の後退、
背負い込まなければならない責任
勇気ある真こゝろを持って、
光が差し込む方を堂々と向いて、
光と対話して下さい。

 僕たちの國は優れた精神性と
メンタリティ豊かな民族の國です。
この事態は國を想うこゝろをみんなが一つにして
そのパワーで、穏やかにおおらかに解決しなければなりません。
僕たち日本人には可能です。
僕たちはイエローです。
“イエロー-ミラクル”を使う時が来ました。

 『僕たちはイエローである。』
僕たちには『やまとこゝろがある』
僕たちは『日本人』である。
とても素晴らしい自身ある”立ち居場所”を持っています。
この与えられた立ち居場所を認識し、
今回の天災と原発企業災害事故から、
非常に過大な犠牲を、リスクとして
正面から、僕たちはこれからの子供たちの為にも
大切な、本意と本心を謙虚に
もう一度,学ぶ必要がありますね
改めて、気概あるこゝろの様を持てる迄に、
そこに、『日出ずる國日本』が、合掌。
/平川武治:3月15日巴里にて:

投稿者 : editor | 2011年06月10日 02:29 | comment and transrate this entry (0)

2011年04月16日

僕たちの國が穢されました。−2

『20世紀は終った。』
『豊かなる難民』
『どうか、近代性が“あきらめ”の同意語となって行く事のないように』
『國を想う真こゝろ』
『こゝろの在り様が自らの行為となる。』
『群衆とは思想を持たない人たち』
『育ちのボキャブラリィー』『表層のボキャブラリィー』そして『深層のボキャブラリィー』

『知ってしまった事に対して、何が出来るか?』

『CARE & CURE』
『UNIFORMIZM』

そして、
『僕はイエロー』
『イエローカルチャー』
これらは僕のここ数年のテーマでした。
案外、ズレていませんね。

このような惨事は100年に1度かの事。
丁度、
僕が棲んでいる鎌倉の
鶴ケ丘八幡の銀杏の大木,(樹齢1000年以上、)が突然倒れたのが
1年前の3月10日未明。

この惨事をあなた方世代が
挫けず、挫けないで、
ポジティフにこゝろして、
『新たな國を想うこゝろを持って
僕たちの美しい自然を、國を再生して下さい。』
それが今必要なこと。
こゝろすること。
『大和こゝろを学びもって、
新たな僕たちの國を日出づる國に再生してください。』

『イエローカルチュアーを武器』にして。
今こそ、君たち世代が、
僕たちがしなければならない、
日本人にしか出来ないことが在る時なのです。
ホワイトには出来ない、
チャンスと可能性が在る時なのです。
ここから”逆視”して下さい。
どうか、
子供たち、赤児たちが“あきらめ”の人生を辿らないように
君たちが新たな國を想う大和こゝろで
彼らたちへ輝く可能性を。
お願いいたします。

 例えば、『紙と木の建築』。
燃え尽きてしまう建築。
無くなる建築。
世代が周期に建て直す住宅。
伊勢神宮を見習って。
『神と気の建築』を。
”アーキテクト/アーキテクチェアー”
この言葉は今では国家戦略を構築する言葉、
国家戦略のシナリオを書く人たちへの言葉。

『僕たちの國が穢された。』と『國体を想い國を愛する真こゝろ』
この立ち居場所とこゝろ念いで
国家戦略が構築出来る人がいませんね。

自然の懐に
その偉大さに謙虚なる念いと術を
こうべを垂れる稲穂に
おおらかなる
海原に委ね
相安相忘。
ひらかわ:

投稿者 : editor | 2011年04月16日 04:58 | comment and transrate this entry (0)

2006年09月14日

平川武治の臨時特別ニュース。あのアントワープ王立アカデミィーモード科主任教授のリンダ ロッパ先生がPOLI MODAへ移籍!!

 日本でも既にブランド的モードの教育機関であるアントワープ王立アカデミィーのモード科を代表した、主任教授であるLINDA LOPPAが突然辞職。2006年09月13日、アントワープ発;
本日、王立アカデミィーのモード科、主任教授であり、彼女自らが提唱者の一人であった、
FLAMAN FASHION INS.(FFI)フラマンファッション研究所及び、国立アントワープ服飾美術館館長をも兼務していた LINDA LOPPA女史が突然、総ての職を辞任した。
 今年2月に地元新聞で公金横領のスキャンダルに巻き込まれていた彼女がその半年ほどの後の出来事。彼女が携わって来たこの街、アントワープにおける総てのモード関係の職を辞任した。
その彼女の新しい職場は、イタリーのフレンチェに在る、「ポリ・モ-ダ」へ移籍。
この「ポリ・モーダ」とは、この国のファッションを代表するS.フェラガモ社が創設した教育ならびにモードをプロパガンがする研究機関である。彼女、LINDA LOPPAのルーツはイタリア人。ここ数年来、フィレンチェの「ピッツァ・ウオモウ」関係でアントワープのデザイナーたち、RAF SIMONS,ANGERO F.等を送り込んでイベント企画等を行ってきた、その経過での新たな動きと見ることが出来る。
 彼女自身も今後、フレンチェに大きな家を買って、多くの若いアントワープデザイナーたちに成長した教え子たちのためにイタリアの工場を紹介するとまでの公言。これは彼ら、アントワープの若手デザイナーたちや今後の卒業生たちにとって本質的な事がらであり必然性と、大いに可能性を含んだこと。
 だが、その移籍本意はもっとどろどろしたものがありそう。
これによって、アントワープのモード科も今後どのような方向性へ向いた教育機関になるか?
彼女のあとを受け持つことになったのは、今までこのアカデミィーの3年生の担任教授であったWALTER VAN BEIRENDONCKがモード主任へ昇進。文責;平川武治:

 Poli moda(ポリモーダ) ;フィレンツェ市内 にあるポリモーダは1986 年、ニューヨークのファッション・インスティテュート・テクノロジー(FIT ) との提携のもと、イタリア・ファッションをグローバルに学ぶ場所として地元フィレンツェ市やS . フェラガモ社などの協力で創立されたファッション・スクール。
デザイン、創造性、技術革新を重視し、 デッサン教室、テクノロジー・センター、デザイン・ラボラトリー、テキスタイル・ラボラトリー、 図書館等を備えている。

 1986 年の創業以来、世界中から集まってくる生徒数は700人を越え、卒業生の7割がファッション産 業で働いている。イタリー、ファッション業界と密接な関係を保持しているのが大きな特色。ファッションを 基礎から学びたい人、すでに学歴・職歴ある人たちの能力開発及び文化的教養を高めたい人に向けての応用・専門コースを各種開講しており、夏期講座では日本語コースも可能らしい。

参考サイト;
http://www.vrtnieuws.net/nieuwsnet_master/versie2/english/details/060912_lindaloppa/index.shtml

投稿者 : take.Hirakawa | 2006年09月14日 06:12 | comment and transrate this entry (0)