2022年7月11日

続編;今月の"ひらかわ的眼差し"-2/"アートの動き"から読み解く眼差し。;

 今月の"ひらかわ的眼差し"-2/"アートの動き"から読み解く眼差し。;
「白人社会」が見つめる、新たな"日本"と言う国の立居場所とその役割という妄想。

文責/平川武治:
初稿/2022年06月16日:

 今回は、前回の続編、「アート版」です。
本件のいわゆる"ネタもと"は、アートの世界における最近の動きであり、日本のアート業界(?)を
もう、既にかなり揺さぶり始めています。これを"ひらかわ的深読み"で妄想してみます。

「アート版」1)"ひらかわ的眼差し"、アイテム-2/
「grand Tokyo」と言うアートマーケットサロンの登場。/

 日本に新たなアート展「grand Tokyo」の開催が決定された。
ロンドンを本拠地とした、"Art Assembly"がオーガニゼーションとなって企画運営がなされ,
横浜パシフィコで、2023年からの開催予定である。 主催は"アート・アセンブリー"。
 この「grand Tokyo」の責任者はMr.マグナス レンフェリー。そして、新たなチーフキューレー
ターはエリ・タカネさんが選ばれている。このアートフェアーの規模は、80~100店の国際的なアート
ギャラリーを集める予定。そして、日時は2023年7月7~9日で日程が組まれている。
主催者、"アート・アセンブリー"のマグナス・レンフリュー氏は、「いま非常にダイナミックな瞬間
を迎えている。 アジアのアートマーケットは成熟し、それぞれの地域で独自のアートフェアを開くに
値する新しい段階に到達しつつある。現在のアートフェアの開催地以外でも、新たな観客を開拓でき
る潜在力は大いにある。私たちの仕事は、現代美術のコレクター層と観客を広げ、深めることだ。」
と言う。
 そして、彼らの目的の一つに、TOKYOを新たな、そして直接的に、"アートのバブ"化とすることで
あり、その具体的なミッションは、1-市場開拓。2-"Japan Culture Products"日本人クリエータ
ーの発掘。3-世界の各アートシーンとのバブ化。4-アートマーケットの世界基準化。の4つを掲げて
いる。
 続いて、"アート・アセンブリー"のマグナス・レンフリュー氏のインタビューを"ARTnews"誌で
読み込むと、
「国際的なスタンダードを持ち込み、新たな文脈をつくっていきたいのです。」
「アートのセレクションをきちんと監修し、国際標準のものを提供することが重要です。」
「展示されるアートがベストなものになれば、鑑賞者やコレクターも間違った選択がない。」
「現在の現代美術のマーケットは"アメリカ43%、中国20%、イギリス17%の3つの巨大市場であり、
他ではフランス7%、ドイツ7%、スイス2%、スペイン1%、ほか8%、ここに日本も入っている。
が現状。」
「"ARTnews"誌が選んだ世界の現代美術コレクタ-200人(2021年版)では、日本人コレクターは
たった三人だ。」
「中国本土による締め付けの強化によって、アート市場のとしての香港の監視と衰退が憶測されてい
る。」
「そのため、大手ギャラリーは、今秋"フリーズ・ソウル"が始まるソウルに集まり、支店をオープン
している。」
「"grand Tokyo"は、アジア全域で起きている全ての活動と競合するのではなく、むしろ補完する
ことを目指す。」
「これによって、現在の、"台北、デリー、シドニー、シンガポール"に加え、東京が加わる。」
「もはや、(なんでもそろう)総合店舗の時代ではない。」
「どちらか、ではなく、どちらも、なのだ。」
参照/"ARTnews" "ARTnews Japan" https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/260 https://www.artnews.com/art-collectors/top-200-collectors/top-200-collectors/「

 2)『これを深読みすれば、「地政学」的に、/ひらかわの深読み視点
 "アート・アセンブリー"はアジアにおいては、台北、デリー、シドニー、シンガポールにそれぞれ
拠点を持っているのでこの並びに組み込まれ、中国香港マーケットに対峙する"アート界のダイヤモン
ド構想化"である。これによって、従来の"L.A.-London-Taipei"とTokyoが結ばれる。
 ここでも、白人たちが見るそして、読む現在の"日本"の見られ方、認識のされ方と、使われ方の
典型的な一つがこの"アート業界"でも現実化されるという深読みの時代性だ。
 ここでは、新しい時代の到来として「地政学」としての"ウクライナ-ロシア戦争"後の読み方或いは
「地政学」的な変化現象を読むことである。
 例えば、今回の「東欧ユーラシアの不安定化」と「中国およびロシアの不安心化」が具体的に炙り
出したことは、「アメリカの政治力の衰退化と国連の事実上の弱体化」の結果、ヨオロッパにおける
新たに、「NATO軍の復活とアジア版"NATO構想"」と言う軍事力における"パワーバランス戦争"が、
先のバイデン大統領来日の「クワット会議」でより、明確になったことである。当然、この裏側には
全て、それぞれの国家がリスクを伴う"軍事防衛費"の負担がどこの国がその恩恵に賜るか?でしかない。
 もう一つ、"アメリカドル"の弱体化。と"中国元とロシアルーブル建"と言う経済構造が構築され
実施し始めたこと。そして、"アベノミックス"によって齎された、"円安"の日本経済の長期継続化。
などもこの"アメリカ弱体化"と"日本利用"すなわち、今後の日本国の立居場所とその与えられた役割
この"アートの世界"でも見えてきた。
 これも、「アジアにおけるプライオリティが取れない国、日本。」と言う現状と今後が読まれてし
まった結果でしょう。単独でそして、将来的にも日本のアジアにおける位置は「いつも、今後も変わ
らず、アメリカのポチ!」。そのためには、アジア版"NATO構想"による軍事力に頼る戦法だ。
 狼狽始めた"大国"アメリカは、"クワット諸国"と共同による軍事力によって対中国を敵視し続け、
「日本国の安心と安全を国民へ訴えなさい。」そのためには「日本さん、憲法改正そして、第9条の
改定しかありませんね。」そうしたら、「国連の常任委員国の席をロシヤを追い出して日本さんへ
あげますよ。」そして、「僕たちの国の軍産世界企業から武器弾薬を堂々と購入しなさい。」
「これには安倍さんにも教育済みで、承知の事実ですよ!」
 これが世界の白人至上主義社たちから押し付けられた「今後の僕たちの国家、「日本」の立居場所
でしかない。」

3)ひらかわの深読み視点ー2/この状況を「アートの世界」へ落とし込んでみると。
例えば、この"アート業界"では、従来まで、「香港」がアジアンマーケットの"玄関口"であったが
この「香港一本化」に不安を感じ始めた白人/ユダヤ人たち。そこで、「ソウル」へも進出した。
この二都市で"アジアンマネー"を吸い込もうと言う発想であったが、ここで、'16年に安倍元首相が
発案した、「アジア ダイアモンド構想」の"アート版"が、先日の「クワット会議」のアート版と深読
できるだろう。
アート業界の白人たちもそのほとんどが"ユダヤ人ビジネス"であり、その彼らたちのミッションは、
「今後、開拓の余地がある"アジアンマーケット"を抑えたい。」そして、「どちらかではなく、
どちらも、」である。
 これは、前号の「ファッション産業」の続編として繋がる根幹は『「グローバル ノース」でもなく
「グローバル サウス」でもない日本』と言う見方が本音の、現在の白人世界から見た「日本」の
"生かしどころ、使い所"であろう。
 ここには、日本人の従順さ、真面目さそして、几帳面さ、器用さ、勤勉さなどの利点をビジネス上
認めた上でだが、もう一つの特徴(?)「白人外国人には弱い。或いは、コンプレックスが強い。」
 これは、同じアジア人である中国人は日本人よりは強靭にインデペンデントであり、儒教観もあっ
てさほど「白人」に靡かないと言う事実を認識し始めた結果の彼らたちの 「イエロー基準」であり、
日本とビジネスを行う白人社会の変わらぬ、"日本"と"日本人"との関わり方であろう。
参照/"Project Syndicateによる"Asia's Democratic Security Diamond"By Shinzo Abe. Dec.'12/
https://www.project-syndicate.org/onpoint/a-strategic-alliance-for-japan-and-india-by-shinzo-abe

4)まとめて見ると、/
例えば、日本人アーティストを発掘して、日本人コレクターを開発し、新たなビジネスにつなげる。
そのためには、日本人アーティストを"同じステージに乗せる"と言う順序と構造が必要。
 このセオリーは前号の"ケース-1のB."アルノー氏の表敬訪問も同じ視点と読める。
すなわち、「日本の技術のよる素材開発とそれらの素材を使っての縫製技術への信頼をできれば、
今後、自分たちの"強み"にしてゆきたい。そのために、"生産表記" を行なってあげますよ。」と
言う同様の視点であろう。
 ここにきて、『新たな時代とは、「再び、今の時代における"植民地政策主義"を「グローバル
ノース」でもなく 「グローバル サウス」でもない"日本"を新たな拠点として、「アジアンマーケッ
トを抑えたい。」 そして、「どちらかではなく、どちらも、」自分たちのビジネスの領域の中に囲い
込みたい。』
このような将来が、僕たちの日本が迎える"未来"であることを少し、「深読み」しました。
「世界の、白人たちがどのような眼差しで、今後の日本と日本人」を"ニュー・ルール"として、
位置づけしてゆくか?
 この眼差しを、このような時代になって今後、実社会で生きてゆく"世代"たちに教育面で気づかせ
る教育、「今後の日本という自国を考え、これを「観察」と定義し、「気づき+問いかけ+批評する」
日常的なプロセスを可能であれば、習慣としての"ルーティーン"として、教育面で刷り込んでほしい
ものですね。

文責/平川武治:
初稿/2020年06月16日:

投稿者 : editor | 2022年7月11日 13:16 | comment and transrate this entry (0)

2022年7月 3日

今月の"ひらかわ的眼差し"/「"白人社会"からみられている、僕たちの国の将来。」-その1。

今月の"ひらかわ的眼差し"/「錆びつきたくない老後。」のために−1。;
「白人社会」からみられている、新たな"日本"と言う国の立居場所と活用とは?
という妄想。

文責/平川武治:
初稿/2022年06月16日: 

0)ちょうど1年前の話です、/
 LVMH社がGoogle社とこのような契約を交わしたことはご存知ですね。 
「LVMHとGoogle Cloud、AIとクラウドベースのイノベーションのための戦略的パートナーシップを
構築。LVMH発-2021年6月16日」

「本日、LVMHとGoogle Cloudは、イノベーションを加速させ、新しいクラウドベースの人工知能
(AI)ソリューションを開発するための戦略的パートナーシップを締結したことを発表しました。 
両社は、LVMHの各ラグジュアリーブランドであるメゾンが、長期的な成長を促進する新しいパーソナ
ライズされた顧客体験を創出できるよう、力を合わせていきます。このパートナーシップは、両社の
創造性、資産、技術力、革新への渇望、そしてそれぞれの市場において認められた地位を融合させる
ものです。」
 このラグジュアリー帝国がこれをやり始めるともう、「今後のファッションビジネスの構造」が
以前,僕が話したまさに「アルゴリズム+A.I.+SNS」の世界の登場ですね。全てのファッション構造
が、作り手も、売り手もそして顧客までもが、彼らのこの「監視社会構造」の中でコントロールされ
てしまうまでの状況です。これが、「 LVMH社」の全ブランドの、全顧客に及ぶのですからこの
パワーは新たな「 Luxuary N.W.O」を構築が可能なまでのパワーでしょう。
 参考/LVMH社のプレスリリース;
https://www.lvmh.com/news-documents/news/lvmh-et-google-cloud-partenaires-strategiques-pour-lintelligence-artificielle-et-linnovation-dans-le-cloud/

 1)この現実が物凄いことである根幹は、/
 この企業、LVMH社はファッション・皮革製品、宝飾、時計、シャンパン、ワイン、香水と化粧品
からイタリーのチョコレート、デパート、免税店、ホテルそして、メディア、遊園地、ヨットハーバー
までも。19世紀の"グランツーリズム"のコンセプトを現代までも継続している世界トップのラグジュ
アリー企業体であると言う現実でしょう。
 この企業グループのそれぞれの顧客たちとは今後の「格差社会」構造における確実な富裕層を
「仮想監視」が出来、「アルゴリズム」によって、コントロール可能な世界を構築しようとしている「ラグジュアリーファッション世界のN.W.O.構想」と読める。これは、「UNIQLO」の顧客とは雲泥の差と言うことであり、"数量"ではなく"質"の差異でしかない。
 これが現実のパリの「ラグジュアリーブランドビジネス」の世界版でしょう。
(参考;LVMH社全ブランド詳細は、上記のLVMH社のプレスリリースを参照のこと。)

 この"LVMHとGoogle Cloud"の業務提携に対してのコメントで面白かったのは、
"Luxury Society"と言うサイトでした。興味ある方はご一読ください。
(参考/この契約についての"Luxury Society"のコメント;)
https://www.luxurysociety.com/en/articles/2021/07/lvmhs-deal-with-google-is-groundbreaking-heres-why

 そして、本題、「ここ数ヶ月の出来事を深読みする。」/
 2)"ひらかわ的眼差し"、アイテム-1/ 
 
 B.アルノー氏が松野官房長官を表敬訪問とその発表事項。
【時事通信社】発/『松野博一官房長官(右)は2日、高級ブランド「ルイ・ヴィトン」や
「ディオール」を手がける仏LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)のベルナール・アルノー
会長の表敬訪問を首相官邸で受けた。』 
【経済産業省】発/5月2日(月)LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトンのベルナール・アルノー
会長兼CEOは、日本のファッション・アート産業との連携強化を目的に、松野官房長官を表敬訪問し
ました。会談では、岸田政権における新しい資本主義が重要視している「人的資本投資」を通じた
伝統技術・工芸や個の創造性の発現であるアートが、これからの価値創造の源泉であることが確認さ
れました。今回の訪日において、LVMHモエヘネシー・ルイヴィトン社からは、ファッション・アート
分野における下記3つの連携策の提案がなされました。
 ①LVMH(モエヘネシー・ルイヴィトン)において、日本の素材等が使用されている場合には、商品
説明欄に具体的な産地名を記載するなど、日本の産地が有する高い技術力の海外発信により一層協力
すること。
 ②同時に、LVMH(モエヘネシー・ルイヴィトン)において、高品質な素材等を提供する日本企業と
の連携を一層発展させて、日本の企業、特に中小企業各社や職人の成功に貢献すること。
 ③さらに、LVMH(モエヘネシー・ルイヴィトン)において、日本の若手アーティストや工芸家との
コラボレーションをより一層推進すること。
 そして、経済産業省としても、日本の素材のブランド化や、ファッション・アート産業の中小企業
職人、若手アーティストとの連携を支援していきます。
https://www.meti.go.jp/press/2022/05/20220510004/20220510004.html

 3)これを深読みすれば、/
 『日本は新たに、「マイルド・新植民地」化へシフトされる。』が僕の深読み視点の極論です。
現在の東ヨオロッパ、ウクライナーロシア戦争とその影響を受けた政情不安と経済不安で彼らたち
のメインの下請け工場に影響が出ることを読んだ白人至上主義者たちの新たな戦略と読める。
 もう一つは、中国の政経政策の強行化とその結果の"先行き不安"が蔓延化。例えば、今回の"上海
ロックダウン"による物流までも港に停滞したままという現実。そして、日本の"円安"がもたらした
新たな現実としての、「中国は消費地、日本は生産地」と言う新たな位置付けの戦略でしかない。
 この現実の裏には、「日本はもう、今後も"アジアでのプライオリティー"が取れる国家では
なくなった。」という白人至上主義社たちの認識の結果であろう。

 4)これを実直に喜ぶのは、/
 外国人国際企業へ両手をあげて笑顔で喜ぶ昭和の政治家たち、彼らの"寄らば大樹の陰"という安心
のみを売り物にしている輩たちであろう。
 もう、今後の日本国はすでに、中国に完敗。-政治力、経済力、IT力、人口、勤勉などなど。
従って、"アジアにおけるプライオリティーが取れない。"と言う認識の元で、日本の政治家の開き
直り現象として、彼らは「忠犬-アメリカのポチ」でしか活用が無いという役割を担わされた事実と
現実が"小泉内閣以後"の自民党のお仕事であり、大臣在任中にどれだけの「ファミリー利権」(従来
の"天下り"ではない、)を手中にするか?のご褒美をもらって粋がっている日本における
新自由主義者たちを抱き込んだ戦略と読む。そして、彼らは当然、"アベノミックス"以後、日銀の
政策も今後変わらない、"円安"が続くと読んでの動きでもある。

 5)世界のファッションの世界でイニシアティブをとる白人たちはグローバル以後、
「日本人と中国人の違い」を現実の上でよく学んだ。

 彼らたちは同じアジア人種でも、日本人と中国人と韓国人の"民族性と国民性"の違いを2000年
以降、積極的にビジネスを行なってきた経験から熟知した。その上で改めて、彼らたちは「アジアン
マーケットは上得意さま」である事を再認識し、「今後もますます、アジアンマーケットが大事で
あり、コントロールすることが自分たちのビジネスの地盤である。」を確信させた。
 結果、「イエローたちから稼ぎ、その稼ぎをより、白人たちのバニティーな欲望を満足させる。
すなわち、"ラグジュアリー"をより、輝かす。」という、この構造化が具体的には"パンデミック
以後"始まったと読もう。
 しかし、この構造のオリジナルは'90年代バブルを経験し、強化した彼らたちの「ファッション
ビジネス構造」そのものにオリジナルがあった。それは、「オートクチュールとプレタポルテ」の
関係性とその構造でしかない。もっと、わかりやすく言って仕舞えば、"インポートとライセンス"の
関係あるいは、"ラグジュアリーとファストファッション"の関係である。
 彼らは今後、世界的「格差構造」が構築される社会を熟知した上での発想で、この関係性を現代の
"地政学的"に再構築したに過ぎない。この彼らたちの根幹発想はなんら、「近代」と「後期近代」の
域を出ていないのである。
 
 6)中国はもう「グローバルサウス」ではなく、「グローバルノース」と言う認識である。
 この視点と認識は今後より、重要かつ、大事であり特に、日本人の昭和世代の脳みそを入れ替え
なければならない。例えば、極論すれば、「もう"中国産/Made in China"は安くない。」という
視点を持たなければならないこと。
 従って、ここでも「アジアンマーケットのバブ化」が変わらず、今後の日本の国際社会での役割で
あり、その位置付けも「グローバルサウス」に一番近い「グローバルノース」となる。
 そこで、この「アジアンマーケット」とは20年ほど前までは「日本しかなかった。」現実がこの
10年ほどで、「中国と韓国そして、日本」という位置付けになってしまった現実も読み込むべきである。
 「グローバルノース」と「グローバルサウス」の"位置つけとその役割分担"も現実には、白人社会
が「二元論的視点/dualist ontology」に基づいて一方的に自分たちの都合で身勝手に決め付け、
ロジック化したものでしかない。そして、この根幹は過去の"植民地政策主義"に由来している。
 そして、彼ら白人たちが決めつける「グローバルサウス」とは元来、国連などの機関がアフリカ、
アジア、南米を指す地理的な区分としてこの用語を用い始めたがグローバリズム以降、研究者や活動
家が「現代の資本主義のグローバル化によって負の影響を受けている世界中の場所や人々」を指して
「グローバルサウス」と呼び始めた新たな"地政学"的言葉である。
(参照/https://www.vogue.co.jp/change/article/words-matter-global-south)
 今後の日本のアジアにおける"地政学"的な位置は"「グローバルサウス」に一番近い「グローバル
ノース」"という極めて"グレーゾーン"として今後の日本の存在価値が求められるのであろう。

 7)LVMH社のM.ベルナール アルノーのビジネス戦略の読み方の強かさとは?/ 
 このベルナール・アルノー氏の突然の行動は、やはり彼らの強かさである、"先読み"結果であり、
「日本のおいしいところはところで、十分に使い勝手がある。」と言う、"どちらか、ではなく、
どちらも"と言うユダヤ発想なのだ。
 例えば、日本の繊維生産工場の"ハイ技術とクオリティと誠実さ"を認めての"新たな工場漁り"の
一環であり、3番目の事項では、「日本人の器用で、感性豊かな優秀な"モノつくり人間"までもを
自分たちの虚飾なレッテルを利用して、自分たちの"投資材料"にする下心で、"コラボ"という
「今だけ、金だけ、自分だけ」の白人目線の「新・自由主義」戦略を翳している。
 従って、ファッションという括りの、"服"から靴、バッグもそして、香水と化粧品、貴金属も時計
もテーブルウエアーに至るまでのビジネスは、やはり顧客になり得るのは少数の白人富裕層と大量
顧客としてのアジアンマーケットを主軸とした構造を維持することがビジネスの健全発展化に繋がり
近年の黒人たちへのアプローチは一種の"広告宣伝"と、"バニティな煽り運転"でしかないという理解
と認識と結論が彼の突然な"表敬訪問"だったのだろう。
 そこで、M.ベルナール アルノーは現在の「"ファッションビジネス"の根幹は『素材と生産背景と
その構造』をどのように負担するか、或いは構造化するか?」に懸かっているのが現実であることを
読み切った実戦略であろう。

 8)彼らたちのアプローチが今後どのような状況をもたらすのだろうか?/
 ポジティフに考えれば、「世界のラグジュアリーブランドに日本の匠力と技術力そして、日本人の
性格のモノ作りの良さの色々が認められた」ところでの"素材力と縫製技術"の高さであろう。
 ネガティブに考えれば、「白人に従順な国民性」を利用し「国内のアパレルとデザイナービジネス
がこの皺寄せを喰らい、いずれ倒産廃業化に及ぶブランドやデザイナーたちが増えるであろう。」
が勿論、考えられる。
 そして、この強かな世界のトップ企業は以後、事がうまく運ぶようであれば、テイの良い"A&M"に
よってあの"KENZO"の二の舞、「"援助"が"乗っ取り"に変身させられる可能性もある」までを経済
産業省のお役人さんたちは読み込んでいるのだろうか? ないだろう❗️

文責/平川武治:
初稿/2020年06月16日:

投稿者 : editor | 2022年7月 3日 15:10 | comment and transrate this entry (0)

2022年3月 5日

『明日という未来の始まり』への眼差し−1/「THE NORTH FACE」と「UNIQLO」ー"COVID-19"がもたらした、"New Normal"の新しい情景。

『明日という未来の始まり』への眼差し−1。/
勝ち組ブランド、「THE NORTH FACE」と負け組ブランド、「UNIQLO」の差異としての
"企業文化度"。/

初稿/2022年03月03日:
文責/平川武治:

 一度も、外国へ出掛けない35年ぶりの24ヶ月が過ぎてしまいましたがこのような、世間とそれ
なりの隔たりを持ってすでに、生かされてきている僕には、このゆったりとした穏やかな時間の流れ
は自然の四季を愉しみ、また新鮮で新たな好奇心も見出せたようです。
 まさに、「速度は豊かさを隠し、深い観想的な注意の可能な時間」を実体験で知らされた日々で
す。
 そして一歩、巷へ出ると、"COVID-19"がもたらした、全く異種で過剰な、散漫な注意によって
ますます文化的所産の根幹が隅へ追いやられた、"New Normal"の新しい情景が見え始めますね。

1)やはり、"国民的ファッションブランド"にはなりきれなかった、ブラン「UNIQLO」
COVID-19禍以後で、巷で見かける一人勝ちしたブランドは「THE NORTH FACE」であろう。
 "ショルダータトゥー"の位置にマーキングされているロゴの「THE NORTH FACE」。このマーク
がCOVID-19禍以後、やたらと目につく。上下各ウエアー類からサックそれにキャップや手袋に至る
まで。多分、これがCOVID-19禍以後の"独り勝ちブランド"であろうか。
 これはCOVID-19の免疫性を衣料品類に考慮した「プロテクション」というコンセプトによって選
択された結果であろうか?それに、ワールドワイドなブランディングイメージからのカッコ良さとオ
シャレ感も踏まえたいわゆる、"機能性と良質さとファッションセンスそれに、外国モノ"であり、
このブランド企業の育ちとコンセプトとミッションが現在のCOVID-19禍以後の社会不安に対して他
者を引き込むマジックを持っているためであり、これにのかったメディアの後押しと共に、功を奏し
た"足し算"によって、決して安くないこのブランドが"独り勝ちブランド"になったのだろう。
 現在のこのブランド、「THE NORTH FACE」の日本での商標権は古くからのスポーツユニフォーム
メーカーの"ゴールドウイン社"がホールディングしライセンスビジネスを行なっている。

2)では、どこのブランドがこの"New Normal"に乗っ取られてしまったのか?
 この煽りを食って、結局は"衣料品ブランド"に落ち着いてしまったのが、「UNIQLO」であろ
う。

 いわゆる、新たな時代への転機となる可能性があった"New Normal"に「ファッションブランド」
というカテゴリィーでイニシアティブが取れずに、完敗してしまったと読めるべき現象が今も続く。
 本来なら、「UNIQLO」はこの"New Normal"以後にあるいは、これを機にして、従来からの羨望
と相当な広告費を使って煽ってきたはずの「国民的ファッションブランド」の立ち居場所を取るべき
確実な戦術と戦略が必然であったはずだったのに。
 この根拠は、現在の「ファースト リテーリング」が持っている筈の「企業規模と資金力そして、
日本の技術力と素材力加えて、日本人魂」によって可能であった筈だからだ。しかし、残念ながら
この結果が全く見えずに、実市場では惨めにも"完敗"してしまっているようだ。この企業もその生い
立ちによって、今は多くの環境問題や雇用問題の根幹、"グローバル・サウス"問題を抱えてしまって
いるが、そのための企業倫理への投資も見え難い。それに今後日本においてもこの1月に世界に先駆
けて法令化された"フランスにおける「衣服廃棄禁止令」"が取り沙汰される日も近いで
あろう。そうなれば、真っ先に矢面に立たされるのがこの「UNIQLO」であり、このブランドを追随
してきた後発の諸SPAブランドなのだろう。

3)では、この"一人勝ち"を許した根幹とは何だろうか?を考えてみよう。 
 「THE NORTH FACE」と「UNIQLO」、両ブランドの「差異としての"育ち"の違い」が根幹
要因として考えられる。

 この「THE NORTH FACE」はあの'80年代には世界を風靡した当時の"ファスト・ファッション"
の元祖ブランド、"エスプリ"の創立者でもあった'43年生まれのダグラス・トンプキンスと彼の妻、
スージーが'60年代半ばに設立した、元ヒッピーたちの"カウンター•カルチャーコンセプト"を企業
化し成功させた典型的な企業である。その後、この"エスプリ"を香港とドイツの企業にそして、
「THE NORTH FACE」も米大手アパレルのVFcorporationへ売却した。その後、トンプキンス夫妻
は"PATAGONIA"の立ち上げにも参画した、自然保護論者でありその実践者として彼が、2015年12月
にチリ領パタゴニアでカヤック事故により亡くなるまで"ディープ・エコロジー"の支持者であり、不
屈の"当事者"であった。このブランド「THE NORTH FACE」の企業理念には"ヒッピー魂"が確固た
る信念と気概があり企業構造の根幹になっている。
 この「THE NORTH FACE」の「企業文化度」が昨今の"COVID-19"が不確実な時世を生み出した
現在という時代には何よりも"人心を落ち着かせる"一人勝ちブランドとなったのであろう。
(参照'http://www.tompkinsconservation.org/news/en/2015/12/09/douglas-tompkins-a-force-for-nature/)
 
 一方、「UNIQLO」の育ちは、'49年生まれの柳井正氏が小郡市で先代からの家業であった、メンズ
衣料品店を引き継ぎ現在に至っている。『紳士服小売りの「メンズショップ小郡商事」を立ち上げ、
1963年にファーストリテイリングの前身となる小郡商事株式会社を設立した。その後、1984年に父
の後を受け小郡商事社長に就任。「ユニークな衣料 (clothes) 」ということで「ユニーク・クロ
ージング・ウエアハウス(Unique Clothing Warehouse、略称ユニ・クロ)」と銘打って同年6
月、まず広島市にその第一号店を開店。1号店は今と異なり、有名ブランドを安価で販売する形態。
(いわゆるバッタ屋に近い。)ユニクロで買い物をするのは「恥ずかしい」との評があった。この時
期に、姉妹店としてVAN専門のVANSHOPも経営していた。』これが「UNIQLO」ブランドの"育ち"で
ある。(参照/https://ja.wikipedia.org/wiki/柳井正)
 その後、'91年に社名変更をし'96年以降グローヴァリズムの追い風と商社の入れ知恵に乗っかり
当時の、"ヤンキーたちのマイルド化"をターゲットに現在の"怪物企業"へ成長を遂げる。2020年の
柳井正氏の個人資産は推定資産243億米ドル(約2兆5889億円)、世界ランク41位、日本ランク1位だ
そうだ。(参照/https://ja.wikipedia.org/wiki/柳井正)

 ここで、一つの視点として『両ブランドの「差異としての"育ち"の違い」が根幹要因として考えら
れる。』、あえて言って仕舞えば、"持ち得た「夢」以上の現実を手中にしてしまった人たち"が
どのように、「上手なお金の使い方」が成されるか?これがその人の「人格あるいは、品性」の根幹
になろう。いわゆる、「金持ちランキング」における数字にその拠り所が所在するのではないだろう
そして"人間の育ち"とはこんな現れ方をするものなのであろう。
 現在的には、"知的にあるいは、人道的に、または地球にそして、自然環境に、"上手なお金の使い
方はその企業あるいは商標としてのブランドにも今後、「全ての差異」を生む。

4)追記/スージー&ダグ トンプキンス夫妻と倉俣史朗さんと八木保さん。
 最後に、彼ら、スージー&ダグ トンプキンス夫妻には案外日本人の知人が多くいた 
僕の個人的な思い出では、僕が大変、リスペクトしていた知人でもあったインテリアデザイナーの
故倉俣史朗氏が"エスプリ"の香港1号店のショップを'84年にデザインしその後、東京に構えた
"エスプリゲストハウス"もデザインする仲だった。
(参照/http://blog.livedoor.jp/hk_designworks/archives/53355068.html)
 また、84年頃には"浜野商品研究所"からサンフランシスコの"エスプリ本社"へ、スージー&ダグ
たちのラブコールと倉俣さんの繋がりで移籍して、"エスプリ"のアートディレクターとして活躍なさ
っていた八木保氏がいらっしゃる。彼は'90年代半ばに、ファッション業界でパルファンブームが
起こった時に、あの"ベネトン"も香水を発売したことがあった。この時のボトルデザインも八木保氏
がディレクションしその後、サンフランシスコで独立なさり、"Tamotsu Yagi Design"を設立。
以後、ダグたちとの関係性からスティーブ・ジョブスと一緒に仕事をした数少ない日本人グラフィッ
ク&アートディレクターが八木さんである。(参照/http://www.yagidesign.com/)
 そして、"釣り仲間"から"PATAGONIA"の日本上陸に一役買った浜野安宏氏もいる。

 '70年代、世界では元ヒッピーたちがその後、自分たちの生き方やそのコンセプトである「豊かさ
からの逃避」の当事者となりその後この経験を事業化し、成功した例は、このファッション業界には
案外、多かった。
 多分、この「豊かさからの逃避」に"新しさ"を求め始めたのが今の「Z世代」なのだろう。
文責/平川武治:#
初稿/2022年03月21日:

投稿者 : editor | 2022年3月 5日 15:21 | comment and transrate this entry (0)

2022年2月27日

T.S君への手紙をもとにして、「柳宗悦」没後60年、民藝100年記念展と「NIGO版KENZO」ブランドについて。

タイトル/<T.S君への手紙をもとにして、「柳宗悦」没後60年、民藝100年記念展と
「NIGO版KENZO」ブランドについて。>

文責/平川武治:

 T君、わざわざのバースデーメールありがとう。
そう、今年の誕生日は「喜寿」。
そして、あなたと出会ってからもう20年ほどですね。
嬉しい限りです。
こうして、今もメールが交換でき、話したいことが話せて、
時折、逢いたくもなる君がいることが幸せです。

 ご実家のご両親はお元気なのでしょうか?
此のような時世、何が起こるかわからない日々ですからね。

 時折、僕が好きなクラッシックなS.F.の作家、A.C.クラークのSF小説の「天の向こう側」の
エンディングをサンボリックに思い出してしまうまでの、
今までが、確かだったモノやヒトが一つづつ消えてゆくまでに感じるこの頃。

僕の鎌倉生活は、36年間、一度も外国へ出なかったこの22ヶ月です。
その分、この鎌倉の四季を実際に自分の目と鼻と耳とこゝろで感じる機会を作り、
大らかに、穏やかに結構、幸せです。
陽の動き、輝き、瞬き、風の匂いと葉の揺らぎ。
今では愛猫ミケーレと共に、穏やかでミニマルな日常を送っています。
最近はリスさんにも餌をやり、あとは、掃除、洗濯と手料理、そして勉強と読書がルーティーンの
日々です。
新しいことといえば、昨年出会った若い人たちと、毎週オンライン会議をして色々、好奇心と刺激を
もらったりあげたりでしょう。

 先週、「柳宗悦」没後60年、民藝100年記念展と銘打った展覧会へ久しぶりに東京へ出かけまし
た。最終日前日だったので混んでいました。もっと、年配の人たちが多いだろうと思っていたのです
が、若い人たち、美学生やデザイン生たちの多かったのにはちょっと驚きでした。
 やはり、戦前の彼らたち、柳や"白樺派"の人たちが活躍できた時代そのものが、いい時代だったと
いうことを改めて思い知らされました。一つのものに魅せられることで集中できるポジティフな
エネルギィーの凄さと大切さ。そして、此の時代の人たちの「文化」+「伝統」+「宗教」=「宗教
美学」というバックボーンを新たな美意識、「民衆の生活美」にまで昇華させた、"プロパガンダ"
運動でしたね。今的な言葉を使えば、「民藝」という"ブランディング"の旨さでしょう。これらを
改めて、"柳宗悦"を軸に俯瞰視出来た展覧会でした。

 が、戦前から戦後の彼、"柳家"の裕福さとそこから生まれる"エリート意識"、そこから生まれる
眼差しと自負できる仕事としての「民藝運動」というシナリオとその活動は、「宗教団体」の如きを
思わせる実態であったことをどれだけ若い人たちが知っているのでしょうね。展覧会でも展示されて
いた仕立て服「ホームスパン製の3ピース」はこの世界のそれなりの人たちの"ユニフォーム"になっ
ていましたね。また、東大前にある"日本民藝館"を訪れた人たちはその建築の重厚さと素晴らしさを
体感しているでしょうがあの建造物は生前の"柳"家の住宅だったのです。
 しかし、戦前の富裕階級社会の人たちの気概と気骨を持った「上手なお金の使い方」が生んだ
"文化ムーヴメント"の一つであったでしょう。そして、彼らのその美意識と思想を信じてきた人たち
が少しずついなくなり始め、この世界もその後の「消費文化」に吸い込まれた現代という時代性。
そして、ここにも、あの「天の向こう側」のエンディングを感じてしまいますね。
「天空から、ひとつ、ひとつ消えてゆく星、星、、、」

 この展覧会を訪れた若い世代の人たちが、これからの彼らたちの,"メタ バース"も含めた「日常」
における「生活の美」は?ここにも、何かしろら「倫理観」が必然なのですが、彼らたちはここに
彼ら富裕階級から文化教養としての「仏教美学」を持ち込みましたね。
 僕が二十歳になって、憧れた陶器の世界としての"民藝"の世界と、河井寛次郎氏の弟子で、
この世界でモノつくりをなさっていた陶芸の師、故生田和孝氏の丹波の窯元で僕がお世話になった
3年間へ思わずワープしてしまったのですが、この展覧会を訪れていた現代の若者たちが憧れる
「生活の美」とは?そのための「新しいモノ」を作るための"根幹"と"必然"と"憧れ"とは?何か?
その生活の精神のバックボーンになるまでのものを必要としているのだろうか?
それが"ブランドもの"でいいのだろうか?
あるいは、ヴァーチュアルな"メタの世界"には不要なのだろうか?

 そうですか、NIGO版KENZOのお手伝いをなさったのですね?
僕は、高田賢三さんからKENZOブランドを強制買収したことそして、それ以後、此のブランドに対し
て、日本人をリスペクトせず、誰も日本人ディレクターを起用してこなかったことなどなどの理由で
僕は企業LVMHと、M.アルノーが嫌いなので近ずかかったのです。
 が、ここに来て、亡くなった、ヴァージルの"恩返し"的なアドバイスで此の「NIGO版KENZO 」が
誕生したことには少し心動かされました。
 しかし、所詮、此の企業の事ですから、全て、「ビジネス」と「MD」ありきの戦略。
アジア人顧客としての"中国市場と日本人市場"と"コーリャンアジアン市場"の再構築と、
それに"ブラック市場"が相乗りしてくれば、という思惑と魂胆が読めてしまうますが。
 そして、出来れば、「Z世代」へ向けての"ハイブランド NIGO版KENZO"の誕生でしょう。
そのNIGOくんの20年前の"APE"と多くのプロパガンダ活動は裏ハラから香港経由の中国市場へ、
これらの仕事が今、「時代に乗っかる。」というビジネス マインドな狙いでしょう。
 ただ、NIGOくんがしっかりしているのは、M.バーグ氏という此の企業のCEOのビジネスマンと
その関係性を2006年来、ずーと継続してきたことに尽きるでしょう。(この経緯は前回の日経新聞
日曜版の「ヴァージル熕」で詳しく書いたので省略します。ご一読ください。)
 外国を訪れる日本人の殆どは、「デザイナーとお友達」という関係性で満足している輩ですから
ね。ご存知のように、パリのハイブランドは全て、"ビジネスありきで、全てが決まる実業の世界"で
す。トップが変われば、ディレクターも変わる構造です。彼らたちトップが、次にターゲットにする
"風向き"にどのようなサーフするかのタレント性とディレクション力ですね。
 彼のコレクションが、いつも僕がいうように3シーズン目が極めです。
この3シーズン目までで、どれだけ、彼らが目論んだ顧客を手中にできるか?
それによっての今後でしょう。
 この"KENZO"は此の企業グループにおいては"プレタポルテ/ハイブランド"ゾーンです。
この企業が持っている数多いビジネスのうちで、「免税店ビジネス」のライセンスを持っているの
で、この"KENZO"ブランドも、買収当時はこれら免税店で発売されたばかりの「香水KENZO」を売る
為の戦略だったのです。その後、このブランドは"子供服から大人服"という日本的ブランド構造を
構築し継続されてきたブランドですね。これはこれからも中国や韓国そして台湾などの"アジアン
マーケット"で利用価値ありきの構造だからです。極論すれば、「免税店での今後のKENZOブランド
の売り上げ」が伸びれば、NIGO君の"KENZO"も成功でしょう。これは、NIGOくんにも進言してあげ
てください。
 そして、あなたがどのような立居場所で、どのような関わりをしているか?
僕には不充分な情報ですが、デザイナーレベルとのリレーションはその"レベル止まり"です。
「上手な時間とスキルの使い方。」をこれからの君の"自分世界"へ惜しみなく、それが君の"経験"と
いう"資産と差異"になるでしょう。これを今後どのような"力"に、どの世界で変換してゆくか?が、
今後の君の課題でしょう。

 もし、ご帰郷のチャンスがあれば、ぜひ、鎌倉へもお立ち寄りください、
ミケーレさんも会いたがっていますゆえ。
ご自愛と共に。
合掌。

文責/平川武治:
初稿編集/2022年02月22日:

投稿者 : editor | 2022年2月27日 18:02 | comment and transrate this entry (0)

2022年2月 8日

僅か、3年ほどの"夢の跡"。ー Virgil Ablohへのオマージュ。ーー"ブラックマーケット"は何処へ?;

はじめに;
 この原稿は日経新聞日曜版のための下書き原稿です。
新聞原稿のために、"文字数の制限とわかりやすさと根拠性"について厳しく校正され、
2022年1月16日の日曜版に掲載されたもののオリジナル原稿です。
 
 この原稿のために調べたことで面白かったのは、
「NIGOくんとカニエ ウエストとバージル アブローの関係性とその出会い」であり結果、
それによって、それぞれが求める"夢"が実現された経緯が理解できた事です。
 僕がよく言っている「出会うべき人に出会わなければ、その次なるが無い。」を地で
行った彼ら、この三人でした。

******
 『「 流行は夭折する。さればこそ流行には、あんなに重い軽さがあるのだ。」
 By J.C."大股開き"より。
僕はこのJ.コクトーの言葉が好きである。この言葉を昨年、11月28日の日曜日にシカゴ
で41歳で急逝したデザイナー、ヴァージル・アブローに捧げる言葉として僕は選ぼう。
 彼も「OZの魔法使い」よろしく、彼自身の「自己証明」として、モードキャピタル、
パリへ9年ほどの時間を費やして"イエローロード"を辿り、2018年6月21日に
"ルイ ヴィトン オム"の黒人初のファッション ディレクターに抜擢され凱旋した。
そして、一昨年7月には、LVMHの75のブランドを統括する新しいポジションに昇進し、世界
で最強のラグジュアリーグループの中の、最も強力な黒人アースティックディレクターと
なった。そして、もう一つは2014年から立ち上げた自身のブランド「オフ ホワイト」の
カルトデザイナーでもあった。

 僕がアブロー氏に感じた印象は、真面目すぎる純朴さと恥じらいのその笑顔がチャーミン
グだったこと。彼は今後、来るべき若き黒人デザイナー達の為にというサクリフィス的姿勢
を自分の使命とも考えて兎に角、真面目に働き過ぎた。アブロー氏のパリ凱旋後の3年ほど
の時間の経過において既に、彼は希少な癌である心臓血管肉腫と2年間の闘病とも戦ってい
たのです。

 ことの発端はローマのFENDIスタディオへ2009年に親友であり、パリのハイブランド
を共に目指す戦友であったKanye Westとインターンシップを500ユーロの月報酬で始め
たことから彼らのこの旅が始まった。自分たちが目指す目標がしっかりと定まっていた事と
グローヴァリズム以降に吹き始めた"モードの新しい風"が彼らたちに強運をもたらした。
 彼らの目標とは、「スニーカーとハイ モード」の融合すなわち、「ハイプビースト・
カルチャーとラグジュアリーな世界」の架け橋となることだった。そして、彼がパリへ辿り
着く数年程前からモードの世界に、もう一つの"新たな風"が黒人社会から吹き始めた
リアリティを既にアブロー氏は感じ始めていた事による更なる高みへの"旅"であり、好奇心
でありそして、目標であった。
 新たな顧客を呼び込もうと、彼らたち黒人の消費者が着たがるものだけでなく、ブランド
がデザイナーに求めるものそして「ファッション」の意味そのものをも結果、変革させたの
がアブロー氏の"あんなに重い軽さ"だったのだ。

 FENDIスタディオでのインターンシップを終えたアブロー氏のその後は、2012年に
ウェスト氏の会社である"DONDA"のクリエイティブディレクターを経て、彼らは二人の
アートワークブランド、"PYREX VISIONP"を立ち上げ翌年、2013年からはこのモードの
"新しい波/ヌーヴェル バーグ"を早熟に感じたパリのAPCのジャン トイッツーの呼びかけ
で、彼らの1回目のデニムラインのコラボをN.Y.で立ち上げ、ファッションブランドとして
本格始動した。その翌年にはこの"PYREX VISIONP"を"OFF WHITE"と改名し、2回目の
APCとのコラボも2015年に行うまでの流れ。この年には、ブランド"OFF WHITE"でLVMH
アワードに参加して最終選考に残った。このブランド名も彼の目標であった、"ハイファッ
ションとストリートウェアの対話を伝えること"に由来し、黒と白の間、その中間点は両方
のジャンルのファッションの混合を意味したかったという。

 3年程のアブロー氏のL.V.オムの仕事で言えば、彼は新しいシルエットを生み出すような
偉大なデザイナーではなくむしろ、「ミレニアル世代のカール・ラガーフェルド」だったと
評価されている。クリエーティブというよりは、時代の空気感を読んでアレンジやチューニ
ングが上手く、これらを多くの"コラボレーション"手法でいわゆる、"他力本願"にまとめる
ことに優れたセンスがあった"ファッションDJ"の一人。しかし、彼にとって服はただの衣服
ではなく、アートであり、音楽や政治や哲学の節点に位置するアイデンティティのトーテム
であった。さらにSNSとデジタルの世界を闊歩して見慣れたものを再文脈化し、文化的な
オーラを与えることを知的にこなした。
 ここではっきりと言えることはこれからのモードの世界における人材としてのディレクタ
ーに望まれる資質とは彼のように、個人が持ち得た"文化度"です。
 「純文化+カウンターカルチャーと消費文化+ポップカルチャー」のバランス観。
この二つの"文化観"をどのようなバランスと時代感を持ってディレクションが可能か?が
望まれる資質でしょう。アブロー氏はこの"消費文化"を'95年頃からの東京の「ウラ原」
系デザイナーの仕事と古着から大いに学んだようだ。そして、実際のコレクションでは
わかりやすい色で端的に表現して構築的に纏めた大胆さでしょう。この視線で他のブランド
ディレクターを見るとこれが上質に,ビジネス的にも成功しているのが、"GUCCI"のA.
ミケーレです。彼が演出するイタリアンアイロニーやペーソスやキッチュの纏め方に彼なり
の高度な"文化度"をイタリア人たちが認めているからです。同じように、アブロー氏の纏め
方もスケーターとラップと現代アートや建築などをアイロニックにそのブリコラージュの
上手さがこのブランド、L.V.オムが目指したブラックマーケットで世界制覇という企業の
ビジネス戦略を具現化したことだった。結果、黒人たちだけではなく白人のミレニアム+
Z世代までも引きつけた。僕たち日本人もこの「純文化」と「消費文化」をどのようにバラ
ンスよく持ち得るかが、今後の個人の資質になるのでしょうが、日本人の多くは、ほとんど
が「消費文化」の中で育ってきた世代だから難しいですね。

 最近のラグジュアリーブランドが求め始めたビジネスの新しさは"階級ある顧客層"或いは
それなりの"教養を持つ富裕層"への「ブランド=文化」をお届けするというニュアンスもし
くは、エモーショナルな世界です。彼ら達のアートディレクションとはやはり、この
「ブランド=文化」がモノ作りから広告宣伝そして、SNSによるイメージディレクション迄
が新たなカテゴリィーなのです。そして、パリの"ラグジュアリーブランド"メゾンはいつも
先ずは、"ビジネス戦略ありき。"であり、その戦術をトータルにディレクション出来る
ディレクターのみが求められるのです。決して、"作り手ありき"の、デザイナーの世界では
もうありません。

 では、白人たちのビジネス戦略によって輩出されたカルト ヒーロー、アブロー氏亡き後
の"ブラック マーケット"はどのような変貌を見せるのか?実際のところ、誰か次なる代役
を生み出さない限りマーケットへの訴求力は落下するだろう。
 ここではやはり、このブランドのCEOであるマイケル・バーグ氏がどのようなビジネス
戦略を企てるかに全てが懸かることでしかない。しかし、予測出来ることが3つある。
一つは、このまま"ブラック マーケット"を継続する。この場合はアメリカ人黒人デザイナ
ー例えば、K.ウェストに1年ほどを委ね、その間に才能とバランス感覚が良い若手新人を
探す。二つ目はこれを機に再度、中国マーケットおよび日本マーケットを標的に考える。
この場合に考えられるのが、"NIGO"が立ち上げるKENZOの結果を見てL.V.へ回すか?
青田狩り的には"YANG LEE"なども考えられるか?3つ目は、初心に戻って、白人マーケッ
トの"ミレニアム+Z世代"へあのBottega Veneta のクリエイティブ・ディレクターだっ
た奇才な才能を持つ、"ダニエル・リー"で再挑戦する。彼がライバル企業にいたことでの
話題性そして、イギリス人クリエイターであることが決まり手?
 しかし、ここではあくまで、CEOのM.バーグ氏の次なるビジネス戦略に委ねるしかない。

 ここで、NIGOくんの名を出したが、2006年に彼はローマのFENDIのパーティ
「B.MIX PARTY」のプロデゥースの仕事を受け当時、デザイナーであった"シルヴィア・
フェンディ"と出会い、彼女の紹介で、やはり当時、FENDIのCEOをやっていたM.バーグ氏
に会っている。そして、パーティーに参加していた、K.ウェスト氏とアブロー氏とも出会っ
ている。そこで、彼ら二人をM.バーグ氏に紹介したのはNIGOくんであった。このFENDIで
の彼らたちの出会いが、その後のアブロー氏のL.V.オムという立居場所であり、NIGOくん
のKENZOに繋がっているという"イエローロード"によって行き着いた強運なそれぞれの出会
いであった。従って、キーマンはやはり、M.バーグ氏の企て次第であろう。 

 僕自身はやはり、残念なる夭折でしかないと沈む。彼が今後どのような"ブラック
ラグジュアリー"へ向けて、そして、"ブラック・デザイナー"志望の若者達へ、未来の世代
にインスピレーションを与える文化観の力を深く信じ、どのような新たな世界を生み出して
くれるか見ていたい一人でした。ただ、彼ら達は案外若い頃からドラックにハマった経験が
あるので、余計に身体そして、精神もボロボロになってしまっていたのかもしれませんね。

「 流行は夭折する。さればこそ流行には、あんなに重い軽さがあるのだ。」
をわずか16年で駆け抜けたVirgil Abloh。

 蛇足的に、最後に、一つの確実に訪れる新たな現実。
例えば、戦後の日本人もあれほどまでに外国人たちの生活様式やファッションに憧れていた
民族なのに、今の"Z世代"の若者たちはむしろ、「民族衣装としての"和物"」に新鮮さと
懐古としての憧れを抱いている。この要因は生活が豊かさと充足感を生み出したベクトルで
あろう。では、今彼らたち"ブラック マーケット"に鬱つを抜かしている世代が落ち着いた
時には、彼ら黒人たちの文化度豊かな人たちは彼らたちの"ロコ ファッション"に回帰する
だろう。では、このターニングポイントがいつか?
 例えば、日曜日のパリのメトロで見かける黒人のご婦人たちが教会へゆく姿、それは彼ら
たちが豊かさを誇る一つのコードとして、素晴らしい"ロコ ファッション/民族衣装"を
着ている風景に出会う。

 参照/日経新聞日曜版1月16日/"THE STYLE"

文責/平川武治:
初稿/2021年12月18日:
出向/2021年02月08日:

投稿者 : editor | 2022年2月 8日 22:31 | comment and transrate this entry (0)

2020年10月 5日

高田賢三さん、やすらかに! 御冥福をお祈りいたします。

高田賢三さん、やすらかに! 御冥福をお祈りいたします。
 今日の未明に、この悲しいニュースを知った。
また、このモード界の悲しいニュースで在る。
 「賢三様、心から、お悔やみもうしあげます。
どうか、やすらかにご自身の美の世界にたっぷりと戯れてくださいませ。」

 彼は本当に「モードの美しさと素晴らしさ」を求め知りそして、信じ、自らも楽しむ為に
”モード スティリスト”になられた珍しい、尊い人だったのです。
 大好きなモードの世界にどっぷりと浸かるために、’65年、単身自費でパリへ渡り、
’70年にはご自分のブランド" KENZO"とショップを”JANGLE JAP"を立ちる。
 彼はこの街で生活なさり、友を持ち、彼らたちに愛され囲まれて、
その大好きなパリでの生活環境とリアリティに自らが浸ることよって
益々、彼が抱き続けてきた、彼が”夢”としていたその純粋世界が
「モードの美しさと素晴らしさ」へより、自由な感性と優しさと言う美意識を深め
昇華させながら自らのブランド”KENZO"を20数年間世界へ創造発信なさってこられた。
 彼は常に、自分の”わきまえ”を持って、踏み外さず来られた”気骨”ある日本人でもありました。
そして、僕が始めてパリへ行った、’72年には
既に、パリの”プレタポルテ モード界の寵児”でした。

 僕は以前にも書いたことがあるのですが、
日本の現在までの「デザイナー ファッションビジネス」の世界は彼、高田賢三さんが
いらっしゃらなければ、「10年以上は遅れていたであろう。」と認識している一人なのです。
 高田賢三さんが「モードの都、パリ」で活躍なさった事が、その後の日本からの
「ファッションデザイナー」の多くを輩出する多いなるモチベーションになったのです。
イッセイも、トキオ クマガイやヨウジ、CDGも、そして、ファッションメディアとしての新星、
今年、創刊50周年を迎えた雑誌「anan」も誕生していなかったと言うことです。
 例えば、この時期の”CdG川久保玲”は、まだ、当時新たな”シャネルの再来”と騒がれパリを
一世風靡していた女性デザイナー、”SONIA RYKIEL"の猛お勉強でビジネスをしていた時代でしたね。

 彼、高田賢三さんが創り出した世界とは、
ロシアン プリントの花柄を選び、ベッチンプリントやコーデュロイプリント、デニムなどをも
使い、「ロマンティックに、ポエジックに、ファンタジックにそして、シックに、エキゾチック
に纏め上げる世界観」を生み出した。
 即ち、着る女性へ、「夢を着る。」実際に着れる素晴らしい服をあれほどまでに沢山デザイン
してきたデザイナーも少ないであろう。

 70年といえば、このパリでも新たなモードの世界が誕生し始めた時代。
”プレタ ポルテ”という「高級既製服」の黎明期が始まった時代であった。
それまでの「服」のビジネスの世界は、”オート クチュール”/高級仕立て服の世界か、
大量生産による”アパレル”/「吊るし既製服」の世界それに、「制服」と「古着」の世界でしか
なかった。
 この世界に60年代終わりからあの、YSLがDiorから独立して始めた彼らたちの”新らしい
モード・ビジネス”として誕生させた”リヴ・ゴーシュ”の影響によって、70年からはこの
”プレタ•ポルテ”/「高級既製服」という新らしい”小ロット多様式”なファッションデザインの
世界へ多くの若いファッションデザイナーたちがその「夢」と可能性を求めて、挑戦し始めた
時代でもあった。
 この新しさの背景には、「’68年5月」以降、この国の女性たちも「高学歴」を習得して、
社会の”キャリア”の一員としてそれなりの仕事を持つことが「新らしい女性の生き方。」という
改革の時代になり、今で言う、”キャリアレディー”が誕生し始めた。そして、彼女たちをパリの
モードの人たちも”新たな顧客”にしたのがこの登場し始めた”プレタ•ポルテ”だった。
 そして、特筆すべきことはこの時期の”プレタ•ポルテ”デザイナーのその多くが女性デザイナー
たちであったこと。S. リキエル、E.カーン、A.M.レベッタ、M.プレモンビル、S.トーマスなど等
 この様な「時代の変革期」に丁度、彼、高田賢三さんの”パリ登場”がリンクしたことは
その後の彼の活動と活躍には大きな揚力となった。
 
 この時期の日本国内も、「68年」の学生運動以降、70年の大阪万博後、「大衆消費社会」
構造が誕生し始めた。そして、今まで”百貨店”だったのが”デパート”化され、モダンなイメージを
即ち”横文字”ビジネス、職種そして、商品がこの”元百貨店”に溢れかえるようになり始めた。
そこで、各”デパート”も従来までの「衣料品•おしゃれ服売り場」が”ファッション”売り場に
変わり、ここでそれぞれの”デパート”がこのパリで誕生した当時の新しいファッションとして
”プレタ•ポルテ”ブランドを競って導入した。その後、商社が暗躍して、これらのパリ発”プレタ•
ポルテ”ブランドのライセンスビジネスを日本のアパレルやリテーラーへ売り込んで現在の日本の
ファッションビジネスの基盤が創設された。大丸のジバンシー、高島屋のP.カルダン、西武の
YSL,S.リキエルそして、「KENZO」などはその代表だった。
 この新しい時代の流れに、「パリで活躍する日本人デザイナー高田賢三さん」の存在と彼の
ブランド「KENZO」はやはり、大きな役割と使命のモチベーションになったのも確かであった。

 僕が彼、高田賢三さんを信じた幾つかがある。
その一つは、彼はあれほど、パリで有名な一流ファッションデザイナーの存在になられたが、
生涯、決して、”プレタ•ポルテ”というファッションカテゴリィーからは逸脱なさらなかった。
自分の立ち居い場所に対する”わきまえ”を生涯通されたことである。
 その後、多くの日本人デザイナーたちがパリを訪れ、プレタポルテのカテゴリィーでショーを
するも、「アーティスト振ったり、クチュールデザイナー振ったり」いつの間にか、自分の業欲
によって”勘違い”するデザイナーが多いこの世界を、直接見てきた僕は高田賢三さんを信じる
ことが出来る。
 ということは、彼、高田賢三さんが作る服は全て、女性が「着れる」服であるということ。
即ち「夢を着る」ことが出来るのが「服」の一つの大切さであること。というここには彼の思想
が読み取れる。そして、本心ファッションがお好きな人だったんだと。

 最後に、あのLVMH社による’93年のブランド「KENZO」”売却事件”はもう一つの現実が
明るみに出た転期の結果となりましたね。いくつかの「負」が重なることは人生であることです。
 ”新居の建設と伴侶の死”という天国と地獄もやはり「金次第」が現実を処理します。
この結果、「買収劇」というよりは「乗っ取り劇」だったでしょう。
 この件にしても、本人は決して公言できないような契約条項が課せられた結果の現在です。
ビジネスの世界も戦争と同じですから、「生きるか死ぬか?」です。
 LVMH社は当時、プレタポルテ出身の有名デザイナーブランドが欲しかったのです。
トータルアイテムブランド化し当時、台頭しはじめて来たイミグレーターたち新興成金を標的
とするブランド計画をしそして、見事に達成し現在の「KENZO」ブランドの顔になりました。
 従って、「KENZO」買収後すぐに彼らが行った事は、例によって、「KENZO」香水の発売で
したね。これによって、この企業グループが持っている”DFS"/免税店ビジネスでラグジュアリィ
ビジネスへのイメージングと高級化に成功しています。以後、この「KENZO」ブランドは新興
イミグレーターたちの御用達ブランドに広がる。
 しかし、この企業は以後、「KENZO」ブランドのデザイナーに誰一人、「日本人デザイナー」
を起用していないことに僕はこのLVMH社に好意を持って関われないのです。
 彼らたちは決して、「日本人デザイナー」へのリスペクトが無い、「白人目線」の遅れた企業
だと感じるだけです。しかし、この企業が企画している”LVMHアワード”に諸手を挙げて参加して
いるのも現実の日本人ファッション関係者たちですね。
 
 高田賢三さんの生前、「KENZO」ブランドが全盛時代、自宅などに飾られる投げ花の毎月の
お花代が百万円近く使われていたと言うエピソードを聞いたことがある。自分の好きな世界
あるいは、美意識を自分で現実化するための「コスト」である。もの凄い現実ですね、
これが可能な収入と使える自由さ。やはり、世間で「成功」すると言う事はこう言う事なので
あろう。では、例えば、東京の「御三家デザイナー」と言われる三宅さんや川久保さんや
山本さんは、彼らの成功報酬をどのように、何に使われていらっしゃるのだろうか?
 彼らたちもご高齢デザイナーであるが、全く彼らたちの「私生活」を見せない事も或は、
日本的「成功」の証なのだろうか?

 高田賢三さん、ごくろうさまでした。
どうか、やすらかに「夢の中へ」
 ご冥福をお祈りいたします。
合掌:

文責/ひらかわたけじ:
初稿/令和2年10月05日:

 
 

投稿者 : editor | 2020年10月 5日 11:45 | comment and transrate this entry (0)

2020年9月25日

Christopher Nemethの10回忌だった、9月22日。

「時の流れは実に早く、しかも我々は時の中を後ろ向きにしか進めないのです。」
P.ヴァレリー:
 *
 先日の9月22日は僕がリスペクトできる数少ないデザイナー、Christopher Nemeth
さんが亡くなられてから、もう10年が経つ日となりました。
 本当に、時が過ぎるということはそれぞれの想い出の深みや重みにもよるだろうが、
早いものであり、しかも我々は時の中を後ろ向きにしか進めないものですね。

 今でも鮮明に覚えているあの時のことが、
その知らせは、パリのタワーエッフェルのイルミネーションが見えたアパルトマンで、
友人からの知らせで知った。

 僕がなぜ、Christopher Nemethが好きか?
それは、ベタに言ってしまうが、
「全てに、カッコいいデザイナーであったからだ。」

 僕の経験が育んだ視点から見ると、
決して、東京の”自称デザイナー”と称しているその8割強は大変無礼であるが、「なりすまし」
ファッションデザイナーである。賞をもらったり、コレクションをやっているがそのほとんどの
デザイナーたちは「なりすまし」ファッションデザイナー先生となる。

 戦後の我々、日本人が憧れ、自由だからと求めた”横文字職業人”と彼らたちが築いた
”消費文化社会”そのものが僕流に行って仕舞えば、「なりすまし文化」社会でしかないだろう。
その根幹は敗戦後という時代状況のもとでその根幹は、日本人に”なりすまし”たい人たちの多く
によって、彼らたちの「根性と頑張り」で築かれた”大衆消費社会”だからだ。
 
 が彼、Christopher Nemethはそんな、”なりすまし”レベルの”ファッションデザイナー”では
なかった。勿論、「彼の創り出した、彼にしか出来なかった世界。」を創造したからである。 
 この彼が創り出した世界とは、”服”だけではなかった。
彼が想像した”自分の世界観”とその中心軸となった”服”には、彼の創造の世界の全てが存在して
いたからだ。
 「パターンの特異性と巧さから生まれた"ネメスのバランス観”。」そして、「素材の選び方
とグラフィック センス。」「靴とサックとキャップとソックス」そして、「バッジ」にまで。
 そして、それら「彼の想像のための器としてのショップ」のインテリア全てを、彼は創造の
当事者として、彼自らがその内装の全てを施工した。
 30数年前でも又、その後も、ここまでやりたい若者は多くいたであろうが、その大半は
彼が為した”創造のための現実”に成就しないところで挫折したものが殆んどだったはずだ。
 もう一つ、僕が彼、Christopherをリスペクトする理由は、
「彼の創造の世界そのものに、「嘘/虚実」がなかったということである。」
その証拠が、彼がデザインした”服”は、彼が一番似合う、誰が着るよりも一番カッコよく、
自分が似合う”服”を創っていたことである。これは僕を一番信用させた事実でもあった。

 彼が東京へ、そして、表参道の裏、現在のヒルズの裏でショップを開き、10年間ほどは
殆んど、知る人ぞ知る、カルトでコアな”Nemethファンとチルドレン達”にしか、深く静かに
知られていなかった。その一因は、当時の日本のファッション雑誌の編集者たちが彼の存在と
その世界を知らなかったあるいは、不勉強だったからでしかない。
 そして、’95年以降に、東京に古着屋経由組や、DJたちの「裏原デザイナー」たちの登場で、
少しずつ、”Christopher Nemeth”は知られるようになる。
 90年代が始まる頃に当時の繊研新聞に「川久保玲、C.ネメスをパクる!」という見出しの
原稿が掲載された。
 実は、これは僕の寄稿原稿であり、「C.ネメスのパンツ ポケットの”ヘムデザイン”をCdGは
レディースで御頂戴した。」というミュアンスで書いたものが、繊研新聞の編集者がこのような
見出しをつけて掲載してしまったために起きた騒動だった。結果、僕は2シーズン程、CdGから
のショーチケットが来なかったというお仕置きを課せられてしまった。
 これは、「川久保さんがC.ネメスのショップへお買い物に行き、”ワンラック分”ほどの
お買い物をした」ことを確かめた上で書いたことだったのだが。
 そんなCdGとの現在の関係性は僕からすれば、
「そうなんだやはり、川久保さんも”Christopher Nemeth”が好きだったんだ。」の世界でしか
ない。

 以下の文章は、10年前の僕の”アーカイブ寄稿文”です。
この機に、「Christopher Nemethさんの冥福をお祈りすると共に、改めて僕たちは、時の中を
後ろ向きにしか進めない者たちが出逢い、その存在を忘れない迄に、念いあいましょう。」
合掌。
 **
"We are deeply saddened at the death of Christopher Nemeth. He was an amazing, influential talent",
Terry and Tricia Jones.

 それは友人からの知らせで知った。
すぐには
信じられなかった。
辛かった、信じる事が。
本心は
今でも認めたくない!

 何も知らづに、
随分とノー天気な僕でした。
だから、余計に無念と悲しみが、
深く。

遠くより、
心からご冥福をお祈り申し上げます。
I am deeply saddened at the death of Christopher Nemeth.

 僕にとって、数少ない、
人間として尊敬出来る創造者でした。
優しさと頑固さを持った

誰よりも、彼は彼自身が一番、似合う服を作っていた
本当に、ピュアーでチャーミングな人でした。
あの、彼自身が作った総て、
その空間での
彼の笑顔が忘れられません。

横にはけいこさんが、
愛犬と戯れる彼の優しさと
缶ビール片手に
恥ずかしそうにしか喋れない自分の世界、
でも、それが総ての自信の彼、
こんな風景が、僕にとってのネメスさんでした。

僕のモードの25年間では
その殆どの人たちはVANTY"な世界を
メディアの入り口を見つけ
お金の方へ駆け寄って行く
逃げ足のはやい人たち。

そんな世界の中に在って、
自分の道をまっすぐ歩いた
大切な人
本当に純粋でした。
そして、貴重な存在でした。

"He was an amazing, influential talent".

テリージョーンズが見てました。
長きに渡り、25年間。
90年代の原宿ファッションキッズたちや
CdG, J.Galliano, A.L.Mcqueen & more,so on
多くの着る事を楽しむ
服好きな人々へ、僕も含めて
彼の世界へ訪れました。
そして、
職人魂の感動とその大いなる存在を
地球を廻る程までに
彼らしく穏やかに
激しく影響を与え残した。

彼は自分の居場所を知っていました。
自分が立つべき世界をそして、
自分の好きな服を、靴を、ドローイングを
自分が生きる道を
しっかりと信じ摑まえていたのでしょう。

「Ancient Briton」
彼の’85年の倫敦でのデビューコレクションのテーマでした。
今でも古びない世界観。
由緒あるイングランド魂は不屈
クラフトマン精神を自らの術(すべ)とし,自信として
純粋に生きる事を求めたロマンチィスト。

自分に純粋に、与えられた生を生きるとは、
無論、独りでは至難の事
けいこさまとお二人のお嬢さま
素晴らしいご家族を持たれて
守られて過ごされた25年たらずの異国。

その異国は
本当に彼に取ってどうだったのでしょう、

天国で本当の穏やかさを
缶ビール片手に煙草を吸ってください。
見守ってあげるべき人たちをお見守りください。

いっぱい、
本当にたくさん、ありがとうございました。
Mr.Christopher Nemeth.

どうか、
健やかにお眠りください。

平川武治:平成二十二年九月二十五日/イルド-フランスにて、

追伸/
 僕は
僕の無力さに
あなたとのお約束を守れなかった事に
自分の惨めさと
無様さを
残された時間、念い生きます。
けいこさま、みなさまにおわびこゝろと共に。
相安相忘。
ひらかわ:
文責/ひらかわ:
初稿/2010年9月25日:

投稿者 : editor | 2020年9月25日 20:38 | comment and transrate this entry (0)

2020年8月15日

保田與重郎に「絶対平和論」と言う著述がある。75回目の終戦記念日と言う今日に捧げる。

  75回目の終戦記念日に想う事。
これからの「新しい普通」で想うそれぞれの”しあわせ”観を考えよう。

 ”戰爭”とその後の”敗戦生活体験者たち”が年々、少なくなって行く。
それに、今年の終戦記念日はこの時世である「新型コロナ」騒動の隙間に入り込んでしまった
ような記念日になってしまった。
 
 
 「今日の”終戦記念日”に、自分たちの國の将来のことを、子供たちが迎える未来とは?等など、
何か、考えたでしょうか? 思い巡らし、会話する時間がありましたか?」

 「新型コロナ」騒動によって、時代が変わるのであれば、僕たち日本人は今日のこの記念日を
思い出す事で、話し合うことで、日本人としての”國を思うこゝろ”をもう一度、刷新して欲しいと
想うのは、ウザッタイことでしょうか?

 国政に従事する輩たちも団塊世代以降の謂わゆる、「ジュニア代議士」が多くなる。 
結果、先日の長崎被爆記念日時の安倍晋三首相の読み上げた追悼文、然りの「上書き」貼り
合わせの文章が現実となって読み上げられてしまう。彼の世代の日本人はまだ、白人外国人の
それなりの人たちとぎこちなく、笑って写真を写すことを望む世代でしかないでしょう。
 そして、この世代の人たちの多くは、”保田與重郎”も知らないヤッピーたちであろう。

 ここで、今日の”終戦記念日”に因み、そして、「お盆」であることから、「日本人の信仰心」と
言う一冊の本から”保田與重郎”の一部分をそして、「やまとこゝろ」を感じていただきたい。
(著者/前田英樹/筑摩選書刊/2010年発行)
 *
 昭和二十四年九月、雑誌「祖国」が創刊された。
 (http://www.rinsen.com/books/sokoku.htm)
 「我等は思考法と情勢観の曖昧状態を文化と呼ぶ者と、権力と利権の伝達様式や妥協
のからくりを政治と称へるものを合せて否定し、我が生民の実態に於て、そのあるべき本質を
貫道するものを解明せんとする。」

との理念のもと、正しい国民感情を思想に高め、あわせて真の文明の原理としてのアジアの道義
の恢弘を目指した雑誌だった。
 今現在、この”理念”を熟知して、国会議員になっている輩たちが何人いるであろうか?
”国会議員”になるにも、まず、それなりに”MD”を仕掛け、メディアを使い、資金をかき集めて
からのご登場がこの世界の昨今の”立身出世”という成功例であろう。

 そこで、保田與重郎に「絶対平和論」と言う問答体によって書かれた著書があるので、
75回目の敗戦記念日の今日にこれを紹介しておこう。
 この本は保田與重郎がまだ、公職追放中の身に在った、昭和二十五年に、彼を慕う青年たちが
雑誌「祖国」に無著名で掲載されたものである。
 当時は新憲法の制定をめぐり世論は混乱していた時世であった。
この保田與重郎の「絶対平和論」は、新憲法が掲げる「戦争放棄」の条文に向けて保田によって
ひっそりと放された彼独自の強靭鋭利な矢のようなものであった。
 
 彼、保田與重郎が論じた「絶対平和論」とは?その根幹をなすものは何だったのか?
 『そもそも、日本が敗れた戦争とは何であったか?
日本がアジアの侵略に迷い込んで行った”近代戦争”であった。
「侵略」とは”近代”の概念であり、その根幹は、欧米からアジアへ向かって為された行為を意味
している。
 ”近代”は欧州で生まれ、欧米にあり、アジアには無かった。あればそれは、悲しみ笑うべき
模倣でしかなかった。
 ”近代戦争”に向かっての日本の慌ただしい準備は、たとえ自衛の目的があったにせよ、
”近代”そのものが持つ本質において、”侵略”の方に入り込む他はない。

 保田が言う”近代”とはどう言うものなのだったか?
簡単に言えば、それは18世紀後半以降の「産業革命」に端を発し、最も端的に現れている。
西洋が東洋を侵略する立場に到ったのは、この時代の「産業革命」によって誕生した種々の技術
革新に依る。このことは明らかであろう。もう少し、歴史を遡れば、「火薬と鉄砲」の発明が
あろう。この残酷で非自然的な武器を発明し、多量に使用し始めたのが「近代」の西洋社会で
あった。それからたった、四百年で”近代国家”は、相次いで原子爆弾の製造に成功する。
 ここには、同様な発想の、全く直線的な”進化”が読み取れる。
それは、動物を食べる動物が、知性によって行なってきた”軽量”、”簡易”、”予測”、”平均化”の
恐ろしい”進化”/”発展”の蓄積である。
 では、新憲法が掲げる「戦争放棄」は、”近代戦争”の放棄であるならば、それはアジアによる
”近代”そのものの拒絶を根幹にしなければ意味がないない。
 ”近代技術”がもたらす生活の快適に憧れ、執着しながら、一人、「戦争放棄」を唱えることは
不道徳でさえあるだろう。
 このような態度は、今も着々と”近代戦争”を準備している特定の勢力を利することにしかなら
ない。戦後の「文化的最低生活」なるものをお人好しに求める新憲法の精神とは、「戦争放棄」
の理念と根幹から矛盾する。
 とは言っても、”近代”を拒絶することではない。その反対である。
”西洋近代”の文明とは、メカニックな技術による自然界の征服と加工を本文としている。
この種の”加工”や”征服”が”武器”の製造に最も役立つことは歴史が示している。
それから、様々な労力の省略に、多数のものの短時間での生産に役立つ。このような”文明”は、
諸文明の中の極めて偏狭な一事例でしかないだろう。
 「新憲法」が依っている”文明観”は、このたった、一つの事例に基づいた現実でしかない。
このたった、一つの事例の”文明”の実現のために「恒久の平和を念願」すると言っているのだ。

 要するに、世界に”文明”の理念はただ一つしかないと言う軽率な考え方に立脚し、”近代”の
考え方を唯一のものとして発想、考えた”思想”の表現です。これは実に困ったことですが、
結局は”事大主義”の現れなのです。”文明”の理念は世界に一つしかないものではありません。
 全然、系統の異なる理想と文明は幾つも相対抗して存在しているのです。』
(保田與重郎著/「絶対平和論」より。)
  
 正に、この考えは現代白人社会が「グローヴァリズム」と称した、ごく最近の汎地球主義の
理念の一つであろうが、保田は既に、70年前に提言しているのだ。
 地球上には、それぞれの民族が存在していて、それぞれの民族が文明を持ち得ている。
例えば、「近代」に誕生した美意識の中に「異国趣味/エキゾティズム」があるがこれは
白人至上主義が齎らした視点であり、彼らたちはこの美意識を持って「異文明」を犯して来た。
 
 「”文明の理念”はただ一つでは無い。」
もう一度、今の僕たちがそして、子供たちが考え、見直さなければならない根幹視点です。
これは現代日本の”教育”に欠如してしまっている”視点根幹”でもあるでしょう。 
 その証拠の一端には、最近の「英語」の”義務教育化”もあるでしょう。
 そして、「近代」が終焉を迎え始めた、現代社会が抱えてしまっている現状の国際社会問題の
諸問題の大半の”病原体”の根幹はここからが発端でしょう。
 例えば、現実ではこの視点がなければ、今、流行のボキャブラリィーである、
「サスティナブル」はただの白人文化人たちのいつもの”なりすまし”或は、それなりの人たちが
握る”利権”の新たな根幹になってしまうだけでしょう。
 彼らたちの21世紀の「グローヴァリズム」の現実は、”近代”を誕生させるもう一つの
モチベーションであった、「植民地政策主義/コロニアリズム」の”上がき”版でしかないのです。
 だから僕は、「21世紀の「グローヴァリズム」の現実は”ネオ-コロニアリズム”だと、断言し
て憚らない根幹がここにあるのです。

 もう少し、この前田英樹著の「日本人の信仰心」を参照して行こう。
 『この観点から見ると、近代文明は”恒久平和”を望むどころでは無い。
”戦争”によって、他の人間を<食う>ことに最大目標を置いて来た文明ではないか。
それは、生き物の中でも動物の、動物の中でも脊椎動物の、脊椎動物の中でも肉食哺乳類の
”知性”が、最大限まで発展して生まれて来た”文明”である。
 「戦争放棄」と”無軍備”とが、日本憲法の中の最も重い点、
「信義を解する協賛者の必ず、守るべき第一のもの。」(「絶対平和論」より。)
だと言うことは疑いがない。
 しかし、「戦争に反対すれば、戦争がなくなり、戦争がなくなれば平和な生活が来る。」と
言う考えは”幼稚と不誠実”が入り混じった空想、或は「似非ヒューマニズム」に過ぎない。
 ”平和生活”は戦争状態の反対物とは違う。
”平和生活”は、それ自体が”絶対物”として成り立つ”原理”を持っているものである。
その原理は、政治のそれではない、”生”が取る根本の形態であり、生態である。
 このような”原理”に根差した”生活”が建てられるなら、”戦争”は廃されるものではなく、
私たちにとっては、ただ”無関与なもの”、”あるはずのないもの”になるだろう。

 今更ではないが、世界には「全く、系統の異なる理想と文明」がいくつも存在している。
それは地質、地形、天候の著しく異なった”自然の所与”を前にして、人間が生きるために建てる
”問いと回答”は事実、無数にある。と言うことを意味している。
 限りないその多様性の中で、東アジアに”水田耕作”を生活基盤とした「理想と文明」が形成さ
れたことは、非常な僥倖である。石油が噴出する砂地を与えられるより、遥かに大きな僥倖なの
である。なぜなら、水田耕作には動物の知恵が植物の生に導かれて育つ自然経路がはっきりと
存在するからである。動物的傾向と植物的傾向とが、互いを助けあって、自生する生活即ち、
「共存共棲」の道がハッキリと開かれているからだ。
 保田與重郎が論じた「絶対平和論」の原理は、このような生活の道の中「共存共棲」で始めて
明かになる。これは、保田が幾度も幾度もくり返し語った、アジアの「道徳の本義」が明かに
なることでもあった。

 これは、東アジアの、或は日本の優越を主張することであろうか?
”主張”と言うような闘争的態度は、保田にとっては一切無意味である。
在るのは、”水田耕作”を可能とさせる神々へ年毎に更新される”感謝”しかない。
 この感謝は、それ自体で尽きることのない”思想”であり、”信仰”であって、領土が囲う国家も、
組織された民族も必要としていない。
 例えば、我が国では、”祝詞”が示す祈年と新嘗の祭は、こうした感謝が”道徳、文芸、芸能、
政治”となった形を記録しているだけである。
 そして、安田は説く。「平和とは、戦争がなくなった状態のことではない。平和は、神々を
助け、神々に助けられて行う生産生活の本質で在る。」 
「生き物が生きることにとって、一体、何が現実的なことなのか?「近代」生活が生産する欲望
の総体こそが、覚めることのない陰惨な夢ではないか?」
 保田の「絶対平和生活」とは、「”夢”を見ず、”神”を見る生活のことである。』
(参考書籍/「日本人の信仰心」:著者/前田英樹/筑摩選書刊/2010年発行より。)

 ここで僕が皆さんへ発言したいことは、
これからの「新しい普通」が継続することで生まれる「新しい日常」にとっての
みなさんが想う、「しあわせ」とは?をこの機に考えて頂きたいのです。
 
 もう、決して、「お金」や「モノ」がそのトップでも無く、それぞれが思い求める
「しあわせ」とは? 何なのでしょうか?それが自らの生きる”目標”になるのですから、
自分にとっての「しあわせ」観を早熟に、意識してください。

 「近代」と言う時代が消滅し始めた事で、「新型コロナ」以降の「新しい普通」が始まり、
それぞれが念う「しあわせ」観にも、新たな価値観が芽生える事でしょう。
 そして、この地球上には決して、西欧諸国の白人たちの「文明」だけでは無く、幾つもの
「異文明」が継続されている事、そして、それらの「異文明」を”継続”してゆかなければ
いけない事即ち、「共存共棲」がただ、「一個しかない地球」を守ってゆくためにも、必然で
在る事にも気が付き始めているからです。

 70年前に保田與重郎が論じたこの「絶対平和論」も現在の「近代」が消滅し始めて来た潮流の
中では、彼の言わんとする「平和」への想いとその根幹に気が付く世代が増えることでしょう。
 なぜならば、「近代」が”夢”として誕生した、「拝金主義」「物欲主義」に未だ、埃まみれに
ドップリと漬かり切ってしまっている世代たちには、まだ見るべき”夢”が多く在るからです。
 しかし、「自由」と「豊かさ」の中で誕生し、育ち、教育を受て来た世代たちにとっての、
彼らがこれから求める「豊かさ」とは、「自由」とはなんであろうか? 
 彼ら世代の”夢”とはなんであろうか?
そして、彼ら世代は”夢”と”しあわせ”は同意語ではなくなって来ているだろう。

 MD的発送も、「新たな日常」における「しあわせ」観はファッションの世界でも、
ここが今後の、「こゝろの置き所」であり、根幹でしょう。クリエーションがなされ、
ビジネスがなされる拠り所だと念うのです。
 
 **
 あとがきらしきもの;
 今回このような、保田與重郎が論じたこの「絶対平和論」は「ファッションに興味ある人間」
にとっては最も”DISTANCE"が、或いはまったく”無知なる世界”のことを、敢えて書いてみた。
 なぜならば、ファッション大好きタイプの人たちはどれだけ「一つの文明」に”同化”するかの
立ち居場所で生きてゆくことが「カッコ良い!」「自己満足」レベルであり、それが現在も続く
「ファッション ビジネスの世界」そのものでしか無いからだ。
 保田が70年前に言うところの「悲しみ笑うべき模倣」はより、現実化されてそれそのものが
「ビジネスの世界」になってしまった”日本の大衆消費社会”の70年間であっただろう。
そして、これらを”生業”として継続してゆくことが「文化人」と自認してゆく”なりすまし”人種の
誕生もこの70年間の戦後日本の”進化”と”発展”でもあろう。
 結果、ここにはおよそ、「やまとこゝろ」からより、Distanceな”人種たち”がこの戦後日本の
”社会構造”を構築して来たとも読める。

 或は、僕自身の”自己反省”又は、”懺悔”へも勿論、繋がる事である。
そして、あの「3.11以降」、「僕は日本人である。」事自体が僕にとっての”しあわせ”だと
思える生活に焦がれ求め始めたからだ。そして、学び、生かされている。
 そして、敢えて、" I'm a Yellow."と言う言葉を使うようになった。

 75年目の”終戦記念日”に記する。

 「三伏の候、呉々も、ご自愛ください。」
合掌。
文責/平川武治:
○参考文献/「日本人の信仰心」/前田英樹著;筑摩選書刊/2010年発行)
 
 追伸:
 もし、芸術に興味がある人は、保田與重郎の著書、「日本の美術史」の必読をお勧めする。
「異国趣味/エキゾティズム」と言う美意識では無く、「やまとこゝろ」と言う美意識も理解し
てください。/「日本の美術史」 (保田与重郎文庫)/
 

 

 

投稿者 : editor | 2020年8月15日 18:10 | comment and transrate this entry (0)

2020年8月 2日

「山本寛斎さんが亡くなられた。」ご冥福を申し上げます。

山本寛斎さんが亡くなられた。 
この知らせがYAHOOニュースで開かれたままだった iPadに流れた。
今日、07月27日、午後01時03分だった。
しかし、亡くなられたのは、7月21日だったようだ。

 「どうか、ご成仏ください。」

この時、僕は古いPCで「二人のデーヴィッド」を調べていた時だった。
此処で、”一瞬に幾つかの過去”が繋がった。

 昨夜はプライムヴィデオで、「D.Bowie The last 5 years」を見て、ベルリンの友人の音楽家へ
メッセージを入れた、「この映画を君と一緒に観るとより、愉しいね。」と。
そして、昨夜見ていたフィルムから「二人のデーヴィッド」が気になり、今日また再読していた
矢先だった。そこで見つけたのが、二人のデイビッドに挟まれた、若き山本寛斎さんのいい写真でした。https://the.kyoto/article/d3c5cdd7-2586-44b2-aca3-35703a23dd9a

 この山本寛斎さんの訃報を聞いて”繋がった”僕の過去とは、
[ 山本寛斎=D.ボウイ= ツトム ヤマシタ=D.キッド=森本康義=J.グラックそして、
ひらかわ]という”繋がり”で、僕の'60年代終わりからの10年間ほどの出会いと繋がりだった。

 山本寛斎はD.ボウイの’73年の日本公演の舞台衣装でKANSAIの名前をロンドンから世界へ
認知させた。この作品は歌舞伎衣装の”引きぬき”という手法を用いステージでの「早や変わり」
という演出に生かされた。衣装はステッチワークとともにエネルギィイの流れを表すかのような
左右対称の構築が力強く、舞台晴れする見事な衣装を彼はデザインした。この衣装はボウイ自身
も気に入ってその後の倫敦公演でも使っていたし、’76年の”アラジン セイン”の衣装も担当され
た。多分これらの作品の幾つかはロンドンのV&Aのミュージアムピースになっているはずだ。
この当時は、日本人ファッションデザイナーが世界で勝負するにはやはり、自らの「ジャポニズ
ム」をどのような時代感と世界観で自分流にまとめあげるか?が先ずは、勝負どころであった。
海外で名を馳せるには今もこの手法は基本的には使えるアイディアの一つであり、現在も変わっ
ていない。

 D.ボウイと山下ツトムは’70年には、”ロックスターと現代音楽家”という音楽ジャンルは違った
が、当時のロンドンのカウンターカルチャーの騎手としてすでに、交流があった。
そして、ツトムが’72年から活動を始めた、劇団「RED BUDDHA」の倫敦公演をボウイは
アンジーと共に見にきている。その後も彼らは交流が続く。映画「地球に落ちてきた男」
(監督、N.ローグ;’76年)で”俳優と音楽家”という関係で一緒に仕事もしている。
直接的に”京都”+”David KID”を結びつけたフィクサーのはツトム ヤマシタであっただろう。

 「二人のデーヴィッド」であるD.BOWIEとDAVIDE KIDさんは、"京都ー九条山繋がり"
である。’60年代には前衛芸術家グループの「具体」のメンバー作家たちが集いその後、70年代に
なってから芦屋から移り住み着いたのがD.キッドさんだった。通称、「九条山桃源洞」。
残された写真を見てもわかるが、すばらしい本格的な日本邸であった。
僕はキッドさんが芦屋に在住中に彼らの棲家を訪れた経験があったがそこも、「前庭と長屋門
そして、中庭」を配した純日本式の邸宅を借りて住んでいたことを覚えている。
この「九条山桃源洞」も写真で見る限り彼ら達の美意識が見事に空間化された邸宅だ。
そして、彼らはその空間に著名な外国人旅行者も混えた顧客を招き、中国、チベットの古仏像を
はじめ書画仏具を外国人流日本式のおもてなしで展示即売が彼、キッドさんと森本さんの職業だ
った。
この「二人のデーヴィッド」の出会いは、’72年が最初だっただろう。その後、ボウイの最初の
日本公演来、彼らの関係がはじまったのだろう。日本の仏教文化とその思想に興味を持っていた
ボウイには以後、もってこいのフィロソフィカルな”師匠”であっただろうD.キッドさんだ。
’80~’90年代は度々、お忍びも含めてこのキッド邸を訪れていたボウイは、’96年にキッドさんが
ハワイで亡くなられるまで続く。’92年には再婚したイマンを連れて新婚旅行としてここ、
「九条山桃源洞」を訪れている。そして、キッドさんが69歳で亡くなった20年後に、ボウイも
同じ享年69歳で亡くなった。僕はここにもこの「二人のデーヴィッド」の因縁を感じている。

 森本康義氏は彼が外語大学時代にD.キッドさんと出会って以後、キッドさんが'96年に亡くなら
れるまで一緒に暮らし、共にビジネスをなさってこられた伴侶だった。
僕は彼らが芦屋時代の’70年頃に幾度かお会いした事を覚えている。

 D.キッドさんとJAY.GLUCKさんは共に来日した”仲間”であった。
彼らは戦後間もない’40年代終わりに来日した。それぞれが学校の先生をした後、北京に住んだ
経験から専門は中国美術と、イスファハンに在った東洋磁器研究所勤務の経験からペルシャ美術
愛好家という触れ込みで、和歌山経由で芦屋に住み着いた。二人とも当時としては超豪邸然も、
本格的日本家屋をそれぞれ借りて住み、ビジネスを始めた。戦後当時でもそれなりの資産を持っ
ていた日本人富裕層たちを顧客として彼らは古美術を商った。一人は中国チベット仏教美術品で
あり、もう一人はペルシャ陶器とラグ、古民芸布を扱ったが、この根幹には、当時の日本人のお金
持ちが見事に陥った「シルクロードコンプレックス症」をターゲットとした、戦後の財界富裕層
に近づくための諜報的匂いが漂っていた。勿論二人はユダヤ人であり、一人は同性愛者であった。 
 
 J.グラックさんと僕の出会いは、僕が丹波の窯元で3年間、陶芸を学び戻ってきた芦屋時代の
滴翠美術館だった。当時、僕は近所にあったこの滴翆美術館で陶芸科の助手をしていた。
ある時、ここで彼のコレクションであるペルシャ古陶器類の展覧会があり、これが僕とグラック
さんとその家族との縁を産んだ。彼の奥さんは愛嬌深い可愛い聡明な日系人だった。彼も芦屋の
元山県有朋のご令嬢の嫁ぎ先のお屋敷を借りて住み、その見事な日本式大広間をシルクのペルシ
ャ古絨毯を引き詰めた空間にしつらい、自らのコレクションの数々、古ペルシャ陶磁器類を並べ
見事な演出で展示即売していた。そんな彼が、自分のコレクションのための助手を探していた時
に僕は出会った。以後、J.グラックさんのところで僕は彼のコレクションのペルシャ古陶器の整理
や展覧会の準備などの書生仕事をさせて頂いていた。
昼間は彼の自宅で普段では実際に触る事が困難な高価な価値のあるペルシャ陶器の無彩陶器や
金彩ミナイ手磁器類の古美術を触り、夜は滴翆美術館で窯を焚くという書生生活だった。
この2年間は恩恵と好奇心の日々だったことを想い出す。が、この無理によって次の26歳の僕は
1年間、国立貝塚千石荘という結核療養所生活を強いられた。

 ツトム ヤマシタと僕の出会いは京都の友人の紹介だった。
1年間の思いもよらぬ結核療養所生活は僕に新たな決心を、と言うより新たな自由を目覚めさせ
てくれた。後ろへも戻らず、前にも進まない1年間という時間は結局、僕に”不自由さ”と言う空白
が現実となっただけだった。その現実を教えてくれたのはこの療養所でたまたま一緒に暮らした
幾人かの先輩患者たちだった。入院後、最後の半年に同室だった老人は人の良いスローな男だっ
たが、どこかが崩れてしまっていて、もう社会復帰することを彼自身が拒否してしまった生活を
この結核療養所で40数年間営んでいた。僕の26歳はそんな、在って無かったような1年間で終わ
ってしまったために、’72年の誕生日をこの空白で過ごした後、退院した。
 18歳で渡米し、その後前衛的な技法での打楽器演奏によって既に、名声を博していたツトムは
’70年の大阪万博にはアメリカから帰国していて、西ドイツ鉄鋼館で行われたシュトックハウゼン
のコンサートに姿を現していた。また、当時のTV 番組で朝のニュースショー番組にも出演したり
して、所謂、時代の寵児だった。友人達と彼の多種な打楽器類を京都から車で運んだことを覚え
ているので、僕がツトムと出会ったのはこの時分だったと記憶している。
今覚えている彼の第一印象は「爬虫類の様な人」だった。兎に角、全身が繊細な神経と自由な想
像力で弾力感に溢れた存在だった。’72年には、武満徹が帰国したこの若き打楽器奏者ツトム
ヤマシタのために作曲した「カシオペア」が指揮者、小澤征爾でEMIによってレコーディングされ
「幻の名盤」とされ、この曲は武満作品の中でも指折りの傑作とされている。
http://blog.livedoor.jp/a_delp/archives/1055681304.html
が、実はこの「カシオペア」によって、その後のツトム ヤマシタは”武満ー小澤”によって見事に
日本のクラッシック音楽界においての彼の活動が完全に阻害されてしまうと言う事件を起こして
いる。
 今思うと大変稀で貴重な体験が’72年の7月13日から始った。
ことの始まりは、当時のフランス文化庁の招聘で南仏のアヴィニヨン演劇祭に参加しその後、
幾つかのバカンス期のフランス避暑地で行われていた音楽祭とそして、イタリーのローマと
スポレートの音楽祭へもニューヨークのリンカーンセンターのデイレクターのバックアップで
招聘されてツアーリングを行った。そのための”劇団メンバー”を探していたツトムと出会ったの
が春頃だっただろう。そこで僕は衣装担当で参加させていただいた。
これが劇団「RED BUDDHA」のオリジナルメンバーとなり、” THE MAN COME FROM
EAST”と言う題名で”ツトム ヤマシタの音の世界”をステージ上でヴィジュアル化した新しい演劇
パフォーマンスが作品化され、’72年の7月13日に確か、ミュージシャンと裏方の12,3人で巴里へ
旅立ち、これらの演劇祭といくつかの音楽祭に初陣参加した。
そして、秋の終わり頃にはこのツトム ヤマシタ&劇団「RED BUDDHA」はパリへ戻り、
S.モンフォール女史が(https://en.wikipedia.org/wiki/Silvia_Monfort) 彼女自らの劇場を、
マレイ地区の今は立派になって再生されているピカソ美術館の真向かいに小劇場を新設し、その
柿落としから数カ月を此処で公演した後、渡ったのが倫敦であった。’73年にはこの” THE MAN
COME FROM EAST”のライブレコードがロンドンのISLANDレーベル(L35092)からリリースさ
れた。
 アヴィニヨン演劇祭では、P.カルダンがサポートしてくださり、のちに仏文化相になった当時
まだロングヘヤーだったJ.ラング氏がこのフェスティバルのオーガナイザーの一員で何かと面倒を
見てくださった。スポレート演劇祭では、このフェスティバルの提唱者の一人である、
L.ヴィシコンティ監督も「マノンレスコー」を既に、車椅子に乗ってディレクションされていたの
も覚えている。僕にとっての劇団「RED BUDDHA」での1年余りの経験は全てが、僕が結核療養
所で求めていた「自由なマインドで生きる」ことそのものであり、好奇心の塊の不連続な連続の
初体験だった。後に、僕はこの体験は「僕の万博だった!」とよく表現して人に語っていたほど
だった。そして、僕と劇団「RED BUDDHA」との付き合いはロンドン迄で終わった。
実は、次なる公演が”ブラジル公演”と決まっていたので僕はここまでこの劇団「RED BUDDHA」
つまり、ツトム ヤマシタとつき合うつもりでいたのだが、この時期、ブラジルの政権が交代した
ために公演が流れてしまった。ツトムは第2作目の「RAINDOG」を創作して’75年にアメリカ公
演へ出掛けたが、僕はロンドンに残り、親父になった。これが'73年の僕のロンドンだった。
劇団「RED BUDDHA」を退団した僕はそのままロンドンに残って息子が誕生した。
また、この'74年には東京からの友人であった立花肇君がロンドンの僕のフラットに一時逗留しに
やってきた年でもあった。彼はこの旅の始まりに、シベリア鉄道を利用してロンドンに辿り着い
たのだがこの時、彼は東京公演の帰路のD.ボウイ一行とこのシベリア鉄道で出会うという強運を
持ち合わせていた。それが、後の彼らたちのあのクール モダンなグループ、 ”プラスティック”へ
と続く。
 僕は、この’74年の早い時期に日本公演から倫敦に戻ってきたD.ボウイに会った。
友人が住んでいた、ギルフォードという田舎街を訪れた際に、一台のロールスロイスと遭遇した
このロールスにD.ボウイが乗っていた。そこで、彼がこの街でコンサートをやることを知った
僕は厚かましくボウイにメモを渡した。結果、彼は僕と妻をミキシングの横に座らせてくれ、
この地の彼のコンサートをビッグプレゼントをくださった。

 最後になってしまったが、山本寛斎さんと僕は”リセフランコ”繋がりだった。
彼のご長女と僕の愚息が同じ時期に飯田橋に在った、「リセ フランコ ジャポネ」校の生徒だった
からだ。そして、僕が最後に彼に会ったのは確か、「3.11東北大震災」後の、2012年だったと
思う。その前に、蔵前にある大東京博物館のある展覧会を見に行った折に偶然に出会う。
この時、ご一緒に写真を撮っていただいた覚えもある。そして、震災後にお会いしに伺ったのは
彼の青山1丁目にあったオフィスだった。僕はあの「3.11東北大震災と東電福島原発事故」の
ショックで、それまでの巴里生活に終止符を打つ決心をし、アパートを引き払い以後、パリ通い
の生活にとなった。そして、僕のブログにも書いた「いらないものは捨てましょう。」と言う
散文詩を持って寛斎さんにお話に伺ったのが最後。
 勿論、同じファッションの世界が生業だったので、それなりのつき合いはあったがまた、
それ以上の付き合いも無かった。むしろ、彼の印象は頭を緑に染めたスキンに近い姿だった京都
で出会ったことの方が未だ、衝撃深く覚えている。また、僕が上京してお世話になったアパレル
「アンバーハウス」の社長だった故矢田由親氏が「レマン」と言うマーケティング会社時代に
彼、山本寛斎さんが出入りされていたと矢田さんから伺っていた。この’63年の広告代理店
「レマン」には若き浜野安宏氏も高橋靖子さんも在籍して、まだ世間に、「マーケティング」と
言う言葉が流行っていなかった時期のすご〜いお話だ。僕はこの矢田さんから多くのことを学ば
せていただいた一人、感謝のみです。ありがとうございます。
(http://www.mogeworkshop.com/blog/blosxom.cgi/diary/archives2007/article09/article08/
20070819.html)

 余禄として二つ、
 僕の寛斎さんはいつも晴々とした、素晴らしい笑顔の人でした。
僕も、”笑顔”が大切なボキャブラリィーだと思っている人間なので彼の寂しさも感じました。
もう一つ,寛斎さんに関して思い出しました事。’70年に入ってからの渋谷西武の地下駐車場にあっ
た『BーIN」とその後の、渋谷西武本館の中2階の「カプセル」と言う売り場。
‘71年、寛斎さんがロンドンでのショー後この「カプセル」で、山口小夜子さんのデビューと共に
謂わゆる、”凱旋ショー”をなさった曰くのスポット。この「カプセル」では三宅一生の入れ墨
プリントTシャツも記憶が蘇りますね。しかし、この入れ墨プリントTシャツは当時、京都美大を
卒業したての皆川魔鬼子さんのオリジナルでした。J.ヘンドリックス+J.ジョップリンの'70年の
死でしたか?そして、確かその後、寛斎さんと一生さんはこの「カプセル」後、確執が生まれ
寛斎さんのブランドは少しづつ西武から遠のき始め、ファッションビジネスとしては差がつき、
寛斎さん自身もその後、イベントワークへ自らの自由さと魅力を感じ始められたのでしょう。
 
 もう一つは、僕はこの時期、彼、ツトム ヤマシタと出会った事はその後の僕の人生に大きな
そして、広々とした自由な可能性と知的好奇心を与えてくださった人物である。
 なのに、「カシオペア」以降の”日本村”のクラッシック音楽の世界と日本のメディアはその後
のツトム ヤマシタ/山下勊 (https://ja.wikipedia.org/wiki/ツトム・ヤマシタ)を完全に葬ってしま
った。
 何故もこれ程に無視されてしまったのだろうか?
あるいは、無視、続けねばならなかったのだろうか?
 同じ京都が舞台であるのに、今回の「二人のデーヴィッド」を探していても、彼の名前が皆目
見つからなかった。ツトム ヤマシタは、’71年だっただろう、あの嘗ての「TIME LIFE」誌が
戦後、何人目かの日本人表紙をカヴァーした程の人物であった彼を???
 
 おわりに、
プライムヴィデオで、「D.Bowie The last 5 years」を見て、改めて、D.ボウイの自由を変わらぬ
根幹としたメタモルフォーゼな生き方とその覚悟に再び、惚れ込む。結果、あのような最期の
仕事と死に方にボウイのクールな美学を学び、彼の人生を再確認し、感動してそして、
ギルフォードで出会ったあの日のボウイと重ね想い、以前から少し、関心と興味を持っていた、
「二人のデーヴィッド」をさらに深く調べ始めていた矢先に、山本寛斎さんの訃報を知ったので
す。
 「これは誰かからのそして、何らかの"メッセージ”だ」と受け取った僕。
そして、この「繋がり」を僕なりに辿り帰して見たくなった。
この歳にならなければ、出来ない行為の一つであろうと自負しつつ、
 
 山本寛斎さんはこの時世をあの明快な笑顔と共に逝かれた。

お悔やみ申し上げます。
笑顔と共に、ご成仏ください。
南無阿弥陀仏。

 今年から僕は亡くなった母親以上の年齢を生かされる機会をいただいた。
「死ぬために、一勝懸命生きる。」と言う年齢が始まったばかりの今年、
この、「コロナ以降」の”あたらしい普通”と言う時世の到来。
それは、辛うじて生きのびている者のつれずれなる戯れあるいは、罪滅ぼしの日々という現実。
 僕はどのような”しあわせ”を求めて生きてきたのだろうか?
合掌。/

山本寛斎さんと二人のデイヴィッドの写真があります。
https://the.kyoto/article/d3c5cdd7-2586-44b2-aca3-35703a23dd9a
分責/平川武治:鎌倉裏八幡にて。

投稿者 : editor | 2020年8月 2日 19:40 | comment and transrate this entry (0)

2020年6月 1日

"Act The I"への返事。/「コロナ以後」のファッションはどの方向へ?

 "Act The I"とは、巴里のモード研究所である「I.F.M.」がやっているプロジェクトである。
彼らたちが、この「コロナウイルス以後」のモードの行方をいろいろな人から聴いているのが
今回のテーマ。そして、それに対しての僕の返事が以下である。

 『極論を言うと、「デジタル封建主義」あるいは、「サイバー独裁」と言う時代性が
近づきましたね。
 そうですね、ファッションビジネスの今後もどのようになってゆくのか?
そして、そのビジネスのための創造性とプレゼンテーションの手法も再考が必然でしょう。

 ファッションビジネスもグローバリズムの到来と共に、大きく変化し、生産地が変わり、
クオリティが落ちその分、ヴァニティなイメージングがより、派手になり、それぞれのメゾンの
ショーはより、それぞれのブランドの「包装紙」の役割を担ってしまうまでに派手になり、
若手のインディペンデントなデザイナーたちは肝心のファッションにおける創造性に新しさが
求められなくなり、所詮彼らたちが選択したのは、「アーカイヴコレクションのザッピング
あるいは、リ・メイキング」と言う袋小路へ逃げ込んでしまった為に、このコロナ騒動で余計に
彼らたちはこのモードの二つの袋小路から抜け出せないでしょう。
 創造性に対しては以前よりも抜本的な創造の手法を求めるしかないでしょう。
それは僕が5年ほど前から発言してきた、”The without sewing”と言う発想がありますね。
もう、ミシンと糸とアイロンで仕立て上げる服にはほとんど「創造性」の可能性はありません。
全てが、「ヴァリエーション オブ アーカイヴス」の世界になってしまう時代性だからです。
ですから、「衣装」はより、「衣装」になり、「ユニフォーム」はより、「ユニフォーム」と
なるでしょう。そして、その中間領域だけが今後の大いなる「モードの為のモードな包装紙」。
 ではどの様なユニフォームが?
僕の答えは、「リアリティのユニフォーム」と言うコンセプトを提言しています。
「新しい普通」、その連続性が「新しい日常」を誕生させます。
この「新しい日常」のリアリティのためのユニフォームです。
ー「快適性、着やすさ、着心地の良さ、利便性それにカッコ良さ」と、
自分たちが「繋がっている」世界のユニフォームという考えです。
 たとえば、「Distance」というキーワードをコンセプトに考えられる、「ユニフォーム」も
ありですね。

 キャピタリズムが崩壊し始めると、「大量生産と大量消費」のためのファッションビジネスの
構造は、「トレンド」と「在庫」そして、「納期」をリスクヘッジしたより、効率よく
儲けられるかのビジネス手法が再考されます。見かけは「ファッションアイテム」を製造販売して
いるように広告宣伝とイメージングで見せかけておいて、実は「衣料品」の大量生産と大量販売
で儲けている「UNIQLO 」の様な、「なりすまし商法」が、ハイエンドブランドでもビジネス
中心を考えてより、進化するでしょう。ここでは、”オリジナルブランド”というマーク付の
ちょっとお洒落着の世界でしょう。たとえば、CdGの「PLAY」のレベルですね。
 したがって、F.W.もコスト削減になり、今様のヴァーチュアルイメージングによってビジネス
向けのイメージング手法がより先鋭化してゆくでしょう。
 僕はパリのコレクションを見せていただき、35年が過ぎましたが、
この「パリのコレクション」とはこのフランスの文化を育ててきた「サロン」の一部でもあると
感じて結果、35年間も通い続けてきたのですが、やはり、最近のコレクション風景には
この「パリのサロン」と言う香りがなくなり始めていましたから、これも、この「コロナ騒動」
後は、もっとなくなってしまうでしょう。そして、ただのビジネスのためのプレゼンテーション
と考えると、今後はその機能は、ヴァーチュアルテクノロジーに委ねた方が新しくも見え、
面白い可能性が生まれるでしょう。
 従来のモードの世界は、「着る人の衣装」によって階級/クラスを保持してきたでしょうが、
今後は、「着るユニフォーム」によって、その人たちの「日常」と「繋がり」をそして、
「Distance」という”リアリティ”を表層化するでしょう。』
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2020年6月 1日 16:36 | comment and transrate this entry (0)

2020年5月 2日

(番外編)コロナウイルス”と言う「テロ」に向き合うと言うこととは-、番外編

●改訂版;
 (番外編)「やぶ睨み、ユニクロ系列がお金に変えている”差異”とは?
或は、“なりすまし“・ファストファッション」

 
 当然であるがこの「新型コロナウイルス/COVID-19」騒動は、
世界レベルの災いとなり、現在まで継続している。
そして、未だに、完治する”治療用ワクチン“は開発されていない。
 この「新型コロナウイルス/COVID-19」騒動は現在進行形である。

 この騒動が終焉を迎えるタームがきた時には、確実に「時代」が変革する。
戦後の70数年で「時代が変わる」という実因と実感はポジティフな視点で
「潤沢な社会」がもたらして来た結果である。
 しかし、今回は「疫病」という悪魔がもたらした
ネガティブなパンデミックと経済危機である。
従って、謙虚に、「潤沢な社会」を省みるある種のゆとりを
各人が持たなければいけないであろう。
 これからの迎えるべき”未知なる時代”への願望と発展のための、
「反省と目標」或いは、「復習と対策」のためであり、
言われるままに、“Stay Home”を行っている人たちの義務でもあろう。

 そこで、僕の立ち居場所での持つべき眼差しとしての好事例を話そう。
 僕は1ヶ月ほど前に、
 「UNIQLO系列は今回のコロナウイルスの影響下、今期の営業利益も44%減の1450億円と、
従来予想(5%減の2450億円)から下方修正した。」

というニュースを知って、考え込んでしまった。(日経:2020/4/9 15:38版)

 ここで僕なりの「やぶ睨み、ユニクロ系列がお金に変えている”差異”とは?」
その実態とは何なのだろう?と。
 僕のような、“デザイナーファッションビジネス”の先端を
40年ほど携わり、見て来た者からすると、
「どのようなマジックを使うとこのような営業利益が算出出来るのか?」と、
この時世故、今更考え込んでしまったのです。

 この企業グループがこれだけ儲けられる「差異と力」とは、何なのか?
「ファッション・クリエーション & イメージング」を差異の根幹とした
デザイナーブランド・ビジネスでは到底考えられない世界です。
 そこで、敢えてこの企業の“差異”が何であるかを考えてみると、
その根幹は所詮「スケールバリュ/量的価値」であり、
既に、綻び始めて来た「資本主義社会のオールドスクール」しかないだろう。

 「どれだけ自分たちが必要とする
大量の生地を手配し、安く仕入れて、
どれだけ多く工場発注し、どれだけ安く納品でき、
どれだけ多くの直営店で、どれだけ大量に売るか!」

 言っておくが、このグループの売り物である
「ヒートテック」という素材も、
この企業が開発した素材ではない。

 この”The Value of volumes “の根幹で、
「どれだけの儲けが算出出来るか?」の世界が
このユニクロ系列企業の「ビジネス根幹」でしかない。

 これで言えば、売っているものは生活”衣料品“である。
が、その作り方と売り方、そして、儲け方は
すなわち、ビジネス業態の根幹は
「大量生産の工業製品」を売っているのだ。
 
 ファッションビジネスの様に見せ掛けた、
「百均ビジネス」の変形業態でしかない。

 日本のメディアとファッションメディアは
決して、このユニクロ系列のビジネス実態を
この様な目線で報じたことは無かった。
むしろ、「ファスト・ファッション」と称し、
この旧体然したスケールメリットを持ち上げた
報道しかなされて来なかった。
 
 海外の”ファスト・ファッション“と呼ばれている、
H&M, ZALA, Mangoなどのレベルと
同等なカテゴリィーでは決してない。
 
 彼らたちの世界では、
ファッションビジネスの宿命である
「トレンド」と「納期」のリスクがある。が、
ユニクロ・カテゴリィーにはほとんど
実ビジネスに影響を与えるまでの
この2つのリスクは皆無である。

 という事は、このファッションビジネスにおける
最大のリスクである「納期遅れ」と「在庫過多」が無い。
しかし、ビジネス構造は「ファッションビジネス」構造である。
という事は、
他の物販ビジネスには無い「粗利益」が取れる
ビジネス構造そのものの商売である。

 世間へ“ファッション製品”だと思わせる為の
「イメージングと広告戦略」と白人デザイナー起用という
虚業産業のオールドスクールが実態と読める。
 
 更に、ここにリスクヘッジに商社機能を呼び込み、
「国際フリ屋」として、
世界規模の低コスト生産地をクルージングする、
”グローバル・サウス”へのしわ寄せであり、
グローバリズムという“新・植民地政策主義”にサーフしただけの業態ビジネス。

 このビジネス業態の根幹で「44%減で営業利益1450億円?」
というビジネスが可能なのであるから、ある意味で、凄い!!
「ファスト・ファッション」と言う“なりすまし“業態。

 所詮、海外戦略において、かつてから、
「ブラック企業」と評価されたことも決して、忘れてはいけない。
 日本の若い、本当にファッション・クリエーションが好きな
デザイナーたちへの援助もなければ、
彼らたちへ夢を与える企業でもない。

この2ヶ月、「マスク」にも手を出さない。
矢張り、何処かおかしいであろう。

 今回の「新型コロナウイルス騒動」に対しても、
海外のそれなりのラグジュアリィ・ファッションビジネス企業は
何らかの救済ボランティアを早々に始めたが、
このユニクロ系列は未だ、
何も救済事業を行っていない。
むしろ、この機を利用して儲けているだけである。
 
 この企業グループオーナーの“氏育ち“によって
ほとんど、“独裁者”的存在であり、
この企業の倫理観や宗教観の欠如が如実に現れている。
 
 海外のユダヤ人たちのこのレベルの企業には
「Give & Take」と言う倫理的ルールがあります。
 例えば、
 参照/New York Times;
“Should Coronavirus Face Masks Be a Fashion Statement? - The New York Times”
‪https://www.nytimes.com/2020/04/22/fashion/coronavirus-fashion-face-masks.html‬

 僕の様なファッションの立ち居場所にいる者は、
この種のビジネスには共通する、
『あるべきビジネスバランスを顧みず、
「顧客を見下げ、需要と供給のあるべき倫理観」の喪失。』が
ビジネス成功の実態と読んでしまう。

 そして、資本主義の鉄則の一つである、
「金さえあれば、全てが“本意”となる。」の典型方式。
「金さえ使えば、何でもが、可能である。」方式の「あきんど/商人」。

 この企業がこれほどまでに巨大化したのは、
「上手なお金の使い方」と言う「商人」の鉄則を
「時代の追い風」と共に
為して来たからであろう。

 「地方創生」「グローバリズム」「観光立国」「インバウンド」「E-コマース」等などと、
「潤沢な社会の誕生」にMD (昭和の”公設市場の特売”レベル、)を特化させた、、、、。
決して、“デザインファッションビジネス”ではない。

 従って、「44%減で営業利益1450億円?」というビジネスが可能なのであろう。

 さて今後、今回の「新型コロナウイルス・パンデミック」後、
彼らたちは如何ほどに「上手な金の使い方」が出来るのであろうか?
 「ポスト・近代」という時代にも、
戦後の混乱期に誕生したこの様なビジネスの
根幹は今後も、
どれだけ「資金次第」で通用継続するのだろう。
 
 「完全封鎖」後に現れるであろう、
‪一時‬的「爆買い」を既に、読み込んだ
「今期の営業利益、44%減の1450億円?」ビジネスは
今後登場する「シン・スタンダード」にサーフ出来るのか?
或いは、「シン・保守」な時代観にチューニングするのだろうか?
「国民的“なりすまし“ユニフォーム」企業化するのだろうか?

 僕は「緊急事態宣言」後、
“Stay Home”で“ユニクロ系列の儲け方とは?”を「営業利益、1450億円?」
ビジネスの根幹とはをこの様に深読みして考え込んでしまった。

 この「新型コロナウイルス」によって促されるであろう、
「近代」の崩壊とは
即ち、”キャピタリズムの崩壊“という発想。

 では、「差異と力」は
「差異=力=金」が、やはり、全てだという時代も緩和されるであろうか?

 新型コロナウイルスが収束したのちに現れるであろう「新しい時代」では、
これまでの資本主義社会が求めて来た、
「大量生産/大量消費」といった在り方が反省され、
利潤だけを追い求める事より、
人間が中心である「環境問題」としての
「地球環境危機」や「気象危機」などに、
「サスティナブル」にどれだけの関心と為すべき事を、
どの様に具現化してゆくか?

 そのために考えなければならない、
「生産の次元」が決定的により、重要になるでしょう。

 企業における生産過剰によって現実となっている
“エネルギィ消費”や“二酸化炭素排出量”等の
環境危機と気象危機の根幹に関わっているからです。
これらはこの「新型コロナ騒動」以前の
実問題であった事を忘れてはなりません。

 江戸時代の「商人」たちがその商哲学とし、
「倫理観」と「道徳観」から実践されていた「三方良し」。

 「作り手+商人+買い手」のそれぞれが良しと言う商売哲学が
今後、新たな時代としての「ポストキャピタリズム」では、
「自然環境良し+資金周り良し+労働者生活良し」と言うまでの
「三方良し」な関係性の再考がこゝろある商人/あきんどであろう。

 すなわちこれらが、
「繋がる」社会構造や経済構造を考えることが
次なる「ヒューマニズム」であり、
ここに、“人間主義”発想が問われるでしょう。

 やはり、このユニクロ系列企業が求める、
「営業利益、1450億円?」ビジネスの根幹とは?
「大いなる時代錯誤ではないだろうか、」 と言う新しい時代が到来するだろうか!?

 「ポスト・近代」と言う、「ポスト・キャピタリズム」。
或は、「マルクス主義とエコロジー」を学美、謙虚なる根幹があるだろう。
 参考文献/「資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐点」
斉藤幸平編: 集英社新書0988A刊:2019年8月発行:
(出来れば、第三部のポール メイスンから読み始めると馴染みができるでしょう。)
「大洪水の前に、ーマルクスと惑星の物質代謝」斉藤幸平著/堀之内出版刊:
「ポスト・キャピタリズム」ポール メイソン著/ 東洋経済新報社刊: 
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2020年5月 2日 15:29 | comment and transrate this entry (0)

(4)コロナウイルス”と言う「テロ」に向き合うと言うこととは-4:

●改訂版;
(4)子供たちがこの”招かざる禍い“をどの様に体験をし、
今後の自分たちの人生のために何を学ぶのだろうか?
 
 「飽食消費社会構造」そのものへの「警鐘」!!!
一方では、もっと現実的には、
「ワクチン強制摂取と言うM.チップスの埋込」と
世界の「人口減少化作用」そして、「新世界/N.W.O.」の樹立化。

 そのための新たな経済構造構築化としての
「デジタルマネーの日常普及」へ、
そして、新たな「國体」が必然となると言うまでの
世界シナリオを読んでしまうのですが。
 参照/ <ビル・ゲイツ 人類の敵。/‪https://youtu.be/PdKqMzzaVH8‬ >

 「ただ、人々を新自由主義に向かわせればいい。
*愚かな人間どもは、やがて自らの欲望によって破滅するのだ。」

 これは、フィリップ・ロスチャイルドに寵愛された、
アイン・ランド/Ayn Randによって書かれた小説、“Atlas Shrugged”からの一文です。
(この本は、世界支配のアジェンダをコード化した小説とされている。)
 参照/<『Atlas Shrugged/アトラス・シュラッグド』Ayn Rand著より:
‪http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=334081&pgh=2‬ >

 これがそれなりの世界の人達が持っている
わかりやすい、 価値観であり、今回の“パンデミック”の根幹ですね。
そして、これが戦後の日本人へも向けられ、
仕掛けられたコンテンツの一つでも有りました。

その結果が現在の日本人の
「長屋の金持ち衆」の自由主義と個人主義思想(?)
そして、「物欲消費社会」という豊かさの享受。
政治は「新・自由主義」と言う民力依存と社会保障減少化と
格差社会を生み出す緊縮政策化。

香港のデモの完全消滅。
B.ゲイツの突然のマイクロソフト社退陣。
1918年のスペイン風邪のパンデミックが「ドル通貨へのシフト」、
今回は「デジタル通貨へのシフト」でしょう。など等、、、、、、
 
 「真実らしい」ことばかりで、
決して、これらは「真実」ではないと言うまでの「なりすまし時代性。」

  誰でもがそうでしょう。
「罹りたく無い」ー「他者に移したくない」ー「死にたくない」ー「生きていたい」。
 では、なぜ”生きたい”のか? この機会にもう一度、考えてみる。

ならば、どのような生き方をしたいのか?
どんな希望や目標があるから生きたいのか?
どのような人たちと、 愛ある関係性と共に、
どのように与えられた人生の時間を
どの様に使って行きたいのか?
どのように、人の為になりたいのか?等など、、、、、、

 ならば、この“機”に今後、どのような人間として、
どのような価値観を持って、
どのような意義と役割を再認識し
どんな人生を歩みたいのか?
 
 “自分の生き様”へのプラクティスに、
この“機”を使うこともありでしょう。

 そして、今後への「再生・自分らしい世の中の為になる生き方」を
考えるにはこの時間は稀に見るスローな流れですから
大いに豊かに、有意義に
考え、使えることでしょう。

 このような時世ですから
どうか、表層の情報に惑わされず、
自分が持ち得た知性と倫理観と経験に委ね、覚悟と共に、
リズムある日常として、呉々も安心なる日々を、
笑顔を忘れずに、“With COVIO-19”を
謙虚に力強く!!生き延びてください。

 どうか、「情報のパンデミック」にうつつを抜かさず、
ただ、ただ、無知と怠慢は不幸を生み出します。
より、謙虚に地球と自然から多くを学んでください。
 第4部終わり。
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2020年5月 2日 14:48 | comment and transrate this entry (0)

(3)コロナウイルス”と言う「テロ」に向き合うと言うこととは-3

●改訂版;
(3)では、この様な「新型コロナ ・パンデミック」の収束後は
確実に、人心と経済観念が変わるでしょう。そして、世相が変革するでしょう。
結果、人生の価値観にも影響が及ぼすことでしょう。
 
 そこで、改めて『私たちが望む「豊かさ」とはなんだろう?
「しあわせ」とは何か?』という眼差しが、再考されることでしょう。

 では、今後も何のために「服」を作り売るのか?
究極は、それぞれが持ち得た「自由の裁量」と
そこから生まれるそれぞれの「しあわせ度」への
“May I help you for happiness?” と言う視点が
「ジェネレーション-Z」たちを含む
新しいマーケットを生み出せる可能性でもあるでしょう。

 もしかしたら、”芸術“の世界が然りでしょう。
ならば、それぞれどのような「自由」と「しあわせ度」を選び求められるか?
そこには、より、”人間性“や”人格“と言う倫理観を伴った根幹になるでしょう。

 また、現代の時代観の一つであった、
「簡素な生活と虚飾な生活の何れかを選ぶ “贅沢”が許されている文化と豊かさ」
のバランス観も変化し、それによる新しさが
「新しい普通」をニーズとする時代性も有りでしょう。

 ここには「ユニフォームではない、ユニフォーム」的なニュアンスが
キーワードの一つになるでしょう。
「ファッションではない、ファッション」や、
「服でない、服」等、など。
ファッションの世界そのもののが、
「なりすまし」である事を忘れてはいけませんね。

 僕が提案出来る収束後の“トレンド“とは、
「リアリティのユニフォーム」。
そして、「新しい普通」と言う時代性に登場する
「新しいモノ」の誕生は、
「モノ・余り」+「リ・メイク」+「コラボ」=「ネオ・ハイブリッド・クラフト」、
「手作りではない、手作りモノ」というまでのオブジェ/ガゼット感覚、
「何何ではないが、何々である。」と言う「なりすまし・コンテンツ。」

 多くの高齢者たちが老後の夢としていた
彼らたちの求めた「しあわせ度」の
一つであった 「豪華客船/クルージング」が
あんなモノなのかと言う 覚めてしまった目線、
或は、憧れの「ラグジュアリィ」ブランドも
実は、”Made in China”だった?
これでは「ラグジュアリィ」の鍍金も
剥げてしまう事も起こり得る
今後のモード界でもありますね。

 ラグジュアリィ企業である“L.V.M.H.社“の
ラグジュアリィーの実態に一端が解るサイトです。
是非、ご一見を!!
 参照/サイト;
 ●ディオールのドレスはインドの奴隷職人によって作られる/N.Y.Times
https://courrier.jp/news/archives/198276/
 ●ルイヴィトンの靴は世界最安のルーマニアで生産/
https://courrier.jp/news/archives/96224/?utm_source=article_link&utm_medium=textlink&utm_campaign=articleid_198276

 気がついて調べてみると、
この地上で、”The Fashion Week“は 既に、
世界中、25都市以上で、 同じシステムで
コントロールされているのが現実です。
ここにも、ある種の「利権」ビジネス構造が
メディア界を軸にしてそれなりの人種たちによって
構築されてしまっています。

 中身のファッション・クリエイションは
その大半が、「過去のアーカイブスのザッピング」。
従って、ショー自体が”エンターテイメント“。
演劇化やダンス化それにコンサート化や「男装ザ・タカラヅカ」
結果、シャンペン業界も賑わうという“Luxury・ビジネス“構造。

 まるで、映画、「OZの魔法使い」のドロシーたちが
“芥子畠”でひと眠りしてからやっと辿り着いた
“OZの塔/クリスタル・タワー”さながらの現実が
「ガラ・パーティ」としてより、盛んになるでしょう。
グランドフロアーでは、派手でヴァニティなパーティーの賑あい、
その上層階では??? (ぜひ、カルト映画、“wiz“も併せて観てください!)
この現実がいよいよ、より肥大化してより、現実に。
 参照/“WIZ” / ‪https://ja.m.wikipedia.org/wiki/‬
%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%BA_(%E6%98%A0%E7%94%BB) 

 どうか、みなさん自粛生活を笑顔と共に、愉しんで下さい。
“Please, enjoy your life of the self-discipline with cool smiles.”
合掌。
文責/ 平川武治:

投稿者 : editor | 2020年5月 2日 02:19 | comment and transrate this entry (0)

(2)コロナウイルス”と言う「テロ」に向き合うと言うこととは-2;

●改訂版;
 「新型コロナウイルス以後」、「新しい普通」が始まると、
蔓延する一つのコンテンツは
映画、「オズの魔法使」のコンテンツの一つである、
"There's no place like a home.”でしょう。
 戦後のアメリカのセールスマンからはじまった 「物販」業、
そして、大衆消費社会構造の根幹コンセプトが
この、"There's no place like a home.”です。
 
 終息後の新たな時代への「物販」も
今後も変わらぬ根幹でしょう。
ここに白人社会のキリスト教徒信仰の
根幹が存在しているからです。
ですが、ITと言うテクノロジーの発展により、
これからの「新しい普通」は決して、
“オールド・スクール”の “リヴァーシブル”ではありません。

 「家にあるべきモノと、なくてもいいモノ」
ここから新たな「シン・ベーシック」の根幹が見えてくるでしょう。
この視点は既に、ジェネレーションーZ世代以降の若者たちには
「何が豊かさなのだろう?」と言う“豊かさへの懐疑“から始まり、
「何が本当に必要なモノなのか?」への眼差しの変化、
彼らたち世代の、当たり前の「自由」のカテゴリィーがより、発展するでしょう。
 参照/映画「365日のシンプルライフ」:http://365simple.net/
(ヘルシンキの26歳の青年がある日、彼女にフラれた事をきっかけに
自分の部屋のモノの多さに幸せは無いと感じ、自分の持っているモノを
全てリセットする実験を決意し、実行するドキュメンタリー映画です。
今見ると、タイムリーな映画でしょう。)

もう一つ、再発見しなければならない価値観として、
「地産地消」と言う価値観がありましたね。
かつての、「地方創生」政策時に搭乗した、
自分たちの国で作ったものを、自分たちが消費すると言う
「消費における倫理観」的考えと方法論ですね。
これが、「ポスト・グローバリズム」のリ・コンセプト。

 そして、収束後のファッションビジネスが
どのような対応と「新たな価値」を見つけ出せるか?
一つの新しさへの挑戦と好奇心を生み出せるか?
どのようなエモーションを顧客へ提供できるか?
そのための「モノ作り」とそれらの「販売」とは?
そして、これらの新たな「経済価値」が
どの様な仕組みと関係性で生み出せるか?

貨幣構造もゆくゆくは電子マネーの時代へ変革され、
「資本主義+社会主義」という新たなる構造が
どのようなバランスシートと比率によって政策化されるか?
ここに、「ポスト・キャピタリズム」の価値観と
その時代がより、近づいてしまったようです。
合掌。
文責/ 平川武治:

投稿者 : editor | 2020年5月 2日 02:08 | comment and transrate this entry (0)

2020年5月 1日

(1)コロナウイルス”と言う「テロ」に向き合うと言うこととは-1

 改訂版;「コロナウイルス”と言う”テロ”に向き合うと言うこととは」-1;
文責/平川武治: 令和2年4月末日:

 4月も終わり、僕が帰国してから約2ヶ月が立ちました。
コロナウイルス騒動は依然、僕たちの国は未だ、収束の目処が立たず、
安倍内閣の気骨無く、覚悟なき決断により、余計に医療崩壊と経済危機いう
多重迷路へ国民の不安を誘っているだけのこの2ヶ月でした。

 さて、僕も3、4日遅ければ、 パリの都市封鎖に引っかかるところでしたが、
運良く、3月11日には鎌倉へ無事に帰国。
 でも、僕は平素から「自宅待機」と変わらぬ 自分の生活リズムで、
いつも通りの日々をおおらかに、独りと1匹でこの竹藪の中で過ごし、
時折の街へ買い出しへ。
 しかし、やはり収束後の経済不安と子供達への変化と影響を考えてしまうと神経は病みます。 そして、いろいろ考え深読みを始めています。
 今回は、僕のこの「新型コロナウイルス」による、「緊急非常宣言」下の体験で感じたこと、
考えたことを皆さんへお話ししましょう。


1)はじめに;
  僕の本心は、一昨年来、僕が発言してきた「近代」と言う時代の終焉が
この様な形で「御和算」を求めて来たと言う心境です。
 「飽食消費社会と資本主義」への最終警告の機が来たと謙虚に受け止め、
今後への新たな世界ルールとしての「ポスト・キャピタリズム」を意識しなければいけい
“機”だと感じています。
 *参考/< P.メイスン著「ポストキャピタリズム」:
‪https://en.m.wikipedia.org/wiki/PostCapitalism‬
 < 斉藤幸平著/「大洪水の前に」:
‪https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%B9%B8%E5%B9%B3‬

 今回の「新型コロナウイルス騒動」も、
そして、忘れてはならない現在の地球上で起こっている”負“の現実のいくつか、
「気候危機と自然災害」これらを根幹にした「食糧危機」や「富の偏り」などは、
20世紀の我々が「近代」が選択し構築した「資本主義と消費主義」、
その発展為の「利益主義」を継続し、「利潤の拡大化と飽食化」へ
唯、謙虚さ無き進展を走り求め過ぎた結果の、
『“民”への「神からのペナルティ」』と言う、
大いなる犠牲を伴った警告だとこゝろしています。

 僕が昨年来、発言している「近代」の終焉が
この新型コロナウイルスによるパンデミックで、
完全に白人至上主義の元での 「近代」が生み出した
”キャピタリズム“そのものが 「破綻」して
「ポスト・近代」の誕生へ近づく事でしょう。
 そして、「新たな近代」としての経済構造や生活モラルが
「新しい普通」を待望する事でしょう。

 また、僕が発言する「シン・スタンダード」論は
“There's no place like a home.”が
再び、より真実味を憶える時代が到来するからです。
 この「シン・保守性」は
バイオテクノロジィとアルゴリズムとIoTによって操作される
一歩間違えば、危険極まりない保守性です。
或は、「サイバー独裁」もしくは、「デジタル封建主義」と言う、
あの、G. オーウエルの「1984」の電脳版社会に類似した
未来予測になる可能性も大いにありでしょう。

 そして、あらゆるモノの創造はこの「第3次産業革命」後における
“Made in Internet”が主流となり、
“IoT+Cloud Com. +Big Dater”が生み出す
監視性を内蔵した保守性でもあるでしょう。
 参照/映画「ザ サークル」:SNSが国家機能となり強制的に加入させられて
政治の多数決に利用される恐怖手段となると言うストーリー。
https://movies.yahoo.co.jp/movie/361586/

 収束後の今後の「モノ作りの世界観」は、
この新たな技術に委ねたMade in Internetの世界、
或は、これにどれだけ隔たりを持った世界、
もう一つは、この世界観にどれだけ、人間味をミックスしたところでの世界、
という三つの方法論的現実が発想できますね。

 そこへ、"There's no place like a home.”
「家の外にないものはどんなに遠くへ行ってもない」 と言う
あるいは、「お家が一番!」論。
 1939年に出版された、「OZの魔法使い」のドロシーの言葉がまた、
騒がれ始めましたね。(先日はスピルバーグもこの映画を取り上げていました。)
 昨今の状況はまさに、”There's no place like a home with the P.C.”の世界。
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2020年5月 1日 23:10 | comment and transrate this entry (0)

2020年3月 2日

NINOMIYA NOIR コレクションで感じてしまった事。

「NINOMIYA NOIR 」コレクションで感じてしまった事あるいは、覚めてしまった事。
 このデザイナーの当初から持ち得た“純朴な発想と仕事ぶり”が大好きな僕である。
なので、彼のデヴュー以来そのほとんどのコレクションを見続けて来た。
そんな僕が今シーズンのコレクションで感じたことを正直に書こう。

 今シーズンも変わりなく、とても彼らしい世界観と華麗なコレクションであった。
いや、今回はより、変わらず、力作のもの凄いコレクションであった。
 既に、2016年から8シーズン続いて巴里でもコレクションを行い、今シーズンから
公式カレンダーに組み入れられた。それによって新たなジャーナリストたちが見る機会を得た
シーズンでもあった。
 だから、力が入ったものとなったのだろう。今までのオーナメンタル-エレメントにフェザーと
メタルワイアー等という新たな“物質”素材が加わったのが際立った。
 そして、全体が大きな有機物の塊に見えてしまう程の“力作”のオンパレードなショーだった。
又、珍しく、今シーズンはこの企業のそれぞれのビッグ・ブランド、CdGとJUNYAが共通して
出した、“吊り下げる”というコンセプトがこのブランドでも幾体か見られた。
 僕が発言している、「服でない服」の登場。所謂、「サスペンダー」タイプのものである。
そして、今シーズンの僕の眼差しは、「The Armor’s Objects for the Vanity.」である。

 僕がこのデザイナーの存在を知った5年程で彼のコレクションは成長しているのだろうが、
今シーズンを見ると、すべてがそうとは言えないと感じた。
 ”大きな塊“の存在感だけが目立ったからでもあろうか、彼の持ち味であるはずの繊細さが
隠れてしまったのか、この手のコレクションになると、どれだけ、繊細なエレメントによる、
ほとんど手作業による完成度でしかない。使われる素材が違っても基本的には“手工芸”の世界で
ある。
 では、このデザイナーがこの街のモードの主軸である“オートクチュール”と言うカテゴリィー
で発表しないのか?と言う疑問も湧いてくる。が、この街のクチュール世界が持っている規約に
不十分であるからであろうか? あるいは、この“古くて新しい”世界への挑戦はこの企業その
ものが許さない。その理由は”企業内ヒエラルキィー“が存在しているからであろうか?あるいは
このデザイナーの立ち居場所が日本的に“不明確な”ことによって起こるビジネスに託しているの
だろうか?
 というような現実的なことを顕著に、この企業の体質を熟知している僕が考えてしまった
コレクションでもあった。
 
 諸手を挙げて「凄いでしたね!!」は殆ど素人的視点でしかないであろう。
もっとも今日の”ファッションジャーナリスト“として観ている観客の多くはブロガーであり、
SNS、インスタ.の世界の若者が多い。そういう観客には、「凄いね!!」という所謂、
「インスタ映え」効果だけで十分な世界に成り下がってしまっているのが現実でもあるからだ。
それなりの従来からの新聞や雑誌の編集者たちも、書くことと言えば、「業界スズメ」的なる
話題で読者へこの世界の裏側を寸視させる事を始終し始めて久しい。もう、このモードの世界が
行なっている「ファッションウイーク」とは完全なる一つの「エンターテイメント」業であり、
入場料を取らない代わりに、思い切り沢山、“インスタ”で繋げて下さい。そして、「売り上げに
も出来れば、ご協力ください。」という構造でしか無くなってきた現実がこのメゾンの“力作”
コレクションにも感じてしまったのである。
 
 僕は「ファッションデザインとアート作品」は違うと言い切っている。
創造物をアート作品にするには、あるいは語るにはそれなりに「哲学」を学び、美意識をより、
深めて自らの生活の日常からにして欲しい。

 では、このデザイナーはこれ程までの、“力作”をこれ程までの数を何の為に発表するのか?
女性こゝろにあるそれぞれの変身願望、「花になりたい!」「鳥になりたい!」
「綿玉になりたい!」「スモッグになりたい!」あるいは、「オブジェになりたい」etc.,,,
このような女性たちの変わらぬ「乙女こゝろ」へ向けて創作されたのであろうか?
 このコレクションを着たくなり、欲しがり、買えるまでのリアリティある層が現実にどれだけ
想像出来るか?(特に、この“プレタ”の世界では如何なものであろうか?)
 また、作り手は自分が造る世界を誰に着てもらいたいか、誰に売りたいかを想像してこれ程
までの手作業(?)と時間を費やしているのだろうか?
 
 これだけの作品群を作り出すこととは、それなりの人の思いとアイディアと願望と欲望が先ず、
働く。あとは準備と手作業にかかる所要時間と体力とそして、これらを現実にするための
ヒエラルキーと大切なのがやはり「金力」である。それなりの「資金力」が必要であり、それに
よってこのコレクションがなされている。
 と言う事は、現代社会に於いては「お金があれば、なんでも出来る」と言う時代観故の
コレクションなのか?とも、感じてしまった。
 彼個人が持ち得た「自己願望と欲望」それらが企業のビジネスのための「イメージングと
諸戦略」等と重なれば良いと言うまでの「聞き分けの良い、お利口さんデザイナー」なので
あろか?あるいは今の日本人の若者のほとんどがそうであるように、「自己弁護」の為の聞き
分けの良い「お仕事」なのだろうか?
 
 デビュー当時はこのブランド名である「NOIR」と言う立居場所が明解にあり、それがこの
デザイナーが心使う“繊細さ”を表し、「黒」と言う有彩色の世界を美しく新しいバランス観で
表現されていた。使われたエレメント類を引き算しても、そこには「服」という“美しさ”が確実
に存在したブランドであった。
 だか、今シーズンのこのデザイナーの“力作”コレクションからは、僕にとってのこれらの
「ファッション」の大切なものが見え辛く心痛めた。

 「安全ピン」「タータンチェック」「黒/赤」「鋲打ち」「イミーション」、、、、、、
これらはこの企業のそれぞれのショー・ブランドが“売り物”にしている「PUNK あるいは、
PUNKらしきさ或は、リアリティなきPUNK」が見事にこのブランドにもエディケーションが
なされているシーズンでもあった。
 
 従って、この企業グループもそろそろ「固まり始めて来た。」と読んでしまったのは
この企業を35年間見続けて、熟知していると自惚れた僕の深読み過ぎるのであろうか?

 最後に、このコレクションを見た「generationーZ」世代の女性に感想を聞いてみたが、
その本音は、「美しい、凄いコレクションだけど、、、、」「何の為に?」「誰のために?」と
いう言葉がやはり、帰ってきた。
 
 「もう、あの時代ではないのだ!!」
僕も気をつけよう。
合掌。
文責/平川武治;巴里ピクピィス大通り。

投稿者 : editor | 2020年3月 2日 20:54 | comment and transrate this entry (0)

2020年2月25日

UNDER COVERとMIYASHITASOLOISTから読む新たしさとは⁉️

「UNDER COVERとMIYASHITASOLOISTとの違い。」/
今シーズンの彼らたちは共に、映画からインスファイアーされたコレクションを創り上げた。
 「蜘蛛巣城」と「ジョーカー」と言う、相容れない映画がその発端となった。
が、一つ特記すべきは、それぞれが「病院と戦場」と言う世界観で創造がなされたことである。
ここには「ユニフォーム」が現存している世界である。彼らたちはそれぞれのユニフォームから
インスファイアーされて、自分たちの美意識によって世界観を構築したスーパー・クールな
コレクションに仕上げたことに僕は感嘆する。
 
 UNDER COVERのコレクションには僕も驚いた。
というのも、僕が5年ほど前に、今後のモードの新しさを創造するには「ミシンと糸」と言う
縫製工程を考えないで考えられるクリエーションが今後の全く新たなモードの創造性になると
言い切って、その僕の発想の根幹が「甲冑」であったからだ。
 戦国時代の武将たちが装着したそれぞれの地位に見合った意匠と機能性に凝った
甲冑をインスパイアーした所での「WITH OUT SEWING」プロジェクトを発言していたからだ。
 この「甲冑」はユニフォームとしての機能性があり、着る武将たちのそれぞれの地位を
象徴した「装飾」が施され、異素材とその後加工、漆や板金によってマクラメでまとめあげられ
ていることである。そして、昨今にわかに注目を浴び始めた、アフリカン・ブラックたちの
戦闘時に身につける“衣装/コスチューム”もこの範疇に根幹がある。
 ここに、現在のモードの世界が辿り着いた「衣裳と制服」の根幹が読める。
こんなことも、今シーズンの彼らたちunder coverとMIYASHITASOLOISTのコレクションから
諭されたことであった。
 今のような世間になると、「壁紙の上塗り」と言うデザインは誰でもが出来るご時世である。
外国ブランドの、外国人デザイナーたちが大枚を払って“広告代”を使ってメディアで騒がれた
からと言って、その「上書き/トレース」が巧いと言うメディア報道はもう過去のレベルでしか
ない。自分たちの持ち得た「美意識と文化度」でどれだけ、心に触れたコレクションに対して
「深読み」が出来るか?これが評論というものであろう。

 もう一つ、今シーズンのパリのメンズで面白い事が起こった。
それは、奇しくも、もう1人この「甲冑」をコレクションアイテムとして発表したデザイナーが
いた事である。彼の名は”Yoshio KUBO”である。N.Y.在住で頑張っているYellowなデザイナー。
 多分、ほとんどのメディアは報じないであろうが、Tokyo からと、N.Y.から機を同じにして
「甲冑」が白人社会のもとで発表された、こんな時代がやっと、やってきたと目論見僕は喜んでいる。
 1年前のCdG、川久保玲のコレクションで、彼女が初めてシリコンラバーを使って創作した
アイテムに「甲冑」があった。しかし、彼女の「甲冑」は西洋のそれであり、やはり、今回の
under coverの覚悟と勇気はそれより、「あたらしく、Super Cool」であった。

 MIYASHITASOLOISTで感じるこのデザイナーのもう一つの美意識とセンスの良さ、
そして、考えこみの深さを商品に落とし込んでいる発想に惚れ込んでいる。
彼が継続してやっている「A parts of the Body」というコンセプトに注目し、時代性を読む。
 ネックカラーであり、今回のハーフ・ベストであり、この彼の発想はやはり、古くて、新しい
コンセプトになってモードの先端を今後ゆくであろう。
 もう、トータルコーディネートをワンブランドでという甘いビジネスにはほとんど無理が始ま
る時代でもある。また、こんな着こなしは、「着こなし」とは言わないダサさであろう。
 そこで、「服でない服」或は、「ファッションでないファッション」という新しい
カテゴリィーを読む。この「服でない服」を寄せ集めて「服」にしていたのが、M.マルタン・
マルジェラの手法の一つにあった。

 この僕の発想視点は、先日のベルリンでのクラブ、“BERGHAIN”での体験であろう。この世界
の最先鋒を誇り、一番入るのが難しいクラブBERGHAINで感じた事が、”What’s means the
Fashion?”であった。僕が今までに見てきたファッションが全くない。
 ほとんど、80%が”ネイキッド“および、それに近い装いなのである。
彼ら彼女たちは、自分たちが「隠したいいところ」或は、「見せたいところ」への”装い“でしか
ないのである。しかしここでも、多くの彼らたちから「ユニフォーム」という視点は読める。
 「個人主義者+自由主義者」たちが求める彼らたちの「自由」は「快楽」を求める。その彼ら
たちがそれぞれ求める「快楽」の為の「ユニフォーム」なのである。その時に”ブランドもの“を
めかしこむ事が既に野暮であるという現実。ここでそんなユニフォームに味方をするのが、
「A parts of the Body」と言うコンセプトが、スーパー・クールなのである。
https://www.berghain.berlin/en/

 MIYASHITASOLOISTの純白なカラースカーフだけ。あとは、”ネイキッド“という想像は
僕を夢心地にした。
 次回訪れる機会が、もし僕の生涯で未だ、あれば、「これで決めてやろう!」

※追記:
 しかし、時代は動いている。こうしているうちに今度は全く異質な顧客が登場し、彼らたちを
新たなターゲットにしなければならない時代がもう目前でもある。
 その新たな顧客とは「GENERASIONーZ」である。
プレタポルテのデザイナーたちはこの世代へのアプローチへの考えは皆無である。
ほとんどの彼らたちはいつも、自分たちの目先の動きしか読んでいない。
あるいは、余裕がないのである。モノとしてのファッションにどれだけの心を動かすか?
あるいはそれなりの価値を見て今までのように高価なものを買う顧客なのか?
 この新しさは女性服の世界ではより、大きく影響を与えるであろう。
例えば、昨年の、パルコのリニュアルで登場させた、「CdG girl」はこの新たな世代を
予知させるこのメゾンだから出来る「先手必勝」MD戦略であろう。
 が、本来は自分たちのブランドを“2階たて”に構造変革が必要になろうがここに来ての、
「コロナウイルス」による中国生産の痛手は大きくこのモードの世界にもブレーキをかけて
しまった。したがって、それぞれの世界での新たな世代へ向けての「スタンダード」と言う
ミッションが価値を生みだろう。
 はじまった、F.W.Parisでは、どのような反応或は読みもしくは企みを読ませて頂けるか!?
或は、「A parts of the Body」と言うコンセプトが発信されるのか?
合掌。:
文責/平川武治:巴里ピクピィス大通りにて。

投稿者 : editor | 2020年2月25日 18:53 | comment and transrate this entry (0)

2020年2月23日

Paris Fashion Week Homme 20/21 A/Wの新しさを読む。

「先月の巴里・20/21 A/W メンズ・ファッションウイークから時代感を読む。」
 
 1)はじめに、一つの提言;
 「もう、皆さんも気がついていらっしゃるでしょう、
白人至上主義によって構築された「近代」のパラダイムはこの200年ほどで
綻びが出始めてきた現実を。
 白人が白人たちのために構築された「近代」のパラダイムの根本原理は植民地政策主義と
産業革命から始まった、「自由主義+個人主義」者たちの「富」への願望とその為の
「二者択一」が主構造。この構造は彼らたちの宗教感覚からの根幹でしかありません。」

 これが既に、今の時代の速度とスケールに持ちこたえられなくなってきました。
ここで新たな次世代のための「近代」の構造を構築するには僕たちのような宗教観の違う
民族の知恵と価値観も混合せねばならない”ワールドマインド・ミックス」な時代性でしょう。

 2)俯瞰私論;
 今シーズンのパリでは、その多くのデザイナーたちは、自分たちの立ち居場所の、そのエッジ
に立ち止まってしまって、”向こう側“へ行けず、誰かが、その向こう側への“架け橋”或いは、
“後ろ“を押してくれるのを待ってしまったことによる無様な“立ち往生”のシーズンであった。
 その為か、その立ち往生を誤魔化すための余剰的な演出のショーが多かった事でも読める
までの、誰かが、「明日」を指差してくれるのを待っている惨めな「壁紙デザイナー」たちが
より、目立ったシーズンでした。
 多くの白人デザイナーたちはまだ自分たちの古ボケてしまった「近代」に固執し続け
「近代ボケ」故に、自分たちの立ち居場所さえ確認できずに今までの「近代」のZAPPING・
COLLECTIONSしか為す術がなかったシーズン。
 また、白人デザイナーメゾンはここ数シーズン来、“黒人たち”と言う新たな顧客に熱い
ビジネス的な眼差しを投げ掛ける事に始終専念した為にメンズモードの世界もただ、
”キッチュ“な、”CAMPな”世界を展開し、ここにも“エレガンス”と言うモードが持ち得るべき
形容詞が見当たらないシーズンが続く様になった。
 そんな中での今シーズンはやはり、UNDER COVERとMIYASHITASOLOISTのコレクションは
他のデザイナーたちを抜きん出、白眉でそれぞれが素晴らしい世界観を見せてくれたシーズン
だった。
 この様な現実に嫌気を覚え、時代観を読み込んだコレクションを行ったのがまずは、
UNDER COVERであり、僕はジョニオくんの時代を読む感の鋭さと勇気とその根性に驚き、
次には称賛した。
 もう一つが、MIYASHITASOLOISTの今シーズンだった。MIYASHITAも彼らたちをあざけ
笑う様に、その自信と熱意と根性によって、すばらしい”GENDER・ELEGANCE”なコレクション
を見せてくれた。
 ショーの会場選び、その空間を見事に使いこなした演出と自分が焦がれるモードへの想いを
音でも見事に奏で雰囲気をもちろん、キャスティングとメイク&ヘヤーデザインも自分が
イメージングした確かな世界観に基づいて完璧な世界観を生み出し、見事なまでの美しい
コレクションだった。
 35年間、パリのモードを見続けている僕が久々に、マヌカンが白い耀きの影の向こうから
現れたオープニングで肌の毛穴が全開してしまって、或る種のアレドナリンが出たのを
今だに覚えている。実際、このパリでも、この様なコレクションランウエーを見ることは
ほとんど少なくなってしまったから余計であった。

 3)私視点ー1;
 『ユニフォームをどれだけエレガンスに、コスチュームをどれだけユニフォームに、』
 この根幹はここ数シーズン来のモードの世界に顕著に現れた「GENDER MIX」旋風である。
 モードが始まって以来、”女性服と男性服”だけの領域の世界に新たに登場したこの中間領域は
これからの新しい社会を生み、新たな可能性をもたらし始めている。
 そして、この中間領域そのもの登場が「近代」が綻び始めた一つの現実でもあることを
認識しよう。
 「女性服」は“コスチューム”のカテゴリィであり、「男服」は“ユニフォーム”と言うモードの
世界の構造は「近代」と言う時代とその社会を背景にほぼ、200年ほどが継続されてきた。
 しかし、60年代後半からの、「CAMP論」そして、80年代の「ジェンダー論」から現実社会の
「GENDER MIX」の登場によってこのモードのカテゴリィーも重複するまの変化と“新しさ”が
この世界の創造性そのものになり始めた。
 そこでモードの世界で具現化されたこととは、「女らしい男」と「男らしい女」というCAMP
な性的ゾーンへのアプローチである。
 よって、考えられるのが、前述した、
『 ユニフォームをどれだけエレガンスに、コスチュームをどれだけユニフォームに、』
と言う新しいコンセプトである。これは今シーズンも過大な影響を残した。
 しかし、この傾向を多くのデザイナーが顕著に表したのは服のデザインではなくランウエーの
モデルのキャスティングであり、メイクやあのブランドの様に物議を醸し出したヘヤーデザイン
によるところが多かった。
 しかし、MIYASHITASOLOISTに登場したそのメインアイテムの”拘束服“からのトップスは
全く、「ユニフォームを美しく着れるエレガンスに、」創造されていたのは注目に値した。
 そして、このような時代になると、メンズ・ファッションのメインアイテムである“カジュアル
スポーティウエアー”はより、着る人間の豊かさが渇望するまでのニュアンスを考慮した、
”コージー・ウエアー“と言う新らたなカテゴリーが考えらる。
 或いは、「ニュアンスのユニフォーム」とでも呼べるあらたな「ユニフォーム」の世界が
このメンズの新しさを創造始めた。
 
 4)私視点ー2;
 今シーズンにおける、所謂「トレンド」の代表の一つに、「グラフィズム」がある。
 「素材感+オーバーサイズ+レイアード+パッチ・ワーク+グラフィズム+ZAPPING」が
挙げられるトレンドだったが、中でも特に、目立ったのはそれが分かり易いからであろうか、
“グラフィズム”はいろんなデザイナーがその趣を凝らしていた。
 中でも、僕の印象では、UNDER COVERのとCdG H.P.のグラフィズムが世代間相違の
良い例になろう。
 先ず、CdG H.Pはこのブランドらしさを演出しただけで、何も新しさはなく、無難なビジネス
を過度に考慮したの範疇のグラフィズムであった。その根幹に80年初めにミラノで一世を風靡し
た“メンフィス・デザイン”とそのバリエーションでしかなかった。これでは若い世代は彼らの
無知も含めて新鮮にも伝わらないし、僕たちの世代からはもう使われすぎて古い感じしか残ら
なかった。ただ、”CdG H.Pらしさ“と言う範疇のコレクション。むしろ、コレクションで印象に
残ったのは、未だ短めのパンツ丈とそこから覗かせた“ソックス”だった。スニーカーが下火に
なってきた昨今では、僕の好きな古いタイプのソックスが復活しましたね。
 それに比べれば、UNDER COVERのグラフィズムは素晴らしかった。そして、上手かったし
新しかったと言える。
 ここでも「古ぼけた近代」を蹴落として、あえて、白人世界へ挑んだ彼の「YELLOW MIND」
に拍手。中でも、彼の今回のコレクションで見せたジョニオくんが全てを手掛けたグラフィズム
観は白人世界も含めた“ミレニム世代”にはたくさんの「共通言語」を与えた。彼らたちは、
「ゲーム世代」でもあるからだ。当然“漢字”を使ったグラフィズムである事、読めない漢字を
彼らたちのゲーム世代に共有するグラフィズムに仕上げられている。
結果、これはCdG H.Pのそれとは大いに差異がついた新しいものとなった。
 CdG H.Pブランドも日本ブランドとされているが、現在のように極論すれば、派手さと
「ユダヤ人ウケ」を狙ったデザインコンテンツが今後、どこまで通用するか?僕は疑問に感じて
しまったシーズンであった。
 もう、CdG H.PやJUNYA-MANそれに、RAF、L.V.、O.W.では無い、UNDER COVERや
MIYASHITASOLOISTという“YELLOWなオタク”メンズ・デザイナーの時代到来と感じた。
文責/ 平川武治; 

投稿者 : editor | 2020年2月23日 23:41 | comment and transrate this entry (0)

2020年2月20日

MIYASHITASOLOISTのショーに撃たれた衝撃という快楽。

ーーー「本当は、もっと早くに書けていた原稿だったのに。」
「MIYASHITA THESOLOISTのショーに撃たれた衝撃という快楽とは、
ーーー”今日も楽しい道化仕事。“」

 ー「かまって欲しい。」;
 『 “生きもの”は全て、
「かまって欲しい」と言う
欲望あるいは、願望を持っている。
その生が激しいものだけに
あるいは、激しく生きるのもだけのに許された
強欲でもある。
そして、この究極は、
「温もり」を求め、“愛”というこゝろの有り様に
行き着くだろう。』

ーーーーーー
僕の私生活。
今、年老いた猫と共棲生活を
させてもらって、もう10ヶ月ほどになる。

共棲生活で知った事は
「かまって欲しい」がために
生きていると思わせるまでの日々の彼女である。
多分、彼女は「人間に成りたがっている猫」なのであろう。

飼い主を喪った経験からか
「孤独」と「危なさ」言う時間が長かったからか
身についた生き方なのであろう。
何しろ、彼女は、
「かまって欲しい」珍らしい猫なのである。

ーーーーーー
『ジョーカー』と言う映画があった。
主人公、アーサーの人間味の根幹は、
「かまって欲しい」人間が
世間で生きようとしたが為に、
“ニヒリズム”と言う快楽を感知したと読んだ。

「孤独」と「寂しさ」は違う。
その差異の根幹は人間が持つべき
“自己の強さ”でしか無いだろう。
あるいは、その求め方が違うのであろう。

「孤独」は自らが自らを求める。
「寂しさ」は他者に自らを求める。
そして、「孤独」は“繋がり”を生み出すが、
「寂しさ」は“群がり”を生むまでしかない。

ーーーーーー
それは
「ドア」の外、
「白い耀き」。
あの“ラストシーン”が
プロローグで始まった、
“MIYASHITA THESOLOIST”のランウエー。

とてつもなく、せつないが
それ以上に優しさというロマンティズムが
風のざわめきのように
人間に纏いつきながら漂う。

「かまって欲しい」人間が発する
“美意識”とはこんなに儚く、切ないものなのかと
人生における、
一度限りに見せる想いと覚悟。
全てに、細やかな神経と湿りまでも触れる
優美過ぎたショー。

“The life is comedies.”
”ファッシズム”が
ヨオロッパに台頭し始めて来た‘30年代初め、
C.チャップリンの言葉が
繊細にそして、このデザイナーの拘りが
白という空白に
市川孝典と共に手掛けたグラフィズムが
燻し銀に仕上げられる。

「世間」と「病院」という関係性。
或いは、「仮面」と「ユニフォーム」という関係性。
ー “The mental illness。”

拘束衣という”白衣“と拘束手袋たち、
“自由”を封じ込めるための衣装具。
或は、“自由”を目覚めさせるための衣装具。
解体されて生きながらえるであろうベスト
そして、ソックス。

ジョーカーがこゝろに携えていた
アイロニックな「黒い薔薇」或いは、
オマージュとしての「黒い薔薇」。
そして、アイライン。

これらを丁寧に
敢えて選んだ MIYASHITA が欲する“ニヒリズム”が
綺羅りと。
その耀きが一瞬にして、
彼の美意識と願望を魅せるまでに
煌めいたコレクション。

「 “ユニフォーム”をどれだけ“エレガンス”に!
“コスチューム”をどれだけ“機能美”に!!」

MIYASHITA はこの現代の価値観を確りと掴んでいる。
綻びて来た「近代」と言う時代性に
”Don’t serious“と投げかける。

ーーーーーー
“My life is joking” と生きている僕。
僕は”人間“になれるのか?

現代のような時代、
「安全のファッシズム」或は、
「キャンプなファッシズム」な世間は、
多くの人間の願望に、“ジョーカー願望”があるだろう。

貧しさ故の「願望」と、
富を持ち得たが故の「ジョーカー願望」。
この現代社会を玩んでいる現実は後者たち。

「何が真実」が解らなくなって
「真実っぽさ」だけが充満してしまた
この“世間”という現世は、
決して、誰もマジに「かまってくれない」。
 「今日も楽しい道化仕事。」』

P/S;
“ People expect you to behave as if you don't ”

ーーーーーー
「余談らしきもの、」
僕が「ジョーカー」を見てわかった事、
「母一人、子1人」というミニマムな家庭。
アーサーの育ちが同じだという事。

僕の青春には
こんな幸せな時があったのだ、
「左には道化者。
右には厄介者。
真ん中に挟まれた俺たち。」(70年代のソング/挿入歌の一つ。)

今の僕は、
「落ち葉は風を恨まない。」(座頭市より。)

 「おわりに、」
 僕の不祥事でこんなに遅れてしまった原稿、
宮下くん、すみません。
 時間が経って、想い出すほどに、本当に、美しい時間だった。
選ばれた空間と演出された空間も、音楽の選曲も、コーディネートのエレガンスさも、
僕には、全てが“SUPER COOL !!”であり、
確実に、世界は新たな日本人デザイナーを認めたであろう、ありがとう。

 巴里でIPadが故障し、頭脳が止まり、
伯林のクラブ『Berghain』での数時間で
脳味噌は完全に蕩け、時間も止まってしまったが、
 “世間”の時間は止まらず「不確実な事」がいつものように、
メディアによって「真実っぽく」煽られ拡大している。
 「コロナウイルス」。
誰も未だに、「確実な事」が判っていない、「真実」が語られていない。
 誰かが、「これはテロである。」と叫ばない!?
「ジョーカー」に憧れるが、
誰も、「ジョーカー」にはならないという真実が時代性???

合掌。
文責/ 平川武治;巴里ー伯林ー鎌倉ー巴里:

投稿者 : editor | 2020年2月20日 00:47 | comment and transrate this entry (0)

2020年2月11日

『 The Club BERGHAIN in Berlin.で彷徨う。THE HAPPY CHAOS !! 』

『 ベルリンのクラブ “The Club BERGHAIN”彷徨記。』

 このクラブ “BERGHAIN”は世界で最もその存在価値を耀かせているベルリンならではの
“Super Extra Cool”なクラブである。
<https://www.berghain.berlin/en/>

“People seek their respective hedonism.”
/29th. Jan. ‘20:

『 この中は
一つの大きな街。

無機質で無表情な空間。
かつては人間が生活の一部が
営まれていた空間とは思えない深い空間。
そして、自らを映し出す術のない空間。

絶え間なく続く激しさの一つのリズムに
委ねられた波動は身体をより捻るが如く
ただ、身体を液状化する。
かつての音は耳が機能したように
ここでの波動は内臓を機能する。

その存在を保って、個人主義者たちが、
自由を求めて本能のままに
自分たちが欲するリアリティをつくる。
ここではヒエラルキィがない、
虚飾がない、
仮想空間でもない、
SNSもない、
繋がらない、ここだけの世界。

ここにはファッションはない。
外の世界のあるべきものとしての
虚飾なるファッションの世界は皆無。

この空間では、ファッションとは皮膚&スキン。
かろうじて、選ばれて身につける一片だけが
ファッションと呼ばれるもの。
自らが見せたい自己、
自らが隠したい自己。
そのための究極のミニマリズムが
この世界でのファッション。

彷徨い疲れた個人主義たちは、
持ち得たと思う自由を術に、
より、真淵なる
それぞれの自由を求め探すために
この世界へ辿り着くのであろうか。
或いは、旅発つのだろうか?

究極なる自由とは
それぞれが求める快楽?
あるいは、ここでしか求められない自由、
それが快楽, ”HAPPY CHAOS”.

人間はそれぞれの属性を求める。
それは国籍ではなく、民族でもあり、
寧ろ、生き方に由来し始める。
彼らたちの生き方の最終レベルには
それぞれが求める、快楽がある。

モードの最終的行方も
この“快楽”にたどり着く。
「快楽のためのユニフォーム」という
古くて、新たなカテゴリーが生まれる。
生殖感覚が研ぎ澄まされる。

ただ、自分たちが探し求める自由のための
人はそれを快楽と呼ぼうが、
快楽のカテゴリーに対してのユニフォームが
今後のファッションの根幹。

全く、このTHE BERGHAINは、存在するメトロポリス。

とにかく、すごかった!!
新しいもう一つの国を見たような、
僕は少年のような老人になってしまった。 』

***
“People seek their respective hedonism.” 
/ 29th. Jan. ‘20:

“ In this
 One big city.

 An inorganic, expressionless space.
 In the past, humans were part of life
 A deep space that you can't imagine as if it had been run.
 And there is no space to reflect yourself.

 One rhythm of incessant intensity
 The entrusted wave will twist your body more
 Just liquefy the body.
 The old sound was like the ear worked
 The waves here function the internal organs.

 In keeping with its existence, individualists
 Instinct for freedom
 Create the reality you want.
 There is no hierarchy here,
 There is no fake,
 Not a virtual space,
 No SNS,
 A world just here, not connected.

 There is no fashion here.
 As what the outside world should be
 There is no fancy fashion world.

 In this space, fashion is skin & skin.
 Barely, only one piece selected and worn
 What is called fashion.
 The self that I want to show,
 The self that you want to hide.
 The ultimate minimalism for that is
 Fashion in this world.

 The wandering and tired individualists,
 Using the freedom you think you had,
 More deep
 To look for each freedom
 Will we get to this world?
 Or will you leave?

 What is ultimate freedom?
 The pleasure that each seeks?
 Or the freedom required only here,
 That's pleasure, "HAPPY CHAOS".

 Humans seek each attribute.
 It's not a nationality, it's a nation,
 Rather, it begins to derive from a way of life.
 The final level of their way of life
 There is pleasure that each seeks.

 The final destination of the mode
 We reach this "pleasure".
 "Uniform for pleasure"
 Old and new categories are born.
 The reproductive sensation is sharpened.

 Just for the freedom we seek
 People call it pleasure,
 Uniforms for pleasure categories
 The foundation of future fashion.

 Indeed, this Berghain is a metropolis that exists.

 Anyway, it was so cool & amazing !!
 Like seeing a new country,
 I have become an old man like a boy.  "
/ By Taque.HIRAKAWA:

※後記;
    この衝撃の体験から数日後、僕は76歳の誕生日を迎えた。
この75年間、こうして健康で僕の好きな世界に身を委ねられ、生きてこられた僕の人生と言う
“リアリティ”とは多くの人たちの優しさと愛によって助けられ、支えられ後ろを押して頂いて
来た“不連続の連続”と言う恵まれた時間の流れと関係性の繋がりの賜物でしかありません。
 改めて、この誕生日という記念の日に皆様に感謝と御礼を申し上げます。
そして、僕は先日のベルリンでのこの“The Club BERGHAIN”へゲストで連れられ、
彼のガイドで異空間を彷徨った経験を新たな歳の始まりの儀礼として
今後への” The force of Curious Chaos“として、こゝろに残し、
母が生きれなかった時間を自分らしく豊かに生きたいと誓うのみです。
合掌。
平川武治:

※ Postscript;
 A few days after this shocking experience, I reached my 76th birthday.
The life I have been able to survive and live in my favorite world for the past 75 years
"Reality" is helped by the tenderness and love of many people, supported and pushed back
It is only a gift of the connection between the blessed flow of time and the relationship that has come.
 I would like to thank and thank everyone again on this anniversary of this birthday.
 And I was taken to this "The Club BERGHAIN" in Berlin the other day as a guest
and with him.
 I want to leave the experience of wandering in a super cool space as a ceremony of the
beginning of a new age as “The force of Curious Chaos” in the future,
and to leave the time when my mother could not live richly like myself I only swear.
Gassho/ The Deep Prayer.
Taqueji Hirakawa:03 Feb. ‘20:

投稿者 : editor | 2020年2月11日 22:01 | comment and transrate this entry (0)

2020年1月16日

UNDER COVER, 三十周年目のコレクション、”動き! 蠢き!! そして、創生!!!“。/其の一:

『 ”動き! 蠢き!! そして、創生!!!“した。』

 “caught in wretched obsession in this world of carnage from past to present.”
「それ執心の修羅の道、昔も今もかわりなし。」

「 30年間も続けて来た者だけが発せられるこゝろである。
60回以上のコレクションを創生して来た当事者しか持てない覚悟である。
そして、自ら生きてきた時間の2/3をすでに費やしてきた
人間しか想う事ができない念いでしかない。

その、こゝろと覚悟と念いがコレクションとなって昨夜、演じられた。

彼、高橋盾とそのチーム、“UNDER COVER”だから持ち得た
“リアリティ”と“関係性”によって成されたコレクションだった。
新たな“魂”を見せてくださって、
ありがとう、ジョニオ君。
ご苦労さま、”UNDER COVER”。

彼もやはり、既に
白人至上主義の元に構築された「近代」と言う時代のパラダイムが
完全に綻び始めているリアリティを感じてしまっている
未だ、多感繊細なる独りの日本人である。

嬉しく、震え、僕の内なる”YELLOW”が歓喜した。
30年という彼しか持ち得なかった、時間、
記念すべきリアリティに
このような、”こゝろと覚悟と念い“溢れるコレクションを為した
彼へ畏敬の念を感じた。

高橋盾は
”動き! 蠢き!! そして、創生!!!した。“
次なるに迎える「シン・近代」の彼方を、、、」
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2020年1月16日 16:36 | comment and transrate this entry (0)

2020年1月15日

「補足版/[ Homo Deus ] 新たな「近代」を念い、考えるために。」

『 [ Homo Deus ] 私的読書感と共に、』をより、理解していただく為に、
「近代」がどの様にほころび始めてきたかをモードの世界はどの様に捉え始めたか?を論じる。


 僕は唐突に同じ著者の1冊、「ホモゼウス」を紹介し、この本を叩き台として
僕が危惧する今後の“近未来”の世界が、「近代」と言う時代の“パラダイム”では、
もう全てが、政治、経済そして、民主主義と地球環境危機と気象危機それに、富の格差や人口
減少化などの現代社会が持ち得てしまった諸問題が既に現実になりつつ、諸限界に達している
と言う視点をモードの世界の最近の変化から読み込んだのがこの補足版、『[ Homo Deus ] 私的
読書感と共に、』である。

*はじめに、/
日本では昨秋に翻訳本が出版された、2冊の本を紹介しておこう。
2015、16年に出版された「サピエンス全史」(上下2巻)と「ホモ・デウス」は(上下2巻)は
最近では珍しくヨオロッパにおいて三十万部を越えるベストセラーを記録した本である。
著者は2冊ともユヴァル・ノア・ハラリで、彼は’76年生まれのイスラエルの歴史学者であり、
TEDでも喋っているし、「サピエンス全史」はNHKでも特番が組まれたから既に、既読された方
も多いであろう。
 僕は「ホモ・デウス」に興味を持ったが、やはり、「歴史家」という傍観者が書いた情報量
満杯の「データー至上主義」に未来を委ねたい白人が書いたとても乾いた、“近未来歴史書”と
いう印象は免れなかった。
 世界でも、「近代」と言う時代が既にほころび始めてきた事を容認する人たちが増えて来て
いる。今春、ひょんなことから鎌倉の自宅を訪れてくれたトム・サックスと話した折も最後は
この話題になり、彼はもうすでに綻びどころか、破れ始めていると言う旨のことを話して帰って
いった。きっと、彼も、このハラリの本を読んだのであろう。(?)
 「近代」の次なる時代とはどの様な時代が到来するのか?その時の「人間の存在価値とは?」
あるいは「人間の役割とは?」または、「人間らしさとは?」に疑問と想像を求める迄も無く、
アルゴリズムとテクノ宗教を信仰する「白人至上主義者」の一人が書いた本である。

*モードの現在に眼差しを置くと、/
ほころびて来た近代のルールとシステムを未だに根幹にした現在の行為は今後変わらず所詮、
「上塗り」作業でしかなく、世界を変えるまでの新しい世界を生み出すシステムでは無い。
ここでは、ただのヴァリエーションを増やすだけの世界。ということは、無駄と複雑さを蔓延
さすだけの行為。そしてここでは、彼らたちしかこの「近代」構造システムによって得られる
「利権/ライセンス」或いは、「コラボレーション」を発展増長するだけの世界でしょう。
最終的にはこれら「利権」を持っているものが一人勝ちしている世界でしかない。
 そして、そんな彼らたち、その多くは「ラグジュアリィ・ファッションビジネス」でこの世界
をリードしている白人社会は、ここに「文化度」を付加・構造化するために、モードの世界も
新たに「FOUNDATION・BUSINESSES 」の世界を構築してしまいましたね。
 ここでは売れなかった「在庫」も選ばれて、諸サンプルズを自社内で保管しておくことより、
保管場所を変えること即ち、「FOUNDATION」を設立しここで保管すると言う手法ですね。
 ここには、ブランドビジネスの根幹である、「イメージ」+「来歴」によって全く、「新たな
価値」が生まれると言う手法を見つけ出したのです。
 この手法は何も全く新しくはなく、むしろこの手法も彼ら、白人至上主義者たちが「近代」を
構築した際に生み出した、「アートビジネス」が根幹でしょう。
「ないものを、あるように見せかける」為の仕組みと装置を構築し、「ないもの」から付加価値
と呼ばれる“価値”を生み出す装置である。このビジネス構造の根幹は「文化は武器である」と
言うまでのある種、白人文化至上主義者たちの予見の見事さが功を生み出した強かなビジネス
モデルの世界です。僕がよく言っている、“The fashion is always in fake.”が根幹だからです。

*オークションハウス「サザビーズ」の場合或いは、これからの“ブランドビジネス”の
新しさとして、/

 例えば、あのアート・オークションを商っているご存知「サザビーズ」は、80年台代はじめに
アメリカの不動産業で富裕層に成り上がったアルフレッド・ドーフマンが買収しその後、彼の
新しいアイディアによって、現代のような「アートビジネス」構造が構築されたと言う事実を、
日本でも、昨今のアートキュレターと称している輩たちはどれだけ彼の事を知っているか?
 それまでの「絵画作品」はその殆どが「骨董商」的商い手法で、古い「ファイン・アート」と
称される絵画を発掘品と宝石装身具と室内装飾品類を骨董商よろしく、商っていたこの商売も
例に漏れず、「関係性ビジネス」です。その後、この世界をオークション方式を採用して商って
来たのが「旧・サザビーズ」。そして、買収後の「サザビーズ」のA.ドーフマンによって現在の
規模と構造とシステムに生まれ変わった。当然ここには新たな商材としの「現代アート」と言う
分野がパリから、‘68年以降のN.Y.C.へ移って来たことも由来しているでしょう。
 ここで、この当時ロンドンの「サザビーズ」を買収して、新たな「アートビジネス」を構築した
A.ドーフマンが成した新しさを紹介しよう。ここには、現在の「ラグジュアリィ・ブランド
ビジネス」の新たな行方が読み取れるからです。多分、LVMH社のM.アルノーは彼から多くの
知識を学習したのであろう。
 まず、彼が幾らで「サザビーズ」を買収したか?
その買収価格は1億3900万ドル(当時のレートで、)でした。
 そして、彼が自分の会社になって為したこととは、これまで排他的だった美術市場へ新規参入
者たちをウエルカムし始めた。当然、この世界は先にも述べた、「関係性」が信条のビジネス
だからです。
 しかし、彼はそれまで、閉ざされていた”顧客の窓“を開いたが、決して「玄関戸」は変わらず
閉じている。そして、新たな、美術品投資家を開いた窓から入ってくる作家とともに、新たな
顧客層として育成化した。その根底に彼は、芸術を商う事も、“小売店で扱う日常の商品の一つ
と見なしていた”と言う。
 そして、具体的に彼がイノヴェーションした事とは、
1)資金融資システム
2)保険システム
3)修復、保管等のサービス & システム
4)メセナのためにスタッフたちをアートに関心のある企業への派遣システム
5)オークション前の“下見会ツアー”システム
6)宣伝、キャラバン等のプレス広報活動
 これらが代表とされた改革事項であった。結果、美術市場を”ブランド化”させたのである。
彼が目指した、”ブランド化“とは、「商品/モノ」と実際の価格の関連性をいかに、世の中に
強く定着させるか?そして,新たな”価値”を生むこと。その為には、"Provenance/”来歴”という
作品のアイデンティティをリアリティ化する事であり、その役割とプロセスが大切な機能となる
ことを読んだ強かさな発想であろう。
 “Provenance means the origin or history of something.”by John Myatt:
このアートビジネスの世界では、”絵画作品“の所有権の移転歴が作品の価値を生む最も重要な
ファクターであることの事実を認めた上での、” 移転歴連鎖記録“の作成に務めた。
 ”来歴“とは、『画家のアトリエから美術館へ、オークション会社からコレクターへ、絵画が
どのように動いたのか、その軌跡を明らかに示す一連の書類―受領書や送り状、手紙展覧会の
図録―と云ったものが事実上の作品の芸術的価値を構成する。その年記の中に著名なギャラリィ
やコレクターが仲介していた事を記録出来ればいい。作品の名声は作品自体の質だけに基づく
のではなく、その血統によっても決まってくる。』これが彼が構築したロジックな”来歴”論で
ある。そして、コレクターの心理とは『その絵画が持ち得た”神話”の一部を共有する事に優越感
を持つ事である。』と、読む。
 では、美術館の仕事とは、その一つは、作品の展示展観。即ち、プレゼンテーション&
プロパガンダ。そして、教育と保管管理と作品の情報制作とその管理と広報である。
 それに,美術館のもう一つの重要な仕事として,“来歴”の作成がある。この”来歴記録リスト“
の作成と保管する人が、立場の高い「ARCHIVIST/アーキヴィスト」と呼ばれる人たちである。
 結局、彼、A・ドープマンが為した根幹とは、「美術の世界での3つのポイント」を熟知した
教養と経験値が現在の「サザビーズ」をイノベーションしたのである。
 その3つとは、「1)敷居の高さへの挑戦。2)価値/ヴァリュウ。3)流動性。」であろう。
これらは、”窓を開けて新たな空気を入れ替える“ことに他ならないだろう。
ただし、「玄関ドアは閉めておけ!!」である。(これはユダヤ人しかわからない。)
 さて、これでお解りであろう、モードの世界はもう既に、この「アートビジネス」の一端が
「ラグジュアリィの世界」へも押し寄せて来た現実。90年代も終わりから、プラダをはじめ
とした各ラグジュアリィ・ブランドの“ファッション・ファウンデーション”の設立がここ10年間
ほどのファッションビジネスの新しいリアリティである。
 自分たちが選んだアーカイヴスはメゾンで保管していればそれらは全て、課税対象となるが、
“別棟”を構築してそこで保管すれば、課税対象にはならず、むしろ、新たな価値が生まれる。
その選ばれたアーカイヴスの価値は先述の「アート・ビジネス」に寄り添えるまでの価値を
生み出す。そして、昨今のSNS機能を駆使すれば、アーカイヴスの“来歴”が飛び交い”流れる“。
と言うことは、「美術の世界での3つのポイント」がクリアー可能な構造なのである。
 例えば、より具体的な仕組みでは、昨今の「コラボレーション」と言うビジネス形態である。
どこのブランドと“コラボ”をしたということが“来歴”となって、そのデザイナーブランドの“名声
=価値”が創成される。ここにもユダヤ人特有の「関係性ビジネス」の根幹が漂っている。
 ここまで書くともう,お解りでしょう。
今後のモードの世界もこの方向性が必然性を持って来ます。
そうです,“ARCHIVES"の世界をどのように"PROVENANCE"して行くか。
 ここで,モードの世界にも”ARCHIVES”を記録し,それを管理活用して行く ”ARCHIVIST
/アーキヴィスト”という新たな役割が必要になるのがこのモード産業の近未来でしょう。
 未だ,日本のファッション産業は“市場”構造でしかありません。
作られた鮮度のあるものをその賞味期間中にどれだけ売り切るか?そして、後は,見切り、
セール販売にかける。この繰り返しですね。
 今、この”アーキヴィスト”に近い実ビジネスを始めたのが、青山にあるヴィンテージショップ
でしょう。ランウエーでそのシーズンの「壁紙」になったデザイナーモノのオリジナルをネット
や古着屋からかき集めてきてそれなりの高価な値段をつけて「リース&セールス」と言う商いを
始めています。パリからのそのレベルのデザイナーたちが東京へきたら訪れるこの手の”有名店”に
なっています。例えば、ヴァレンシャガアのデザイナーが探していたものは90年代までのM.M.M.
モノ。これらのオリジナルがここでは買えると言う迄のビジネスです。
 この商いの新しさは“ アーキヴィスト”的でしょう。
ここで,やはり,“モードビジネス”ということを新しさとして考える必要がありますね。
デザイナーは誰でもがなれる時代性になってしまった、この「近代」の崖っぶち現象の一つで
しょう。

※[Adolph Alfred Taubman /アルフレッド ドープマン:A&Wオーナー/(born January 31,
1924): American real estate developer and philanthropist.
Taubman bought the ailing British auction house, Sotheby's, in 1983.]
参照/https://en.m.wikipedia.org/wiki/A._Alfred_Taubman

*ファッションの世界も「近代」という時代の産物です。/
 1832年にミシンが発明されファッションの産業化が促進発展した。(シンガー1号は1850年に
開発された。)その現実は「男性」と「女性」という二項対立の世界観をこのファッションの世界
でも確立し、社会的存在価値を尊ぶ「男性」世界と”求められる女性観“がその存在価値である
「女性」世界にモードの世界もそれぞれの領域を築き、「Femme Objects」を根幹として
「進化・発展」を「近代」という時代の表層を被覆化して来たのがヨオロッパにおけるモードの
世界でした。
 20世紀も終わりの15年ほど前に初めて登場した、“ジェンダー論”と当時の「GAY」たちへの
讃歌をこのモードの世界も歌い始めたが、その現実の「男性」服と「女性」服の関係性は事実上
現在まで変わらず依然、「メンズ」&「レディース」というカテゴリーで展開されて来ている。
 しかし、最近のモードの新しさとは、ここ数シーズン来、社会的に問題化され始めて来た
「ジェンダー/Lgbti」を新たな顧客として意識しイメージングにも取り扱われ始めたことです。
これは従来からの「男性」と「女性」の性的カテゴリィーが崩れ始め、新たな“ゾーン”が認めら
れ始めたという“新しさ”でしょう。
 気がつくと、「男性」と「女性」の間に、「GAY & LESBIAN」が参入しそして、現在では
その“グレーゾーン”であった性的ゾーンそのものが社会的な衆目を浴びるまでに至り、「男性」
と「女性」の中間ゾーンを新たなモードの領域とした創造性が現れ始めた事です。
 「男性」モードは、「ユニフォーム」(スクール、スポーツ、ミリタリー、ワークスそして、
ホワイトカラー)というカテゴリィーであり、「女性」モードは「コスチェーム」(民族衣装、
歴史衣装と舞台衣装)というカテゴリー でその“2項対峙”のバランスを図って来たのが現在までの
「モードの近代」の根幹でした。
 しかし、先シーズンのパリ・メンズコレクションに於いてもこの「ユニフォーム」と
「コスチューム」がビミョーに重なり始めました。
(この好事例はやはり、「CdG H.P.」のオペラ”オーランドの衣装“コレクションでしたね。)
そのコレクションにおける現れは、アイテムやコーディネートそして、使われる素材そして、
後加工としてのプリント、イメージングとしてのヘヤーやメーキャップに顕著に”新しさ“を
コレクションでランウエーさせたのが昨年の6月のパリメンズ F.W.のランウエーの楽しさでも
ありました。
 この、“「ユニフォーム」と「コスチューム」がビミョーに重なり始めた”ことによって,
先シーズンのパリは、僕は「ニュアンスのユニフォーム」と「キャンプなコスチューム」という
新たなボキャブラリィーを創出した程です。
 従来は、「ユニフォーム=機能性」と「コスチューム=エレガンス」の世界でしか無かった
このモードに新たに、「気分やニュアンスのユニフォーム」と 「ビミョーな存在感ある=CAMP
なコスチューム」という発想が幾人かのデザイナーたちのランウエーから感じ取ることが出来、
それそのものが面白く、新鮮さが感じられたのです。
 ここでのMD的発端はその数シーズン前から白人たちがイエローに続く新たな顧客として、
“黒人”たちを自らが呼び込んだ事でこの現代の表層の新しい動きはより、その可能性が広がり
モードの世界は素早く“黒人”たちと“GENDER”たちを両方味方にし、「時代の壁紙」としての
“CAMPな新たなマーケット”戦略が生まれたと読める。こもう一つ、の流れを素早くクールに
仕掛けたのが、ブランドLV.だったことで余計にその流れに勢いがついたのが現在のパリ。
 もう一つ、僕はこの新しさは、「近代」そのもののある根底が中和・溶解され始めた証と
感じ、「近代の終焉」が 近づき始めているという視点をも改めて感じたのです。
 
*おわりに、/
 しかし、モードの世界は常に、“逃げ足の早い”世界です。いわゆる、時代の「壁紙」をデザイン
する「壁紙デザイナー」とは、「はったりと逃げ足の早さ」のタイミングの旨さがデザイナーの
身上、良し悪しを決定していることも確かです。
 故に、彼らたちは、まだ「近代」のパラダイムの中でただ、時代の表層の「壁紙」を張り替え
「近代」の綻びを繕う作業を繰り返すだけなのかあるいは、根幹から「近代」を創生する作業
例えば、「縫わなくてもいい服」や、「サスティナブル/シリカル」をチョイスするのか?
或いは、これらが“共生“された世界を求めるのか? 
 これらの処方の選択は、持ち得た生活のリアリティを服作りの根幹にして、自分の世界観と
倫理観ででブランドをディレクションしてゆく、新たな「ファッション・ディレクター」に
委ねるのか、自分が気になる探し求めたイメージやSNSによって服作りを変わらず繰り返している
「ファッション・デザイナー」に未だ、委ねなければならない世界なのか?
このモードの世界の現在点は、例えば、現在世界の幾つかの都市、香港やパリで起こっている、「終わらないデモ集会」と言う”リアリティ“がやがて、”イメージによる政治体質“を変革させ、
「近代」のパラダイムが、これからの”地球との新たな「関係性」“を構築すると言う迄の世界観
に通じるのか?
 僕が見続けてきたこの35年のパリモードの世界はこのような視点からは然程、変化がない、
変わらず閉ざされた世界だと言うことでもありますね。言い換えれば、モードの世界の「進化」
とは、新たな創造性が消滅し始めたためにその速度が年々、スローになって、「昨日が新しい」
という迄の世界で戯れているのでしょう。
 「次なる近代」のモードの、その作り手とは「A.I.」たちに着せる服をデザインする輩たちが
斬新なデザイナーと言うまでの世界なのでしょうか!?
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2020年1月15日 08:31 | comment and transrate this entry (0)

2020年1月11日

[ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。−第二部/

[ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。
第二部;
初稿/令和元年八月:
参照/「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/著名;ユヴァル・ノア・ハラリ
(株)河出書房新社;2018年発行/

 *とはいえ、本書を締めくくる第三部では、
この人間至上主義の夢を実現しようとすれば、新しいポスト人間至上主義のテクノロジーを
解き放ち、それによって、ほかならぬその夢の基盤を損なうだろうと主張することになる。
 人間至上主義に従って感情を信頼したおかげで、私たちは代償を払うことなく現代の契約の
果実の恩恵にあずかることができた。
 私たちは、人間の力を制限したり意味を与えてくれたりする神を必要としない。
消費者と有権者の自由な選択が、必要とされる意味を全て提供してくれるからだ。
 それならば、消費者と有権者は断じて自由な選択をしていないことに私たちがいったん
気づいたら、そして、彼らの気持ちを計算したり、デザインしたり、その裏をかいたりする
テクノロジーをいったん手にしたら、どうなるのか?
 もし全宇宙が人間の経験次第だとすれば、人間の経験もまたデザイン可能な製品となって
スーパーマーケットに並ぶ他のどんな品物とも本質的に少しも違わなくなったときには、
一体何が起こるのだろう。

 *個人主義と人権と民主主義と自由市場という自由主義のパッケージに支配されている。
とはいえ、二一世紀の科学は、自由主義の秩序の土台を崩しつつある。科学は価値にまつわる
疑問には対処しないので、自由主義者が平等よりも自由を高く評価するのが正しいのかどうか、
あるいは、集団よりも個人を高く評価するのが正しいのかどうかは判断できない。
 一方、自由主義も他のあらゆる宗教と同じで、抽象的な倫理的判断だけではなく、自らが事実
に関する言明と信じるものにも基づいている。

 *そもそも「欲望」を選ぶことはできるか?(P-106)
私は自分に欲望を選ぶことは出来ない。欲望を感じ、それに従って行動するにすぎない。
魂など存在せず、人間には「自己」と呼ばれる内なる本質などないことを一旦、受け入れれば
「自己はどうやって自らの欲望を選ぶのか?」と問うことに意味なさなくなる。
「本当に生き物に自由意志がないならば。」生き物の「欲望」を操作し、意のままにさえできる
可能性がある。
 より、日常的な自由主義の目標を達成するためにも、自分の脳内の電気回路を操作する
だろう。人は外部から気を散らされて、自分の最も大切な真の欲望に気づき損ねることが多い。

 *「思い出」を消去できるシステム。(P-123)
私たち人生における重大な「選択」ーパートナー、キャリア、住まい、休暇などの選択の大半は
物語る自己が行う。
 経験する自己と物語る自己は完全に個別の存在ではなく緊密に絡み合っている。
物語る自己は重要な原材料として私たちの経験を使って物語を創造する。すると、その物語が
経験する自己が実際に何を感じるかを決める。自分を物語る自己と同一視する。
 私たちが「私」というときには自分がたどる一連の経験の流れではなく頭の中にある物語を
指している。
 自由主義の疑わしい信念は、私たちが生まれてから死ぬまで変わることのない単一の
アイデンティティがあるという感じを常に維持することから生まれている。

 *国家や貨幣や神と同様に自己もまた想像の物語である。
自分の見た映画や、読んだ本、耳にした演説、耽った白日夢と混ぜ合わせその寄せ集めの中から
自分が何者でどこからきて、どこへ行くのかにまつわった物語を織り上げる。
 この物語が私が私に、何を好み、誰を憎み、自分をどうするかを命じる、すべてただの物語に
過ぎない。

 *それならば、人生の意味とは?何なのか?(P-130)
自分に自由意志を使って自分の人生ばかりではなくこの世界全体の意味を生み出すべきなのだ。
現代の自由主義者たちは、個人の自由な選択が人生に意味を与えてくれると信じているが、
どちらも同じような妄想でしかない。(=映画「アギーレ、神の怒り」もそうだった。)
 「個人の自己は幻想である。」

 *「宗教的信念と政治的制度の全く新しいパッケージが必要になる。」
民主主義と自由市場と人権は今後の、テクノロジーによって個々の人間に自由意志など全く
許さない時代にどのように生き延びられるか?

 *二十一世紀の後半には、一人一人の人間が比類のない価値のある個人であり、
その自由な選択が権威の究極の源泉であるという信念は脅かされる。
(P-132)
・人間は経済的有用性と軍事的有用性を失い、そのため、経済と政治の制度は人間にあまり価値
を付与しなくなる。=従来の人間が持っている価値が変質する。
・経済と政治の制度は集合的に見た場合の人間には以前として価値を見出すが無類の個人として
の人間には価値を認めなくなる。=集団化>個人
・経済と政治の制度は、一部の人間にはそれぞれ無類の個人として価値を見出すが、彼らは人口
の大半ではなくアップグレードされた“スーパー”という新たなエリート層を構成する。=新階級

 *近代における「自由主義」が成功したのは、
政治的にも経済的にもそして軍事的にも、一人一人の人間が必然であり大切であったからであり
人間全員に価値を与えることが理に適っていたからである。
 すべての国民には等しい価値と等しい政治的権利(参政権)がることを認め、人々に政治的
権利を与えれば、動機付けや自発性が高まり、それが戦場と向上の両方で役立った。
 
 *女性に参政権を与えたことも同様である。
産業化戦争においては女性が不可欠な役割を果たすことに気付いた結果であった。(=日本の18
歳の参政権はこのルールによってなされた、政府の遅れてきた陰謀)21世紀の戦争と経済におい
ては男も女もそれぞれの価値が失われるからである。

 *戦争手段は極めてゲーム的にテクノロジーに一握りの専門家とアルゴリズムに委ねたものになる。
したがって、多くの人間は戦争に役立たなくなり、ただの盾的な役割になってしまった。

 *「経済」の領域でも、人権と自由を守るのは、
道徳的な義務であると同時に経済成長のカギであった。「経済と人権と自由」を自由化した国家
が戦争に勝利した。(=フランス、イギリスそして、アメリカ)

 *最近の専制君主国がクーデター後に行ったこととは
これらの自由主義化であった。その理由は道徳的理由ではなく、経済的理由からであった。
 
 *一般大衆が経済的重要性を喪失すれば道徳的理由だけで人権と自由が守れるだろうか?
新たなエリート層と政府は経済的な見返りが無くなった大衆の一人一人の人間を尊重し続ける
か?(今の中国を見ればいい。)

 *過去には人間しか出来ないことが沢山あった。
だが、これからの時代にはA.I.とP.C.が間も無くほとんどの人間の仕事で人間を凌ぐ可能性が強く
なると、人間は直ちに、経済的な価値を失う危機に直面する。
 なぜなら、知能が意識と分離しつつあるからだ。
今日まで、高度な知能は常に発達した意識と密接に結びついていた。より、高い知能を必要と
する仕事は意識のある人間にしか出来なかった。が、現在ではそのような仕事を人間よりも
はるかに上手くこなせる意識を持たない新しい種類の知能が開発されているからだ。
 これらは、総て、パターン認識に基づいた、意識を持たないアルゴリズムがこれらのパターン
認識を行い、人間の意識を程なく凌ぐからだ。

 *人類の歴史は、生物の進化は意識の筋道に沿ってのろのろと進んできた。
だが、非生物であるP.C.の進化はそのような流れをそっくり迂回してスーパーインテリジェンスへ
と続く全く別の早道を辿るかもしれない。

 *知識と意識では、どちらの方が本当に重要なのか?(p-138)
二十一世紀の今後では、軍と企業とにとっては答えは単純明快で、知能は必須だが、
意識はオプションに過ぎない。そして、人間の経験や多くの大衆たちの仕事を消去するだろう。
(参照/マターサイト・コーポレーション)(P-146)

 *21世紀の最も重要な課題は、
膨大な数の余剰人口と人員をどのようにするか?あるいは、彼らたちはどのように生き延びる
か?(P-147)

 *従来からの「農業<工業<商業<サービス業」という求人の流れが変わる。
機械よりも人間の方がうまくこなせることが常にあった時代、人間には身体的なものと認知的な
ものという2種類の基本的な能力がある。この身体的な能力の面だけ機械が人間と競っている限り
は人間の方がうまくこなせる認知的な仕事が多くあった。ところが、パターンを認知記憶そして
分析したりする点においてもアルゴリズムが人間を凌ぐようになると、何が起こるか?
・生き物はアルゴリズムである。あらゆる動物は膨大な歳月をかけた進化を通じて自然選択に
よって形つくられた有機的なアルゴリズムの集合体である。
・有機的アルゴリズムに出来ないことは非有機的アルゴリズムでは可能。

 *「心を持たないアルゴリズムが人間よりも上手に教えたり、診断したり、デザインをし
たり出来るようになれば人間はどうしたらいい?

 新しい世代のA.I.は人間の助言よりも機械学習を好む。

 *過去の人間はずーと、「専門化」を進化させて来た。
A.I.が人間を求人市場から締め出すには特定の職域が要求する特別な能力で人間を凌ぎさえば
良いことである。アルゴリズムが人間を求人市場から押しのけて行けば、富と権力は全能の
アルゴリズムを所有する、ほんの僅かなスーパー・エリートたち、大富豪たちの手に集中して
空前の社会的、政治的不平等社会を生み出し、新たな独占社会の可能性もある。(すでに一部の
世界では現実となりつつある。)
 また、アルゴリズム自体が所有者になるかもしれない世界、アルゴリズムが「法人」を所有
することも可能である。アルゴリズムは人間の主人の思い通りになる必要はなく、自ら巨大な
ベンチャーキャピタルファウンドを所有できる。

 *現在の地球の殆どは、既に、人間でない共同主観的なもの、すなわち、国家と企業に合法的
に所有されている。
(EX.土地はその国家が総て所有している実態。)
 産業革命によって、新しい労働階級が生まれ彼らたちの前例のない欲求と希望と恐れによって
誕生したのが都市プロレタリアートだ。

 *21世紀には私たちは新しい巨大な「非労働者階級」が誕生するかもしれない。
経済的価値や政治的価値、さらに、芸術的価値さえ持たない人々、社会の繁栄と力と華々しさに
何の貢献もしない人々、ほとんどが雇用不能な「無用者階級」の登場である。
 例えば、2030年ごろまでには、例えば、「ヴァーチャル世界でのデザイナー」のような新しい
職業が誕生するかも知れないが、人間がアルゴリズムよりも上手くこなせる新たな仕事を見つけ
出さなければならないだろう。

 *教育においても、今日、既に子供達に何を教えて良いのかがわからなくなって来ている。
現在子供たちが学校で習っていることの大半は、彼らたちが40歳の誕生日を迎える頃には
おそらく時代遅れになっているだろう。

 *「人間は何をするか?」
このような時代になれば、人間は何をするか?何かする必要がある。
することがなければ頭がおかしくなる。
 「薬物とP.C.ゲーム」というのが一つの答えかも知れない。あるいは、3Dのヴァーチャル・
リアリティの世界で時間を費やすことも多くなる。
 夢の国で人工的な経験を貪って日々を送る無用の怠け者たちの、どこがそれほど神聖なのか?
このような生き方は、人間の人生と経験は神聖であるという自由主義の信念には致命的であろ
う。

 *自由主義は人間の価値を信じているし、個人主義も信奉している。
よって、軍事的にも経済的にも無用になるという脅威と,人間は必要とされても個人は必要と
されない時代が来る。政治と経済の制度は個人から権威と自由を奪う。

 *生き物はアルゴリズムの集合体である。(P-161)
人間を構成しているアルゴリズムはみんな自由ではない。
 二十一世紀のテクノロジーのおかげで、外部のアルゴリズムが人間内部に侵入して自分より、
自分についてはるかによく知ることができるようになる。
そこで、自由主義はシステムが自分自身以上に自分の事を知るようになったときには崩壊する。

 *二十一世紀の新しいテクノロジーは、人間至上主義の革命を逆転させ、
人間から権威を剥ぎ取りその代わり、人間ではないアルゴリズムに権限を与えるかもしれない。
 生き物はアルゴリズムであると生物学者たちが結論した途端、彼らは生物と非生物の間の壁を
取り壊し、コンピューター革命を純粋に機械的なものから、生物学的な大変動に変え、権威を
個々の人間からネットワーク化したアルゴリズムへと移し た。
 
 *個人というものは、宗教的な幻想以外の何物でもないことが明るみに出るだろう。
現実は生化学的アルゴリズムと電子的なアルゴリズムのメッシュとなり、明快な境界も、個人と
いう中枢も持たなくなる。

 *自由主義に対する三つの実際的な脅威のうち、
その第一は人間が完全に価値を失うこと、
第二が、人間は集団として見た場合には依然として貴重ではあるが、個人としての権威を失い、
代わりに、外部のアルゴリズムに管理され、ポスト自由主義の世界となる。
 自由主義に対する第三の脅威は、アップグレードされた人間の、少数の特権エリー ト階級と
なることだ。 ほとんどの人はアップグレードされず、コンピューターアルゴリズムと新しい超人
たちの両方に支配される劣等カーストとなる。

 *自由主義のイデオロギーの基盤が崩れる。
自由主義は、社会経済的な格差とは共存できる。自由主義は平等よりも自由を好む。
自由主義は、人間は全て等しい価値と権限を持っていることを、依然として前提としている。
 社会的不平等に対する自由主義の解決策は、異なる人間の経験に等しい価値を与えることだ。
世界の最高富裕層62人の資産を合わせると。最貧層の36億人の資産の合計に匹敵する。
 将来は、アップグレードされた上流社会と、社会の残りの人々との間に、身体的能力と認知的
能力の本物の格差が生じるかもしれない。

 *医学は途方もない概念的大変革を経験している。
二〇世紀の医学は、病人を治すこ とを目指していた。
だが、二一世紀の医学は、健康な人をアップグレードすることに、しだいに狙いを定めつつある
 病人を治すのは平等主義の事業だった。
健康な人をアップグレードするのはエリート主義の事業だ。卓越した記憶力や、知能、最高級の
性的能力を望む。
 二〇世紀に医学が一般大衆のためになったのは、二〇世紀が大衆の時代だったからだ。
二〇世紀の軍隊は何百万もの健康な兵士を必要とし、経済は何百万もの健康な労働者を必要と
した。国家は公衆保健サービスを創設し、万人の健康と活力を確保した。最大の偉業は、
大衆保健施設の設立と、集団予防接種活動と、集団感染の根絶だった。

 *大衆の時代は終わりを告げ、二一世紀には無用の三等車を置き去りにして、一等車だけで
突き進むのが最も効率的な戦略となりうる。

 新しい超人のカーストを生み出し、科学的な発見とテクノロジーの発展が大量の無用な人間と
少数のアップグレードされた超人エリート層に分割したなら、権限が人 間から知能の高い
アルゴリズムの手にそっくり移ったなら、その時には自由主義は崩壊する。

 *テクノ宗教が幸福や平和や繁栄、さらには永遠の命さえ約束する。
テクノロジー の助けを借りて ? 新しいテクノ宗教は、テクノ人間至上主義とデータ教という
二つの主要なタイプに 分けられる。
 人間を森羅万象の頂点と見なし、人間至上主義の伝統的な価値観の多くに固執する。
テクノ人間至上主義は、はるかに優れた人間モデルであるホモ・デウスを生み出すために、
テクノロジーを使うべきだと結論する。
 *ホモ・デウスはアップグレー ドされた心身の能力も享受する第二の認知革命を引き起こせる
かもしれない。

 *WEIRD、「西洋の、高等教育を受けた、工業化された、裕福で、民主的な」という
意味の英語の語句、

平均的な人間の平凡な経験を神聖視するようになった。
(「Western.educated,industrialises,rich and democratic」)
 ハーヴァードで心理学を学ぶ学生の精神世界を記した詳細な地図はあるものの、
アメリカ先住民のシャーマンや仏教の僧侶やイスラム教神秘主義者の精神世界については、
解っていることがずっと少ない。(WEIRDは学ぶ必要性を感じていないから?=白人至上主義)
 医師や技術者や消費者が、精神疾患の治療とWEIRD社会での生活の享受に専念しているかぎり
標準未満の精神状態とWEIRDの心理を研究していれば、私たちの必要は十分満たされたのかも
しれない。(=白人至上主義)
 ところが今後、30世紀の幕開きの頃、自由主義的な人間至上主義がテクノ人間至上主義に道を
譲り、医学が病人の治療よりも健康な人のアップグレードに次第に的を絞っていく中、私たちは
完全に異なる種類の課題に直面している。
 心のアップグレードは主にWEIRDの人々の標準的な精神状態や標準未満の精神状態の
スペクトルなので、どんな目的地を目指せばいいのかすらわからない。

 *超標準の領域は、科学にとって概ね人跡未踏の地のままだ。
私たちは全く地図を持たずに突き進み、現在の経済や政治の制度が必要とする心的能力をアップ
グレードすることに的を絞り、他の能力は無視したり、ダウングレードしたりさえするかも
しれない。例えば、太古の人間はおそらく、嗅覚を幅広く使っただろう。 現代の人間はFOMO
(見逃したり取り残されたりすることへの恐れ)に取り憑かれており、かつてないほど多くの選択肢
があるというのに、何を選んでもそれに本当に注意を向ける能力を失ってしまった。  
 <FOMO/https://www.gqjapan.jp/life/news/20140829/fomo_momo>
 匂いを嗅いだり、注意を払ったり、夢を見たりする能力が衰えたせいで、私たちの人生は
貧しく味気ないものになったのだろうか?
 経済と政治の制度にとっては、十分価値があった。
人間の心に対する将来のアップ グレードは、政治的な必要性と市場の力を反映する可能性が
高い。 私たちは首尾良くアップグレードできるかもしれないが、その過程で心を失いかねない。
 
 *テクノ人間至上主義は人間をダウングレードすることになるかもしれない。
能力を強化されたチンパンジーだった。だが将来は、特大のアリになるかもしれない。
 テクノ人間至上主義は、私たちの欲望がどの心的能力を伸ばすかを選び、それによって未来の
心の形態を決めることを見込んでいる。
 
 *今後、テクノロジー の進歩のおかげで、
その欲望を作りかえたり生み出したりできるようになったら、 何が起こるのか?
 不満だらけの結婚生活にはまり込んだ女性は、その生活が提供する経済的な安心感を失うのを
恐れる。シプラレックス(抗うつ薬)生化学的な不均衡と神経疾患の産物。

 *汝自身に耳を傾けよ!という、人間至上主義の第一の戒律は
もう、自明ではなくな った。内なる声のボリュームを上げ下げすることを学ぶと、
本物の自己への信仰を捨てる。

 *自分の意思をデザインしたりデザインし直したりできるようになった日には、
あらゆる意味と権威の究極の源泉と見なすことはできないだろう。

 *人間至上主義によれば、人間の欲望だけがこの世界に意味を持たせるという。
もし自分の欲望を選べるとしたら、いったい何に基づいてそうした選択ができるのか?
私たちが自分の欲望を厄介に感じることがあっても、テクノロジーはそこから救い 出してくれる
ことを約束する。

 *テクノ人間至上主義は、
人間の意志がこの世界で最も重要なものだと考えているので、人類を促して、その意志を
制御したりデザインし直したりできるテクノロジー を開発させようとする。つまるところ、
この世で最も重要なものを思いのままにで きるというのは、とても魅力的だから。
とはいえ、万一そのように制御できるようになったら、テクノ人間市場主義には、その能力を
使ってどうすればいいのかわからない。
 神聖な人間もまた、ただのデザイナー製品になってしまうからだ。

 *テクノ宗教は、
人間のような存在の欲望や経験を中心に回ったりはしない世界を予見している。

 *意味と権威の源泉として、欲望と経験に何が取って代わりうるのか?
その候補とは、情報だ。最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、宗教は神も人間も崇める
ことはなく、データを崇拝する。

 *生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。
データ至上主義はこうして、動物と機械を隔てる壁を取り払う。そして、ゆくゆくは電子工学的な
アルゴリズムが生化学的なアルゴリズムを解読し、それを超える働きをすることを見込んでいる

 *すべての科学者に共通の言語を与え、
学問上の亀裂に橋を架け、学問領域の境界を越えて見識を円滑に伝え広める。
音楽学者と経済学者と細胞生物学者が、ようやく理解し合えるのだ。

 *人間はデータを洗練して情報にし、
情報を洗練して知識に変え、知識を洗練して知恵に昇華させるべきだ。

 *データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、
ビッグデータとコンピューターアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ。

 *生物学がデータ至上主義を採用したからこそ、
コンピューター科学における限定的な躍進が世界を揺るがす大変動になったのであり、
それが生命の本質そのものを完全に変えてしまう可能性が生まれたのだ。

 *経済とは欲望や能力についてのデータを集め、
そのデータをもとに決定を下す仕組みなのだ。本質的には、競合するデータ処理システムだ。
 資本主義が分散処理を利用するのに対し、共産主義は集中処理に依存する。分散型データ処理
が集中型データ処理よりも巧くいくからだ。

 *二一世紀に再びデータ処理の条件が変化するにつれ、
民主主義が衰退し、消滅さえするかもしれないことを意味している。
 データの量と速度が増すとともに、選挙や政党や議会のような従来の制度は廃れるかも
しれない。それから非論理的だからではなく、データを効率的に処理できないからだ。(P. 216)

 *一九世紀と二〇世紀には、
産業革命がゆっくりと進展したので、政治家と有権者はつねに一歩先行し、テクノロジーの
たどる道筋を統制し、操作することができたのだ。
 「政府というカメはテクノロジーというウサギに追いつけない。」
アメリカのNSA(国家安全保障局)は私たちの会話や文書を全て監視している。
テクノロジーが政治を出し抜く。AIとバイオテクノロジーは間も無く私たちの社会と経済を
ーそして体と心もーすっかり変えるかもしれない。

 *権力がみなどこへ行ったか誰にもわからないというのが、悲しい真実なのだ。
イギリスがEUを離れても、トランプがホワイトハウスを引き継いでも、権力は一般の有権者の
もとには絶対に戻らない。

 *二一世紀初頭の政治は壮大なビジョンを失っている。
政府は単なる管理者になった。国を管理するが、もう導きはしない。彼らの狙いがごく限られて
いるからだ。
 混沌としたシステムでは視野が狭い方が有利に働くし、億万長者の権力は彼らの目標と緻密に
釣り合っている。

 *二一世紀に、従来の政治の構造がデータを速く処理しきれなくて、
もう有意義なビジョンを生み出せないのならば、新しくてもっと効率的な構造が発達して
それに取って代わるだろう。そのような新しい構造は、民主主義でも独裁制でもなく、以前の
政治制度とは全く異なるかもしれない。唯一の疑問は、そのような構造を構築して制御するのは
誰か?だ。
 もはや人類がその任務を果たせないのなら、ひょっとすると誰か別の者に試させることに
なるかもしれない。

 *データ至上主義の視点に立つと、
人類という種全体を単一のデータ処理システムとして解釈してもいいかもしれない。
一人ひとりの人間はそのシステムのチップの役目を果たす。
1    プロセッサーの数を増やす。
2 プロセッサーの種類を増やす。
3 プロセッサー間の接続数を増やす。
4 既存の接続に沿って動く自由を増やす。

 人類は過去七万年間に、まず拡散し、その後別々の集団に分かれ、最後に再び一体化した。
それぞれの集団はそれまで集め、発達させてきた独自の考えと道具と行動の遺産を持ち寄った。

  [ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。
第二部/終わり:
参照/「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/著名;ユヴァル・ノア・ハラリ
(株)河出書房新社;2018年発行/
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2020年1月11日 03:27 | comment and transrate this entry (0)

最終回/[ Homo Deus ]私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。

[ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。
最終回:令和二年正月:
参照/「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/著名;ユヴァル・ノア・ハラリ
(株)河出書房新社;2018年発行/

 この次なる「近代」を探るための、僕のイマジナリィ・ボヤージュとしてのハラリ著のこの本
< Homo Deus > の私的読書感も終わりの巻へ、
 
 どのような新たな「近代」を僕たちは、この時代を生きる子供たちへ何を残すべきか
そして、何を消去し、どの様な新しさを構築可能か?そのための自分たちの選択肢をしっかりと
持って、そのミッションと共に次世代の「当事者たち」とランディングが可能であるか?
 考えられることの多くと、始めなければならない事柄をもうそろそろ、意識し始めませんか?
 その為には、「みんなが読んだ本だから、」と言うベストセラー・マニア的なる読み方では
無くどうか、どのように自分なりに読み込み、どのような自分なりの読書感とそこからの一つの
“新しい流れ”と“可能性”を見つけ出せるか?或いは、自分なりの”疑問“を幾つ持てるか?
自分なりの知識の新しいの“枝葉”を育てるか?と言うまでの読書をして下さい。

 *資本主義同様、データ至上主義も中立的な科学理論として始まったが、
今では物事の正邪を決めると公言する宗教へと変わりつつある。新宗教が信奉する至高の価値は
「情報の流れ」だ。
人間は全ての「モノのインターネット」を創造するためのたんなる道具にすぎない。

 *データ至上主義は、情報の自由を何にも優る善として擁護する。
人間至上主義の革命が勃発し、人間の自由、平等、友愛という胸躍る理想が唱えられ始めた。
その新しい価値とは情報の自由だ。
 情報の自由と、昔ながらの自由主義の理想である表現の自由を混同してはならない。
表現の自由は人間に与えられ、人間が好きなことを考えて言葉にする権利を保護した。
これには、口を閉ざして自分の考えを人に言わない権利も含まれていた。
 それに対して、情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。
しかもこの新しい価値は、人間に与えらえれている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。
 そこで、より良い世界を作り上げたいなら、そのカギはデータを自由にすることにある。

 *自由市場資本主義者が市場の見えざる手の存在を信じているように、
データ至上主義者はデータフローの見えざる手の存在を信じている。
 人はデータフローと一体化したがる。データフローの一部になれば、自分よりもはるかに
大きいものの一部になるからだ。今やデータ教は、あなたの言動の一切は大量のデータフローの
一部で、アルゴリズムが絶えずあなたを見守り、あなたのすること、感じること全てに関心を
持っている。

 *人間のデータは価値を持つ。
私たちは自分自身やデータ処理システムに、自分にはまだ価値があることを証明しなければ
ならない。そして価値は、経験することにあるのではなく、その経験を自由に流れるデータに
変えることにある。(“流す”ことがミッションである。)

 *データ至上主義は、自由主義的でも人間主義的でもない。
今度はデータ至上主義が人間至上主義に向かって同じことを言う。
「そうです。神は人間の想像力の産物ですが、人間の想像力そのものは、生化学的なアルゴリズム
の産物にすぎません。」
 データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかも
しれない。

 *人間中心からデータ中心へという世界観の変化。
「生き物はアルゴリズムだ。」
 もとになるアルゴリズムは、初めは人間によって開発されるのかもしれないが、成長するに
つれて自らの道を進み、人間がかつて行ったことのない場所にまで、さらには人間がついて
いけない場所にまで行くのだ。

 *最初は、データ至上主義は人間至上主義に基づく健康と幸福と力の追求を加速させるだろう。

 *人間はその構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、
ついには急流に呑まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない。

 *歴史を通して、人間はグローバルなネットワークを創り出し、
そのネットワーク内で果たす機能に応じてあらゆるものを評価してきた。
それらは重要な機能を果たしていたので、ネットワークの功績を自分の手柄にして、自らを
森羅万象の頂点とみなした。

 *私たちには未来を本当に予測することはできない。
なぜならテクノロジーは決定論的ではないからだ。

 *人間は、自由市場や群衆の知恵や外部のアルゴリズムへと、権威を明け渡している。
1 生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理でありという教義。
2 知能は意識から分離しつつある。
3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちのことを
知るようになるかもしれない。

 ◯「ホモ・デウス」エピローグ/
そろそろ、この論もある種の限界が見え始めたようだ。
最後に、この著者は言う。

 私たちには未来を本当に予測することはできない。
なぜなら、テクノロジーは決定論的ではないからだ。そして、現在の科学の教義が正しくないと
考える余地が残っている点だ。と言う。
 
 *生き物はただのアルゴリズムではない可能性、
生命はデータ処理だけではない可能性と、意識が知能よりも重要である可能性は今後も真剣に
研究・検討していく価値がある。

 *そして、更には冒頭に示した本書への根幹と根拠について彼自らが次なる疑問を読者に
差し出す。

1/ 生き物は本当にアルゴリズムに過ぎないのか?
そして、生命は本当にデータ処理に過ぎないのか?
2/ 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3/ 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりも
よく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?

 ◯おわりに、「私感的に、」;
 僕達、イエローであり、彼らたちとは異教徒である日本人にとっては少なからず、以下の疑問は
持つべきである。
 「現在の科学の教義が正しくないと考える余地が残っている点。そして、生き物はただの
アルゴリズムではない、また、生命はデータ処理だけではない可能性そして、意識が知能よりも
重要である可能性などは今後も真剣に研究・検討していく価値があり、それによって初めて、
ただのテクノロジーの発達による近未来観ではなく、「近代」の延長でもない新たな「近代」は
決して、見えてこないだろう。
 そうしない限り、この「ホモ・デウス」におけるあるいは、僕が持ったこのような次なる時代
への人間に対する存在疑問、『人間とは?人間の役割とは?あるいは人間が持つべき新たな
価値観とは?』は悲劇的な妄想へ彷徨うしかない。
 ***
 この著作でも理解できるように彼らたちは幼い時から、家族からそして学校から刷り込まれた
「宗教観」のその強さは残念ながら現代日本人のメンタリティには皆無に等しい。
 僕たちの神道・仏教を含めた世界民族に於いては非常に稀な“宗教の多重構造”の宗教観も徳川
幕府の240年間で完全に幕府の政治力によって押さえ込まれ、それらはただの「ご利益宗教」と
化してしまった事。その後の明治政府による「廃仏毀釈」と「黒舟到来」後の「文明開化」政策
又、その後の大いなる勘違いが始まってのアジア圏への「帝国主義政策」と「敗戦」を迎えた
我が國家のこのヨオロッパにおける「近代」化と同じ時代の歴史は「仏教」どころか、寧ろ、
「外国崇拝」的なその流れを構築してしまった。
 例えば、敗戦後の僕たちの世代が刷り込まれた一つに「Give me Chuing-Gum!!」があり、
これが一つの根幹となって、その後の「大衆消費社会」構造を構築させられ現在に至ってきた。
 その為、「仏教哲学」の領域が西洋のそれらに比べるとほとんどと言って、この時代には“哲学
的進化“の痕跡がない。故に、日本人が元来持つべき、世界へ発言すべき「宗教心」を基盤とした
ロジックが現実的ではなく、情緒性と単なる個人の内なる妄想に収まってしまっていることも
現在では「イエローの弱体」あるいは、「外人コンプレックス」に繋がり、世界における
「日本思想」や「日本文化」とは未だに、変わらず「美意識」も含めて、ただの「異国趣味/
エキゾティズム」の領域でしかないのが海外においてのYellowに対する現実認識であろう。
**
 なぜ僕がこの「宗教心」にこだわるかといえば、彼のこの本を読んでも理解できるように、
彼らたちの「近代」創成の根幹は「宗教心」がその根幹であり、彼らたち白人至上主義者と
僕たちが持ち得た「差異」とは何かといえば、日本人として持ち得た「世界に類を見ない多重
構造としての宗教観」でしか無く、この差異は今後の新たな時代としての「近代」あるいは、
「シン・近代」を構築するには必須な哲学であり、日本人しか持ち得ていない根幹としての
「差異と力」であると信じているからである。
 即ち、現在の僕たちは既に、彼らたちと渡り合い、使えるオリジナルな“武器”を持って
いない。或いは、その数は非常に少ないのが現状である。例えば、「第3次産業革命」の主役で
あるPCも「0:1」が根幹の世界共通武器である。

 そこで僕が頼るのは一つは、やはり、このようなコンプレックスを刷り込まれてきた同胞世代
では無く、全く新しい世代としての、冒頭にもある世界で活動者し始めたポジティフな「14歳」
を軸とした次世代たち、「GENERATION-Z」世代たちである。彼らたち世代が持っている
「ポジティフな自信過剰」と今までになかった、「早熟さ」と「正義感」そして、「知りたい・
学びたい心」と言う素直さに託したいのです。
 この「GENERATION-Z」世代たちは既に、アメリカにおいては「新たな消費社会の上顧客」と
して多くがマーケティングがなされ始まった世代でもあるが、それらはまだ「アルゴリズム」
への情報は未完でありそれゆえ、彼ら世代の人口も含めて、“パワー/力”が行為を起こし、
“新たな差異”を生み出すであろうと言う想いが僕には強いからです。
 もう一つは、やはり世界で通用する日本人の「差異と力」を考えると現在では日本発の“オタク
文化”が生み出した「マンガ/アニメ」の世界でしょう。この日本初の世界は既に、全世界における
一つの新しい「共通感覚/コモンセンス」であり、「共通言語」と言うボキャブラリィーになって
しまっているからです。
 この世界が生み出せる「差異と力」が今後の新たな「近代」の、「シン・近代」を構築出来
得る世界観と可能性を持ち得ていると認識し、世界でも通用する「差異」を持っていると考えて
いるからであり、それらが今後の「近代」への大きな「力」であり、一つの例えば、「削岩機」
かも知れないとも考えます。ここには「妄想勝ち」と言うヴァーチュアルな世界観も含めた
“彼方“が読めるからでしょうか?
 そして、僕はもう一つ「希望の星」を付け加えるのが若き三十一歳の哲学者、「斎藤幸平氏」
である。彼のドイツ・フンボルト大学の論文でもあり、処女作『大洪水の前に、ーマルクスと
惑星の物質代謝』の思想が今後の「民主主義」を政治的、経済的な立場で論じられ、新しい
「近代」のための「新たな民主主義」を模索し始めたミレニアム世代人であるからです。
 彼、斉藤幸平氏は、既に、あのマルクスが「物質代謝」という生理学概念で”エコロジー“を
論じていたとう根幹を視点として書かれたのがこの本であり、本書の”はじめに“を少し長いが
引用させていただこう。
 「マルクスの経済学批判の真の狙いは、エコロジーという視点を入れることなしでは、正しく
理解する事ができない。」と言うテーゼを投げかけた。
 そして、資本主義における惑星の普遍的物質代謝の亀裂を批判し、持続可能な未来社会ー
「エコ社会主義」ーーを構想するための方法論的基礎を与えてくれるものなのである。」
(参照/『大洪水の前に、』”はじめに“より、)
 そして、「最終的には、資本は自然的世界の諸制約から自由になることはできないのであり、
その矛盾がー経済危機ではなくー環境危機として現れてくる。」と言う現在点を見事に指摘して
いる眼差しがここにはある。
 マルクスの有名な警告が今再び、現実味を帯びる様になてきた現代社会ゆえのタイミングと
指摘である、『大洪水よ、我が亡き後に来れ!これが、すべての資本家、すべての資本家種族の
スローガンである。』
 「大洪水よ、我が亡き後に来れ!」と言う態度は、グローバルな環境危機の時代において、
ますます支配的になりつつある。将来のことなど気にかけずに浪費を続ける資本主義社会に
生きる我々は大洪水がやってくることを知りながらも、一向に自らの態度を改める気配がない。
とりわけ、1%の富裕層は自分たちだけは生き残るための対策に向けて資金を蓄えているし、
技術開発にも余裕がない。だが、これは単なる個人のモラルに還元出来る問題ではなく、
むしろ、社会構造的問題である。それゆえ、世界規模の物質代謝の亀裂を修復しようとする
なら、その試みは資本の価値増殖の倫理と抵触せずにはない。今や、「大洪水」と言う破局が
すべてを変えてしまうのを防ごうとするあらゆる取り組が資本主義との対峙なしに現実できない
ことは明らかである。つまり、大洪水がやってくる前に「私たちはすべてを変えなくてはならな
い。」だからこそ、資本主義批判と環境批判を融合し、持続可能なポストキャピタリズムを構想
したマルクスは不可決な理論的参照軸として二十一世紀に復権しようとしているのだ。」
(参照/『大洪水の前に、』”はじめに“より、斉藤幸平著/堀の内出版‘19年4月刊。)

 これらは僕の35年以上にわたるモードを通じた海外諸國とその國の人たちとの関わりの経験値
から投げかけられる、新たな近代構築へ参画すべき日本人が持っている「差異と力」であると
信じています。
 だが、モードの世界では未だに白人至上主義者たちが構築した「ラグジュアリィーブランド」
へのもろもろなるコンプレックスを拠りどころに自分たちだけが生きのびられると思い込む世界
で”虚飾“を商材とし商って、”虚飾“なゴシップに戯れている世界でしかありませんね。
 今回の、僕が危惧する『大洪水前の、』新たな「近代」へのパラダイムを考えるための私論 
「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」を試読し、
辿り着いた「根幹と視点」です。
合掌。
まとめ・文責/平川武治:

※参考/「ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/;ユヴァル・ノア・ハラリ著
(株)河出書房新社刊/ 2018年発行:
※ 参考/『大洪水の前に、ーマルクスと惑星の物質代謝』/斎藤幸平著/堀の内出版‘19年4月刊。

投稿者 : editor | 2020年1月11日 03:05 | comment and transrate this entry (0)

2020年1月 9日

[Homo Deus]私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。

[ Homo Deus ] 私的読書感と共に、新たな「近代」を思い考えるために。
第一部/
初稿/令和元年8月:

◯はじめに ;
 僕は一昨年の後半から昨年の1年間はほぼ、この「近代」という時代のパラダイムがほころび
始めてきた事。そして、次なるどのような新たな「近代」を構築すれば良いのか?
構築しなければならないのか?を僕の立ち居場所である、モードの世界から知り、感じられる
新しいいろいろな”時代の表層”のそれぞれのピースからジグソーパズルを組み立ててきました。

 そこで、今年の僕の新年のメッセージが生まれました。
 『もう、皆さんも気がついていらっしゃるでしょう、白人至上主義によって構築された
「近代」のパラダイムはこの200年ほどでほとんど綻びが出始めてきた現実を。
 この白人たちの諸都合のために構築された「近代」のパラダイムの根本原理は「植民地政策
主義」から始まった「自由主義+個人主義」者たちの「二者択一」が主構造。
この構造は彼らたちの人間の強欲という現実と宗教感覚からの根幹でしかありません。
 だが、数年来、この現実の諸状況はほとんど「文明論」的危機ですね。
昨今の世界規模での「気候危機」「環境汚染」「民主主義や資本主義の限界」「富の格差と階級
問題」そして、「Gendar」や「人口問題」などなどがこの綻びの現実でしょう。
 これらの諸現実についてもう、14歳の世代たちが声をあげ、デモに参加し始めている“日常”に
今年はもう少し、“当事者”になりませんか?』

 さて、モードの世界では、「サスティナブル」や「エシカル」という言葉がこの世界特有の
トレンド的ボキャブラリィーとして時代の表層の「壁紙」となり一つの新たな世界を生み出そう
としています。しかし、ここにも実際には大きな落とし穴があります。と言うより、彼らたち、
白人至上主義者たちの立ち居場所とそこから生まれる「利権」を死守拡大する方法論としての
「サスティナブル」が本意なのです。単純に言って仕舞えば、「金持ちだから言える、金持ちの
罪滅ぼし的発想」と自分たちの領域を死守するための「詭弁」をこの「近代」の綻びの穴を埋め
る彼ら独特の発想と手法でもあるのです。ここでは、「近代」におけるモードの世界はやはり、
当時の富裕層である“ブルジョワ”階級者のものとして誕生した事を忘れてはならないでしょう。
 「サスティナブル」や「エシカル」ファッションとは基本的には「天然素材と天然染料」と
言う根幹によって成立される世界です。資金力のあるブランドより、その価格帯は高価にそして、
生産量も限定出来る現実があります。と言うことはこの「サスティナブル」や「エシカル」と言う
時代の壁紙で新たなフレームによって区切りを作ることで自分たちの立ち居場所としての
「ラグジュアリィー」が守られなおかつ、時代の尖端の「壁紙」でブランドとモノが作れる。
すなわち、「ラグジュアリィー」は「ラグジュアリィー」として守られるべきであると言う彼ら
特有の傲慢な視点がこのブームには見え隠れしています。
 例えば、少し前に起こった「カシミアブーム」で誰が得をし、どのようなファッション・
ビジネスの構造になったか?を調べれば理解できるでしょう。カシミアの原糸生産の利権を持つ
団体とその周辺の関連企業が儲け、ファッション産業の構造は新たに「ファストファッション」
構造がグローバリズムという「新・植民地政策主義」の元で誕生したと言う事実が興りました。
 このファッションにおける「サスティナブル」「シニカル」については後日、もう少し詳しく
まとめてみましょう。

 今回は前回再開した僕の講和会「MODE-YOSE」で話をした、「近代」が綻びてきた事を感じ
始めると、この「近代」と言うパラダイムの次なる時代とは、どんな時代を予感し、妄想し、
そして、希望するのか、可能性があるのかを、「サピエンス全史」を描いた同じ著者の近刊書、
をテキストに、僕なりの「ポスト・近代」あるいは、「シン・近代」を深読み
してみました。
 僕の視点と根幹は、今後数十年で、我々の生活領域にA.I.が、かつての自動車や携帯の進化と
同様に「一家に1体」から「1人に1体」と言う「A.I.のパーソナルユース化」と言う現実が誕生
した時、「人間の役割」や「存在意義」や「存在価値とは?」又、「人間が生きる価値観とは」
などと言う最も人間として、基本的かつ重要な今後の存続に対しての疑問からです。
 来る、「アルゴリズム」が全てを解決する時代性においての「人間主義とは?」と言う疑問を
持ったが故にこの本に興味を持ったのです。 

 そこで、このと言う本の“私的読書感”をまとめてみます。
※出典本/ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/ユヴァル・ノア・ハラリ著。
2018年発行:河出書房新社刊:

 *「近代」は”取り決め“で成立している。
 その取り決めとはいたって、単純で、「人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する」
=人間が持っているはずの「差異と力」、このシステムが崩壊した時が終焉を迎える。
 その現代の“取り決め”は「欲望」と「誘惑」から生まれる。(pー6)

 *現代の“力”の追求は、「科学の進歩と経済成長の関係性」を原動力としている。
進歩する科学技術を「信頼」し始めると、“将来”を信じる様になり、その結果が、「信頼・
信用」を生み、「信用経済」へと進化した。(クレジット経済)

 *「経済成長」が不可欠であると言う「近代」は、
・生産が増えれば、より、多くを消費して生活水準が上げられ、そのおかげで幸せな生活が
楽しめる。
・人口が増え続ける限り、現状維持のためにも経済成長が必然。
・貧しい人たちへ分け与えられる為にも経済成長が必要である。
「経済成長」は良いこと全ての源泉とされている資本主義では、人々の倫理的な意見の相違を
忘れ全て、長期的成長を最大化することが奨励された世界である。=「成長の限界」とは???
「経済成長」は家族の絆よりも大切か?お金があれば、高齢者介護も十分にできると言うまでの
倫理的判断を下し、宗教的領域へと。(pー17~)

 *「経済は本当に永遠に継続できるのか?」
その為には、「新しい土地を探検し征服」して資源の無尽蔵を求めた。(=植民地主義時代)
世界の「資源」とは「原材料」と「エネルギィ」と「知識」の3種類の「資源」が在る。
「原材料」と「エネルギィ」はそれらの量に限界があり、使えば使うほどに少なくなる。
しかし、「知識」は増え続ける「資源」であり、使うほどにより、多くなる。そして、「知識」
が増えると、より、多くの「原材料とエネルギィ」も手に入る。
 「近代」初期の偉大なる発見は「無知」の発見であった。
「知識」としての科学はより、多くの「資源とエネルギィ」を使って、内外機関からP.C. を生み
出し、前代未聞の産業を誕生させ、より、大きなテクノロジーやA.I.をも生み出し自信を持って、
「近未来」を予測可能にした。

 *「資源の欠乏」と言う恐怖。すなわち、「生態系環境の崩壊」ある。
「進歩と成長」のペースを落とし、「成長の限界」を読み込む。究極は、「ヴァーチャル世界」
と「ハイテク・ランド」を建設し、ここに、人生の素晴らしさをもたらす全てを供給してもらう
こと。これが、考えられる未来像。
我々は、「経済と成長」の進化加速化と、「生態系破錠」を防ぐための知識と行為という対峙
するシステムの中での生存競争を生きてゆく。

 *我々人間がシステム化した「取り決め」によって、緊張と混沌を生み出しているが、
この「緊張と混沌」によって、人間が個人としても集団にせよ、このレースは中断出来ない。

 *もっと欲しがる様に人間を説得するのはさほど、難しくなかった。
「貧欲」は成長を促す善であり、「集団」に確信させた。結果、「近代」はより、多くのものを
欲しがり、望むことを奨励したシステム、「自由市場資本主義」と言うイデオロギーであった。
ここでは、人間に何が起こっているか、どこへ向かっているかを誰も理解しないまま急速な
「進歩と発展」「貧欲と混沌」のシステムである。
 欲望を抑えることはより、困難を伴う。「価値観と常識」をさわらなれけばならないからだ。

 *「人間至上主義」と言う名の宗教。(P-34~)
それまでの、「神至上主義」に変わって「産業革命」以後の人間が手に入れたのが、
「人間至上主義」である。
 「善と悪」「正と誤」「美と醜」など、人間が決めるものではないと言う「近世」までの定義
と考えの根幹は全て、「神と宗教」の領域であった。そして、人間は「無知で堕落」しやすい儚い
官能的な快楽と現生の妄想に囚われた生き物だとも見なされていた。この考えによって、「神」
は意味だけでなく、権威の至高の根元にもなり、「意味と権威」の関係性が生まれた。
「自分に耳を傾け、自分に忠実であり、自分を信頼し、自分の心に従い、心地よい事をせよ。」
と言う人間の「自由意志」こそが最高の権威であると言う「人間至上主義」の誕生が「近代」
そのものであった。
 それまで、神が取り決め、審判していた「芸術的創造と美的価値」の唯一の源泉は
「人間の感情」が根幹である時代になった。「美は見る人の眼の中にある。」
 教育においても、「意味と権威」の至高の源泉は自分の中に存在するゆえ、
「先ず、自分で考えなさい。」となった。
 「意味と権威」の根幹が、天から人間の感情へ移行したことによって、世界全体の性質も変化
した。神の存在を信じないことは容易くなった。人間が完全な無神論者であっても、
「政治的価値観」と「道徳的価値観」と「美的価値観」の実に豊かな組み合わせを自分の内なる
経験から引き出せる。「権威」に到達し、真の知識を獲得する新たな方法も明確にした。

 *中世では、「知識=聖書x論理」であったが、
科学の進歩によって、「知識=観察に基ずくデーターx数式」に変換された。
が、「価値や意味」や「倫理」に関しての疑問は処理できない。

 *人間たちが自分に自信を持ち始めると、倫理にまつわる新たな公式が登場する。
「知識=経験X感性」がそれである。経験を積み重ね、その経験を正しく理解できる様に自分の
感性を磨くことで「知識」を探し求めることができる。ここには‘60年代後半からの“ヒッピー・
コミューン”から誕生した「大衆文化」の根幹も見られる。

 *「経験」とは、「感覚と情動と思考」から成る。
暑い、心地よいと言う感じることと愛や怒り恐れという情と、頭に浮かぶ考え、思考から成り
立つ。
 
 *「感性」とは、次なる二つである。
自分の感覚と情動と思考に注意と好奇心を持つこと。そして、それらの感覚と情動と思考が自分
に影響を与える事を許すこと。
 
 *「経験と感性」は常に果てし無い高揚をたどりながら互いに高め合ってゆく。
「感性」がなければ、何も「経験」できないし、様々な「経験」をしない限り、「感性」を
引き延ばすことが出来ない。「感性」は抽象的な能力ではなく、実際に応用することでのみ、
進化し成熟する実用的技能である。必要な「感性」なしでは、物事をそれなりに「経験」出来な
い。そして、「経験」を積み重ねていない限り、「感性」を育むことはできない。

 *「人間至上主義」は経験を通じて無知から啓蒙へと続く、
内なる変化の挺身的な過程として人生をとらえる。出来る限り、幅広い経験を叡智として、
結晶させることである。
 
 *「人間至上主義」は、「人生は経験の連続である。」という視点で
観光から芸術まで、実に多くの産業と今後の消費社会の基盤をなす神話となる。ここでは、
ここでしか経験が出来ない斬新な「経験」を売っているのだ。ここでの「経験」のベクトルは
「外面から内面へ」という焦点が絞り込まれている。
 
 *「人間至上主義」は経験の解釈の仕方がそれぞれ異なることによって、
三つの流れを始める。
・「自由主義的なる人間至上主義」/一連の経験を持つ唯一無二なる個人の自由意志に委ねる。
したがって、個人が享受する自由が大きいほど、自由を重視し、世界は美しく、豊かで有意義に
なるという視点。この「自由主義者」たちは、集団的アイデンティティや部族感情と融合して
近代以降の国家主義を形成し、人間の経験の多くが「共有」されるべきものであるとした。
 この「自由主義者」は一人一人の独自性を強調し、人の視線を自分の中へと向ける。
自由主義者たちは、人々に自分を孤立した個人と見せるように促し、同じ階級の成員から彼らを
切り離し、不平等を永続させ、一般大衆とエリート層を疎外へと追いやる。
 「自由は資産である。」20世紀の戦後は、「抗生物質、原子力エネルギィー、P.C.さらには
フェミニズムや脱植民地それに、フリーセックスを与えてくれ、21世紀へ生き残った。
 現時点でも、「個人主義と民主主義と自由市場」という自由主義のパッケージに変わるものは
まだ登場していない。
・「社会主義的なる、人間至上主義」は他者がどのように感じているかや自分の行動が他者の
経験にどの様に影響するかに注意を向ける。他者の欲求や経験を自分の欲望よりも優先させる
ことで成就するという視点。
・「進化論的な人間至上主義」
・「人間至上主義」=「白人至上主義」→自由主義的⇨資本主義
                  →社会主義的⇨共産主義
                  →進化論的⇨独裁主義

 *テクノロジーは宗教に頼っている。
この「宗教とテクノロジーの関係性とは?ここにも「白人至上主義」の根幹が見え隠れする。
 人は全く同じ道具、(0:1)を使って、ファッシズムや共産主義や自由主義も生み出せるが
宗教的な信念がなければどっちへ舵を取ればいいか?解らない。
 新しいテクノロジーは古い宗教を殺す。

 *AIがほとんどの認知的課題で人間を凌ぐようになったら、求人市場はどうなるのだろう?
経済的に無用の人々の新しい巨大な階級はどんな政治的影響を及ぼすのか?
 ナノテクノロジーと再生医療が今の80歳を50歳相当の年齢に変えたとき、人間関係や家族や
年金基金はどうなるのか?
 バイオテクノロジーのおかげで親の望む特性を持つデザイナーベイビーを誕生させ、豊かな
人々と貧しい人々の間に前例のないほどの格差を生み出せるようになったら、人間社会に何が
起こるのか?

 *産業革命の先頭に立っていた一握りの技術者や政治家や資本家たちによって、
すでに決められていた、蒸気機関と鉄道と電信は、食糧や織物、乗り物、武器の生産を一変
させ、強大な工業国は伝統的な農業社会よりも圧倒的優位に立った。

 *二一世紀のテクノロジー、それもとくにバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある。
 これらの力は蒸気や電信の力とは比べ物にならないほど強大で、食糧や織物、乗り物、武器の
生産にだけ使われるわけではない。
 二一世紀の主要な製品は、体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人の
間の格差は、ディケンズのイギリスとマフディーのスーダンの間の隔たりよりも大幅に拡がる。
それどころか、サピエンスとネアンデルタールの間の隔たりさえ凌ぐだろう。
 二一世紀には、進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、のちに取り
残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ。

 *遺伝子工学とAIが潜在能力を余すところなく発揮した日には、
自由主義と民主主義と自由市場は、燧石のナイフやカセットテープ、イスラム教、共産主義と同じ
くらい時代後れになるかもしれない。
 二一世紀には人間は不死と至福の神性を獲得しようとするだろうと予測することから始まった
この予測はとりわけ独創的でもなければ、先見の明のあるものでもない。それはただ、自由主義
的な人間至上主義の伝統的な理想を反映しているにすぎない。人間至上主義は人間の命と情動と
欲望を長らく神聖視してきたので、人間至上主義の文明が人間の寿命と至福と力を最大化しよう
としたところで、驚くまでもない。

 ※出典本/ホモ・デウス(下)ーテクノロジーとサピエンスの未来」/
ユヴァル・ノア・ハラリ著/ 2018年発行:河出書房新社刊:
文責/ 平川武治:

投稿者 : editor | 2020年1月 9日 02:32 | comment and transrate this entry (0)

2020年1月 7日

令和元年9月/昨年再開した、「MODE-YOSE」で話したこと。

 MODE-YOSE /#1で話した事。開催/ 令和元年9月01・03日:

 はじめに)「この再開する会のミッションとは?」/
 モード関係者が三人集まると必ず話に出てくる事、「もう全くモードの世界も変わったね。」
があります。
 モードの世界は変わって当たり前なのです。モードに関わる社会環境が変革し、時代が変わる
その兆しにモードは変わらず、敏感に触れているからです。変わらない或いは、変われない側の
世界例えば、TOKYOが“ズレ”てしまったのです。このズレを認められない、小さな世界で満足
しているレベルが、「トキオ・レベル」ですね。
 そんな東京では、ファッションデザイナーになりたい輩たちの根幹のミッションのその殆どが
以下のどれかに絞られる変わらぬレベルだから「変われ」なく現在に至っているからでしょう。
「自己満足+有名人に+カッコよく儲けたい+女にモテたい。そして、最近では外人の友だち」
と言うことは、気がつくとこれらは昔、ヤンキー今、マイルド・ヤンキーたちの「究極の
ミッション」と変わらず共通しますね。
 そして、ファッション・メディアとは、今や 評論するべき創造者もなく、唯、モードを知った
かぶりする輩たちを耳年増にするレベルが多い「レポーター」集団でしょう。
 作る側も、かつて“アーチスト”振っていた輩たちも今では自らの足元が危うくなってきた為、
慌てて、見よう見真似で“売れる”服作りに勤しんでいる世界。その大半は、今まで「デザイン」
と言う世界を小馬鹿にしていた「外国人コンプレックス」だけを身に付け学んで帰国した海外
留学生と称される輩たち。彼らたちはOEMというビジネスシステムを使って、“売れるもの”への
様変わりもいち早く、逃げ足だけが早い連中に成り下がってしまいましたね。
 では、この東京には本当に未だ、「ファッションを愛してる」「服を愛している」人たちが
いるのだろうか? そんな人たちは見ないでいい事がリアリティとしてより見えてくると、
たくさんのことで悩んでしまう。
 この会の再開によって、『「服を愛している人たち」と「本当に服が好きな人」たちと出会い
たい。そして、語り交わしたい。』それによって、『これからのモードに対する眼差しが新たな
時代とともに、潔く耀いて欲しい。』という一念がこの会、再開の僕のミッションです。

 1)ひらかわが見る、モードの現在点。/
→二つの中間領域の誕生。「黒人というニューカマーとジェンダーというニューゾーン」
新しい時代性を顕著に表している、時代を背負い込んだ「新たな消費者たち」。
→ 「モード」が始まった時代、モードの根幹とは、「ラグジュアリィー」でしかなかった。
1920年代に入り、新たなブルジョワジーと言う社会階級が登場したヨオロッパで誕生したのが、
そもそもの「モードの生まれと育ち」である。この根幹を経験値としてあるいは、教養として
理解しているあるいは、教育として刷り込まれたモード人はどれだけ存在するのか?
→「モードはいつも時代の兆しを先読みしている。」
それぞれの「中間領域」の誕生によって、「近代」という時代の終焉を感じ取り始めた。

 2)最近読んだ本;「ホモ・ゼウス」が示唆する近未来,”HOMO ZEUS”とは?
(別紙/読後まとめ参照。)
→20〜30年後の「人間の価値や役割、存在意義」とはを考える為に参考にすべき本である。
「近代」は「第1次産業革命」と「人間至上主義」によって19世紀末ごろに登場した。
それまでの「近世」に至るまでの人間は「神の民」であり、「神至上主義」の世界であった。
神と人間を繋げていたのがキリスト教、イスラム教そして、ユダヤ教という“一神教宗教”であり
現在もそうである。
 「神至上主義」から「人間至上主義」への変革とは、取りも直さず、「白人至上主義」である。
この「白人至上主義者」たちが「個人」を拠り所に、「自由主義」+「社会主義」+「進化論
主義」たちを誕生させた。そして、これらがそれぞれの集団として「国家」が誕生し、現在では
このそれぞれの「集団」が、「資本主義国家、社会主義国家そして独裁主義国家」を誕生させ、
「個人主義」をも誕生させ、現在では「超・個人主義」にまで至っている。

 ◯この白人至上主義者たちが構築した「近代」というパラダイムとは?/
 *「近代」は”取り決め/契約“社会で成立している。
「神」との取り決めから解かれた人間は、次なるは「人間」との取り決めが必要になる。
その取り決めとはいたって、単純で、「人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する。」
即ち、人間が持っているはずの「差異と力」。このシステムが崩壊した時、「近代」は終焉を
迎える。現代の“取り決め”の多くは「欲望」と「誘惑」から生まれる。
 *「近代」という「人間至上主義」よって与えられた人間の価値あるいは、役割とは?
「政治+戦争+経済そして、人権」だった。しかし、この「人間至上主義」は人間の存在価値と
その役割が認められる事によって、相互間で存在価値が生まれた。
 *今後、科学テクノロジーとP.C.バーチャル世界がより、進化し「A.I.」が「自動車」と同様な
進化発展を社会と生活空間へ齎すであろう。
 *根幹がそうなった時、「人間の価値や役割、存在意義とは?」あるいは「人間は何をして
生きてゆくか?」という終焉的なる問い。

 この著者、イスラエルの歴史学者、ユヴァル・N・ハラリは、ユダヤ人であることで可能な膨大
な歴史資料とテクノロジーの進化情報をかき集めた結果、「アルゴリズム・コンプレックス」に
陥り、「データー教」までを仮想しているやはり、「傍観者」である。
彼がこの本の“根幹”にしたのが、
1/生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理でありという教義。
2/知能は意識から分離しつつある。
3/意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちのことを私たち
以上に知るようになるかもしれないという妄想。
と言うある種、歴史学者特有の「傍観者」的視点の近未来観が述べられている本である。
 が、歴史としての人類が産んだ「近代」という時代を知り、その次なる時代を考えるには読み
込むべき必読の1冊であろう。

 3)足元としての、「デザインとは?」「デザインする事とは?」を考える。
→これを基準とした日本のデザイナーのレベルと評価。
 「デザインとは?」の根幹は“装飾化”することだけではない。日本では、これが中途半端な
アート指向へ走らせる。この恐ろしさの要因は、教育者たちが「デザイン」と「アート」の世界
の差異をロジックにも熟知していなく、従って、教育出来ない現状結果がある。
 「デザインする事とは?」それぞれの「時代の進化」と「生活者の進化」にチューニングされ
た「モノの進化」を促す行為がデザイン・カテゴリィーの根幹である。この好事例は’30年代の
アメリカから発してドイツ、日本にまで及んだポリテカルな「流線型ムーブメント」がある。
 
 ◯わかりやすい視点で「デザイン度」を考える。
a)パクる。コピーする。
 *いわゆる「猿まね」のレベルの世界。
b)少し、さわる。何かをプラスするか、あるいは引き算をする。
 *装飾化レベルのデザイン。
c)素材を変える。後加工を加える。
 *いわゆる、「グッド・デザイン」
e)モノの「進化」を考える。
 *新しい生活様式のための、新しいモノとしてのデザイン。

 4)「デザイナー」と「ファッション・ディレクター」の違いとは。/
グローヴァル化以後に顕著になった、デザイナーよりもディレクター思考の重要性とは?
→「ファッション・ディレクター」の登場とは?
→或いは、「ファッション・ブローカー」の登場。

 ◯「ファッション・ディレクター」が教養としても知っておかなければならない幾つか。
 *因みに、「モードとファッションの差異」とは?
「『モード』とは自我の衣掌化、『ファッション』とは自我の流行化。」
ともに、『自由主義者たちの自己の存在レベルによる自己アイデンティティのため。』
*では、「時代が変わる」とは?
生活における「豊かさ」が人間の営みに依って変化する事である。
*そして、これからの次世代たちが持ち得る「豊かさ」に対する眼差しとは、
「簡素な生活と虚飾な生活のいずれかを選ぶ“贅沢”が許されていると言う文化。」
*このような時代性では、「ブランドとは?」はその送り手の「文化度と贅沢度」がどの様に
独自にバランス良くシステムが構築されているか?でしかないでしょう。
 これをデレクションする役割が「ファッションディレクター」と言うデザイナーに代わった
この世界での職域です。ここでも「デザイン」と「芸術」の差異が歴然と理解できるでしょう。
 ディレクターが登場した事によって、彼らたちは”只の作り手“より、ビジネスマインドという
視点もより、必然になってきた現実世界です。
 
 ◯そして、これらが冒頭の「モードの世界が変わってしまった」という現実の根幹の一つで
しょう。

 終わりに、/
 以上のような内容項目で再開されたのが、前回の「MODE-YOSE」−1でした。
ご多忙の最中、参加くださった皆様、ありがとうございました。
合掌。
文責/平川武治:

 ◯参加者の皆様に見ていただいた一つの作品/
 CdG/19/20-AW COLLECTION:品番/GDJ504 051+ GDJ504 051/
素材;シリコン・ラバー
‘19年3月02日:Paris F.W.発表。
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投稿者 : editor | 2020年1月 7日 18:27 | comment and transrate this entry (0)

2019年12月28日

「近代」の綻びをモードの最前線に立って感じること。−1、

「近代」の綻びをモードの最前線に立って感じること。
*はじめに;
 僕はもう既に、2010年を過ぎた頃から、残念ですが、「モードにおける創造性」に疑問を
感じ始め、‘13年を過ぎた時点で、「モードの世界の創造」が枯渇し始めた。と生意気な問題定義
を発してきました。創造に変わって、“ブリ・コラージュ”の世界になってしまったという根幹。
 この定義の根幹は「構造としての人間の身体」はこれからも不変である。と言うことです。
即ち、モードにおける創造のその第一義は、「人間が着る」ということ。ここに、服が持つべき
「機能性」あるいは「拡張性」を考えるからです。もしかしたら、モードの世界が「進化」して
来たのもこの「機能性」ゆえ。そして、「進化」が緩やかになってきたのもこの「機能性」の為
でしょう。
 「服」における機能とは, 一つは外界への機能性、すなわち、“環境“に対しての機能性。
そして、もう一つは内観のためへの機能性。これは着る人間の”人間性や精神性“あるいは、
“気分やマインド、安心感”でしょう。それにもう一つ、“性”に対する機能性が最後に加えられ、
ここ半世紀を経たのが’70年に巴里で始まった「プレタ ポルテ」における創造と言う神話であり
脈絡でした。
 が、これがここ数シーズンで一つの歴史が終わったのでしょうか?
無論、当事者であるデザイナーたちが社会へ立脚してからの職業人としてのコレクションには、
学生時代には成績のためにこのような事を考え思い巡らせ、発想して作品を作っていましたが、
いわゆる、プロになってからの彼らたちの90%近くはこのような眼差しを持って「服」を作って
いません。では何を持って「服」作りをしているかと言えば、“トレンド”と言う儲けるための
安全枠、リスクヘッジを「流行」と称し、拠り所にして、「儲ける即ち、ビジネス」のために
毎シーズンのコレクションを作っているのが、実際の「ファッション業界」の現実であり、
この世界と構造は半世紀は変わっていません。

**「近代」と共に誕生したのが、「モード」の世界です。
 「近代」と言う19世紀後半からの時代は「人間至上主義」=「白人至上主義」=資本主義社会
=自由主義=個人主義=消費主義社会というパラダイムをヨオロッパの白人たちで構築して来ました。
そして、僕たち日本人もこのヨオロッパ発の見せつけられた「近代」と言うパラダイムの中で
あの「黒船到来」以降、急速に学び結果、「帝国主義」国家にまで発展、拡大しそして、やがて、
敗戦を経験し、その後の戦後復興と繁栄と経済効果によって、「革新」を生み出し、新たな
「豊かさ」=「差異と力」を構築し、この「近代」がもたらした循環構造の仕組みの中で現在の
ゆたかさの次に、「安心」も手中に入れて「発展」して来たのです。 
 従って、我々が当たり前のように発言している「時代が変わる」こととは「資本主義社会=
自由主義=個人主義=消費主義社会」というシステム環境内においての、それぞれの「生活の
豊かさ」のレベルアップが特に、大きなモチベーションになって「時代は変わり」、
このリアリティを感度良く誘発させ敏感にビジネスの構造と仕組みにある種、循環構造として
仕組まれ込まれたものがモードの世界における先に述べた「トレンド」でしたね。

***「近代」が綻びてきた兆しとして読める、「創造のための発想」としての概念の変化。
 モードの世界における「人間が着る」と言う機能性は当初の「Wrapping」から、90年代中期に
は「Covering」そして、2000年には既に、「Protecting」と言うコンセプトへ循環し現在では、
「Soft & Hard Protecting」に至っている事。
 そして、もう一つこのモードの重要な「機能性」が1825年にフランスで出版された、
ブリア=サラヴァンが彼の名著、「美味礼讃」で提唱した人間が持ち得ている6番目の感覚として
の「生殖感覚」に由来していることも忘れてはいけないこの「モードの機能性」なのです。
 ブリア=サラヴァンは人間の五感、視覚、聴覚、嗅覚、味覚そして、触覚にもう一つ、重要な
感覚がありそれが「生殖感覚」であると言う。「例えば、視覚は絵画や彫刻などのスペクタルを
生み出し、聴覚はメロディやハーモニィー、舞踏や音楽とそれを奏でるための道具を生み出し、
嗅覚は香料を求め、味覚は食べ物になる素材を生産し、選択し、調理することを促した。触覚は
手を用いた芸術や工芸、さらにはあらゆる工業を生み出す元となった。そして、最も重要な生殖
感覚は、・・・男と女の出会いを用意し、その結びつきを美しく演出するための道具として、
フランソワー1世が先鞭をつけたロマネスクな恋愛、コケットリィーそして、モードといったもの
を生み出した。“ロマネスクな恋愛、コケットリィーそして、モード”と言う現代社会を牽引する
3つの大きな原動力については、これらは生粋にフランスの発明である。」
(参照/「美味礼讃」: ブリア=サラヴァン著:玉村豊男訳:新潮社刊:2017年4月発行)
 従って、“モードの世界”のもう一つの機能とは、ブリア=サラヴァンが提言した「生殖感覚」
としての「男と女」の結びつきに関わる欲望や希望、感謝の念に由来するものでもあった。
 このように過去形とする理由は、モードの世界もここ数年で「男/女」間の「生殖機能」が
「GENDER」をも含める「生殖機能」(?)へ拡がったからである。
巴里のモードの世界のテーマが時代性と共に「Famme-Object」から「Homme-Object」へ、
そして最新のテーマ性は「Gender-Object」と言うまでの社会性に富んだ拡がりを持ち始めたのが
ここ数シーズンのこの世界の1番の面白さ?あるいは見せどころ?即ち、「COOL!」である。
文責/平川武治:静けさの師走、鎌倉にて。

投稿者 : editor | 2019年12月28日 17:38 | comment and transrate this entry (0)

2019年12月21日

今年の衝撃!昨秋の川久保玲、ファム・コレクションの1点。ー”想像の精気“

   ”想像の精気“/unospirio fantastico
川久保玲の逆襲ー20S/Sコレクションに感じる新たな精気。
ーーー「身体から離脱し、ヴィジョンという形を見た、”あの1点“。」
 
   いつもの僕のだらしなさから、あれほどの衝撃を受けた1点についてまだ書いていなかった
ことに先ず、その作者へ詫びるべきであり、あの1点でまた今後の川久保玲のモードを見続けたく
なった今年の衝撃コレクション。

*今シーズンのコレクションのためのお膳立て、/
 今シーズンのCdGファム・コレクションもその先便を発表したこのブランドのオム・
コレクションもそうだったように、ヴィエナ国立オペラ座で公演される歌劇「ORLANDO」の
舞台衣装を依頼されたことからの珍しい、“相乗りコレクション”であると言う。
これは“今年のトレンド”を見事に知的にそして文化度高く表現し、イメージングするには好都合
な策士的方法であって、もってこいのアイディアで手掛けられたかなり特殊なコレクション作り
であった。
 この様なある種のコラボレーションが可能であることの強かさと凄さはやはり、既に世界で
認められた創作者としての川久保玲の存在と共に、「ユダヤ・コネクション」の強みであろう。
他の日本人デザイナーのレベルではこの策は不可能に近い“事件”であろう。

 先ず何よりも、このVirgínea Woolf/ “ORLANDO”とは、「Gender-Object」がテーマの小説
であること。「伝記文学か、歴史文学か、幻想文学か、滑稽文学か、風刺文学か、頻繁に登場
する伝記作者の狂言回しを挟みなから語られる濃密な文体が急流を下る早さでうねり、逆巻き、
蛇行し、少年のオーランドーから性転換したオーランドを経て結婚、出産したーまで、そして、
エリザベス朝からビクトリア朝を経て、シェクスピアからホープまで滑稽に扱われ、上流階級の
バニティなパーティーがさんざん揶揄された“Gender伝記”である。」
(参照/ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/オーランド)
 これは前述したが、このシーズンにはもってこいの「Sauces of the Creations」であり、
今シーズンのトレンド・キーワードとなった、「CAMP」/「衣装」/「性転換」「GENDER」が
見事にブリコラージュされた伝記小説的であるこの“ORLANDO”の舞台衣装を手掛けたと言う、
このデザイナー・ブランドしか生み出せない見事な知的文化的なディレクションが先ず、
フィルターとして掛かって実現化が出来たコレクションだったことを褒めるべきだ。

**一つの言葉、「想像の精気」を探して、或いは、
  「川久保玲の未来観を観てしまった、1点。」/
 僕が「想像の精気」を感じ取ったのは、昨シーズンのCdGのランウエーの一番最後に登場した
作品である。(もちろん、この作品を生み出すプロセスにある「その前の黒ともう一つ前の黒」
も素晴らしい作品であるが、)
 この作品の以下の事、「使われた素材と素材感、その造形性とそして構築性そしで、37年間
以上、現役デザイナーで在り続けるデザイナーにしか出せないバランス観とシルエット」に
僕はイカれてしまった。
 そして、これらが見事に新たな「川久保玲」と言うハーモニィーを生み出していた“存在感”
そのものでもあった。
 
***「想像の精気」:unospirio fantastico/
 感覚的な性質から表象像が抽象されないならば、
知性はこの表象像を受け取ることが出来ない。
この限界によって、「想像の精気」が持つヴィジョンとしての能力といわば、知性に対する
その優越性が基礎づけられる。
 そして、自らに固有の場と極めて含蓄に富む意味とを見出すのである。

 『 目を通して微細な精気が刺激する。
それがこゝろの中に生気を目覚めさせ、
精気が身を動かし、
他のすべてを気高いものにする。
 目を通して侵入する繊細な精気は、
”より高く、より微細な“ 視覚の精気である。

 目から想像へ、想像から記憶へ、
そして、記憶から身体全体へと流れる
プネウマの循環というまでの経験。

 愛は、精気の動きである。
唯一の愛と言う経験とは?
想像を産む。
思いめぐらしとしての瞑想と同時に、
欲望としての愛、
想像とは、欲望に全く等しい。

 つまり、目を通して刺激し、
こゝろの中に精気を呼び起こす
微細な精気に対応するのは、
一つの欲望であり、
女性の顔から発して、想像の中に
その姿を刻印するイメージであり、
次々と続く精気たちの繋がりに対応するのは、
「新しい美」のイメージの絶えまない生成である。

 僕が見たものは、
モードの中には存在しないものが、
モードとなった一つだった。

 「精気の動き」
すなわち、愛や怒り、欲望、喜び
それに、悲しみ哀れみ、恐れあるいはその他の情動ように
言わば、心臓の拡張や収縮に応じての動き。

 感覚的であれ可知的であれ、
受動的な能力に対して対象が刻印する形相が、
ある意味で情動と呼ばれる。

 ちょうど、目にみえる対象が、
ある情動を感覚に与えたり、
可知的なものが、ある情動を知性に与えたりすることがあるように。
 
 また、別の意味では、
霊魂の動きが情動と呼ばれるまでに。
「意味すること」を「表現すること」
もしくは「隠蔽すること」とみなさなければならない
必然性を探し求めてここまで来てしまったのだろう。

 際限のない思いめぐらし、
鏡を見ると言う行為と想像力とは、
同一視されて良いだろう。
ならば、その向こう側
或いは、その内側とはを思いめぐらす。

 そして、目に向かられる精気は、
より高くより微細になるまで、
僕の想像の中に
彼女がやってくるのは、
いつも彼女に寄せる想いとしてである。

 僕はそれから逃れることはできないで
30数年を費やしてきた。

 自らの不幸にしがみつく愚かな魂は
いかに彼女が美しいけれどもすげないかを
思い描き、その苦悩を作り出す。

 それからこの魂は、この苦悩を見守り、
大きな欲望に満たされて、
夢からもそれが出てくるようになると、
自分自身に対して腹を立て、
苦悩が悲しみを燃えあがらせる
火種をつくるのだ。

 やはり、
僕が見たものは、
モードの中には存在しないものが、
精気となったモードだった。』

[image:F57BA59A-5DA2-4740-AAAB-73A1A9688DFF-453-0000004A044B9386/写真 20191016 134804.jpg]

****それは“建築”と読める、オールインワンという繋ぎ或いは、建築的構造体。/
 ここには、「川久保玲の未来観を観てしまった、1点。」が在った。
此処にはまだ、明日を見つめるその潔い深い眼差しがあった事だった。
 最近では使われるのが珍しく、しっかりと打ち込みが為されたむしろ、メンズ用に使われる
べき綿100%素材を使って創作された「服」(?)である。
 何故、このように言葉では表現出来ないかと言えば、見た目では、コオトにも見えるし、
ドレスにもみえる「服」だからだ。
 実際に現物の作品を触って確かめると、
「二重構造的な造形であり、表層はコオトのようであり、その内側は“オーヴァーオール”でも
ある建築的構造に構築された作品」とでも言おうか。
これは全く、新しいクチュール作品である。

 この打ち込みの強い綿素材のみを使用しての「あの1点」には今までからの込められた多くの
ものを感じるまでの「黒の造形」でした。
 「過去ー現在までの継続ー現在ーこれからの未来への想い」迄が、モダニズムを超えた建築
であり、モダニズムを捨てた造形物でありそして、「服」であり、「オールイン・ワン」(?)
 僕が使いたくない“芸術”という言葉を超えた新たな否、彼女だけ立ち向かうことが出来る世界
への挑戦であり、自分探しでもあろう「あの1点」でした。
 僕も「あの1点」によって、自分が為さなければならない世界への入り口に初めて立つことを
見つけられました。
 
 また、コレクション全体からは、
『ヴァージニアウルフー「オーランド」ー男ー女ージェンダーそして、人間。』と言う、
「個人主義+自由主義=人間主義」と言う「近代」と言う時代そのものの根幹が、
コレクションの中から「自由という名のメビウスの輪」を思い巡らせることができ、
決して、これらには独りの人間の際はなく「人間の世界」の「未完なる繋がり」であると言う
「絶対自由」への道程を「オーランド」と共に感じたことも。
 究極、これは一人の人間、川久保玲の生き様の自由な眼差しと覚悟であると感受した
コレクションでした。
「ありがとうございました。」
合掌。
文責/平川武治:
令和元年十二月二十五日記:

投稿者 : editor | 2019年12月21日 20:34 | comment and transrate this entry (0)

2019年7月30日

「近代」という時代の終焉が見え始める? 6月巴里オム・F.W.体験から感じ取れるもの。

『やはり、「近代」が崩壊し始めていますね。』
なぜ、これに僕がこだわるかといえば、次世代の「シン・近代」(仮称)は白人たちだけで
構築すべき或いは、白人たちだけがイニシアティブが取れる世界では無くなってきたこと自体が
「近代」の崩壊状況であるということです。
この眼差しを、前回の巴里で行われたメンズファッションウイークから深読みしてみよう

19世紀終わりからの「第1次産業革命」によって始まった「近代」は白人階級社会の業と欲を
軸にした都合の良さで構築されたもの。その根幹は「人間至上主義」が謳われ、それまでの
「神至上主義」が科学進化と発展によって成され生み出された機械文明社会と共に「神」の手
から「人間」の手へ時代が変わった。神に変わって人間に委ねられ、何でも可能だと言う哲学と
資本主義と共に近代という時代が誕生した。
だが、この時代における「人間至上主義」とは、やはり、「白人至上主義」であった事も認識
しておく必要がある。これが今後の新たな時代を構築するときの大切な主題であり「近代」が
綻びて来た第1の汚点であるからだ。

しかし、その「人間至上主義」が次々と自分たちがより、進化させた科学技術等の進化と発展
とその結果の経済発展により、全てが「金次第」と言う「個人至上主義」的なる現実がその実態
を表し始めた。現代では、その「個人至上主義」が構成する“集団”が“企業化”になり、その企業
倫理が今では“政治”の手法に取って代わられてしまったのが「近代」の現状。
だから、来たる次なる時代に対してどのような変革が必然かを考えると、次なる
「シン・近代」構築にはもう、「人間至上主義」=「白人至上主義」と言う根幹は通用しなく
なり、僕たち日本人の精神構造が必然である事を認識する教養を持ち日本人、僕たちがまず自認
しなければならない。そして、その必然性を白人たちとコミュニケーションを取り合って
「シン・近代」構築の共有性と責任を持たなければならないということが僕が言いたい今後の
世界視点と義務だと考えているのです。
なので、これを日本人が認識するためには「”教育“と教育者たちの志と視点がその大きな一端
を担っている。」という認識が教育関係者たちに理解してほしいという願望でもあります。

単純な言い方をしてしまうと、「もう、何でもかんでも、白人たちの行為がすごい!!という
時代は終わっている!!」と言うことである。”C.ゴーン・スキャンダル“でもそれは理解で出来る
だろう。

モードの世界の人たちは、やはり早く世の中の動きを感じその動きの大切さを予知している。
これが「モードの世界」の真の面白い根幹でしょう。「少し先の、世の中が感じられること。」
即ち、「予知力」が養われる世界でもありまた、彼らたちはJ.コクトー曰く、「逃げ足が早い」
連中でもある。(J/C.著「大股開き」より。)

今シーズンの僕の好奇心を煽った眼差しの先には、東京のF.W.のコレクション群では皆無
だった、「ジェンダー/LgbtiI」に対してのモード界のリアクションです。
今回の巴里はもう、これがメインの”キーワード“でしたね。そして、続くファム・コレクション
もこのシーンが様々なアイディアで見ることができる楽しいシーズンでもあるでしょう。

モードの世界では、従来=近代は「男&女」世界であったのがようやく、”ゲイ“が表層化し
始めてきたのが、80年代後期からでした。その後、20数年を経てこのグレーゾーンであった性の
領域が世界的な「ジェンダー」旋風によって広く社会化、認識され具現化されて来たのが
ここ10年来でしょう。
この現代の表層の新しい動きを流石、モードの世界は素早く味方にしました。
その根幹は白人たちによって新たにウエルカムされ始めた顧客である黒人たちへのMD戦略も
当然、踏まえた新たなマーケット戦術でしかありませんが、大事なことは「男&女」という
「0:1」の世界からその中間領域である“CAMP”を認識し始めたことです。
これそのものが「近代」そのものが揺らぎ始めたと読める証と僕は感受したシーズンでした。

過去の、白人たちはキリスト教分裂の発端時のある時代に、それまでの「天国&地獄」の
間に、「煉獄」という中間ゾーンを設けたプロテスタント/新教誕生がありましたね。
現在では実社会にリアリティとして表層化し始めたこの「ジェンダー/LgbtI」が近代後の新しさ
を生む根幹の「中間ゾーン」の発端になる。と僕は今後の「シン・近代」を夢見ています。

もう、白人社会が100年以上も死守して来た「0:1」/「良い・悪い」「YES & NO」などの
「二項対峙」的な世界観そのものが揺らいでしまったのです。この構造のままで資本主義が続行
されてゆくその先は変わらず、「富める者VS貧しい者」の進化と選榮化のヴァリエーションの
時代でしか無いでしょう。この世界的現代の武器の一つが、「P.C.」の登場でしょう。
これが現在にように“世界基準機器”になってしまってからはこの速度と範囲は急速にグローバル
になり、彼らの都合の一方的な方向へ流れるようになったのも現実ですね。

これは50年ほど前にすでに当時の白人たちが予知し、ローマンクラブにて提案し決議された
「成長の限界」論だったのです。当時はまだコンピューターが現在のように進化していない時代
だったために、その後の50年間彼らたち白人社会の主流は目先の自分たちだけの「業と欲」に
プライオリティを置きこの「成長の限界」説を都合良く置き去りにして現在に至って来ました。

ほころびて来た近代のルールとシステムを根幹にした現在の資本主義社会の行為は今後、
変わらず所詮、「上塗り」作業でしかなく、新しい世界を生み出すシステムでは無い。
ここでは、ただのヴァリエーションを増やすだけの世界が”PC &モバイル“機器を使ってより
短時間と広範囲に地球規模で「人間至上主義」から「個人至上主義」へ進化発展させ可能化
されたのがグローバリズムと言う現代。ということは、「近代」の無駄と複雑さを蔓延さすだけ
の行為でしか無い時代性とも読める。そして、ここでは殆どその構造が変革されない限り、
彼らたち「人間至上主義」=「白人至上主義」者たちしかこの「近代」構造システムによって
得られる「利権」を発展増長し続けるだけの世界でしょう。

ここで、これから考える、「シン・近代」社会の基本になるであろう、「共生/共棲社会」
構築に、この「0:1」以外の新らしさが認められるべきであり、東洋思想とされている地球を
思い愛し、自然や動物そして、他者への思い遣りとともに生活する日本人が潜在的に持っている
多重な宗教観から生まれる「宗教哲学」が新しい人間の生き方の根幹の一つになるでしょう。
「環境」とは自分たちの都合の良い状況トテリトリィーを生み出すだけのこれらも白人社会が
植民地政策主義時に考え出した言葉でしかなく、その後の「近代」を支えて来たキーワードで
ある「環境を守り、進化と発展」は今後先ず、「地球を守る」ことから考え「自然と共生」する
為の諸行為を覚悟も新たに実践してゆかなければなりません。

ここで僕の一つの“愛国心”的な願望を今後迎えるべき新たな時代へ提言したいと考え始めて
います。
先ず、日本人である僕たちの多重構造的な宗教観そのものがファジーである事。よって、
CAMPな感受性や美意識を持った優しさと思いやりが、豊かな日本人の精神性が新たな“近代”を
構造化するためには大いに参与すべき時代である。
例えば、近代社会が“自動車”と言うマシーンと共にモータリーゼーションで発展充実した過去
があるように、今後は「一家に一体のA.I.」時代の到来があるでしょう。今後、20年後にはこの
現実が「新たな人間至上主義」を迎えると仮想した場合に、今後の人間の「新たな人間性」を
考慮し構築して行くためにも僕たち日本人たちは覚悟ある発言しなければならない。

このような新たな第3次産業革命後、今後の人間がA.I.と共棲するようになる時代とは?
このシーンの想像予測はすでに多くの人たちが予言的なことも含めて提言され、多くの本も出版
されているが、その殆どは科学技術面での可能性論とA.I.そのものの性能を人間と比較した考察
論でしか無い。このような時代になった場合の「人間至上主義」とは?あるいは、
その「人間至上主義」に変わる新たな人間存在論とは?を論じたものは皆無に等しいのが
現実でもある。

この「第3時産業革命」以後の実生活における「新たな人間性」とは?その「価値観とは?」
そして、「人間の役割とは?」という視点が今、僕が若い人たちへ大いに、プロパガンダすべき
大切なことであると長い外国人社会との関係性から実感しています。
合掌。
<前編完。>
文責/平川武治:令和元年盛夏八月、鎌倉にて。

投稿者 : editor | 2019年7月30日 18:50 | comment and transrate this entry (0)

2019年6月30日

UNDER COVER S/S 20: COLLECTION/上質な「覚悟」を見せてくれた高橋盾君。

そろそろ、このようなメンズモードの安直で薄っぺらな表層に嘔吐し始める
デザイナーたちが登場始めた。

まず最初に、この狼煙を上げたのはUNDER COVERの高橋盾だった。
彼の実直で柔軟な自由の眼差しと性格の優しさとそして、持ち得た彼の美意識と自らの
ディシプリンによって、「LUXURY/贅沢度」満タンの今シーズンのUNDER COVERの高橋盾は
それ相当の「覚悟」を決めた“気概と根性”を世界レベルで堂々と見せつけてくれたコレクション
について、僕は書きたくなった。

僕の好きな映画の一つに、香港映画「花陽年華」がある。
2000年、あのW.カーウエーイが監督したこの映画は、英BBCが選んだ「21世紀 最高の映画
100本」で、2位に選ばれてもいる。
参考:http://www.bbc.com/culture/story/20160819-the-21st-centurys-100-greatest-films
今の若い人たちは宮崎駿さんのは絶賛するが、このようなもう既に,20年近くが経っている
名画には残念ながら殆ど、皆無であろう。
男と女の切ない出会いと想いと行為が“微妙な”状況の元で淡々と語られているこの映画が
これほどまでに“せつなさを微妙に“醸し出している大きな要因にこの映画の音楽がある。
“梅林シゲル”氏作曲のものである。僕の好きな音楽家でもある。彼の音楽の好きなところは
人それぞれが持ち得ているこゝろの想いや情景を叙情的に、西洋楽曲では表現し難い余韻を
旋律化させ、その時のこゝろの情景を想い出させるまでの時間の“間”が作曲されているところで
あり、日本人が持っている“湿り”が音楽化されているからである。
今シーズンのUNDER COVER のショーは“こゝろの湿り”を感じさす迄のスローな入り方で
ショーが始まった。これは白人や黒人たちには到底、この“繊細さとビミョーさ”は理解できない
ある種の彼が選曲した「美意識の旋律」であり、ここで聞こえてきたのがこの “梅林シゲル”氏の
「花陽年華」のサウンドトラックでスローに入り込むかのように始まった今シーズンのUNDER
COVERのコレクションはここでも、微妙な無彩色で始まりこの無彩色のまた、微妙なコント
ラストの展開で始終し終わったが、見事にまとまった新たなる「ジョニオ・ワールド」だった。

この今シーズンの彼のショーとは彼が20数年来ファッションに託しそして、服が大好きで
大切に考えて、愛して来た証としての彼にとっては、“次世代型コレクション”になり、その
「勇気と決断」は現時点では世界レベルでも高橋盾、一人しか創造出来得なかった「覚悟ある
コレクション」になった。
「やる時は、やってくれる!!ジョニオ君。」コレクションだった。

巷のメンズファッションも黒人たちが顧客に呼び込まれそのために、黒人ディレクターを
寸時に手配してメディア戦略によってただ、ケバくラップ宜しく騒々しくわかりやすい世界へ
と堕落して行く現実にうつつを抜かしその「上書きデザイナー」たちがいきがり、増えるのみの
退化しだ巴里の現実がより、広がり始めた今シーズンにあっては彼の覚悟の痛快さに僕は脱帽。

24年間が過ぎたストリートスポーティカジュアルのデザイナーとしての高橋盾は遅れている
このストリートカテゴリィーのファッションの世界ではもう既に“レジェント”の域に達している
デザイナーである。なぜかと言えばまず、2000年以後、センスの悪い白人デザイナーたちが
ストリートにビジネスを探し始めた時にその多くが「UNDER COVER」の上書きを行い、
今では新座者「黒人」たちがまた上手に彼の20年ぐらい前の世界からヒントを得て「上書き」を
始めているのがここ数シーズンのメンズの現実でしかない。そんな状況下でのメンズの作り手
である、若いデザイナーたちにはすこぶる興味深いデザイナーとしてその存在を認められている
のも証拠であろう。今回などはショー後のバックステージへ関係のなさそうな黒人たちの
ウロウロ風景が目立ったのも一端である。

「テーラリングへの新たな挑戦」これが彼がこのシーズンに「覚悟」した行為であった。
メンズファッションにおける、“テーラリング”というカテゴリィーは「何時かは通らなければ、
避けて通ることが出来ない」カテゴリィーである。ストリート出身のメンズデザイナーたちは
あえて、自分たちのリアリティからこの“テーラリング”を都合良く逃げて来た。テーラリングが
出来なくても、”ストリート・アイテム“の世界は”T-シャツ&スウエット上下“のバリエーション
の世界。そこにどの様な”プロテクション&アジテーション“が為されているか?そして、
“ユーモア&ペーソス”がセンス良く施されているか?のシナリオがすべての根幹である。
“ストリート・カジュアルウエアー”へこのような兆しを90年代終わりに既に、現実の“路上”
へ落とし始めたのは高橋盾で代表される日本人“ウラハラ系デザイナー”だった。その後、20年
ほどの時間が経過した現在も、メンズにおけるこの“ストリート”というカテゴリィーの世界は
ほとんど不変である。ここで変わったことといえば、“シューズ”がこだわりを付帯させて新たな
アイテムとして登場してきた事である。そして、この世界が今ではモードの世界へ押し上げら
れ、新たな黒人顧客の参入によって実に、分かり易い“ストリート・スタイル”のトレンドとして
“より、騒々しさ、派手さ、安直さ”が加わって再トレンドされているのが巴里の昨今の多くの
「上書き」コレクション。

高橋盾の今シーズンは「ここからどれだけ遠くへ、しかも、どれだけ新たなカッコよさが創造
できるか?」のコレクションだった。しかも、その彼の眼差しは確実に、「日本人の眼差し」で
あった。
当然ながら、この世界観は西洋人が自慢する世界である。軍服の為のテーラリングが
スーティングの世界にも求められ、英国、フランスそして、イタリーなど、それぞれの国を代表
する軍服からのテーラリングテクニックがそれぞれの国のダンディズムを生み、“スーティング
技術” を競うまでになったのがここ100年ほどの白人社会のメンズ・モードの歴史の根幹であ
る。ここに真っ向から向かうと“ドンキホーテ”のサンチョ・パンサになってしまう。が、
この立ち居場所に自ら甘んじて未だに、完全自己満足のために金と時間と労力を使っている日本
人デザイナーたちもいるのが現実である。
今回の高橋盾は自分が持ち得ていたリアリティとしての“ストリート魂”をこの世界へ投げつ
けた。
それらはジャケットでありコートであるバランスの美しく上質にテーラリング(肩入れ )
がなされた上着。ワークスからのアイテムをここでも、手を抜かずテーラリングがなされた
上着へ。施されたS.シャーマンの写真が見事なジャガード技術によって日本の“墨絵”の世界観で
施されている。また、“折り紙”や“ずらし”というジャポニズム手法を施された襯衣(シャツ)群
など等。また、彼の得意な世界の一つとしているスニーカーが1足もなかった、徹底ぶり。
「漆黒から、グレイ・ブルーそれに、プルシアン・ブルー」までのカラー・バリエーションはに
ソフィスティケートされたデニムラインのインディゴが根幹であろうか?
これらが見事に、「やる時は、やってくれる!!ジョニオ君。」コレクションになった。

高橋盾がこれほどまでに、これらのテーラリングに魅了されたのは「VALENTINO」との
コラボレーションが始まりイタリーへ招かれて見てしまったことの全てに由来しているという。
長い経験から言わせて頂くと、多くの日本人デザイナー達が「パリ・コレ」デザイナーという
肩書き欲しさにパリへ“ネギ”を背負ってくる。そして、それなりのお金さえ使えば、誰でもが
コレクションには参加できる。これが現実である。そして、現在ではそれなりの現地組「日本人
チーム」が裏方を全てをやってくれる仕組みも出来上がっている。従って、「金次第」で憧れの
「パリ・コレ」デザイナー誕生は簡単にできる。そして、現在ではこの「金次第」の世界も中国
人たちがこの「金」を出してくれるケースが増えている。巴里でショーをやり、日本でそれなり
のメディアに騒がれる。それをもとに彼ら、中国人たちは自国でがっぷりとビジネスに落とし込
み彼ら達は損をしない。「タヌキとキツネの化かし合い」関係が昨今の、日本人デザイナーと
中国人ビジネスマンたちの関係性である。これの化かし合いに乗っかっているデザイナーたち
は、巴里へ来てコレクションをしても「巴里からは何も学ぶ事なく」只、イキがって帰国する。
早く凱旋帰国し、メディアに騒がれたい、“完全自己満足”に浸りたい。そして、“女にモテた
い。” このレベルのデザイナーたちである。折角、巴里へ来ていても、ネット上で「上書き」の
ネタ探しはするがこの街から学ぼうとする心気あるデザイナーは殆ど、皆無である。

高橋盾レベルの経験を積んだデザイナーは既に、現地の外国人たちとの関係性を持ち、
彼らたちから、学べるものは学んでいる。その結果が今回の「覚悟」を感じさせるまでの
UNDER COVERコレクションになった。

人間は、「見てしまわなければ、進化しない。見てしまったことによって、
自分がどのような行為をとるか?これがその人間の人間性に繋がる。
そして、その人間の「人格」を生む。
見てしまっても何もしない人間はやはり、クズである。」
この根幹は僕はやはり、残念な事であるが、その人間の生まれと育ちあるいは、家庭教育に
由来すると感じる。

「VALENTINO」の工場を見る機会を得た事で始まった、「新たなる時代へ、」堂々と、潔く
旅立ち始めたUNCER COVER,高橋盾の懐の深さを感じさせた今シーズンのコレクション。
彼の美的根拠あるいは、審美眼の根幹はもう、決して「トレンド」の範疇では収まらない。
寧ろ、トレンドという「壁紙」から遠く離れて、自らがその経験と関係性で持ち得た、彼自身の
世界観から生み出された彼の「LUXURY/贅沢度」がすべての根幹である。
結果、いぶし銀的なる「ジョニオ・ワールド」コレクションであった。

“梅林シゲル”氏の「花陽年華」のサウンドトラックがフィナーレにまで染み込んできた。
この日本人しか感じられない“湿り感“と共に、高橋盾の「覚悟」が一つのエピローグへと
繋がる。
「 ありがとう、ジョニオ君。」

「 浮ついたトレンディーな世の中に
心底飽き飽きしています。
こうなったら徹底的に抵抗してやろうかなと思っちゃいます笑
自分に足りないものを足していくのはとても大事ですから。
そんな思いです!」/談/高橋盾:

文責/平川武治:巴里ピュクピュス大通り。



投稿者 : editor | 2019年6月30日 23:37 | comment and transrate this entry (0)

2019年6月22日

[速報]COMME des GARCONS H.P. S/S ‘20 “What the camp show?”

6月21日発; 「巴里のF.W.で今日行われた、”コムデギャルソン オム プリュス”
S/S ‘20のコレクションの根幹とは?
「CAMPなショーであり、CAMPなコレクションであり、でも、実はCAMPでない
ガーメントだった。」

そのうえで「上書きされた(?)」“オペラ オーランド”のコスチューム担当デザイナーと言う
シナリオ?

ここから読める、今後の企業、”COMME des GARCONS“の行方。
この企業にとっては、ここ数ヶ月に議論され取らざるを得なかった一つの大きな重大な「覚悟」
が為された出来事があった。
それはこの企業の創設以来から“COMME des GARCONS”の存在と継続を共に構築して来た
「影の立役者」或いは「影のボス」とまで言われるほどに企業、「COMME des GARCONS」に
なくてはならない、彼女がいなければ現在の企業、「COMME des GARCONS」は存在し得な
かった貢献者であり、生産担当重役であり、「影のボス」だった、このブランドの初期時代から
素材手配から工場手配と納期管理及び、もちろん「クオリティ管理」までの全て、現在ではこの
役割の部署が一番実際の製品作りには重要になってきている、をディレクションなさって苦労を
共に為さって来られた僕が尊敬する、怖い「田中蕾さん」がご引退なさった。という現実の
「覚悟」の選択がこの企業、「COMME des GARCONS」を洋上の嵐に巻き込んだらしい。
多分、この「覚悟」の話は1年ほど前から双方で持ち上がっていたのだろう。
その結果とも今からでは読める、前々回の昨年秋の「COMME des GARCONS」Fammeからは
「川久保玲の逆襲」と僕は発言していたコレクションが再開され始めたからである。
ここでは、この20数年間、ちょうど現在の夫、エイドリアン氏と「ビジネス婚」後、この
企業の経済問題から「オリジナル素材」が「使えない」情況が始まり以後、川久保玲と田中蕾
に負わされた重責は「オリジナル素材」を一切使わないでこの苦境を乗り切るというミッション
の元にこの二人、川久保玲と田中蕾は企業、「COMME des GARCONS」の為にこの間、25年
近くの時間を、オリジナル素材を使わないで、どのような「あと加工」が出来るかに彼女たちのチャレンジと創造性が懸けられ苦境と辛苦を守ってこられた現実を読んでいた僕の”深読み“が
「川久保玲の逆襲」を感じさせ、先シーズンでは「川久保玲とアマゾンヌ」なコレクションと
なり、例えば、今まで彼女たちが使わなかった、「シリコン・ラバー」素材の成形作品まで
出した激しく、強く、彼女たちの気骨が貫かれた素晴らしいコレクションエネルギィーを浴び
させてくださったコレクションだった。
ブランド「COMME des GARCONS」という世間からの見られ方、そのメゾンでのモノ創りを
する者にとってそして、特にこのような時代性においては、「使いたい素材」、「選べる素材」
そして、「使える素材」が全てのクオリティと創造の勝負である。
この企業、「COMME des GARCONS」がここまで進化成長してきた原因の一つは80年代
後半からのこの企業独自の「オリジナル素材」開発とその素材をよりよく見せるために使って
来た想像力と創造が、そして製品クオリティ力に一番説得力があった時代を経てきたからである。
ここにこのブランドと企業、「COMME des GARCONS」が持ち備えた「差異と力」の根幹があり、これが新たなユダヤ人パートナーと出会って世界におけるファッション業界へ向けての
「差異と力」をユダヤ式システムの投入と再構築されたゆえの現在の世界ブランド企業、「COMME des GARCONS」の全てが継続されて来た根幹であろう。
しかし、新たなビジネスパートナーとして参加した彼は、対外国メディア対応の通訳としての立場と企業パートナーとしてのスポークスマンの二役を買って出ることで、「新たな神話」を
企業、「COMME des GARCONS」を世界へ売り込み始めた。
しかし、この世界版「企業、COMME des GARCONS神話」のシナリオには残念ながら、
「田中蕾」の役割はさほどに語られていないのが現実であり、ここが彼らたちユダヤ人の巧妙さ
でもあり、この世界のファッション業界においては現在これが成功してしまっている。

このような存在だった、田中さんがご引退された。
まだ川久保さんよりもお若い。
いろいろな諸事情が重なり合って、この「覚悟ある状況」とその決断がなされたのであろうが、
僕のように長過ぎるほどこのブランドに外野席で「ぶら下がってきた」者としては、非常に悲し
く、寂しくそれ以上に辛く、ある種の悔しさも感じてしまった。

『田中さま、本当にご苦労様でした。僕のようなものにまで大変長く、とても素晴らしく、強い気骨ある世界と服を見せてくださって、ありがとうございました。』

この田中蕾さんの引退については後日また、書かして頂くことにしよう。

さて、本題へ戻ろう。
ここ1年来、このファッションの世界で語られるべきボキャブラリィーが幾つか在る。
むしろ、語らざるを得ないボキャブラリィーである。このボキャブラリィーによってそれなりの
重みがブランドに付くまでのヴァリューであり、その一つが、「LGBTI」である。もう一つは
「サスティナブル」であり、「シリカル」であろう。

僕が見る限り、これらのボキャブラリィーは残念ながら、先の東京コレクションでは殆どの
デザイナーがその彼らたちのコレクションと称するものの中では「壁紙」を上塗りするだけで、
「語り得なかったボキャブラリィー」であった。

しかし、世界に目を向けると今、ラグジュアリィーなモード界では一番脚光と注目が持たれ
ていて、このボキャブラリィーが “自分たちのボキャブラリィー”として語られなければ、
今後のメゾンの存続にまで関わり、自分たちの立ち居場所が消滅してしまうであろう、そんな
「語るべきボキャブラリィー」として、「LGBTI」があり、「サスティナブル」&「シリカル」
がある。
多分、これらのボキャブラリィーが引き金になって、「近代」が終焉を余儀無くされ、
新しい次なる「近代」の扉が開かれるのだろうとまで考える。
「サスティナブル」&「シリカル」の根幹は、「地球環境保護」であり、この意識は商品と
しての「服」の実際の生産過程で注意深くケアフルに取り込まれなければそのブランドの
「品格」に及ぶと既に、実施している高級ブランドは増えている。
が、CdGは未だにこの「サスティナブル」&「シリカル」には全く手付かずで現在に至ってい
る。
そして、もう一つの「LGBTI」も新しい社会人文的シンボルであり、リアリティとして既に、
“新たな顧客”として組み込まれ、じわじわとデザインワークに溶解し始めて来た。
例えば、あのセリーヌのディレクターに招かれたエディ・スリマンは彼の生き方を語るまでの
身体拡張(?)として、“薄化粧”を日常に持ち込み、生き方そのものを“メタモルフォーゼ”
し始めている。彼は、きっとモード界のR.メープルソープを目指しているのだろう。

モードの世界も、110年ほどが経って、気がついてみると「女性」と「男性」と言う性別
カテゴリィーだった世界に“Camp”なカテゴリィー・ゾーンが誕生し始め,この対峙する二極構造
そのものがすでに、「ナフタリンの匂い」が香る「近代」となり、遺跡化されてしまったという
までの時代性が今シーズンは読める。
多分このような時代性を素早く感じ取っての今回の川久保玲が「覚悟」を決めて見せてくれた
コレクションと僕は読んだ。

元々、この街パリで“Mens Fashion Collections” のいまのような形式で誕生したのは、‘85年
からだった。それ以前は、この国も紳士服組合が主催して行われていた紳士服見本市(SEM)の
会場内でのアトラクション的に行われていたシステムが‘85年からこの形式を”Famme
Collections”と同様な形態と手法に進化され、現在に至っている。
この時、現実社会には既に、「同性愛者」たちはこのモードの世界へ“送り手と受け手”という
“関係性”でかなりの人口が増えつつあった時代性を丁度、この年に巴里へ来た僕は覚えている。
特に、この数年前からこの街のモードの既成事実を次々に打ち破る美意識を携えて感性と感度
豊かな世界観を創造し、メディアに登場し始めていたJ.P.ゴルチェの存在と活躍も大きかった
であろう。当時、彼の存在と自由度がなければ、この街のメンズモードも現在のような危なげな
華やかさの魅力は誕生していなかっただろう。
従って、モードビジネスの関係者たちが新たな「モードの入口」とした“Homme
Collections”のビジネスシステムがこの機にこの街で誕生されたと読める。

僕自身の経験では、‘72年にこの街に演劇の仕事で訪れた時の経験では既に、「同性愛者」
たちは存在していたが、当時の彼らたちは’66年にS.ソンタグが著述した、『非定住のキャンプや
仮設テントによって自分自身を仮設のインスタレーションとして表現する「キャンパー」にも
通じる』態度と環境でそれぞれのプライド観とともに生活をしていた現実を体験した記憶は未だ
に残っている。「同性愛者」たちが集まる場所では彼らたちは意気高揚と振る舞い会話をして
いるが、周りにノーマルな男性を意識した公衆の場では途端に「ヒソヒソ声で語り合い、行動」
していた彼らたち「同性愛者」の存在であった。
独りの人間が、自由を拠り所とし、「個人の生き様」の一つとして自分が選んだ生き方には
すべて、その個人が持たなければならない「覚悟」と「責任」が付帯すると言う「当たり前さ」
は昔も今もそして、男も女も普遍である。その根幹に「自由」を求めれば、尚更のことである。
当時であれば、「同性愛者」たちが自分たちの持ち得た才能が活かせ、心地よく生きて行く
世界、「CAMP」の一つに「ファッションの世界」が既に、成立していた事も事実だった。

そして、この35年程の時間の流れの元、現在では気がつくとファッションの世界のみならず、
多くの「同性愛者」たちが一つの社会的カテゴリィーを持ち得るまでにこの「自由の裁量」は
進化、拡張され昨今の「LGBTI」と言う広がりへ至っている。特に、このファッションの世界で
は「同性愛者」でなければ、超越した自由さと大胆かつ、繊細さによった豊かな創造性が生み出
せないと言うまでの“常識”が既成事実を生み出した。
したがって、この世界で今日現在、「同性愛者」を語る事そのものは、既に新しくない世界で
ある。
このような時代感を読み込んだ(?)今更と思うまでのコレクションを行なったのが、
今日の「コムデ ギャルソン オム・プリュス」のショーだった。
昨日のショーでは「LGBTI」をそのクリエイティブ・コンセプトの根幹に据えて、見せた
『CAMPなショーであり、CAMPなコレクション。』だった。これに上書きされたのが、歌劇、
「オーランド」の衣装を手がけると言うシナリオ。
「LGBTI」をどのように伝える為のショーのボキャブラリィーに使うか?
そこで採られた手法(?)、その一番わかりやすいコンテンツとして選ばれたのが「CAMP」。
そして「歌劇、オーランド」の衣装担当。
僕が思うに、これは最もファッション的でまた、最もトレンドな処方であり、最も表層的な
手法を選択したこのメゾンの旨さでもあり結果、世間を、メディアを驚かすだけ(?)が
いつものこのメゾンのミッションだったのか?と感じてしまうまでのコレクションでした。

実際、日本のファッションジャーナリストがどれだけこの「CAMP」を理解しているか?
あるいは、「歌劇、オーランド」をかつてに観たことがあるか、(自分でお金を支払って、)
まず、若い世代は教養不足で知らないであろう。
知っているとしたら、今年のN.Y.メトロポリタン美術館のファッション展示のテーマとしての
「CAMP」と言う理解度であろう。また、その展覧会のガラ・パーティーのドレスコードが
「CAMP」で、よりファッションピープルたちには理解(?)されているだろう。
しかし、このファッションイベントはやはり、女性が中心になった「CAMP」とはどのような
“衣装”を身につけてゆけばいいのか?が現実のレベルであり、これだけのヴァニティが揃っての
情報はすでに、メディアでも報道されてしまっている。なのに、何故、わざわざこの「CAMP」
を今回のコレクション手法として使ったのだろうか?

多分、僕なりの“深読み”をすれば、「あえて、メンズの世界だから、」と言う発想。そして、
「歌劇、オーランド」と言う上書き。そして、CdG H.P.版「LGBTI」=「CAMP」を表現して
みたかった。或いは、意表を突くと言う分かり易いいつものこのメゾンの“ミッション”によって
反響を求めたいがために?

無知、無教養な輩が多い日本のメンズファッションジャーナリストたちや業界人たちへ
向かって“吠える。”川久保玲の魂と姿を先ず、彼ら達が自認してほしい。
今や、多くのファッションジャーナリストと称する群衆は僕的な見方で言わせて貰えば、ただの
「ファッション・レポーター」の輩でしかないだろう。
もちろん、この世界を評論することができるレベルのクリエーションも少なくなり、それを
評論したくなるようなコレクションもほとんどなくなったのも、もう一つのこの世界の現実で
あろう。
しかし、「良い評論が出るからまた、優れたデザイナーが登場する。」と言うお互いの
関係性がいつから損なわれてしまった世界になってしまったのだろうか?
この現実状況をも目論んだ川久保玲の戦略は今回もまた、彼女に軍配が上がるであろう。

今回の川久保玲のコレクションを見て、彼女は自分で批評家、スーザン・ソンタグ
(Susan Sontag)のこの60年代の異端著作であった、「キャンプについての覚書」(『反解釈』
1966/所収)を読んだのだろうか?
或いは、自身の身近かな同性愛者からの単なるファッションビジネス的アドバイスによって
アートディレクションしたのだろうか?
そして、時代は「同性愛者」たちがより、細分化され(?)た現在の「LGBTI」たちへ、
何かを差し出したかったのだろうか?
或いは、これは彼女の「心の涎」なのだろうか?
僕には、ここにも変わらないこのデザイナーの何時もの立ち居場所が見えてしまう。
それは、「決して、当事者ではない、傍観者としての覚悟しか見えない。」それである。
「CdGとPUNKな関係」も同様である。「モードとしてのパンク」をこの世界で長生きさせて
いる張本人であるからだ。

女性モノの世界で散々見せられ、見慣れたディテールとエレメントが「同性愛者」ではない
若者たちも混じって、スタイリングされ、着さされて、「モダンダンサー」よろしく狭い薄暗い
会場を“舞う”仕草。ここまで来ると僕はやはり今シーズンのトレンドである、「ユニフォーム」
の世界をも感じてしまった。
それは僕流のボキャブラリィーで言ってしまえは、「ニュアンスなユニフォーム」の世界で
しかない。と言うことは、「同性愛者」たちのユニフォームという拡大解釈までが可能な現実的
世界だと言うことでもある。
このレベルに驚き、「凄い!!」と発するオーディエンス、フロントロウに座らされた輩たち
見る側の教養不足と世間知らずを上手に手玉に獲ったコレクションとも読めた僕である。
ユダヤ人的発想からいえば、「一つのことで三つ以上をミッションにする。」であろう。

参考までに、「CAMP」について下記のいくつかの情報をご一読くださればもっと、
これからの「LGBTI」の根幹が、そして、今回のCdG H.P.のコレクションが、
「CAMPなショーであり、CAMPなコレクションであり、でも、実はCAMPでないガーメント
だった。」が理解出来るでしょう。

「参考/ CAMPについて;」ー1:
「批評家のスーザン・ソンタグSusan Sontagは、「キャンプについての覚書」
(『反解釈』1966 所収)で、キャンプを「不十分な深刻さ、経験の劇場化の感性」「感覚の
自然なあり方よりも、それを人工的に誇張するような感性」だといっている。
「高級文化」の倫理的な深刻さや格式、「前衛」のもつ葛藤への極限的な表現と区別して、
彼女は三つめの文化的な価値基準としてキャンプを位置づけている。世界への徹底的に肯定的で
審美的な態度でありながら、その態度を滑稽であると自認し、みずからを面白がる皮肉な視線を
伴った生き方、そのようなキャンプの感性は、自分らの異質さをパフォーマンス化して、
そうすることで逆に、現実や周囲の世界、社会的な制度を異化していくことができる。
それはソンタグが、ゲイの美学や世界戦略を、60年代ポップカルチャー時代におけるダンディ
ズムの可能性として評価したものであったが、今や、ポストモダン的な感性としては一般化した
ともいえる。つまり、自己への再帰的な言及を欠かすことなく、同時に自己のアイデンティティ
を、受け入れつつも、その生成それ自体を軽やかに問題化していく感性である。
「キャンプ」な作家は、愛するものや表現しようとするものには誠実であるが、同時に、
「真面目さ」を窮屈だとして笑い飛ばしていく。それは、定住による登録と分類を空間の
ポリティックスとする資本主義システムにあって、非定住のキャンプや仮設テントによって
自分自身を仮設のインスタレーションとして表現する「キャンパー」にも通じる態度では
なかろうか。」
・参考文献/松井みどり/2002:『アート:”藝術”が終わった後の”アート”』/朝日出版社
P.ブルッカー/2003:『文化理論用語集』/新曜社
暮沢剛巳/2002:『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』/フィルムアート社
https://keiofieldwork.jimdo.com/field-work-shop/%E7%9F%A5%E3%81%A8%E5%AD%A6%E3%81%B3%E3%81%AE%
E5%86%8D%E7%B7%A8%E6%88%90/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83
%B3%E3%83%97/

「参考/ CAMPについて;」ー2:
「2019年『METガラ』のテーマは「キャンプ」 ソンタグが提唱した美学」
2019年のテーマは「ファッションの中のキャンプ」。スーザン・ソンタグの論文に依拠
大きな人気を博した「ファッションと宗教」に続く、2019年のテーマは「ファッションの中の
キャンプ」だ。
この「キャンプ」の概念は、スーザン・ソンタグが1964年に発表した論文『「キャンプ」に
ついてのノート』に依拠している。ソンタグはこの中でキャンプについて「不自然なもの、
人工的で誇張されたもの」を愛好する感性、美学であるとした。
『METガラ』の2017年のテーマは「川久保玲とコム デ ギャルソン」だったが、
今回の『Camp: Notes on Fashion』展にも出品が予定されている川久保玲は、
コム デ ギャルソンの2018/19年秋冬コレクションのショーが『「キャンプ」についての
ノート』からインスピレーションを受けたことを明かしている。
「キャンプ」の美学の起源と、ファッションへの影響を探る展覧会『Camp: Notes on
Fashion』では、この「キャンプ」の美学の起源を探求し、いかにしてメインストリームの
カルチャーにも大きな影響を与える存在になったのかを考察する。
メトロポリタン美術館コスチューム・インスティチュートのキュレーターであるアンドリュ
・ボルトンは「ソンタグの『「キャンプ」についてのノート』を効果的に例示しながら、
現在進行形で変わり続ける『キャンプ』のファッションへの影響に関するクリエイティブで
批評的な対話を進める」と展覧会の内容を説明する。
また「ハイアートとポップカルチャー双方へのキャンプの大きな影響を紐解く展覧会になる」
と語るメトロポリタン美術館ディレクターのマックス・ホラインは、「本展はキャンプの変化を
辿り、重要な要素に光を当てることで、この大胆なスタイルが持つアイロニックな感覚を体現
し、美や審美眼に関する従来の考え方に挑むと共に、美術史・ファッション史上でこの重要な
ジャンルが果たしてきた決定的な役割を確証する」と明かしている。
「衣装や彫刻、絵画など約175点が出展」
展示作品は、女性服、男性服に加えて彫刻、絵画、ドローイングなど約175点を予定。
作品の年代は17世紀から現在まで幅広い。取り上げられるデザイナーには、クリストバル・
バレンシアガ、トム・ブラウン、ジョン・ガリアーノ、ジャン=ポール・ゴルチエ、
マーク・ジェイコブス、クリスチャン・ラクロワ、カール・ラガーフェルド、ミウッチャ・
プラダ、イヴ・サンローラン、ジェレミー・スコット、アナ・スイ、フィリップ・トレーシー、
ジャンニ・ヴェルサーチ、ドナテラ・ヴェルサーチ、ヴィヴィアン・ウエストウッドらが名を
連ねる。展覧会はグッチのサポートによって行なわれる。
『METガラ』の共同主催にはレディー・ガガ、ハリー・スタイルズ、テニス選手のセリーナ・
ウィリアムズら参加。
展覧会『Camp: Notes on Fashion』は2019年5月9日から9月9日まで開催。
オープニングを記念する『METガラ』は5月6日に行なわれる。アメリカ版『VOGUE』編集長
のアナ・ウィンターと共にホストを務めるのは、レディー・ガガ、ハリー・スタイルズ、
グッチのクリエイティブディレクターであるアレッサンドロ・ミケーレ、そしてテニスプレイヤ
ーのセリーナ・ウィリアムズである。レディー・ガガの過激で驚きを伴うファッションは、
「不自然なもの、人工的で誇張されたもの」を愛好する感性、というキャンプの定義と相性が
良さそうだ。グッチのキャンペーンモデルも務めるハリー・スタイルズ、そして「女王」
セリーナ・ウィリアムズがこのテーマをどのように解釈するのかも注目が集まる。
#MetCamp
・参考サイト;https://www.cinra.net/column/201810-campmet

「参考/ CAMPについて;」ー3:
2019年のメットガラはCampy(Campっぽいもの)ではあれど、Campではなかった。 
スーザン・ソンタグの『キャンプについてのノート』をテーマにしながら、Campの解釈が、
そして,ガラでオープニングを飾った展覧会の内容にしても、多くの疑問が湧く。
それはソンタグの伝記作家として指名された作家ベンジャミン・モーゼーも同じだった。
本人とも交流があった彼は、今回のメットガラを巡る議論に加わり、「タウン&カントリー」で
このように疑問を呈している。
スーザン・ソンタグはメットガラを愛していたであろうと思う(今回、私自身は憎まざるを
得ないけれど)。
今年のメットガラはソンタグから(少なくともその一部を)インスパイアされたものである。
メトロポリタン美術館の衣装芸術研究所の資金集めイベントとして開催され、毎年異なるテーマ
にスポットライトを当てて祝うこの夜は、ファッションカレンダーにおいて最もパパラッチされ
るガライベントだと言える。今年のメットガラはソンタグによる『キャンプについてのノート』
にオマージュを捧げている。
1964年に伝説的な文学と政治を扱う季刊誌、『パルティザン・レビュー』に発表された
こちらの作品は、ソンタグを一躍有名にしてみせた大胆不敵なものだ。「世界に存在する数多く
の物事は未だ名付けられてさえいない」と書いた彼女は、「そして多くの物事は、名付けられて
はいるものの、それが何であるか述べられることもない」と語った。
ソンタグと当時の彼女の周りのまがい物軍団たちはそういった名付けられていない物事に
名を付け、真剣な人間なら書くはずもなかったことについて ―あるいはこれまで真剣に書かれた
こともなかった数々の主題について書きまくり、図書館を埋め尽くそうと決心していたようだ。
「キャンプのエッセンスは不自然さへの愛、つまり偽物と誇張である」
そういった主題のひとつが、ホモセクシュアルでの指向における一種独特の雰囲気をまとう
‟キャンプ”と言われるものだった。初期の草稿段階では『ホモセクシュアリティについての
ノート』と呼ばれていた。その後『反解釈』の一部として出版されると、ゲイの各種テイストに
対する公式論拠のようにも読まれるようになった。「キャンプのエッセンスは不自然さへの愛、
つまり偽物と誇張である」とソンタグは書いている。「そしてキャンプとは密教的なもの(一子
相伝的な内密なもの)であり、小さな都会の一派閥におけるプライベートなコードやアンデンテ
ィティのしるしでありさえする。
ソンタグは忍耐強く、なぜ(ジャン・)コクトーは‟キャンプ”で(アンドレ・)ジィドは
そうでないのか、シュトラウスはそうでワグナーは違って、カラヴァッジョと「モーツァルトの
ほとんど」がグループ化できるのか説明している。彼女はジェーン・マンスフィールドと
ベティ・デイヴィス、ジョン・ラスキンをさりげなくメイ・ウエストと同じに位置づけている。
真の「趣味の貴族」と彼女が書く人々はホモセクシュアルであり、彼らの「耽美主義と皮肉」
それとともに「ユダヤ人的なモラルに対する真剣さ」今日における現代的な繊細さを形作ったと
される。
キャンプとはレジスタンスだった。
ソンタグのおかげで、‟キャンプ”は、今私達が1960年台と結びつけるような新しくリベラルな
セクシュアリティやポリティクスに対するアティチュードを象徴するものとなった。
今日『キャンプについてのノート』を読むと楽しそうで面白おかしく ―そして、ちっとも
色あせていないことが分かる。だが、出版された当時は多くの人々からの激高を受けた。
当時は経口避妊薬が男性優位を脅かす存在であり、黒人市民権運動が白人至上主義を脅かして
いた。『キャンプについてのノート』はヘテロセクシュアリティ至上主義を脅かすものだった。
『キャンプについてのノート』は確立されたヒエラルキーを覆すための幅広い動きの一部で
あったのだ。
ホモセクシュアル的なテイストは常に芸術の底流にあった。ただ、名付けられるようなもので
あったことは稀である。もし名付けるようなことがあれば、ゲットーの中に投げ込まれていた
はずだし、そこの住人たちは病んでいて、倒錯している変態性欲の持ち主だとされていたこと
だろう。ソンタグはそういったアウトサイダーたちの繊細さがメトロポリタン美術館のような
エスタブリッシュメントの殿堂のような場所を包み混んでいるのを見るのを大変に愛したはず
である。
スーザン・ソンタグは同時に、メットガラを嫌っていただろう。
「私はキャンプという概念に強く引き込まれている」と彼女は書いている。「そしてそれと同じ
ほど強く、気分を害されてもいる」とも。
ソンタグはヒエラルキーに対する批評を展開し過ぎることで、それがより一層強力な
ヒエラルキーに置き換わること、お金だけが人間の価値を決めるような人たちによるヒエラルキ
ーになることの危険性を充分に承知していたのだ。
ソンタグは生涯に渡って難解な芸術におけるチャンピオンだった。それも長年の忍耐強い研究
活用によってのみ報われ、華美で派手なことが賞賛される社会に常に脅かされるような芸術に
おいて。彼女はセレブリティという概念に対してかなりの不快さを感じていた。ある人物の価値
がその人のイメージによって上下してしまうような ―または 皮肉でさえないタブロイド紙に
よってもたらされる薄っぺらな名声のために祝われるようなイベントで(名声を気にして)
怯える、そんな概念に。
ゲイの美学において、ソンタグは「社会への批判」「ブルジョワの期待に反する抵抗」を
見た。
ゲイの人たちが毎日殺害されてしまうようなこの世界で、ソンタグがもし健在ならば、
ゲイの人たちを除外するインサイダーの領域を象徴するようなイベントを賞賛し、深遠な批評を
展開するメインストリームの社会を見て、大きな警戒心を抱くだろう。そしてクレイグスリスト
(交流サイト)で人々がインシュリンを乞うようなこの国で、生涯をかけた社会的正義の活動家
であったソンタグが、ひとり3万ドル(約330万円)もするようなチケットが必要なイベントを、
そして、来場者が衣装やジュエリーに費やす法外な額を嫌悪したに違いない。
ゲイの美学において、ソンタグは「社会への批判」「ブルジョワの期待に反する抵抗」を見た
だからこそ、ソンタグはこの最も格式高い場所で開催される最もブルジョワ的イベントにおいて
闘い、真似してみせ、ウィンクしながら参加する、アウトサイダーたちの精神である
‟キャンプ”に対して、真実であり続けるパーティーゴーワーたちに興奮を覚えていたに
相違ないのだ。
(from Town & Country "Why Susan Sontag Would Have Hated a Camp-Themed Met Gala")
哲学的テーマをなんとかファッションとして表現することは、否定されるべきことではない。
しかし、その背後に様々な人たちの犠牲や思いがあるものを、マジョリティがファッションと
して消費し、本来いるべきである人たちを置き去りにしてしまうことは危険だとする、モーゼ―
の言葉にファッションで真剣に働く人であれば耳を傾けたいもの。」
(Translation : Oh Ryoko)
・参考サイト/ https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a22055094/
susan-sontag-met-gala-2019-camp-theme-190507/

ご一読、ありがとう。
文責;平川武治:令和元年6月22日;巴里ピクピュス大通り街にて。

投稿者 : editor | 2019年6月22日 07:51 | comment and transrate this entry (0)

2019年6月19日

「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のSS20/コレクションを深読みしてみよう。

僕はここ1、2年来のパリで見るコレクションに対しては、真から「かっこいい!!」
”It was so Super Cool!!”と思うようなものに、出逢い難い時代になったとしか感じられまないの
は僕だけだろうか?

これは自分でも判るのですが、僕は以前のように、書けなくなって来たのです。
これは自分が歳をとったと思っていたのですが、そうではなく、書きたくなるようなショーが
ほとんど、無くなって来たのだからでしょう。
僕が今までの30数年間、見続けて来た巴里・メンズコレクションの流れから言えることは、
その殆どが、「書くほどのものでない。或いは、書きたくなる程のコレクションではない。」
多くの若手デザイナーたちは表層のトレンドと称される「壁紙」を上塗りする「小手先」や
「要領の良さ」だけのレベルのショーでしか無く、メディアはそのレベルではしゃぎ回り、
おべんちゃら・御用記事で広告を取ろうとする魂胆がその総ての世界になってしまった?
そう感じてしまっています。
解りやすく言って仕舞えば、そんな彼らたちからは「欲の涎」しか見えないのです。
海外の今、世間を騒がしているブランドディレクターたちは在る時期に、思ひ切り騒がれること
をする事が“仕事”だと割り切って(?)のレベルでの“役割”しかしていませんね。
彼らたちはそれが自分たちが“有名”になる根幹だとスネてしまって、知っているからです。
ここには残念ですが、「服」が好きで、「服」を愛し、「服」を創造する人たちが、例えば、
川久保玲や彼女の頑張りにクールさを感じ自分たちのクールさを持ち続ける為に戦っている
高橋盾君や宮下君の“FORCE”がそして、その「こゝろと想い」が感じられるコレクションが
多くの「壁紙デザイナー」たちによって、ほとんど皆無になってしまった為でしょうか?

しかし、一度積を切ってしまった濁流は止まる事なく新たな黒人ファッショングルービーたち
の夢と強欲を飲み込むかのようにノイズを撒き散らす、そんな実情と表層の元で“Men’ s F.W.
Paris”が始まりましたね。
そんな気分の僕が初日の「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のコレクションは書きたく
論じたくなったのです。 原因はいまのこの様な時代で「全てが濃い」コレクションへ挑戦し
続ける彼のFORCEに魅了されたからです。

少し前に入った巴里、6月の巴里は二番目に好きな季節。
そして、今日も快晴。気温も風も心地よさだけを感じさせてくれている。
そんな穏やかさに委ねて読み始めた手じかに残っている本、
幾度も読んでいたはずなのに、昨日見つけたボードレールの一文が巴里の僕のこゝろに
ミラージュをおこす。

「女性が妖麗かつ超自然的な姿に見えようとするのは、全く正当な権利だし、一種の義務を
果たすことでさえある。女性は人を驚かし、魅惑する必要がある。偶像として、崇拝される
ために身を金粉で覆わなければならないのだ。だから女性は.......自然の上方に登る手段を、
あらゆる芸術から借りてくるべきだ。......そうした手段を数え立てれば限りもないだろう。
しかし、私たちの時代が俗に、メイキャップと呼んでいるものに、話を限るとしても、
おめでたい哲学者たちが愚かしくも排斥の対象としている白粉の使用というものは、狼藉者の
自然が顔色の上にまき散らしたありとあらゆる汚点を消し去り、皮膚の木目と色のうちに一つの
抽象的な統一を作り出すことを、目的ともし結果ともしており、この統一こそは、肉襦袢
(タイツ)によって作り出される統一と同じ様に、人間をたちまち彫像に近づける、すなわち、
神的で一段上の存在に近づける。......」
/「ボードレール全集#4/阿部良雄訳:“現代生活の画家”から。

「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のコレクションを見ていて頭に浮かび始めた
幾つかのシーンに混ざって、このボードレールの文章を思い出した。
彼が描いたこの文章はちょうど、150年前に書かれたものであるが古さを与えず、このように
”メーキャップ“について語られた文章としては珍しく僕は大切に感じている文章である。
このデザイナー宮下は日本人デザイナーに珍しく、壊れそうな繊細さを強靭に持ち、その繊細
さゆえに自分が生み出す服の世界では彼の饒舌さをデザインに込めたものである。
この宮下の繊細さがゆえの饒舌なデザインによる今シーズンのコレクションを僕は
「ニュアンスのユニフォーム」というシーズンだと発し感じた。
“ニュアンス”の意味は「微妙な雰囲気」と簡単に捉えるとわかりやすいかもしれません。
はっきりとわかることではないが、わかる人にはわかる微妙な雰囲気のことです。
ほとんどの日本人を含めたデザイナーたちが今シーズンのトレンドとしての“ユニフォーム”に
引っかかって、単純に機能あるものが“ユニフォーム”だと大いなる勘違いをしたコレクションが
殆どだったが、このデザイナーの宮下の思考能力は決して、そんなに浅くなかった。
むしろ、強かでアイディアと感覚を纏い付くまでに、考え解きながらそれを紐解いて行く
プロセスを自身が楽しみながらあるのデザイナーへの畏敬の念をも込めて構築して行く。
それが今シーズンは亡くなったK.L氏だ。彼の癖の一つである“Neck fetch.”へのオマージュが
見て取れる。
しかし、彼も今シーズンのトレンド・フレームである「Gender」のサークルに参加する。
それをロマンティクに彼の癖の一端でもでもあろうか、「フェッティシスト」に纏め上げた。
そこでは、僕は少年臭さの恥じらいとともに隠そうと漂わせたマヌカンのメイキャップに
気がとられた。そして思い出したのが前述のボードレールのメイキャップに関する一文だった。
ユニフォームであってユニフォームの意味を喪失させてしまうまでのミッキーマウスたちの
使い方は自己の欲望の道を欲しながらも、同時に遮断するダブルバインドの状態も感じられ、
註釈し、同時に隠蔽する役割をこのミッキーマウスは担っている。
彼が作り出す今シーズンの世界はもはや身体や欲望や感情から切り離された表層の認識の源泉
としての視覚ではなく、それらとそれぞれが結びつく事で視覚や視覚的イメージ(ファンタス
マ)が彼の想像力の中で豊饒されている。例えば、彼にとってのこのミッキーマウスは実は、
一種の”カモフラージュ・プリント“なのである。ここでも、「ミッキーが持っている意味を
喪失させる」までのグラフィックな使い方というか、遊び方が痛快である。
それによって、今回の彼の“ジェンダー”なるファンタスマは現実の物質的な存在あるいは精気
とも合体する事で着た人間の身体中を駆け巡るだろう。そして、時には心の病に、フェッティ
シズムにおとしいれたりするかもしれない。
ここでは、「どんな物も、使用対象である事なしには、価値ではあり得ない。」という
マルクスの商品の物神性に関する言葉を思い出そう。
そして、「モノの救済はモノになることによってのみ可能であり、服は服になることが
服なのだと言おう。」
或いは、「意味が消滅されたユニフォーム」に異質な意味をカモフラージュすることによって
「Gender/Lgbti」へ何かを差し出したのだろう。
文責/平川武治:巴里ピクピシュ大通りにて、6月27日:

投稿者 : editor | 2019年6月19日 22:53 | comment and transrate this entry (0)

2019年2月27日

Looking at the luxury of Paris that I had nurtured for 35 years.

“THe Elegance quality begins to change.“

Mr. K. L. passed away and the "mode elegance" of this town is also more and more,
like a "gold plating" is starting to walk alone swinging to start at Paris.
It will be a business priority this season with a classical atmosphere.
Surely, the trend theme is "The Cinema".
How does they playwith the real Luxury in this frame?
I have seen only a few shows on the second day, but it will be easy to understand.
Because it is such an era, let's say "The LUXURY" from each reality I'd like to see!!
The modern luxury is already not like a ”Picturesque“ anymore.
But this town also needs such a luxurious luxury to attract new customers.

I remain strongly impressed,
Kawakubo's last season's elegance created by the spirit and curiosity towards
another now if you see such reality in this town.
I understand that her "The LUXURY" is completely different from the stage
which is comparable.

Thanks a lot.
Taque.HIRAKAWA/26th. Feb.’19:

投稿者 : editor | 2019年2月27日 18:28 | comment and transrate this entry (0)

2019年2月 1日

T.MIYASHITA SOLOIST Collection A/W ‘19 ‘20を感じる。

「こんなにも考え過ぎなくてもいいのに。
こんなにも求め過ぎなくてもいいのに。
もっと、たかが服だから突き放してもいいのに。
でも、優しさが滲み込んでくる服だ。」

T.MIYASHITA SOLOISTのフィレンチェ・ピッチウオモ以降、2年ぶりのコレクションを
パリで見る。彼のコレクションを見ているといつも同じ気分になる。
それはそのまま彼が持っている癖の世界観なのであろう、
それほどまでに彼は自分の世界観を堅持している数少ない頑固なデザイナーである。
「切なく、厳しくだが、優しさが最後には溢れる」服作り職人なのだ。

真面目に、深く考え込み過ぎてしまうほどに、服が好きなのだろう。
“壁紙の上書き”では治らない好奇心が彼のすべてのコレクションである。
多分、“組み立てること”が好きな遊びの少年だったのではないか?
彼のコレクションを見ていると、“組み立てあげる”服を創造している。
従って、建築的にも見えてしまうことがある。人体を、こゝろを大黒柱とした建築である。

その大半の日本人デザイナーが特にそうであるように
例えば、FECETASM落合のように「後出しジャンケン」で「貼り合わせる」事がデザインだと、
思い違いをしてイキがっているタイプでは決してない。即ち、商人ブランドでは無い。
だから余計に興味を覚える。

考え過ぎ、組み立て直し、また組み立てるのが多分、
とっても自分らしい創造性であることを
それが自分にとってのラグジュアリィーだということを
もうこの歳で熟知しているデザイナーでもあろう。

「protectionism」と呼ぼう。
何をプロテクションしたいのか?
何でプロテクションしたいのか?
どうしてプロテクションしたいのか?
プロテクションは自由を求めすぎるゆえの証し。

自分の息使いを、
自分のこゝろの有り様を、
自分の身体を、
そして、今回のコレクションでは
自ずから性までもプロテクションし始めたのか。

一枚のフリースの布が巻きつけられることで
こゝろを癒してくれるモノになることも信じて、切り裂く。

自由に徘徊したい。
自由に癒したい。
自由に、自分らしく自分に委ね生き続けたい人間には
もってこいのユニフォームであろう。
そして、常に、自分らしく自由に生きる概念を持った人間が身に付けたくなる
アーマーでもあろう。

彼の服は着た人間だけを彼の世界観で優しく癒してくれる。
多分、そんな服を作りたかったのだろう。

厚化粧の女に惚れる男は多い。
表層しか読み取れないファッション識者もいる。
いや、本当は大半の輩たちは表層しか見ない。
そのためにフアストロウに座りたがる。
やがて、携帯をスイッチ・ONにする。

そんな輩たちは決まって、「重い、暗い」と嘆く。
その重い、暗き世界の下には
途轍も無い優しさに溢れた自由な世界が仕組まれているというのに。

こんな時代になると、
大きく張り出された壁紙を上書きする輩たちと
厚化粧の女に惚れる男は後をたたない。

だが、「後出しジャンケン」は耐え難い恥じらいだと、
まだ、含羞の念を覚えている育ちで育った人間の頑固さゆえの
これは、彼自身の“ラグジュアリィー”だ。

ありがとう、宮下くん。
平成31年1月20日:巴里ピクパス大通りにて。

投稿者 : editor | 2019年2月 1日 02:20 | comment and transrate this entry (0)

2018年12月18日

”We Margiela”/M.M.M.ドキュメントフィルムの試写を見る。

このドキュメントフィルム、「We Margiela」は昨年7月に南イタリーで亡くなられた
Jenny Meirensさんへのオマージュでしかない。

このような映画は古い例えを使うなら、「メクラと象」になり易い。
が、シナリオにおけるコンテンツがしっかりしているのと編集が上手くなされているので、
映画としてもファッションに興味ある人ならば、好奇心溢れる映画となっている。

かつての当事者たちが語る、かつての古巣、M.M.M.という名のコミューン。
あるいは、画面上では翻訳されなかった、プレス担当だったパトリックが発言している
「ファッション・キブツ」という発想は面白いし、“ユダヤ人+知性”がないと思いつかない。
「生きている人間」をこれだけ語れるという現実とその想いそして、”We”という関係性で
持ち得られたプライドの証明。
「関係性」を極めることとは、それぞれの立ち居場所があっての「関係」性。
“白、無記名タッグ”など、このブランドの特異性はジェニーさんのアイディアだった。
そして、資金を工面したジェニーさんと自分の文化度も含めた世界観をクリエーションし
マーチン、そんな二人のそれぞれが負うべきリスクに差異が生じてきた。
システムの成長とビジネスの進展により、それぞれが持つべき、「責任」が不明瞭化し始める。
この“We”とは「二人の主人公」と周囲のスタッフとでできる関係性。
そして、これはユダヤ人特有の「関係性」というシステムとその発展的プロセス(?)の
ドキュメント。
資金を工面した人と、それを使って創造の世界を生み出す人との関係性の過去の進化形。
すなわち、「鶏が先か、卵が先か?」

これは優秀なファッション・ブランドでは、当たり前の事であるこの関係性への問い。
才能に焦がれてあつまるか、お金に焦がれて集まるか?
あるいは、そのブランド名に焦がれて集まることもある。
「有名になること。」「常識を破ること。」この二つがもたらした情熱と創造
そして、成功と認められた後の立ち居場所の差異と関係性に生じる差異。

画面でも語る、インゲの変わらぬ本音発言が最も、素晴らしい!
14年間、「有名になること。常識を破ること。」のために無心につき走り続け、
疲れ切ってしまった「二人の主人公」と“We”たちのたくさんある中の一つの実話。

彼、パトリックはマーチンとは公私ともに最も近い関係でもあり、苦渋を味わったオリジナル
メンバーが求めていたシステムがやっと、日本マーケットによって稼働し始めた後の‘93年から
この映画の登場人物では遅くに加わった。そんなパトリックはスノッブに、一番客観視した視点
で或いは、一番マーチンに近い思いを発言しているのだろう。
「会社としての機能が保障されていたからこそ、パワフルなデザインが生まれたわけで、
そのデザインなしには会社としてあれだけ機能しなかっただろう。」P. S.

そして、ブリュッセルで自らが持っていた2件のブティックを売却してマーチンが語った
“夢”に掛け共有し、資金を工面したジェニーさんは、この14年間を猛スピードで働き詰めた。
母親であったジェニィーの一番近い立ち居場所にいたソフィーの発言もジェニィーとマーチン
そして、“We”たちの関係性を見たく無いことも含めて、見ていたソフィーの発言も重みがある。
お互いが委ねあって持ち得た「夢」は成就したのだろうか?
或いは、垣間見ただけだったのだろうか?
「我々は、とにかく既存の方法から離脱しようと努力しただけなのです。
長期的に考えれば、システムに依存せずに自由を得ることができるはず。
負けることを覚悟しないと、勝つことはできないのです。」J.M.

数字を知らなかったマーチンに”それなり以上の数字“をもたらして、
結果、彼女は最終的には”挫折した“のだろうか?

僕には、数日後まで気にかかったことが2つあった。
その一つは、元プレス担当者だったパトリックの「FASHION KIBBUTZ」発言。
これが字幕翻訳がなされていないのは勿論、故意なのだろう(?)
ここでは僕は『「ヒピィー・コミューン」と「キブツ」の相関関係論が成立するのだろう
か?』という新たな好奇心が芽生えた。
もう一つは、ジェニィーさんが亡くなられたのが、‘17年の7月1日でした。
このドキュメントフィルムが完成したのが、その2ヶ月ほど後の’17年9月と書かれています。
では、亡くなられるご生前にジェニィーさんご自身はこのドキュメントフィルムの
最終チェックには参加されなかったのだろうか?
僕には、ここがこのドキュメントフィルムの制作者の義務と責任所在の根幹になるはずだと
確信もしそして、このフィルムがただ単なる最近話題の「壁紙的M.M.M.」レベルの
カテゴリィー「メクラと象」映画なのか、の核心でもあると信じる。

上映後、館内の照明がつくと僕はなんだかとてもサッドな気分になってしまったのが
本意でした。
そして、「ファッションへの愛があれば、ファッションとはこの映画が語っているように、
人生において、偉大であり凄いものなのだろうか?」という問いも改めて実感に想った。

ありがとうございました、素晴らしいファッションのもう一つの世界観を見せて下さった
ジェニーさん、安らかに。
ご冥福を 改めてお祈りいたします。

***
Such a movie is easy to become "Blind and elephant" if you use an old example.
However, since content in the scenario is solid and editing is done well,
If you are interested in fashion as a movie, it is a very curious movie.

   A commune named MMM, formerly known as the old nest, told by former parties.
Alternatively, Patrick, who was in charge of press that was not translated on the screen,
said the idea of ​​"The fashion ・kibbutz". It’s the idea of "fashion / kibbutz" is interesting
and I can not think of it,I’m not "Jewish + intelligence".
The reality that we can talk about only living beings and their desires and the proof of
pride obtained with the relationship "We" is the basis of this movie.
"Extracting relationships" means "relationship" with each place of residence.
"The White & No Name tag" etc., the specificity of this brand was Jenny 's idea.
And Jenny who raised the fund and creator of one new world view with his own
aesthetic sense, Martin. There was a difference in the risk that each of these two should
bear.
Due to the growth of the system and the progress of the business, the "responsibility" that
each should have is beginning to become obscure.
This "We" is a relationship that can be done between "the two main characters" and
surrounding staff.
And this is a document of the Jewish "relationship" system and its developmental process
(?).
A past evolutionary form of the relationship between the person who made money and
the person who creates the world of creation using it.
   That is one of the story, "Is chicken first or egg ahead?",also.
This is an excellent fashion brand, a question to this relationship which is commonplace.
Are they gathering for talent? Does they get bored with money?
Alternatively, they may gather briskly on name of the brand.
"Become famous." & "To break common sense."
The passion and creation brought by these two
And differences arising in the differences and relationships of the place of the own
positions after being recognized as success.
Talk on the screen, Inge's unchanging real intention is the most cool!

For 14 years, They continued to run absolutely for "to become famous, to break common
sense" that one true story among a lot of "two main characters" and "We" who have
exhausted.
He, Patrick, was closest in relation to Martin, both public and private.
However, he joined the commune in '93 after the business system that the original
members who had tasted bitterness finally began to operate by the Japanese market.
Therefore, he was one who joined late in the characters of this movie.
Is such a Patrick saying to the snob, from the point of view that is most objective or the
feeling that is closest to Martin, the most?
"Because the function as a company was guaranteed, a powerful design was born,
Without that design it would have worked only that as a company.” By P. S.

Jenny multiplied the "The dream" Martin talked about and in order to share that "The
dream" with him she sold two boutiques that her owned in Brussels, raised funds and
packed up the fight very intensely at a tremendous speed for the last 14 years.
Sophie's remark at the closest her standing position of Jenny, who was a mother, also
had weight. She was watching including the things that she do not want to see the
relationship between Jennie and Martin and "We".
Did they fulfill " The dreams" that they had entrusted to each other and fulfilled?
Or was it just a glimpse?
"We just tried to withdraw from existing methods anyway.
In the long term, you should be able to get freedom independent of the system.
If we do not prepare to lose, we can not win. “ by J. M.

"It is more than the number" brought to did not know sales real number Martin, a result,
she eventually to wonder "frustrated" him?

There were two things I care about here.
One of them is Patrick said "FASHION KIBBUTZ" remark, who was a former press
representative.
Of course it is deliberate that this is not translated subtitles (?)
Here I will say that "the correlation between" Hipie · Commune "and" Kibutsu "will be
established Is it? “ I had a new curious spirit grew.
Another thing was that July 1st. ‘17, Jenny passed away.
This document film was completed as 'September 17' that was two months later.
So, Jenny herself before the death of this document film
Did not she participate in the final check?
I am convinced that this will be the backbone of the duties and responsibilities of the
producers of this document film. This is because it believes that this film is at the heart of
whether it is just a recent topic "wallpaper MMM" level "blind and elephant" movie.

After the screening, as the lighting in the hall got me I was feeling very sad
It was true.

And, "I thought once again that" If there is love for fashion, fashion is cool and great in
life, as this movie is talking about " again.

Thank you very much, Madam Jenny who showed us another view of the world of the
wonderful fashion, Rest In Peace,deeply.
I pray for your soul again.
By Taque.HIRAKAWA:15th.Dec. ‘18 at Kamakura:


This is an excellent fashion brand, a question to this relationship which is commonplace.
Are you gathering for talent? Do you get bored with money?
Alternatively, they may gather briskly on their brand name.
"Become famous." "To break common sense." The passion and creation brought by these two
And differences arising in the differences and relationships of the place of residence after being recognized as success.

   Talk on the screen, Inge's unchanging real intention is the most wonderful!
For 14 years, I continued to run absolutely for "to become famous, to break common sense"
One true story among a lot of "two main characters" and "We" who have exhausted.

   He, Patrick is the closest relationship between Martin and public and private, and the original which tasted bitterness
The system that the member seeking finally finally began operating from the Japanese market, since '93
In the movie characters joined late. Such a Patrick is the snobbing, the perspective from the most objective viewpoint
Or perhaps he is remarking the feeling closest to Martin.
   "Because the function as a company was guaranteed, a powerful design was born,
Without that design it would have worked only that as a company. P. S.

   And Martin talked about selling two boutiques that they had in Brussels
Mr. Jenny who shared and sponsored funds for "dreams" worked hard at this speed for the last 14 years.
   Sophie's remarks at Jenny's closest living place that was her mother were also Jenny and Martin
Also, Sophie's remarks, which I have been watching, including weights that I do not want to see the relationship of "We" and others, also have weight.
   Have fulfilled "dreams" that each other was entrusted with?
Or was it just a glimpse?
   "We just tried to withdraw from existing methods anyway.
In the long term, you should be able to get freedom independent of the system.
If we do not prepare to lose, we can not win. J. M.
   
   Bringing "more numbers than it" to Martin who did not know the numbers,
As a result, is she eventually "frustrated"?

   I had two things to care a couple days later.
One of them is "Patrick's" FASHION KIBBUTZ "who was a former press representative.
Of course it is deliberate that this is not translated subtitles (?)
   Here I will say that "the correlation between" Hipie · Commune "and" Kibutsu "will be established
Is it? A new curious spirit grew.
   Another thing, Jenny was passed away on July 1st, 17th year.
It is written that this document film was completed in September, 17 months after that month.
Then Jenny himself used this document film before her death
Did not we participate in the final check?
   To me, this is supposed to be the backbone of the obligation of the producer of this document film and the responsible location
Convinced And if this film is just a recent topic "Wallpaper MMM" level
I believe that it is the core of whether it is a category "Mecla and elephant" movie.

   After the screening, as the lighting in the hall got me I was feeling very sad
It was true.
   And, "If there is love for fashion, fashion is like this movie is talking about,
Is it great and great in life? I also realized again the question of the question.

合掌。
文責/ 平川武治:‘18年12月11日:At Shibuya:

P/S;
筆者はJ.P.ゴルチェ時代の後半には既に、マーチンと面識があり、彼らたちのファースト・
コレクションも見てその後、彼らたちが創造する世界に大いなる好奇心を煽られ続けていたので
このドキュメントの見方はかなり偏向があろう,お許しいただきたい。
彼らたちのミッションであった「有名になること。」「常識を破ること。」は
マーチンがゴルチェ時代の3年半で学んだ、「リアリティから学べ!」という教えと共に
“古着とストリート・スタイル”をリアリティのコンテンツとした”source of the creations”と
その時代性であった女性論としての「ジェンダー」をコンセプトに、「脱構築と再構築」との
“差異”を彼らたちは創造のアイディアと根幹として、ジェニーとマーチンそして、”We”は
「新たな革命」を巴里のクチュールを軸にしたモード界のバリケードを28回のコレクション毎に
破り続けた。
このリアリティは全て、彼らたちのブランドに関わる全てのもの、例えばラベルであり、
ショー形式などなど、への“創造”と”革命“への執拗な自我であり、彼らたちのエネルギィイの
発散と消耗は当然、巴里モード界に一つの時代を築いた。
特に筆者が印象に残っているのはファーストコレクションでありまた、この映画にも取り上げ
られている、巴里19区の普段はこの界隈のイミグレーターたちの子供の遊び場であった空き地を
貸してもらって行われたコレクションだ。
そしてどうか、この映画を観たからと言って「M.M.M.を、マルジェラを、」解った振りを
しないで欲しい。この映画は冒頭にも言ったが、やはり、「メクラと象」の物語であるからだ。
彼らたちの世界を共有したければ、彼らたち”We”が築き上げた「世界観」を“着る”ことでしか
無い。ファッションとは、“買って、着ること”で生まれる自らのリアリティがその作り手たちと
の関係性を紡ぐことになるからだ。決して、表層の小難しい理屈は何も真実を紡ぐことはない。

参考;
もう一つ、Jenny Meirensさんに、マーチンに、そしてこのブランド“M.M.M.”に興味が湧い
たならば、ぜひ、下記の”N.Y.T.”紙のインタビューの御一読をお勧めする。
https://www.nytimes.com/interactive/2017/02/06/t-magazine/jenny-meirens-margiela-interview.html
あと、ユダヤ人には常識であっても日本人には馴染みが薄い「KIBBUTZ/キブツ」について
は、 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キブツ で、お勉強を。

尚、この試写を見せて下さった、“エスパース・サロウ”の樋口さまと
長い間、友人でいてくださる“ストリート”の青木さんに感謝いたします。
再び、合掌。

投稿者 : editor | 2018年12月18日 12:23 | comment and transrate this entry (0)

2018年12月15日

MILK & MILK BOY、3年振りのランウエーを見る。

「MILK & MILK BOY」COLLECTION, 3年振りのランウエーを見る。
僕の眼差しは、「3年ぶりのこの規模の大きなコレクションをなぜ、彼女は今行ったのか?」

ご連絡をいただき、久しぶりで見せていただくこのメゾンのコレクションだ。
古くから親しくしていただいている大川ひとみさんのブランドで、愉しみにしていた。
結果は僕の期待を裏切らずピンクのバンダナと共に、若々しくカワイイコレクションでした。

1970年来、ブランド「MILK」を原宿で立ち上げて以来、「原宿のおかあさん」と言われる程
の原宿の主、知る人ぞ知る大川ひとみがまたもや3年ぶりで地元、原宿でのコレクションだ。
このブランド「MILK」はロンドンスのストリートと古着に憧れ、当然のように素早く、
ヴィヴィアン・ウエストウッドの世界を知り、’74年には「MILK BOY」を立ち上げ、その影響と
共に日本の若者たち、それもロック好き、おしゃれなロンドン・ストリートファッション大好き
若者たち、パンク好きな少年少女たちのアイコンブランドであり、一斉を風靡したデザイナー
であり、彼らたちへ大いなる刺激と影響を与えた正真正銘の「原宿ブランド」である。
こんな一つの街にこだわった街ブランドは世界でも類が無い。ちなみに、この時代のCdGは巴里
で全盛だったS.リキエルを上書きしていたブランドでしかなかった。
例えば、’77年、当時ロンドンのミュージュックシーンに登場した音楽とストリートシーンで
誕生した“パンクファッション”をいち早く、同時性と共に日本の若者たちに興奮をもたらし、
大いなる流行を原宿にもたらした第1人者は彼女、大川ひとみだった。従って日本における
“パンク・ファッション”を語るならば、当事者としての大川ひとみでありその後、10年ほど遅れ
CdG H.P.はブランドを反体制的なブランドにイメージングする為に用いたまでの発端だった。
ここでは「当事者、大川ひとみと傍観者、川久保玲」という差異が熱意と時間差を日本のファッ
ションシーンへもたらした結果があり、その後の川久保の学びを知った。しかし、この事実を
語れるもう一方の傍観者であるジャーナリストたちも今では少なくなってしまったので、
「CdGがパンクの精神を引き継いでいる」ブランドと評価されているがその発端の事実は決して
そうでは無かった。
そして、大川ひとみのもう一つの事実は、かつての「裏原ブーム」の起爆者、Under Coverの
高橋盾と今、世界レベルで渦中の人になってしまった藤原ヒロシの「育ての親」でもあり、
僕は山口文彦くんのセンスの良さも覚えている。
大川ひとみには鋭い眼力のような審美眼を持って原宿に集まる若い男の子のセンスのいい子を
見つけ出し、面倒を見てファッションセンスを育て磨き上げるという特異な癖がある。
即ち、彼女はファッションの本当の面白さは自分がロンドンの路上に憧れたように、原宿の
ストリートに自身のまなこを今なお晒して生きているリアリティなデザイナーなのである。
その彼女は1年前の3月半ばに彼女にとっては4番目のブランド、「ヴィクセン・プロダクツ
/VIXEN PRODUCTS」をこれも原宿の「MILK BOY」の地下にショップと共に立ち上げてい
る。ブランド・コンセプトは緊急を意味する“イマージェンシー(Emergency)”で、早々と
これからのメンズファッションの新たなコンセプトになる“オシャレな防災服/SWAT”をデザイン
する若さをも持ち続けている。

今回のコレクションもこの意気込みがまだ熱く感じられるまでの若さとクールさと可愛さ
が溢れた品の良いコレクションに仕上がっていた。
特に、MILK BOYはかわいかった。ゆるいファンクション & プロテクションにまとめられて、
着る男の子のうぶさを上手に、クールにデザインし、そのバランス感は正に、「HARAJUKU・
BOY」で旨い。
3年振りに開かれたこのコレクションは大川ひとみのファッションへの思いとこのブランドの
ファンへの愛と経験があの様な若さと楽しさ溢れるコレクションを生んだのだろう。
フラワー&フリル、オプトパス、マーメイド、ナース、パジャマ、スケーターにサンタまでの7つ
程のシーンで展開されランウエー。僕はオプトパスに驚き、スケーターも好きでした。
演出もうまいしキャスティングもいい。レディースにもメンズにも幾つかのアイテムは新しい
アイテムのデザインに「進化」が見られる。トレンド素材のメッシュを使ったロングカーディ
ガンやブリーチ・デニム素材でのおしゃれなストリートウエアー、ミュールを含めたシューズや
バッグ等など。「スタイル+ファンクション+プロテクション」を今の若者感覚として、
どれだけ「緩く」バランスに気をつけてシンプルにまとめるか?のさじ加減とビジネス感が
やはり、玄人である。この彼女の旨さにはアンダーカヴァーの祖型が見られた。
本当に、このお歳で愉しい世界をクリエーション為さっている。
ここで気がついたことは大川ひとみと東コレやコンテストに始終している「後出しジャンケ
ン」&「壁紙デザイナー」たちの違いはどこに所在するのだろうか?
それはデザイナーの経験値もあるだろうが、結局はどれだけ、街のリアリティを体感し、
「服を愛しているか?この服への想いを誰に届けるか?どんな気持ちで着てもらえるか?
そして、着る人を思うこと、」などが変わらぬ若さとユーモアそして、バランス感覚の旨さと
時代感の表現力に現れるのであろう。そして、継続可能なビジネス観に由来するのだろう。
ただ、私利私欲と自己満足を小さな虚言を発言し、ファッションのステージへ乗せるだけで
デザイナーぶっている輩との「未熟さ」が感じらた、ユーモアとセンスのいいおおらかささえも
溢れていた今回の「MILK & MILK BOY」ショーでした。

最近ではファッションに目覚める年齢がより、若くなってきた。
小学生高学年になるともう自分の着るものへの欲望が生まれる豊かな時代で在る。
しかし、現実は国民的衣料品ユニフォームのユニクロやSPA系の安価な「壁紙ブランド」などに
親たちは始終したファッションをお仕着せさせてしまっているのが多くの現実であろう。
この現実への一石を投じているのが大川ひとみのリアリティであり、これが彼女の変わらず
好奇心と若さを育んでいる根幹であり今回のコレクションにも繋がったのだろうと僕は感じた。
彼女のファッションこころと眼が感じた、「今、私がやらなければ!!」と言う念いと、
「この世代の子供たちが輝かなければ、輝く大人は生まれ難い。」と言うファッション観。
なぜ、イタリアはまだ、「ファッション大国」なのか?
それはこの国の親たちが変わらず、子供にオシャレを惜しまないでいるからです。

「ありがとうそして、ご苦労様でした、ひとみさん、スタッフの皆さん。」
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2018年12月15日 18:48 | comment and transrate this entry (0)

2018年10月18日

YANG LEE from his show-room by Taque. Hirakawa. “019 S/S Paris Collections;

YANG LEE;
YANG LEE,he had opened the his window by himself.
The wind that is felt there is light and simple that a kind of new minimalism for the street
costumes.

I say that women's clothing is a category of costumes and men's clothing is a category
of uniforms. Costumes are historical and ethnic, and there are stage costumes.
It is a reality of the era of the present age that the sense of stage costume in the daily life
conscious of the instagram has become potentially necessary for the daily life of a modern
woman.
Poetic kindness and simplicity, and above all comfort and a sense of protecting
ourselves are elements that attract attention to their stage costumes.

It is already the end of the era when fashion is made with a one-sided look from the
maker. How do you feel the reality of the times and design the cuteness and beauty of
women who were in that age? I think that the feeling like "May I help you by my
collection?" Is an inevitable era for contemporary designers.
And since clothes are also things, please evolve with the times.
It will create a sense of freshness.
It is something that has been selling from now and it was evolved by material and pattern
making, also balance of silhouette & volumes.
For example,
Speaking of why shoes sell well is because there is evident visual evidence there.

“The world of Couturier in the mode is stagnant in elegance and can be decorative.
However, the design of the prêt-à-porte is a flow, "evolution" is the backbone.
This flow is "periodicity", evolution is "newness".
In other words, how is "Objects" always related to people of that era as well?
And what can we contribute to the society of the new era?
This is the foundation of designing and it may be a difference from the art world. "
By Taque.Hirakawa: At the Show-room in “no season” in Paris on 26th.Sep.

投稿者 : editor | 2018年10月18日 00:57 | comment and transrate this entry (0)

2018年10月 7日

Review from behind "Scales from the eyes"-3: by Taque. Hirakawa. “019 S/S Paris Collections;

◯KOCHE/
彼らはよくリアリティを観て確実に自分たちのレベルと規模で成長している数少ない
若手ブランドだ。
そのポイントは何と言っても自分たちの現実というリアリティをよく見てそれらを彼らたちの
時代感と美意識でセンス良くうまくまとめ上げていることであろう。
即ち、現代社会におけるモードの”創造ための発想“とは全てリアリティからしか生まれない
事実を認識しているデザイナーとその集団である。その上で決して、浮き足立っていない。
だから見せられるショーがカッコいいものなのである。敢えて、ラグジュアリーに媚びない
立ち居場所に自信を堅持している。彼らたちが編集して観客に配る小冊子はインテレクチュアル
でしかも贅沢さに媚びていないクオリティで作られているのでこれも僕は好きである。
今回はそれなりの引用文を集めて編集しているのも面白い。

[ My work is not about “Form follows function.” But “Form follows beauty” or, even better,
“Form follows feminine.”] By Oscar Niemeyer:
今回、彼らたちが選んだ会場はこの街のO.ニーマイアーの代表作品の建築物だったのも
頷ける。
今シーズンは誰もが“アフリカ”をリードターゲットに意識したが、彼らたちはそのなかでも
“モロッコ”にGSP機能を当てたコレクションを行なった。そう、モスリム世界のリアリティを
モードへ落とし込んだ。これはある意味で大変なリスクであり覚悟がいる世界を演出したのだ。
コレクションは今シーズンのトレンドを彼らたちの思惑でまとめた。“フリンジ”やフリル使い
それに光りもの。また、ぬくもり感大切に見せる手編み風ニットやパッチワークをスポーティな
アイテムとドレスでコーディネート。スタイリングもかっこいいそして、シューズも上手い。
「シューズがうまくデザインされていないデザイナーは根本的にセンスが悪い。」
これは僕の長年、コレクションを見てきたものの持論である。
フレッシュとインパクトがあったコレクションだった。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2018年10月 7日 21:13 | comment and transrate this entry (0)

2018年9月28日

Review from behind "Scales from the eyes"-2: by Taque. Hirakawa. “019 S/S Paris Collections;

The review from behind "Scales from the eyes" -2: by Taque. Hirakawa.
“019 S/S Paris Collections;

◯AFTERHOMEWORK/
Perhaps they are still dirty teens duo designers.
That alone has enough potential they definitely climb the stairs they have sought.
I like that feeling and mind. And this season is the leather craftsman and Hermes had also
experienced ISAAC which is currently doing their brands extensively is collaborating bags
for this brand.
Both women's and men's clothes are younger than anything else because they have the
environment and situation that they can afford if they just attach risks. That youth makes
freedom and it is building freshness.
They are suffering while thinking about something new things that they can do.
That means fresh !!
Women's clothes like pretty modes and have the strength to be a designer.
She can understand it because she care about the trend of the season.
And men's clothes have style, design functionalities and protections,
and there is loose and comfortable to them in their generation.
I would like to look forward to how they will grow in this world in the future.
By Taque.H.

多分、彼ら達は未だ、ギリギリの十代デュオデザイナー。
それだけで十分に可能性を持っている彼ら達は確実に自分たちの探し求めた階段を登り続けて
いる。その気概と心の有様が僕は好きだ。そして、今シーズンはあの皮職人でありエルメスも
経験し今では自分のブランドを手広く手がけているISAACがこのブランドのためにバッグを
コラボレーションしている。
女服も男服も自分たちの好きなことがリスクさえ貼ればできる環境と状況を持っているために
何よりも若い。その若さが自由を生みそれが新鮮さを構築している。
何か、自分たちでできる新しさとはを考えながら苦しんでもいる。そこがまた新鮮なのだ。
女服はかなりモードが好きなそして、デザイナーになりたい強かさを持っている。
それは今シーズンのトレンドを気にしていることでも理解できる。
そして、男服はスタイルがあり機能性とプロテクションもデザインし、
彼ら世代に大切なゆるさと楽さがある。
今後、この世界でどのように成長してゆくか楽しみに見ていたい。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2018年9月28日 19:19 | comment and transrate this entry (0)

2018年9月27日

Review from behind "Scales from the eyes" by Taque. Hirakawa. “019 S/S Paris Collections;

今シーズンはこのような趣向でパリ・コレを覗いてみましょう。
題して、”背中越しからの寸評“。

The review from behind "Scales from the eyes" by Taque. Hirakawa.
“019 S/S Paris Collections;

◯Dior/
A few years ago, a brilliant collection that emerged a new strategy that began with the
disappearance of "Christian" from this brand name.
The result is such a collection in a world of easy-to-understand mathematics.
The answer is only to erase French mode 's aesthetic sense which was even one of French
culture completely with "money".
CHRISTIAN DIOR - CHRISTIAN = Only the label that French Esprit has gone out is old,
a wine that is out of the tast & mind.
The venue until the beginning of the collection was supposed to be a salon that
exchanged each esprit.
However, recently only children of the new generation of rich Chinese affluent people
who hang around is playing with mobile. They do not need French Esprit, just the label and gold plating are good tribes.
by Taque. H.

数年前に、このブランド商標から“Christian”が消された事から始まった新たな戦略とは、
言い換えれば、フランスのモードの美意識を完全に”金“で消してしまう事でしかないのだろう。
その結果が、わかりやすい算数の世界で、このようなコレクション。
CHRISTIAN DIOR-CHRISTIAN=フレンチ・エスプリが消えてしまったラベルだけが古い、
気が抜けたワイン。
コレクションが始まるまでの会場とはそれぞれのエスプリを交換し合うサロンだったはず。
しかし、昨今はその周りではしゃぎ回る中国富裕層のニュー・ゼネたちしかめだたない。
彼らたちにはフレンチ・エスプリなんて必要ない、ただそのラベルと金鍍金があれば携帯と共に
はしゃぎ回る輩達。
文責/平川武治:

◯JACQUEMUS/
He certainly was a great talent, a designer who should have the design ability
and talent to evolve modes fun and beautifully in this case.
It seems that something, a great misunderstanding force began to work and join him as
we did in the last season & this season. If you put it in easy-to-understand way,
"Commercial collection"?
He is one of the young designers chosen among French designers and expected to be
the most prospective. But, such a thing he makes such a collection ! !
Has he made a mistake on the button?
Or was sexuality with the woman he had, or was gender in the mode like this?
It's too easy, is not it?
What is the reality of the sex of a woman he could have in such a world?
I've seen plenty of reality that French designers with many talents have had great
misunderstandings with French fashion people and media,already.
I’m still continue to look for ways to create modes and how to evolve with women living
in times as creative fashion designs.
By Taque. H.

彼は確かにそれなりの才能、この場合モードを楽しく、美しく進化さすデザイン能力と才能
があったはずのデザイナーでした。が、今シーズンは昨シーズンもそうであったように彼に何か
大いなる勘違いの力が働き始まったようだ。わかりやすく言って仕舞えば、“コマーシャル・
コレクション”。
彼はフランス人デザイナーの中で、最も将来を期待されて選ばれた若手デザイナーの一人で
す。そんな彼がこのようなコレクションをするなんて!!ボタンを掛け違えたのでしょうか?
彼が持っていた女性に対する性とはあるいは、モードにおけるジェンダーとはこんなものだった
のでしょうか? 彼が持ち得た女性の性というリアリティとはこんな世界なのでしょうか?
私は今までに多くの才能を持ったフランス人デザイナーがフレンチファッションピープル達
とメディアによって大いなる勘違いが始まった現実をたくさん見てきました。
私は依然、モードを創造することとはどのように時代に生きる女性達とともに進化することが
モードの-デザインだと信じその凄さを探し続けています。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2018年9月27日 19:59 | comment and transrate this entry (0)

2018年8月11日

「進化」と言うデザインを再考しよう。S/S ‘19 パリ・コレに見る新しさという眼差しは?

◯はじめに;
「今年も73回目の終戦記念日を真近かに、平成の“安心のファッシズム”ボケとしか
言えない昨今の日本。こんなにも支離滅裂な政治を愚行している安倍内閣への支持率の異常さは
続き、ますます今後の日本國は“親離れ出来ない”、アメリカユダヤ複産資本の言いなりのポチ
国家に成り下がるのみ。
気骨ある戦前からの日本人としての平和祈念、気概はただただ、風化する。
そして、現在は“フクシマ”を風化させ、“東京オリンピック”と“IR法案”によってそれらの利潤は
新興商人やパチンコ業界の階層に分有されるのみがこれからの日本国の“豊かさ”の有り様では
無いだろうか?」
冷静に考えてみると、現代という時代感は、日本も世界も資本主義国家群に於いては、
「そう、世界は”真実っぽさ”で溢れかえってしまっています。」
ーYes, the world is overflowing with "truthfulness".

“truthiness”,これは2005年にN.Y.の人気コメディアンのS.コルベアが有名にした言葉です。
ある時期から政治家や評論家たちが合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に変わって、
むやみに感情や勘に訴えるようになってきた現状を評したもの。現代社会とはヴァーチャルな
時代観と相まって、この”真実っぽさ”によって全てが構築されてしまているという趣意。

◯プロローグ;
今回、パリで初めて行なったUNDER COVERのメンズコレクションのランウエーを見て直感し
た近未来、2020年以後のためのキーワードがある。それは「革命/レボリューション」です。
S/S ‘19 パリ・メンズファッションウイークから一つの新たな時代への共通言語を敢えて、
探し出すと僕はこの「革命/レボリューション」と言う言葉の響きが新たな新しさを欲し始める
世代感を強く感じたのです。

例えば、メインターゲットが白人からイエロー&イエローへそして、新たに黒人達へ移行し始め
たことそのものもこれは従来のモードの世界からは決して考えられなかった”レボリューション”
である。そして、今の時代観の一つ、「世界には真実は無く、真実っぽさのみ。」と言う現実に
対峙し始めるニュージェネレーション達の“カウンター・カルチャー”の現れも感じ始める。
それは現代社会の「真実っぽい豊かさ」を危惧する感情の現われの一つかもしれない。
この今回感じた「レヴォリューション」とは、僕たち世代がそうだったようなポリテカルな
レヴォリューションではなく、彼ら達の「レボリューション」という言葉が持っている新たな
意味やニュアンスは新しい「豊かさの進化」における「プロテクション/守り」が感じられ、
望まれるであろう。

加えて、今この街では3つの「革命/レボリューション」に関しての展覧会が開催されている。
その一つは「ロシア革命」100年記念に関してと、「‘68年5月革命」の50年記念の各展覧会で
ある。そして、もう一つこの街の「近代デザイン」運動の流れを生み出した、「UAM」の回顧展
も開催されている。(UNION ARTISTES MODERNES/現代芸術家連盟:1929年設立~‘58年)
この運動はバウハウスの影響を受け、’25年パリ万博で見せた近代化を社会へコミットする為に
始まったこの国の「近代デザイン運動」の黎明期を再考するための展覧会と読むことができる迄
の興味深い展覧会だった。構成主義以降のアートの世界から建築、インテリアデザインと家具、
工芸そしてモードにグラフィックに至るまで。
因みに、来年は「バウハウス」創設100年記念の年でもある。
「真実っぽい豊かさ社会」にデザインは何ができるか?と言う、「レボリューション」とも読め
るであろうか。きっと、そんな時代がめぐり回って来たようだ。
(共に、ポンピドゥ・センターにて展覧会中;
http://mediation.centrepompidou.fr/infos/ja/index.htm)

◯はじめに、「時代とデザイン」の関係性を「モノ」の進化として考える
「服」のデザインの世界とは?;

ファッションにおいての服も「モノ」である。「モノ」は時代とともに「進化」する。
では、「モノの進化」すなわち「服」の進化あるいは、「服」の技術革新という視点もこれから
の新しさには大事な視点になる。
“時代が変わる”事とは、この根幹の一つにはそれぞれの時代に生活している人間が得た豊かさ
からの「自由度」から生まれる“ゆとり”あるいは精神的な余裕性が社会を変革することに他なら
ない。しかし、デザイン・ビジネス全般においては未だに、モノの表層あるいは見え方と機能に
十分に引っかっている。あらたな時代が提示してくれる“新たなゆとり”から生まれる思想や価値
観から掘り起こしそれらをデザインに落とし込むまでの文化的プロセスがファッションデザイン
の世界では年々より、軽薄で単純になっている。このファッションの世界では為されるデザイン
によって生まれ変わるモノの表層のニュアンス即ち、シーズン毎の“トレンド”と呼ばれている
この世界の「差異化構造」の「壁紙」の張り替え作業の繰り返しが依然、変わらず市場化して
いるのに過ぎないのが現実のファッションの世界。このファッションの世界システムそのものに
も「進化」は見られない。

これは戦後の豊かさがもたらした、日本社会の“文化”の領域が「消費社会のための消費文化」
でしかないのもこの要因であろう。判りやすく言って仕舞えば、「儲かるための手法」でさえあ
れば良いだけの世界が時代とともにより顕著にワールドワイドになってきた時代性だと読める。
「デザインされたもの」が全て消費社会へすぐさま飲み込まれてゆくための”壁紙“デザインと
その“上書き速度と量”が要求され、”売れているモノ”を探すだけのMD主導型の世界のための
作業そのものがデザインの現実でしか無い。
実際の職場ではどの様にその“時代が変わる”状況変化というリアリティに応じて、”デザイン
する事”をフィジカルに考えが為されているのだろうか? 現実はMDという機能によって、
「売れているもの」の情報を餌とし、集められそれをデザイナーへ投げ与えて、デザイナーたち
はその与えられた情報のバリエーションをトレンド・デザインと称して、「壁紙世界の上書き」
に走る。この速度競争に勝つことが今ではブランドビジネスの必須根幹になり、この傾向はここ
数シーズンでより顕著になり、拡大もして来ている。ここにも、“ファスト・ファッション”から
の悪し影響が見られる。
もう一つに、「ファスト・ファッション」の登場によって、リアル・ファッションとは単なる
「アイテム・ファッション」になり下がり、分かりやすい着やすいコーディネート・ファッショ
ンが時代の顔になってしまったことも原因であろう。”トップス&ボトム“をどのような「壁紙
アイテム」でコーディネートするか、これがわかり易いファッションセンスになってしまったか
らだ。
「モノ」の進化として考えられていた時代の「服」のデザインには”着まわし“のセンスで着こな
す服がモードそのものまでも”進化“させていた。例えば、1着のワンピースで幾通りもの”着回し
“が可能であり着る女性も十分、楽しめるまでの工夫すなわち、「進化」がデザインそのもので
あった。
が以後、ファスト・ファッションによって誰でもがより解り易い服が市場とメディアを占領し
始め、従来のおしゃれな感覚としての”着まわし“で着こなす服がグローヴァリズム以降世界の
モードからは殆ど姿を消してしまった。最近では、2年ほど前のアンドレ・ウオーカーDSMT・
ギンザにおけるコレクションにはその精神がまだ健在であったが、「売りずらいあるいは、売れ
ない」という理由でこの先端ショップを自負している店からさえも消滅させられてしまった。
実は、30年ほど前までは自分たちがそうしたデザインで生き残って来たことを忘れてしまって
いる。(実は、覚えている、知っている社員がいないからだろう。)

◯「モノ」の進化として考えられた「服」はその時代のヒットアイテムであった。;
ここでファッションの世界は「トレンド」という差異感覚に因りどこったビジネスのための巡回
システムの根幹がある。そして、このトレンドによって「モノ」としての「服の進化」から逃れ
てきたという現実もあろう。
しかし、この21世紀は「バーチャル」に始まり、A.I.やビットコインの時代である。そろそろこ
れからの世代達のためにもこのファッションの世界でも服を”モノとしての進化“へ新たな目を再
度、向けるべき時代性が来ているようだ。

ここ数年来の”アーカイヴのヴァリエーション“を求めて、それらに「装飾性」を加えるだけがデ
ザイン・ワークそのものではないだろう。時代の豊かさがもたらすそして、「真実っぽさだけ」
の新たな生活環境に対峙した服。技術革新と自由な発想によって生まれる新たなシンプルさや機
能性とそこに必然とされる新たな素材やパーツ類などそして、ミシンに頼らない縫製技術と新た
な組み立てシステムや手法などが総合化され、新たな時代のバランス感を生み出すことで初め
て、“進化” ある新たな「モノとしての服」の姿が誕生する。そうした「進化した服」は勿論、粗
利を生む。
この「モノ」としての「服の進化」は女服のデザインよりは男服のデザインの方がより現実的で
あり、必然性がある。何故ならば、ファッションにおける男服とは所詮、“ユニフォーム“の
カテゴリィーが根幹であるからだ。だから、先日のパリ・メンズファッションウイークでこの
「進化」に興味を覚え、このシーンが今一番、ファッションの世界の先端であり、問われ始めた
と感じたのだ。
それなりの若いクリエーター達にその兆しが感じ始めまた、現れ始める時代性をも感じた。

たとえば、歴史を省みても「近代デザイン」が登場した‘20年代終わりは「ホック・ボタン」に
変わって登場した「ジッパー」や「ナイロン」素材などとロックミシンの進化などが現在のファ
ッションにおける「モノ」としての「服」の進化を大きくもたらした時代であった。これらによ
って、タイトなボディーシルエットが可能になり、モードも着る女性たちを大いに進化させた。
アーカイブを紐解いて見ても「モノ」の進化として考えられ、デザインされた「服」はそれぞれ
の時代のヒットアイテムであった。シャネル・スーツが今尚、シャネルブランドの定番となって
売れている現実や、CdGの80年代後半の5年間程には川久保玲の生み出した女性服にも多趣多様
なローブの着まわし服の進化があった。ミラノのスピーガーノ通りの裏道にあったおばちゃん服
のプリーツ屋さんに頻繁に通い工場までも見せてもらうと、とうとう先生自ら意匠登録した
イッセイのプリーツ・プリーツにせよ、僕の大好きなJ.コロナの平面パターンの表ロックミシン
うちのパンツやコオトなどなど過去のモードを振り返って見ても、その時代時代でヒットアイテ
ムとなって売れた服はやはり“進化”から生まれたデザインものがほとんどである。
近年では、今「壁紙」デザインの渦中になってしまっている元M.M.M.で、一番売れているもの
は何か?それは日本の地下足袋を進化させた“たびシューズ”である。彼らたちはこの”たびシュ
ーズ“をその後も幾度も進化させていまに続いている人気アイテムである。そして、服の進化系は
ストリート発からも読み取れる。最近ではbeautiful peopleが売りまくったボンパージャケット
のミニ版も,”コーディガン“なるカーディガン+コート丈のはおりものもこの“進化”に入るだろ
う。もう一つの世界では、YUIMA NAKAZATOが挑戦している世界もこの「進化」を根幹にし
た自分世界への高き挑みだ。

◯「モノ」としての「服の進化」に気づかせてくれた発端は、;
今回、この「服の進化」に気づかせてくれた発端はJUNYA MANのデフィレだった。
JUNYA MANがどうして、何故“コラボ・コレクション”をこれだけ長く続けているのか?
従来のファッションの目線で見ていると、もうほとんど彼のコレクションはコラボから始まり、
コラボに頼りそして、コラボによる“消化不良”を起こしている世界でしかない。だが、今だに
現状が継続されている現実。ここには、このデザイナーが為してきた実力と実績とともに、
「誰が彼とのコラボを望んでいるか?」そして、「必要としてされているか」そして、彼ら世界
規模のナショナルブランドがその根幹にこのコラボレーションで欲しているものとは?を深く読
むことで理解が出来るであろう。
今シーズンの彼のコレクションは僕的なタイトルは、「ウォリィーくんを探せ、アウトドア編」
であり、目立ったものはウエアーよりサック類だった。しかし、このアウトドアウエアーでは
その機能を担っている重要なパーツの一つに、「ファスナー」がある。JUNYAが今シーズン選ん
だファスナーはYKKではなく、「朝日ファスナー」だった。数シーズン前にもこのデザイナーは
この「朝日ファスナー」を使っていたが、今回もファスナーの持ち出し金具に特徴のあるカッコ
良いもの、“WALDES”を確りと選んで使っている。例えば、この感覚と決定がナショナル・ブラ
ンドの企画者たちへ拘りと差異感を与えるのだろう。
彼ら世界のナショナル・ブランドは自分たちの生産システムとその規模と構造を利用し、未来へ
の「モノの進化」を必然に考えなければならないビジネスの根幹があるからだ。彼らがコラボ・
デザイナーに託していることとは、自分たちが考えられないデザインの世界においての可能なる
「進化」とその「アイディア」を託しているに過ぎないのだ。
この規模のワールドワイドなビジネスにおいてのトップを走る企業は「時代に常に新しいモノ」
或いは、「時代と共にモノも進化する。」というコンセプト&コンテンツの元に彼らたちのビジ
ネス・スキル、「新しさ感」がモノのヒットを生み出すことを熟知しているからだろう。

◯今シーズンの若手デザイナーで「進化」を感じさせてくれたのは?;
20世紀のモードにおける根幹コンセプトとは着る人間の身体を”Wrap/Wrapping”する事であり
21世紀には新たなコンセプト、“Protect/Protection”へ進展し、身体だけではなく心の有り様ま
でも“Protect/Protection”する事がストリートから生まれた現代ファッション観となっている
では、今シーズンのパリの若手デザイナーでは、「GmbH」を 僕は挙げる。このフランスの
ユニットチームの時代観と新しさを感じる彼ら達の感受性の繊細さと、それを「モノ」としての
「服」に落とし込むまでの知的プロセスとシステム発想が全く新しさを生み出したコレクション
を行なった。何故ならば、彼ら達の進化のアイテムの一つに“補正/補整下着”からのデザインソー
スを読み取ることが出来るからだ。ここでは“Protect/Protection”というボキャヴラリィーが
新たな領域、「補整/補正」へ進化しデザインがなされ始めたと読めるコレクションだったからだ
着る人間の身体や心を“守る”事から”正す“或いは“補う”までのニュアンスが新らたなコンセプト
“Protect/Protection”というファッション・ボキャブラリィーに加わり、モードの世界の最新の
シーンを語り始め、これも新たな時代観と読める。
生活者個人が持ち得なければならない「セルフ・バランサー」が今という時代においては、
新たな消費のモチベーションであるヨガ等も自身の心を“補正/補整”する為の「セルフ・バランサ
ー」と読めばこの流れも理解できるであろう。

◯日本の若手デザイナーたちが考えている「ファッションをデザインするとは?」;
これを語るには僕が今、疑問視している例えば、今の時代における「ファッションアワード」と
は、その正体とはなんであろうか?この「ファッションアワード」の舞台裏を知ったならば、
これらは全て、『「客寄せパンダ」を探そう。』のカテゴリィーに収まる。
‘97年以降10年間ほど、各々のインターナショナルジュリィを数多くさせていただいて来た過去
の経験から言わせて貰えば、今現在、色々行われているファッションアワードとはその90%は
開催企業の“広告宣伝”の話題作りと客寄せパンダ発掘そして、若手のデザイナーからのアイディ
アお頂戴と“青田狩り“でしか無い。あのLVMHアワードなどはこの最たるもので日本の審査には
元バイヤーと元サッカー選手が選んでいるというお粗末な茶番劇でしかない。
しかし、「豚もおだてりゃ木に登る」で、選ばれた当事者たちはそんな内情は知らず、LVに選ば
れたという田舎者はいきなり世界のデザイナーになった気で振る舞いが始まる。ここには既に、
彼らたちの大いなる勘違いが始まり、その後の人生を傲慢にしかしない。しかし、最近ではN.Y.
で選ばれてメンズのアワードを取った“KOUZABURO”の世界は魅了させられる。彼の服の世界
観には深いプロ意識を持っている。

他方、残念ながら日本から行政絡みの”ご褒美パリ“でうつつをぬかして、パリ上陸を勘違いして
いる若手ブランドやコレクションブランドの殆どはパリのファッション広告塔のこれ見よがしの
「壁紙」を上書きする事がデザインだと勘違いしたレベルのセンスと教養と世界観が殆どだ。
或いは“パッケージ”に気を使い、これ見よがしのパッケージング・アイデァがデザインだと
糠喜びする輩たち。
この現実は仕方なであろう、今だに日本のファッション教育やその行政関係者たちは、
「デザイン」=「装飾する事」=「模倣」或いは「驚かし」(これをアートと称して、)が根底
の教育や指導が未だに風靡された世界の住民でしかないからであろう。ここには”リアリティの
欠如“の結果がもたらした、大いなる自己満でしかない田舎者たちの世界が読めるだけだ。
しかし、国家の税金を使って、これ見よがしのデザイナーを選び、パリへ送り込むその根拠は?
そして、その目標とは?結果、誰をどれだけの人たちを“幸せ”にするための国税使いなのだろう
か?
国内のアワードを取って選ばれた彼らたちに共通することとは、「ブランドに世界観や文化度が
低く、デザインする事とはにあるべき教養が低い、世界マーケットの実情を学んで来ない、売り
たいバイヤー情報を勉強していないそして、その多くは英語が不十分」という共通点が読める。
従って、この税金の使い方は官僚行政関係者が仲介役として商社(I.C系、)へ丸投げし、商社は
パリのセールスエージェントを使って彼らへ丸投げし、彼らが都合できるサロンへご膳立てをし
数日間からそれぞれがそれなりの旨みを味わう構造でしか無い。
実ビジネスを目的としたこの ”ご褒美パリ“体験ツアーとは、ここから何が生まれているのだろ
うか?

◯エピローグ;
一方、米国によって世界に蔓延してしまった21世紀社会のリアリティとしての「真実っぽさ
/truthiness」とはファッションの世界では元々からの根幹,FAKE=イメージング= TRUTHINESS
であるなら誰が「真実を仕立て上げるか」も新たな時代性の「クリエーション」になると言うま
でのパラドックスも現代である。
例えば、「真実っぽさ/truthiness」しか知らない人間が生み出せる世界は所詮、「真実っぽさ
/truthiness」の「上書き/更新」が根幹の世界観でしかないであろう。

さて、冒頭の僕が感じた明日への新たなボキャブラリィー、「革命/レボリューション」とは、
敢えて言うなれば、この「真実っぽさ/truthiness」という社会や生活環境でどっぷりと浸かり
切って生まれ育った世代が新たな世界を知ろうとする時、これらの環境や状況へ彼らたちの眼差
しでカウンターを抱く。ここから生まれる不安や不満や不平等それに、寂しさや儚さに対しての
“レヴォリューション”が生まれる可能性を思う。
それは、「真実っぽさ」のみが蔓延する世界から「真実」を守るための「革命/レボリューショ
ン」であろう。 宇宙を、地球を、自然を、人間を、身体を、性差を、個人をそして、新たな価値
観としての差異を「守る」ための 「革命/レボリューション」。
その根幹はやはり、「新たな自由による進化」が読めます。
決して、「安心のファッシズム」の中で飼い慣らされてしまった拝金主義者のための都合の良い
“自由“ではないでしょう。

このままでは、ファッション・デザインの世界はより、“キッチュ”な世界へ押し流されて
行くでしょう。
もう一度、「モノをデザインすることとは時代性と対峙した“進化”を考える事」と言う視点と
コンテンツによって為されるのもであることを再考して見る時期でもあろう。
ここに、新しい「革命/レボリューション」が共振する。
合掌。
文責/平川武治:平成6月23日:追稿7月23日+8月5日、10日:

投稿者 : editor | 2018年8月11日 21:38 | comment and transrate this entry (0)

2018年7月 5日

桑沢デザイン研究所講演デジュメ/「時代とデザインすること」とは? 『IKEA』を読み込むと。

「”時代が変わる“と“デザインする“ことのコンテンツも変革するはずなのに今だに、
“感性”という単語でフェイクするトレンド手法が変わらぬファッション・ビジネスの根幹?」
文責;平川武治/初稿:平成30年5月22日:

◎エピソード;
昨秋、面白い映画を見ました。
タイトルは「ハロルドが笑うその日まで」というスウーデン映画です。
新旧家具屋のオヤジさん二人の物語なのですが、旧くから営んでいた家具屋とその一方が
あの「IKEA」家具。ここで表現されている家具に対しての価値観と想いと時代感が興味と
知的好奇心が喚起されました。
この映画のシナリオの巧さに乗せられて、映画を観た後、しばらく登場する2タイプの家具屋の
関係性を考えていたら改めて、「”時代が変わる“という事とは?」そして、それぞれの時代の
生活価値観を拠り所として、「デザインすることとは?」という命題に嵌ってしまったのです。
そうしたら、今年1月終わりにこのIKEAの創業者が亡くなりましたね。
これも一つの“気”の巡り合わせあるいは、一つの時代性だと感じ、「時代とデザインすること」
というテーマを想い巡らせたのですお話しします。
(参照;NETFLIX/映画「ハロルドが笑うその日まで」)

「IKEA」はもう既に、日本でも皆さん世代にとっては一つの「カッコいい」を象徴する
“ブランド”家具チェーン店ですね。その「IKEA」の創始者、イングルバグ カンプラー氏が
この1月に91歳で亡くなった。彼は‘47年、17歳でイケア事業を起こし、一世代で、幾度かの
失敗を重ねて現在のような世界を制覇した“グローヴァル企業”であり、
僕的な視点ではこの「IKEA」は「ファスト・ファニチャー」企業です。

『「IKEA」の家具はすぐ潰れてしまう家具である。』
これが僕が引っ掛かったこの映画のコンテキストです。
主人公“ハロルド”が営んでいた古い家具店が隣に新しく出来た「IKEA」によって、彼の会社が
倒産の憂き目にあってしまうのです。そこで、この旧態然の家具屋の社長ハロルドは「IKEA」の
家具は自分たちが売っていた”家具“に比べると「すぐ壊れてしまう家具」でしかない。
と言う“視点と念い”を持ってしまうのです。
これはある種の被害者意識からの発想かもしれませんが、この主人公がそれまで商っていた
“家具”というモノが持っていた「価値観」の変革と相違がこの映画のストーリーのコンテンツに
なっています。
映画は、この念いが総じて「IKEA」の創業者を殺したいと言う発端から始まり、彼の念いが
その後の行為へとストーリー化されて行くある種、涙そそるコメディー映画です。

「新たな時代が生み出す価値観」
ここで、僕が思いついた眼差しは、時代が持ち得た”価値観”の差異としての「家具とは?」が
あります。この視点は今のファッションの世界でもある意味で同レベル、同シーンでしょう。
だから僕はこの「IKEA」を『ファースト・ファニチェー』と名つけたのです。

 まず、従来型。今でもこの価値観は世代に関係なく「モノ」に対しての重要な考え方として
継続された日本的だった価値観で、「家具は一生モノ」と言う考え方ですね。
特に、戦前の日本の中産階級以上の社会にはこの価値観が強く国民的に存在していました。
そこで「モノは大切に使う事。」と言う躾があったのです。「一生モノ」だから良いものを作る
或いは「一生モノ」だから選ばれた良い”素材“と磨き抜かれた“技術”を持って、高くて当たり前
で、良いものを作れば、売れる。従って、家具とは「大切に手入れをして使う」”モノ“とだ言う
この価値観の元での「作り手」が担わなければならない“スキルと技術と経験そして、創造性”を
必然とした世界があります。

もう一つは、「モノは消耗品」でしかない。「家具」もその一品だと言う価値観です。
第2次大戦の敗戦後、国土が”焼け野原“状態で迎えた戦後社会に生まれた価値観の新しさに、
「いくらいいモノを大切に使っていても、燃えて仕舞えば同じである。」と言う経験値からの
価値観とアメリカの戦後の消費文化に汚染され、産み落とした新たな価値観があります。
みなさんの世代は殆どこの価値観が当たり前で、持ち得た時代と環境から刷り込まれた
「モノ」への価値観になり、「消費文化」なる文化が創生され、自身の生活環境を消費で
愉しんでいる世代でしょう。

「新たな差異」という価値
このような新たな時代が産み落とした「価値観」の元での「家具」は「作り手」が必要とする
“スキルと技術と経験そして、創造性”も自ずから「新たな差異」が必然となって来ます。
多分、この「差異」がなければ、「古いモノ」あるいは、「時代遅れ」になってしまいますね。
ここでの「新たな差異」とは古い価値観のために「家具」を作ることから、新しい時代性に
よって生まれた価値観の元で「家具」を作る事であり、そこには新たな目線が必要です。
今までに無かったその価値の為の新たな「差異」を考える必要が生まれます。
これが「時代のニーズに合ったもの」を作るということの一つでしょう。
 これは時代が持ち得た「眼差しの変化」に気が付くことであり、これをケアフルに感度良く
「モノ」に新たな違いあるいは、新しさとして「差異」を付加することが「デザイン」の役割
であり結果、自由な楽しみや面白さやカッコよさや快適さなどをも生みだす世界が
「デザインする事」で有り、このデザインすることで可能なそれぞれの時代による「新たな
差異」を創造することが「近代デザインの世界」の根幹でしょう。

 時代が生み落す「眼差しの変化」という“リアリティ”は「時代が変わって行く」と表現され、
「時代が変わる」とは日常生活において”豊かさに差異が生まれる事“であり、「眼差しの変化」
に気付くことそれそのものが、「創造のための発想」の自由な契機の一つです。
これはモノを創る人や売る人たちの見落としてはならない”発想のための根幹“ですね。

「組み替えられたコンテキスト」
僕はこの映画から「IKEA」はこの様な二つの根幹的なブランド・コンセプトを見い出したと
読みました。
その一つが、この「IKEA」の家具は”すぐ潰れてしまう家具“を”誰でもが組み立てられる家具“
と言うコンテンツによってシナリオを“発想の転換”で書き換えた事です。
そして、「その結果“フラット・パック”が発想され、組み立て工程が省略されコストが下がり
低価格で売れそして、耐久性も3~5年程度で十分。」と言う家具業界での新たな価値観により
“システムとビジネス構造”を構築した事が現在の「IKEA」の成功をもたらした根幹の一つ。
ネガティフな側面をこのようなポジティフに「すぐ、誰にでも組み立てられる」という
コンテンツを発想し、シナリオに変換させた頭の良さとセンスの良さとそれに時代の読み方に
驚きます。そして、それを根幹に自分たちが儲けられるそれなりの”適正価格構造“即ち、
「自分達のビジネスは自分達でそのルールをも構築する。」と言う”システム“までが考えられた
ビジネス・スキルを築きあげたビジネスのセンスも新しく、この生み出された”システム“その
ものが「差異」だったのです。
もう一つは、この”「IKEA」の家具、”すぐ潰れてしまう家具”をでは、潰れるまでの時間を
購入した人たちをどれだけ”ハッピー”な気分にさせる事が可能か?そのためにはどのようなこと
を考え役割として施せばいいのか?その為に「デザインする事」という真逆な領域が考えられた
のです。

「IKEA」の家具を買って、自分たちで組み立てて自分の部屋でハッピーにカッコ良く共有する
為にはどの様な”サーヴィス&ホスピタリティ”を「デザイン」という“コミュニュケーション・
ツール”が可能性を持って為せらるか?より、可能性を生み出せるか? ここに、現在の様な
「デザイン優先」ブランドの「IKEA」が登場した。
「デザインする事」にその立ち居場所が与えられ、役割が与えられ“センスとスキルと技術”に
よって、ここでもどれだけポジティフ・デザインが為され、そこで生まれた「共有感覚」を
“ウリの構造”にシステム化できるか?家具そのものとそれらの形態から、それらの色彩やサイズ
感と機能性そして、それらを取りまくあらゆる”グラフィックデザイン”と”パッケージデザイン”
を新たなセンスによってポジティフな「差異」が加えられ、新たな「力」を産むまでのシステム
を構造化したのがこの企業に秘められた成功のための”㊙︎コード”だったのでしょう。

時代にはいつも“追い風”が吹くときがある。
ここで、忘れてならないことのもう一つは時代がもたらした新たな大きなうねり即ち、「時代
の追い風」です。それが、先述した“戦後という時代”が新しい時代へと「時代が変わってゆく」
事でした。 “核家族”が生まれ、“消費社会”が始まり、“家具”に対しての価値観も変わり始めた
社会と時代がもたらしたもう一つの新しさ、それは科学と工業技術の進歩がもたらした「素材」
と「生産工程」でした。 木以外の“合成樹脂”と“パーティクルボード”いう新しい技術が生んだ
「素材」が加わり、デザインそのものに新たらしい可能性を生み出す“時代の追い風”が吹き始め
たのです。
勿論、その風を「IKEA」は“デザイン”の全てに取り入れた事です。そして結果、時代は
「大衆消費社会」へと向かい始める時とこの「IKEA」の‘60年代以降の事業拡大とが
チューニングされ、重なり合っています。
現代では、PCと言う新たなメディアにおいてもこの「IKEA」は“e-コマース”と”e-メディア“と
言う新しい時代環境へ彼らたちは「デザイン力」を変わらず、十分に注入しています。

「IKEA」は一つのコンセプト、『「IKEA」の家具はすぐ潰れてしまう家具である。』を
見事なコンテンツでシナリオ化し、真逆な「発想の転換」により、ポジティフな差異を作り、
それを力にしてより、力を生み出す構造を構築した。そして、「デザインする事」に委ねた
これらのトータルな”センス オブ バランス”な感覚と「新しさ」を商品群は無論のこと、空間と
そのディスプレー&コーディネートそして、カタログをはじめ、あらゆる印刷媒体と広告媒体へ
ヴィジュアル・プレゼンテーション&パフォーマンスし、企業と従業員そして顧客たちとの
ハッピーな共有感覚を「ポジティフな3方良し」とした企業理念がこの企業の素晴らしさと偉大
さなのでしょう。(3方良しとは、作り手と売り手である「IKEA」と利用者たち顧客とそして、
作られた“モノ”の3方良しである。)これを企業理念としたことによって、「IKEAはデザインを
売る企業」と成り、現在の成長が生まれたのでしょう。

繰り返しますが、この映画を見たことによって、僕は”「IKEA」の家具はすぐ潰れてしまう
家具である。”というコンテンツをもって新たな”家具のデザインとビジネス”に挑戦したこと
そのものが凄くカッコ良くて「新しく高度なるスキル」と感じ学んだのです。

ファッションの世界では、
多分、この家具の世界の「IKEA」とはモードで言えば、「フアスト・ファッション」と
言われるカテゴリィーが対峙し、ここではやはり、あのブランド「H&M」でしょう。
この2社は同じ’47年、スウエーデン発でお互いに大いに影響を受け成長と発展を成した様です。
従って、“すぐに、ダメになってしまう服”がこの「フアスト・ファッション」の根幹です。

ファッションの世界は既に、20世紀初頭に巴里の“オート・クチュール組合”という当時未だ、
残っていた“階級社会”を根幹にした「差異化機能」が現在のファッションビジネスの世界に先駆
けて誕生し、システム化されていました。
ここには当時の階級社会がその特権とした階級を既に、”階級“そのものが「奢侈」であり、
「差異」である事を表層化する即ち、彼らを「衣服」にするというコンテキストによって200年
以上継続している世界が現存し、現在の「フアスト・ファッション」に至ったのです。
 ファッションの世界が「IKEA」で代表される『ファースト・ファニチェー』の世界との大いな
る相違は「差異化」を図りながら尚も、「継続」して行くために彼らたちは「トレンド=潮流」
というシステムを構築してきたことそして、ファッションにおける「差異化」の根幹システムに
”質”だけではなく新たに「速度」と「サイクル」を加え、「トレンド=潮流」がこの世界での
「差異化機能」となり、このコンテキストを生み出しそれをシステム化した事が『ファースト・
ファニチェー』との大いなる相違点でしょう。しかし、確実にこのファッションにおける
「差異化」機能が21世紀に入って、減速してしまったことはファッションの世界にもファスト・
ファッションが登場できた、新たな時代の「隙間」が生まれた為でしょう。

「売りづらくなり始めたあるいは、売れなくなり始めた「フアスト・ファッション」
 ファッションの世界での”すぐ潰れてしまう家具“とは、「すぐに着れなくなる服」あるいは、
「すぐに嫌になってしまう服」もしくは、「すぐに飽きてしまう服」又は、「すぐに魅力がなく
なってしまう服」だと先ず、認める事から「デザイン」活動に入るべきが王道でしょう。

 これらの”ネガティフなコンテンツを「フアスト・ファッション」は「誰でもが、安心して、
安価で自分たち地元ですぐにかっこ良く買える服そして、みんなと同じワールドワイドにお洒落
が出来る。」というコンテンツとどれだけ”ポジティフなVMD“に変換したシナリオでここ20年
間ほどで世界を風靡して来ました。
 しかし、このシナリオ自体がそろそろ古くなり、マンネリ化してきたこと自体が“次なる“を
意識し始めて来た時代性でもあるでしょう。新たな豊かさの元で生まれ育った若者たちは彼らた
ちのリアリティの中から、「トレンド=潮流」という時代の風が「倫理観」という人間の営みの
根幹が大切であることに気が付き始めた世代たちによって吹き始めてきたようですね。
 このプロローグとして、「H&M」の現在はもう既に、『4200億円相当が売れ残り? H&Mが
「セールの悪循環」に陥っている』という情報が流れています。その要因は「ファッション性と
価格関係が間違っていた。」「ファッション性とトレンドそして、価格帯と流通に歪みが出来始
めた。」と言うものらしいです。ここでのキーワードは「ファッション性」「トレンド」そして
「価格帯」「流通」ですね。当然ですが、現在の多くの「ファスト・ファッション」企業の
ブランドにおいても、これらの「キーワード」を今の時代感とそのリアリティに照らし合わせて
再考或いは、再検討すべき時期という時代性が来たのかも知れませんね。
参照/http://www.businessinsider.com/why-hm-business-is-struggling-201804
(日本語)https://www.businessinsider.jp/post-165036

この現実はもうファッションという言葉が持ち得てしまった「意味性」が新たなシーンを語る
ボキャブラリィーに変換され始めているからです。
ファッションとは既に、“装い”を表すものだけではなく今の時代では「生活環境」そのものを
指すまでの意味性と、「セルフ・プロテクト」としての新たな“ギィアー感覚”へと拡大革新して
来たのが現実ですね。
今後はここに「A.I.」感覚とその機能が新しさをも生み出すまでに。

「感動のプライオリティ」を求め始めたニュー・ジェネたち; 
 では、『フアスト・ファッション』はどうして「すぐに着れなくなる服」あるいは、
「すぐに嫌になってしまう服」もしくは、「すぐに飽きてしまう服」又は、
「すぐに魅力がなくなってしまう服」なのだろうか?

 ここには当然ですが、今の時代の価値観である「安心・安全・快適」もしくは、
「家で・みんなで・安心」の元では、「新しさやときめきそれに、自由さや驚き」などの
「感動のプライオリティ」が喪失或いは激少して行くことでしかないのです。
しかし、現実はここ20年間ほど、この「保守の進展」という時代観そのものを大衆に押し付け
求めさせ、それが自体が明日へ生きる為のシナリオと化してしまったからでしょう。
 この”楽だから、面白いから、安心だからカワイイから”に飼いならされてしまった”矛盾”を
感じ始め出した世代がいる。彼らたちは決して、”ヴァーチュアル”を美術館に未だ、入れない。
「ヴァーチュアルミュージアム」なるものを作り”ヴァーチュアル”そのものを「差異化」して、
商売を、金儲けを企んでいる輩たちではない。きっと、そんな”大人”たちを横目でみながら
彼ら世代が感じ持ち始めた「共通感覚」と「感動のプライオリティ」のための”ジグソウ・
パズル”に参加し、挑戦出来なくては彼らたちとの「共有感覚」が持てないであろう。
 何故ならば、今日のファッションの世界の人たちが変わらず、大好きな「感性」という
ボキャブラリィで「壁紙」だけを上塗りしながらここまで来てしまった今日は未だ,”明日”へ
続くのだろうか?
 
これも一つの“リアリティ”です。
 時代の変化をいち早く感じる産業はやはり、ファッションの世界です。
これはなぜかと言えば、先述した「差異化装置」としての”トレンド=潮流”という仕組みが
ファッションの世界では「速度」と「サイクル」を構造化して、いつもプライオリティを保ち持
って来たからでしょう。従って、時代の変化をいち早くコード化するのがファッションの役割の
一つでもあり、この価値をお金に変えてきたのがファッション産業だったのです。
ここから発せられる、「新しさやときめきそれに、自由さや驚き」そのものが”生活者ち”へ
”生きて行く実質な喜びと興奮と好奇心と愛”を与えてくれるまでのものなのでしたし、
これそのものが「ファッションの世界」だったのです。
 
このようなファッションの世界の今後は「コスチューム化」と「ユニフォーム化」の2極化へ
ますます進化して行くだけでしょう。
「コスチューム化」とは、繋がるために”パーソナル・コスチューム”を愉しみたい、というまで
の自己表現あるいは、自己肯定のためのコスチューム化。ここではヴィンテージやそのリメイク
などが王道となってきていますね。
 そして、「ユニフォーム化」とは、”繋がるための”「行為」のユニフォーム。
「家で・みんなで・安心」のために為さねばならない「行為」のための服としての制服化。
ヨガ・ファッションなどもそうであろうし、ファースト・ファッションそのものの”トレンドも
の”がユニフォームとなってしまっている”一家に1枚のヒートテック“現状の日常化である。
 
 なぜならば、時代が保守化しそのスピードがゆるくなってくると「新しさ」もスローになって
鈍化する。ここで起こり来るものは「創造性のパラドックス」が見られ始める。
 人々は自分と似た人を探す為の同化作用としてファッションを機能させるからだ。
そして、代りに登場するのは、”質”と”見映え”の世界です。
昨今の”4K”や”インスタ映え”ブームはこの現れでしょう。そして、ここでの最終目的は
”繋がる””繋がりたい”なのです。
 しかしこの根幹は、「みんなと一緒」に変わりはなく、人間は結局、「誰かと関係性を繋げて
いたい。」に帰するからでしょう。特に現代の日本人は孤独や寂しさを嫌う国民になってしまっ
たから余計でしょう。

では、新たなボキャブラリィ、「NEW NORMAL」とは、
 このような時代においては最近のTVコマーシャルで聞く「NEW NORMAL」という
ボキャブラリィーがその響きとともに、新鮮さを与えてくれます。
 結果、「モノ」への想いと価値が薄らぎ始め、代わって「ヒト・コト・行為=関係性」という
新たな時代の価値観が少しづつ芽生え始めて来たと感じられる時代の”新しさ”をこの言葉から
感じます。
 ならば、『「NEW NORMAL」という時代性とは?』をファイリング&ディクションすること
自体が次なる世代たちと繋がる為への”情景”でしょう。
 この関係性を構築するための「行為」が今後はより「モノ」の消費よりも増して消費する
時代性がこの「NEW NORMAL」の情景と考えられますね。
 
 閉塞感は個人の寂しさを増長させるだけである。これを背追い込んでしまった、「豊かなる
難民たち」は与えられた「安心・安全・快適」環境に委ねてしまって、自らの「自由や愛」は
”ゲーム”内でそれらを探し求める旅の面白さを知ってしまったからであろうか。
だから、行為としての「関係性」を生む筈の自らの「自由や愛」をリアルな世界では不安である
から探し求めない。彼らたちにとっては「ある場所」があれば良い。
あるいは、それが「ゴッコは嫌だけれど、ゲームであればいい、真実でなくても、
真実っぽければいい。」これが、「NEW NORMAL」の情景であろうか?

 例えば、「フジロック」や「YOGA」それに「ダンス」があり又は、「追っ掛け」がある。
これらのそれぞれは「行為」そのもので出会える関係性を音楽や癒しを共有し、“行為”としての
楽しみにする、費やすそして繋がる。また、インスタで繋がりたいための「行為」が消費そのも
のを生むまでのリアリティでもある。ここには前述の「感動のプライオリティ」がコンテンツの
シナリオがある。そして、今後の先端ファッションも「LIFEHACK」へとより向かう。

「気の利いた手段で、もっと快適に、もっと楽しみ、もっと効率良く」とい「LIFEHACKER」
たちの選択した「行為」としての生活手法はファッションの世界へもアプリと3DとA.I.を携えて
”リアリティ+ヴァーチャル”の方法や手段をみんなと一緒に共有し“ヴァーチャル・リアリティ”
を美術館へ行かなくとも日常で愉しもうというまでの「行為のマーチャンダイジング」が
”現在から明日”を指さす時代性の一端でしょう。

◎まとめ;
「 時代が変わるー豊かさが変わるーリアリティが変わるーモノの価値観が変わる
ーモノへのニーズが変わるー”モノ”の進化を考えるーデザインのコンテンツが変わる。」

◎参考/ウキペディアで”「IKEA」を調べると;
「1947年に17歳だった、Ingvar Kamprad、(1926年 - 2018年)が設立した“雑貨屋“が
初まり。当時は需要があれば何でも取り扱う店であったが、1947年に地元の家具店と契約して
格安販売を開始するとこれが大当たりし、1951年以降は完全に家具販売に集中する。
1953年に最初のショールームをオープン以後は、順調に売り上げを伸ばしていたが、
同業他社との深刻な価格競争に巻き込まれることになり、ライバルの圧力によって、家具メーカ
ーからの商品供給停止という深刻な状態となる。
しかし、こうした事態をバネに、自社で独自のデザイナーを抱え、企画・製造・販売まで全て
まかなう、現在の「IKEA」のスタイルを誕生させた。また、この際にイケアの特徴の一つである
「フラットパック(分解された商品は、できるかぎり薄く小さい梱包をされており、車の
トランクに積んで簡単に持ち帰ることができる)」も誕生している。
2015年に店舗のあるすべての国でインターネット通販を展開すると発表。アメリカ、ドイツ、
イギリスなど欧米でオンラインサイトを展開し、日本では遅れて2017年4月に開始した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/イケア

 日本では2001年に再展開を始め現在に至っている。
 また、新しいところでは今年1月に発表したT-シャツキャンペーンで黒人少年を使ったコピー
が人種差別そのものであるというSNS炎上から一気にブランドイメージが低下した。
これも現在の「IKEA」のリアリティであり、売り上げを落としている原因でもある。
*「IKEA」の企業実態は下記のサイトが参考になる。
「IKEA Group(イケアグループ)の2016年8月期(2016年度)の売上高は351億ユーロ
(1ユーロ=130円換算で4兆5,596億円)。
また、売上総利益は161.6億ユーロ(同2兆1,003億円)となり、粗利益率は46%。営業利益
(ここではオペレーティング・インカム)は45億ユーロ(同5,849億円)で、営業利率12.8%。
また、当期純利益は42億ユーロ(同5,460億円)となっています。
http://www.toushin-1.jp/articles/-/3930
*「IKEA」の「職場が楽しい」日本版は下記のサイトを参照。
https://toyokeizai.net/articles/-/63220
文責/平川武治:再校/6月10日:再々稿/7月1日:
合掌:

投稿者 : editor | 2018年7月 5日 00:03 | comment and transrate this entry (0)

2018年3月28日

18AW-PARIS・Fashion Weekからモード環境を考察する。/『 ”象徴の貧困”としてのモードの世界とは?』

「モードの環境」と、「ファッション・ビジネスの現場」の新たな時代の関係性を
理解するために。

”象徴の貧困”としてのモード化社会。/18AW-PARIS・Fashion Weekから
「モードのパリ」と言う現場の変革を深読みし、一つの考察をしてみよう。

 僕の流儀である、まず結論を先に言ってしまえば、
 この様な時代性になってしまった”モードの世界における創造”とは着る人間の身体構造と
生活環境が変革しない限り、「服」における全く新たな造形の創造は”枯渇”してしまった。
 この現実をまず、認めるべきである時代性。
次は、このような時代では”創造性”とはどの様なことであるかを認識すべきであること。
では、この様な時代性になった現代の、ファッションにおける「創造」とは過去の創造の
ストック、「FASHION ARCHIVES」を利用する”バリエーション化”あるいは”ブリコラージュ”
と言う手法に取って代わられてしまった「創造的あるいは、装飾的」が現代のモードの
「創造の世界」である。
 他方、新たな現実に対応し始めた「ファッショ・ビジネス」の世界は、その”象徴の豊かさ”に
委ねられたモードの世界が”象徴の貧困”化し始める。ここでは「工業製品」である”ファスト・
ファッション”を生み出し、従来のアパレル産業に取って代わり、「SPA型」ファッション・
ビジネスの世界を発展させ、時代の”IT”を味方に付け、”e-コマース”と言う新たな”ヴァーチャル
売り場”を戦力にした世界と生産プロセスにおける多種多様な情報力とその量と速度の高度な進化
によって、”e-プロダクト”と”e-メディア”と言う新たな可能性をも味方にした”象徴の貧困”が
ファッション化されている。
 この様な時代性になった時、”作り手否、送り手”であるデザイナーたちはどの様な「価値観」
を携えてこのファッションの世界へ「夢と憧れ」を抱いて来ているのであろうか? 
 或いは、この”象徴の貧困”のファッションの世界に、どの様な「創造の価値」を心して
デザイナーに成りたいのか?或いは、成っているのか?
ーーー名声、富、ヴァニティーな世界への憧れ、自己満足、自己顕示欲、自己肯定等など???
??? 有名になりたい、金持ちになりたい、デザイナーと呼ばれたい云々、、、、、、、、、
 
 『既に、”新たなる創造なき世界”に何を価値として関わって行きたいのか?』
僕はこの”象徴の貧困”の根幹こそが、そのデザイナーの人間性を問うまでの時代性になったと
感じ始めてしまっています。

時代を象徴する一つのプロローグを、
モードを語る前に、既に、”象徴の貧困”としてのモード化社会を認識しよう。
『我々の今日的社会はコントロール社会(管理される社会)と言う調整社会であり、
この様な社会に於いてはバランサーとしての感覚的な武器が必要不可欠である。』
Jeremy Rifkinはこれを『文化資本主義』と論じた。
/参照;「アクセスの時代―Age of Access」/渡辺康雄訳;集英社刊/01年:
 例えば、以前読んだもう1冊には、このような一文もあった。
『ハイパーインダストリアル時代には、感受性は執拗なマーケティング戦略攻撃に
晒されているが、その感受性こそが今、紛れもなく起っているあらゆる種類の戦いの争点と
なっていると言う事。その戦いの武器はテクノロジーであり、被害を受けるのは個々のそして、
それぞれの集団つまり、異文化/異民族の特異性であり、今や文化資本主義の下、我々の
消費社会は”象徴の貧困”が果てしなく広がるに至っていると言うことを認識してください。
例えば、武器としてのオーディオヴィジュアルやデジタルと言ったバーチャルな感覚に関わる
技術をコントロールする事が問題なのでありそして、その技術のコントーロールを通じて、
魂とそれが住む身体の意識と無意識の時間までをもコントロールしようとの企てが始っています
ね。それは”フロー”をコントロールする事で”意識と生”の時間を調整する事なのです。』
/参照;“DELA MISERE SYMBOLIQUE 1. L'epoque hyperindustrielle"
By Bernard STIEGLER EDITIONS GALIEE,04/Paris.
 
 そして、世界は確実にある一つの流れの方向へ導かれている。
世界規模での地デジ変換の目的の一つもこの範疇であった、インターネットを介したTVとPCの
統合により、明日の『テレヴィジョン』端末は『テレアクション』端末へと、モバイルになり
小型化、大量情報そして、速度というファクターによって変革してしまった。
この現実とは、文化資本主義の下に文化産業が産業全般そして、今後の情報社会の基幹産業と
なりつつある事だ。現代日本の「安心のファッシズム」に漂っている多くの消費社会の国民は
この「テレアクション」=映画+TV+ゲーム+音楽+フットボール+ショッピング+金融+保険
に現実時間の多くを委ね切った安心という願望の日常リアリティでしかない。

世界は21世紀以来、文化資本主義の下、文化産業をビジネス構造化するための”文化価値”と
感覚的武器の一つである芸術の価値即ち、”美-美意識”の“価値判断”の唯一統合化に依って、
”特異なモノが特殊なモノに”変えられてしまう。そして、彼らたちにとって変わらぬ世界とは、
コントロール社会(管理される社会)が”金融―価値観―武器”の新たな調整戦略によって
より高度な技術による、「コントロール社会(管理される社会)」へと進化,革新している。
これが今と今後の、世界の”グローバリゼーション”の本意本質である。
嘗ての20世紀初頭、政治の根幹は自分たちの国家が富める国家であろうとするために、
「植民地政策主義」によって利権化構造とともに白人資本主義社会が帝国主義化を競い合い、
黄色人種としての日本も加わって、結果、2つの世界大戦をもたらしてしまった近い20世紀の過去
を忘れないでおこう。そして、21世紀を迎えた我々は新たな技術を持って、新たな武器
とした「グローヴァリゼーション」の時代を手中にした。この新たな技術が「インターネット」
であり、この新たな技術を利用した「コントロール社会」の構築化と進化が現在の21世紀の
初頭であろう。ここには古いシステムに、新たな技術を加え、構造化された根幹が読める。
即ち、資本主義とは、『力と差異をどのようにシステム化』することで可能なシナリオであり
これは依然、変わらない白人社会が生み出した根幹である。ここに、新たな進歩としての技術
革新が加わっただけが「文明の進歩」と読むことが現代をシンプルで理解しやすいであろう。

**
さて、こうして”未来”を読んだ場合、
ファッションの世界にも“象徴の貧困”が染み込み始め、表層化されるだけであろう。
そこに“表層のボキャブラリィー”がより、フォーカスされ”特異な文化が特殊な世界に”消費社会
のために変えられてしまう。ここに僕が発言している「壁紙デザイナー」や「庭先デザイナー」
の登場とその立ち居場所が可能になったファッションの世界が現代である。
 ある時期まではこのモードの世界も、”象徴の豊かさ”故に存在価値があった時代があった。
メゾン、M.M.がこのモードの世界へ彼らたちの「創造の発想」によって一つの時代性を創造した
根幹は、それまで存在していた”象徴の豊かさ”を解体し、“象徴の貧困”と言うリアリティを
”落ち穂拾い”即ち、再構築したことであろう。
 そして、現代のファッションに於ける“象徴の貧困”とは、ヌーボー・リッシュ(新興成金)に
よるラグジュアリィ・ファッションの金メッキ化されたヴァニティな世界そのものの存在で
あり、他方、“流行/トレンド”とはグローヴァリゼーションを背景に新たなパワーとして
の大量生産可能な「工業化製品」としてのフアスト-ファッションの登場とその差異化のための
コードが“象徴の貧困”である。
 もうひとつ、それらのブリッジとしての役割を与えられていたプレタ・ポルテの現実とは
ファッシズムな調和のための創造的ゲームであり、“フェッチ&キッチュ”か或いは、
“ユニフォーム”へと流れ始めている。ここでは、 救われる唯一の身体の意識と無意識の時間の
ための”武器”は“過去”の使い方である。この過去とは集積された”アーカイブ”であり、
“共有したノスタルジア”の不連続な連続における集合体として甦る。
 ここでの価値は”未来のイメージ”ではなく過去へのイメージであり、それ以上に共有し得る
”エピソード”のヴィジュアル化と“コスチューム”化が“象徴の貧困”社会の新たな”武器”だ。
 象徴が貧困化すればするほど、嘗ての”カッコ良さ”がノスタルジー化され,美化され語り
続けられる”エピソード”になる。そして、これによってモードの世界も「美術館ビジネス」と
言う新たなビジネス構造が誕生し確立される。
この発端を直接的に構造化したのはCdG川久保玲の”作品展覧会”が動機である。
売れなくてもいい。それなりの場所に置いておくだけで価値が生まれると言うビジネスシステム
をランウェーで実行したのが川久保玲だ。ここにこれ以後の新たな彼女の新しい立ち居場所を
アヴァンギャルドに自らが創造したのであるからやはり彼女の気迫と根性はすごい。
 以後、世界のラグジュアリィー・ブランド企業はこぞって、「ファンデーション機能」を
設立し始めたのも現実になった。ここでは自分たちのアーカイヴを使っての未来への”創造性”と
それらのアーカイヴにより、文化資本主義の下、文化産業をビジネス構造化するための
企業自らがデレクションした”文化価値”を育成するためである。

もう一方の側の若手デザイナーたちの立ち居場所では、固定されない立ち居場所を見出し
始めている。考えようによると「自分のブランドとはインターネットのプラウザである。」
と言う視点だ。「いいね!」を押し合って彼ら世代のバーチャルな関係性を構築し、そこで
「コラボレーション」と言う手法を味方につける。この手法も見方を変えれば、
「アートビジネス」の構造に類似している。「コラボ」することによって自分たちのブランドの
「来歴」を造ると言うシナリオだ。この「来歴」即ち、「コラボ」の話題性が凄いほど
そのデザイナーの立ち居場所がメディアによってシナリオ化され拡散され、ブランドと
デザイナーの「知名度」へ繋がる構造がここには見られる現代である。
 ここではコラボの相手先がインターナショナル・ブランドであればあるほどに、自分たちが
求めている”立ち居場所”を約束してくれると言うシステムになりつつある。これは彼らたちの
関係性の拡散手法に『”成熟”を拒否し始めた世代』の表層が実は見える。
 この根幹は「競い合う」対象の変革化とでも言える新しいビジネス構造の一環になり始める。
”創造性”で競い合うことよりも”話題つくり”と”ヴァリエーション作りあるいは、
”ブリコラージュ”によって競い合う「選曲・編曲」と言う時代性であり、変わらぬ
”ファッションと音楽”の関係性が尚、ハネムーンであるし、そこに新たに”アートビジネス”の
システムが加わりファッションビジネスも本格的な「モノ資本主義」から「文化資本主義」の
元、文化産業としての新時代が到来したのが今である。
 
***
 このような時代観を自らの”形態言語”の日常環境とした時、モードを語る人たちは
何を語れば良いのか?
『誰が』『いつ』『誰に向けて』『何のため』それらを作ったのかという事をどのような
”立ち居場所”で、どのような”眼差し”で、どのような”ボケブラリィー”で、どのような”素材”と
“手法”によって、”未来の貧困”へ向けて語られているのだろか?
あるいは、”過去の豊かさ”へ向けて持ち得たそれぞれの「文化度」によって語りかけるだけの
ものなのであろうか?
 或いは、それ以上に「作り手」と言うよりも既に、唯の「送り手」になってしまった
ニュー・ジェネ・ファッションディレクターたちが認識し、持たなければならない根幹がある。
それはこの時代性だから持たなければならない「創造のための価値」観である。
 「創造のための価値」とは簡単に言ってしまえば、時代が進化することによって生まれる
「豊かさ」によって、「作り手=送り手」たちも、「なぜ好きな服を作るのか?」どうして、
「ブランド・デザイナー」になりたかったのか?と言うまでの自身の心の有様の根拠性と
自らが求めた”立ち居場所”のためのアイデンティティそのものでもある。そして、持ち得た
自らの「夢」の根幹でもある。
 この現代の作り手としての根幹である「創造のための価値」の発想の由来と根拠が本来は
そのデザイナーやブランドの「クオリティ」や「品格」となり、自らが求めた「立ち居場所」の
存在意義の確認に大切な根幹になる。
 なぜ、今この根幹が大切な時代であるかと言えば、ファッションの世界に「純創造」と言う
世界がいまだに存在するのであればその「創造」に挑戦することが自分が持ち得た自由の根幹
になりそれが創造へ賭ける心のエネルギィーになり得た時代があった。
 嘗て未だ、ファッションの世界に”新たな創造”と云う領域が芳醇に存在していた時代であれば
「作り手」は「創造のための発想」のみを深く考えて行為し、概念を発言すれば良かったのだが
今はこのシーンはすでに過去のものになってしまったからである。

 僕が最近のコレクションを見て評価する根拠は、このデザイナーはどのような
「創造のための価値」を持ってコレクションを作ったのか?と言う眼差しで見始めている。
誰のために、どのような人達のためのためのコレクションなのか?
或いは、コレクションを行なっているのか? を感じ、読むことがとっても大切な「共有感覚」
を創造する根幹であることだと信じて見ている。
 しかし、その多くは「自己中心」に始まり、「自己満足」「有名になりたい」「儲けたい」
それに、ラグジュアリィーブランドのデザイナーに登用されたいと言う“象徴の貧困”を
上塗りするだけの「壁紙デザイナー」や「庭先デザイナー」が賑わいを作っている世界でしか
無くなって来たと読めるまでの先月の『Paris・Fashion Week,18A/W』だった。
合掌:
文責/平川武治:  

<参考>
 *今回、パリで見た展覧会;
『M.M.M. 20周年回顧展』/於;モードガリエラ、
『Y.S.L.展』/於;ファデーションYSL,
『FUJITA展』/ 於;マイヨール美術館、
『RAOUL HAUSMANN写真展』他/於;JEU DE PAUME: 1918年のベルリン・ダダに関わり、
2つの大戦を経験したその作品群は眼差しの向こう側にあるものを捉えていたウイーン生まれ。
『IMAGES EN LUTTE展』/ 於;Palais des Beaux-Arts : 今年で50年を迎えた「’68MAY」の
オマージュ展。当時のグラフィック、フリーペーパーなどとその後、続出したキューバ、チェコ、
インドシナ等の「革命」のプロパガンダ・イメージ & グラフィックス展。
 日本おける「安保'68」展は何処かでやるのだろうか?  
『MUSEE CONDE』/ 於;CHATILLY, 久しぶりにシャンティイ城と街全体を16世紀の佇まいを
残したサンリスへ出かけた。サンリスの夕刻がメラコリックでいい。
 *読書;
『都市と娯楽』/ 加藤秀俊著:鹿島出版会刊:
『柳宗悦』/ MUJIBOOKS刊: 
『暴政』/ T.スナイダー著:慶應義塾大学出版会刊:御一読を進めます。
『日本二千六百年史』/ 大川周明著;毎日ワンズ刊:

 ありがとう。

 


 

投稿者 : editor | 2018年3月28日 17:12 | comment and transrate this entry (0)

ブルータスSTYLEBOOK 2018 S/S向け原稿草案。『モードにしがみついてきた男の供述書。』

本原稿は、「ブルータスSTYLEBOOK 2018 S/S向け原稿草案」として書き下ろされたものの
全稿であり、私書版「14歳のためのモード論」のプロローグの一章でもある。

『モードにしがみついてきた男の供述書。』
ーーーーーー終戦の気配が漂い始めた頃に生まれたものが、
あの戦後の荒廃期の中から不謹慎さと共に変わらず、「装うことが好き」と言う事を
自分の中に見出して、幾通りもの好奇心と衝動に揺れ動かされながらも、
それにしがみついて来た者の追憶記否、供述書。

「今だから言えることなのでしょうが、
結果、それが何であれ、私の中に何か、「輝くもの」を感じ触れ、触れればそれは、
まず、第1のしあわせだと思いました。
次にはその見つけ出した、私の中の「輝きそうなもの」を恥ずかしさうにつかみ出して、
私らしく輝くようにその想いと共に、磨く事。
そして、時間と想いを掛け、磨きをかける事。
すなわち、感じる事、学ぶ事、喜ぶ事、愉しむこと。
そして、自分の価値観を築くことに費やした私でした。

そうすれば、仲間を見つけられ、時には競い合うこともありました。
私はこれを感じ、これにしがみついて来た事の結果として、今があります。」

“しがみつけた理由の根幹とは?”

「それは、まず何よりも、母の存在でしょう。
私事ですが、彼女はとても上品でおしゃれで自分の人柄を漂わせるお洒落をしていた人でした。
敗戦後の“母独り、子独り”と言う特殊な家庭(?)環境でどのように育てられたかと言えば、
母が装う姿を荒廃した社会の日々に、日常として目にしていたことでした。
今ではそれが当たり前の日常ですが、その当時では寧ろ、異常な非日常の光景でした。
その母の姿は、優しさと共に、喜びや勇気、プライドや責任感、楽しさや嬉しさそれに、
ある時は悔しさや悲しみさえも私は当時の母の粧姿からすでに、子供こゝろに感じ取っていた
のでしょう。そんな母の姿を見かける多くの人たちは決まって、「君のお母さんかい?
綺麗な人だね。」「上品な方だね。」「美しい人だね。」「優しそうなお母さんだね」と
声を掛けてくださっていました。まだ幼かった私にはそれが自慢でもあったのでした。
そして、この感覚はすでに小学校の頃には私の装いの感覚になっていました。
自分が産んだ子供なのに、自分が付けた名前で呼べない母と子。
この母との距離感と関係性が、いまの私と装いにはあります。
だから、私は今の「装い」を評論する立ち居場所を探したのでしょう。
そんな母が選んで着せてくれた私の装いは当然、当時の周りの友達や近所の目からは
浮いてしまっていました。
しかし、私は当時、すでにその目線が与える心地よさや楽しさや嬉しさときには、
ときめきさえも知ってしまっていました。
私の小学生時分はお兄ちゃんたちのお古の“国民服”が一般的でしたが、
私は一度もその様な服を着せてもらったことが無く、私が中学へ上がった時に始めて着たのが
常襟の学生服でした。私はこの学生服を学校から着せられることによって、自分の心までもが
社会の制約の中へ閉じ込められる想いと感覚を今でも覚えています。
私が私らしく装うことを躾けてくれたのが母の存在とその母が自分の体験から選んで
着せてくれた装いだったのです。それは、それしか出来なかった母のリアリティであり、
彼女が出来得た「愛」の一つだったのです。
これにしがみついて来たのが私です。
或いは、この頃では私はこれにしがみつくしかなかった時代と環境だったのでしょう。」

”その後、何に影響を強く、受けましたか?“

「敗戦真近に生まれた私がその後、自分の世界観と価値観らしきものを感じ始めた時
あるいは、自己主張を装いによって生意気にそして、異性を意識するまでに育った頃に、
世間では大いなる味方が誕生していました。それが「VAN Jac.」でした。
そして、「JUN」も知りました。
私は大阪で生まれ育ちましたから、そのあとに「Edward」を知り、そのテイストの違いに
かなりの衝撃を覚えました。だから私は「VAN Jac.」で当時流行した“アメリカン スポーティ
カジュアル”なる装いの洗礼を確実に受けた世代の一人です。
当時は心斎橋そごうの1階に在った、「VAN Jac.」コーナーや梅田に出来た、「Men’sShop」
難波に在った「トラヤ帽子店」の「JUNコーナー」そして、神戸三宮の高架下にあった
「ボンド商会」に友人たちと通ったことも記憶に残っています。この「ボンド商会」の親父さん
からは自分だけの「装い」とはのいろいろなことを教わり一方、「VAN Jac.」の創業者であった
石津謙介氏の大阪時代に母が知り合いだったことから母もこの装いには味方をしてくれました。
もう一つ、私は母の影響でB.クロスビーやF.シナトラ、メルトーメ、S.デイヴィス Jr.等の洋楽
スタンダードを聞いていたのですが、この頃には私は「モダンジャズ」を聞く様になりました。
当時、戎橋と梅田にあった「バンビ喫茶店」や心斎橋の橋詰めにあった「オグラ」に通い始め、
友達も出来“装い談義とジャズ談義“に明け暮れていました。O.ピーターソン,S.ロリンズ、
M.デイヴィスやC.アダレー、J.コルトレーンのコンサートを当時の大阪フェスティバルホールへ
勿論、「装い」を決め込んで、友人たちと押しかけていました。」

”覚えている自分のかっこよさとは?“

「私が「VAN Jac.」を通じて知ってしまった、”装う“事のその楽しさと生意気さは年齢と
時代と共に変化し始めました。アメリカでDacronが発明されて当時の新しい素材が登場した頃、
私も「銀座ヤジマテーラー」でラペルをジャズメンたちに見られたシングルラウンドにした
黒のスーツを仕立てて頂いたことも憶えています。今でも時折、私が着ているものに、
「エドワード」のエポーレット付きのキャメルジャケットがあります。
もう、半世紀以上のヴィンテージものなので、縫い糸がほころびてきていますが、好きで、
かっこいいジャケットだと信じて未だに大切にしています。
私は歳を取っても体型が変わらなかったので、これらのとてもお気に入りのスーツや
ジャケットで好きなもの、良いもの、気に入ったものは大切に、大事に随分長く着ています。
だから、当時、母に買って貰った「VAN Jac.」のジャケットも今も着ています。余談ですが、
私はこの「テーラーヤジマ」のジャケットは当時交際していた女の下宿に忘れてしまったことを
今も覚えているぐらいです。それも、既に20年ほど昔の話ですが。
「好きなもの、大切なものはそのこゝろの想いの分だけ大切に着てあげなさい。」と、これも
母から躾けられた”装いこゝろ“の一つで、”お洒落“とはの根幹を躾けられたと
私は自負しています。」

“おしゃれこゝろの大切さとはなんでしょうか?“

「私の次なる新しい装いのシーンの舞台は倫敦に移りました。
’73年から数年間、機会があって住み始めた都市、倫敦は私の装いの価値観をもう一つ広げて
くれました。私はこの街で「自由さ」という精神が接ぎ木されました。
当時の倫敦は未だ、“ロックとカーナビー”の残り火が燻っていましたし、キングスロードも
輝きと騒がしいさを溢れせせていました。それらの輝きは当時の体制に対する自由の裁量から
発せられたものでした。
「装い」とは一つの才能であること、その才能は自由なこゝろから生まれ、持ち得たバランス
感覚で如何様にもなり得ることを私はこの街で体感しました。
私は気ずくとその輝きの中で新たな自由とは、何であるか、どの様にすれば感じられるか?を
現実の中で体感し、自分のリアリティとして学んで来たようです。
そして、私は本当の「自由」とは現実の中に生まれたものでしかあり得ないという根幹を知り、
それを価値観として身に付け始めました。
もう一つ、当時は未だ、「質素、倹約」がこの国の美徳であった時代でしたから、自ずから、
「古くても好きなものは大切にする。」という心の有様も学び、私の「装い」こころに新たに
「古着」という“宝の山”を発見したのがこの街からでした。
この街での4年近くの実生活の後半はHIGH STREET KENGINGTONにあったマーケットと
その裏にあったアトリエでの「陶芸と古着屋」で生活費を稼ぎそして、スクーリングと音楽と
育児が生活の全てでした。

”あなたが「装い」にしがみ付くことの大切さとは何ですか?“

「結論から申し上げます。私が、私らしく生きてゆくことの一つの証です。
私の中で輝くものが何なのか?それを感じ、それが好きになれば、
その好きなものを現実で探し、見つかれば、それにしがみ付くしかなかったのが私の時代、
私の育ちそのものだったのです。私がこんなに長い間、しがみつけたのも苦しいものより、
楽しい幸せなものの方が、醜いものより、美しいものがその根幹にあったからでしょう。
そして、私以外の人たちにも共有していただけるものの方が良かったのです。

その後、日本社会も豊かさが生まれ始めて、消費社会が誕生した後はこの「装い」も
新たな世代へ広がり、装うだけではなく自分たちが着たいものを作り出す世界が多く誕生し
始めました。私が倫敦から帰国し、上京した時には気がつくと私自身もそんな作る世界の側に
足を入れ始め、しがみつき始めていました。しかし、この時期とはあの「VAN Jac.」が倒産した
時期でもあり、その後、数年で母も他界いたしました。

世間では、「酒の上の過ち」と言う言葉がまかり通っていますが、
私の場合は母が幼い頃から気を使ってくれた「自由な装いの過ち」が勇気と覚悟を与えてくれ、
今の私の立ち居場所を決断させてくれ、私の人生をこのような幸せな流れに導いてくれたと
たいへん感謝しております。」

”最後に、14歳の若い人たちへ「装い」についての一言を、“

「 私のこれまでの経験から申し上げますが、誰のために「装う」のか?
という問いへの答えは、まず、自分自身のため。自身の存在を自分で自由に表現できること。
そして次には、自分が愛する人のため。それが恋人だけではなく、家族や友人たちも含まれま
す。ここには自分が愛する人への想いが存在するからです。そして、出来れば、社会のために
なればもう最高でしょう。この根幹は「装う」ことが持っている自由さと幾つかの価値観、
立ち居振る舞いや身だしなみ、躾などですね。それに、“コミュニケーション”と言う機能が
ある為です。
ここまでお話しすればもうお判りでしょう。私の「装い」には所謂、ブランドやデザイナー
モノへの薀蓄や願望等は殆んど、介在しませんでした。それより寧ろ、「モノが持ち得た
リアリティ」に魅力を感じていたのでしょう。だから私の装いのほとんど全てが自分の古着と
それぞれ訪れたことのある街の古着屋から目に留まった「リアリティが詰め込まれた古着」が
私のワードローブの全てであり、それらと自由に遊ぶと言う感覚での着こなしを楽しむ
「装い」でしかありません。

最後の最後に、私の好きな、第14世ダライ・ラマの言葉に、
“Approach love and cooking with reckless abandon.” というのがあります。
私はここにもう一つ、「装い」を付け加えたいです。
“Approach love, cooking & fashion with reckless abandon.”
ありがとうございました。」
文責/平川武治:私書版「14歳のためのモード論」からのある1章より。

投稿者 : editor | 2018年3月28日 04:01 | comment and transrate this entry (0)

2018年3月20日

UNDERE COVER 高橋盾 AW18を評論する。

かつての70年代終わり、ミラノの「ゴルディースミス」によって「イタ・カジ」ブームが
起こり、引き続きパリ、80年代初頭には当時の「シェビニオン」で代表された
「フレンチ・カジュアル」が全世を風靡し、リセの子供たちのユニフォーム的にまでなった
時代があったのを思い出させるまでの痛快さを感じた。
丁度、その当時の”ニュージェネレーション“達が今では、このUNDER COVER の高橋盾世代
であろう。「時代はリバーシブルあるいはメビオスの帯」。

ここ数シーズンのUNDER COVERのコレクションは好感を持ってクオリティー高い違いを
感じることがある。
先シーズンのPitti uommoのメンズコレクションにしても、パリで行われているファムの
最近の4シーズン来にしてもそれぞれデザイナー自身が何よりも、愉しんでいることである。
即ち、高橋盾が楽しみながらコレクションを、自分世界の中に引き込んで創っているのが
感じるまでの世界を堂々と見せてくれていることである。
この状況をデザイナー自身が持ち得て自分のコレクションを創っているデザイナーは矢張り
少ない。自信がない、トレンドを気にする、売りを気にするそして、それなりのデザイナー先生
ぶっているのだからそれなりに見られたいことなどが大きな要因になって、このデザイナー先生
自身が苦しんで創っている或いは、大いなる邪心と共に自信のないコレクションの結果なって
しまうことの方が多いからだ。
そもそも、ブランドとは「商標」であり、自分のブランドとは自分の世界観を生み出すための
「商標」であり、この世界観はデザインに関わった人たちとそれを総合でディレクションする
人たちが学んで来た「スキルと経験と関係性と美意識それに持ち得た文化度」によって構成され
ているのが当たり前である。ここにこのブランド或いはデザイナーのもう古くなってしまった
ボキャブラリィーである「個性」がその創造性と共に現れるものを「デザイナーブランド」と
称されて位置付けされている。

従って、UNDER COVERの高橋盾の世界観としての、「スキルと経験と関係性と美意識それに
持ち得た文化度」に余裕が生まれ始めた事。或いは、豊穣され、”豊かさが自由さを生むまでに“
なったことと感じられるので僕は好きである。
あと、自分のコレクションだから、自分のやりたいことを自分らしくやるというレベルの
ゆとりと、もっと言えば、「自分たちのお金で堂々とパリに来ているのだから自分たちの
やりたいことをクールにカッコよくやりたいね。」という正直なデザイナーの声も聞こえる。
もう一つが、「自信」であろう。もうここまでの10年数という経験をこなして来た自信でも
あろう。この辺りが最近のアンレ・森永の進歩しない、他人の新しい褌を使い回しての古い発想
で面白くもない学生コレクションレベルとの大いなる相違点であろう。根幹はこのデザイナーが
自己自慢がしたいがためのパリ。結果、パリからは何も学んだものが見当たらない故、女性が
着たくなる服が作れない所詮、「庭先デザイナー」でしかない。

さて、本題の今シーズンのUNDER COVERのコレクションの素晴らしかったこととは、
「新鮮」であったこと。「愉しかった」こと。「自由」であったこと。そして、幾つかの
「新しい」アイテムが見られたこと。何よりも僕が嬉しかったのは、彼が提案したターゲットが
「14歳」(?)
僕の去年来の構想と雑誌「ブルータス」の特集にもなった、「14歳のモード論」にも彼は
目線を行き届かす「自由さと新鮮さ」がとっても可愛いかった。
彼の眼差しはこの世代の女の子が恥ずかしやり屋さんであることを承知したところでの
「オシャレ!」にコンテンツを投げかける。「普段着の安心と親しみ」で着られる「ちょっと
違った、オシャレ感覚」を提案。「分量あるキャンパス・ルック」を可愛く着せる。
素材の面白さでは、形状記憶素材をこの世界へ落とし込んで”おしゃまなシルエット“を提案。
ゴム長にメッセージを書き込む。スニーカーも逃さない、上手い。そして、キャスティングも
良かった、ナイキに出ている旬なモデルをちゃんとゲットしていたからだ。
トレンドも気にしていない。自分がやりたいことを堂々と自身のクオリティを落とさないで
クールにこの”ニュージェネレーション“に全てを投げ掛け、コーディネートを見せたことも
潔が良い。結果、パリのファッション雀の意表をついたコレクションは話題になる。
その証拠にショールームでの実ビジネスもとても良かったと友人のマダム・クリスティーヌに
聞かされた。

ここで、冒頭のかつての「フレンチ・カジュアル」ブームへ、イマジナリ・ボヤージュとなる
「あたらしさ」を思うのは愉しい想いである。

そして彼、高橋盾はこれからは、メンズを軸としたコレクションをパリで挑戦発表する
という。
ここでも、彼の「豊かさから生まれる自由さ」をこのデザイナーと共に、愉しんでみよう。
文責/平川武治;パリ市ピクピュス通りにて:

投稿者 : editor | 2018年3月20日 19:24 | comment and transrate this entry (0)

2018年3月11日

“JUNNYA WATANABE” AW18コレクションを評論する。

先ず、僕の結論はここ、2シーズンが低迷であったJUNYA WATANABE コレクションの
今シーズンには一つだけ彼らしさの力量を持って自分らしさの世界に挑戦した世界があり、
いいコレクションだった。

勿論、ビジネスをも考えなければならない立ち居場所上、ヴィンテージセーターや
そのリメイク的こなしをいつものパンキュッシュなイメージングによって、しっかりと
そのお役目も含めた”Good job”をしたのも好感がもたれる。

大事な今シーズンの視点はやはり、「分量のバランス感」だった。
渡辺淳弥はパターンメイキングでは素晴らしい腕を持っている職人肌のデザイナーである。
このような職人はいつも自分自身に挑戦する難しさを正面から迎え撃っている。
それが自分のプライドとなる“腕”を磨くことであることを熟知しているからだ。
彼の今シーズンの新しさへのチャレンジもここにあった。
僕が感じた彼の今回の“source of the new balance”の根幹は先シーズンのオムでもトレンド
アイテムの一つであった”ポンチョ“だ。このポンチョが持っている肩に乗せるだけで生まれる
ボリューム感が生み出すシュルエットに注目したのではないだろうか?
彼はこの時のシルエットとボリューム感を今シーズンのテーマの一つになった
「袖周りへの新しさ」へ彼のパターン力を駆使した造形へチャレンジしたと観た。
僕は袖と袖下に造形の新たな空間を見つけ出した彼の眼差しに感心した。
そのほとんどの白人デザイナーは今シーズンのこのテーマを表層の足し算のデザインで逃げ、
フリルをつけ、プリーツを使いあるいはシンクビックと。しかし、彼は過去からも多くの
デザイナーが避けてきたこの新しさへ職人気質で向かい合ったシーズンだったと感じた。

今シーズンのパリのモードの欲求には、「もう、90年代のアーカイブからのブリコラージュ
だけでは感動がない」という新たな欲求が感じられた。そこでやはりモードの造形の根幹である
「分量のバランス感」が問われ始めた。新たな分量のボリューム観によってのシルエット、
そのバランス感でどのようなシルエットを生み出すか?にあった。この欲求にはリスクが
多くある。すなわち、「売れるか、売れないか?がはっきりとビジネス上で数字で現れるから
だ。」従って、このトレンドに真っ向からいぞんだデザイナーは少なかった。ラグジュアリィー
は無論、若手と称される4シーズン目に入ったデザイナーまでこのトレンドを避けた
コレクションがほとんどだった。ここではパターンメイキングの基本力が問われるからであり、
今の大半のデザイナーたちはこの能力が皆無に等しいからだ。

身体を「表と裏/左右対称」しか考えない西欧人たちの美意識の根幹。
その上でのバランス観から始まり、非対称そして脱構築とジェンダーレスまでがこの西洋美學に
基づいたモードの世界の創造性の変換であり、現在へと至ってきた。
この世界へ刺激ある現実を持ち込んだのが82年のCdG・川久保玲であり、それに刺激と影響を
見つけたのが後のマルタン マルジェラだった。
その後、90年代はじめには多くの若いデザイナーたちが、
H.ラング、M.シットボン、J.コロナ、A.L.マックイーン、H.チャラヤン、V. & L.たちが
このモードの世界を芳醇、豊饒な新たな世界へと革新した。
その後の多くは所詮、彼らたちの「チルドレン」たちでしかない。
そんなこのモードの世界観の遍歴を考えると、今シーズンの渡辺淳弥のコレクションには
新しき視線が感じられ、その挑戦への自信が読み取れて僕は心地よかったのだ。
「ありがとう。」
文責/平川武治:パリ市ピクピュス大通り:平成30年3月5日初稿。

投稿者 : editor | 2018年3月11日 20:04 | comment and transrate this entry (0)

2018年3月 9日

CdG, ”川久保玲作品発表会“/3月03日、を論じる。

今年のこの街は、興味ある二つの「50周年記念」がある。
一つは、この国の戦後の左翼イデオロギィーの根幹になっている「MAY ‘68」の50周年。
もう一つはあの70年代のモードの在り方、「プレタポルテ」を生み出して牽引して来たメゾン、
「ソニア リキエル」の50周年でもある。

そして、川久保玲がスタイリストをやめて、友人三人で始めたこのブランドも多分、
「50周年」を迎えるであろう。当時の全てを知っているものが少なくなったことは、
この「50年」という半世紀前の出来事を熟知しつずけている人間が少なくなったことと、
やはり、都合の悪い事は忘れたいという心情と、”時間“が暗い時代とこゝろを
「風化」させてしまったからであろう。これによって戦後の大衆は「豊かさ」を持ち得るまで
に”努力“して来た50年であった。


ここで、 ”川久保玲作品発表会“を見る度に思うことがある。
このデザイナー、川久保玲はどのような服を作りたくって日本のファッションの世界へ入って
来たのかである。
彼女の全ての始まりは、彼女達がつけたブランド名でも判るし、当時のS.リキエルの
コピーから始まった彼女たちのブランドが、先日のような”発表会“を為すまでに至ったかを、
このような時間と、どのような関係性と努力を経て、現在の川久保玲の作風に至るまでの
「メタモルフォーゼ」が可能なのか?を誰も今だに論じない。
ある意味では、ここに日本のファッションが「文化の領域」にまで達することができない
所以の一つがあろう。他方では、自らが欲しくって、「文化勲章」を貰ってしまったデザイナー
も存在したと言うのに。
最近の東京ファッションウイークの”枯れ木に山の賑わい“も、日本の現在の外交政治
「庭先外交」と同じく、その多くが「庭先デザイナー」でしかない。
見える庭先ではしゃぎまわっているだけの輩たち。
「おい、君たち、“床の間”を持っているのか?」
すみません、今のマンション住まいで育った世代は”床の間“の存在すら知らない世代でしょう。

では、”川久保玲作品発表会“を論じよう。
まず、何よりも昨シーズンから、このデザイナーの作風が変わった。僕もハッピーになる。
多分、あのN.Y.での展覧会以後、このデザイナーはある種の肩の荷が降りたのであろう。
今シーズンは先シーズンに増して、何よりも当のデザイナー自身が楽しんでコレクションに
携わったであろうと感じた。
このデザイナーがこのような発表会形式でショーを行ったこととは、新しい時代の、
新しいモードの立ち居場所へ挑戦したことが何よりもこのデザイナーに僕が感じた功績である。
以後、この現実性を見抜き始めたモードの世界のビッグメゾンはL.V.やPinoグループなどが
独自の「ファンデーション」を持つまでにモードがアートの世界へ近ずく、新たな在り方へと
変革させた。この事自体がこのメゾンが成し得た最近のモードの世界での大きな変化である
ことを忘れないでおこう。

あの、F.フェリーニの代表作「道」の、ニノロータのテーマ曲でこの発表会は始まった。
チネチッタで見慣れた仕草がランウエーを動き出す。二つの照明什器が静かに引き上げられる。
すると、ファーストルックが。
全身白で装った黒人のマヌカンがゆっくりと歩み始める。
これは長い間見せていただいて来たパリ・コレクションにおいてもこのメゾンでは初めての
キャスティングである。窓は開かれた!!
素晴らしい、オープニングであった。これも,川久保玲の特技の一つであろう、上手い。

今回の川久保玲のコレクションは無垢さとチャーミングさそれに大胆な美しさを見事に
自分の創造世界の中でポジティフに展開した。
変わらず、自分の好きなエレメントは継続して居る。
それらに加えて、今回はいくつかのいままでに見られなかった手法を魅せてくれた。
今回の”source of the image”はトレンドの一つである「レイアード」を彼女の世界観へ
引き込み、自らの美意識と過去への想いも込めてポジティフな世界観を構築した。
ボンディングやキルティングを「未完の状態」で自分の素材とした事。
そこへヴィンテージ下着やヴィンテージニットを加えるという手法を用いた。
このヴィンテージにそれなりの彼女なりの想いがコードとして感じられ、読める。
魅せたかったのはそのエッジとボリュームのバランス感の変わらぬ美しさであったであろう。
僕が一番気に入って好きだったのは、白を基調としたレイアードの中から見え隠れする
いくつかの色彩あるうす布が見え隠れするあの“ミルフィーユ構造”のシンプルな構築の中に、
多くの布をレアードされたそのエッジの美しさとチャーミングな少女的はじらひを造形した
アウトフィットのものだった。
とっても失礼な思いだったが、思わず、食べたくなった。
(ある日、ローズベーカリーへ行くとこの”ミルフィーユ・れい“が食べられる。
そんな思いまで、)
だが、少し時間を置いて想いおこすと、「女の表層としての面と内面がエッジに現れ見え隠れ
するうす布の僅かな色彩」にこのクリエーター、川久保玲の「はにかみ」と言う女らしさを
想った。
この「はにかみ」というこゝろの有り様はやはり、日本人が持っている特異性であり、
人間としてのチャーミングさでもあろう。そして、隠されている美しさがあるからこそ、
こゝろ魅かれる。ここには日本人でしか理解できないこゝろの有様の一つに、
「情緒をひとしをに深くする」という美意識があった事も思い出す。
そして、かつては多分、このデザイナーはこのような内面性を自身で語ること自体が
「はにかみ」であったであろう。こんなところにもこの、川久保玲のメタモルフォーゼを感じ、
共有出来たことに喜びを覚えた。

このメゾンのプレスが対プレス関係者へ手引書的な文章を出しているようだが、僕は未だ、
貰ったことがない。ということは、僕は彼ら達がくくるプレス対象者ではないのである。
これも、僕の立ち居場所をよく理解されての対処であろう。
そして、今回のテーマが「camp」だったと言う。
僕が思い出したのは、S.ソンタグ。あるいは、古い映画「coach 22」。
それにしてもやはり、このコードとしての「camp」は僕たち世代のボキャブラリィーだ。
例のウキペディアでこの「camp」を引くとすぐさまそれなりの教養が入手できる白人的解説が
学習できる。あくまで、西洋哲学と西洋美意識の範疇によって60年代にコード化された
ボキャブラリィーでしかない。
ここには日本人特有の“湿り”から生まれた哲学と美意識は皆無である。
ちなみに、「バロックやキッチュ」はドイツ美學から生まれた様式である。
しかし、「CAMP」は戦後のアメリカで生まれたボキャブラリィーである。
ここにも僕は残念ながら、今だに「外国コンプレックス」或いは、「白人コンプレックス」が
むやみに横行している様しか見ることができない。非常に悔しい。
多分、このようなプレス対応のシナリオは白人が考えるのだろう。
当然であるが、海外のプレスやバイヤーたちに理解してもらいたいという役割があるからだ。
悪く思えば、そのついでに日本人たちへも、このように読み込んで欲しい。そしてどうせ、
あなたたちは「カワイイ!!」「スゴイ!!!」しか言えないだろう。という目線も見える。
しかし、現実的には、この幼稚すぎる日本人的眼差しがこのブランドを育て、愛して来た40年
ほどであった事も忘れないでいよう。日本マーケットのバックアップがなければ、
いまの川久保玲の存在もこのブランドの立ち居場所もないのであるから僕たちはもっと、
自信を持って、僕たちの美意識と感覚とそこからのボキャブラリィーで”川久保玲作品発表会“を
見てあげ、報じてあげなければならない。
貰った、”虎の巻“をリライトすることが記者やジャーナリストと自称する輩の仕事ではない。

昨シーズンの”川久保玲作品発表会“は「キッチュ・ジャポネズムズム」が僕のタイトル
だった。この時もトレンドを意識して、時代を先取りしていた。
そして、この「キッチュ」という香辛料は既に、今シーズンのある意味で、
メインコンセプトになった。
当然、このような全く新しいものが必要なくなって来た時代性の元での
クリアティヴィティとはやはり、足し算の世界へ走る。この足し算の趣味性あるいは、
悪趣味が「キッチュ」である。
全てが「真実っぽさというフェイク」で満たされ始めた現代という時代。
そんな時代の存在象徴がトランプであり彼の向こうを張って、ゲームに付き合っているのが
北朝鮮の金である。
このような、在るようで無いリアリティな時代性の最中のモードの世界もここでは、
バロック、キッチュと続けば、今後の流れはどのようになる?という予測的眼差しが読める。
その西洋的、黒人的、ヴァニティ的「悪趣味」がこれからのモードの世界を覆う
流行り病であろう。大変な騒々しい、ケバケバしい時代になろう。

”川久保玲作品発表会“で見せていただける作風が全くポジティフに、彼女のこゝろかわりに
接しられること、見られることは僕もハッピーな人生である。
例え、玄関ドアーは重いドアであっても、最近の彼女は窓を開けているからだ。

ここにモードの世界も時代がメビオスの輪のように根拠あるものをリンクする風景を
見せてくれるのが面白く、傍観し続けて来たのがパリにおける僕の立ち居場所でしかない。
「ありがとう、川久保様。いつも好奇心を揺さぶるまでのエネジーを。」
文責/平川武治:パリ市ピクピィス通りにて、初稿;平成30年3月06日:.





投稿者 : editor | 2018年3月 9日 17:41 | comment and transrate this entry (0)

2018年3月 8日

、“CdG NOIR KEI NINOMIYA”のデビューコレクションを評論する。

僕が彼のデビュー当時から注目していた若手デザイナーの二宮啓のブランド、
“CdG NOIR KEI NINOMIYA”がパリでオフィシャルなコレクションデビューを先ほどした。

最近の日本人デザイナーのデビューコレクションとは違って、世界レベルでのジャーナリスト
やバイヤーたちが詰めかけた。
というのも、実際にはこのブランドは数年前からCdG Parisの自社内でプレ・コレクションを
行い、この企業のお友達メディアやバイヤーたちに実ビジネスを始めていたブランドの
パリファッションウイークでのオフィシャルデビューだった。 従って、もう既にコンデナスト社
やバイヤーたちからもそれなりに注目されている幸運な育ちと環境と彼の実力の元にデビュー
したブランドである。
実際に、Junya に次ぐ立ち居場所を彼はこのデビューコレクション以後、担うであろう、
それ程の実力と器を持っていると信じている。

ここでは、このブランドの立ち居場所をはっきりさせておくべきであり、
その立ち居場所によって、どれだけのデザイナー自身が持っている才能とこの企業のチーム
ワーク力を計算した上での評価がされるべきであるからだ。
この企業(株)CdGの現状と今後を読む限り、新たな才能あるデザイナーが必然であることは
時間が証明している。以前には「TAO」というブランドがこの役割を担わされてパリでデビュー
させたことがあり確か数シーズン、ランウエーをしたことを覚えている。
僕はこの「TAO」のデザイナーがロンドンのセント・マーチン校を卒業した際の卒業作品を
見に行った事、その彼女の卒業作品が全く、尊敬するにやまなかった川久保玲のDNAを持った
ものであったことを未だに、覚えているしその後、彼女の希望どうり、川久保玲のCdGの元で
実際は、渡辺淳弥の「トリコ」のアシスタントデザイナーから大好きなこの企業で頑張り、
彼女のブランド「TAO」がパリでデビューした経過も熟知していた。その後、数年後に突然に
この企業内で「TAO」ブランドは消滅さられてしまい、この残り火が今ある、「トリコ・
スペシャル」という纏まりで残されている。
結果、この企業が今後の世界ビジネスを掛けたところでの新たな戦略が
この “CdG NOIR KEI NINOMIYA”の起用となった。
もともと、“CdG NOIR”は90年の初めに立ち上げられたフォーマルを意識したブランドだった。
が以後、お荷物ブランドとして二宮くんが登場するまでは、「在庫」されていた。
その当時のアーカイブスは殆ど、税金対策も含めて、京都服飾財団へ寄贈された。

今回の “CdG NOIR KEI NINOMIYA”の二宮啓のカレンダーデビュー・コレクションは
この重責を担って行われたデビューコレクションだった。
僕が評価する根拠は「3つの素晴らしさ」があった。
その一つは、彼がこの企業で学び培った「バランス観」が見事なぐらいに、川久保玲の
バランス観であったこと。分量あるシュルエットの分量感のバランスは勿論であるが、
今シーズンのトレンドバランスの一つのである、“ハイ・ウエスト”においても、かつて
川久保玲が自分のバランス観にした“チョゴリ”のバランスが構築されていたこと。
きっと、この“バランス観“が、”ブランドらしさ“を表現できるあるいは、今後このブランドを
継続して行く唯一のクリエーション・ファクターであろう。
「バランス観」あるいは、「バランスをデザイン」することそのものが現代の、もうすでに
新たな形骸的なデザインが終焉化してしまった昨今では、クリーエターの”good job”そのもの。
ついでだが、お母さんの奥座敷的コレクションの作品群にしてもこれが根幹にあって成り
立っている彼女の作品群であり、そこにどのような想いあるエモーショナルな「素材観」と
「色」そして、時代を表装するプリントをデザインするかの世界でしか無い。
その2つ目は、やはり、このデザイナーが理知的である証拠であるが、
「自分にしか出来ないこと」を正面切って勇気と覚悟を持って行っていることである。
言い換えれば、「お母さんには出来ないこと」とは何か?を深く考えられた上での
コレクションであったこと。
これは、この企業においては必須事項であり、貴重なことである。川久保玲だけでは無い、
渡辺淳弥もいる。この二人の世界の最高峰なる先輩たちには出来ないことを目指すのは
エレベストへたった一人で登ることよりも難しい。このデザイナー、ケイ・ニノミヤはそれを
わずかなパーティたちとともに敢行した。彼の「自分にしか出来ないこと」への始まりは布帛の
中に優しさを入れ込むエンブロイダリーから始まった。ここにも彼が見つけ出した
「手芸性あるいは、工芸性」をこのメゾンに持ち込んだ。
彼は「手仕事」をリスペクトすることからこのメゾンにおいて、「新しさ」を見出す。
そして、この続きとして、3っつ目の素晴らしさがある。このデザイナーも僕流にいえば、
「レゴ・ゼネレーション」である。彼らたちの子供時代はレゴ・ブロックで遊んだ。
しかし、我々の子供時代の室内での遊戯とは、ぬりえで代表される2Dの世界でしかなかった。
すでに、3Dのレゴ・ブロックのピースを使って遊ぶという世代たちの時代が来た。
ここにも、「お母さんには出来ないこと」への根幹の育ちと時代の違いを知覚したところでの
彼のその後の創造性が始まる。その世界が、まず素材によって“3Dのピース”を作る。
ここにも彼がリスペクトする「ヒューマン・テクノロジー」が拠り所として存在する世界を
探した結果がある。

丁度、少し前に一方で僕が若い人たちへ投げかけ始めていた、「without sewing」プロジェクト
があった。このコンセプトやコンテンツを健全に具現化し始めるデザイナーが登場し始めた。
そのひとりがケイ・ニノミヤであり、もうひとりは「YUIMA NAKAZATO」である。
僕の考え思いついたこのプロジェクトの根幹は、「新しさ」と「ユダヤビジネスから
遠く離れる。」そして、「日本の甲冑鎧」の世界観があった。女性たちが美しさを装うための
「甲冑鎧」が発端であった。この21世紀においても、ファッション産業が成立している
産業的根幹は依然、「ミシンと針と糸」の世界でしかない。『今後の21世紀におけるモードの
「新しさと凄さと新たなビジネスチャンス」』という眼差しが僕のプロジェクトの根幹だった。
パリでのこの新しさへ挑戦したのが68年のパコ・ラバンヌが居た。勿論、彼が見出した
「source of the creations”は西洋の甲冑だった。

時代がチューニングし始めたと言うのであろうか、丁度現在、この街の東洋美術博物館ギメ
でこの日本の鎧甲冑の展覧会がなされている。
余談だが、すぐ隣のモード美術館ガリエラでは時代の寵児、「M.M.M.展」も始まった。
しかし、僕的には、「M.M.M.展」はモードの世界に「20世紀の終焉」をもたらした
クリエーター。しかし、「日本の甲冑鎧」展で見られる世界はある意味で、”21世紀への
プロローグ“とも深読み出来る。

さて、話が少し飛びましたが、このケイ・ニノミヤが持ち得た新たな眼差しとしての
クリエーションとは、「お母さんには出来ないこと」+「21世紀モードへのプロローグ」+
「CdGらしさのコンポジション」である。この足し算は見事である。
今回の彼のデビューコレクションで見事に、自分しか出来ないこととして、
『エレガンスに、美しく品性を感じさせるまでの「装い」の世界』を
この20世紀の”終焉の断片“に現を吐かし、しがみついて居る昨今のパリのモード界へ、
覚悟ある勇気とともに見事に健やか品性深く見せてくれ、新たな新しさをもたらした。

余談だが、僕がショー後彼のバックステージへ行って挨拶をした折の僕の評価は「80点」
だった。この僕の「ー20点」とは?
それは、彼が、あまりにも素直で、お利口さんであるための、「ー20点」である。
「分量のバランス観」すなわち、「装いのコンポジション」をどのように時代にチューニング
し、構築するか?が、現在の最もクールなクリエーションであると自負して居る僕からは、
あまりに、真面目であり、お利口さん過ぎたというところが僕なりの物足りなさという
本音であったからだ。

「ありがとう、にのみやくん。脱帽です。
僕は素直に、日本人としての喜びを、あなたの新たらしい色を感じさせるまでの黒という
『風』から爽やかさを感じました。」
文責/平川武治:巴里、ピクピィス大通りにて。初稿/03 03 ‘18:

投稿者 : editor | 2018年3月 8日 19:13 | comment and transrate this entry (0)

2017年12月18日

「これほどまでに、ある新しい体験、」

前回のブログを書く発端は僕の旅の経験から発した全てがそうさせたので少し、
書き加えたくなった。

多分、『安心のファッシズム』の中で快適さを求め、のほほんと自己満足に委ね、
一喜一憂している輩達には到底実感が伴わない一つのリアリティーであろう。

前回の約1ヶ月の旅では今迄、これほどたくさんの外国の街を旅 慣れしてきた者でも
“初体験”を経験した。
 この体験は実際に外国を旅慣れていないと心に留めないことであろう。
また、グループ旅行や企業任せの仕組まれた旅行ではこのような体験には気がつかないで
あろう。
僕がパリを軸にして興味ある街と人間と美術館を徘徊しはじめてすでに30数年が経つ。
若い時代の旅を合わせてるともう、僕の人生に半分程を既に,海外の都市への徘徊に委ねて
来たことになる。

確か、この体験はここ6、7年前まではこのような経験はなかったと言い切れる。
これは時代が変わったということに尽きる体験であり、僕は結構ショックを感じてしまった。
結果、自分の国「日本」の現実を思い知らされたという実感を味わってしまった。
前回パリのファッションウイークの前後に合わせてユーロ圏とモロッコの7都市を徘徊した。
この旅路において幾度か気軽によくあることですが道すがら出会って、声をかけられた。
「あなたは中国人ですか?」 「お前は中国人か?」「中国人?」、、、、、、
見事に、それらは全て僕を”中国人“と見なしたのだ。
こんな体験は初めてであった。

以前であれば、「あなたは日本人ですか?」「君は日本人か?」「日本人?」でしか無かった。
しかし、ここ数年来は、「あなたは中国人あるいは、日本人?」もしくは、
「君は日本人ですか中国人ですか?」という掛詞であった。
そして、ついに、今ではもう、完全に日本人であることへの興味や友好気分は消えてしまって、
黄色人種、イコール「中国人」という自分たちが知っているレベルで国名を名指しすれば
間違いがないあるいは、その方がクールであるという彼ら達のいわゆる”常識”レベルでの
価値判断の結果が僕が体験したこの現実であろう。

海外を旅しているとこのような現実に出会う。
このリアリティそのものが時代を新しく生み出している大きな要因である。
そして、この体験は実際に“旅”をしない限りわからないし、理解できない。
「安心のファッシズ」の中でかき集められ、送り込まれる諸情報や知識からは
このリアリティは知り得ることができない。

 「日本」という国家が戦後、敗戦国でありながらここまで、この70数年の努力の賜物が
結果、現在ではもうすっかりその立ち居場所を「中国」に取って代わられてしまったという
現実は僕に取っては全く悲しい限りでしかない。
 僕の経験からの’80年代後半から2000年ほどの15年間はこんなことは全く、聞かれなかった。
声を掛けられてもそのすべては「あなたは日本人ですか?」「私は日本が大好きです。」と
までのウエルカム・グリーティングを頂くことでしかなかった。

僕の視点は、これは現在の「日本」という国家の実態が完全にアジアから消えてしまった
結果とも読めよう。
 僕に取ってのこの経験はアジア圏国家としてのアイデンティティが確実に日本国は
もう既に、“中華人民共和国”に取っ手替わらてしまったというリアリティを実感した
出来事であった。
 全てがわかりやすく日本にとって変わって、「中国」がアジアに於るそのイニシアティブを
完全に掌握変革させてしまった現実が街に、大衆に現れたといえよう。
 この現実が世界においては、現在のアジアにおける僕たちの国家「日本国」の政治的、
経済的、市場的にそして、モラル的な立ち居場所の評価でしかない。

 「砂糖菓子」が崩れる時とは、
一滴の水でジワーと時間の染み込みのごとく緩やかに、音もなくそして、綺麗に
消えてしまうものである。

 「やがて、オージー/狂宴の後、」
(ボードリヤールのある書物に使われていた言葉である、)
「安全のファッシズム」日本国も今は、2020年が目前に迫り始め、その“オリンピック”に
多くの輩たちが ”ぶら下がる事”しか考えていない。

 その狂宴もいずれは終焉を迎える。
その終焉後の”向こう側”に何が姿を現し見えてくるのだろうか?
「シン・ゴジラ」であろうか?

 その向こうから見え始めるのは「徴兵制度」。
トランプ政権のウリである、”強い国家”のための「新・安保条約」後の日本は、
これに基づく新たな憲法改正後に、戦後70数年、日本でそれなりの人たちが待ち望んだ、
「軍隊」と「軍事産業+原子力産業」が表層に現れ、独り歩き始める。

 ここで、少子化による18歳に選挙権を下げた根幹もここで帳尻がつく。 
軍事防衛費がやたらと膨らむ。成り上がり国家はやたらと「最新型兵器」に弱い。
あの不評限りなく、多発事故発生軍機”オスプレー”は
現在、日本以外の国家はどこも購入していないという現実も知ってください。
そして、北朝鮮がミサイルを飛ばす度に日本の軍事防衛予算が億単位で平気に膨らむ現在。
安倍内閣の閣僚議員達は小泉政権以来の「天下り利権」から「ファミリィー利権」に貪り
掴まろうと、メディアを使い、解り易い“お笑い芸人”までも巻き込み、
トランプ氏から与えられた「北アジア冷戦構造」という“シナリオ”を読み上げているだけ。
 これが現在の僕たちの国、「日本国」の政治事情とそこから生まれる経済事情の根幹。

 これでは、「あなたは日本人ですか?」と聞いてくれる外国人たち庶民は居ない。 

 このような現実を体験してしまった僕は、斜陽、硬直化してしまている現在の日本の
ファッション産業に対して何が問い掛けられるか?

 「ファッション・デザインによって、どのように、実産業を発展豊かにさせて行けるか?」
「デザインは遊びではない。”ファッションデザイナー・ゴッコ”で在ってはならない。」
 自分のブランドとは、持ち得た世界観を、文化度と美意識と倫理観そして、ヒューマニズムに
よって、それぞれの世界で確立展開させる責任所在のマーキングでしかない。
決して、”自己満足”の証しだけではない。
なぜならば、デザインとはやはり一つの”コミュニケーション・ツール”である。
自分のブランドで、どのような世界へコミットできるか?
自分のブランドで、自立自活出来るか?
そして、自分のブランドで何が社会へ還元出来るか?」

 世界のファッションピープル、多くのユダヤ人たちも既に、5、6年ほど前から
「JAPON」と「CHINOIS」の棲み分けは, 完了してしまっている。
ありがとう。
合掌:
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2017年12月18日 18:46 | comment and transrate this entry (0)

2017年10月13日

改訂版/ THE PARIS & TOKYO FASHION-WEEK BRICOLAGE;

今回も、巴里ファッションウイークが終わり、
ファッショングルービー達もこの街の表層から姿を消し始めた頃、
僕は地中海の向こうのタンジェへ、三度目の旅立ちへ。
その紺碧の空とそこで戯れる風に委ねたいそして、異国語の飛び交う喧騒さの中に身を
浸したいという欲望と願望から訪れたタンジェはその期待に答えてくれた。
パリのコレクションが始まる少し前に亡くなったP.ベルジェ氏がパトローネだった
この街にはやはり似つかない佇まいの書店へも立ち寄って、特有のスノッブさを醸し出している男性と話を交わす。
「ピエールさんは去年の年末は、日本へ訪れて、「直島」で過ごされていたのですよ。」
この言葉を聴き僕はP.ベルジェ氏の“好奇心”に揺さぶられた。
http://http://www.librairie-des-colonnes.com/http://www.librairie-des-colonnes.com/

1)パリ・ファッションウイーク ‘18S/Sでは;
資本主義の肥大化と元では、「巨大資本がより、巨大化を占有するのみ。」
巴里の今回のファッションウイークはLVMHグループの企業戦略とその為の資金の使い方と
そして勿論、政治力を見せつけられた一面としての、新店舗ラッシュ。
ヴァンドーム広場の入口のゲランショップを横へずらして迄のLV店舗のオープン。
マレでは、とてもいい古い金属加工部品屋だったところの角地をKENZOショップに
この時期に合わせて変貌させた。
そんなシーズンのパリ・モードの風向きも分かり易い”ストリート & スポーツ”。
その風が”ストリートの吹き溜まり”をいずれ、もうすぐ作ってしまうのでしょうが、
それまでに何処が、どれだけ儲けるか? のシーズン。
トレンドアイテムが”ストリート”へなびいてるのですが、僕的な見方ではそのすぐ後ろに
”ドレス”が見えてきました。例えば、日本のセレクトでも、”ドレス”が動き始めていると言う。
”ストリート”に対局する世界がこれからじわじわと次なる”新しさ”へ、これが通常の
ファッションのトレンドの動きであるから驚かないでおこう。
ファッションビジネスの世界も“ビッグ・ビジネス”だけがより、“ビッグ・ビジネス”へと
邁進する方向性を見せたシーズン。
まずは、シャネルとディオール社の全面戦争が始まる兆し。
そのまえにYSL社との対決も踏まえた、その一つの現れが、コレクションウイークの初日に
YSLとDIORのビッグメゾンがコレクションを競い合った。
DIOR社は「フランスの文化資産」であるメゾン・ディオールのクチュール部門のすべてを
完全買収して手中に収めたその企業力と文化力とプライドを今後、実ビジネスにおいても、
売り上げでトップを取りたい勢いが始まったシーズン。YSLはP.ベルジェが死去したことから
今後の転換が迫られるであろう兆し。
元YSLのデザイナーはL.A.でCHANEL社との契約としての、M.カールがくれるお小遣いで
声がかかるのをアーティスト気取りで待っている状況のみ。
当然、若手のインデペンデントなデザイナーは苦戦シーズンが続く。
しかし、このような“豊かさ”を持ち得てしまった社会では、どの様に自分たちのブランド・
アイデンティティをプロパガンダするかも至難の技になってしまった。掛かる経費の問題で
あり、新たなクリエーションとは?の両面の向かい風を受けてしまっているからだ。
そこには新しいクリエーションは見られず、ミレニアム世代が知らなかった90年代の始まりの
バブル期前後の時代が経済的に豊かだったころへのオマージュとノスタルジアへ
流れるしかない貧困さも。
従って、モードの世界も成熟期を迎えた頃のクリエーションからのバリエーションと、
ここ数シーズン来のトレンド、“スポーツ & ストリート”のラグジュアリィー版が
継続トレンドのメインだった。まだ、多くの若いデザイナーたちはVETMONTを見習って
“2匹目のドジョウ”を探し求めるが、、、、、、
商人はその勘が鋭い。オリジナルとしての“vintage”がまた、新たな表世界へ。
日本人ファッション人間たちの“ご利益スポット”のトップである”メルシー”のロビーでは、
ディスプレーが“VINTAGE”フェアー。特に、パリでは“アメリカン・ヴィンテージ”がウケる。
新しい顧客としての黒人社会での高額所得者とそこから降りてくるミレニアム世代たちへの
影響を読み込んだ“ラグジュアリィー・スポー ツ & ストリート”は強くやはり、
その解り易さがウリ。
今シーズンは新たなトレンドはオケージョンを提案したクラシカルな気分を呼び込もうとした
ロマンティックでポエティックなドレス、ワンピースが登場。

この時代の気分を見事な発想とユーモアで観るものもその仕掛が判らないほどの
コレクションをリヴァーシブルな世界で堂々と謳い上げたのがUNDER COVER、高橋盾の
コレクション,”JANUS”。“ここまで凝るか?”と言う彼らしい世界は日本生産でしか出来ない
世界でもあり、ユーモアとアイロニィー溢れたチャーミングなシーズンだった。
もう一つ、彼、U.C.のコレクションはショーで見せるものは全て展示会に出し、受注をとる。
これもこのデザイナーの実直さと心意気を感じるので僕は好きである。
https://www.sz-mag.com/news/2017/09/undercover-ss18-womens-paris/

 カレンダー外のデザイナー達の自由と好奇心を愉しむまでのインスタレーションの幾つかに
勢いを見ることができ、嬉しかったシーズンだった。
彼ら達の中で僕が素晴らしいと感じ選んだのが、「ANDRE WOLKER、NOIR/二宮慧それに、
ANDRA DUMITRASCU」を挙げる。
https://www.nytimes.com/2017/10/05/fashion/andre-walker-paris-fashion-week.html http://www.dumitrascu.de
 ANDRE WOLKERは80年代、自分のパリで発表したコレクションを復元した。
見事な時代の読みとパラドックスと遊びが現代という時代性を捉えたクールなコレクション。
彼のコレクションは着まわしコレクションであり、安全ピンをデザインしたドレスピン一つで
いかようにも着こなしが可能という世界。
 今回はDSMから締め出されて、新たにイタリーの工場エージェントがついての発表。
彼のスマートさとセンスの良さと思い切りとエレガンスに徹した美意識を買う。
僕もこの彼のコレクションを80年代にレアで見たことを思い出し余計に嬉しくなった。
使っていたシューズもいい!!彼も”ゴールド・シューズ”を出した。

 CdG・チルドレンの一人、NOIR/二宮慧は変わらず、優等生である。
彼の”レゴ・ジェネレーション”特有の発想はすでに認められたがその内容とまとめかた
そして、時代感としての「軽く、強い。」のこなしかたと見せ方と、そのバランス感が
時代の空気感を表現している。このデザイナーにはファンが既に、生まれて居るが
彼らたちバイヤーも買って着たくなる服を作っている。
この”レゴ・ジェネレーション”ではもう一人、日本人でパリ・クチュールに参加して居る
”YUIMA・NAKAZATO"も僕は好きで注目している。彼も遅まきながら、今回、新人奨励賞を
貰ったようでうれしい限り。
彼らたちの世界には共通する今後の一つの新しさとしての“WITHOUT SEWING”の彼方が
想像できる。
 彼らの特徴は、素材をまずは”3D"のパーツ化をし、そのパーツにPCで可能な装飾を施す。
それをボディに構築してゆくという処方と美意識に委ねた世界はレゴ・ブロックで育った世代の発想であろう。
 
ANDRA DUMITRASCUはベルリンに住みセレクトショップも経営している30代デザイナー。
ヴィエナのクンストを卒業し、当時先生だった、V.ブランキーノに彼女の卒コレが見事に
パクられてしまったという逸話を持っている自由人デザイナーである。
前回はパリにある”ラブホ”を借り切ってのインスタレーション。
今回はポンピドゥーセンター前でのインスタだった筈が当日急遽、駄目を出されて、
近くのメトロの駅をモデルがチケを買って入ってショーイングという自由な発想で、
これまた人騒がせなコレクションを行なったが、その内容は新しさと自由さが満杯の
メンズ&ウイメンズコレクションだった。
選び使った素材が新しい、タクティックな感触をオーバーバランスとフリルで楽しませた。
ここでもアンビギュゥティなコンセプトと遊びと愛が溢れたクールなコレクション。
”愛”をモード化したデザイナーは今までも少なかったが、それだけで今の時代感と空気感を
センスとユーモアで良く醸し出した。なかなか頭もいい、センスも良い、スキルもあり
美意識が高いデザイナーの一人です。
(今回、久しぶりでやはりイタリーの工場エージェントがついてインスタレーションを
行なった、”W. & J."が彼女の素材感を一部パクっていた。同じヴィエナ出身だからであろうか?)
 もし、次回もこの3人のデザイナーがコレクションをやるならば是非、美的&知的好奇心を
持って、彼らたちが提案してくれるクールな”時代の空気感”や”時代の気分”を感じ見て欲しい。
 彼らたちのコレクションは全てが”ウエアラブル・コレクション”であり、それらは決して、
”アーチスト”気分でお友だち世界でデザインしていない、強さとオリジナリティある王道観が
逞しい。そして、彼らたちはみんな、「フランス人」ではないのが楽しい。

ビジネス面で見れば、少しその活動が落ち着いた市場である。
“ロシア”への再度なるアプローチが今後の営業不振を救うとしているが、そのロシアも
自国のデザイナーやファッション企業が進化したことによって今までのように
外国人ブランドへの興味が薄らいだのが事実であり、それだけロシアン・マーケットが
厳しくなって来た。
この状況は少し前からの“中国”のファッション・マーケットの進化と良く似ている。
その証拠にロシア人デザイナーのコレクションもこのパリのウイークでは増え始めている。
もう一つ、このパリの「モードのショーケース」たる所以の“サロン”は数は増えるが
入場者数は増えないという現実のパイが見え始め来場者数は減少ばかりの状況で、現状維持が
精一杯の苦戦。
ここに来て、従来のこの街のファッションウイーク本来の業務内容を変更しなければならない
機を迎え始めたと読む関係者も生まれる。その原因はやはり、「E.C./e-コマース」の進化だ。
作り手と売り手の間に存在した「セールス・エージェント」という構造が「E.C.」の普及と
進化によってその存在価値と利用価値が弱くなり始めたという時代性。

2) 20世紀と21世紀のファッションビジネスの違いとは?その“新しさ”とは?;
ーーー「E-コマース」という新しさをもう一度考えてみる。
何気に“仕事”を”自己満“でこなしている当事者たちは、案外この違いを熟知していないか、
感じていないだろう。
 もう、“川上”や“川下”の世界ではあるまい。この視点は未だ、東京を見ていると
恐ろしい位にこの視線がそれなりのファッション人間達からちらつき哀れさを感じてしまう。
 ’97年以降、 PCの確立で変貌したファッション産業。一つはクリエーションにおいて、
もう一つはビジネス。この両方を認識して21世紀型のファッション産業を再考&再構造化する
必要が現在の様にかつて、”アパレル”と言われた日本のファッション産業界には必然である。
 モノつくりは「新たらしい”過去”へ」流れ始めるしかない。
そのためには、PCによって自分たちの”嘗ての杵ずか”である「アーカイヴス & パターン」の
再構築化のための“整理と分類とマニアル化”であろう。
 もう一つのビジネスにおいての手法は”e-コマース”という新たな技法が 加わった事によって
そのトレンドとしての服の見え方、見せ方が変わり結果、売れるものと売れ方が変化した事に
気づき、新たな”営業手法”として管理と監修を行いここでもマニュアル化が必要になる。
 この変化が今後どのように変貌してゆくか? ここがこの低迷化するだけの日本の
ファッション産業復活の為の“ヨミ処”であろう。
 では、この現時点で、新たな”e-コマース”というビジネス手法はどのような、
儲けるための都合良い構造改革が今後考えられるか?
或いは、新たな”e-コマース”でどれだけファッションが”トキメキ”を与えられるか?
 現在の”e-コマース”の構造は日本においてはそのほとんどが「zozotown」に依存集中している構造でしかない。この構造では”エージェント・フィー”が発生する構造となんら変わりがない。
  例えば、個々のブランドが”e-コマース”のアプリ利用によって独自の”e-”営業が可能な
システムを考え構造化することも有りであろう。新たなPCを使った営業方式が定着すれば、
新たな”作り方”と”見せ方”が可能になる。ここにまたこのファッションの世界の
「自由な発想と新しさ」がウリになるであろう。
ファッションによる”トキメキ”とは何らかの”新しさ+好奇心=自由な発想”という公式から
生まれるものでしか無いからだ。
 例えば、ファッションショーと”e-コマース”だけで今後のファッションビジネスが可能か?
「イメージング+話題性+コーディネーティング+着まわし+素早さ+トキメキ+リーズナブル=
”e-コマース” というまでの極端な見方はどうだろうか?
 ここでは「“ショー“という動画配信」というカテゴリーで考えられる”e-コマース”への
新しさとその付加価値を顧客へどのようなサービスとおもてなしで行なって行くか?
この場合当然、”e-コマース”に都合の良いモノつくりとショーの在り方とメディ アの対応、
などのパッケージ・ビジネス的な発想は必然になる。

3)東京ファッションウイークを全く新しい眼差しで考える。;
 ーーー世界の主要消費都市ではすでに、21都市で行われている”ファッション・
ウイーク”。

 気がつき、考えなければならないことはそれら各都市で行われている
ファッション・ウイークの”手法と価値観”が全て同じ構造で行われていると言う事である。
ここには、この世界の連中だけが儲けられる構造が仕込まれてしまっているからである。
このワールドスタンダードになってしまった”ファッション・ウイーク構造”そのものを
都市が持つ差異をもっと自由な発想と新しさで取り組むことを提案しよう。

 例えば、今シーズンの東コレでは、年商売上400億円ほどのブランドが参加した。
それが、”G・W”。きっと、過去最大の売り上げブランドが参加したことになった。
このG.W.のショーは時代のキーワード「軽く、強い」を上手くまとめ、アンビギュティな
イメージングと共に、爽やかさが溢れたコレクションを見せた。
https://www.instagram.com/p/BahD9XKF17i/
実はこのコレクションをまとめたのは文化卒業後、パリのスタジオ・ベルソー卒業その後、
19年間パリに住み、クリエーター J.コロナの元でアシスタントを務めていた経験者だった。
 世間では、“東京コレクション”とはファッション・クリエーションを競い合う機会と
一つの環境であると言う古い見解がまだ 残っている。
 これは、前述の「ファッション川上・川下」論と同じく、単なるアナログ発想でしかない。
従って、参加デザイナーたちにはクリエーションがある、あるいはクリアティビティな
コレクショ ンをする作家やアーチスト達という古い、表層的なる理解の元、無知なる
思い込みと希薄な職業意識のもとで誤解されて行われて来たことが長過ぎたのではないか。
これによって、結果、多くの勘違いをしたファッションデザイナー像を捏造してしまい、
「大いなる自己満足」タイプのアート・コンプレックス症候群デザイナー誕生の根拠に
なってしまった。
では、このようなタイプのデザイナーのブランドの売り上げがどれ位あるのか?
ジャーナリスト達は本人に聞く勇気も持っていない。これだけのショーをやるのだから、
これぐらいの売り上げがあって当然、という視点と読みが皆無であるのが変わらぬ、
東コレ・ジャーナリズムの弱点。この現実はショー後のインタビューでも理解できる。
彼らたちが聞くこととは「コンセプトはなんですか?」から始まるというアナログ発想。
多くのブランドは10年ほど東コレを続けているのに年商2億円程度の”ノラリクラリブランド”
言ってしまえば、”未熟児ブランド”が多い。そんな彼らたちはOEMやSPA等の”バイト“慣れで
この綱渡りをこなしているに過ぎない。
このような現実の裏側が”枯れ木の賑わい”を見せ、メディアも便乗しての“ファッション・
デザイナーゴッコ”を年2回、行政+スポンサー企業の援助金を使って遊んでいる状況は
ここ20年以上、変わっていない。これが”東京コレクション”の自体と現実でしかない。
ここには低迷する日本のファッション・アパレル産業をどのように発展させ担って行くか?
の使命感は全く感じられない。

4)「現代における「ファッションクリエーション”とは
或いは、前衛とは何だろうか?」

ーーーなぜ、ファッション・ディレクターが活躍するのか?
僕の経験からの判断では、すでに20年前にはその兆しが見え始めて、
10年前の2007年からは完全にファッションにおける“全く新しいクリエーションあるいは、
クリアティビティ”は消滅してしまっている。この時期とは、たとえば、ブランド、M.M.M.が
ディーゼル社に売却した時期でもある。
この原因は生活者の“生活のリアリティ”が豊かになったこととジェンダー以後、
時代の最前線で生き抜く“新たな女性像”が見えにくくなってしまったことが考えられる。
変って、ファッション・クリエティビティとは、“時代の空気感”あるいは、“時代の気分”を
表現するレベルのクリエイティビティとイメージングの世界でしかなくなった。
結果、今までのような”コンセプト“頼りの形骸的な造形服はファッション学生の課題向け。
そこで”アーカイヴのブリコラージュ“と言う“古くい新しさ”という手法が生まれた。
では、またこの時代における“前衛”とは?なんであろうか?
この世界も作り手たちが現実、どのような社会環境で生活しているか?を問う事で
その答えも明白である。
“豊かさ”を享受し、“安心、安全、快適”を求めた「安心のファシズム」に無条件に
自由を委ねた、そんなリアリティの元での「アヴァンギャルド」は所詮“前衛ゴッコ”、
例えば、“PUNK”は”PUNKY”というここでも「時代の空気感」でしかないのが現代であろう。
“現代アーチスト”が生み出す作品もこの、「時代の空気観」あるいは、「時代の気分観」が
まず、ロジックなコンセプトにまとめ上げられている必要がある世界でしかない。
そこで、ファッションクリエティビティとは、それぞれの時代の“空気感”あるいは、
“時代の気分”をどのように表現するかまたは、”人間の皮膚感覚”にどのような新しさ或いは、
感覚そのものが投じられるか?が特徴となるのが現代社会における「ファッション・
クリエーション或いはクリエティビティ」だと言える。
若くは、その為にどの様な素材を選びまとめるか?がこの世界である。
この世界觀が従来のような形骸的な造形服よりも着ることがトキメキを与えてくれる服
或いは、安心させてくれる世界がプライオリティを取り始めた。
ここでも”20世紀”と”21世紀”の違いを読み込まなければならない。
人間的なる五感の世界から見ると、「聴視覚の時代」が20世紀だったとすれば、
21世紀は「触覚の時代」が始まった。皮膚と素材の「タクティックな関係性」である。
しかし、ここに一つの「時代のパラドックス」がある。
それはITの世界、e-コマースの世界はやはり、仮想な世界でしかない。
したがって、ここではこの21世紀の新たな関係性である「タクティックな関係性」が不在。
ゆえに、現実の服に求められるものが自ずと違って来た。
そこで”アーカイヴのブリコラージュ“と言う“過去があたらしさの根幹”という発想と手法が
生まれ、時代の「タクティックな関係性」を素材感に頼ることも大切な現代の時代感である。
このような時代には何を、「オプションするか?」が全てを決定する。
そのための感覚と教養とスキルと人間性がファッション・クリエーションにも、最も必需な
根幹が現代です。

 もう一つ今、僕が評価できるいいコレクションあるいは、いいデザイナーとはを敢えて
いい放すと、
「先ず、どの時代の、誰の、どのアーカイヴを選び出すか? そのセンスの良さを判断します。
次に、大切なことはその選び出したアーカイヴ・アイテムにどのような素材を選出し、
当てがうか? そして、場合によってはこの選んだ素材にどのような“後加工”を施すか?
この感覚と感度がそして、スキルがいまの時代には一番重要でしょう。
 ここが“現代ファッション・クリエーター”としての見せ所と決めどころでしょう。
後は、コレクションとして、”時代の気分や空気感”をどのようなバランスでまとめているか?
アイテム、コーディネート、分量、色彩、プリントそして、イメージングと、そこにやはり、
ファッションデザインの世界ですから”ウエアラブルな服”という基本要因は必然です。
これらを見せていただいたショーから判断して「良かった或いは、ダメだった。」を言う。
 このそれぞれのバランス感が「時代の気分」あるいは「時代の空気感」を生み出し、
現代の創造性となります。実際にここまで考え、まとめ上げられるデザイナーあるいは、
コレクションはやはり素晴らしいく、かなりの才能と経験と美意識と文化力がないと独りでは
到底、出来ないことです。
 なのでここに”ファッショ ン・ディレクター“と言う役割があるいは、”アトリエ・チーム”の
存在価値が生まれ、高まり現代には大切なポジションになっています。

更なる今後、ファッションにおけるクリエティビティを自由な好奇心で求めるなら、
一つの方向性は、「WITHOUT SEWING」。レゴ・ゼネレーションたちが競い合う
新しいモードの世界。
これを代表している優等生が“NOIR/NINOMIYA”や“YUIMA NAKASATO”,ここでも世界へ
この独自性を発信し始めているのはI.V.ホッテンと共に日本人デザイナーたちです。
もう一つの世界は、「コスチューム」という発想でまとめられる世界でしょう。
最初から”アート”を意識した輩たちの服作りとここが大いなる違いの根幹です。
元々のクチュール思想とは顧客という人間がトキメキと共に装身するもの。
即ち、「時代のコスチューム」を優れた職人たちの手仕事で仕立て上げ、
その時代の手仕事としての”技“にトキメキを感じ、粋に着る世界だったのです。
「コスチューム」には3つのカテゴリィーが有ります。
ヒストリカル・コスチューム、フォークロア・コスチュームそして、ステージ・コスチューム。
今ファッションが向かい合っているのは、「現代という時代のステージコスチューム」。
「ヒストリカル・C.+フォークロア/C.+ユニフォーム」と言う足し算がコンテキストの世界。 
このようなコンテキストは新しいトキメキを創造することでしょう。
この眼差しは実際にそれなりの人たちは感じ始めていますね。
ロッテルダムで催されていた「POWER MASK」展という展覧会もこの流れを証明したもの。
ここには”ノマド“や”プリミティブ“或いは、”エキゾティズム”というボキャブラリィが
そして、装いたい人間の最後の砦、「顔」をラッピングすることが生み出す
新しい“装い/粧ひ”のトキメキとクールさが見え始めています。

5)もう一度僕たちの足元、東京ファッション・ウイークへまなざしを、;
ーーーファッション・アパレル産業を救いたいファッション・ウイークなのだろうか?
このような時代性ですから当然、東京コレクション自体も変革しなければなりません。
しかし、残念ながら現在のこの東京コレクション関係者たちの時代認識においてはこの発想は
未だ、感じていないでしょう。そして、日本のファッショ ンメディア自体も遅れています。
「売れている服にはクリエーションがない。」と言う時代遅れな視点。
今の時代におけるファッションクリエーションとはなんでしょうか?
自己満足な、着ずらい形骸的な服がアートして、クリエーショ ンというファッションに対する
思い込みはもう終わっていますね。この世界は売ることを去勢した”自己満足の自慰行為”で
実際の社会のリアリティにコミットしたくない世界で漂っているだけ。
従って、この世界に漂って居る輩たちは同じ傷を舐め合うが如く、自称”アーチスト”擬きで
世間にデザイナーぶって居る、”お友だち、みんな集まれ!”、
彼らたちの求める自由とは、「安心のファッシズム」共同体の自由探しでしかなく、
決して、それが産業や社会に繋がる或いは、コミットするまでの”デザインの価値”行為でも
無く又、トキメキ迄の“カッコよさ”ではないのです。
 かつての、”TD-6”を誕生させ日本のデザイナーファッションの世界を支えた先輩、
レジェント・デザイナーたち、菊池武夫や当時の川久保玲たちの”志し”は決して、
「自己満足」の世界で漂わず、堂々と”マーケット・パワー”を最優先したことによって
それぞれがその後の”志し”の高さと努力によって、今の立ち居場所をものにしたのです。
   
 そして、時代は既に21世紀も17年です。今回の東コレへの幾つかのSPA系の参加は
”マーケット・パワー”を基盤に、新たな顧客のためへの新しい眼差しを提案した行為と
取れるでしょう。
ここには”コレクション”=”クリエーション”という公式はなく、ショー自体を全く違った
コンテンツで機能させ、社会化させるという、即ち、今後の「ファッションアパレル産業」の
実ビジネスを再興するための手段の一つ「“ショー“という動画配信」も今後のこの世界の根幹。
実社会へ自立したくない、頭デッカチな未熟児デザイナーたちのショーイングだけの
デザイナー観や「壁紙デザイナー」の服作りは“ダサく”、「枯れ木の山の賑わい」。
 彼らたちのレベルでは現実の日本のファッション産業の振興と発展と彼らたち自身の“継続”に
どれだけパワーフルなミッションと「高き”志し”」を持っているのだろうか?
合掌:
文責/ひらかわたけじ:まだとれぬ、時差ボケとともに鎌倉にて。

投稿者 : editor | 2017年10月13日 15:19 | comment and transrate this entry (0)

2017年9月28日

今後、読めるパリモードと日本の「御三家」の今後とは?−1。

「今シーズン或いは今後、予想されるパリモードのメディアの騒ぎ具合とはを
幾つか予測しよう。」

 プロローグ;
 この街のモードもかなり、ポリテカルなシーンへ入ってきました。
”ファッション・ゲットー”にもイミグレーターたち、彼らたちのミレニアムジェネレーションが
格好のサクセスストーリーを求めてまた、ゲットーの白人たちも彼らたちを新興富裕層としても
受け入れなくてはならない状況に立たされてしまっています。
 この現実の先取りの一つが、ロンドンヴォーグの新・編集長、エドワード・エニンフルの
起用がこの状況をうまく受けましたね。

 日本ではそれなりの効果があったのでしょうか、
鳴り物入りでのN.Y.メトロポリタン美術館での憧れの(?)展覧会によって、この企業も、
日本生まれパリ育ちそして、”ユダヤ・ブランド”として今後の継続が約束され堂々と、
世界ブランドとして溶解されて、認知されてゆくのでしょう。このパリでも、プレタポルテ出身
ブランドが生き残れる条件は非常に厳しく、今までではS.リキエルぐらいでしょう。
しかし、このブランドでさえ今は中国資本によって存続されているのですから、
日本人としては、喜ぶべきことあるいは、嬉しいことなのでしょうか?

 そして、この川久保玲のN.Y.の展覧会を他の「御三家デザイナー」たちは
どのような眼差しで見、自分たちの今後をどのように模索(?)したのであろうか?
 このCdG、川久保玲の選んだ今後、それはいつか”世代交代”しなければならない時を
迎える、自らが設立し、君臨し続けたこの「コムデギャルソンというファッシズム体制」
から消滅しなければならない宿命に対しての”営業的、ユダヤ的セレモニー”の一つでしか
ないという「ご苦労様でした。あとは、僕たちが引き受けますよ。」という読み方が僕の
生意気な視点です。
 では、先の展覧会の読み方、認識が、他の「御三家デザイナー」と称されてきた、
三宅一生、山本耀司はどのように自らの今後の現実を読んでいるのだろうか?
 彼らたちさえ、もうすでに”老齢年金”を貰える世代なのである。
彼らたち、戦後の日本のファッションデザイナービジネスを盛り上げ世界へ認知させる
過大な役割を担った”企業”としての今後はどのように存続が可能なのか?
 どこかのユダヤ企業が介在するのか、あるいは、自社で現状維持、日銭を稼ぐ企業で
自己満足するだけなのであろうか?
 そろそろ、この視点で今後の日本におけるファッションデザイナービジネスとその在り方、
構造を考える必要があろう。
 しかし、残念ながら日本のファッションジャーナリズムはこの視点での役割認識が皆無、
変わらず”業界紙”クオリティで”御用聞き”でしかないのが現状ですね。

 もう一つ、パリの昨今は、”シャネルへ殴りこみを仕掛けるディオール”という構造が
メディア化する今後でしょう。
 企業売上では未だに、シャネル社がトップを走っています。その後をいつも追随して来た
のがデイオール社でした。そこで、フランスの文化の一つである"C.DIOR”ブランドの全てを
やっと、究極のクチュールメゾンも手中にしたM.アルノーは意気揚々、この時期が到来と
ばかりにシャネル社へ挑戦を仕掛ける時期と読んでいますね。
 その現実が今行われている”DIOR”展。これは、素晴らしい見事な展覧会です。
パリを訪れる目的の一つになるまでのファッションに関心のある人たちは必見の展覧会です。
ここにはこの国、フランスの文化が、”そのテイストと匂いとエレガンスと雅”が漂っています。
やはり、歴史という積み重ねられた”エレガンス”が違いますね。

 その1ー老舗”Chanel”への殴り込み劇とは?; 
 あのカール伯父さんこと、K.ラガーフェルド氏の引退劇であろう。
まず、いつ出来るのであろうか?本当に、可能なのであろうか?
次は、ではその後釜には誰が?この二つの大きな問題があるが、後継者としての
”ファッション・ディレクター”はもうすでに、決まっている。
それよりも問題は誰がいつ、彼のためにレッド-カーペットを引いてあげられるか? である。
勿論、これには彼本人のご意見が左右することで時間が費やされているのだが、そろそろ
その時間にも期限がやって来そうである。
もう一つの問題は殆ど、大丈夫である。
カールおじいさんがレッド-カーペットを歩くその後ろには変らず、ゲイ叔父様方にウケが
いい、あのエディ・スリマンくん、彼がはにかんだ笑顔で佇んでいるであろう。
この現実が訪れる前にもう一つのメディアを騒がせる事件は、ムッシュー・アルノー一家の
出入りであろう。彼はラグジュアリィブランドの世界で名実共に、頂上に立ちたいのである。
フランスの奢侈文化を代表するまでの”メゾン・C.DIOR”を全て買収完了してしまったこの
実業家が目的とするところは今度は実ビジネスであり、もう一方の老舗一家を打ち倒すこと
である。
現実のパリモードの売り上げ順位を見ると、今だに、老舗”Chanel”がブランド売り上げで
1位に君臨している。これはM.アルノー一家にとっては目の上のタンコブである。
この名実共の老舗ブランド”CHANEL”をターゲットとして、どのように打ち落とすかの
タイミングが彼ら達にとっては”今 !” なのである。
何故、今なのかとは、その偉大さをモード美術館でお披露目している”大DIOR”展の立派さと
凄さはすでに、メディアと世間で実証済みでありまた、あたらしいDIORのデザイナーのウケは
メディアも顧客にも頗る良く、売り上げも伸びているのでその勢いをもって、宿敵”CHANEL”
一家との世代交代劇に付け込む事であると読まれた作戦だろう。
また、E.マクロンが大統領になったこともポリテカルに幸いしている。
ここで、“CHANEL”の新・ファッション・アートディレクター、エディ君はあらたな使命
として来春ぐらいには(?)今までこのメゾンになかった新ブランド”CHANEL・HOMME”を
打ち立てて彼ら達を迎え撃つ事であろう。
今回は”フレンチ・エレガンス”を知らなかった、ラフ君とは違ってメディとしては申し分のない
エディ君の輝きと自由さが新しいモードの状況を誕生させるためのシナリオの一端が担える、
話題性に事欠けない状況と読んで目論んでこれからの賑わいが起こる。
 これが海の向こうのパリでこれからファッションメディアが騒ぐことの読み方、
その1である。(続く、)
文責/ 平川武治: 巴里市ピクパス大通り。

投稿者 : editor | 2017年9月28日 17:31 | comment and transrate this entry (0)

2017年8月15日

廻り回って来た、今日という「終戦記念日」に、

今日は72回目の「終戦記念日」です。
 先月、7月7日に国連本部で開かれていた核兵器禁止条約制定が賛成129カ国の多数決で
制定されました。
 今回は「核兵器を完全に除去する」必要性を強調し、広島、長崎の被爆者の訴えを汲み取り
「核兵器使用の被爆者と核実験の被害者の受け入れがたい苦しみと被害に留意する」との
文言も盛り込まれましたが、唯一の被爆当事国である僕たちの政府、安倍内閣はここでも、
気骨なき”二枚舌”を使って「アメリカの”核の傘”」に依存し、不参加。
 日本民族が持ち合わせていたはずの、こゝろの様である国を想い人民を念う「気概」や
「気骨」はいずこかへ。
 年々、僕たちはこのような記念日の前後にしか、もう、「戦争」を語る,知る機会が
無くなりつつあります。
 やはり先月、「日本の長い戦後」という1冊の本が出版されました。
副題が、「敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか?」
アメリカ在住の社会学者、橋本明子著、みすず書房発行です。

 どうか、大いなる、良心を持ってご一読をお勧めします。

 これからの子供達が豊かに、堂々と自慢できる国家、”世界の日本”という現実性はますます
ネガティフな方向性になってゆくことを思い考えそして、みなさん行為してください。
 どうか、お願い致します。
 黙祷。
ひらかわ:

投稿者 : editor | 2017年8月15日 05:36 | comment and transrate this entry (0)

2017年6月25日

SS18/ Paris Homme Collections-1;プロローグ;

 37度を超えた日中の最中に行われた初日。 
まるで、A.カミュの”異邦人”の冒頭を錯覚させるまでの酷暑のこの街、巴里。
 この最中、定例のメンズコレクションが始まったが、このファッションウイークそのものも
また、その内容もこの異常な暑さとは裏腹に盛り上がらなかった。
 パリ・サンディカ(組合)の人事が変わってからオーガナイズがラフで何かスッキリしない。
今シーズンのコレクションスケジュールの組み方もどこかおかしい。
参加メゾン数も減っている。ちなみに、ミラノのウイークも3日間になってしまったという。
 ここ3シーズン来、このメンズのファッションウイークそのものが様変わりし始めている。
男服に加え、女服もランウーでショーイングするメゾンが増えたこと。
考えられる要因は前回も書いたが、
「スケジュール+経費の節約+素材関係の早期ビジネス。」が主であろうが、
このファッションウイークの形態自体がまだ落ち着いていないのがざわつきの一つでもあろう。
 が、何か、”怪しさ”を感じる。
 穿った考えをすると、”LGBT"というジェンダーを意識してモードの世界の新たな領域を
狭軌ではあるが構築するためなのか?ここにデザインの面白さを求めるのは容易いからだ。 
 あるいは、もっと現実を読み込むと、現在の世界のファッションビジネスは
”ファスト・ファッション=SPA"の登場以後、確実にビジネスの量としての本流は彼らたちが
その主導権を握ってしまっている新たな”ユダヤ人ビジネス”の領域になってしまった結果。
 従って、当然彼らたちは情報としての”シーズン傾向”である、”素材・カラー・ディーテール・バランスそして、雰囲気”という必須情報はより、早くランウエーから知りたい、パクりたい。
それによっての工場投入期が変わってくるすなわち、”ビジネスチャンスが太く、長く、
リピート”が可能になる。ここには従来のメディアが成せなかった、情報の”スピード”化が
SNSという無数のファッショングルービーたちから直接に入手可能になった現実も加わっている。
 即ち、グローバリズム以降に構造化された、”ファスト・ファッション=SPA"タイプの
グローヴァル・ワールドワイド・ファッション産業(=ユダヤ産業)の儲けにつながるという
読みもできる。このために、今シーズンも変わらず”コラボ・コレクション”は全盛である。
 読み方を変えると、”ファスト・ファッション=SPAファッション産業”の拡大化のための、
”プレゼンテーション”そのものに、”プレタポルテ”のファッションウイークは様変わり始めた
”新構造”とも読めるであろう。しかし、この発想そのものは’70年代以降の当時、
”プレタ・ポルテ”がこの街で登場してきた時代と同様の構造でもある。
 上は、”ラグジュアリィー系”の定番商品から、日本では”セレクトショップ”系のオリジナルと称している商品はそのほとんどが”SPA構造”で生産されている現実である。
これを知るのは生産地を知れば理解できる。
 例えば、ブランドは巴里、生産は中国あるいはモロッコなど。
日本のセレクトで売られているそれらも同様で、そのほとんどが中国生産に委ねてしまって、
粗利を儲けるための構造でしかなく、”いい服”を作るという誠実さや真実は残念ながら、
ここにも見当たらない。

 世界規模では確実にこのような”ファスト・ファッション=SPAファッション産業”の
ビジネスは拡大しているのである。
 まず、素材関係業者が儲からなければこの世界は成立しないのが根幹であるからだ。
しかし、日本のファッション産業構造はこれを見逃して、
”製品”だけで儲けようとしているに過ぎない産業構造に堕落してしまっているのが
戦後の現実である。
 例えば、戦後日本の”アパレル・ファッション”とは、自分たちの身勝手な儲け主義のために
都合の良い、”粗利”がより、多い構造を構築して、”中抜き構造”化しただけである。
 従って、現在、もっともらしく言われている”日本の生産体制、素材屋さんと工場さん”の
衰退そのものはそんな彼らたち自身が導いて来た現実の一端でしかないことも熟知していない。
 ましてや、ファッションメディアや教育関係で”業界人顔”して、もっともらしい立ち居場所で
イキがっている輩が大半である”壁紙産業”でしかない。
 例えば、この現実を、”業界紙”と称するファッションメディアに関わっている人たちが
どれだけ、世界と日本の現実をバランスよく学習してその彼らたちの役割を
仕事としているのだろうか?
 日本に帰国するたびに感じる”憂”である。

 今シーズンはとても”ハッピー”なクールなコレクションをしたCDG H.P.が
このようなコレクションができる現実の可能性と凄さとは、
”生産業務”そのものの進化と凄さにある。
 この現実の”関係性”を彼らたちは30数年で構築されてきた信頼が、
”川久保玲”を生んでいる実態である。
 彼女が”やってみたい世界”を確実な”ガーメント”へ落とし込めるまでの
”素材”と”縫製技術”の確保とリアリティとクオリティがこのブランドの
本当の”凄さ”なのである。
 
 ファッションは産業である。したがって、”製品”が最後の全てを語る。
いくら、メディアを騒がすだけのデザインをしてもそれが”製品”に落とし込まれなければ、
次なる”継続”へ、可能性へ”は至らない。
ここには現実としての”納期と製品クオリティ”が必然となる世界であるからだ。
 このメゾンは未だに、素材も工場も”MADE IN JAPAN"に全てを委ねている
本当に珍しい貴重なる日本のファッション企業である。
 ここにこの企業の倫理観とその志が読める。
そして、その覚悟がシーズン毎のデザインにも現れてくる。
 展示会を訪れて最近、富にこの感想を強く持つのがこの”生産業務”の素晴らしさである。
このような時代性になると”表層のデザイン”は誰でもがそれなりのことができる、
”ブリコラージュ”の世界になってしまった。
 では、それを客が喜んでくれる”ガーメント”に誰が、どのような関係性の元に、
どのようなディレクションでなされるか? 
 この企業の”凄さ”には、ここにもう一人のCDGの顔がある、田中蕾さんの存在である。
変わらず、僕が好きなモードの世界でリスペクトしている人である。

 だが、最近のパリのラグジュアリィーと称されているメゾンで欠如し始めているのが
この従来からの”アトリエ”と”量産工場”の距離感への責任と倫理観である。
 ”マーク”だけで売れる、という思い上がり。
それを誰がリアリティへ落とし込み、ディレクションできるかの可能性に掛かっているからだ。
 ここに、不協和音が聞こえ始めていると感じる。
(ラフ君がD.社に捨てられたのもこの不協和音が根幹であった?)
合掌。
文責;ひらかわ/巴里にて;

投稿者 : editor | 2017年6月25日 16:38 | comment and transrate this entry (0)

2017年5月23日

桑沢デザイン研究所/'17年度”昼間部+夜間部”全校生合同講義ノオト;

桑沢デザイン研究所/'17年 合同講義ノオト;
「”あたらしさ”を生み出すためには?」
文責/平川武治(モード・クリニュシュェ)

「我々はみんな携帯電話を内蔵した存在となったが、
そのことは現実生活とそのイメージの過剰接近や時間的/空間的隔たりの無力さを招き、
重大な混信状態という結果が生じている。」

J.ボードリヤール/「世界の自動記述」より:

PART-1; 現代という時代を深読みする。
 はじめに、「あたらしい自由」というこゝろの有り様、;
 僕がこのモードの世界に身を委ねてかれこれ40年が過ぎる。
大衆が「新しい創造」を願望するならば、まず、「あたらしい自由」というこゝろの有り様の
新陳代謝が必須であり、あるいは、「新しい社会」の誕生か、「新しい法律」の発令なども
関係してくる。
 決して、一人の思い上がりな行為やメディアの煽りだけでは「あらたな新しさ」は
生まれてこない現代という時代性がある。そして、「あたらしい不満」が当然、
こゝろの有り様に喚起しなければ、真の「あたらしい自由」は生まれない。
ここには現代の社会へ対する「カウンター・カルチャー」とはなんなのか?という問いがある。

 戦勝国アメリカは、’50年代にはもうすでに「ビートニック・ジェネレーションたち」
J.ケロアックやA.ギンズバーグ、W.バローたちが文学の世界で登場し、当時の”アメリカの
豊かさ”への「カウンター・カルチャー」の芽生えが始まり、昨年「ノーベル平和賞」を
受賞したB.ディランで代表される'60年代に登場したフォークソングからロック
そして、”ヒッピィー”と呼ばれた、当時の社会からドロップアウトしたコミューン集団たちが
思い感じ経験した当時のアメリカ社会と政治に対して彼らたちのピュアーな眼差しを
持ってこの「カウンター・カルチャー」と言う”反抗文化”なるものを路上に産み落とした。
これは当時の戦勝国「アメリカ合衆国」が”自由”を建前にした豊かな国家であったから
誕生したのが、「カウンター・カルチャー」であり、これが以後、60年以上は
いわゆる「若者文化」の根幹として継続されている。
 
 現代、「新しさ」を生み出すための「あらたな自由」は明日でも生まれえると言える、
今とはそんな不確実さの時代だからだ。
 この”不確実さ”や”不誠実さ”あるいは”不自由さ”に対してみなさんのような若者たちは
「あたらしい不満」を抱き、これに対してそれぞれが”憤り”を覚え、それなりの”行為”が
なされる可能性が現代ではあるのだろうか?
 しかし、この「あたらしい自由」による”憤り”がなければ「あたらしいモノ」は
生まれない。即ち、「あたらしい自由」によって、「コトのアヴァンギャルド」が生まれ、
そのコトによって、「モノのアヴァンギャルド」が芽生えその後、モノにデザインがなされて、
一般社会の生活環境にコミットされてゆく。この速度の速さ加減が”流行”を生む。
結果、日本の戦後の70年間とは、日本人の生真面目さと勤勉さと勘の良さや手の器用さ、
従順さによって見事な現在のような高度なる「大衆消費社会」構造を構築した。
よって、そこでは”モノの豊かさ”を追い求める日常生活と社会構造が発展し、
「モノの価値」を知り、「心の豊かさ」や「心の価値」を学ぶことが遅れてしまった
状況をも作り出した。この結果の所謂、”ツケ”が3世代目の若者たちに影響を
落とし始めているのだろうか?
 彼らたちは何かに、”憤り”を感じ、「あたらしい自由」さで、それなりの行為をなすことに
怠惰になった”マイルド”なのだろうか?
 
 僕は「他人とは違った、比べる対象のものを自らが勇気を持って持つ」ことが大切であり、
このために、”学びがあり、経験があり、旅があり、愛があり、出会いがあり、
好奇心が生まれ、自信も生まれ、知識を知り、自分以外の他者への想いが芽生える。”
と、僕の70年ほどの生き様から自分の「価値観」として大事に、考えて生きて来た人間です。
 日本のファッション産業そのものは変わらぬ体質然り、”壁紙産業”です。”右で売れたもの、
あっちで評判のもの”を「右から、左へ」の思い付きとその感度の良さとイメージングの
上手さだけで「日銭」を儲けて来た商売が日本のこれまでのファッションビジネスの歴史です。
 従って、この業界で漂っているいわゆる”業界人”たちの依然、カッコ付けたる年功序列な
”世間”でしかなく、僕にとっては囲われた自由の”村社会”でしかないのです。
 ここには「あたらしい自由」とは程遠い”世間”が漂っているだけで、「あたらしい自由」を
感じ得るために、「時から学び、時代性を読み込まない、勉強しない」業界人達の棲家は
ここ半世紀程、”壁紙”を張り替えるか、塗り替えるだけで”構造体”まで”リ・ビルド”されて
いないという現実でここまで来てしまったのでしょう。
 「ーそう、世界は”真実っぽさ”で溢れかえってしまっています。」/2005年S.コルベア(コメヂィアン)
 「The world is the wall-paper that looks like a truthiness.」
 
 ある時期から政治家が合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に変わって、
むやみに感情や「勘」に訴えるようになってきた現状を評したものです。
現代社会とはこの”真実っぽさ”に寄って全てが構築されてしまている。
最近の安倍内閣の現状もこのレベルで彼らたちの答弁そのものが既に” truthiness.” 
 そして、M.ムーアが発した、「これは終わりだが、始まりでもある」/
"However this ends, that's where we begin."

 このP.トランプ当選後の彼のこの発言では,何が”終わり”、何が”始まった”と
言うのでしょうか? 
 「近代」という時代の終焉とFAD,
 ここに来て、「近代」という時代が終わり、新たな時代が誕生するだろうという視点が
あります。昨年”ル・コルビジュェ”の作品群が世界遺産に登録されたこととは、
”近代”がもう既に、遺産になってしまったという視点が読めますね。
 皆さんの周りのより、現実的な世界を見ていただいて、何か、今までとは違った
”something new"な匂いや段取りの違い、気配などを感じ始めていませんか?
これは、FAD現象と言い、一時的な気まぐれな流行りのことであり、このFADは
トップトゥダウンするもので、ある少数特定集団が起こす癖の強いブームの発端です。
これに対してTRENDは一般大衆のうちで流行るものや現象をメディアが仕掛けたもので、
ボトムトゥアップという動きをする流行そのものを言います。
 実は、ファッションの世界の面白さとは理屈ではなく、この”ファッド”なリアリティを
路上で生み出せることがファッションのスピードであり、凄さと役割なのです。
 音の世界はこのファッドを直感によって最初に感じさせてくれるものであり、
ファッションはその感覚とリアリティをイメージングによってブリコラージュしたところで
生み出せる世界だから面白いのです。この現実の実例は、今では、insta.がまさにこの世界の
代表になっていますね。ファッションの種子はいつも”路上”に蒔かれ、”路上”で育ち
広がってゆくFADなものなのです。だから”街・スナ”がウケるのでしょう。
 
 現代は人と”繋がっても”そこにお互いが直感で直に繋がり合える”感動”がより、具体的に
必要な時代が来ています。彼らたちはPCでの繋がりに限界ともどかしさをやっと感じ始め
たからでしょうか?そしてここには、”便利”と”感動”は自ずから本質的に価値レベルが
違うことがわかり始めた若い大衆たちの誕生があります。
 彼らたちはこのようなファッドなリアリティの一片づつをブリコラージュしてゆけば、
”あたらしい自由”が得られ、”新しい何か”が始まることを触覚的に感じ始めたようです。
このリアリティこそが、僕は「近代」という時代の次なる自由を生む
時代のエッセンスだと感じ始めています。

「ナマ/live感」という”コトのアヴァンギャルド”が産む”Tactility/触覚”,
 時代はまた、「ナマ/live」感を必要とし始めました。
モノの新しさはそのほとんどが”バリエーション”の世界でしか有り得なくなり、
コトを興す事によって身体に直接感じる「ナマ/感」がMDされ始めています。
小劇場、ライヴ、フェス、ダンス、ラップとジョギングそれらに、習い事のヨガやストレッチや
ベリィー、フラなどいろいろな身体そのものから感じる「ナマ感」ですね。
それに”do sports"群。オリンピックを目標にしたアスリートたちが時代の表層になってしまう
時代性も手伝っています。この裏には、バーチュアルなエモーションではなくより、
直感できるナマな皮膚感覚の「エモーション」が激しく恋しくなり始めたということで、
ここでのキーワードは”Tactility/触覚”です。
 今までの過去においても「ナマ/live感」は当然、感動を得るための原手段でした。
そこへ、「ヴァーチュアル・リアリティ」という新たな仮想感動も知ってしまった現代人が、
オプションすべき、感じたい「感動」即ち、皮膚感覚としての”Tactility/触覚”を興奮させる
「ナマ/live感」とは?を感じ吟味することが大切な時代性なのでしょう。
ファッションの世界では、”皮膚感”に優しいという”機能”ある素材を使ったものが
ここ数年来のトレンドで有りすでに、「ヨガ・ファッション」や「アス・レジャー」という
ジャンルが生まれていますね。また、「”コトのMD”としてオケージョンでまとめられた
アイテム・ショップ展開」も増えている。
 従って、このようなFADなリアリティを”触覚”中心にして感じ取ることが現代社会では
かなり、重要な人間個々人の”感性の差異”でしょう。ここには”教養”と”感度ある感性”の
4Kが要求されるからです。ここでは”情報社会”に生きている現代人たちが持ち得た
”ヴァーチュアル・リアリティ”とそこに出現する”真実っぽさ”によって、
”センス オブ ヒューマン”が劣化してしまっているからです。
 すなわち、”時代と寝る”ためにはより、人間的なる「クオリティある繊細さ」を持って、
何を”オプション”するかが重要な時代です。
 このような時代は表層の豊かさのみが”液化現象”を起こし、全てが”真実っぽさ”における
”バリエーションの世界”になってしまったという視点も可能です。

PART-2;世界はどうなるのか?
 「Friendly Fascism」から「安心のファッシズム」へ;
 これからの世界とは確実に、小さな塊の、より強靭なコミュニティを羨望する各国の動きが
活発になるでしょう。すなわち、保守が進展すれば当然のように起き上がってくる
”愛国心”という怪物の登場です。この古き新しさでは、新たなバランスとしての
”ナショナル・アイデンティティ”と”ネイション・アイデンティティ”のセルフ・バランスが
問われる時代性になってゆくでしょう。グローバリズムによって、大きく固まった
その実態構造そのものが不誠実なものであること自体を知り始めた知恵ある諸国と諸民族は、
より確な”塊”へ揺れ戻しの始まりが起こる。
 例えば、英国もEU離脱をオプションし、他のEU諸国においてもそれぞれのネイション
アイデンティティが国別に強くなり始めるでしょう。
 極論ですが、トランプ政権下の合衆国ではもしかしたら”州”が個別にインデペンデントな
構造体になり始める可能性もありますね。
 グローバリズムによって、国/ガヴァメントと企業/ビッグ・ビジネスという”複合企業体”が
地球規模でそれぞれの産業において、それなりの企業形態を成立させてしまったのが
20世紀の最後の役割だったのです。
 ここで参考にするのが、すでに40年は経過してしまっている1980年、
アメリカで出版された「Friendly Fascism」という本です。
(これは、今回のトランプ選挙陣営のネタ本の一部です。)
 「Friendly Fascism」とは、;(
参照/翻訳版「笑顔のファッシズム上・下」B.グロス著;日本放送出版協会刊)
 『新しい独裁政治がアメリカ全土にゆっくりと忍び寄っている。”政府と企業の複合体”が
何十年もかかって、次第に形成され、その複合体の司令部には顔のない独裁者が
座り込んでいるのだ。彼らは自らの権力と特権を拡大しようとして、組織や個人のために
なりふり構わず利益を追求している。さらに、広い意味では、経済的操作や情報活動、
あるいは軍事的侵略による、世界各地における国際政治への介入の拡大等も、
そういう独裁者たちの利益追及の結果生じてくることなのだ。
 こういった自体の全てがすでに、世界的な規模で軍拡を煽り、核兵器及び通常兵器という
殺人のための機械の備蓄を増大させているのだ。(これは現在の安倍内閣以後の日本における
”政治と企業の複合体化”から軍事防衛費予算がだんトツに増大し、戦後以降、具体的なる
今後の”軍産複合体”構造を構築しはじめている現実にも現れている。/筆者)
 アメリカはまず、”軍産複合体”の手に権力が握られ続いて、この複合体に類似したものが
多数存在してしまっているのが現実です。そしてこれらの構造体は”多国籍企業体”構造を
持ってより複雑な存在価値を構造化してしまっている。 
 原子力複合体、科学=工業技術複合体、石油=自動車産業=高速道路複合体、
銀行=証券会社=住宅産業複合体、都市計画=開発産業=不動産業複合体、農産物生産及び、
加工と農機具・肥料・飼料の製造販売までも含まれる農業関連産業複合体そして現在では、
IT=モバイル産業=情報産業=メディア産業複合体などなど。
 これらの複合体に実際の企業名を当てはめればその実態が見える。
彼らたちは公然と貢献したり、秘密裏に援助の手を差し伸べたりして、その経済的基盤や
それを育む環境を備えている公共機関や大学が加わり、これらが複雑に絡み合ってさらに
巨大な複合体を形成しているのが現代の社会構造であり、こういう色々な複合体と同様に
重要なのが、顕在化しているビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携であり、
この現実が今では世界のいたるところで見られ、その根幹は巨大な超国籍企業と様々な
多国籍複合体にある。ここに、新しい独裁主義を成立させている。”新しいファッシズム”は
その国の伝統や文化遺産によって違った色合いを浴びて現れるだろうし、人種構成や宗教の
構成、政治機構、地政学的環境などによってそれぞれが違った様相を呈する。』
 これらが世界にまたがる”自由主義諸国”を一つにまとめ上げたのが21世紀の
”グローバリズム”の根幹です。
 そして、もう一つ、現代日本のファッシズム、「安心のファッシズム」とは?;
 では、日本的な視点でこの現代という時代性を新たな視点で捉え、考えてみると、
僕が、「家で、みんなで安心・安全・快適」というコンセプトを初めて使い始めたのが
90年代も終わりに近い頃で、”保守の中庸化”の兆しが射し始めた頃でした。
 当時、”ヤンキー”と呼ばれていた若者がそれぞれの実家へ”パラサイト”し始め、
彼らたちが”マイルド・ヤンキー”と呼ばれ、”地元”での実家生活が
「家で、みんなで安心・安全・快適」へ向かい始めた。
 また、当時のファッションのコンセプトが”WAPPING"から"PROTECTION"へ
変革し始めた時期でもあり、例えば、世間ではそれまでタブーの一つであった自らの身体に
傷をつける、”tatoo”がクールになりfadな流行となり始める。そして、ファッションは
”ラッピング”から、着る人間の身体と心を「安心・安全・快適」に
”プロテクト”し始めた頃でした。
 その後、インターネットの普及化とケイタイがより多重・多機能化し”スイカ”カードが
生まれ今のような平成の「安心・安全そして、スイスイ」社会へ発展進化し、
日本社会の現実である「安心のファッシズム」構造が構築され始めました。
この平成の「安心・安全そして、スイスイ」ボケの現代社会を切った本に、
「安心のファッシズム」という本があります。
(参考;「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;)
 現在ではこのコンセプトはすでに常識になってしまっていますが、
当時はフード付きの”被り物”はまだ限定されていて、ブラックのストリート・キッズから
発生し、グラフィティとラップによって”プロパガンダ”されそして、流行によって”クール”に
なり、今では当たり前の一つの”生活衣料品”になっている。これがまさに”サブ・カルと
ファッションの液化現象”です。日本のお笑いの世界も、”シソンヌ”のギャグ・コントのネタが
現在の”spa"型のショップの現実をパロディっているというまでの”SPA"ファッションの
”液化現象”も見られます。
 
 考えてみると、「誠実に生きる、真面目に生きる、真剣に生きる」等とは、これらは全て、
与えられた”自分の生”に対しての、自分の自由な生き方への詞です。これらを放棄さえすれば、
みんなと一緒になれば、その社会の人間たちは誰でもが、「みんな、安心・安全そして快適に
スイスイ」と生きてゆけますよ!という社会構造の構築とアプリ等の科学技術の開発によって
素早く現実に至った現代日本社会です。
 ケータイがなければ何もできない、電車にも乗れない、街も歩けない、学校へも行けない、
そして、”みんなと一緒に”世間”で”暮らしてゆけない社会の構築。
 この与えられた、巨大なシステムに操られることが苦痛にならずむしろ、心地よく便利に
スマートに生きて行けると感じさせる時代性がここに、見事に構築されてしまいました。
 これは、物事の根幹を知らなかったら、”知性”や”教養”に関係なく全てに飼いならされて
しまうという時代性とも読めるのです。これが現代日本の「安心のファッシズム」の由来です。
ここには現実としての、「一台のケイタイ電話+各種アプリ+1枚のプリペイドカード
+クレジットカード+キャッシュカード+各種会員カード+マイレージ各種クーポンサービス
+社員証+マンションキー+スイカ等の交通機関乗車券などなど、」
=安心、安全そして、スイスイ快適生活=「安心のファッシズム」という
現代日本社会構造のマニュアルが出来上がってしまっています。
(参照/日経新聞/2004年5月20日付け。)この構造を起業化したのが、
「フィリカネットワークス」という2004年に設立した企業です。ある意味では
たった”1枚のカード”に不動産価値構造を構築し、ケイタイを生身の人間を”ハブ”機能と
させれば”スイスイ・快適”が日常化するという「安心のファッシズム」の発想であり、
これも”グローヴァリズム”以降に打ち上げられたサテライト衛星がもたらした
”新しいフツー”でしょう。
(参考/フィリカネットワークス”=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立:http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html)
 ここでは、地上のすべてがマーケッターたちの”ゲーム版”上と化してしまっています。
「動く商圏」を構成する「息する財布」としか、認識されなくなってしまった人間たち。
大衆達は「操舵の術」としての”マイカード”と繋がるための”ケイタイ”によって、
現代人の肉体そのものをコントロールされていても違和感を感じないように飼い慣らされて
しまっています。ここでは、便宜さ、便利さや煩わしさののために人間が人間らしく生きてゆく
ための何かを代償としてこのような「安心のファッシズム」を選んだのが
現代日本人の99%でしょう。
 ここには、”みんながしているから、”という価値判断に委ねられた世界でしかありません。
これらはすべて、「大国の軍事衛星」を経由して、GPS機能を利用し流される彼らたちの
”都合”に操作されているという”根幹”は果たして、どれだけの利用者たちが認識した上での
”スイスイ効果”なのでしょうか?GOOGLEの大手得意先はNASAでありUSガバメント系です。
ここでは、「自由に生きる」ことそのものが変質、変革され”操作”されてしまっているのです。
現在のサテライト数は世界では76個が打ち上げられています。
(アメリカ32、ロシア24それに、中国16,それにEUが4。この現実が現在の世界の
”発言力”を持っている巨大国家とされています。)
 
 ここで問う、”ファッシズム”とは?本質的に、ファジーな曖昧なものの塊を言います。
全ての根拠が”曖昧さ”で始まっている現代のキーワード、「真実っぽさ/truthiness」の世界
そのものであり、自由でないことの”幸福感”が芽生え始め、支配されたがる人間が主人公/
ヒーローでありる世界。
 そこにあるのは「真実っぽさ」が溢れかえっている都合の良い自由の不自由な社会。
しかし、この世界を誰が作り始めたのでしょうか?そして、どんな人たちが我れ先にと
その世界へ駆け込んだのでしょうか?ここに、ビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの
提携連帯で築かれ作られた”複合体”社会の真意があり、「使われ慣れした、使われやすい、
飼いならされたい”イイヒト”たち」の登場いわゆる、”世間にお利口さん”な世代たちが
登場し、そして、ご主人様になる。
 今年になってより、表層のメディアを騒がせ始めた、”A/I"の登場があります。
”新・移民法”の制定と重なって、今後の「少子高齢化社会」発展という日本の
”新しいフツー”のためのシナリオの読み合わせも始まった。
 そんな僕たちの国の現代社会の表層は更に、ただ、「真実っぽさ」が。
「The world is the wall-paper that only the truthiness.」

PART-3;「ファッションの世界」では、
 「安心のファッシズム」と「ファッションの新しさとは?」;
 このような現代社会「安心のファッシズム」下のここ10数年間に現代の日本の
ファッション産業がどれだけ「新しいフツー」を進化させてきたのだろうか?
今の時代における「一番、あたらしいとは?」もちろん、「あたらしい自由」と
そこから培った「文化度あるスキル」を携えて鮮度高き時代を読むことである。
その一つは当然、見たこともない、目新しさとしての「先端」を「JUST NEW」で創造する
ことであり、もう一つの「あたらしさ」とは「最後尾」に位置することでの
「OLDEST NEW」を見つけることのの2つ。その他はすべて”中途半端”でしかない「SOMETHING NEW」で提案するバリエーションの世界です。
 ここには、「先頭か、ビリか」のみが新しさを生む立ち居場所である。
しかし、ほとんどのアパレルのMD担当者たちは自分たちで、感度高く”リアリティ”を
読み込むことができない不勉強があるために結局、彼らたちがオプションするのは
”右で売れたもの、あっちで評判のもの”を「右から、左へ」の「中途半端な新しさ」に
なってしまう。その結果、店頭では「どこでもドアならぬ、どこでも同じ」になり、
”パクって、勝負”という立ち居場所が日本のアパレル産業の特徴となり、それによって
「日銭が稼げる」という貧しさであり、この根幹ゆえ国家がバックアップするまでの
「複合産業構造態」には40年を経ても、日本のファッション産業はもなれない。
その結果が、今では”ホールディング企業が行なっている流行りの「マネーゲーム」の格好の
”コマ”の一つでしか無くなっているのがもう一つの日本の現代アパレル産業の淋しい現実
なのです。
 ファッションビジネスの新しさには、僕のようなものから見ると、”e-コマース”と
そこへ辿り着くまでの”情報発信”としてのアプリ、サイト、ブログ、snsそして、
インスタなどは当然、デジタル技術革新によってもたらされた新しいファッションビジネスの
情報源であり手法であり当然の新しさです。しかし、それ以外、商売の根幹はほとんど、
40年前と変わっていません。例えば、このファッション企業の人たちは未だに、
”FAX”を実務上使用しています。

 むしろ、「安心のファッシズム」で飼いならされ始めた”人間の退化”によって、
チャレンジしない、人が考えつかないことは考えない、自分のことで精一杯、
楽な方がいい人間たちの仕事そのものも”退化”してしまっているかもしれません。
 そこで、今後のファッションの世界の革新を考えると結論は、”ファッションのe-コマースと
その周辺環境が出来ないこととはなんなのだろうか?”という視点でしかありません。
どの様な「文化度」と「感度」で人間的なる自覚の元に顧客を想い、オプションし
チャレンジしてゆくか?を考え、話し合い、実践してゆく”古き手法”に尽きるのが
一案でしょう。
 なぜならば、ファッションとはデザインのカテゴリィーでありリアルな”世間”へどのように
”コミット”するかが倫理上においても問われなければならないリアル・ビジネスの世界だから
です。
 ここでは「ナマ感」マーチャンダイジングとでも呼ぶ発想で、例ば、”MD"や"VMD"などの
ルーチーン仕事をこの眼差しで見直す必要も、「もう一つの新しさ」に気づく発端に
成り得るでしょう。
 例えば、「ファッションが与えれくれるハッピィネスとは?」の根幹を考えることも
ありでしょう。もう、自分たちの商品という”モノ”だけを売っていても顧客たちは
当然ですが、当たり前になりすぎて「ファッションが与えれくれるハッピィネス」を
感じなくなって来ています。
 ”モノ+コト”の複合関係における相乗関係を「文化度」と「感度」によって、
具体的に考えることも一案でしょう。当然、彼ら顧客たちが購入したいモノとは、
「あの人と同じ」「みんなと一緒のもの」という「安心のファッシズム」下における
”ユニフォーミズム”の消費行動でしかなく、それらの”モノ”はもしかしたら、
ネット上も含めて、どこにでも既に在り、売られている”モノ”でしかないというまでの
”液化現象”がここにも観ることができます。
 
 「安心のファッシズム」における”繋がる”=”閉じ込められる”装置としてのインターネット、
ケイタイ、スイカ、SNS他が生み出す世界とは"ヴァーチャル・リアリティ”と
”ヴァーチュアル・イメージ”現象でしかありません。これらを使うことで”モノを買う”という
e-コマースの世界はある意味で、世界規模の各種の「ユニフォーミズム」にとっての
自動販売機です。
 が、そろそろ、この世界の限界も見え始めてきました。
例えば、”デリヴァリィー・プロブラム”あがあり、このIT環境をそれなりの資金を使って
アプリやサイトを構築すればあとは”スイスイ”が定番になってしまった現代の液化現象。
このような日常になってしまったリアリティにおいては、「ファッションを売る」ためには
どのようなナマでしか体感出来ない「ナマ感」現象が考えられるか?
 結局、「人間を喜ばすには人間にしか出来ないソフト」というアナログ発想です。
ショップへわざわざ行って”服”を買うことの楽しみ、喜びそして緊張感や見られることの
快感そして、気に入っている販売員さんとおしゃれな会話をする等など。
 これら従来の「ファッションを売る」という世界では当たり前だった諸「ナマ感」効果が
無くなり始め、ショップへ行って買う行為からの”エモーション”そのものも消え始める。
この「ナマ感」が与える”エモーション”とは?の復活でしょう。
 
 「安心のファッシズム」社会における顧客たちの欲求とは?そして、”ストレス”とは?
あるいは潜在的に欲求している”コトのアヴァンギャルド”とはなんなのだろうか?
ここには 何にに手間暇をかけ、自分たちの手が届く”感動”とは何なのだろうか?
というダイレクトな視点が必要でしょう。
 この「ヴァーチャル⇨リアリティ」化されてしまっている”世間”というコミュニティへ
何を差し出せば”わざわざ感”を”エモーション”へ変換できるのでしょうか?
ここに、今時代が望んでいる関係性のための、”ナマ感”で通じ合える”喜びとプライド”が
あります。
 ”妄想”あるいは、”真実っぽさ”の日常性。;
 それを生み出す現実の、”繋がる”=”閉じ込められる”装置否、”檻/安心フレーム”の中でしか
感じられない「安心・安全そして、スイスイ快適」ボケは完全な一種のファッシズム構造で
あり、その中での関係性とは、「集団と個人の関係性」がメインであり、
個人による「自己確認」という行為も当然ですが、他者を介さないと確認できない
「個人と個人の関係性」であり、まさに、”世間”はその中で可能なヴァーチャルな関係に
漂っているだけでしょう。
 では、「個人と個人の関係性」では、”そこに居た”というまでの実存感から生まれる、
”ナマ感”が望まれ、ここでしか感じられない一回限りの”エモーション/感動・感激”を
どのようにファッションをデザインしたりあるいはファッションを売る際に心するか?
の発想もこれからのファッションビジネスには大切な要因になるでしょう。
 例えば、今、若者たちに人気のラッパーたちが吐き出す”コトバ/詞”は彼らたちの
リアリティから吐き出されたもの。その”ナマ感”が感じられるもの程ウケるのが今の音の世界。
当然、そこから発せられる”エモーション”によって身体は奮い、動き始める、これがダンスの
世界。したがって、若い世代の今におけるファッション・イメージングに於ける
”ソース オブ ザ クリエーション”はやはり「BLACK」の世界観へより近づいてしまっていますね。
(参考/「TV番組/「フリースタイル・ダンジョン」https://ja.wikipedia.org/wiki/フリースタイルダンジョン)

PART-4;「新しいまなざし」
 ファッションはもう”ユニフォーム”になってしまったという視点。
 「自由に生きたいために求める自由。与えられた檻の中で求める自由あるいは、
満喫する自由。」 
 ここにも、”タマゴが先か、ニワトリが先か、”の世界がありますね。
 僕がファッションが好きで、この世界に40年も関わっているのは、
「ファッションとは、自由の裁量である」という僕なりの視点とファッションに抱く
価値観が存在しているからです。
 しかし、現在のファッションとは、”人と同じものを着たい。
同じ世界に生きたいから、”というベクトルに、いつの間にかその世界と価値観が
変化してしまっています。
 「自分らしく自由に生きたいために求める。
あるいは、自由に生きたいためにはどのようなものが着たいか?」から、
「与えられた自由の中でのみんなと同じ自由さを満喫するためのファッション」に
変化してしまった現在。ここにも「自己確認」作業のための”ユニフォーム”ですね。
 ここで見えて来るそのファッションとは、”ユニフォーム”でしかありません。
例えば、”マイルド・ヤンキー”たちのユニフォームや、彼らたちの”パラサイト・自立”化に
よって生まれ構成し始めた「平成のニューファミリィ」たちのユニフォーム。

 ここで、皆さんは少し前に放映されていた「UNIQLOの広告コピー/Life Wear Stories/
新たな日常着の追及」をどのように考えていらっしゃるのだろうか?
 「私たちはなぜ服を着るのだろう。正解はひとつじゃない。生活をよくするための服を
つくろうと、私たちは問い続ける。」
 案外、ここに現在のファッションビジネスが迎えてしまっている”液化現象”の根幹が
見えるように思うのです。 
 今、日本のファッション産業が迎えてしまっている「売れにくくなってきた。」
「ファッションを売ることとは?」などの現状に向かってこの”UNIQLOの広告コピー”を
真剣に考えると、もう一つ、”ファッション”という言葉がより、拡張された”液化現象”状態を
示唆したものであり、その現実世界のリアリティある”生活様式”へコミットする世界があり、
もう一つは彼らたちの「文化度」と「美意識」を探るまでの”ユニフォーム感覚”を
新たなファッション感覚としてこの”液化現象”へオプションすること。
 この2つの発想に、どれだけ対峙したそれぞれの立ち居場所を持つか?
ここにこれからの「あたらしい自由」の根幹があるでしょう。
 「安心のファッシズム」における”UNIQLOイズム”とは、自分たちの”塊”においての
”液化現象”、「みんなといっしょになりたい」というまでの「シン・”衣料品”=CLOSING
+オシャレ感=ファッショナブルなUNIFORMIZM」という図式が知らぬ間に
主流になっているのが現代でしょう。
 例えば、前出のすっかり表層からは姿を消したような”マイルド・ヤンキー”たちも、
液化現象として”パラサイト・家族”している。
 そんな”マイルド・ヤンキーシン・ファミリィー”の「ユニフォーム」ブランドが今は
市場でも主流になり、激戦化していますね。
(SPA系ブランドのファミリィーブランド化、UNIQLOやGLOBAL WORKなど、、、)

PART-5;自分たちの「ブランド・ファッションを作る」とは?
 ファッション・ディレクターの役割とは?;
 もう一つの「あたらしい自由」のためにファッションの関係者たちが考えるべきこととは、
今後の”ブランド・ビジネス”においては、そのブランドが持ちそして、創造し提案すべき
「ブランドの世界観」が大切な「ブランドを創る」ことの根幹になる。
 ここでは今まで、クリエーションだと思い違いをしていた、自己顕示欲のための表層の
ディーテールにおける形骸的なデザインだけではもう、誤魔化すことは出来ない。
この世界は20年ほど前に既に、終わってしまった。
 即ち、「ブランドを創り、売る」とは、ブランドをディレクションしているディレクターや
企画メンバーたちが生み出す「世界観」を構築し、イメージングして売ることが
現代ファッションビジネス必須の根幹。そのためには、ブランドの”文化度”が必需となる。
これを育成してゆくためには、”文化力”+”感度”+”妄想力”によるブリコラージュ的な
創造性が必要になる。ブランドビジネスとは、このブランドの「文化度」によってブランド・
マークをクリエーションし、インデペンデント化することでしかない。
 従来型のファッション流クリエーションビジネス即ち、世界のトレンド情報を主軸とした
”右と同じ”あるいは、”同じらしく”または”パクる”というプロセスだけだでは
継続が至難になろう。
 あるいは、売りたい顧客たちのための「ユニフォーム/ユニフォーミズム」に特化した
「文化度」レベルのブランドに成り下がることでしかないでしょう。
 あのUNIQLOの立ち居場所は自らが質も量もここに”特化”したことによって成功に
至ったのですから。
 では、「文化度」とは?「ブランドの文化力」とは?;
 これは世間で問われる”ブランドアイデンティティ”へ繫がる視点の再認識ですが、
まずは、誰とファッション・キャッチボールがしたいのか?が
この問いの始まりになるでしょう。
 「それぞれのブランドが、どのような女性たちへ向けて発信されているか?
そのそれぞれの女性たちがどのような時代に、どのような考えを持って、
どのような生き方を望んでいるのか?あるいはしている女性たちなのか?」
という視点とその情報を「ユニフォーミズム」発想で認識すること。
 次には、それらの情報量をブランドの作り手たちによってどれだけ確りとした考えと
念いを馳せるか?言い換えれば、ブランドの作り手たちがどのような価値観や時代観そして、
美意識を持って実社会と関わり、作り手自らも、”リアリティ”を持って生活しているか?
というまでのパーソナルな教養とスキルと経験と美意識が当然、根幹となる。
 その上で、「ブランドの文化力」とは、どのような”生活者ユニフォーム”を必要としている
女性をターゲットにしたブランドなのか?その時のターゲットの女性像とは?
その時の時代観とは?その女性たちにどのように着て欲しいか?
そのために顧客たちの女性へどのようなブランドとしての”美意識”と”ステートメント”を
差し出せられるか?
 ここで、僕がいつも発言している、”May I help you?"というこゝろの有り様で、
社会にコミットできるまでのブランドであるか? ないか?
それが「ブランドの文化力」になる。
 これらを実際にブランドに携わっている人たちが感じ、考えそれぞれの共通言語を持って
日常の仕事に携わっているか?そのためのブランドとしての”心”と”眼差し”を持っているか? 
 このような「ブランドの文化力」を向上させ「文化度」をつけるにはブランド全体の
共通言語が存在するか?そのボキャブラリィーでコミュニケーションが取れるチームワークが
出来上がっているかが全てでしょう。
 「文化力」とは、個人的内面の発見であり、自分自身を、自分の生き方を、認識と感性を
改造するという発見なので、「文化度」を豊かに育成させるための自心の ”土壌”に
こゝろ有る世話を忘れないでしてあげてください。
 いまや僕らの住む世界は、画一的な「ノーブラウ(愚か者)」たちを標的にした
「安心のファッシズム」が生み出した”どこでもドア”的なる巨大商業主義の世界でしかなのです。 
 そこで、「何を作ろうかよりは、何を着てもらえるか?」;
 新たなファッションゲームにはこの視点が鋭くそのための関係性と諸情報とその情報処理に
おいて、知的で美意識高ければより、勝者に近づく。
 現在の巴里発の「ラグジュアリィーブランド」ビジネスのその根幹はすでに「SPA」型
ファッションビジネス構造である。そのビジネスの根幹は「ラグジュアリィーブランド・
ビジネス」と「ファストファション・ビジネス」は同類である。違うことは、[イメージング
+広告戦略+VMD+ブランドエクイティ=贅沢な「ラグジュアリィーブランド」]という
差異で、顧客を揺すぶっている現実でしかない。
 これらを誰が統括的にディレクションが出来るかが、この新しいファッションゲームを
担っているゲーマーたちの役割でありそれが、「ファッション・ディレクター」の登場であった。
 再び、「女性たちが経済的・政治力を発揮し始めた時期だ。ところが彼女たちが着る服が
市場にあるの?!」という時代が到来した。ここで、新たなる女性たちのユニフォームが
必要になり始める。
 彼女たちへ与えるべき3つの特徴、「見栄えのよさ、ウィット、センスの良さ」を
働く女性たちはいつも欲している。ここに、「ブランドの文化力」が秘められていることも
認識しておく必要があろう。
 或いは、従来のデザイナーがなすべき仕事を工場に委ねそして、
新たなブランドチームとしての構成を考えることも「ブランドの文化力」の育成化に
つながるだろう。
 現在のファッションビジネスにおけるアトリエ構造は「F.D+M.D.+生産企画+生産管理」
+営業力+e-マーケッター+S.P.+A.D.+プレス=新しいチーム。という公式になった。
 ”あたらしい自由:が生み出す、「あたらしいフツー」;
 今後のファッションにはどのような”ポジティフな新しいクリエイティヴィティ”が
可能なのだろうか?
 このような時代観と”世間”のリアリティを考察し読み込んだ上、今後のファッションには
どのような可能性が考えられるのだろうか。
 ファッションデザインは如何様にして、”世間”に「あたらしさ」をコミットさせるか?
するか?或いは出来得るか?これが産業と結びついているので、難しい世界である。
 例えば、個人の思い付きだけで”アート”ぶっている間はまだ本質的に”デザイン“は
為されていないか、熟されていない。ファッション・ガーメントを作り出して、
社会にコミットさせることでデザインの創造性が完結する世界である。
 従って、「時代を感じさせる良いクリエーションは良いビジネスを生む」を信じることが
必要である。この”時代を感じさせる”というところにそれぞれの”新しさ”があり、
そのための"あたらしい自由”さを感じさせられるか?がデザインクリエーションの
全てであろう。
 
 20世紀から21世紀に入って、PCが新たな機器になり、大いにこれを利用した
ビジネスがこのファッション界でも進化した。が、ファッション・クリエーションの世界では
どうであろうか?
 「ファッション=人間が着る」という公式が変わらないために、その可能性がどんどん
”素材ありき”の世界へ、それらの素材にどのような後加工が出来るかという新たな可能性も
含めたところへ追い込まれてしまったのが現在の”ファッション・クリエーションの新しさ”の
世界であり、ここへ”ネタ元”として、割って入り込んできたのが、
”ARCHIVE"という世界である。
 3年前に僕が提言した、現在のファッションにおけるクリエティビティとは、
既に、”ヴァリエーション オブ アーカイブ”あるいは”ブリコラージュ ドゥ アーカイヴス”が
根幹になってしまった。
 巴里のこの世界を見ていると、”アーカイヴ”を知らな過ぎるあるいは、”モードの歴史”を
知らない若者たちが、より、知らないブロガーたちを騙している世界でしかない。
 例えば、VETMONTなどのデザインはこの世界でしかない。
 ここで、「人間が着ることがファッションの世界。」という根幹から離れることが
できなければ、決して、新しいものは生まれ得ない。
 ここが「あたらしい自由」なる発想である。
着る人間の体つきが変わらない限り、ファッションにおけるクリアティビティは今後も
ますます、”ヴァリエーション オブ アーカイブ”の世界であろう。
 「今後のファッションにおける新しさ」とは2つのコンセプト;
 ここで共通することは、その新しさは全て、新しい素材とその後加工方法によって
「あたらしい自由」が”商品”化されて、社会に新たなコミットすることである。
すなわち、「新しいフツー」あるいは「次のフツー」の提案である。

 一つは、僕が3年前に発言してきた、”WITHOUT SEWING"の世界。
「今更、糸と針とミシンによって作る服」というのが古いというコンセプトで生まれた
”WITHOUT SEWING"の世界。
 ファッションの世界がより「プロテクション」というコンセプトへ”進化”(?)する
この時代性にあって、そのオリジナルは日本の戦国武将たちが装着していた『甲冑」がある。
 現実に、ここにあたらしい”機器”としての”3Dプリンター”が使われその世界がより、
ポジティフな可能性が生まれ、この立ち居場所で活躍し始めたクリエーターたちが誕生している。
 例えば、”CdG ・ノアール”や”中里唯馬”の存在も確実に「あたらしい自由」のもとでの
彼ら自身の世界を作り出している。彼らは”レゴ世代”である。
 そこに、PCを製作機器として使い込むことで彼らの世界観により、美しさと新しさが
すなわち、”スキル”と”美意識”が見事にメチサージュされている。
 PCを使ってこの”WITHOUT SEWING"の世界を探してみると、素晴らしい美の世界へ
挑戦している創造者たちが多く現れていることも知ることができる。
 今後のファッションの立ち居馬車そのものが一つは”ユニフォーム”であり、
もう一つは”コスチューム”という両極端へこれも”進化”(?)してゆく社会性からも、
この”WITHOUT SEWING"の世界は確実に、新たな”ステージコスチューム”から始まり、
2050年までには新たな”ユニフォーム”になるであろう。
 
 ここでは「服を着る」という概念を変えることからこの「あたらしい自由」が始まる。
すなわち、新しい生活あるいは、”新しいフツー”のための共通言語としての
「ボキャブラリィー」を見つけ出すことから始まる。
「着る」という行為から「装着する」というコンテンツで今後のファッションがポジティフな
可能性を持つことができる。ここで大きく変革することは、服で全身を覆い隠すという、
「着る」という行為から、自分が隠したいところすなわち、プロテクトしたいところ
あるいは、見せたいところに「装着する」という新たしいコンテンツを考えれば、
”WITHOUT SEWING"の世界がもう一つのファッションの世界になる。
 実際に3Dプリンターを使っての作品を発表しているオランダのIRISの場合も6つ割りにした
パーツを「装着」させているのだ。従って、この3Dプリンターでの作品例が比較的多い
「シューズ」もここでは「装着」するというコンテンツで履くことになっている。
 昨年の「パラリンピック」を見ていても「ファッションの新しさ」への大きなヒントが
あったのを思い出そう。ここでは身体の一部としての「装着」する世界で競い合っていた。
ここには貪欲な”人間そのものの現れ”としての”強者”の世界でしかなかったことに驚く。
 
 「今後の新しいファッション」を論じるならば、「あたらしい自由」を確認し、
その上で、新たな「ボキャブラリィー」を見つけ出さなければ”新しさ”が生まれる確率は
極低する。
 もう、この現状況でのファッションの世界における”クリアティビティ”は全て、
「ヴァリエーション オブ アーカイブ」でしかありえない。
が、この現状を救うことができるのは「新しい素材」とそれらへの”後加工”に
委ねることでしかない。
 「新しい素材」あるいは、「使われることがなかった素材」を使うこと。
ここには当然、”縫えるか縫えないものか”の根幹が示唆されることによる
「新しさ」の可能性である。
ここにも”WITHOUT SEWING"というコンセプトが浮かび上がる。
 
 では、もう一つの新しさとは、
 これは実に面白いコンセプトのファッションの世界が訪れる可能性がある。
これも、「新たなユニフォーミズム」からの”裏”の発想である。
 もともと、ファッションとは「自身の存在を着る物」によってより、顕著に自己を
表現するために始まったものである。すなわち、”自己のアイデンティティ”を明確にさせ、
確立させそれを自己の表層のコードと化するためのものであったということを思い出そう。
 身分や地位そして育ちなど、諸々の社会で生きてゆくために必要な社会的な”コード”が
現在までのファッションの世界の進化論である。
 しかし、ここで、もう一つの「あたらしい自由」さでこの現実の”世間”を見てみると、
”時代のリアリティ”の一つに、「個人の自由」が街中に張り巡らされてしまっている
監視カメラや携帯やPCによってそう、「安心のファッシズム」状況下、知らぬ間に
「個人の自由」は犯さててしまっている。
 また、昨年の日本は芸能界のスキャンダルが多発化した年でもあったが、
このような状況は今後、個人の生活をも脅かすまでのここでも、”進化”(?)があろう。
そんな新しい時代性を想像しそこからのファッションへのもう一つの
”新しいボキャブラリィー”とは、真逆な発想である、「自分を消去するためのファッション」
すなわち、「カモ・ファッション」である。これは今後の新しい世代たちの一つの
「カウンター・カルチャー」になろう。”世間”で生きてゆくにも”カモフラージュ”によって
身を隠さなければならなくなるまでの”不自由”という「安心のファッシズム」時代への提言。
 しかし、この根幹はすでにユニフォームの一つである、”ミリタリィー”の世界で
当たり前になっている、”カモフラージュ”というコンテンツである。
 この世界の進化は軍需用としてそれ相当の進化をもたらした世界が現存している。
これを日常の”世間”に持ってくることの発想も、そんなに遠いものではなさそうである。
そして、”着ぐるみ”というファッションもこのカテゴリィーとして
「あたらしいフツー」になるであろう。

 『プライバシーの範疇にかかわらず、近未来のファッションは存在そのものを
”プロテクト”する何か、新しさを提供します。』
/
https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
 『私たちの個人情報と財務情報がインターネットのオンラインにおいて公共の時代には、
個人の存在が見えなくなることはない。
 しかし、オフラインでは、少なくとも、世界中の多くのファッションデザイナーは、
個人の曖昧さを払うことができるような世界を準備し始めている。
 ハイファッションを通して不可視の側面を達成するという概念は、未来的なものでは
なくなってきた。実際にはすでに可能です。
 一般人であれば、自分の写真を雑誌やsnsのページに入れることができます。
例えば、有名人または逃亡者でない限り、日々の生活の中でどのように監視されているかに
ついてはあまり考えないかもしれません。 
 が、現実には不条理なしかし、人間の感情を解釈することができる顔認識、
高精細サーベイランス、AIを含む感情技術が絶えず進化する分野では、家外に出た自分が
あらゆる高度な装置によって、自分の存在がトレース & ディスプレーされてしまいます。』
 そんな「安心のファッシズム」の社会においての究極のプライバシーを守るための
頭からつま先までの、自己を消去するためのファッション・ドレッシングのガイド/メニューが
すでにアメリカのサイトでも紹介されている。
 参考/アイデンティティを消すためのファッションに関してのサイト;
*https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
*「感情的な医学:感情的知性を持つ技術」/http://hd.media.mit.edu/tech-reports/TR-537.pdf
*顔検出からのカモフラージュ。「CV Dazzleは/https://cvdazzle.com
*幻想的な迷彩/https://en.wikipedia.org/wiki/Dazzle_camouflage
*最初のアンチフラッシュ衣料品コレクションの紹介/ https://theishu.com
*https://www.amazon.com/Kreinik-R25-Reflective-Thread-25-Meters/dp/B00CB396DQ
*ステルスウエア;ステルスウエア「アンチドローン」ファッション
/https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
*コープ・ヒンメルブラウ
/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%
BB%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%
A9%E3%82%A6
*CHBLジャマーコート;COOP HIMMELB
/http://www.coop-himmelblau.at/architecture/projects/chbl-jammer-coat
*ファラデーケージ/https://en.wikipedia.org/wiki/Faraday_cage
*ファラデーバッグ;技術を外部干渉から遮蔽する最先端のソリューション
/https://www.disklabs.com/faraday-bags/
 
 最後に、”カジノIR法案”が可決され、;
 より、リアリティな発想になりますがこれによって、現在の日本のファッション産業界は
大いなる”追い風”を再び迎えることができ、新たなビジネスの拡張へつながる
可能性が生まれるでしょう。
 かつて、90年代も半ば、都心部の「キャバクラ」が「地方都市」へ拡張され、
地方にも新たなオケージョンが生まれそれらと共に”AEON”や"駅ビル”といった
新しいディストリビューターの開発と新たな”顧客”、パラサイトし始めた
”マイルドヤンキー”との”三位一体化”によって「SPA型」が発展したあの時代性と
同様の”新たなモチベーション”がここでも「20年周期」というジンクスによって生まれる。
 東京オリンピックとカップリンなされ首都市に”カジノ”が出来るとそれがTVや雑誌メディア
また、SNSでよりパーソナルに拡張されより、ヴァニティなファッションの世界が
プレゼンテーションされ、次なるは2020年以後、カジノ・インフレンスは”大阪万博”
(立候補中)へ引火されその後、地方都市、駅前の”パチンコ館”が総合ギャンブル館”に、
”地元VIP"御用達”のカジノが生まれる機を読み込むことでもう一度、”神風”は吹くだろう。
 ここに、もう一つの「あたらしい自由」が創生され、ファッションのニュー・シーンの
誕生が読める。
 ”地方カジノ”+”路面店/ディストリビューター+新たな”顧客”の”三位一体化”
が現実になれば日本でも本格的な新たな”ドレス”マーケットが誕生する。
 が、ここでは決して、”ストリート・カジュアル”ではない。
 ここでのキーワードとは、「真実っぽさ」。
”真実っぽい”関係性による”シン・男女消費”が新たに生み出す”真実っぽさ”という名の
”ラグジュアリィー・ファッション”あるいは、ヴァニティという名の”ご利益・ファッション”
いわゆる”モテ・服”や”キメ・服”というドレス中心の”ユニフォーミズムであろう。
 あるいは、「109の逆襲」???
 エピローグ;今の日本の政治は落ち着きが有りません。気になる色々、
 北朝鮮からの”煽り”をアメリカ、ロシア、中国がそれぞれの巨大帝国主義的なる
国家エゴのすり合わせ。
 国内の憲法問題と軍事戦略を軸にした、”アメリカのポチ”化の激化。
 日本はいつのまにか、このような”軍事評論家”という人たちが存在していたのだろうか?
 「共謀罪」復活。かつての戦前の大国主義へ妄想した時代へのリバイバル。
 日本メディアは気骨をなくしてしまった。”時間売り”ビジネスに特化したための荒廃化。
 ここにも”金儲け”主義しかない現状のメディア。
 ”不動産売り”へ逆行し初めて業績が再び低迷し始めた”デパートビジネス”
 政策+国家予算の使い方+行政の動き+利権+専門スキル+工業技術+メディアの煽り
=新しいビジネスの誕生。
 国家企業規模の企業の倒産が続く。
 少子高齢化の激化。新移民法と新たな倫理観。
 A.I.という新しい人間の”エゴ”産業化が急進化。
 戦後日本で初めて誕生する新たな産業。軍事産業とカジノ産業。
 e-コマースと宅配のアンバランス化現象。
 ITテクノロジーとヒューマンテクノロジーのアンバランス化が始まる。
 水産業のオープン世界マーケット化が始まる。
 LGBT,マイノリティの表層化と社会の現実のずれ。
 築地、オリンピックそして、カジノ産業。
 ”one-box car"の色が白系から黒系へ変化始めたのだろうか?
「新たなるフツー」のための新たあるディストリビューションとは?
 そして、
これらの現実の日本の状況を”201”の項目で見事に書き下ろされた本が出版された。
 「日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」−15歳から始める生き残ろための社会学。
 響堂雪乃著/白馬社刊:
みなさん、是非、ご一読ください。
合掌:
文責/平川武治:平成29年5月15日:

本稿のオリジナルは、雑誌「FREE MAGAZINE−5」掲載原稿に手を入れました。
 *キーワード;
「Friendly Fascism」
「安心のファッシズム」
「ユニフォーム/ユニフォーミズム」
「ナマ感」/皮膚感覚
「TACTILITY/触覚」
「文化度/文化力」
「コンセプトをブリコラージュ」
「モノのアヴァンギャルド」よりも「コトのアヴァンギャルド」
「液化現象」
*参照/
「日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」
 −15歳から始める生き残ろための社会学。響堂雪乃著/白馬社刊:
「笑顔のファッシズム」B.グロス著;日本放送出版協会刊:
「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;
「リキッド化する世界の文化論」ほか、Z・バウマンの著作いろいろ。
「ヴォーグで見たヴォーグ」ー元アメリカンヴォーグ編集長/G.ミラベラの言葉;G.ミラベラ著;2,000年刊より;
「フィリカネットワークス」=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立/http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html
「面白いコント;”シソンヌ”」このお笑いコントが醸し出す世界に”ユニフォーム”を感じます。
/https://www.youtube.com/watch?v=S5CTb9HUwRQ
中里唯馬/ http://www.yuimanakazato.com
 

投稿者 : editor | 2017年5月23日 21:47 | comment and transrate this entry (0)

2017年5月10日

決して、語られなかった”コトの次第”を、「一つの展覧会を読む。」 /”M.MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展

 私事であるが、あれほど通っていたアントワープへ今回、なんと13年振りで訪れた。
 友人であった人が”公金横領”の罪を犯してしまいこの街から逃げてしまって以来、
この街へは一度も訪れなくなった。
この街のファッション学校の形骸的なデザイン性が強いカリキュラムも
時代に遅れを取り始め魅力を感じなくなってしまったこともあった。
もう一方、この時期に卒業したという日本人学生たちが帰国して、自分たちが”小さな嘘”の
上塗りでメディアに取り上げられ、セルフプレゼンテーションを器用にやり始めたことも
この街への厭気に重なった。
 そんな以前を熟知している僕の今回のこの街への眼差しは完全に冷めきった”傍観者”で
あり、ただ、日本レストランが増え、SPA系ファッションブランドショップが目につき、
”ユダヤ人ビジネス”が堂々と表通りへ出てきてしまった街の風情にもなってしまっていた。
 では、なぜこの機にそんな街を訪れたかというと、
最近、お世話になり始めた「日経新聞 日曜版」の取材のため、僕がいる頃に準備されて
出来上がったモード美術館の展覧会のためのインタヴューが目的だった。
友人が構想して設立出来たこのモード美術館も当時、面接試験を受けて友人に採用された
女性がチーフ・ディレクターになって今回の僕のインタヴューを待っていた。
 やはり、何かおかしい気持ちでの仕事になった。
終わってみて感じたことはこの若いディレクターの喋り方が”公金横領”をした
僕の古い友人の喋り方とそっくりであったということ。またそのインタヴューテープを
繰り返し聞きながら余計に、恐ろしくも感じてしまったことだった。
 ただ一人の友人と出会いディナーに招かれ、よく行き着けていたカフェへ立ち寄っただけで
僕は隣町のゲントへ幾度目かの一人旅を気取った。
この理由は、今シーズンのパリのコレクションに影響を与えていた一つ、
”フランドル・イメージ”に再び、触れたいとの思いもあったからだ。

 僕と入れ違いに、この展覧会の当事者であるマルタン・マルジェラはアントワープへ来た。が、
彼はオープニングレセプションへは参加しなかった。
中で騒いでいる輩たちは彼の偉業で金儲けをしている連中だという現実。
ここでも、”世間”とはこんなものなのであろう。

 今回の幾人かの取材で、今まで、決して語られなかった、
「THE HERMÈS とMARTIN MARGIELAの関係性が
どのようにして現実になったのだろうか?」を
この展覧会を機に始めて明かしてみました。
 ”水と油”のようなそれぞれの当時のモード界における立ち居場所の
新旧、2つのメゾンが、それぞれの思惑を持って、
どのようにこの現実へ至ったのか?

  <この原稿を”日経新聞 日曜版STYLE”、太田亜矢子さまへ感謝を。>

  ”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展/MoMu in Antwerp;
開催期間/31.03.'17 > 27.08.'17
https://www.momu.be/en/tentoonstelling/margiela-de-hermes-jaren.html

 『ファッションの定義は人によっても違う。私にとってのファッションとは、
女性をめぐる問題であり、女性がどのように生き、どう戦いそして、どのような安らぎを
表現するのが、ファッションだ。』
/参照;「ヴォーグで見たヴォーグ」
/G.ミラベラ著:実川元子訳:文春文庫刊1997年:
 このような成熟した眼差しでファッションを捉えるには
この ”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”でデザインディレクションを請け負った
Martin Margielaの1997年から2003年の彼らたちの仕事ぶりを知ることは
近年のモード界に於いては最上質な機会であり、
モードとクラフトマンシップの関係性の総てが封じられ、創造されたベストな
”エルメスーマルタンシリーズ”である。この再見機会を与えたのが今、MoMuで行われている
展覧会である。
 筆者は’97年からのこのシリーズのショーをリアルタイムで観ているのでその経験を主軸に
展覧会を読んでみよう。

「なぜ、M.マルジェラは凄いのか?」
 ’88年にデヴューした彼のオリジナルブランド,"M.M.M.は”ジェンダー”をメイン・
コンセプトに斬新で異端でさえある”創造の発想”をヴィンテージというリアリティを素材に
かつ、ロジックに繋げ展開した14年間。ディレクターであるM.マルジェラを中心に、
このブランドが呼吸する総てが強烈なパワーとスピードで20世紀のモードへ
全く新しい、現代アートとまで言える視点を持ち込み、アヴァンギャルドからその頂点に
14年で達した過去に類を見ないブランドであった。
 このブランドが提案したカウンター・モードの凄さとカッコ良さに
一番早く犯されたのが我ら、日本の消費者であり当時、世界で一番売ったのは
仙台のブチック”レボリューション”。そして、最初のショップが出来たのも
日本であったことを証拠として特記しておこう。世界で”ストリートファッション”に
一番敏感で繊細な我ら日本のファッションカルトたちの肥満的病的欲望を充足させるには
このブランドのコンセプトとロジックに裏付けされた彼のクリエーション&イメージングは
総て「凄かった」のである。

 「なぜ、”エルメスーマルタン”がすごいのか?」
 これを述べるには最適な書籍*がある。
現代ファッションの新たな創造手法でもあるブリコラージュを真似て、
この本からブリコラージュして「なぜ、”エルメスーマルタン”がすごいのか?」を論じてみよう。
*「ヴォーグで見たヴォーグ」/G.ミラベラ著:実川元子訳:文春文庫刊1997年:
『私にとってファッションとは、女性たちが生活を楽しみ、喜びを見つけるのを
助ける手段の一つである。魅力的で、時には贅沢な道具といっても良い。』

 1997年から2003年の間、マルタン・チームが手がけ情熱を傾けてきたメゾン・エルメスの
女性服は彼たちによる「スタイル・エルメス」の追求にあり、このスタイルそのものが
”凄かった”のだろう。
『ファッションにおける”スタイル”とは女性が自分をどう表現するか?
世界とどのように接してゆくかの姿勢そのものである。服をどう着こなすかであり、
それ以上のもっと深い意味それがつまり、女性が生きる姿勢である。
このスタイルは金額も流行も「小綺麗に装う」ことも超えたところにある』

 これをマルタンはメゾン・エルメスという王道を手管にとって
エルメス哲学&クオリティを根幹に、自身が一度は試みてみたかった理想の女性の世界観、
「スタイル・エルメス」をこれ以上、出来るであろうかというまでの領域の創造に
挑戦したことの結果が”エルメスーマルタン”の「凄い」を生んだ。
 マルタンが求めた「スタイル・エルメス」は勿論、このメゾン・エルメスが哲学とし、
価値と考えているクラフトマン・シップという”職人仕事の愛情と情熱”に委ねられ
また、このメゾンが持ち得ている”価格は品質への障壁ではない”という経営倫理学に
育まれた”スタイル”に徹した仕事をマルタン自身も職人的に関わった結果であろう。
 『女性が仕事をする世界でより知的に競い合うためには、
よいスタイルを学ぶ必要がある。服は機能的でなくてはならない。
だが機能的なだけではだめだ。もう一つ素敵に上品に見せてくれなくてはならない。
現代女性は便利でかっこいい手帳や携帯電話やPCを欲しがるのと同じ次元で、
機能的に満足でき、素材によって自分をエレガントに見せてくれる服を求めている。』

 そこで、マルタンは洗練された慎重な服をプレゼンテーションするショー・モデルの
キャスティングによっても多くの新しい「スタイル・エルメス」を定義した。
40代と50代の魅力的な女性たちは、アン・ロハートのような元モデルの多くが、
チョコレート・アンクル長さのノースリーブのドレスに時代を超越した、
ざらつきのあるサイドジッパー付きパンツの上にでドレスを強調し、
過度の軽快なエアリー・レインコート、静かに深く切り込まれたVネックと
柔らかいテーラード・ショルダーでチュニックに似たベール・ウール・ジャケットと
パンツ、そしてしばしばネックのないコートの下で滑り落ちる広いカシミア・ローブは、
「スタイル・エルメス」を基盤からはずしたくないという明確な意図を語った
提案でもあった。 
 ここで、古くからパリの友人である、S.ヴァルニュェ氏**の証言を,
「マルタンは、エルメスのアイデンティティを定義するために、
幾つかのボキャブラリィを作り手たちであるクラフトマンたちへの
共通言語として投げかけました。(細部、心配、明度、などへの注意のような)
彼のアプローチは真に思想家の一人であり、ブランドをそのような深さで理解して、
エルメス自身よりもエルメスになったのです。彼はエルメスに何も追加しなかった。
逆にエルメス以外のものは差し引いた。
 彼はブランドを明確にし、それを劇的に特別にしました。
だから彼の作品のどれもがとにかく老化していないのです。
彼らは本当に時代を超越していました。」
**S.ヴァルニュェ氏/Stéphane Wargnier;元エルメス広報戦略担当談。

 「メゾン・エルメスとM.マルジェラの関係性あるいは、イメージの新陳代謝」
 「陰と陽の交わりから第3の”気”が生まれる。
陰と陽に印つけられた事物は、それぞれ特権的な対応関係で結ばれた相手を持ち、
それぞれの独自性を尊重しながら、互いの特質をより深めてゆく。
そして、第3の”気”は陰と陽が自らの最良の部分を抽出することによって、
より高い次元での完成に向かって変容を遂げるように促すのだ。」
F.Cheng/「すべてうつくしいものは、かけがえがない」

/phebus社刊”陰陽と第三の”気”」から。
 このメゾン・エルメスとM.マルジェラの関係性とはこのような陰と陽から生まれた
第三の気に例えられるだろう。
 この時期を思い起こすと、”ラグジュアリィー”という新たなファッションビジネスの
ステータスが再構築され始めた時期であった。これ以後、グローバリズムに乗って
このモードの世界は上は”ラグジュアリィー”、下は”ファスト・ファッション”という構造を
特化し始めた時代性でもあり、当時のファッションメディアも多くを語った。
LVMHグループは、LVブランドにM.ジェイコブをやっと採用して’98年からスタートしている。
しかし、当時のメディア評は新たな新しさとエネルギィイ補充、というニュアンスが多く
故に、ブランドとデザイナーの関係は”結婚”とまではいかず、がさつな表現をすれば、
”同棲”時代として始まったようだ。
 ではこの”水と油”的なるメゾン・エルメスとM.マルジェラの関係は
それぞれがどのような発端で誕生したのであろうか?
 マルタン側の証言、今回の展覧会の会場構成をディレクションしたアントワープの旧友、
Bob Verhelst*の証言。
 彼はM.M.M.の数少ない確か4人ほどで始まったオリジナルメンバーでもあった。
その彼が思い出して語ってくれたこと、
 「ある時、マルタンの夢をともに現実化したこのメゾンの社長であるマダム ジェニーと
マルタンの3人で食事をしていた時、マルタンがジェニーさんに、
”全てが完璧なるハイ・モードをデザインしてみたい。”
と熱く語り始めたという。そして、この話の後しばらくしてからジェニィーさんが
”エルメスから話が打診された”という知らせが来たと言う。」
Bob Verhelst*/ scenographer /http://www.fashioninantwerp.be/designer/bob-verhelst
 エルメス側の証言はもう一度、S.ヴァルニュェ氏、
「Jean-Louis Dumas前社長は、Claude Brouet(仏Elle誌とMarie-Claire誌の前編集長)を
相談役として、今後のエルメスについて多くのことを長い時間を掛けて話あっていました。
そして、以前はMartin Margielaのショーでモデリングもした経験がある
Dumas氏の娘、Sandrineとも話し合い、この二人がメゾン・エルメスには強力で
斬新なモード・スピリッツな視点を持って新たなエルメスに
熱きエネルギィイを注入できる才能として、
マルタン・マルジェラの名前を彼、ジャン=ルイに提言した。
 そのマルタンは職人技とデザインに対する概念的アプローチそして、
匿名のままにしたいというアルチザン的な欲求に焦点を絞っていたので、
このすべてが彼を完全な候補者にし、ジャン=ルイはこの彼の挑戦を愛し、
受けて現実となったのです。」
 結果、ジャン=ルイ・デュマ社長の主張であるマルタン雇用は、エルメスにその本質的な
根本主義を実証する機会を与えた。マルタンのアイデアは、個人的な裁量と、個人的な喜びに
根ざした”生活に根ざした贅沢”がコンセプトでした。
 パリ・エルメスの店でのデヴューコレクションは、カシミヤとディースキンと
ハイテク・シンセティックのレイヤーが特色。また、カシミア・ラップコートは
”ファッションレス・ファッション・ジャンパー”として特徴付けられファッション評論家は、
それを贅沢のルールの思慮深い放棄と賞賛した。そして、全体的な印象は、
エルメスとマルタンとの珍しい結婚が理にかなっていることが証明された。

 「なぜ今この展覧会なのか?」
 その一つは、「20年目」という記念。パリモードの世界では”20年周期”という言葉が
未だに信じられ、使われこれが”トレンド”の源流にもなっている。
 このアントワープMoMu美術館での今回の”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展も
このプロジェクトが今年で20年目という節目で行われている所以でもある。
 もう一つは、モードの世界も実ビジネスの現在状況は”ファスト・ファッション”によって
完全に征服されてしまっている。ラグジュアリィーブランドもショーピース以外の
ワンポイントもののビジネス形態はすでに、「SPA構造」によって賄われているのが
現実である。そんな現実において、このメゾン・エルメスは変わらず、
”クラフトマン・シップ”にこだわったヒューマニティ豊かなモノつくりに委ねている。
したがって、この「老舗精神」を時折、アッピールすること自体がメゾン文化と
アイデンティティを刷新するには総てであること。
すなわちフランス国の国策でもある、「文化は武器である」というラグジュアリィー・
コンセプトが強く継続されている 一端でもあり、
「この時代の、このデザインそのものが今では、また新しいものである」という
”時代とはリバーシブル”だという眼差しもある。
 そして、クリエーションの観点からでは、
[グローバリズム="SPA"=フアスト・ファッション=アイテム売り。]というこのような現実の
流れがファッションビジネスのそのものになってしまっているのが昨今である。
したがって、この"エルメスーマルタンプロジェクト"でクリエーションされ提案された
”着回しができる服”が今、一度新しさを持って、”モード”へ戻ってくる。
 このような時代になれば、マルタンが自身のブランド、M.M.M.で行ってきた
”脱構築”がより、ラグジュアリィーブランドを任された若手デザイナーに学習され、
この”エルメスーマルタン・ライン”がサンプリングされて、再来するのは当然である。
 現代のファッションクリエーションそのものに新しさがなくなり、
全てが”ブリコラージュドゥアーカイヴ”の手法になった現在では、
この「着回し」ができる服がこれからまた新しさを呼び始めるという
視点の時代性でもあるだろう。
 今の若いデザイナーや着る側の世代たちにとっては全く、未知なる、
”新しく、新鮮な気分”なのだから。

 「”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”での彼のクリエーションとは?」
 マルタンはメゾン・エルメスという王道の中で彼が挑戦したくなった、
”マルタン流これがラグジュアリィーの極め”であるための重要なこと、
大切にするべきとこは選ばれた素材の贅沢と色の贅沢そして、優雅な着こなしが
着た女性たちを快適にできることを、エルメスのアトリエの人たちと関わることによって
大いに深く学んだ結果がこのシリーズのクリエーションの根幹になっている。
したがって先述、ステファンが語ったように、
「エルメス自身よりもエルメスになったのです。」という言葉になるのだろう。
 ディレクターのカート・デボのインタビューは
始終、マルタンの残したエルメスコレクションを着る女性の眼差しでマルタンの凄さを語る。
 まず、前社長であるJ.L.デュマ氏が語ったという彼らたちの関係性のリスペクトしあった
1点は、「マルタンは確実に、クラフトマン・シップを理解している。もしかしたら、
自分たち以上にだ。」に現れていたという。
 そして、マルタンのこのブランドにかけた”創造のための発想”とは、
彼は自分たちがやってきた脱構築やビンテージから学んだものをより、コンセプトに
ロジックにエルメスコレクションに用いて、多くのアイディアを
イノベーションさせた結果だという。 そこでは、着る女性たちの個人的な枠組みと
そのためのフレームワークが大いなるコンセプトであり、
ディテールそのものは大切であるが、見た目だけのものではなく
彼のコンセプトはもっと深いところにあった。
それはデザインの全ての要素が着る女性のために考えられたもので、
女性の体つきをより、美しく見せるため、楽しみとして、あるいは遊びとしての
コーディネートがなされるまでに考えられ、これがトータル14シーズンのコレクションが
全て”ワードローブ”となるまでのコンセプトでもあった。
それは着る女性の身体をリスペクトした、女性のボディのためにどのようなコンセプトで
プレゼンテーションが可能か?というまでに着る女性のためが考えられたデザインであった。
 そして、これらの14シーズンのスポーティレジャーウエアーには3つのベーシックな
エレメント、タイムレス、カンファタブルそして、タクティリティが考えられている。
例えば、楽しんでいろいろな着回しができるようにデザインがなされているレインコート。
これは着た女性がどのように快適に着こなせるかが大切に考えられている。
基本的には、ナチュラルシルエットであり、アンコンストラクションな素材。
ノーショルダー、ノーネックそして、羽織るもの。
これらが着る女性を快適に心地よさを与えるデザインの根幹であり、
プリントを使わず、派手な色も用いず、アクセサリーも使わず、
しかも色は、白、黒、茶色とベージュに絞り、 女性を快適に心地よさを与える
ラグジュアリーファッションの着こなしとそのあり方を提案した。
 もう一方では使う素材の素晴らしさと素材の開発にも心を配った。
それはただ高級素材のカシミヤだけを使うのではない。
例えば、6種類のセーターも彼の素材へのラグジュアリィー感がデザインされている。
彼は、「糸は思い出を抱いている。」という。
カシミヤのように見せるシェトランドウール、実際のシェットランドは直接肌に着ると
痒いものそこで、また、フラネルのように見せるカシミヤやキャメルの扱い方など、
これらの素材の使い方とアイディアそのものが”ラグジュアリー”でした。
 また、マルタンは 今までのヴィジュアルなエルメスらしさとしての
カレやプリントや派手な色は決して使わず、ラグジュアリィーとは何かを
新たな切り口でディレクションをした。
ニューダイレクションとはこのようなリアルラグジュアリィであり、
マルタン以後、”ラグジュアリィーとは”どうディレクションすれば良いかを
決して、”ロゴ”だけを用いることがそれではないと世間は知ることになる先駆けでもあった。
これらに寄って、マルタンは 確かに、エルメスに何かをもたらし、革命を起こした。
一方、彼らたちのオリジナルブランド、M.M.M.で行って来たいわゆる、
「レトロアイディア」、インサイドアウトやパッチワークなどのアイディアそのものも
エルメスの例えば、ムートンジャケットなどにも使いまわした。
 また、マルタンは自分たちのエルメスを誰に、どのような女性に来てもらいたいかまでを
熟知していた。
 今回の展覧会のための服はほとんどがエルメスが持っているアーカイヴであり、
足らないものは個人的な人たちから集めた。マルタンはこれらのアーカイヴは持っていない。
しかし、彼のチームの女性たちは当然このコレクションに大いなる興味を持って色々な
アイディアを提言してまとめられて作られたという。
 例えば、彼のコオトはノーボタンであり、ノーポケットである。
多くのものを取り去ってミニマムなところでの身体と服の関係性をも追求した。
ここで、マルタンは日本の着物を学び 通じてその哲学的で静的なシルエットを見つける。
これは着る女性の身体とのヴォリュームのバランスであり、多くを日本から学んだ。
着物は肩骨と腰骨、骨で着る平面構成の衣類であり、
洋服は肉、バストとヒップで着る3D.もの。したがってパターンメイキングが必要である。
また、マルタンのオリジナルラインには肩をポイントとした一群のデザインがある。
ショルダーの変化をパーツ化し、それぞれのアイテムを生み出したが、
このアイディアもエルメスで使われた。
肩とそこに掛ける上質な素材によって生まれる生地の流れ、
そのシルエットはゆったりとした快適さを生む。
これは着こなしの変化が着る女性の気分の変化へ通じ結果的には
シンプルな穏やかさを与える服になるという。
ここにはクラフトマンシップと人間工学的な組み合わせによる
女性のためのデザインが考えられていた。
 マルタンのデザインとは90年代のコンセプトが強いデザインであるが,
そのコンセプトが”ジェンダー”というロジックでどのような女性たちの日常性にどのように、
最終的には女性たちがそれぞれ持っている個性とそのパーソナリティへ,
”MAY I HELP YOU?”です。
 そして、タイムレス・デザイン、時代を超越できるデザインが理想だという。
 Jean-Louis Dumas氏はマルタンが「アルチザンシップ、テーラリングそして、
クラフトマンシップを熟知していて、どのようなものがよく売れるものなのかも知っている。
この結果、エルメスへ ”新しいさ”をもたらした。
そして、僕たち以上にヘルメスを知ってしまった。」と彼をリスペクトし、賛美していた。
文責/平川武治:
3月10日/Antwerp MoMuにて、Kaat Deboとインタヴュー。
(この原稿は日経新聞 日曜版執筆原稿のためのエスキース原稿です。)


 



投稿者 : editor | 2017年5月10日 22:24 | comment and transrate this entry (0)

2017年1月28日

Paris Haute Couture Fashion Week/中里唯馬コレクション;

Paris Haute Couture Fashion Week/
 Yuma Nakasato;
 「愉しみにしていた。」 
このクチュリエの先シーズンに引き続いて、第2回目のパリ・オートクチュールコレクションウイークでのデフィレである。
 巴里の”モードの大黒柱”であるクチュールコレクションに参加する或いは、出来得る日本人デザイナーは数が少ない。プレタポルテのデザイナーは自分たちがその掛かる資金を準備すればなんとかなる世界である。だが、この街の”モードの懐”はそんなに実際は広くない。特に、”クチュール”の世界は別世界であった。例えば、なんでもそうであるが”2nd.ライン”はそれなりのその立場での役割がある。この構造をそのまま、ビジネスにもしてしまっているのがこの街の”モードの世界”そのものでもある。クチュールに対するセカンドラインとしてのプレタポルテ。
 だから少し、以前まではこの街のモードの人たちもこのクチュールの世界とそのテリトリィーを頑なに堅持してきたがやはり、時代が”変革”したために、そのガードが緩み始めた。
 例えば、この街に僕の好きなカルチェェ、”サンマルタン運河”がある。これを最近のモードの世界に委ねてみよう。それは運河に新しい流れを作ることでその水面のレベルが上昇して船の川上への運行が可能になるという迄の構造手法によってすでに16世紀にはこの街で作られていたという。この手法が最近のモード組合(サンディカ)の戦略として読める。当然であるが、まだ古い手法としての「金次第」というのも残っているが。
 従って、この街のクチュリエたちとその周辺たちを刺激する迄の「あたらしい自由」によっての、「新しさ」を創造できる若いクリエーターたちがウエルカムされる構造になり始めた。
例えば、もう一方で評判が高まってきたオランダ人、IRS VAN H.嬢もその一人である。因みに、彼女は合衆国の3Dプリンターメーカーの企業力によって現在の立ち居場所が生まれた。

 「継続することもクリエーション。」
だから、唯馬君がこのクチュールコレクションを継続することそのものがまず、創造の世界につながる素晴らしいさである。
 多くのこの街に住んでいる?日本人の若い人たちが集まってきて見ていたが、彼らたちはまず巴里でこのコレクションが継続できることの大変さ。そして、それ自体の産業構造自体に対して無知であろう。このレベルは日本から取材に訪れているジャーナリストたちもほとんど勉強していないだろう。ただ、日本人がやるというレベルの次元で見にきている人たちが大半であった。  
 これが、僕が言う、そもそもの”壁紙”の始まりである。表層の変化のみを追っかけるが、「壁紙」の裏には「構造体」があり、”壁紙”は構造体の上に貼られるもの。
 継続させること自体に”創造性”がないとこの街ではすぐに外される。
ただ続けるには「金次第」の世界がすぐに”お手伝いしましょう”と、どこからか寄り集まってくる。

 「全てに、よく頑張った。」
 前回は僕が浅はかに見間違えてしまったので今回はどれだけ”進化”させたのかあるいは、”エボリュート”させたのか?それを感じ、見れることが楽しみだった。
 しかし、デフィレだけは又もや、どのように今回の彼の世界観がエボリュートされたのかほとんど不明である。暗闇の中から浮かび上がる全体の佇まいが美しすぎるからだ。
 翌日、展示会へ行ってまたもや、話を伺う。
確実に基本となる”エレメント”が幾つか増えている。そのために、それぞれを結合させるためのいわゆる”結界”部分を構造化する”部品”も新たに作られている。このパーツの開発によって確実に彼の”レゴ”の組み合わせにバリエーションと構築性が生まれた。ということはこの彼のアイディアと創造により、幅と深みと変化が出せるまでにエボリュートさせたのが今シーズンであった。
 やはり、彼は”レゴ・ジェネレーション”だ。そして、彼が創り出す世界とは「数学」の世界から生み出される。それぞれの”エレメント”が”数字”である。”エレメント”を並べ替えるだけでそのヴァリエーションは”無数”という世界である。

 「キャスティングが良かった。」
もう一つ、僕が彼の「あたらしい自由」さを感じ取ったことの一つに、今回のキャスティングがあった。このような時代性になると、モデルのキャスティングは大事であり、彼女たちによってコレクションの世界観までもが伝わるからだ。ただ美しいだけ、が大半を占めすキャスティング。唯馬君はここから遠ざかって、自分の”世界観”をその「あたらしい自由」さでまとめた。
彼のキャスティングにおいても”ジェンダー・ミックス”がなされていた。
 「あたらしい酒はあたらしい革袋に」のコンセプトがここにも使われていた。
あたらしい手法による新たなモードを平凡な、当たり前の”美しいさ”に着てもらうのではなく、”あたらしい女性”(ジェンダーミックス)に委ねたことが僕にはとても、新鮮に感じられた。
 ここで彼の今回の作品からは数年前にも好きで訪れた、ヴィエナの美術館の薄暗い一室に飾られていたG.クリムトの1枚のタブローをその色彩の美しさからイマジネーションした。
 次回も楽しみにさせてください。
ありがとう、唯馬君。

 前回の彼についてのブログです。
参照/http://lepli.org/discipline/articles/2016/09/post_160.html

投稿者 : editor | 2017年1月28日 23:03 | comment and transrate this entry (0)

2017年1月23日

速報/#Paris Fashion Week Homme-6/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 22日//JULIAN DAVIED;
 このブランドコレクションにも「アンビギュティな性」が描かれていた。
「性」に教戒があるとすれば、現代社会のようにその「性」に「真実ぽっさ」を委ねると、
”世間”はどのような様を見せるのであろうか?

 その時代のモードにおけるオリジナル”アイコン”で在った創られたマダムCOCO−シャネルの
存在とその後の立ち居場所も考慮すると、女性モード史における「アイコン/ミューズたち」の
そのほとんどが、彼女たちの”生き方”、それぞれの時代に「あたらしい自由さ」を持ってその
時代の社会に堂々と生きる女性たちであった。
 このシナリオは戦後も続く。また新たな戦後という時代に平和が訪れてき始めた’67年頃には
あのYSLが自分たちの立ち居場所に対峙するターゲットとして、「あたらしい自由」を持って生き抜こうとしている女性たちから自分たちの好みにあったミューズを探し出し、彼女たちをその「あたらしい時代」の”アイコン”に仕立て上げてきた。これがこの街のモードの一種の戦略的
手法であり、シナリオだった。

 ここで、それぞれの時代の女性たちが時代に対して持ち得た「あたらしい自由」とは何だったのか?を改めて考える。
 ”ウーマン・レボリューション”に始まって、”フェミニズム”へ発展しそして、”ジェンダー”論
までへも駆け上って、”ポスト・ジェンダー”へ至ってきたのが戦後の女性の新しい生き方の
全てであった。この表層はどのように社会に関わるか?どのような生き方を行なって子供を育てるか?そして、伴侶の人と家庭を守ってゆくか?これらのための価値観であり、具体的な方法としての生き方でありそして、そのための努力であった。
 が、そんな彼女たちのもう一つの「あたらしい自由」は「性」へも当然向けられた。
その解り易い現実は女性たちにも”同性愛者”というゾーンが生まれ始める。
ここでも根幹は人間世界は「男」と「女」だけの性差の世界であったはずが、「もう一つの性」が誕生したことである。
 しかし、表層はあらたな新しさを生み出すが、現実と現存の”世間”における「男」と「女」の間にもこの「あたらしい自由」は染み込み始め、従来からの”関係性”にも色々な影響が生まれ始め、それらが及ぼす表層は”離婚”や”家庭崩壊””片親家族”などの現実をクラッチし始め、生み出す”関係性”に対してのこゝろの不安や不信と不誠実などが生む”ストレス”を多く被るまでの社会性にもなった。
 僕が言いたいのは従来の古い”世間”を維持してきた宗教モラルに依って構築され一つの価値観にまでなってしまった”性モラル”がここにきて彼女たちや彼らたちの「あたらしい自由」に依って変革し始めているという見方である。
 この表層に、2004年に語り始められた、「ポリアモリー」がある。
しかし、この「ポリアモリー」の立ち居場所の現在は肩身の狭い状況に置かれてしまっている。”世間”の古い性モラルから大いにヘイトされ、”同性愛者”たちからもその一線を引かれてしまった立ち居場所のようである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%83%BC
 「あたらしい自由」を”性モラル”の中へ持ち込んだことによってその”関係性”が大きく揺れたのだろうか?この「ポリアモリー」も実は「真実っぽさ」の中で産み落とされてしっまた「新しさ」なのだろう。

 JULIANのコレクションは好きである。
東京のストリートを彼のたち居場所とそこからの眼差しで気持ちのいい”距離感”を持ってその世界を僕たちに見せてくれていたからである。彼のリアリティが持ち得たネイション・アイデンティティからの"差異”がセンス良く細やかさとともに爽やかにまとめられた上質なコレクションだからだった。それに、彼が”オプション”する素材は時代感を触れさしてくれるまでの日本素材が多いことも気に入っていた理由だった。
 その多くは変わらないであろうが、ここ数シーズン来この”差異感”が少し変化したように感じる。外国人が長く異国に住むと経験する”距離感”は変わらないが、それに対する”差異感”は変化し始める。多分、自心の中に存在している”ネイション・アイデンティティ”が蠢き、より働きかけ始まるのだろう。これは僕のようなものがこの巴里へ来だして、住みだしてそこで現れた変化でもある。
 彼のコレクションで言えばやはり、ウイメンズへの彼が持っていた”差異感”が変わった。
ということは彼の「女性観」が成長したのだろう。ここに彼の”リアリティ”も関係しているだろう。

 このメンズコレクションでは、1993年には日本でも公開された映画、「Empire of the Sun/太陽の帝国」をなぜか思い出した。
 原作がJ.G.バラード、監督がS.スティルバーグ。音楽がJ.ウイリアムスという豪華な顔ぶれによって制作されたいい映画だった。僕の好きなJ.マルコヴィッチが変わらぬうまい演技をして少年を助けていた。上海に残されてしまったイギリス人戦争孤児の少年とアメリカ兵が出会ってめばえる友情物語だったように記憶している。元”キッドブラザース”の男優だったロンドン時代の友人も出ていたので記憶していた。
 廃棄になった戦闘機を遊び場所にして、そこに残された落下傘や帽子や制服という帝国軍国
主義の象徴が残骸化されてコード化され、少年たちの”あたらしい自由”のための遊び道具になって登場したからであろうか?
 コレクションのトータルな視点はやはり、今シーズンのキーワードである「ゆるさ」でまとめられた、現代の若者たちの”ストリート・ユニフォーム”+”ヘビィー・ドゥティー”の足し算のデザイン。そこへ、”山岳スポーツ”を足元でアクセントに加える。
 
 この”ゆるさ””と”アンビギュティな性”いうクオリティに委ねられた”GENDER MIX"。
JULIANが手がけたコレクションから感じた心優しい熟しがこの映画を僕に久し振りに思い出させてくれた。
 ありがとう。
文責/平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2017年1月23日 21:26 | comment and transrate this entry (0)

2017年1月22日

速報/#Paris Fashion Week Homme-5/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 21日//White Mountaineering ;
 噂に聞いていたブランドをパリで初めて見せていただく。
始めに、プロ意識を強く感じた。それは全てに、”プロ”であることとは確りとした”プロダクト”によってちゃんとした”ガーメント”になっていることである。

 大半の若いデザイナーがこの街へやってくるとき、自分たちが持ち得た”夢”への挑戦であり、その結果が”自己満”になってしまうことが多い。
 自分たちの”リスクとコスト”でこの街にやって来てそれが”継続”される可能性は非常に難しい。それなりに日本で儲けてこなければ出来得ない現実であるので、器用に”他人の褌”をかき集めて”カッコつけに”来るデザイナーが増えた。そんな連中は、ほとんどが僕が言うところの
”壁紙デザイナー”であり、コレクションも”スタイリング”コレクションに偏っている。
したがって、見せかけのデザインが多く、ガーメントとプライスが合わない。そこで、アルバイトをして資金をかき集めてとりあえずは自分の”夢”=”自己満”のレベルで”パリ・コレ参加”をプロパガンダする。そうしたら、自分も一端のデザイナーになった気分で、わずかな経験とその周辺から聞こえてくる業界話を語ってしまい、余計に”カッコつける”。この大いなる勘違いをさせるのが、雑誌メディアや今では素人に近いブロガーたちがこのレベルをインタヴューと称して聞いてしまう、この悪影響でしかない。この手の連中は”小さな嘘”を平気でつくことからファッション業界人になってゆく。これを始めると、彼らたちのその後の人生は”小さな嘘”の”上塗り”人生となる。
 この手の連中は、アンデルセンの「裸の王様」をどのように読み込むか?理解していないであろう。あるいは、ちゃんと読んでないかもしれない。
 30年以上もこの街のコレクションを見続けてきた僕の経験からの判断ははっきりしている。
このような「豚もおだてりゃ、木に登る」のデザイナーさんが変わらず、この街へやって来ている。

 このブランドの”プロ”さとは、”プロ”感とは?
当たり前であるが、冒頭にも言ったが、ちゃんとした”商品”をデザインして製品にしていること。デザインとはアートではなく、産業製品であり、それがそれ相当の機能を持ち、そのための素材選びが為されていて、その上での後加工とディーテールデザインがあり結果、ブランドとしての”世界観”を生み出していることである。”世界観”とはそのデザイナーとそのチームが持ち得た「文化度」である。この「文化度」は、スキルであり、経験であり教養でありそして、技術で構成されたものと、持ち得た”美意識”によって齎されるものである。ここから”商品”としてのクオリティが生まれ、商品としての”テイスト”がつけられるまでの結果を僕は”プロ”という。
 ショーで見たこのブランドの”商品”は、選ばれた”色”にハーモニィーがあり、そこへ加えられた柄やプリントにポジティフな神経が施され、選ばれた素材は冷静に吟味され、着る人へ優しさを与える心使いを感じるものであり、それらをどのように使ってやれば美しいシルエットが生まれ、それらをどのようなアイテムに落とし込んでやればそれらの素材が”成仏”し、どのようなコーディネートを提案してあげると着る人にその”商品”の雰囲気が与えられるか?ここまでを考えて心使って細部にまで凝ったデザインが為されている、だから”プロ”だと言い切れるのだ。

 ”プロテクション・カジュアル”と呼ぼう。
かなり、コアなる”プロテクション”がデザインなされている。これらはそれぞれの機能性を持ったパーツとしてデザインされてもいる。堂々としている。不安げなおどおどさはない。なので、”クール”なのだ!!
 このブランドの”プロ”さは僕にとっては戦国武将たちの”甲冑”を思い浮かべた。
着る武将たちの身分と位を表し、そのための素材を使いこなし、装飾されそして、身を守る機能を備えたものが”甲冑”である。
 現代日本社会の「安心のファッシズム」の中でこそ、このような”プロ”意識深い服を着込むこと、そのものが多分、着る若い人たちにとってのアイデンティティを生み与えるのだろう。
 ”プロ”とは”職人肌”がその身上でもある。
文責/ 平川武治;巴里11区:

投稿者 : editor | 2017年1月22日 07:47 | comment and transrate this entry (0)

2017年1月21日

速報/#Paris Fashion Week Homme-4/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 20日//CdG H.P.
 今シーズンのトレンド・コンセプトの一つに”ジェンダー・ミックス”がある。
アンビギューティなテーマだ。これそのものが”Truthiness"であり、現代の時代感を捉えた
シーズンコンセプトであり、今年の僕の新年のグリーティングに作った言葉、
「The world is the wall-paper that looks like a truthiness.」でもある。
 我らが世界へ誇る”ファッション・クリエーター”としてのCdGのデザイナー川久保玲はこの
テーマにこゝろ寄せそして、謳いあげた。
 果たして、ファッションゲットーの人たちにはその”真実っぽさ”だけでいいがだが、
どれだけのファッショングルーピーたちには共鳴しただろうか?

 証言その1、
 彼女が銀座のDSMに使っている彼女のアート・コレクション、”シンディーシャーマン”の写真が一つのコード化されておぼっちゃまたちの頭にのっかている。むしろ、彼らたちの脳みそは
”シンディー”と同じなのですよと言わんばかりに。
 2年ほど前に、僕はベルリンのギャラリィーでの”シンディー・シャーマン”展を訪れた。
新旧取り混ざったキューレーションの展覧会であったが、彼女がどのような写真に対する距離感からこの世界へ入ってきたかが判明した1枚を見たのが面白かった。それとは彼女自身の”ヴァギナ”を撮ったものである。
 この写真家も”自己顕示欲”が正常ではないレベルのフェロモンを持ち、放っている人間であり
女である。”世間”でアーチストと呼ばれている”女性芸術家”には不思議ではない性格と人格であり、そのほとんどが”アーチスト”願望と自己顕示欲が重なったタイプである。例えば、年老いて帰国後、有名芸術家になってしまったY.草間も然りである。ここに、生きることへの自分が出し得る”執着心”と”ガンバリ”の全てを読む。
 ここで僕が認識したこととは、彼女と写真に対する距離感、アーチストと作品の距離感である。

 証言ー2、
 僕はダイアン・アーヴァスの写真が好きだった。
1945年、彼女が身ごもった折にセルフポートレートを撮ったのが始まりで彼女は”写真”の世界に魅せられて、自分が居るべき世界であると信じ込んで1971年、自ら自宅バスタブで手首を切って自殺するまでの26年間をその多くはフリークスたちを撮り続けた。
 彼女は’20年代のN.Y.で毛皮商人から財を成した裕福なロシア系ユダヤ人の娘で18歳には
すでに結婚した。そして、自らが身ごもったその姿を鏡て見てしまったことから以前から興味を持っていた写真を自分でも写真機を持って街を徘徊し、見慣れない、見たくない、見れない人たちの存在と自分の距離感を友人のエスクワイー誌の編集者からプレスパスを借りて撮りまくった。当時では、家が裕福であることで可能な職業の一つ、”写真家”になり、いいカメラ機材をいつも新機種が出るたびに購入し、湯水のようにフィルムを使って自分の好奇心に触れる人たちを撮りまくっていた。その写すという彼女の根幹はかなり屈折していた。
 そんな彼女があるところへ招待されたことによってその2週間後にはN.Y.の自宅のバスタブで手首を切って自殺した。

 3年ほど前にこのパリの美術館で久しぶりに大規模のD.アーヴァスの展覧会を見た。
この写真家には全てに恵まれた生による、”自己愛からの醜さへの逃避”という”覗き見的”な距離感を彼女の写真から感じている。しかし、その撮り方は不躾さが感じられる被写体をいつも正面から強いストロボを使ってライティングするというかなりの自己欲求の冷酷な演出によって写されていた。
 そんな性格の彼女が以前、いつもの好奇心からニュージャージーの養護施設を訪れて作品を残していた。師匠であった、R.モデルからは良い批評が得られなかった作品でしたが、彼女の作品群ではいいポジションを占めたものになっている。
 そして、彼女はかつて訪れたこの養護施設から慈善バザーの招待を受けて再度訪れます。
ここで本当に”笑顔”がどれだけ幸せを表現するか?養護施設という”世間”の中に入って知った
初めての”笑顔”。この養護施設という”世間”の幼子たちの屈託のない、自由な心から生まれる美しい”笑顔”とその”生”の無垢さを知ってしまったことによって、ダイアンは自分の今までとは何を撮っていたのだっただろうか?フリークスを撮る”覗き見的な根幹とそれとは裏腹に、被写体が自分をどのように見ているか?までの自己意識との距離感で撮っていたことに気づき、思い知り
そして、持病の鬱と重なり苦悩の末、その2週間後に自殺を行なった。

 川久保玲はこのダイアン・アーヴァスにも大いなる影響を受けまた、彼女自身の育ちの中にも自分を重ねて見ていることによってのコレクションを例えば、飽くなき”黒”という素材や”ツインズ”を使うことなどの過去に幾つかあった。

 証言ー3、
 「彼女自身、”ジェンダー”とはをどれほど熟知しているのだろうか?」
自分自身の生き方が”ジェンダーフリー”だと思っているのだろうか?あるいは、思わせてしまっているのだろうか?または、思わされてしまっているのだろうか?
 今回のコレクションでは彼女自身がかなり欲求不満な眼差しを持ってコレクションを構築してしまったと感じた。
ここでは、僕は昔から彼女が手掛けた”オムプリュス特有のバランス感”がある時から消えてしまったことも思い出してしまった。今回そのバランス感をジャケットとパンツで出そうと試みているのだが、元には戻れていない。いや、戻らなかった。以前の、肩幅がゆったり目で、着丈が短いプリュス特有のかつての優しいオムプリュスのバランスが見られない。
 それを出したかったのだろうが、ここでは彼女のリアリティから生まれているはずの”ジェンダー”が感じられない。あるいは、彼女の実際の生は“ジェンダー”とは対峙したところにその根幹があったのではないか?あるいは、そうでありたいという思いからの生き方だったのか?
 それがあのバランス感になり、あの美しいタッグ・プリーツになり、コーディネートによる
”ジェンダー・ミックス”なのだろうか?それらは、余りにも「真実っぽい」だけである。
 美しいさに憧れるこゝろの有り様と、それを拒否するこゝろの有り様の対比によって生まれたとしか言いようも無い、背負い込んでしまった、フエルト(?)によるビーズ細工と”機関車”
と”自動車”。そして、シューズ。
 「シンディ、どうして機関車を車を背負ってしまったの?」トーマスは聞いただろうか?
ここにも川久保玲流の、一つのメタファーとしての”ジェンダー・ミックス”がコード化されていたのでしょうか?
 ここに彼女の「あたらしい自由」を感じ取るべきなのでしょうね。
きっと、展示会へ伺えば、思い切り着たくなるアイテムがちゃんと準備されているシーズンでしょうね。
文責/ 平川武治;巴里11区:
 


 

投稿者 : editor | 2017年1月21日 18:20 | comment and transrate this entry (0)

速報/#Paris Fashion Week Homme-3/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 20日//JUNYA-MAN:
 僕の小さな頃は少し郊外へ自転車で出るとまだ、小川があった。
その小川が本流と合流するところが面白くここに集まってくるただ浮かんだもの、浮かびながら彷徨っているもの、今にも沈みそうなもの、これら達をただ眺めているだけにたくさんの時間と雲とともに遊んだことを思い出した。
 なぜ、JUNYAのコレクションを見せて頂きながらこんなことを考えてしまったか?
ここに共通することは”浮遊物”あるいは、”ゴミ”である。
 僕の昭和30年代の思い出であるから60年も昔の記憶でしかない。
今、目前に次から次えと青年達が着せられてしまった今シーズンのコレクションを見ていると
乗ってしまった流れには逆らえない。ただ流されないように流れるだけだ。これは言葉にすると
簡単なようで実際には難しい。多分、その乗ってしまった流れから逸脱するにはまず、”自心の新しい自由”がそして、覚悟とコストと必要であろう。

 近年、”コラボ”というプロダクト手法が習慣になってしまた時代性がある。これは”デザイン手法”ではない。飽く迄も、合理性を元にした”プロダクト手法”でしかない。
 「”オリジナル”で生まれたモノ。それが”模倣”され始めその後には”習慣”になってしまう。」
これは僕の好きなG.ガルドが1911年に書いた「模倣の法則」から学んだことで、ファッションの世界の人間にはより、具体的に理解できることだろう。
 たしか、このブランドがウイメンズでこの処方”コラボレーション”を本格的に行った記憶がある。以後、世界レベルで可能なる世界のブランドは”習慣”になってしまった。
プロダクトにおける技術とスキルと情報と販路の共有化ビジネスである。
日本人ブランドだけのパワーでは不可能である。これも、いわゆる、ユダヤコミニティの関係性と「グローバリズム」の恩恵である。しかし、この発端を考えて行ったのは僕たちの「横丁のブランド」出身のUNDER COVERだったはずだ。
 
 さて、思い出を本流に戻そう。
その1、「流れに乗ってしまった以上、流れは変えられないのか?」
ここまで、”コラボ”におけるビジネスの”安全パイ”を考慮してのデザインディレクションは
少し、食傷気味になってしまったようだ。彼が乗ってしまったこの流れはこのデザイナー本人にとってハッピーなのだろうか? 自心の自由さが歓喜してのデザイン行為なのだろうか?
 彼のコレクションからこのデザイナー本人が見えてこないのである。すなわち、彼の真実であるリアリティが見えず、”真実っぽさ”が流されているだけと言う十数分。
 ここにも僕は「安心のファッシズム」を見てしまったようなのだ。
 その2、「昨日、書いたことが当たった。」そして、驚いた。
戦後、日本のメンズファッションのルーツであり、この企業のメンズラインの根幹でもある 
”VAN"がアメリカンスポーティ・カジュアルウエアーのメモリアルコードとして登場した。
 コレクションの中身は、「アメリカンスポーティ・カジュアルウエアー+ヘビィードウティ=RAP+SNOWBOARD=BLACK+WHITE」と読めるマーチャンダイジングの考えられた公式。
 ここでは、これほどまでに進化した(?)メンズファッションに与えられた名誉としてのコード「VAN」であろうか?あるいは、オリジナル回帰への”銘板”あるいは、沈みそうで、沈まないレッテル付きの”ゴミ”のようなものなのだろうか?
 その3、「流されてくる”重いゴミ”はこれからどこへ辿り着くのだろうか?途中で沈んでしまうのだろうか?誰かが掬い上げるのだろうか?」
 ショーの後半からはこれらのコラボ商品が重く感じられてきた。それなりの重素材とレザーが組み合わされたミックス・マテリアル、今シーズン売れっ子の”スタジャン”もある。多分、”ゴミ”と化した時には相当重たい”ゴミ”であろう。
 いつの時代かに、「もうゴミを出すことは考えない、なるべき出さないように!」と言う時代性の”壁紙”が一斉を風靡したこともあった。企業倫理が問われ、労働時間や問われる昨今当然、「出した”ゴミ”は自分たちで持って帰りましょう。」と小学校の低学年で教え込まれる。
それが、大人社会になると忘れられてしまう。いや、「都合の悪いことは”忘れる”ことで儲かるんだよ」。この響きは戦後荒廃した焼土の”世間”にはよく耳にした言葉であった。
 ここに日本人が大好きな「星の王子さま」の一文を思い出そう。
「かつて、子供だった頃を思っている大人は少ない。」

 ということで、僕のこのショーを見させていただき「かつて、子供だったことを思い出しました。」ありがとうございました。

 Junyaが大好きなファッションピープルにはこのブランドらしさが満載のコレクション。
新たなコラボメーカーも加わり、リーヴァイスデニムの新しさもあっの”RAP+SNOWBOARD"。これをどのように街で、横丁で着こなすか?メディアの煽り方も楽しみ。
文責/平川武治;巴里11区:

 
 

投稿者 : editor | 2017年1月21日 17:52 | comment and transrate this entry (0)

2017年1月20日

速報/#Paris Fashion Week Homme-2/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 19日//KOLOR :
 久しぶりに見せて頂いた。このブランドは当然だが、メンズがいい。
このブランドの世界観がすでに確率しているからだ。
 以前は、「もう、ウイメンズは止したほうがいい、勿体無い。」と直接、彼に不躾に提言したこともあった。が、辞めないで今日も見せて頂いた。
 こうして一つのショーの中で見るウイメンズはそのデザインポリシーとコンテンツにメンズとの連続性が見られ、展示会で見るウイメンズだけの時よりは”Kolor"らしさに理屈がつけられ、
まとめられていたので少し、安心した。当然であろう、メンズよりも気を使って細かなところまでオトコこゝろでデザインされているからだ。このデザイナーが女性を見るときにそのオトコ目線が何処から始まるかが、分かりやすいデザインが為されているという意味でもある。
 僕が感じるのは、このブランドのデザイン・コンテンツは正に、「This is the Tokyo-Design」そのものであり、そして、20数年、変わらないことが誠実でもある。
 素材の吟味から始まって、オリジナル素材のミックス・メディア化。それを如何に”料理”するかがこのブランドの巧さであり絶妙なバランス感と、器用さのブリコラージュ。
そして、”the Tokyo-Design”の極上とはパッチワークや裏使いの感覚の良さと、「ちょっとしたディーテールあるいは、ワンポイント・デザイン」のセンスの巧さとオマケ感覚であろう。
この”ちょっとしたディーテール”の巧さは日本人ブランドの巧さにもなっていて海外バイヤーたちが喜ぶ、”ウリ”に直接つながるデザインポイントである。
 この機会に「This is the Tokyo-Design」とはを考えてみると、
戦後日本のメンズファッションの根幹は、「アイビー」から始まる、ブランドではご存知であろうあの「VAN」でしかない。従って、「This is the Tokyo-Design」の根幹がここにある。
そして、日本発のメンズファッションのオリジナルマップとは、テーラードのスーチングか、「VAN」のアメリカンスポーツカジュアルか、古着屋御用達、ファッションDJの登場による
「横丁のカジュアル」すなわち「ストリートカジュアル」へと、この3部構成のミルフィーユ構造で出来上がってきた歴史がある。そこへ、パリ・コレ情報とそのデザインの影響が具体的に加わり、”ゲイ御用達”デザインが進化し始めたのが’90年台半ばから。これは”コムデギャルソンH.P.”をロンドン・クルーがディレクションし始めた時期と重なっている。例えば、それまでの川久保玲の”CdG Hオム”のその育ちは「VAN」であり、これを引き継いで進化系になったのが
”CdG.H.P."。ゆえに、ある意味で、元祖「TOKYO-IVY」ブランドであった。ここがY.Y.P.Hとの違いであり、"JUNYA-MAN"との違いでもある。
 因みに、”Y.Y.P.H"は懐かしくなってしまった日本のメンズ・ファッションの黎明期を構成した「TD6」時代の菊池武夫や松田光弘から遠く離れた自己顕示な「前衛」が根幹。
そして、"JUNYA-MAN"のこの企業内での棲み分けは、”ストリートカジュアル+ヘビーデゥーティ”に委ねているはずだ。
 なぜ、このような事を言うかと言えば、このデザイナー、阿部くんのキャリアの根幹がここに存在したからである。そして、彼の独立後のキャリア(PPCM)もこのカテゴリィーから始まり現在のKolorに至っていることが”This is the Tokyo-Design”と呼ぶに由来している僕の根拠である。
 視点をKOLORコレクションに戻そう。
今シーズンのコレクションに感じる、この”ゆるさ”がなんとも絶妙の”ゆるさ”加減。スーチングも無く、フード付きも無い”ゆるさ”そして、全編、”ファー付きパッチワークサンダル”。
 これが出来るようになったこのブランドの巧さと強かさに拍手。ここには経験と自信の裏付けがある。それにやはりメンズではより、パターンメイキングの上手さが表層の構築感を出す。
この時にこの”ゆるみ”感はより、パターンメイキングと素材のオプションとのコンビネーションでしか生まれないからだ。ショー後、バックステージに行って実際にサンプルを触ってみる。
僕が好きだった、ライトグレーのワークスからインスパイアーされて出来上がったセット・アップ。この素材も見た目はフランネルかと思ったが触ってみるとより、腰のある織りのいい素材で
料理されたもの。裏地のこなし方、ヘムの”ゆるみ”の出汁加減。パンツの”ちょっとしたディーテール”であるステッチ装飾等など、ありがとうがざいました。
 そして、このメゾンでも”ネクタイ”が現れなかった。
この”ゆるさ”感と”ノーネクタイ”が「安心のファッシズム」という時代性のアイローニなのだろうか?あるいは、”ユニフォーム”なのだろうか???
文責/ 平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2017年1月20日 05:26 | comment and transrate this entry (0)

2017年1月18日

速報/#Paris Fashion Week Homme-1/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 18日//FACETASM:
 「若さゆえ」という言葉がこの街にもあったことを思い出した。
この街の人間よりも日本人の方に知られていたあのJ.コクトーの作品に「アンファン テリブル」という小説があったことを思い出した。
 「若さゆえ」とは、迸るエネルギィイがあり、生意気さがある。それに、未熟さがある。
だがもう一つ、無知さもある。
 今朝のこのブランドのデフィレを見て感じた言葉がこの言葉だった。
”分量”というトレンドを意識しすぎた、”オーバー・コーディ”なショー。
 その反面、後ろでディレクションしている本人の不安げさと落ち着きのなさ、
そこから生まれる”おどおどさ”が感じ取れるまでのショーだった。
決して、肝が座って作られたものではない。
 「若さゆえ」、廻りを気にし、いい顔をしたい、させたいためにまとめられた、カッコつけて頑張った”東京ストリート ブリコラージュ”な壁紙だった。なので、音で助かっていた。
 しかし、時折その姿を現すウイメンズはいい。まるで、性格も、イマジネーションもが対峙するユニット・ブランドである。
 デザインすることの巧さは確実にこのウイメンズ・ラインには存在している。
それに女性特有の思い切りの良さが伺える、その良さが着る女性たちを”若さゆえ”心地よく感じさせるまでの大胆なデザインとコーディネートに落とされ着る女性に委ねられている。
 したがって、確実の”彼女”が手がけるウイメンズの方が才能を伺わせているし、実際にあるユニット・ブランドだ。
 例えば、学校でちゃんと勉強をしてこなかったものと、学ぶための時代には確りと学んできたものとの差異あるいは歪みがここに現れている。
 例えば、このブランドのデフィレからウイメンズ・デザインを抜いてしまうとまるで、
朝の繁華街、厚化粧がゆえに剥がれかかっているただ、大きいポスターすなわち、「壁紙」が「安心のファッシズム」の中で周りをキョロキョロ手揉みしているだけのイメージ。 
 その結果、オムに関しては”分量”を何のために意識したのか?見せられたコーディート群は「隠しききれなかった自我あるいはアイデンティティー」若しくは、「思い切り委ねたいエゴシエーションあるいは甘え」でしかなかった。
 それともう一つ大事なところは、オムの”分量のコーディ”はただ、”重さのブリコラージュ”でしかなく、ウイメンズではこれらとともに、”軽さのブリコラージュ”も使う異素材感によって
バランス良くなされていた。この大胆さによって形作られた服には東京的な色気を生み出している。ここに僕は彼女のデザイン力を褒めるのです。
 彼が”good morning"で書いているように”定義なんか存在しないのだから”という嘗ての
マイルド・ヤンキーの「若さゆえ」の無知なる開き直り、なんでも有りでショウー。

 嘗てのマイルド・ヤンキーたちの多くの今は、パラサイトし既に、姿を消してしまった。
そして今や、「マイルド・ヤンキー ニュー・ファミリィー」たちのご登場ですからね!!

 そうそう、彼はJ.コクトーの「アンファン テリブル」を読んだのだろうか?
文責/平川武治:1月18日、巴里11区:

投稿者 : editor | 2017年1月18日 21:33 | comment and transrate this entry (0)

2016年12月30日

”今、ファッションが人に与える「HAPPINESS(幸福感)」とは何だろうか?”

 2017-シリーズー1/"However this ends, that's where we begin."  
「ファッションと幸せ感」、このような時代、”今、ファッションが人に与える
「HAPPINESS(幸福感)」とは何だろうか?” を考えてみるのもいいかもしれません。

 これを考える前に、まず、「生きることとは?」は大切な根幹です。
 ”夢を持って生きている人、希望を抱き、
あるいは、運命を抱いて生きている人や覚悟を持って生きている人。
目的があって生きている人そして、なんとなく生きている人。
コンプレックスを隠して生きている人そして、不安げに生きている人。”
いろんな人がいますね。

 この根幹によってもそれぞれの「HAPPINESS」観が違いますね。
また、それぞれの「生まれと育ち」という持ち得た「風土」によってもその幸せ感は違います。

 そして、
生きることのHAPPINESSとは?
人間が人間らしく生きるためのHAPPINESSとは?
生活することのHAPPINESSとは?
この根幹を自分の人生の中で既に、十分に考えている人たちにとっては
ファッションそのものには単純な「HAPPINESS(幸福感)」しか求めないでしょう。

 ”ファッション”が叶えてくれる”HAPPY"とは生活の「潤滑油」
或いは、「文章における”鍵・カッコ」ぐらいのものでしょうか。
或いは”ラッピング・ペーパー”あるいは、”壁紙”。

 もっと、現実的な”リアリティ”に目線を向けると、
所詮、”物欲”の世界が生み出すあらゆる”狩人的目線”としての、
”そうありたい/願望”が”HAPPY"へ通じる「壁紙」でしかないでしょう。

 もう、他人と違いたいがためにその願望をファッションへ委ねていた時代は終焉しましたね。
人間みんながそれぞれ持ち得た「幸せ感」は当然違っているものであるという自覚が
ファッションを楽しく、そこに”ファッションが与えてくれるHAPPINESS(幸福感)”が
在ったはずですね。

 現代のファッションの世界ではこの「幸せ感」は無くなってしまったのでしょうか?
”他者との差異感。”をファッションに求めていたリアリティもある種の”豊かさ”によって
「”他者たちと同化”するためにファッションがある」という迄の”習慣”を持ってしまった
世代たち。
ここには「模倣」から「習慣」という”差異”から”普遍”と言うベクトルが既に、
環境化されてしまった時代性。

 しかも、この「壁紙・HAPPINESS(幸福感)」はすぐに効力がなくなるのが昨今の特徴。
いつも”張り替え”作業が必然なリアリティであり、隣の「壁紙」を気にしながらの
単サイクルな行為になってしまった。

 したがって、ファッションによる「HAPPINESS(幸福感)」の一つは
その昔から変わらぬ、「狙った獲物を手にする」醍醐味のみになる。
即ち、「買う」こと或いは「手元に置く」こと、
自分のものにすると言う「所有欲」の日常化と習慣化がファッション・リアリティ。

 それが、ショップからネットそして、ネット・オークションというプロセスの変革によって
もたらされる「束の間の快感」の不連続な連続性に委ねてしまってる。
いわゆる、「持続可能な、快感」を諦め始めた世代たち。

「もう、ファッションで幸福感は得られない。つかの間の”妄想”。」???
 では、”HAPPINESS"そのものとは、何ですか?

 「近代」が生活の”豊かさ”と言うリアリティを持ち得たことによって、
時代「近代」の根幹であった「価値観」が変貌してしまった。
このズレが現代社会の表層へ”習慣”として大衆化し液化状況を生み出した。

 新たな時代としての近代の次なる時代としての”始まり”それが、「超・近代」なのか
「脱・近代」なの「ブリコラージュ・近代」かは別として、新たな時代を築くための、
「新たな価値観」が必要になろう。

 変わってしまった、”自然”と”環境”や”人間の欲望”と行くへ不明になってしまった”倫理観”。
”為すべき行為”への新たある価値観とその基準。
ここには、”豊かさ”なるゆえの「新しい倫理観」を求める叡智が必要であろう。

 その根幹は「人間性」であり、「宗教心」でありそして、「民族心」かもしれません。
「ナショナル・アイデンティティ」と「ネイション・アイデンティティ」の区別理解と
そのバランス化。
そこに生まれるのが「文化力」。
この新しい時代の始まりとこれからのあるべき時代の「価値観」の元で、
ファッションがどのように”ファッションを愛する人たち”に何が与えられるのだろうか?
 ここに、新たなファッションとHAPPINESSの関係性が生まれるだろう。

 より、人間が持ち得る「業・欲」に輝く”金メッキ”なラッピング・ペーパーでしかありえないのだろうか?
或いは、持ちえた日常のストレスへの”癒し”の一つ?

そこで考えられる一つのアイディア、「ユニフォーミズム」を超えたところに見えてくる
「Sophisticated Fashion」が考えられますね。

 いつでも、当たり前に、安心して何処ででも着られる身だしなみ豊かなファッションに感じさせられる文化力が生み出す着る人の「文化度」と”ずれ”を愉しむ「こゝろの有り様」。
あとは、イメージのボヤジナリィーが愉しみ。

 これが僕が感じる「Sophisticated Fashion」の根幹。
そして、新たなファッションとHAPPINESSのブリコラージュな関係性。
 そのこゝろは、"May I help you?"

 今年もよろしく、ご指導とご鞭撻がいただければ幸せです。
皆様も、知的感度豊かに、好奇心溢れる誠実な1年でありますように、
"Keep your the Force!!"
合掌。
文責/平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2016年12月30日 07:20 | comment and transrate this entry (0)

2016年12月26日

ファッションはもう”ユニフォーム”になってしまったという視点。

 『新年が穏やかに、おおらかなる年の初めをお迎えになられたことでしょう。
今年は”29/フクの年”。僕も老いて、ますます辛辣な意見と好奇心を
今年もモードの世界へ向けます。
変わらぬご鞭撻をよろしく。合掌。平川武治:

「これは終わりだが、始まりでもある」という時代観とは?;
 "However this ends, that's where we begin." とは、; 
 このP.トランプ当選後のM.ムーアの発言では,何が”終わり”、何が”始まる”というのでしょうか?僕が最近発言している、「近代」という時代が終わり、新たな時代性が誕生するだろうと
いう視点があります。これは皆さんの周りのより、現実的な世界を見ていただいて、何か、
今までとは違った”something new"な匂いや段取りの違い、気配などを感じ始めていませんか?これがすでに、”新しい何か”が始まっているファッドなリアリティでしょう。
 このファッドなリアリティの一辺づつをブリコラージュしてゆけば、”あたらしい自由”のみが生み出せるあらたな時代の”始まり”でしょう。
 例えば、『時代はまた、「ナマ/live」モノ感を必要とし始めました。
小劇場、ライヴ、フェス、ダンス、ラップ、スポーツ、それらに、習い事のヨガや色々。
 この裏には、バーチュアルなエモーションではなくより、直感できるナマな「エモーション」が恋しくなり始めたということでしょう。
 人と”繋がっても”そこにお互いが直感で直に繋がり合える”感動”がより、具体的に必要な時代が来ています。PCでの繋がりに限界ともどかしさをやっと感じ始めたからでしょうか?
 ここには、”便利”と”感動”は自ずから本質的に価値のレベルが違うことがわかり始めた新たな大衆たちの誕生があるでしょう。このリアリティこそが、僕は「近代」という時代の次なるチャプターが必要になってきた時代だと感じ始めています。
 今までの過去においてもこの「ナマ/live感」は当然、感動を得るための陣頭手段でした。
感動とはそんな「生」の、”リアリティ+リアリティ”の経験や体験からしか生まれ得ないものであるという常識の時代から、現代ではすでに「ヴァーチュアル・リアリティ」という新たな感動も知ってしまった人類が、オプションすべき、感じたい「感動」即ち、「ナマ/live感」とは、を感じ吟味することが大切な時代性なのでしょう。
 このようなファッドなリアリティを感じ取ることが現代社会ではかなり、重要な人間個人としての"差異”でしょう。ここには”教養”と”感度ある感性”の4Kが要求されるからです。ほとんどの現代人と称される”情報社会”に生きている人たちが持ち得た”ヴァーチュアル・リアリティ”とそこに表された”真実っぽさ”の社会によって、”センス オブ ヒューマン”が劣化してしまった。
 すなわち、”時代と寝る”ためにはより、人間的なる「クオリティある繊細さ」が必要な時代になってしまったからでしょう。この要因は表層の豊かさのみが液化状態になり始めたからです。
 では、僕が感じるこの「近代」の終焉から、新しさの始まりでもある今後の「近代」の次に
来る時代観を少し、お話をしましょう。
 これからの数年間で起こりうる世界情勢は、確実に、小さな塊の、より強靭なコミュニティを羨望する各国の動きがあるでしょう。すなわち、保守が進展すれば当然のように起き上がってくる”愛国心”という怪物の登場でしょう。この古き新しさでは、新たなバランスとしての
”ナショナル・アイデンティティ”と”ネイション・アイデンティティ”のセルフ・バランスが
問われる時代性になってゆくでしょう。グローバリズムによって、大きく固まったその実態構造そのものが不誠実なものであること自体を知り始めた知恵ある諸国と人民は、より確実な”塊”へ揺れ戻しの始まりがあるでしょう。例えば、合衆国ももしかしたら、”州”が個別にインデペンデントな構造体になり始める可能性もありますし、英国もそうですし、EU諸国においてもそれぞれのネイションアイデンティティが国別に強くなり始めるでしょう。
 グローバリズムによって、国/ガヴァメントと企業/ビッグ・ビジネスという”複合企業体”が
地球規模でそれぞれの産業において、それなりの企業形態を成立させてしまったのが20世紀の最後の役割だったのですから。
 ここで参考にするのが、すでに40年は経過してしまっている、1980年、アメリカで出版された
「Friendly Fascism」という本です。(これは、今回のトランプ選挙陣営のネタ本の一部です。)

 「Friendly Fascism」とは、;
 参照/翻訳版「笑顔のファッシズム上・下」B.グロス著;日本放送出版協会刊:
 『新しい独裁政治がアメリカ全土にゆっくりと忍び寄っている。”政府と企業の複合体”が
何十年もかかって、次第に形成され、その複合体の司令部には顔のない独裁者が座り込んでいるのだ。彼らは自らの権力と特権を拡大しようとして、組織や個人のためになりふり構わず利益を追求している。さらに、広い意味では、経済的操作や情報活動、あるいは軍事的侵略による、
世界各地における国際政治への介入の拡大等も、そういう独裁者たちの利益追及の結果生じて
くることなのだ。こういった自体の全てがすでに、世界的な規模で軍拡を煽り、核兵器及び通常兵器という殺人のための機械の備蓄を増大させているのだ。 
 (これは現在の安倍内閣以後の日本における”政治と企業の複合体化”から軍事防衛費予算がだんトツに増大し、戦後時以降、具体的なる今後の”軍産複合体”構造を構築しはじめている現実にも現れている。/筆者)
 アメリカはまず、”軍産複合体”の手に権力が握られ続いて、この複合体に類似したものが多数
存在してしまっているのが現実です。そしてこれらの構造体は”多国籍企業体”構造を持ってより
複雑な存在価値を構造化してしまっている。原子力複合体、科学=工業技術複合体、石油=自動車産業=高速道路複合体、銀行=証券会社=住宅産業複合体、都市計画=開発産業=不動産業複合体、農産物生産及び、加工と農機具・肥料・飼料の製造販売までも含まれる農業関連産業複合体そして、IT=モバイル産業=情報産業=メディア産業複合体などなど。
 これらの複合体に実際の企業名を当てはめればその実態が見える。彼らたちは公然と貢献したり、秘密裏に援助の手を差し伸べたりして、その経済的基盤やそれを育む環境を備えている公共機関や大学が加わり、これらが複雑に絡み合ってさらに巨大な複合体を形成しているのが現代であり、こういう色々な複合体と同様に重要なのが、顕在化しているビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携であり、この現実が今では世界のいたるところで見られ、その根幹は巨大な超国籍企業と様々な多国籍複合体にあり、これらが世界にまたがる”自由主義諸国”を一つにまとめ上げたのが”グローバリズム”であり、ここに、新しい独裁主義を成立させている。”新しいファッシズム”はその国の伝統や文化遺産によって違った色合いを浴びて現れるだろうし、人種構成や
宗教の構成、政治機構、地政学的環境などによってそれぞれが違った様相を呈する。』
 
 そして、もう一つ、現代日本のファッシズム、「安心のファッシズム」とは?;
 では、日本的な視点でこの現代という時代性を新たな視点で捉え、考えてみると、僕が、
「みんなで安心・安全・快適」というコンセプトを初めて使い始めたのが90年代の終わりに
近い頃であった。これはファッションのコンセプが”WAPPING"から"PROTECTION"へ変革し
始めた時期であり例えば、世間では”tatoo”がクールになり一般化し始めたので覚えています。
 着る人間の身体と心を”モード”によってプロテクトし始めた新しさだったのです。
現在ではこのコンセプトはすでに常識になってしまっていますが当時はフード付きの”被り物”はまだ限定されていて、ブラックのストリート・キッズから発生し、ラップによってプロパガンダされそして、流行によって”クール”になり、今では当たり前の一つの生活衣料品になっている。これがまさに”サブ・カルとファッションによる液化現象”ですね。
 例えば、お笑い系でも、”シソンヌ”のギャグ・コントが現在の”spa"型のショップの現実を
パロディっているというまでの日常の”液化現象”です。
 その後、インターネットの普及化と携帯がより多重・多機能化しスイカが生まれ今のような
平成の「安心・安全そして、スイスイ」社会にこの「安心のファッシズム」は発展した。
 この平成の「安心・安全そして、スイスイ」ボケの現代社会を切った「安心のファッシズム」という本があります。
 参考;「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;

 考えてみると、「誠実に生きる、真面目に生きる、真剣に生きる」等とは、これらは全て、
与えられた”自分の生”に対しての、自分の自由な生き方への詞です。これらを放棄さえすれば、
みんなと一緒になれば、その社会の人間たちは誰でもが、「みんな、安心・安全そして快適に
スイスイ」と生きてゆけますよ!という社会構造の構築と科学技術の開発によって素早く現実に至った現代日本社会です。ケータイがなければ何もできない、電車にも乗れない、街も歩けない
暮らしてゆけない社会の構築。
 巨大なシステムに操られることが苦痛にならずむしろ、心地よく便利にスマートに生きて行けると感じさせる時代性がここに、見事に構築されてしまいました。これは、物事の根幹を知らなかったら、”知性”や”教養”に関係なく全てに飼いならされてしまうという時代性とも読めるのです。これが現代日本における「安心のファッシズム」の由来です。
 一台の携帯電話+各種アプリ+1枚のプリペイドカード+クレジットカード+キャッシュカード+各種会員カード+マイレージ各種クーポンサービス+社員証+マンションキー+スイカ等の交通機関乗車券などなど、=安心、安全そして、スイスイ快適生活=「安心のファッシズム」
という現代日本社会構造。(参照/日経新聞/2004年5月20日付け。)この構造を起業化したのが、
「フィリカネットワークス」という2004年に設立した企業です。
ある意味ではたった”1枚のカード”に不動産価値構造を構築し、携帯を”ハブ”機能とさせれば
”スイスイ・快適”が日常化するという、「安心のファッシズム」の発想でしょう。 
 参考/フィリカネットワークス”=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立:
http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html
 ここでは、地上のすべてがマーケッターたちの”ゲーム版”上と化してしまっています。
「動く商圏」を構成する「息する財布」としてしか、認識されなくなってしまった人間たち。
大衆達は「操舵の術」としての”マイカード”と繋がるための”ケイタイ”によって、現代人の肉体
そのものをコントロールされていても違和感を感じないように飼い慣らされてしまっています。
だが、これらはすべて、「アメリカの軍事衛星」を経由して流されてくる提案に操作されているという”根幹”は果たして、どれだけの利用者たちが認識した上での”スイスイ効果”なのでしょうか?ここでは、「自由に生きる」ことそのものが変革され”操作”されてしまっていることなのですが。
 ここで、”ファッシズム”とは、本質的に、ファジーな曖昧なものの塊をいうのです。
全ての根拠が”曖昧さ”で始まっている現代のキーワード、「真実っぽさ/truthiness」の世界
そのものであり、自由でないことの”幸福感”が芽生え始め、支配されたがる人間が主人公/ヒーローでありる世界。そこにあるのは「真実っぽさ」が溢れかえっている不自由な社会。
 しかし、この世界を誰が作り始めたのでしょうか?そして、どんな人たちが我れ先にとその世界へ駆け込んだのでしょうか?ここに、ビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携連帯で
築かれ作られた”複合体”社会の真意があり、「使われ慣れした、使われやすい、飼いならされたい人間たち」の登場いわゆる、”世間にお利口さん”な世代たち、彼らが登場し、そして主役。
「The world is the wall-paper that only the truthiness.」
第1部終わり:後半があります、お楽しみに!!
文責/  平川武治:

投稿者 : editor | 2016年12月26日 07:00 | comment and transrate this entry (0)

2016年10月22日

大切な蛇足、「あたらしい酒もふるい皮袋へ、」変わらぬ”猿山軍団”の惨めさ。

 「新しい酒は、新しい革袋に」/『新約聖書』マタイ伝第九章の一節。

 僕はこの言葉が好きで、「モードとその社会」が変革する時にいつも使ってきた言葉です。
思い出すと、80年代始めと80年代終わりそして、90年代半ばと21世紀へ入って間もない頃使いましたね。
 そこで、相変わらず、「ふるい革袋」で粋がっている若い「自称アーチスト・デザイナー」たちへ蛇足な一言。

 ”自称アーチスト”デザイナーや「古い自由」で権力や集団性にしがみ付いて、「壁紙デザイナー」振っている僕的には、自分のコレクションにおいて、”世界観”が出せなく踠いている帰国組デザイナー達が二宮君のショーへも見に来ていた。CdGメゾンのショーを見に来ることで自分達が出せない何かを”パクリ”に来たのか?”バカの学校”のネタにし、自分たちが彼ら達と同類に見られたいという「古い自由」による行動なのか?
 メディアに媚びを売るだけの「古い皮袋」発想の輩達のここ数シーズンの行動。

 誰もが、”よちよち歩きの時は自信はハナからないので心配でたまらない。誰かに頼る。そして、それなりに自分たちの目的に近くなるともう彼ら達はさも、「自分たちの実力でこのようになりました」と日本人の”徳”の一つである、”礼節”を欠いた「忘恩の徒」と成って、顔と態度が
変貌する。ここには彼ら達のこの世界の小賢しさと”生まれと育ち”としての「風土」がある。
 昨今の日本社会に見られる、敗戦後の生き方の一つである「倫理観の欠如」の”2代目”たちであろう。

 彼ら達は何を見に来たのだろうか?服を見に来たのか、なんのために、どのような目線でこれらのショーを見たのか?展示会へも行ったのだろうか?
そう、ケイタイで写真を撮っていたものもいたね。コレクション後、お礼を言っていないね、、、、、
 
 集団で僕の鎌倉へ”泣き”に来た。
彼ら達セント・マやアントワープ帰国組の連中男、7人が帰国後2年程もしない時もう、待てなかったのだろう。焦り始めていた時であった。結果、彼ら達は集団で僕の鎌倉へ”泣き”に来た。
ここでも彼ら達は”集団行”しか取れなかった。
 「僕たちは海外の有名校を出たのに、どうしたら僕たちは有名になれるのでしょうか?」という切羽詰まった質問の答えが僕から欲しくって来た彼ら達。
「僕たちは海外の有名校で学んだのに、どうしたら独り立ちできるのでしょうか?」
 僕のその時の彼ら7人への答えは、「一人で何もできないのなら、”海外組”ですよという”集団”で行為するしかないだろう。」であった。
 即ち、最も日本人的な行為である、”赤信号、みんなで渡れば怖くない”方式を授けた。
 その結果が、”コルク・ルーム”、”エスペランサ”そして、”バカの学校”へ、まるで、”猿山のボス”構造を日本のファッションメディアを丸め込み、構築した「使い古された自由」の行使でしかなかった。
 僕の経験から言わせてもらえば、彼ら達の売りは”海外の学校を出た”とDIESEL社の”客寄せパンダ・コンテスト、IT'S"での受賞でしかなかった。が、これらにまんまと引っかかったのが”外国人”や”海外校”にコンプレックスしか持っていなかった当時の文化系ファッションメディアとそのリタイア組みおばさん達そして、専門学校と、アートとデザイン関係性やそれらのたち居場所が社会にどのようにコミットしなければならないかを教える側が理解していない”雰囲気美術学校”、これらが加わっての”猿山構造”。この”猿山のアントワープ組”で言えば、彼ら達が在校中、どんな事をして来たか?、何を学んだか?彼ら達の親が卒業時にどのように”上手にカネ”を使ったか?ほとんど熟知している。
 そんな彼ら達もすでに「小さな嘘」の連続によって、その立ち居場所を設けてしまったが故に、今後の活躍となると大変!!変わらず”イカサマ”社会でやってゆくしかないであろう。
しかし、現代日本社会の表層とはそして、日本のファッション界も同様、このような小さな”イカサマ”で成り立ってしまっている世界でしかないから彼ら達は今後も、旨く立ち回るだろう。

 彼ら達を冷ややかな眼差しを持って、心地よい距離感を持って自分の”世界観”を生み出しているのが、巴里のA.アライアさんのところで頑張ってアシスタントを続けながら自分の「世界観」を作品に世界で発表し続けている瀬尾英樹君がいる。http://www.hidekiseo.net
 そして、東京で彼ら達から”つかず、離れず”、自分のたち居場所をしっかり持って活躍し始めたのが中里唯馬君であろう。自分が持ち得た「風土」から健全に、もうすでに自分のコレクションに「あたらしい自由」による自分の「世界観」を持ち得始めた”海外組”のデザイナーであろう。http://www.yuimanakazato.com
 この二人は「新しい酒であり、新しい皮袋」を自分達で探し出した僕が認めるアントワープ王立の卒業生である。
 
 自分のブランド・コレクションを世界で、巴里で行うということとは、「自分の持ち得た経験とスキルそれらに文化度と美意識を振りかけ、これらに人間性を加味し尚、”自心のこゝろの有り様”に正直に、自分の「世界観」を「あたらしい自由」とともに構築していくことである。
ここに現在では「素材」の新しさと人間性としての”ヒューマン・テクノロジー”が一つの時代の新しさ感を表す”言語”となっているのが今の時代感でしかない。
 何故ならば「自由」とは自分のこゝろの有り様に正直に行為することであるからだ。
よく言われる”自分らしさ”とはこの自分の「あたらしい自由」の表現にあり、それが一つの”世界観”をも構築していることに対して、自分の「ブランド・ネーム」をつけることが自分のブランドになる。
 そして、このブランドが発信する”世界観”が着る女性たちを魅了し、エモーションを与え、
彼女たちを時代の「あたらしい自由」に耀かせなければいけない”使命”までも考えるところに
現実モードの世界の素晴らしさがあり、凄さと大変な苦労が存在し、そこに面白さと愉しみと
カッコ良さが存在する世界である。そして、この”世界観”の塊のシーズンシーズンが”コレクション”と言われるものである。

 しかし、昨今の巴里でも日本と同様な「SPA」型のデザイナー・メゾン・ブランドが増えたために、彼らたちの”世界観”とはビジネス優先の”世界観”であり、これが多くなり、ここに”トレンド”が新たな「世界基準」として、より、世界の共通言語化し始めてきた。
 このような時代では経験豊かなそして企業規模があるブランド・デザイナー達は自分達の”世界観”によって「世界基準のトレンド」を編集していることである。ここには「自称アーチスト」ぶったCdGチルドレン達のお母さんブランドも現在ではこの手法で”自分世界”を継続するための
コレクションを行なっているに過ぎない。
 だが、自ら達が社会に”コミット”することを怖がってきた、実社会の経験未熟な”猿山軍団”たちが持ち得た、「風土」による”人間性”と”文化力”では到底”お母さんブランド”の”質”と”品”は
生み出せないし、そこから生まれるブランドの”世界観”が未だにない。当然、「品格」は皆無だ。

 これらを熟知しないで、「ふるい自由」な価値観と「ふるい皮袋」の中で、自分の自己満足のため、自己顕示のために”自称アーチスト”ぶったレベルで、大いなる勘違いの経験乏しい輩の郎党が”バカの学校”生み出した。そこへ、これまたより未熟な連中が「自由」とは何かの根幹さえ知らず、「赤信号、みんなで」方式で、勘違いしている仲間がいるので怖くない”セフティーネット”上でたむろする。結果、東京の「壁紙デザイナー」養成所レベルに至る。
 何故ならば、「自称アーチスト」たちが今では”デザインの世界”でどのように自分たちだけが”金儲け”をして”巴里詣”に行くかを算段し始めたからでしかない。

 さて、どのようにブロガーと称する”宣伝集団”たちを自分達の”小さな嘘”の上塗りでペテンして、今シーズンはどんな「壁紙」を貼り付けるのだろうか?これからも見せてもらおう、
 あの時、鎌倉へやって来た男7人たち「猿山軍団」のシリアスな惨めさを!
文責/平川武治:Morocco、Tanger市にて;

投稿者 : editor | 2016年10月22日 17:11 | comment and transrate this entry (0)

2016年10月19日

”NOIR”/二宮啓君のミニ・コレクション。

 僕が好きで、気にかけている二宮君の巴里でのミニ・コレクションが、
やっと見ることができた。

「エレガンス」は立ち居振る舞いから生まれる”しぐさ”を美しく調和感のある様のことである。

 最後発隊のこのメゾン・ブランドのオリジンは90年代初めに作った”CdG NOIR"。
ソワレや婚礼を意識して当時作られたブランドだったが、当然であるが、そのほとんどがメディアへのイメージング・サーヴィスで終わり、在庫となり、その多くは京都服飾財団へ寄贈された。しかし、ここにも川久保玲の”夢”を僕は見てしまっていたし、その後、ここで行われた
”THINK BIG"なこなしやディーテールは現在の川久保玲のコレクションへも引き継がれている。

 僕が初めて彼の展示会で見た少数の作品は全て、”手仕事”でまとめられた見事な”職人根性”で
作られていた。その名の通り、”黒”を使っての新たなブランドも3年目を迎える。
 このメゾン・ブランドでは出し得なかった何にか、”人間的な温かみ”を感じさせるまでの作品を、その最初の技法としての装飾は”刺繍”によってこの恵まれた若きデザイナーは生み出していた。
 幾シーズンかをこの技法を主としたのち、彼も僕的には”WITHOUT SEWING"プロジェクトのカテゴリィーに入る作品をレザーを使って手がけるようになった。僕はこの当時の彼の作品に 
”鎧”を感じ取っていた。
 
 僕は日本人の歴史において、戦国時代の”戦国武将”たちが身につけた”鎧”とは、その武将の
”地位と権力と強さ”をそして、矢や刃からも身を守る”機能”も考えられた”装身具”であり、見事に当時の”日本美意識”によってデザインされ作られた優れものであり、世界に類を見ないものとして色々な資料を漁っていた時期があった。西洋でも勿論、”鎧/ARMER"はあったが、実践的で
あり、機能優先がそのほとんどで装飾性における”美しさ”では、日本の鎧が見事に勝っていた。
 その後の、”江戸時代”に目を向けると”商人文化”が芽生え始め、利休による茶文化で生まれた美意識を根幹にいわゆる、”旦那趣味”へと、彼らたちは当時の金に糸目をつけず、茶道を軸に
花道、香道から、日常の生活美に至るまで日本美が何たるであるかを誇示するまでの”手工芸品”
を別注しその収集に勤しんだ。しかし、僕はこの江戸文化の美意識の根幹にあの戦国武将たちの
”鎧・兜”の美の世界があると感じている。
 江戸の町民文化が現実に求めたものは”兜・鎧”で使われていた素材と表面加工のバリエーションでしかなかった。”鎧”は竹であり、革・毛皮であり、金・銀であり、銅板・真鍮・鉄板であり和紙であり布とそして、漆加工や鞣し加工、象嵌から印伝加工や打ち出し加工、刺し子などと、
”組紐”や”マクラメ”によって全体を組み合わせていた。これらの素材と加工技術が江戸時代には当時の豪商たちの”生活工芸品”へと進化発展した。
 この時代による”美意識”の進展化を考えると今後のモードの世界にも「ミシンと糸と針」で
縫うだけの世界ではない”衣装”の世界が可能であること。しかもこの世界はほとんどが、1点制作であり、これは日本版元祖”クチュール”の世界であり、現代においては”コスチューム”の世界であるという視点が働き、”WITHOUT SEWING"プロジェクトを思いついたのである。
 当然この裏には、”ユダヤ人たち”がすでに制覇してしまっている世界のモード界そのものである"ファッション・ゲットー”から、出来るだけ遠く離れ、新たな世界そのものを構築しないと
これからのモードを目指す才能多き、ユダヤ人以外の若者たちの”たち居場所”はすでに限られてしまっているという僕の経験からの発想と思惑もあった。できれば、このアイディアを東京と上海でヴィエンナーレ方式で世界中の「あたらしい自由」をモードの世界に求める人種を超えた、今後の”カラード・クリエーター”たちが大いに活躍出来るチャンスを提案したいとまで考えていたプロジェクトである。

 話は少し、飛んでしまった、二宮啓君のミニ・コレクションへ戻そう。
彼のコレクションをこうして”ショー”形式で見せていただくとそこには「黒のバリエーション」という彼独特の世界が見えてくる。”黒”が色々な色に見えてくるのだ。
 この世界は、今では残念ながら見えなくなってしまった、かつてのCdGが挑戦した世界。
そこに彼の持ち得た”美意識”と”文化度”が、”手の器用さ”と”頑固さ”が彼、二宮啓の
「あたらしい自由」の世界を生み出している。
 そして、僕が彼を信じるところは日本人デザイナーがこの若さですでに「エレガンス」を
デザインできるまでのもう一つの才能を持ち合わせているからだ。
それらはショーで垣間見ることもできるが、展示会へ行き、バイヤーたちが実際のサンプルを
試着している折に最もよく判ることであった。「軽み」と「重み」のバランスを生み出すために造形していると感じるまでの世界がここにはある。パンチング、テーピング、モチーフ、ドット、メッシュ、工業用素材などを使い組み合わせられた世界は”パーツ オブ ボディ”の世界でもある。当然だがこれらの素材による小物の世界もいい。

 この彼の実力は、外国で勉強しました猿軍団、東京「壁紙デザイナー」たちとの歴然とした、謙虚さと気骨が違う恵まれた環境から生まれる”差異”である。
 クチュールの仕立てが素晴らしいこととは、仕立て上げる過程で着る女性の”肉つき”を
パターンへ落とし込む回数が多いことがその価値の根幹である。 
 この”しぐさ”による「エレガンスな”様”」を生み出すにはパターンがうまくないと生まれない。パターンが出来ないデザイナーたちのものは平面的なデザインであり、薄っぺらい服になってしまう。いわゆる、”平面的な服”と言われてしまう世界でしかない。ここが僕が言うところの「壁紙デザイナー」の所以の一つである。
 このタイプのデザイナーに共通するところは”表層の装飾”が過剰になる。あるいは、テキスタイルに凝り、デザインに凝る世界、手工芸的な熟しだけに拘ってしまうものである。
 そして、着ると美しさがその着た人の立ち居振る舞いに現れない。最近のようにPCが発達してしまったこの世界でも、その結果はより表層的なるデザインがインジェクション・プリントや
異素材の組み合わせに依って成される傾向と、ショーがインターネットで見れることの功罰の
一つとして”正面”のデザインにのみ凝る。
 しかし、やはり、いい服とは「着た女性がどれだけ、癒された”エレガンス”な女性へ変身
出来るか?」でしかなく、”どれだけ目立つ”かではない。
 パターンが上手なブランドの服は動きを作り、着た”女性のしぐさ”を美しくするのだ。
すなわち、「エレガンス」が生み出せる世界を構築できることである。

 例えば、かつての”アパレル”ブランド、最近では”SPA"ブランドやフアスト・ファッションの
商品はこの”付加価値”が生み出せない。
 そこで、”プレタ・ポルテ”のデザイナー達はこのクチュールと既製服の距離感から
そのビジネスにおける”立ち居場所”を持ち得ることができたことがそもそもこの街で誕生した
”プレタ・ポルテ”の世界であった。巴里において60年代も終わりに近い頃、この世界を初めて提案したデザイナーが誰であるか?勿論、YSLであった。
 ここに彼の、この世界の「あたらしい自由」が生み出した素晴らしさと功績が潜んでいたはずだ。
 そして、未だにこの”クチュリエ・メゾン”が出す”プレタ・ライン”が、”ラグジュアリィー・
ブランド”と称してその商品価値を”金メッキ”に変換させてビジネスをしている状況もここに
由来している。現在の大半の”ラグジュアリィー・ブランド”の商品の生産工程も既に、”SPA"と
同じ環境で生産しているのがファッションの”グローバリズム”と言われる所以である。
 ここでのデザイナーの役割とは、”広告宣伝”のためのイメージングと話題つくりでしかない。そう、ラフ君や最近では、ヴェットモンたちのように。

 僕が好きな”NOIR”二宮啓くんの”世界には確実に、このメゾンにおける「あたらしい自由」が溢れている。
 今までにはこのメゾンでは少なかったであろう、”手が器用な”デザイナーであり、自分でコツコツ手仕事をするのが好きなデザイナーであろう。そのほとんどが当然であるが、川久保玲に
憧れてこのメゾンの戸を叩くであろう。が、このレベルでこのメゾンへ入るともう、
”負け”である。良くも悪くも”使われる”だけである。これは企業の倫理でもある。
 自分にあって、その環境には無いものあるいは、少ないものの世界へ挑むことによって、
そこに初めて、自分の”たち居場所”が生まれる可能性があるはずだ。
ここには「覚悟」と「勇気」が必要になる。
 例えば、帰国子女達の多くが、”外資系”なる企業へ就職したがる。
それがステータスであると言わんばかりに。しかし、この世界での語学はここで働く外国人達にとってのネイションランゲージである。したがって、少しばかりの語学力も彼ら達に
”扱き使われる”ためのものでしか無いレベルとなる。その世界そのものが外国語が当たり前な
世界でしかないからだ。
 ならば、外国語が最も程遠い世界でその喋れる外国語を使うことの方が価値があるし、
次なる可能性が生まれる。この考え方が現代日本人には少ない。
 
 彼の”Golden Hand"は次なるはどのような世界を目指すのであろうか?
もう”刺繍の世界”へは近づかないのだろうか?
この”刺繍の世界”は世界共通言語であり、人に、感動を与えられる世界であるはずだが。
 ”鎧”の世界と”刺繍”の世界のコラボ?に僕は彼の”Golden Hand"による
「あたらしい自由」を夢見てしまっているのだが、
文責/平川武治:Morocco、Tangerにて。

投稿者 : editor | 2016年10月19日 21:36 | comment and transrate this entry (0)

JUNYA WATANABE/パリ・コレクション’17 S/S ”モダン・テクノロジーとヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュ

 ”モダン・テクノロジーとヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュ
”パンキー& ニユー・エレガンス”コレクション。
 一つの判り易いコレクション・パターンを見せてくれた今シーズンのジュンヤ・ワタナベ。
彼はここ数シーズン、自分の世界をこれからの時代へチューニングするためのトライアルを新しさとしてコレクションに残してきた。僕は彼のこの姿勢が好きであったし、この彼のトライアルに勇気と覚悟が伺えるまでのとても素晴らしい、いいコレクションだったことを覚えている。
彼の”軽さと重さ”、”エレガンスと激しさ”が絶妙なバランスでまとめられていたからだ。
 それらは、僕が数年前から提案していた「WITHOUT SEWING」プロジェクトの一環に値する視点での新たな発想に基づいたコレクションに挑戦してきた。これは”モダン・テクノロジーと
ヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュであり、”I.D"との”ラップ”。
時代の新しい自由さを感じさせるまでの美しさにまとめられ、着る女性を生き生きと伸びやかな姿にするマジックをこのデザイナーは既に、持っている。

 今シーズンの彼のコレクションもその延長上であった。
もともと平面である素材を彼も”3D"構造のメイン・エレメント・パーツに仕立て、
その3D.エレメントの連続性で”服”を仕立てるというマティマティックスな手法はここ3シーズンの継続コレクション。
 前々回のコレクションで、それまでの3シーズンほどを塩ビ素材を使ってエナメル加工したものも含めてそれらを平面のラウンドなパターン・ピースを作り、このピースを一欠片づつつなぎとめる手法で”服”を仕立て上げて来た。僕はこのシリーズは”ポリーマグー”的なイメージと新しさ、晴れやかさと爽やかさをエレガントに感じた。
 その後、彼は2シーズン、3D.のエレメントで”新しい自由”を提案した。
トライアングル・グリットによる”折り紙”あるいは、”ペーパークラフト”的発想で3D.エレメントを構成し、これらを使った世界をこれらも見事な、彼らしいい端正さと几帳面さが作品の品を表すまでの軽やかなコレクションを行なった。安い合繊素材そのものを先ず、”加工ー部品”化するすなわち、”I.D"の手法によって、この世界の延長、バリエーションが今シーズンだった。

 しかし、今シーズンはコマーシャルを意識したバリエーション。
この発想の初回のコレクションは、こんなアイディアでこれほどのコレクションが出来ますよという力の入ったシリーズー1。そして、2回目の先シーズンはこの発想をここまで広げられ
尚且つ、力を抜いて軽妙にまとめられますと言う迄の充実したエレガントなコレクション。
結果的には、このシリーズのコレクションとしては一番いいコレクション。
 今回はこの3D.エレメントを使い、売ることを考えられたところでまとめたコレクション。
”ナイン・インチ”の激しいリズムがコレクション中鳴り響くなか、颯爽と”パンキー& ニユー・
エレガンス”コレクション。
 このような発想のコレクションは、僕が提案していた”WITHOUT SEWING"でもそうであるが、これらの根幹には、”モード”と”インダストリアル・デザイン”のコラボ的発想の新しさが存在している。もっと、わかりやすく言ってしまえば、”レゴ・ブロック”世代へ共感する発想のオリジナリティがある。まず、パーツとしての”エレメント”を作る。次にそれらを組み合わせて人体に”装着”させるという発想だ。ここでは、”縫わない”で”組み立てる”という手法を”モード”の世界へ持ち込むという”新しい自由”の一つである。
 したがって、この”エレメント”を作る場合、機械加工に委ねるためそれなりのロットが発生しそこに”リスク”が生じる。そのため、それらの”エレメント”である”部品”を使いまわし、このコストを下げなければビジネスに繋がりにくい。
 新しいことをするために生じる”リスク”と”コスト”はいつの時代にもそれなりに派生する。
その”リスク”と”コスト”を工場が持った上での製品化が”インダストリアル・デザイン”の世界である。その結果、この世界は、その後の量産によって、売れれば売れるほどに”儲け”が生まれる。この現実は、かつての”I.MIYAKE"のプリーツシリーズが現在の”I.MIYAKE"ブランドを経済的に救ったことでも理解できる。
 
 今回3シーズン目の、この世界に挑戦した結果となったジュンヤ ワタナベのコレクションは
彼のセンスとまとめ方という”モード”の世界での経験とスキルが十分に生かされてまとめられたコレクションだった。
 ”軽さと雰囲気”を大切にしたコレクション・テーマでの彼が考えた”創造のための発想”は”パーツ オブ ボディ”であった。着たい女性の全身を”ラッピング”するのではなく、彼女たちの姿態の部分にこの”エレメント”を使って”装着”するというアイディア。その結果が、”エプロン”や”肩掛け”といったアイテムに見事に落とし込まれて彼、特有の世界観を生み出した見事に、心地よいコレクションだった。ここには”センスの良さと頭の良さ”が伺えるまでのコレクション。
 インナーは分かり易いBIG・メッセージT-シャツ。時代性としての”ストリート感覚”をベルリンの今では、”グラフィテー・アーチスト”に成り上がった連中とここでも”コラボ”。売るための時代感覚がここに織り込まれたコレクション。日本のストリート・ブランドの今ではこの感覚は若き”書道家”の登場になっているが、どちらが世界ウケするのだろうか?
彼ぐらいのデザイナーになれば、”ネイション・アイデンティティ”に堂々と挑戦することも
”義務”かもしれない。いつまでも白人たちへの眼差しを気にした目線から生まれる”PUNKY"
イメージはすでに、「カウンターカルチャー」では無く、寧ろ「ヤッピィー・カルチャー」でしかない。
 あの僕たち世代へ強烈なカウンターを放った、「B.ディラン」さんもノーベル平和賞の時代なのだから。
文責/平川武治:モロッコ、ティツアン市にて。

投稿者 : editor | 2016年10月19日 15:41 | comment and transrate this entry (0)

2016年10月12日

<追加編 >巴里’17S/S CdGコレクション展示会から、

CdGコレクション/追加編; 
 CdGショーで大切なことを付け加えるのを忘れた。
それは、今シーズンのこの世界観で、なくてはならないもの、時代感を感じさせ、新しさと
爽快感を与えたものがあった。それが、”ヘヤー”デザインである。
 ここで使われた素材は、”塩ビの透明チューブ”。
この素材が彼、ジュリアンのデザインによって見事に時代の顔つきにまでショー全体を高揚させたのである。
 今シーズンではこのヘヤー・アクセサリーが僕には一番のカッコいい、センス良いクリエーションであった。
ありがとう、ジュリアン!!

 そして、展示会で見せていただいた今シーズンのCdGのビジネス・コレクションは時代性と
いうより、今のビジネス状況を大いに加味して構成された巧いコレクション。
 基本的なデザインエレメントは、かつて見たことのあるもの。その根拠はショー・コレクションの”エレメント”そのものが使い回しのものが多いため、これらのショー・コレクションを
実際に着用できるまでにまとめた優れたものが今回のビジネス・コレクション ピース群。
 すなわち、ショー・コレクションの”プレタ”版と言う構造で構成されたもの。
従って、その殆どがいつか見たことのある素材と”アイテム”群。それらがプリント処理等の
後加工によって新しい顔つきを生み出した「CdGらしい」ビジネス・コレクション。
このブランドの崇拝者達にはやはり、日常で着て見たくなるもの。いくつかのアイテムとニットに今シーズンの”ソフト・グランジ”の施しがさりげになされているから売る側からも売りやすいシーズンであろう。
 特出ではショーにも出されていた”シューズ”。ナイキとのコラボによるソールを剥がすというアイディアによる”別注品”。
 この規模のワールドメーカーと、堂々とコラボができるこの企業の強さと立ち居場所を改めて知らされた1品。軽い、売れるであろう。
 今の若い人たちがモードへ入ってくるとき、
「おしゃれなものを買う」という行為は”シューズ”からである。
センスにうるさい連中は決して、上物やボトムから入ってこない。
 まず、”シューズ”である。シューズを決めてからそれに合う、”上物”となる。
この今流のファッション・プロセスを知っていなければ、今の時代、もう、カッコ悪い、
センスのないただの「壁紙デザイナー」でしかない。
 ということで、このCdGのビジネス・コレクションは全く、「コムデらしい」無難にまとめ
上げられたものだった。
文責/ 平川武治:巴里市ピクパス大通りにて。

投稿者 : editor | 2016年10月12日 21:49 | comment and transrate this entry (0)

2016年10月11日

変われないだが、堂々と胸を張った!!コム デ ギャルソン パリ・コレクション-2017/春・夏。

 「大衆は”モンスター”が好き。」
”The Century of the Self”より ; https://www.youtube.com/watch?v=eJ3RzGoQC4s

 K.ブロスフェルト曰く、「植物は、単なるつまらない機能主義に決して陥らず、論理と適合性に一致し、
その原始の力で最高の芸術的な形を達成する。」
『芸術の原型』/Urformen der Kunst,1928年より:

 『「戦う女」⇨「甲冑」⇨「ソフィスティケーティッド」⇨「シンク・ビッグ」⇨
「サンボリック」⇨「心を守る女」⇨「繭玉」⇨「輝きのもと、なお、蕾。」
⇨⇨「ジェンダー」又は「ソフト・プロテクション」』

 今シーズンのCdG、川久保玲のコレクションの結論的ロジック・コンテキストを僕はこのように読んだ。当然だが、僕にはこのシリーズにおける「創造のための発想」は変わらず、
”川久保玲”本人に重なって見えてしまう。
 このシリーズを始めてもう、10シーズン目を超えたであろう。
今シーズンは作品の造形度とまとめ方がソフィスティケートされその分、川久保玲の
「潔さと端正」が完成されたイメージを残したシーズンだった。
 使われた素材や色目はある意味では”CdGらしい世界”でまとめられていた。
過去のこのデザイナーのコレクションによく使われてきた色目と素材と読める。
若くは、”原反在庫”を利用したのだろうか?素材の上からの刷毛目染めによってのオリジナルも出しているし、ハート型のフロッキー・プリントもある。
 コレクションに於ける作品の80%ほどのエレメントは従来から使ったことのあるエレメントの登場であり、これらを素材とモジュール違いでまとめられている。
 ここまで続けるとこれによって、余計に”CdGらしさ”がこのシリーズで感じられるまでになった。ということはこのブランドの根幹である「特異性」という立ち居場所がより、明確になるがその「特異性」そのものは弱まった。
 ディテールのまとめ方は「シンク・ビッグ」という手法である。結果、堂々としているし、「サンボリズム」を感じる。この手法は80年後半のV.ウエストウッドが好んで使い、
先シーズンのUNDER COVERが使った手法である。
 個々のディーテールでは、このデザイナーが昔、よくブルーゾンの襟に使っていた、大好きな襟のラインを白であしらい、「シンク・ビッグ」によって「シンボリック」に構成されている。この辺りのディーテールの使い方と構成力はさすが彼女の好きな世界であり、働く女性としての「戦士」を美しく清楚にバランスよくまとめているのも見事だ。

 今回のコレクションの”ソース オブ イマジネーション”も「曾ての、ラ カンブル校の
クリフトル君」そして定番、「K.ブロスフェルト」などのお馴染みがラインアップ。 そして、
なぜか、「BORO,東北地方の貧農家の布団ドテラ」(?)までも。
 特に、この新即物主義写真家のパイオニアと言われる、19世紀末のドイツ人 K.ブロスフェルトからは川久保玲は以前から過大な影響を受けている。自分のファッション・デザイナーとしての立ち居場所を死守する方法論の師ともしている。
 彼も、植物だけを取り続けて35年。よく似てますね、このデザイナーの生き方と。 
 K.ブロスフェルト曰く、「植物は、単なるつまらない機能主義に決して陥らず、
論理と適合性に一致し、その原始の力で最高の芸術的な形を達成する。」と述べている。
そして、彼は30年以上に渡り同じ写真の技術を使い、植物写真のガラスのスライドを作った。が、それは全て「学生」のための教材としてでであった。彼の35年に渡る仕事としての
作品群からは、「機能性」を越えた「奇妙さ」という美が感じられるが、ここには川久保玲の
このシリーズ全体の根幹がある。
 そして、「彼は自らの写真は芸術的業績とは考えていなかった。」というK.ブロスフェルト
自身の心情も川久保玲にも共通するところであろう。
 5年前にこのシリーズを始めたこのデザイナーも決して、自分が創り出す世界は
”芸術”ではないという立ち居場所で始めたはずであろう。
 このモードの世界で、しかも”パリ”というただ、若い頃の”憧れ”であり、”夢”となった
このパリへ実際に上陸した自分。その後、”継続”することを願望し始めた以後に感じ始めた
ある種の孤独感とその恐怖。しかし、立ち向かわなければならない。
 自分自身が「戦士」の如く、潔く立ち向かわなければ”継続”は不可能。
そして、”二人三脚”だと信じていたパートナーの裏切り。頼っていた小指敦子さんの死。
その小指さんが残していった「SIX・マガジン」に既に使われていた、K.ブロスフェルトの写真群。ここに以後の彼女の「ソース オブ ザ クリエーション & イマジネーション」があるのも
当然であろう。

”Over thirty years, he used the same photographic technique. From his negatives he made glass slide to give his students an understanding of nature's forms and structures.”
"He did not consider his photo an artistic achievement."/Urformen der Kunst,1928
https://ja.wikipedia.org/wiki/カール・ブロスフェルト
 
 現代社会における”モードの世界”で「新しさ」へ挑戦することとは、「服」の形態や形状
すなわち、デザインとしての造形の範疇で次なる新しさを探しても、もう見当たらない。
 この時代で「新しさ」を探すには、先ず「あたらしい自由」を持ち得なければならない。
これがよく言われる「見方を変えましょう。」発言です。
 しかし、もう見方を変えただけでは”バリエーション”の世界しか生まれ得ません。
それがこのモノに溢れてしまった資本主義・消費社会時代の現実でありますね。
 このブランドそして、川久保玲のコレクションの後、それなりの人種たちが一様に発する
「凄いでしたね!」とは、その根幹はなんなのでしょう? 何が「凄い?」のだろうか?
 この5年間ほどのシリーズを彼女の「あらたな自由」の発見と考えると、僕は川久保玲の
「凄さ」とは、4つある。
 『いつも彼女自身の「ボキャブラリィー」を持ち続けていることそして、その持ち得た
”ボキャブラリィー”によって、自分の「立ち居場所」を変えないこと。
この”立ち居場所”を変えないための「ビジネス」をしっかりと考えていること。
そのための自分の”ボキャブラリィー”が通じる「人材」を周りに置いていること。』
 これらの4つに加えて、このシリーズへ変革した発端とは「このモードの世界の従来の
”ボキャブラリィー”を彼女自身が自ら変えて、常に、”川久保玲のボキャブラリィー”によって
自らの世界観を変革させ、「語り始めた」こと。
 そこに、彼女の「あたらしい自由」が生まれることを熟知している「凄さ」がもう一つの
「凄さ」であると言い切れる。
 パリ30数年で、自らが体験し、身につけた”ボキャブラリィー”によって、
自らの”リスクとコスト”を背負い込んで「覚悟」ある新たな自分のモードの世界を語り始めた。
 このことそのものが川久保玲の「凄さ」でしかない。 
 彼女は、彼女自身で、「モードのボキャブラリィー」を新たな自由で語り始めたことが
「凄い!」のである。
 作品とはその結果でしかない。作品を生み出し、残すことが目的ではなく、常に、
「自分のあたらしい自由」を見つけ出したいデザイナーでしかない気骨ある稀なる
デザイナーである。ここが、昨今の「自称アーチスト」や「壁紙デザイナー」たち輩との
人格と品格の違いである。

 
「ありがとうございました、川久保さま」:
文責/平川武治:巴里市ピクパス大通り:

投稿者 : editor | 2016年10月11日 02:52 | comment and transrate this entry (0)

パリ・コレクション-ここ3シーズン、成長し続けるUNDER COVER/2017/春・夏コレクション。

「モードのキャピタルは”RAP・WORLD"に色目を使い始めなければならない。」
 景気の悪さがストレートに見えてしまうのが、巴里のファッション・ウイークの怖い
ところだ。ジャーナリストたちはプロが少なく、バイヤーたちは古参が多い。
その中で、ブロガーと称する若者たちが”すきあらば”と言わんまでのセルフ・プロパガンダで
会場の前だけは異様な空気と盛り上がりを見せる。が、”ゲットー”の中は変わらずのこの世界
独特な淀みしか感じられない。当然だが、この空気感はその後、始まるランウエーのコレクションの表情と顔つきにも漂う。

 街の顔つきも当然だが30年前とはすっかり、変貌した。
判りやすく街の表層は”綺麗になった。”だが、昔の否、本当の「巴里」を生きてきた人たちに
とってはその全てが本当に”遠い、いにしえ”の風景になってしまったと嘆く。
 これは何も巴里という街の変化だけに限ってはいない、この街のモードを同じように30年も
見続けている僕のようなものには”モードのキャピタル”も同じベクトルで変化し始めなければならないと感じ始め、一つの時代を脱皮しようと、変わり始めたシーズンだった。

 「誰が、新しい顧客なのか?」「誰に売れば、モードとして輝きが廃れないか?」
「誰が金持ち新興スノッブ人種なのか?」「誰がパリ・モードを美しく着こなせるのか?」

 
 そんなこの街のメタフォルモォゼの近い過去として一番、ノスタルジックにメランコリックに思い起こさせてくれるのが’60年代半ばの”ジャズ イン サン・ジェルマン”だろう。
 例えば、既に、YSLが亡くなり、つい先月もS.リキエルも亡くなった。彼れらたちの時代が
どんどん遠ざかってゆく。それはオーディエンスも然りである。
 こんな懐かしい時代のアトモスフェールとジャズをテーマ・コンセプトにとてもハッピーな
コレクションだったのが、UNDER COVER、高橋盾が見せてくれた世界だ。
 素材が勝負の時代にジョニオ君が選んだのは”ニールド・パンチング”による異素材の組み合わせという、こちらのデザイナーにはまだ高価でこの手法が一般化されていない世界。
ここで、白人デザイナーたちから1歩リードを取った。
 ローブやトップスにこの手法で”JAZZ AGE"なるモチーフで彼のポジティフな世界を見せてくれた。ここに漂っていたのは「メランコリー」「ノスタルジア」そして重なる、「ロマンティック」や「ポエジック」が表層に転写によってデコされてた世界。極め付けのアイテムはこのデザイナーの凝り性な性分がレザーブルーゾンに現れる。あのM.レイの写真に見られる音符記号などが嵌め込み手法で丁寧に、豪華にブルーゾンになる。全体的には”ストリート・テイスト”をラグジュアリィーにまとめたシーズン。そこにも彼が提案する”ストリート・エレガンス”が溢れる
うまさ。このうまさは、彼のコレクションが年々、評判を呼ぶまでの上手さの証であろう。
 彼が上手いもう一つはいわゆる、”小物類”のデザインセンスとそのまとめ方である。これらによって、より、「UNDER COVERの世界」が耀く。
 フィナーレはこのメゾンも「トランス・ジェンダー」、メイクもすっかり変え、スーツの素材も打ち込みのしっかりしたメンズ素材で仕立てられたボディーフィットしたスリムなボーイッシュ・スーツ。カッコいい!!
ありがとう、ジョニオ君。
文責/平川武治:巴里、ピクパス大通り。

投稿者 : editor | 2016年10月11日 02:15 | comment and transrate this entry (0)

2016年9月30日

’16/’17・ 秋冬のコムデギャルソンのコレクションと「裸の王様」

 実は、この原稿は先シーズンのCdG,川久保玲のコレクションを見た後の、後味の悪さと心のざわめきによって書いたものでした。
 その後、しばらくまとめることができず放置しておいたのですが、先シーズンのオム・コレクションで、再びこのCdG・HPがやってくれたのがこの童話「裸の王様」を一つのコンテンツとしたコレクションだったので驚いた。

 
 <今回、彼女の自身のコレクションがもうすぐ、ここパリで行われるので再読し、
まとめたものです。>

 皆さんは童話「裸の王様」を読んだことはありますね。
 デンマークの童話作家、アンデルセンが1837年に発表。原題 "Kejserens nye klæder"であり、日本語に直訳すると「皇帝の新しい服」となるいわゆる、二人の服飾ペテン師の話です。
 アンデルセン自身もユダヤ人でしたからこの童話は多くの比喩がなされていますね。
この童話の幾つかの比喩が現在のファッション・ビジネスの世界を構築している根幹の全てです。
 この童話が世に出たヨオがロッパ世界の1837年には、あのモールスが有線信号を実用化し、「産業革命」という言葉が初めて使われ始めたのもこの年からであり、ヨオロッパで新たな市民社会が躍動し始めた時期だったのです。「衣装品」の世界も手工芸の機織りから機械生産が、そして1840年にはミシンが誕生しいわゆる、量産が可能になり始めた時代でもあったのです。
 だから、僕が見てしまった40年間ほどのファッションの世界も未だに、この童話「裸の王様」の世界であり、社会環境というよりは”技術”の発達と進化によって齎された生活環境が変化しただけであって物事の”善悪”と人間の”業欲”の根幹はほとんどこの時代によって構築されたもので、以後、これらは”普遍的”でしかありません。

 *
 "The fashion is always in fake."と僕はよく発言します。
が、この発端は僕なりのこの「裸の王様」の読後感とその後の経験からの言葉で、この”FAKE”で成り立っている世界そのものがやはりファッションの世界なのでしょう。
 これは作り手であるデザイナーや売り手であるセールスマンそして、作られた作品としての服がこの”FAKE”で成り立っている世界だということです。
 そのファッションの世界が今では、広告産業と化してしまったということもこれで納得がいくでしょう。広告産業の根幹もこの”FAKE”ですからね。”FAKE”をイメージやクリエーションと訳せば事は簡単です。
 そうすれば、「アート」の世界をこのファッションの”FAKE”側に立っている人たちが渇望することも理解できますね。現代美術とはユダヤ人たちが作り上げた”芸術”という構造の上に立った20世紀最後の一番、知的で教養あるそして、巧妙な”FAKE”ビジネスの世界だからでしょう。
 その世界を見習ったファッションの世界の作り手であるデザイナーたち自身の立ち居場所とその”来歴”には多くの ”FAKE”が見つけられます。
 これは僕のパリモード30年の経験で言える事です。当然ですが、日本人デザイナーたちの多くもこの部類の人たちです。何かしら、自分の経歴や来歴それに、育ちや環境について、学んでいないのに学んだようにまた、自分が作っていないのに自分の創造のように発言したりと平気で偽りの厚塗りを行ってその立ち居場所を虚構している人たちです。
 僕が自分の立ち居場所であるこの”ファッションの世界”の人たちとの関係性を世界レベルで30年以上見てきた経験と体験からやはり、「この世界の人たちで、”尊敬”できる人たちが少ない。」と言い切っている根幹はここにあります。あまりにも彼らたちの多くが”小さな嘘”を当たり前のように吐く。
 そして、彼らたちのセンスと教養をより、上塗りしなければならないために、解ったふりして
”持ち上げている”人種たち、ファッションメディアとその周辺での傍観者たちがファッション・ジャーナリストと呼ばれている殆ど、”パラサイト”な人種たちです。
 この虚構構造を企業構造として”カネと小さな嘘”でジグソウパズル・ゲームよろしく”上書き”
を絶えずしながら「壁紙」を堂々と強かに且つ、楽しみ、カッコつけが厚顔に出来る現在の立ち居場所に君臨してしまっているデザイナーたちが”巨匠”的存在になるのもこの世界の特徴でしょう。ここには「純金の輝きから、鍍金の輝き」になってしまったビジネス社会の表層と現実があります。
 この多くの事実の根幹は周りから「自由な発想でカッコよく、出来れば少し、知的に見られればいい。」のレベルでの”FAKE”です。だから罪にもならないのでしょう。例えば、このFAKE構造のためのシナリオを書いたり、自分たちのデザイナーをより、”鍍金の輝き”にするためにプロテクトする立場の人たちが”プレス”という職域の人たちと彼らたちに”パラサイト”している先述のファッション・ジャーナリストたちで構成されているのがこの「裸の王様」をコンテンツとした世界であると実体験してきたのが僕のモードとの関わりの30年でしょう。
 もうひとつの世界とは、この「裸の王様」では”イカサマ”をした彼らたちが関わらなかった、実際に「服」というモノ=消費財を生み出す世界、”生地屋さんと縫製工場”の世界があります。
しかし、多くのジャーナリストと呼ばれる側の人たちもこの実世界には立ち入らないしまた、
入れない。この世界では”作る”ことが勝負の世界ですからどれだけの”モノ”を作れるかという
”実世界”なのです。だから、この世界へ立ち入るのは”業界”メディアとされている、より専門的な視点とスキルと経験を持った殆ど、”職人的”なあるいは、より専門的な職域なのです。
現実には”素材”や”縫製技術”を語れる経験と教養とスキルを持ったジャーナリストという立場の人たちが少数でありまた、”メディアという広告産業+e-コマース”の発達でほとんど必要なない世界になってしまっていますね。
 したがって、この世界はデザイナーたちがどれだけの”金の卵”を生み続けられるかによって、
この構造の規模が違ってくるだけであって、”ピン”は世界のラグジュアリー・ブランドのデザイナーたちから、”キリ”は東コレ構造にパラサイトしているデザイナーたちの現実状況でしょう。従って、プレス業務とはそのためにどのようなメディアとお付き合いをするか?あるいは、どのようなジャーナリストたちとお友達関係を築くか?が具体的なお仕事ですね。
 この現実も世界に出てみるとファッション産業の世界はほとんどがユダヤ人民族で構成されているという事実に関係しているでしょう。彼らたち民族の秀でた特性の一つに”美意識”が高い事と”無いものを在るように見せることが上手く”そして、白人にしては”手先も器用”です。この彼らの特性は「アート」の世界やファッションの世界に特出した特性なのです。
 例えば、「付加価値」という言葉、確か’80年代のマーケティングの世界で言い尽くされてきましたが、彼らたちはこの広告業界の根幹コンテンツ、「付加価値」の創造が秀でて上手いこと
でしょう。そして、「ユダヤ人世界」という普遍的なる”関係性”を堂々と使いこなせるもう一つの強みを持っている民族だからでしょう。
 例えば、この歴史的現実を学ぶには、二十世紀の当時の新しい学問であった”精神分析”と”心理学”から大衆と少衆たちをどのようにマインドコントロールしてきたかのプロセスとその結果、広告産業を生み、政治へ利用し、中産消費社会構造を誕生させたプロセス。この二十世紀における資本主義社会に何が重要な課題であったかとともに、これらをドキュメントフィルムにまとめられた素晴らしい、力作があります。
 原題は"The Century of the Self"、「自我の世紀」という訳されたもので、G.フロイトから戦後の”消費資本主義世界”がどのように彼らたちによって、コントロールされて二十世紀という時代が生み出されてきたのか?約3時間以上に上る英国のBBC放送局が制作したこの世界のドキュメントフィルムの素晴らしいものが現在でもユーチューブで見ることができます。
(興味深い英國BBC制作のドキュメントフィルム:参考/"The Century of the Self":
https://www.youtube.com/watch?v=eJ3RzGoQC4s
 ここでみなさんは理解されたでしょう、「実際に、服が作れなくても、作らなくても、さも自分が作ったような顔つきを上手に、したたかに素早く権力者にあるいは、お金持ちたちに取り入れば、関係性を構築すれば、自分たちは美味しいものと女たちにありつける環境が手に入る。」この実際の世界を比喩したのがアンデルセンの"Kejserens nye klæder"「裸の王様」という”童話”ですね。ここには、それなりの人たちがファッションの世界に憧れる根幹がすでに、コンテンツ化され、学び、深読みできる童話になっていますね。

 **
 昨年来、敗戦後の日本が根幹の「倫理観無き世界」が原因の不祥事が続々と表層化し、メディアが面白がって過敏に、過熱報道し始めています。現在ではその渦中にいるのが「舛添東京都知事の倫理観無き行為」でしょう。(早いものですね、今では、もう誰も語らなくなりましたね、わずか10ヶ月前の不祥事ですが、)彼の場合も”世代”と”育ち”にありますね。”世代”は戦後の荒廃期そして、”育ち”は自分から「在日」をカミングアウトをしてその立ち居場所を両義性あるものにする。ここには「ユダヤ人」たちの手法と同類性を見てしまいます。
 敗戦後のあの瓦礫の世界から1日も早く生え抜け出すためには「倫理観」ほど無力、無益なものはなかったのが現実でした。これは”敗戦後”を実体験して生き抜いてきた世代の人たちの現実/リアリティでした。従って、”戦後日本”の”中産階級”構造を現在のような「B層」構造に構築化してしまった元凶は「取り合えづは、、、」という言葉と「倫理観無き世界」の「根性論」構造が産み出したもの。この世界で多くの彼らたちは自分たち家族のための「ガンバリ」を、戦前の日本にはあったはずの含羞を捨て去り、根性で生き抜いてきた人たち”育ち”の賜物でしょう。それが70年を経た今、「舛添東京都知事の倫理観なき、反省なき行為」でしょう。
 戦後日本のファッションの世界を省みても彼らたちの戦後の功績は実業界と芸能界やプロスポーツ界のみならず、案外とファッションの世界にも多いのです。彼らたちの「ガンバリ」と「根性」によって、自らの”立ち居場所”を「革新」できるという敗戦後の「自由」の社会が存在し、その「自由」を謳歌した人たちが60年代後半に生まれた世界、”マンション・メーカー”から始まりその後の、東京デザイナーたちへ引き継がれていますね。次なるは、彼らたちのこの世界へ当時の”カウンターカルチュアー”を読み込み、”カッコイイ”と憧れてやってきた「団塊の世代」たちによって事実上、模倣されたファッション・ヤッピーたちのもう一つの現実が日本のファッションの二つの構造世界を構築してきました。

***
 コムデギャルソンのデザイナーである川久保玲の先シーズンは彼女の高齢化とその立ち居場所を死守するというこの世代のデザイナーが誰しも向かう”最後の困難”へ挑戦した。この至難な困難さは前シーズンに既に、その兆候が見られた。
 その大きな一つは、もう彼女が作り出す”創造の世界”のエレメントが使い古され始めたこと。8シーズン程も続けたこの彼女の変わらぬチャレンジ・シリーズもある種の、マンネリ化をもたらし始め、見る者に新たで強烈な時代感が感じられるまでには至らなくなった。使いまわされ始めた”エレメント”をファッショントレンドで出された素材でまとめ上げられるという手法に陥ってしまった。かわらづ続けて見せていただいている僕にはここにエネルギィイの欠如感とソースオブザクリエーションが新しくなくなってしまたと感じる。
 ここにはこのシリーズになってから常に変わらずに登場する一つのパターンがあった。2008年にアメリカで行われた展覧会で刊行された「MASK」は彼女のコレクションのソースブックであったろう。また、2012年にドイツで発行された、C. Fregerがまとめた東ヨオロッパにおける民族サイトその衣装写真集、「Wilder Mann」からも最近では影響が見られ始めた。この「MASK」からの1体は前シーズンまで使う素材をそのトレンド性に合わせながら引き継がれ使われているし、多くのインスピレーションを「Wilder Mann」からも感じ取れるコレクションが多くなってきた。
 確か3シーズン目では、僕はこのデザイナーは自分の「自伝」を作品によって語り始めたのであろうか?と言う迄のかなり、辛く、苦しいピアーなエレメントをメタファーすることが出来たが、次なる前シーズンはその激痛はなく、先シーズンはでは、どのようになるのだろうか?が僕の一番の関心であった。
 そして、先シーズンの彼女のコレクションはより、蛇足的になり、わかりやすい”ファッショントレンド・アート的コレクション”でしかなかった。使われたエレメントも時代との関係性からは、全く創造的な価値観は無くなり、今シーズンの新たな新しさとして若手デザイナーたちからぼつぼつ登場し始めた、「without sewing」の世界観までをも感じられた。
 僕的なる視点では彼女の制作チームが変わり、この制作チーム力が”弱い”あるいは、”若い”もしくは、彼女がやりたいことが十分に伝わりきれずに”発車”してしまった。なので、「このままでいいもですか?」という気持ちが後に残ってしまったのが先シーズン。
 「CdGの川久保玲で在り続ける」こととは、これが今の彼女の”こゝろの有り様”であろう。
実際に彼女が取り始めた戦略とは、「特異性」の維持であろう。
 当時、このブランド名からしても、”巴里大好き!”な、憧れであったモードの街、巴里へ進出して以来のブランド・デザイナー川久保玲の見られ方は、決して、この街の”ファッション体制”
に媚びない。という一点であっただろう。そのためにどのような服作りとイメージ作りをして行けば良いか?そのための”資金”も必要。この時に彼女が採った立ち居場所は「パリに居て、巴里から遠く離れて、」というまでの「特異性」を構築することであったはず。
 その結果と、延長が現在の彼女の最近の作品群と方法になってその”立ち居場所”を今も堅持している。この「凄さ」は凄い。先シーズンの作られている作品を見る限り、一つの見方は”リアリティ”がなくなり始めた。という視点である。このデザイナーが持ち得た”リアリティ”と実際の作品との関係性が普遍性になってきているからだ。この根拠はやはり、彼女の最近の「特異性」にもファッショントレンドが重なり始めているからであり、その「創造のための発想」の拠り所が
”机上”からのものが多くなってきていると感じられるからである。
 以前のこのブランドの「凄さ」とは「リアリティ」に所在していた。時代に対してのリアリティ、着る女性が感じたいリアリティとしての「リアリティある」あるいは、「リアリティを感じさせる」までのフェミニズムを軸にした「特異性」があったが、それがなくなってしまったという見え方である。ヨオロッパの多くのファッション・スクールの審査をやらせて頂いて来た強かな経験の僕にはしたがって、コレクションのクオリティが下がるとその見え方は「スクール・コレクション」の域になってしまう。ここ2シーズンの彼女の「特異性」は残念ながらこのように見えてしまった。
 彼女の”実生活”からどのような時代観やそれに対する「カウンター」を持ち得ているのか?
が見えないし、感じられない。しかし、僕がこのブランドのコレクションを'85年来の長い間見せていただいている限りでは、川久保玲というデザイナーは以前からこのような”自身のボキャブラリィー”での「カウンター・カルチャー」は持っていなかったのが現実だ。寧ろ、周りのメディアによって意味付けされてきたものを良い処取りする手法を使ってきた。例えば、「寡黙なデザイナー」で代表している風潮がこれを物語っている。多くのデザイナーたちがメディアに映り出されることが大好きで、喋らなくてもいい事を喋ってしまう現実からの距離感を持つこと。それが「特異性」という手法でしかなく、ここには彼女自身のボキャブラリーによる発言は存在していない。ここで、「彼女の作品が全てを語っています。」方式のプレス対応が可能で有効打であった。彼女がメディアへ語ることは”時代の優柔不断さ”や自身の立ち居場所における不満足な状況を嘆く程度でしかない。
 しかしながら、今の若い世代のコレクションに共通する不足分も、彼ら世代が現実の社会や時代性にどのような、どれだけの「対抗意識と感覚」を持っているのだろうか?ということである。彼ら世代からも、使い回され、もう古くなったかつての「カウンター・カルチャー」から、自身のボキャブラリィーによる「カウンター」を感じることが少ない。ほとんどが時代に”サーフする”ことあるいは時代の”壁紙”であることに始終しているレベルのコレクションである。
 この現実ではやはり、現存、活躍するデザイナーではやはり、CdGの川久保玲の仕事は異色であり、狙いの「特異性」を大いに感じさせられるまでの「自我」がある。それが、殆どのオーディエンスがショー後の嘆きにも感じられる「凄いですね。」が全てとなる。どの様に、なぜ「凄い」のかは不明のまま。そして、この「凄い!」は結局は彼女の「特異性」への”頑張り”に至ってしまう。
 今、この彼女の「特異性」に何の意味があるのだろうか?
そして、この彼女の”ガンバリ”とは極論、自分のため、自分たちのためのそして、このデザイナーを崇拝する人たちへの「頑張り」でしかない。だが、ここにこのデザイナー個人の「風土」としての時代観を感じてしまうのは僕だけであろうか? 
 当然、日本人がこの街で、この世界でこの”立ち居場所”を堅持し続けるには彼女が為すこと、全てが至難なことである。大変な「リスクとコスト」を払わなければならない。従って、ここで、現在のこの計算し尽くされた”企業形態と構造とその構成”が大いに世界の「ファッション・シンジケート」においては役立っていることも確かである。現在、若いデザイナーたちが見習うべきこととは、このCdGというファッション企業のビジネス形態とその構成とそれから生まれる「関係性」そのものが必須である。
 しかしながら、未だにこのCdGの表層に影響された「コムデギャルソン・チルドレン症候群」を持った遅れてきた若者たちの「自己満足世代」がこのパリを訪れてくる。

 僕はこの2シーズンのコレクションでは同じようにある種の「コムデギャルソン・チルドレン症候群」を持って訪れたはずの”UNDER COVER”の高橋盾のこの2シーズンのコレクションに大いなる拍手を送り、軍配をあげたい。特に先シーズンは見事にあるレベルを超えてしまった彼のピジティフな「凄さ」と「リアリティ」を体感した。デザイナーのジョニオくんが持ち得た若い頃からの”リアリティ”がうまくコンバインされ、ブリコラージュされ始めたことが一つの素晴らしさを生み出す大きな要因になっているところが、CdGの現在と違うところであろう。彼自身に大好きなものへの「癖」と「嗜好」が詰まっているからだ。
 見せていただき、感動と幸せ感がいっぱいだった。ありがとう。

****
 そして、先の6月のシーズンのCdG・H.P.のコレクションに現れた童話「裸の王様」。
いや、参りましたね。このロジックがここに現れたかというまでの見事さ、新鮮さと可愛らしさ、ある種の”マジック”。アイディアは以前、'96年頃だったかと思うのですが、A.P.C.のジャンが既に行ったシリーズ。ここで彼は既に、大胆に”塩ビ”を素材にブルーゾンなどを発表していた。(その実物を僕は大好きな服の一つとしてコレクションしている。)
 これの同じブランドの”オムコレクション”を見てしまうと、このブランドの女性物と男性物は誰がいったいデザインしているのか?という、また僕らしい、いやらしいく、穿った考えが横切ってしまう。

 では、明日のショーでは、どのような世界で「特異性」を見せてくださるのだろうか?
招待状が未だ、届かないパリピクパス大通りにて、平成28年9月30日:
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2016年9月30日 18:13 | comment and transrate this entry (0)

2016年9月28日

ありがとう、中里唯馬くん。彼が生み出した「あたらしい自由」とは、

 第2部;
 その彼が持ち得た他者たちとの「差異」とは先ず、彼の「生まれと育ち」にあり、それは
”EVERYTHING SO SPECIAL"であった。
 ご両親が、自分達が持ち得た「美意識」を持って、必要なる環境を自分たちが信じるその
「美意識」と「価値観」に委ね自分達で想像し、造形し作り足してゆくという「生活環境」そのものを生み出してこられたご両親である。彫刻家であるお父さんは”家”という生活住器”を、お母さんは”生活雑器”と”食物”をそれぞれが担当分担した生活環境で大事に育てられた。この彼が持ち得た”風土”としての”生まれと育ち”はこの世界の、この時代感では結構、大切な要因である。
 表層の豊かさすなわち、物質的豊かさの環境を持ち得た人たちがこの世界に入って来やすくなった時代性では、どこか人間個人の"癖”が必然な世界でもあるからだ。ある時代までは”逆境”という状況が一つのエネルギィイを生み出す環境状況であったが、現代の日本社会の日本的なる豊かさで生まれた”液化状況社会”では当然ながら”生まれと育ち”は大切である。
 例えば、戦後の”在日系”の人たちは自らの新たなその立ち居場所を彼らたちの”ガンバリ”で金と知名度によって求めた。最近では、”ふとん屋の息子”はアカデミーで、”ふとんカバー”をネタにし、”髪結い亭主”然とのらりくらりと虚言と金の力を必要として戯れている輩もいれば、新興宗教のお陰で育った人は新興宗教に委ねている。農民中産階級の出身者たちは何か在るモノがなければ生む出せない。また、職人の息子たちは職人的器用さと細やかさと頑固さを持っている。
これらはいい意味で日本人的なる精神癖であり強みであり、これらがその後のものつくりに大いなる影響をもたらす。よって、自分の”生まれと育ち”をよく吟味することも、自分世界を創造するためには大いなる根幹である。この育ちを偽って為されることのすべては”本物”ではないだろう。どこかで、自分ではないことをやっているという不安感が横切るがこれらが”ガンバリ”になっていることが実際であり、そのレベルが現実を生んでいる。
 「自由」とは身勝手なことをすることではなく、本来の「自由」とは”自心のこゝろの有り様”に正直に行為すること。なのであるからだ。例えば、ファッションを学んできた人たちが
「アート・コンプレックス症候群」に陥る原因はこの「自由」の根幹を理解しないまま成長した人種たちである。
 そこで彼らたちはつかないでいい”小さな嘘”をつき始める。だいたい「俗物」と言われてしまう人間タイプはこれが多い。彼らたち「俗物」がメディア受けするのが現代メディア社会である。彼らたちは構造という名の”セフティー・ネット”が張り巡らされた社会の中でうまく飼いならされて生きているためである。自分たちの”生まれと育ち”という「風土」を自覚していないであろうし、自認したくない人たちもいる。そのような世代人はもう古い人間タイプでしかない。現代社会では新たな若い人たちの間で”風土回帰”としての”ふるさと創生”が歌われ始めている。
 ”創造”するとは自分の好きな世界で、自分の”世界観”を生み出すことである。したがって、
このような時代では自らの「風土」である”生まれと育ち”である持ち得た自らの”アイデンティティ”そのものが大いなる武器にもなり得るということだ。
 巴里のモードの世界はこのようなそれぞれの”階級社会”との関係性から生まれた美意識と技量と教養が備わっていなければならない”職人”たちが築き上げてきた世界だった。が、この世界がそれぞれの「マーク・ブランド」さえ付いていればメディアが喜ぶという世界へ変革してしまったのが現代の巴里のモード社会の弱さであろう。

 話を、中里唯馬くんに戻そう。彼には、モードの世界ではない世界での”特技”がある。”ヨーヨー少年”だったのだ。この世界でチャンピオンにまでなった経験を持っている。これとは、「自分の好きな世界で、競い合ってそして、見られることの世界観を体験している」と僕流には翻訳できる。したがって、”見られる”ことがどのように人間の心にある種のエネルギィイを生み出すか、即ち「見られる快感」とはどのような根幹なのかをも知っている彼が今度は”見られる人”のために作り出す世界を選んだこと。
 それが、今の彼の収入源である「コスチューム」作りである。これを為すことでも学ぶべきことは学び、自分の世界観の中にひとつのスキルとしてまた、技術として受け入れている。「見られる」という場合の”立ち位置”や、「歌う」という時の”身振り”とは?
 ここにも前述の僕なりの簡略な「風土」論が存在してる。多くの日本人デザイナーたちはこの「見られる快感」を体験していないでただ、「自己顕示欲」のみでそれなりの格好付けをして粋がっている輩がほとんどである。自分たちのセンスの悪さや洗練さのない行動、「フェミニズム」も理解されていない男たち、など等、、、
 唯馬くんが出発した彼の「世界観」はこのように僕的な読み込みをすれば当然の立ち居場所であろう。1枚の塩ビシートから始まる彼の新しさとしての「without sewing」というコンセプトで生まれた”モード・クチュール”。今後の可能性は沢山詰まっている。自分たちが覚悟を持って、堂々と掘って行けば、多くの新しい鉱脈が発見される。この世界がこれからの「あたらしい自由」の世界の一つへ繋げるであろう。
 今回の作品を”フォーマット”化しそのバリエーションをより、新たな感覚でまとめあげて行けば、無数の彼の「風土」から生まれた世界の可能性と新しさが生まれる。また、もう一つの世界、”コピーライト”へも届くであろう。
 ”一つの物質”である素材に新たな加工を加え新しい顔つきにする。その”1枚”のシート状のモノを立体化する。そこへ無尽蔵なまでのカットワークを入れ込む。これを”3D”化する。それを一片のピースとして、レゴブロックのように人体に構築してゆく。バランスを考え動きを考えそして美しさを構築してゆく。
 これらの行程はまさに、これからの「オートクチュールの世界」そのものであろう。
日本に古くからある「折り紙」の世界や西洋の「ペーパークラフト」の世界の合体と、古いローテックな手法と、PCを使ってのハイテックな手法と、人間個人のパーソナルな感性と技術をはい・ブリットさせたところで生み出される彼の「あたらしい自由」による世界。
 創造の世界におけるこの「あたらしい自由」のための数式とは、「ヒューマン・テクノロジー+サイエンス・テクノロジー+パーソナル・エクスペリエンス」であろう。

 「現代社会における”鎧”や”甲冑”とは?その新たな優しい必然性とは?」ここに、今後のモードの新たな可能性が垣間見られる。たとえば、女性にとっての「コルセット」はその時代においては一つの”鎧”や”甲冑”であった。では、現代社会から俯瞰可能な未来社会における”鎧”や”甲冑”
とは??? 「身体に着せるとは、肉に着せるのか、骨で着るのか或いは、皮膚に着せるのか?
または、心に着せるのか?虚飾に着るのか?立場に着せるのか?」
 もう一度、モードも、”生まれと育ち”としての「風土」であるこの根幹を再考する時代性が「あらたな自由」への始まりのように感じる。
ここから、モードの面白さが再び始まる。
 消費社会での豊かになった生活のための”生活衣料品”はファスト・ファッションに委ねればいい。

 ありがとう、中里唯馬くん。
来シーズンも君の「あたらしい自由」の世界を見せてください。
文責/ひらかわたけじ:

投稿者 : editor | 2016年9月28日 17:22 | comment and transrate this entry (0)

2016年9月27日

中里唯馬くんのクチュールの世界、 ”眼から鱗が落ちる 。”

『見えるものが実在するとは限らず、触れるものだけが実在する。』
大森荘蔵著/『流れとよどみ』より:
 
 先日のLEPLI-VACANT会で中里唯馬くんに参加していただき、彼の”あたらしい自由”による、彼が発表したクチュールの世界の誕生を語っていただき、僕は”眼から鱗が落ちる ”までのリアリティを味わった。「嬉しかった、ありがとう、唯馬くん。」

 「眼から鱗が落ちる 」とは新約聖書「使徒行伝」第9章からの引用のことわざである。
「何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになる」が意味である。最近のTVコマーシャルでも、このコピーはよく使われ始めているらしい。
 
 僕が今回の彼の作品の世界を彼自身から話を聞き、学ぶ機会を得たことで、”眼から鱗が落ちた” 一つは僕が3年ほど前に提案していた”僕自身のための『Without Sewing』”プロジェクト案とそのコンセプトが既に、”彼の新たな創造のための発想と努力と覚悟によって”見事に、美しくその世界を彼は創造してしまったという新しい出来事”の事実でであった。
 もう一つは、現実のファッションの世界が極論すれば、世界レベルで「日毎に、詰まらなくなってゆく」この現実に、彼が齎した”あたらしい自由”によってこれからもやってくるであろう
モードの世界が若い人たちによって再び、エモーショナル豊かな「美の創造」がこの世界で未だ、多くの”可能性があるという前向きな大いなる希望が与えられたことである。
 僕の長年の体験と経験から、このモードの世界は既に、”ユダヤ・コミュニティ”で構築され、ビジネス構造化されてしまっている世界である。したがって、日本人であれば、彼らたちユダヤ人との例えば、結婚やゲイ関係という手段を使って余程の強力な信頼か、金儲けにおいて関係性が確立されていなければそれなりのところで、それなりに扱われてしまう世界でしかない。
言い換えれば、日本人がいくら頑張ってもそれなりのところで”ウエイティング”が掛けられてしまうという現実であること。
 これはこのモードの世界における”創造性”においても然りである。
例えば、モードの素材の殆どは布であり皮革であり、縫製はミシンである以上はこの現在のある種の”ユダヤ・ルール”は不変であり、”世界基準”であることには変わりがない世界である。
 そこで、ではどのようなコンセプトと手段を持てば、彼らたちと一線を持って肩を比べまた、彼らたち以上に日本人としての特徴である細やかな美意識と表現手段が”ヒューマン・テクノロジー”と高度なる日本人の”サイエンス・テクノロジー”の合体によって創造され、それらをよりハイ・イメージングとスーパー・リアリティによって生み出される世界が可能であるか?ここで、日本の多くの若者たちは”大いなる勘違い”をその未熟な教養によって”アート”の世界へ逃げ足早く逃げ込むものが多いことである。特に、中途半端に海外の学校を卒業して、していないことをさも、出来るようにメディアにタレ込んだ帰国組の連中にこの現実が多い。ここでは、”アート”という詭弁を無教養に使ったもの勝ちという変わらぬ日本人村社会での現実であろう。
彼らたちは、”デザイン”とは?に対しての教養とスキルの根幹が教育されていなく心は”アーチストコンプレックス症候群”。”デザイン”の世界がなぜ、1919年に突然のように当時の社会へ登場したのかの意義もわからず。これは日本のデザイン教育の一端の表れと責任でもある。
 少し、話が逸れましたが、この問いへの僕なる回答が、「では、針と糸あるいは、ミシンを使わないで作る衣装」という”創造のための発想”が生まれた。ここでのモードに対するコンセプトは「着る」ことではなく、身に装うことである「身体装着」という発想である。
 そこで、日本の歴史を顧みると、「鎧と兜」の世界があり "experience・mode"の世界である。昔、アントワープ・アカデミィーの海外審査員をやっていた折に、いつも1年生の作品が新鮮で自由で楽しい世界を創造していたことも思い出した。その理由は彼らたち1年生の作品課題が"experience・mode"だったからであった。
 また、丁度この年より、日本にも”3D"プリンターが登場したこともこの僕の突飛な発想に
拍車をかけた。その結果が、この"Without sewing" というコンセプトになった。
 
 中里唯馬くんの話を聞く前までは、巴里のオートクチュールでわざわざ日本からショーを見せるためやって来た彼のコレクションを見る機会を持ったが、その体験では僕の評価は低かった。
 遠見で見せていた僕は暗闇から”輝く、蛍光&発光”体の塊が女性を装っているにしか見ることができなかった。このような塊だけであれば、もっと斬新な発想で使え見せることができるであろうとも考えた。この素材はどこかの日本の素材企業が考案した新しい技術によるもので、それを使っての世界観だろうという失礼な見方をしてしまっていた。結果、実に愚かで恐ろしい自己満足な見方であった。
 そして、今回の打ち合わせのため、彼のアトリエへ伺った時にその僕のうがった見方そのものが間違っていたことを思い知らされた。
 彼の今回の想い秘められた世界観の「コトの次第」は”1枚の塩ビ・シート”が発端であった。
 例えば、日本人は「神=紙」を上手に敬い扱って、関わってきた民族である。
ここには平面から立体へ変身する「かたち」の世界が存在した。今回の唯馬くんが想像した彼の世界観はここが根幹であろう。日本人がもつ単純で明快な原理構造を知っている若者が”あたらしい自由”によって為し得た、新らたな造形の感覚の素晴らしいさと頭の良さが生み出した世界感である。この彼の新しいものを創造する”覚悟と行為” これらに僕は見事に「眼から鱗が落ちた 」のである。
 素材としては、決して高価ではない、”塩ビ・シート”。これを、作業上における経済寸法を出してその寸法でシート化する。このシートに一定文様に近い切り込み線を入れてカッティングし、このカッティングの目を幾重にも織り込んでシートを”3-D"構造化してゆく。この作業によって、”1枚の塩ビ・シート”が小さなブロック上の立体ピースに加工される。すなわち、”レゴ・ブロック”の構造と同じ発想ともいえるであろう。この折り返しを”立体化”する時に小さな留め金具で一箇所づつこれも、手作業で止めてゆく。あとは、このブロックを人体に構成してゆく作業である。ここで”クチュリエ”本来の感覚と繊細さと持ち得たファッション・スキルとそれなる経験が必然となり、それを具現化してゆく”チーム”が必要でもある。ここが”農協デザイナー”や”壁紙デザイナー”たちとの歴然とした「差異」を彼は持ち得ていたのである。(後半は後日、)

投稿者 : editor | 2016年9月27日 17:35 | comment and transrate this entry (0)

2016年9月 2日

『ファッションがつまらないくなったという声がよく聞かれます。』

 「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”というリアリティ」 
ブルータス依頼原稿初版版より/平成28年八月記:

 『ファッションがつまらないくなったという声がよく聞かれます。』
 そうですね、つまらなくなったというよりも、魅力が無くなった或いは、面白く無くなリ、
ファッションが醸し出すキラキラしたときめきが日本の現代社会には必要とされていない
のかもしれません。
 嘗ての”原宿”で、風変わりな目立った格好をした「ファッション出たがり」や、たまに乗る
電車の中にも、もう「ファッション・バカ」は居なくなり寂しくなりましたね。
 そんなにファッションがダサくなってしまったのでしょうか?
或いは、世代が変わったことによって消費者の願望が変化してしまったのでしょうか?
或いは、現代社会ではファッションでカッコつけなくっても女の子にモテる時代になったので
しょうか?又は、 世間から”はみ出したい”からファッション・バカになるのが手取り早かった
そんな時代が終わってしまったのでしょうか?
 
 このファッションの世界とは”作り手”と”売り手”そして、”買い手”とその人たちの”世間”と
”時代”で成り立っています。この何れかがズレ始め、これらのバランスが崩れてしまったから
でしょうか?
 そうです。僕流に言ってしまえば、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた」のが
原因だと思っています。これは”ケイタイ以後”の現象ですね。
豊かさを持ち得た20世紀の人間が「あり得るべきはずの、”距離”の短縮化=文明の進歩
・発展」という命題にのめり込み過ぎた世紀の終焉、「距離の消滅」の完了によって齎された
「時間のパラドックス」が根幹でしょう。
 以後、”時間”はだんだんスローになっていきましたね。この当りの面白さは、
2000年にR.パワーズが書いた小説、「舞踏会へ向かう三人の農夫」(みすず書店刊)は
かつての山本耀司によって、彼のメンズファッションのネタ元にされたA.ザンダーを
主人公にして描かれれいるので余計に面白い小説でしたね。
 
 この”距離感”は”作り手”であるデザイナーにもそして、”売り手”であるディストリビューター
にもそして、”買い手”という消費者たちにも在ったはずのそれなりの”距離”が
無くなってしまったからです。
 当然、彼らたちが生活している”世間”にもその「あり得るべきはずの、”距離感”」は
無くなってしまっていますね。でも、”世間”ではこのような社会が望まれ、このような社会を
目指してきたのが戦後71年の目標だったのではないのでしょうか?
 これが時代や社会が”豊かに”なったということなのでしょう。或いは、”豊かに”なったから
このようなフラットでリキッド化した”世間”になったのかもしれません。戦後の日本社会は
合衆国によって「押しつけられた或いは、飼いならされた”普遍性”」によっていわゆる、安心、安全、快適という”セフティーネット”が見事に張り巡らされてしまった”世間”が成立しいます。
 敗戦後、解体された”日本の階級社会”はその後、倫理観無き輩たちによって「大衆消費社会」が構造化され、”消費者”と呼ばれる人たちもこの与えられたセフティネットの中で何を選ぶかの”自由”に戯れているだけの差異無き現状というリアリティですね。従って、ファッションと
その機能である装うこともこの管理社会の中で普遍性を持ってしまいました。
 この一因はファッション産業そのものが変革し、世界規模の大衆消費社会を対象とした
「SPA方式」による”ファースト・ファッション”が誕生し、これが予想外に”世間”に受け入れられたことですね。
 ここでのキーワードは”トレンド”は無くならずより、フラットな「世界水準」になって
しまったということです。また、人間の身体構造が不変故、ファッションデザインそのものも
100年以上を継続して来て、”作り手”は全く新しい創造性が生み出しにくくなったこと、
その必然性もなくなったこと。何よりも、作り手が持つべき”自由”に「あり得るべきはずの、
”距離感”が無くなり始め」どこかで見たもの、誰かが持っているものの方が”売れる”という、
”Variations of the Archives"の世界に佇み、”模倣”が”習慣”を生み出すというベタな、
G.タルドが既に、1890年に「模倣の法則」で指摘した時代性に至ってしまったことは
興味深いですね、ここにも”メビウスの輪”が見える世界観です。
 生活が”豊か”になるということは、その生活における価値観が変わりました。
例えば、ファッションという言葉の意味合いもその広がりや機能さえも、豊かさを享受してからは服だけの世界ではなく生活様式そのものへ広がりましたね。従って、服で装うだけでなく、
生活環境を装うという余裕も生まれたのでしょう。また、”豊かさ”ゆえに方法論としての術は
何でも有りの世界になってしまいました。ここには”作り手”と”買い手”にも、あり得るべき
はずの、感覚的な”距離感”も無くなってしまいましたね。
 従って、資金さえ十分にあれば、誰でもがそれなりの「壁紙デザイナー」に成れる、何でも
可能な時代性になってしまったことも”距離感”がなくなった一因です。
 かつて、オタクと呼ばれた”豊かなる難民”だった世代が今では社会の中枢へそして、まだこの
世代の一部は”自己顕示欲”が旺盛であった世代ですが、その後の世代は”豊かさ”の充足に伴い、性欲と同じなのでしょうか、”自己顕示欲”も減退し彼らたちは「自己確認世代」ですね。
従って、”繋がる”ことも踏まえた自己確認をSNSやインスタを駆使してヴァーチャルな上での
「ウオリー君を探せ」に勤しんでいます。ですから、彼らたちの足元のシューズを見れば
どれだけファッション・トレンドを潜在的に意識しているかの閃きが伺えますが、ここにも、「あり得るべきはずの、”距離感”」を寧ろ、無くするベクトルでその”世間”という塊に委ねた
生活者となっています。従って、彼ら世代にとってのファッションは彼らたちのそれぞれの
”塊”における”ユニフォーム”的発想のものでしかなくなったのでしょう。
 このような典型的な保守の進展という時代の追い風に立ち向かって行くにはそれ相当の
”覚悟”がいりますね。かつての、僕たちの時代には自分たちの持ち得たリアリティから
”はみ出す”すなわち”距離感”を持つ或いは、”ズレる”ために”覚悟”して生み出したものが
「カウンターカルチュアー」でした。
 このビートニック&ヒッピィー文化と称されたものが現在でも尚、使い古されています。
その検証的展覧会が今、巴里のポンピドゥー美術館でタイミングよく開催されています。(BEAT GENERATION展)
 そして、現在ではこのビート&ヒッピィー文化を生み出した”コミューン”形態が”野外フェス”で模倣、継続されそれが日常生活の新たな習慣になろうとさえしていますね。ここには、
その表層は同じようですが、”ドロップ・アウト”し、”距離感”を持つことで既存社会にアンチ
テーゼを示すことを生んだ「カウンターカルチャー」と、時代のトレンドとしての”スロー・
ライフ・スタイリング”という”距離感”無き根幹とに、その覚悟の相違が読めるのです。
 今の若者たちにとっての「カウンターカルチャー」とは何なのでしょうか?
”ストリート=パンク”というのももう古いでしょう。音楽がまた80年代初めのラップが流行り始めたことからそろそろ、グラフィティも出てくる兆しを感じるのですが。
 そして、やはり時代の風に立ち向かって行くには個人が持ち得た「文化度」が必然となるでしょう。
 日本からの若い「壁紙デザイナー」たちが巴里へやってきましたが、彼らたちの世界には
「情報のザッピング」と「見せかけのリアリティ」がちらつくだけでその奥に在るべきものが
見えないものがほとんどでしたね。この在るべきものとは、デザイナーというよりも、人間個人が持っているべき「文化度」ですね。それにブランドが持っている「文化力」さえも”壁紙
程度”、これではCdG HPとは勝負ができませんね。
 悔しいですが、このCdGという企業にはこの「文化度」があり、常に意識したファッションの
世界観を結果、その特異性を持って構築している、未だに「距離感」がある企業であり、
ブランドであり、デザイナーなのです。彼らはこの「文化度」を生み出すための「文化力」を
日頃から精進して「文化度」をどのようにセンスよく、その時代性に差異化し発表出来るか?
そのための企業力も凄い、その結果でしょう。

 最後に、僕が言いたかったのは、この時代の追い風に向かい合うためにはそれ相当の”覚悟”が必要であることと、そのための特異性を取り戻すには、「文化力」豊かな、「文化度」が
必要であり、その文化力が現代のファッションにおける新たな”機能”となり、”自由”を生み出し
その”自由さ”が新しさを感じさせるまでの世界を、そのブランド”らしさ”という言葉で
見せてくれる、ということです。
 僕がこの30年間、巴里で好きなファッションを見続けてきた愉しさと気概とは、
彼らたちが散らつかせる文化力に痺れ、「文化度」に喜びと感動を感じて来たからです。
この「文化度」は一夜漬けでは生まれないものです。日頃の教養と経験と持ち得た謙虚なる
リアリティと人間的なる倫理観から生まれ得る例えば、”メタファー””レトリック”
”アイロニィー”"アレゴリィー””ペーソス””ユーモア””メチサージュ”
そして、”エステティック”と”エキゾチズム”などなど、のものですね。
 これらは「壁紙デザイナー」には無縁なもの、だから彼らたちは”アート”をカッコ良いと
嘘ぶってしまうのでしょう。彼らたちが立っていたい場所とは、「消費文化」の情報量だけが
拠り所での立ち居場所でしかないようですね。
 だから、『ファッションがつまらないくなった。』とは、”あたらしい自由”を感じさせない
デザイナーたちの「文化度」の貧しさそのもので、自分善がりもいいところでしかないのです。 そこで結論的には、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”という
リアリティ」へ新たなバランス感覚ーまさに”NEW BALANCE”ですね、ここでも消費財が
その新たなバランス感よりも先に、リアリティを生み出してしまった消費文化しか生まれない
東京、、、、だから、「あたらしい自由が見つけ出せない壁紙デザイナー」と「あたらしい自由を必要としない消費者」という”世間”とそれらを煽るメディアが我が物顔になってしまった
ことが元凶の日本のメンズ・ファッションの世界でしょう。
 巴里まで行って「壁紙デザイナー」の世界を見ることは僕にとってはただの”ノイズ”でしかありませんね。

 現代日本の社会には、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”という
リアリティ」のみが漂っているだけなのでしょう。
 ファッションの世界も"あたらしい自由”によって、新たな立ち居場所を教養と経験と勘と
そして、文化度によってまず、次なる時代を見つけるべきであり、そのための歴史を知り、
明日を夢見るアドベンチュアーヘ覚悟ある始まりを探さなければならないでしょう。
 
 何故ならば、もうすでに「近代」はル・コルビジュェが”世界遺産”になってしまっている
からだ。
文責/平川武治:

参考/
G.タルドの*「模倣の法則」/河出出版新社刊、2007年初版:

                                     

 

投稿者 : editor | 2016年9月 2日 15:32 | comment and transrate this entry (0)

2016年3月 1日

2ヶ月遅れの、今年の初めに。「”シュプレヒコール”は左翼崩壊までの子守唄だったのですね。」

「もう数日後にはまた、新たなるコレクションの流れが吐き出されるというこの場に及んで、書かなければならないこと。」
 新年に考え、念い込んでいた事は、僕たちの国が、これからの子供たちのためにどのような
こゝろの有り様を、念いを掛けているのか?とても、心配でなりません。
もう5年前の出来事位なってしまった天災災害を表層に押し出してその横で、金儲けを企んだ
大手企業。そして、その後ろへ追いやられてしまった実際の被害者たちと”原発企業事故”問題。
 彼等たちは今後の国土のこと、子供たちのことを心せず、自分たちの目先の”業”の世界を
目論むばかりでこの5年が来ようとしています。ここにもいわゆる「格差社会」の現実しか
読み取れません。
 戦後、70年を経てやっと、お許しを出してもらった「軍需産業」復活=工業立国化という
アメリカを中心にした軍需複合産業から与えられたシナリオの現実化が今の安倍政権の根幹。
その代償はUSAの軍事防衛費を軽減させ、なお彼等たちへの軍需発注の強化。
(昨年計上された予算の増額比率では軍事防衛費が年金福祉や教育費よりもダントツに増額トップという現実。)
 僕たちの国の現実の弱体化=国債国家を修復させるために選ばれた策「工業化立国」案。
そのための「軍需産業の復活」。そのためにも必需な「動力源」確保がこの「原発再稼働化」の根幹。ここで生まれる、新たな”利権=天下り”に有り着くための政治化と政治家たち。確りと
立ち直り始める”旧財閥”しかし、これからの彼等たちには戦後からの”ユダヤ資本”がべったりと既に、コバンザメのごとくひっついてしまっているのが見えそうで全く見ていない現実。
 メディアも既に、”節穴”、御用メディアもいいところ。
メディアの役割である「社会教育」も偏る一方。

 『あの、’60年代も終わりの頃の僕たちの”ヤジ”や”落書き”は何処へ行ってしまったのでしょうね。』
 時折、聞いてしまうジョー山中が切なく、悲しくしかし、心に溢れるように歌っている
「人間の証明」のテーマ曲。”あの麦わら帽子はどこへ行ってしまったのでしょう。”とともに思い出してしまうのですが、この歌を知っている世代も少なくなっていくばかり。
 結局は、敗戦という事実を切り札に「倫理観無き」輩たちに”ヤジ”や”落書き”は消され、
”カウンターカルチュアー”をすべて、王道の80年代消費産業のアイコンにし、売り飛ばした僕たちの世代。
 ”シュプレヒコール”は左翼崩壊までの子守唄だったのですね。
 ーーーなんてことを考えて迎えた新年でした。やはり、”歳”ですね。

 そして、10日も経ったん甘ぬるい正月ボケの脳味噌へD.ボウイが亡くなった、と。
僕のロンドン時代のリアリティがまた、一つ消えて逝きました。その悲しみとは、寂しさしきりで辛くもなりました。
 <F.B.へ書いたメッセージ>から、
『David Bowie(David Jones)が亡くなった。昨日、1月10日、彼の誕生日が幾日か前だった。

69歳を迎えて間もなく逝ってしまった、ガン闘病も虚しく。
 
どうか、安らかに永眠なさり、ご成仏ください。
 ’73年に彼と初めて出会った。
ロンドン郊外、GILFORDの路上でだった。彼のコンサートにわざわざ招待してくれた。
その後、”RED BUDDA"のロンドン公演のレセプションで再会し、東京のコンサートにも。
 悲しい。
彼は僕の青春時代の耀きの一つだった。
僕たちの青春にも老いが来、死が忍び始めた実感が
彼の死とともに感じつつ。  
生きることの一つに、 "Metamorphose"を人生の上で教えてくれた。
あの時代の彼のステージから、「存在感+行動+容姿」が
大切であることを彼の人生で教わった。
 悲しい。
たくさんの想い出に耽ります。
 どうか、燦然と輝く星に、
合掌。
 最近は、残された「Black Star」を聞いてしまっています。

 さて、モードの話をしなければ、 
パリのモードの世界はもう、すでに僕も発言しているように、「モードの世界=広告産業」という公然な公式になってしまい、その中での若いインデペンデントなデザイナーたちの必死に捥がく状況はひどくなり、狭くなる。
 この街もやはり『SPA』系がうまく儲けられる時代性とそこから儲けた資金によって新しい顔
つきを産み始めたからです。これは、日本のファッション産業も然り。
 ここ数年来、僕のファッションへの関わりの眼差しと視点は「ファッション産業」です。
日本におけるこの産業が今後、どのような状況を迎えることが良いのか?
そのためにはどのような視点とこゝろが大切なのか? 
”産業とデザイン”の何らかの新しい関係性が、これからのモードに興味を持って、
「仕立てる」ことを目指す子供たちへの好奇心へ繋がればというこゝろの有り様です。
 しかし、パリは”国策”に等しい方法でサンディカが中心になって若い才能と有望なスキルを
バックアップする側面も持ち合わせて、彼らたちの時代感から今後の「モードの巴里」の継続化に策を持ち始めていることも確かであり、始終している。これがこの国のうまいところであり、強く継続に拘る証である。
 例えば、数年前から始まった、サロン「DESIGNER APPARTMENT」サンディカが全面的に
バックアップし、選ばれる若手デザイナーたちはそのほとんどがあの”イエール出身”であり、
フランス素材と国内生産に拘ったデザインと工業性を展開している。

 では、東京の多くのインデペンデントであると自称しているデザイナーたちの状況はいかがであろうか?
 僕の目から見たら、この日本のデザイナーと彼らたちを取り巻くファッション産業そのものは
ここ30年はほとんど変化なし。ただ、同じレべルのデザイナーたちが入れ替わっただけである。
 彼らたちが得た社会での立ち居場所に立ち続けるための”discipline"がその彼らたちの作品と称する商品からもデザインスキルからもほとんど見られない。ここには”デザイン”とは何かの
根幹が意識として、彼らたち「壁紙デザイナー」には希薄でありまた、ただ間違った未熟なボキャブラリィーとして「アートとファッション」の二枚舌を使うのみ。
 このレベルのファッションデザイナーを取り囲む世界にもこれらの知識がほとんどなく、
古い80年代のデザイナービジネスにどっぷり浸かりきっているだけである。従って、
”東コレ参加”にぶら下がり「デザイナーぶる」ことに拘り、わずらわされている大勢の輩たちは
僕から見ると残念ながら、「壁紙デザイナー」として頑張っているのみ。
 デザインの役割には「社会と産業」にどのように関わって行くか?という使命がある。
そこに、商品としてのクオリティや価格のつけ方が見えてくるのであるが、作り手の一方的な
思い込みと”志”低い夢の勘違いから彼らたちの商品を街で見受けることができず所詮、自己満足の世界での「デザイナー」という立ち居場所を守っているだけの現実である。「東コレ」という恒例イヴェントに参加することでその彼らたちの立ち居場所が確保される構造が出来上がっている。主催者たちの予算獲得のための員数確保の自己防衛とメディアによる広告を期待しての持ち上げ報道構造とデザイナーたちの自己満足な「壁紙デザイナー」の堅持という三位一体化が蔓延しているだけの「東京ファッションウイーク」という”ゴッコ”が変わらず、30年近く続いているだけでしかない。
 変わったこととは、時代の変革によって、従来の「アパレルメーカー」がその土俵から”ファストファッション産業”に蹴落とされ、入れ替わった「SPA」型のブランド企業に完敗し、
エネルギィー切れでこの土俵から撤退しただけ。

 そう、今回は見せていただいてまだ僕が正式にこのブログに書いていなかった先シーズンのパリのファッションウイークで気にかかったデザイナーのことを書かなくてはいけない。
巴里ピクシム大通りより。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2016年3月 1日 01:38 | comment and transrate this entry (0)

2015年12月21日

少し、気になる「芸術とデザイン」の関係性を考えてみよう。

「芸術とデザイン」の関係性を考えてみよう。(1)
 昨今、「ファッションとアート」の際もラップされ始めてきた。
その”際”がより、不明瞭になり始めるまでの「物質的豊かさ」というリアリティが齎した新しい価値観の一旦だろうか?或いは大いなる自己満足の一旦のみ?
 その証拠に、日本で発信されるこの作品群はその殆どが、「手工芸の世界」でしかない。
”どれだけ、手間暇をかけました。でも、自分自身ではやって居ません”レベルの代物がほとんど。

1)まず、日本のファッションデザインの現状について、
 実際、ここ10年間ほどの日本のファッションアパレル産業はそのビジネスの展開においも、
実績に於いても然程の成果を見せていない。当然であるが、この直接的原因は”ファストファッション”の登場である。即ち、”低価格”と”トレンド性”そして、”資金力”と”生産インフラ”などが
主なる敗因であろう。極論すれば、海外から押し寄せた”黒船” =”ファウストファッション”と
日本発の”ファストファッション”のそれらによってグローヴァルな販路においても負けている。
 従来までの日本のアパレルファッションの販路はその殆どが彼らたちの育ちと同じように
”百貨店”であった。その”百貨店”ビジネス本来が生活の豊かさという社会の変化に気付きその
ビジネス戦略を変革してからは余計にアパレルファッションのビジネスは苦境に陥った。
 しかし、巴里においても、アメリカやまた中国においても、ファッションを確かな一つの国を興すための産業と考えられた國策のもとで新たなブランドファッションビジネスが表層化されている。その結果、このデザイナーファッションビジネスの高トレンド化とそれをより魅力に商品化する工業力と広告宣伝のイメージ力を伴ってここ数年来、彼らたちは”百貨店”ビジネスで確立させたイメージング&ビジネスを”路面店ビジネス”へシフトをし始め、確実にこのゾーンでのビジネスをも伸ばしている。
 一方、”ラグジュアリーファッションビジネス”はその取扱品目を増やす方向でビジネスを広げてきたがその広げ方が今後、課題になってきたのが現在である。即ち、毎シーズン、新しいトレンド性を重視したメディア-ウケを狙った商品群をこれでもか、これでもかとデザインしてゆくには
”リスクとコスト”が掛かり過ぎることに懸念し始め、疲れて来た。そこで従来からのブランド定番商品をどのように周辺商品、コスメやバッグやジュエリーアクセサリィーとシューズ等に
よってその新しさを広告によって編集拡大してラグジュアリーのイメージを保ってゆくか?へ
シフトし始めた。ラグジュアリーブランドのトレンドモノを購入するのはアジアンマーケット、それもやはり、日本しかない。という現実を’90年代で学んだ彼らたちはそのビジネス戦略を
再び、日本へ向け直し始めた。そして、この日本が”観光立国化”戦略を新たな経済戦略の大きな柱としたこととリンクして最近の街の風景がラグジュアリーブッティクと共に変わり始める。
 では、日本のインデペンデントなデザイナーブランドビジネスはどのように進化しているのかあるいは退化してきたのか?結果は”変わらぬ自己満足の現状維持”化でしかない。
 日本のファッション産業のインフラを熟知し、それらと良い関係性を直接持って自分たちの
世界観でデザインしているブランドはそれなりに延びているし、少しは右肩登りで継続している。しかし、自分たちの倫理観と狭軌な”夢”の範疇で自己満足してしまっているデザイナーブランドは現状維持が精一杯であり、当然であるが今後が大変になって来た。
このレベルでの彼らたちは自分の世界観を好きなファッションの世界で、どのように表現すれば誰が買ってくれるのか?ここが見えないか、見ないでモノ造りをやっているのか、それに自己中心な人間性が加わっての現実でしかない。
 ほとんどのファッションメディアはスポンサーとの関係性で成り立っている世界である。
売れて来たブランドが何処なのか、どんな理由で売れ始めたのか?そんなことには無関係に近い。広告主ブランドとの協労によってあるいは、売れる為の情報をそれらしく仕込んでメディア化し売り上げを作り、広告費を確りと取る。この構造が現代ファッションの”広告産業ビジネスの由来である。そしてこれに、ファッションの世界で重要なウリである”トレンド”をどのように
”味付け”をしてゆくか?ここに、現代では”読者モデル=隣のトレンド=リアリティ”というアイコンを生み出し、そのシーズンの”売りたいアイテム”をメディア化”しているのが彼女たちファッション誌編集の生業である。そこへ訪れた、”パリコレ”情報を耳年増的に囁く。
 多分、日本にも人間的に確りと地に足を着け、自分の好きな世界でリスクとコストを掛けて踠いている若いデザイナーたちもそれなりに居るのだろうが、極小である。表層のメディアとその周辺の喧騒に侵されている彼らデザイナー、勘違いさせられてしまっているデザイナーたちが
目立つ。僕的には身勝手な自己満足のレベルを一つの”夢”としている輩たちがメディアにゴマを擦り、モテ騒がれてしまって、ちゃんと自分の世界観で時代を表現し、好きな服にこゝろの有り様を入れ込み気宇し、社会にどのようにコミットさせなければならないかを真撃に考えているデザイナーが少ない。
 この原因の一端は彼らが学んだデザイン教育にある。”デザインとは何か?”という根幹が理解されづ、解らず、教え込まれずに来てしまったこと。”モノ作りとデザイン”の関係性の意義と目的とその根幹が世界レベルで認識されず、ここにも戦後の日本の欠陥教育である”表層”の情報と模倣を教える、根拠なき世界を構築してしまった諸環境が原因。

 嘗て、経済恐慌とともに芸術を弄んでしまったヨオロッパ。
 その芸術から智と感覚を得たデザインによってその国を富める国に成し遂げたのが30年代からのアメリカでありここから近代ヨオロッパの没落が始まった。この現実には”アールデコと流線型”の違いがあり、これが”近代デザイン”の源流である。(デザインそのものの発端はイギリスにおける第1次産業革命からで、当時の機械生産化によってもたらされた量産と低コスト素材の誕生がその機であった。)
 今、またそれぞれの国家の経済現実は非常に貧困と弱体化し始めた時代が現在の国際社会の
一面でもあり、それぞれの国はデザインの自由な豊かさとその力によって自国の工業力と経済力を復興させる時代でもあり、発展途上国の工業化も加わり”インダストリアルとデザイン”の
新たなる現実が現代社会の先端である。
 先に述べたように、巴里もサンチェ系アパレルがそのほとんどのパワーを持ち始め、
ラグジュアリー系も彼ら達の歴史とルールを周到して確実に、富を築こうと”インダストリアルとデザイン”の関係性を広告産業化し始めたのも現実です。また、この国のインデペンデントな若手デザイナーたちを優先した国策的なショールーム(designers apartment)をサンディカが協力してここ数年来、催していることもこの国のファッションデザイン産業への新たな決心であろう。
ここへ招待してもらえるデザイナーたちはフランス素材使用とフランス生産が必修条件になっている正に、インデペンデントなフランス人デザイナーたちである。
 
 何れにせよ、日本のデザイン教育においては”デザインとは”、”近代デザイン”とはのデザイン理論の基礎根幹を蔑ろにしその教育の殆どを”表層”を模倣して形つくることに始終して来た。(いわゆる、専門学校教育のレベルである。)そして、”デザインとアート”の差異の根幹も理解せずに無知ゆえ、無闇にアートをもて囃しているファッション業界誌メディアとその媚びた周辺がこの日本のファッションデザイン産業を余計に中途半端な倫理観なき国家に増長させ、
”デザインと産業”によって新たな国力を生むまでには至らず、そのパワーは低下してしまったのがこの10数年のファッション産業であろう。政府が援助する”税金”がしっかりと産業にまで還元されず、先ほども言った、狭軌な小さな個人の”夢”と”倫理観なき自己満足”の変わらずの低レベルの継続化に使われているだけである。(最近の”戦後のツケ、デザイン編”はその殆どの根幹がここに所在していますね。)
 もう既に、「時代の豊かさ」はリアリティを持ちました。インスタ等の「リアジュウ」、そのリアリティからどのように社会とコミットし、産業化し、富と力を産む出せるのが”デザイン”という新たなパワーです。 そして、ファッション産業特有の「過去を消費してゆく」事をいかに、意匠化して行くかを考える時代性でもある。ここでのインデペンデントなファッションデザイナーたちの課題とは、”クオリティ、価格、生産構造、物流、ディストリビュート、イメージング、ターゲットなど等”は全て、”関係性とその勤勉なる開発努力”が根幹であるということの再認識化とそのための謙虚な努力であろう。
 持ち得たコンプレックスから、『無闇にデザイナー振ることに煩わされ、やっていないこともやったように、知らないことも知ったように学んでいないことも学んだようにイメージング』
する構造と立ち居場所はもう、”20世紀のトイレットペーパー”でしかない。
 彼らたちのブランドにおいての現代における”ブランド・インベンティブ(独創性)”とは?
従来のように、”いいモノ、クオリティの高いモノ”を作りことも大切だが、ここにはまってしまうと通例な、それなりのブランドで終わってしまう。”リアジュウ”な現代ではそれなりのカッコ良さやクオリティが良い事は普通なのである。従って、日本が持ちえた高度な”ファッションインフラ”/生地・素材と生産工場、メディア等をどのような関係性によって自分たちのブランドとその
世界観の中に落とし込んだ”モノつくり”が挑戦でき、可能に出来るかが課題でしかない。
 そして、ブランドの考え方やイメージングや美意識や音楽感覚や時代感にブランド・インベンティブが特化しているブランドとしての”インデペンデント”を考えることが今という時代のリアリティであろう。
 そして、今年で言えば、やはり、「ニュース」が新しさを提供しましたね。
国家の政策が変われば、それなりの新たな法律が生まれその法律が新たなる生活習慣を生む。
そうすれば、新しさが生活に自然に必需される。このような視点でデザインするとは?が、
インデペンデントな若いデザイナー諸君が持つべき創造の眼差しであろう。ここでは”外国人コンプレックス”だけでの発想では今後の日本のリアリティに生き残れないであろう。
 ”集団自衛権、東京オリンピック、カジノ、女性の社会化、移民受け入れ、軍需産業、道交法、
そして、観光立国化などは確実に今後の日本のファッションシーンを変貌させられる新しさで
ある。それに、”ゆとり教育”以降のZ世代の新たな価値観とヴァーチャルテクノロジーの共存化。
 そして、「WITHOUT SEWING」と「WEARABLE」は新しいキーワードとなった。
文責;平川武治: 

投稿者 : editor | 2015年12月21日 08:30 | comment and transrate this entry (0)

2015年10月 5日

安藤忠雄と川久保玲。あるいは戦後の”横文字産業”とは、

 巴里のファッションウイークが始まった。
僕なりの感触は”低調”。何か、”から騒ぎ”を感じてしまう。
本当は、”ショーどころ出はない”と言うのが本音であろう時代のシーズンに感じる。

 この街へ入る前に、コムデギャルソンのプレスヘインビテのお願いをした。
まず、その時に書いたメールから紹介しよう。
『”10コルソコモ”の件、
”やっぱり、来たか!”という想いで嫌なニュースとして僕は受け取ったのです。
僕はもう巴里へ着きました、どうか、お気をつけていらっしゃってください。
楽しみにしております。』
 この”10コルソコモ”の件とは、WWD N.Y.が(9月12日)書いた一文出ある。
http://wwd.com/business-news/financial/10-corso-como-tax-10220661/
『10 Corso Como Said Facing Big Tax Bill By WWD STAFF
MILAN – Concept retailer 10 Corso Como may be facing financial troubles. According to media reports, the store created by Carla Sozzani allegedly owes 4.67 million euros, or $5.27 million at current exchange rate, to Italy’s tax office Equitalia.

While Sozzani’s lawyers contend the retailer has asked to repay this debt in installments, Equitalia deems the store is unable to do so and is requesting Milan’s courthouse to declare its bankruptcy. A first hearing in the trial is expected on Wednesday, according to the online version of magazine L’Espresso, which also states that 10 Corso Como had requested Italy’s tax commission to allow an additional extension to repay its debt. The commission has yet to decide on the issue.
Executives for the retailer could not immediately be reached for comment.』

 この街へ来て調べるも、そのほとんどの日本人は知らない。日本からの人たちも知らない。
でも、この街では当然出あるが、一般紙にも報じられ、TVにも放映された。
それなりの”不祥事”である。
 僕たち、日本人から見ても”関係”は少なからずある、コムデギャルソンとの関係である。
一時は、東京での出店時には彼らたちは共同で会社を起こしていた。
川久保玲の夫とカルアさんとは同じユダヤ人コミニティでの大の仲良し。
彼、エイドリアンが現在のように”DSM”へ至ったのには彼女からの指導と教えがあっての今。
そんな彼女に、このような「脱税疑惑」と裁判所がついに動いた。
また、時が重なり、エイドリアン自慢のあのロンドンの"DSM"も移転を迫られ、
ドーバーストリートでは無い場所へ"DSM"は移転しなくてはならない羽目にもなる。 
 なのに、日本のファッションメディアはこのスキャンダルを皆目知らない。
決して、偶然ではなく、そのタイミングは当然、”狙われた”のかもしれませんが、長い時間、
かかってコードされていた案件。僕も、東京での”10コルソコモ”出店時に調べてこの状況は
知っていた。この裏には、カルアさんファミリィーがイタリーでの力あるファッション
ファミリィーであり、その力を少しでもという魂胆もあったからです。
ここには”ユダヤ人コミュニティ”の商法の極端さがこれほどまでに膨らんで出た事件であり、
この根幹は彼らたち、ユダヤ商法における”倫理観”の問題でしかない。
 多分、川久保さんも内心、心配なさっていたことがこのように表層化したまでのこと。
自分たちは当然のように”これ見よがしな生活ぶり”をし、行うべきことを知って居ながら、
怠る。この”倫理観”はかつての日本にもありましたね。この手法で大きくなってきた戦後の
日本企業はたくさんありましたし、その多くも”在日系”で在ったことは僕は知っています。
 今、戦後の日本の根幹が面白いほど”暴露”され始めています。               
安藤忠雄の件や佐野氏の問題によって、いろいろ、考えもつかなかった”横文字産業”が
この現実を一手に浴び始めました。この世界では案外と”当たり前”のように黙認されてきた
現実レベルの”倫理観なき、仁義なき”戦後のドサクサがまた一つ表層化されたのでしょう。
 この時代を手のひらを返したように生き延びてきた人たちの一つの時間の象徴です。
戦後の”横文字産業”はそのほとんどの根幹が”パクってなんぼ”という商法。
外国雑誌を手元に、読めない英語に囲まれて、ネタ探しをする。
 これが、”カッコイイ!!”と言われた”横文字産業”の全て!ファッションは全てが”パクリ”
から始まった当時の新業種でしたね。グラフィックも、フォトグラフィーも、雑誌も。
 この70年代のコムデギャルソンの根幹も、ブランド名が示すように当時の
”ソニアリキエル”日本版からの出発でしたね。

 この夏、墓参で大阪へ行き、神戸、京都の
40年来の友人を訪ねるという旅をし始めました。
この時、神戸の北野町を訪れ、あの”ローズガーデン”を見に行きました。
建屋は残っていましたが悲惨な状態です。”メッキ”が剥げ落ちてしまったというまでのもの。
 川久保玲とこの”ローズガーデン”はご存知ない世代になり始めたが、色々、ありましたね。
まだ、彼女も若かったから激しさを持っていらっしゃった。
僕の友人が大阪でCdGに勤務し、大阪はパルコ、京都はBallそして、神戸はこのローズガーデンを拠点にすべく、猛烈に働かされていたのを思い出す。
その友人はその後、死へ急ぎ、間も無く亡くなった。
 この”ローズガーデン”は’77年完成だったので、’76年にはすでに、川久保玲は安藤忠雄と
出会ってる。否、その数年前に、あの”フロム1st.”ですでに、出会っている。
この”フロム1st.”も本当は安藤忠雄が基本設計までを手がけていて、彼はやる気満々でしたが、
その後急遽、ロンドンから帰っていらした、山下和正さんに変わった代物でした。
ここでも、川久保玲はこの”フロム1st.”にはこだわった。白という色にこだわり、タイル張りの内装になった。その後、スタイリストとして活躍なさっている堀越さんがここで働いていらっしゃった。懐かしいいい、時代でした。
 しかし、安藤忠雄はこの山下さんのレンガの使い方の上手だった、”フロム1st.”からその後
”ローズガーデン”のエスキースを頂戴してしまっています。
 そして、この二人はその後、一度だけ対談をした。どちらもが乗り気のない対談だったことを覚えています。
が、川久保玲はその後、もう2度と彼と一緒には表立ってメディアへは出ない。
 しかし、その後、安藤忠雄は彼の建築事務所を”ブランド化”し始めました。
その後、多くのファッション系の商業施設を”浜野商品研究所”を営業部門とし手掛けました。
そして、今の立ち居場所の第1期を構築しました。
この発想は建築家自身が設計しなくても、その名の事務所がすればいいという方式です。
これは当時の建築界では考えられない形でしたが、これが見事その後の”安藤忠雄”へ進化して
現在へ至ったのですから凄いですね!!僕流に言えば、彼は”建築界の小保方方式”で、
建築事務所を”ブランド化”したことが今の立ち居場所を築き上げたのです。
「ル・コルビジュェ+カルロ・スカルプ」=長屋の家を始めとする彼の”外装”+”内部空間”のミニマルなマニエリズム的な混成、或いはブリコラージュは
コムデギャルソンのその後のクリエーションの根幹にも通じるところがありますね。
 そして、安藤忠雄の事務所も今は確か、外資ユダヤ系が資本投資しています。

 僕も神戸大学建築科の知人だった、貴志雅樹氏が彼の事務所へ入り、その後は、安藤忠雄の
デビュー作を始め多くの”ゴーストライター”をしていました。否、させられていたのでしょう。
彼は神大から手土産を安藤事務所へ持って行ったモノがあったからでしょうか?
 その彼、貴志氏が今年の1月に亡くなられました。
あの国立競技場の一件が表層化し、安藤忠雄は出るべき時期にメディアへ出れなかった原因は
ここにありました。ですから、安藤忠雄も死んだのと同様です。
 最後に目論んだこの、ハッザとの連携プレーで、文化勲章は手中にしたものの、国家建築を
手がけられなかった現実と、彼の”倫理観”も’60年代のどさくさと同じでしかない”育ち”。
 今回のこの問題において安藤は官僚たちによって、完全に葬られたと言って良いでしょう。

 しかし、僕はこの問題の根幹には”評論の不在”があると考えています。
戦後、’80年代以降からから現在に至っては全く”評論”は存在していません。
ちょうど、時代が”大衆消費化社会”を歓迎し、全てを”消費”の中へ納めることで経済が上手く
回って行くという論法とその後ろで活躍した広告産業と代理店という構造がありました。
その後の日本流文化即ち、”広告文化あるいは消費文化”がこの構造で構築されて行ったのです。
 従って、戦後の”横文字産業”はこの時流に如何に要領よく外来イメージをパクって、巧く
広告業界と連係プレーをカッコよく都合よくやって行けば、サーフすれば成功というシナリオが戦後の日本のデザイン界の本性であり、正体でしょう。ここには”評論”の正論は必要なく、
”評論”の不在が都合よく良かったのです。この現実が今回、表層化され始めようとされ始めた
いい機会でもあろう。
 
 安藤忠雄についての的確な評論も見当たらないです。
大阪にいらした二川幸夫氏を頼ってのメディア進出でしかありませんでした。
その後、二川氏はあの”GA”ギャラリィーと出版社を始め共に、ブランド”安藤忠雄”を素材に
外国へ売って出た現実がありましたね。余談ですが、この辺りは、何か、川久保玲と亡くなられた故小指敦子さんを思い出します。
 今の日本の評論の世界はすべてが、浅はかな”感情と情緒”を拠り所とした、”良い、悪い”の
価値判断でしかなく、メディア受けと、向けなるデモストレーションだけです。
デザイナーたちとお友達になりたいという感覚レベルでしかない所詮、変わらない戦後からの
”横文字ごっこ”の世界です。
 従って、メディアの人間も学んでいない。勉強をしていない。ただ”知っている”レベル。
そのほとんどが僕に言わせれば、”御用インタビュー”と”御用記事”提供者としてのデザイナーからの一方通行記事ばかりでしょう。従って、今回の”10コルソコモ”のスキャンダルも日本メディアは何も知らないで、いつものように”フロントロー”に座ってイキがっている輩ばかり。
僕から見れば、彼らたちへの悲しさと哀れさしか見えない変わらないここにも、まだ、戦後の
”横文字産業”状況でしかない惨めさが現実。
 
 ”すごいですね!”
で代表される”感情と情緒”だけでの価値判断。
この言葉はCDGのショー後の世界で尋常のように聞かれる言葉ですね。
この言葉にすべてを”委ね”てのメディアコントロール、これが今現在のコムデギャルソンの
メディアコントロールの手法、川久保玲の世界観。
 
 この手のプロパガンダにはもう、僕にはしんどくなりました。
"EVERYTHING TOO MUCH!!TOO HEAVY!!TOO PAINFUL!!
THAT'S YOUR LIFE、THAT’S TRUE YOU ???"

 僕も、そろそろ、本音で日本のファッションの”根幹”を語ってゆこうと今、学習中です。
この続きは次回。
巴里MARAIS街にて;

投稿者 : editor | 2015年10月 5日 17:17 | comment and transrate this entry (0)

2015年8月26日

三伏の候/ 繋がるための誠実さとは、映画『繕い裁つ人』から。

 少し古い話になりますが、多分、見られた方は多いと思いますが、今年の1月後半に
封切られた映画『繕い裁つ人』。

http://tsukuroi.gaga.ne.jp
 今の日本に無くなってしまったものや消されてしまったこゝろなどを”繋げられる”だけ
繋げて作られた映画ですが、清々しさと、こころが洗われたような気分に浸してくれたそして、
忘れていた何かを、それがとても生活の質を感じるためには大切なものとはをも、
思い出させてくれた映画でした。そして、僕がよく20代後半に歩き回った神戸の北野町界隈も
ロケ地として使われ僕にとっては懐かしさも相当なものでした。
 あの映画に登場する衣装としての服と主役としての服、これらが素晴らしさのそのものでは
無く、登場人物の生き方であり価値観であり、美意識でありその根幹になっている倫理観と
そこから生まれた誠実な生き方の断片がジグソーパズルのように物語を構成していたから
この映画はある種の洗練さを醸し出せたのでしょう。勿論、それらを理解した上での衣装であり
服でありスタイリングでもあるのですが、結果、この映画では”人の繋がり”という温もりと
大切さをテーマにしていた。僕がよく言っている「関係性」の”繋がり”の発端を作リ出すのも
「モノを作る」人の役割であるという根幹。ここに、「デザインとはコミュニケーション」
という役割の所在があることもわかります。
 よく当たり前のように言われる、モノを作ることとは「自分を表現すること。」だけでは
ない。ましてや、有名になるため、カッコつけるためだけそして、儲けることなど、自我欲と
自己表現のみの安っぽい「自由」ではないことをこの映画は爽やかに、含羞を込めて作られて
いた映画だと僕は感動したのです。
 もう一つ、この映画でモノの存在を確かに再認識させてくれたモノがありました。それは、
”ミシン”です。その姿と、それを使う人との関係性そしてその行為によって聞こえて来る”音”、
足踏みミシンの音は僕も幼い時を思い出しました。よく母が隣の部屋でミシンを踏んでいる。
その隣で無心におもちゃで遊ぶ僕。ここにも、母親と子供の「関係性」を”繋ぐ”音がありました。
その音は母の言葉に変わって、安心と安らぎをそして、安心を醸し出すまでのものでも
あったことを思い出させてくれたのもこの映画でした。
その後の僕には、”轆轤”を廻して聞こえる音もこの種類の、生活の中で聞こえる音でした。
今のように、テレヴィジョンやケイタイやiPODがなかった時代でしたので、
ここにも人のこゝろを繋ぐ”エピソード”が静かに幾重にも優しく絡み合っていた時代性でした。
 僕はこの映画を劇場へ観に出向き、映画の途中から重なってくるこのような幾つかのことが
ありましたが、もう一つ、一昨年に、東京で亡くなったC.Nemethのチャーチセレモニィーへ
お招きいただきロンドンへお伺いした折に、久し振りに会った長島悠介君でした。
それまでの長島君=アントワープという僕の中での繋がりが完全にもう、違うシーンになって
僕のこゝろを打ったのでした。とても成長なさっていた。
 ”理屈作りと見せ方作り”をメインに教え込むアントワープから遠く離れて長島君は自由に
使える英語を一つの安心道具として再びロンドンへ戻り、「手の温もり」を感じて生きてゆく
道を選んだ。この発端までは知っていたのですが、その後、数年間はご無沙汰。
そして、再会がC.Nemethのセレモニーが行われた教会ででした。これも、僕には何かの”縁”を
感じました。なぜか、この映画『繕い裁つ人』を見ていて思い出した人が彼でした。
 『倫理観が洗練さを生む』は作られたモノもそうですが、そのモノを生み出す”作り人”にも
言い得ることです。”理屈作りと見せ方作り”に忠実にいやそれ以上に上手に都合良く立ち回って
いる輩たちがその殆どである彼らの固まりからは遠くに立ち居場所を持ち、謙虚に自分の求め、
目指した道を堂々と歩んでいる一人が長島君であり、彼をこの映画からたくさん思い出して
しまったのです。
 その長島悠介君が帰国なさると伝えられた僕は是非、彼からたくさんの「作り人」のお話を
皆さんの前でお伺いし、交わしたいと。
 この9月01日の原宿VACANT-LEPLI会が決定しました。ありがとうございます、みなさん。
http://www.vacant.vc/d/241
 是非、実際のロンドンテーラリングとは?教わり学ぶこととは、仕事をするということとは、
服を作るということとは、人との繋がりを作ることとは、等など,
いろいろ、皆さんのご質問と共にたくさんの経験話をご一緒にお伺いしませんか?
 
 余談になりますが、この映画で出てくる神戸、北野町にはコムデギャルソンが’76,7年に
神戸に初出店したF.C.ストアーがあったのです。そして、この”ローズガーデン”をデザインした
建築家が、あの安藤忠雄がまだ、建築家に成っていない時代の作品でした。
この”ローズガーデン”で同世代の川久保玲と安藤忠雄というこの世代人の共通した幾つかが
重なり共に二人の接点が始まったのです。
此処にも,”モノを作りだす人”が繋げる世界が現実になっています。
 当時、川久保さんはこの”ローズガーデン”をとても気に入り、出店を可能にするために
もう一つランクの上の”繋がり”をこの不動産管理会社と持ったのも事実でした。
 先日のお盆休みに、墓参を兼ねて関西へ出かけました。
神戸では以前お世話になった金沢の21世紀美術館にいらした平林さんが横尾忠則美術館へ
転職なさったのでこの機会にご挨拶をとお伺いし、そのついでに北野町界隈を昔の友人の
アトリエや”サブ編集室”という友人の雑誌編集室を思いつつこのローズガーデンを探し、
映画の世界へもこゝろ入れ、”繫がる”エピソードを繋げていましたが、
この”ローズガーデン”は見つからなかったのでした。
見つかったのは映画で美味しそうに食べるチーズケーキの場面のコーヒー店でしたが、
その日は休日で残念ながら、僕とは”繋がり”ませんでした。
文責;平川武治:

 長島悠介君のロンドンのショップサイト;
www.connockandlockie.com

投稿者 : editor | 2015年8月26日 18:04 | comment and transrate this entry (0)

2015年6月 5日

プロローグ或いは、”桑沢合同ゼミ+もう少し、プロ的な視点、”

 もう少し、ファッションプロ的なる時代へのまなざしを付記しておきましょう。 
 昨年は僕は「新らたなローカリズム」を考え、デザインの世界が今後、どのような新たな可能性を持っているか?あるとしたらそれはどのような根幹が必要なのかを学んでいました。
 一つは、昨年来からの「政治」を読むこと、知ることそして、政治を感じた場合、
どのように自分たちのこれからの國や社会へ向けてのなすべき行為が可能か?
僕たちの國に、豊かさと強さを増して行くために、どのように若い人たちは
社会へコミットして行く可能性があるのか?
”自己満足”という閉塞感な世界へ逃げ込まずに!
 この眼差しは、ファッションのみばかりではなく、”デザインの世界”においての今後の、
若い人たちが持つべき、”デザインするとは”の新たな根幹と”視点”であろうと考えています。

 ここでは、もう一度「近代デザイン」が具体的に誕生し、社会にコミットし始めた時代へ
ワープしてみる必要があります。ここには現代という時代性の根幹がこの時代観にチューニング
され始めたからです。ファッションの”トレンド”も一昨シーズンから”’30年代”が来ています。
今シーズンでは、あのS.メンケスが「流線型/streamline」という言葉を使い始めています。
ここにはその時代が願望する新しさとしての”合理化や能率的や簡素化そしてスピード化”などが
時代のボキャブラリィーとして込められていたのです。

ラジグジュアリィーが方向転換; 
 東京の街の様が昨年秋頃より、様変わり始めましたね。
また、ラグジュアリィー系ブランドのブティックが我が物顔をし始めました。  
 ’70年、プレタポルテシステムが誕生して以来、’90年代終わりまでは、「プレタポルテ
ファッションデザイナー」たちがその自由な才能を武器にクチュリェたちを脅かすまでの
主役であった。彼ら、才能と才気豊かなプレタポルテデザイナーたちの創造性に影響を受け
モード産業は勢変を遂げてきた。’90年の湾岸戦争以後事実、クチュールの顧客が減って、
”ラグジュアリィー-マークビジネス”という新たな括りでモードビジネスの新しさをミラノの
老舗*が見つけた。しかし、モードの新しさを生み出すのはまだ、プレタポルテデザイナーたちであったこの時代が、グローバリズムの到来と女性の生き方が家庭へ戻り始めることそして、
ファウストファッション登場で新たな局面を迎えた。
 ここには、”世界観と女性のポストジェンダー化と価格破壊”という”新しい波”が押し寄せ以後、時代性そのものが変革した。これによって、まともにこの新しい波を被り被ったのは資本力の
弱いプレタポルテデザイナーたちであった。一方、資本力が安定している”ラグジュアリィー-マークビジネス”は服を売り、コスメを売り、靴バッグそして、ジュエリィと最近では時計を商い品目として、日本へ上陸その後、2000年以降は総てのメゾンが、新しいマーケット”としての
中国へそのビジネスの可能性を求めて方向転換した。
 そして、約10年が過ぎた昨年来、かれらたち、”ラグジュアリィー-マークビジネス”の商人
たちは中国マーケットへの限界を知り始めた。同じアジア人でも、日本人と中国人のマーケットモラルが違うことを知った彼らたち。
 ここで、昨年秋以降再び、”ラグジュアリィー-マークビジネス”の商人たちは日本へその矛先を
転換し直した。ここに来ての、表参道界隈の”ラグジュアリィー-マークビジネス”ブチックの
乱立はこの証拠である。かつての手法、日本にブチックを作り、中国人たち観光客顧客を煽る
処方である。
 例えば、昨年末に行われた、DIORのショーと展覧会がこの”ラグジュアリィー-マークビジネス”の新たなビジネス展開の手の内を見せた。ショーには中国からの上顧客と中国ジャーナリストを招待。展覧会では、デザイナーではなく、ディレクタ-RAF君とそれを助ける”アトリエ”の
チームクチュリエたちが主役という新たな構造を自慢した代物でしかなかった。
 従って、”デザイナー”よりも、”ディレクター”へ、という構造が生まれた。
”VARIATIONS OF THE ARCHIVES”で価値ある多くのアーカイブを持っているメゾン系が
今後の時代のモードリーダーとなり、そのメゾン内で実際に働きてた”アトリエチーム”たちが
リアルビジネスのクリエーションの主役へ躍り出る。
 ここで、新たなモードビジネスは”チームワークビジネス”であることへの構造とシステムの
転換が行われ始める。この”ラグジュアリィー-マークビジネス”のU-ターン現象の根幹は今後の
東京の新しさ”カジノ”を目論み、新たなターゲットにまでその射程距離を広げた
陽動作戦であろう。

モードビジネスが変わった。;
 ”ラグジュアリィー-マークビジネス”が中国から日本マーケットへシフトし直したことの
根幹は、モードビジネスも大きくは”スーベニィールビジネス”であるということ。
 ”ラグジュアリィー”のイメージとクリエーションを実質ビジネスにつなげているのが、
巴里では”サンチェ系”と呼ばれていたデパートをメイン顧客として、コピーブランドを束得ている
アパレル勢である。MAJE,SANDOR,をはじめに、KOOKAI,KOOPLE,いろいろ、
彼らたちは確実にラグジュアリィーに負けずとリアルビジジネスをリードし始めている。
 そして、彼らたちのもう一つのフランスにおける「モード産業界」へ、サンディカ(オート
クチュールプレタポルテ組合)が大きくバックアップを始めた。
 彼らたちへの人材育成機関として、従来はクチュールのお針子さん養成学校であったこの組合付属の学校を”サンチェ”に隣接移動し、授業内容も、ミシンを使ってのアパレル向けカリュキラムへ変更。そして、サンチェ系出身のプレタポルテデザイナーメゾンのコレクション参加も大いにその門を広げた。これらの方針は確実に、ファストファッションへのビジネスプロテクトであり自国のファッション産業の経済効果を拡大するための手段である。
 もう一つは、やはり、EUにおける日本よりも遅れていた”ITファッションビジネス”の進化。
プレタポルテデザイナーのネット通販ビジネスへの参入、NETーAーPOTERやイタリアンヴォーグ社の“the corner.co.”とYOOXとのコラボビジネスも始まる。
 あのH&Mが始めたファストファッションのシニア版ブランド”COS”が好調な売り上げを上げている。このブランドのマーケティング戦略はうまい。
例えば、同じ、スエーデン発のプレタポルテブランド”ACNE”をターゲットに絞り込んだ戦略で
40代ターゲットを軸にクオリティもそれなりのデイリィーウエアーにまとめ、抑えられた価格帯とともに見事に成功している。東京にも昨年11月に1号店が出来た。
 このブランドによって、パリサンチェ発の”MAJE”もここに来て脅威を感じ始めた。
今後、このゾーンが激戦になるラインである。”ラグジュアリー”から”プレタポルテ”や”サンチェ系”が影響を受け、”COS”で下限を囲われてしまっているのが今の巴里のファッションビジネスの現実である。
 最後に、もう一つ、このモードビジネスがグローバル化した証拠。
面白い現象は、今まではフランスでモードの仕事をするには、当然のように”フランス語”が
必要であったが、今では、この”フランス語”よりも”英語”が本格的なビジネス語となり始めた。
フランスのファッション企業で働くためには英語で面接されるところも出てきた。
ここにも、ITビジネス化の余波を感じる。

最後に、目立つ問題点;
 このような時代性になるとアーカイヴからコレクションを作る場合、今の若いデザイナーたちにはその持ち得た”リアリテ”がない。殆どが、サイトやブログそれにインスタ等の”ヴァーチュアルリアリティ”の世界でモードにも関わってしまっているからだ。
 そのため、フラットな平面性、ヴィジュアルからのデザインになる。
故に、”分量”のデザインが出来にくい或いは、出来ない。表層のシルエットのコピーは出来るが、今の”時代の分量感”に置き換える”ニュアンスのデザイン”ができないデザイナーと、パターン力の低下が目立つ。
 学ぶ方法は、教養を深め、歴史と学ぶ、古着を触る、古い映画を見る、自分の育ちを省みる。
そして、熟練者の仕事を敬い、学び、オープンマインドであること等など、、、
 案外、”ファッション学歴振り回し族”たちはこのディシプリンがない。
彼らたちは、もう終わっている。

トレンドについて考えると;
 ここ数年来トレンドのキーワードは変わっていないと読める。
トレンドの根幹は不変であり、その”意味付け”だけが変化させているということである。  
[メイントレンド+サブトレンド+ホロ-トレンド
=新規トレンド+継続トレンド-1+継続トレンド-2,,,]

終わりに、”問題”はその次に起きることだ。
 「自民党は憲法9条の改正に動き、自衛隊の海外派遣をどんどん実現できるようにするだろう」
安倍政権の目論見は明らかだ。日本の国の姿をかえることにある。したたかにこの国の風景を
変質させていく青写真の作り手たちが蠢きはじめるだろう。
 ’20年の「東京オリンピック」や「カジノ」を出来る限り、経済効果として利用し、
この広告産業の一つを今後の歴史的契機と、安倍政権が変えようとしている國体とは、
それぞれの社会体制システムによって構築されてしまったアメリカ合衆国の属国としての
「社会」が、『再-安保改定』により、もっともらしく残るが、嘗ての日本國が持っていた
「日本人としての気骨」や「気概」ある國体、「世間」は喪失してしまう。
 安倍の渡米によりアメリカへ、5千億円以上のアメリカ軍事産業への武器類の購入があった。
安倍政権の目論見によって、彼らの論理で言えば、「何時、玉が飛んで来るか解らない自衛隊に対しての」僕たちの國家の防衛費予算の増加率は世界1位になり、('64年を基にした軍事予算の
増加率は、54.5%である。出典/日経新聞5月09日付け、「世界はこう変わった」より、)
「平成の大軍拡」の現実を皆さんはどれだけ、認識しているのだろうか?
解ったふりして、投票に行かず、政治のことを発言するのは一番悪い。親の筋をかじって
カッコつけているからこれでいいのか?
 「1月14日に閣議決定した平成27年度(2015年度)政府予算。そのうち防衛省予算は前年度比2.0%増で過去最大の4兆9801億円となる。しかし、補正予算案に盛り込まれた防衛費(2110億円)と合計すると5兆1911億円となり、「5兆円」という大台に乗る。「平成の大軍拡」と言っていいだろう。」出典/東洋経済オンライン/2015年01月26日より抜粋。
http://toyokeizai.net/articles/-/58914
 そして、「カジノ法案」もそうであろう。これらの発案の根幹に何が蠢いているのか?
結局は「金/カネ」でしかない。在日系の人たちによって、より「格差社会」が「ギャンブル依存症」が増加するだけのごとく変わらず、”倫理観なく”構築されてゆく、そのための「利権」政治を、与えられた”シナリオ”を棒読みしているだけが、今の”安倍政権”の実態である。
 これはグローバルな日本企業にも、地方自治にも言える警告である。
「問題はその次に起きることだ。」
文責/平川武治;平成27年5月;

投稿者 : editor | 2015年6月 5日 14:28 | comment and transrate this entry (0)

2015年6月 4日

『人生、90年』プロジェクトを広めよう!!

パーソナルプロジェクト「人生90年」とは
  『大衆が求める”イメージ”とは、いつの時代も、あり得るべきこれからの生活とそのスタイリングを”夢”としたものである。ファッション産業とは、そのあり得るべき生活と
そのスタイリングへときめきを与えるものに変わりはない。』

 今年の僕のパーソナルプロジェクトがこの「人生90年」プロジェクトなのです。
このパーソナルプロジェクトを持って、今年の前半はパリ、アムステルダムそして、ロッテルダム等の友人たちとそれぞれの立ち居場所でコミュニケーションを取り始めています。
そして、日本でもアパレル企業との協労が進んでいます。

はじめに/私案『人生、90年』プロジェクトとはなんだろう?
 20世紀が終わったように、「人生、60年」という時代観はもうすでに終わっています。
戦後の日本人が不器用に、敗戦という恥を背負って必死に一生懸命に生き抜いて来たのが
”昭和”という時代であった。ここではまだ、”ライフプラニング”や”ライフスケジュール”という
言葉は殆ど、存在し得なかった。そんなゆとりや豊かさをまず自分たちの生活に、という時代の流れが「人生、60年頑張れれば幸せだね。年金も貰える」だったこの70年です。
 そしてやっと、このような戦後を生き抜いてきた世代から3世代を経て、現在の僕たちの国の社会が表は「モノの豊かさ」を現実にし、裏では「社会保障のホコロビ」ももたらしたのです。
 今年の新-成人世代はそんな「人生、60年」時代を生き抜いてきた彼らたちの”第3ジェネレーション”。 彼らたちが國家の新しい主役に参入し始めるのです。
 従って、戦後の、「人生60年」という時代の社会システムそのものが無理な状態になり
ほころびてきていることは昨今の多種多様な出来事としての事件でも理解できるでしょう。
最近では、この”システムのほころび”へ、合衆国のエゴが剥き出しに入り込み始めていますね。
 本プロジェクトは日本が世界に先駆けて迎えたこの「少子多老化」という時代社会への撃つ
べきポジティフな一撃です。このプロジェクトの根幹は「少子多老化社会」という”未来現実”を
決して、ネガティフな捉え方ではなく、ポジティフな視点で考え対峙し、今後の新たな
「社会システム」を産業化するまでの発想の元で考えてゆくものです。
 その理由の一つには、我が国が迎える「少子高齢化社会/少子多老化社会」は今後、他の先進国も足並みを揃えて迎えなかればならない近い、未来社会の構造変化であるためです。
 白人先進国の戦後は今、大きく問題化されている「移民」たちを彼らたちの宗教倫理とともに受け入れたことによって「移民」たちを受け入れたことの清算が、日本よりは遅れて迎える
現実状況の違いであり、いずれ、世界の先進国と言われている諸国が「少子多老化社会」なる時代が来てしまう。その先鋒を日本とドイツが迎え始めた。という認識下で、この社会状況の先端を行く我が国はこの「少子多老化社会」をこれからの国力と生活環境の「あり得るべき豊かさ」を創生するためのコンテキストとしてポジティフにそして、格好のチャンスとして発想し、実践して行こうというプロジェクトです。
 そして、この『人生、90年』プロジェクトはファッション産業が関わらなくてはならないプロジェクトの一つであり、新たな可能性の一つとして、「ファッションによる、ときめきあるクオリティオブライフスタイリング」を提案、構築するためのファッション産業には大いに可能なるプロジェクトなのです。そして、当然ですが、今のファッション産業の不況と腐心を拭うことの一案にもなるものです。
 閉塞感が浸漬する現状から今後の新たな”豊かさ”へ向かっての可能性が日本社会への大いなる、有意義な先駆けをなすものであるという考えです。
 そのために必要な新しい「社会システム」検討し、開発構築し,できればそれらを今後の
新たな日本の成長産業として捉えるまでのプロジェクトを考えています。
 
 この現実の視点を変えてみると、これからの日本社会への新たなる国力になり得るまでのこの「少子多老化」を”ジェロントロジー/加齢学”として、新たに社会に認知させること。
そして、それによって世界の先進国に先駆けて激しい「少子多老化社会」を迎える日本は、
この現実認識とその社会化とインフラ整備を考えることとは、”新たな国家=共同体”を構築する
ことであり、今後の「地域再生構想」にも大いなる可能性”の一つです。
 今後、世界がこの方向へ多くの国が向かっていくのですから、これは大いなる可能性でしかありません。
高高齢者と、高齢者そして,セカンドジェネレーション、サードジェネレーションとのまた、
移民外国人たちとのいわゆるコラボ-プロジェクトなどがこのファッション産業が関わるべき
『人生90年プロジェクト』の根幹です。
 決して、倫理観乏しき、”目先のニンジン”を追いかけるためのプロジェクトではありません。

*『人生、90年』プロジェクトコンテキスト;
 日本が世界に先駆けて迎えた
 ジェロントロジー
 少子多老化社会
 ポジティフな視点
 新たな「社会システム」の構築と産業化
 ときめきあるクオリティ オブ ライフスタイリング
 ニュースタンダード
 スローソサエティー=スローライフ+スローファッション+スローアーキテクト
 マインドフルネス

”ジェロントロジー”『人生90年プロジェクト』を考える。;
 ”ジェロントロジー”とは、人間の老化現象を人間に関わる、生物学、医学、社会学、
人間関係学、心理学、サイエンス、自然環境学、生活環境学そして、政策立案にいたるまで
多面的、総合的に研究する学問で邦訳は「老年学・加齢学」。
 これからの高齢化の問題は一国の社会問題なのですから、一つの領域だけで解決することは
出来ない、新しい社会環境とそのためのルールとインフラ整備等など、「社会システム」に至り考えように因ると、もう一つの新しい共同体即ち、新しい価値観に元ずくコミュニティ共同体を発想した”新-社会創生”となる。
 高齢化・エイジングを根幹に、関わるあらゆる領域の「知」と「経験」と「関係」を結集して、 課題解決に臨むことがジェロントロジーの特徴であり醍醐味となる分野です。
 皆さんが「人生、90年」と思い込めれば、どのような「夢」を持つでしょうか?
どのような関係性の元で安心して、より、クオリティの豊かな幸せな生活を望むでしょうか?
そのためには、何が要らなくて、何が必要なのか?、残すものは何か?引き継ぐものは何か?
消去させるものは何か?などを学際科学と産官学民と連携しながらの実学が
”ジェロントロジー”です。
 このジェロントロジーの視点での『人生90年プロジェクト』は新しい価値観による、
新しい共同体をデザインするまでのプロジェクトです。

 ○実際に現在行われ始めているジェロントロジーのフィールドワークは、;
生理面/遺伝子、細胞、臓器骨格、栄養、運動ほか、
高齢者医療/慢性疾患、臨床、薬、退院支援、医療コストほか、
介護/予防、アセスメント、ケアプラン、サーヴィスモデル、公的、私的保険、青年後見制度ほか 
心理/記憶力、性格、達成感、価値観、時間観念ほか、
死-倫理/死の定義、準備、送る側の準備、死後の諸事、尊厳死、ホスピスほか、
政治/政治への関心、投票行動、投票動機、高齢者団体の行動理論ほか、
経済/所得格差、税制、社会保障、生活保障、シニア市場、近代化理論ほか、
社会-文化/若者の高齢者観、メディアの高齢者観、公益法人制度改革、構造機能主義ほか、
生活行動/時間の使い方、余暇活動、同世代相談、生涯学習ほか、
人間関係/夫婦関係、親子関係、兄弟姉妹、友人関係ほか、
労働-退職/働くことの意味、退職と健康、定年制の是非、定年起業、ワークシアーほか、
家計/収入、支出、貯蓄動向、資産運用、相続ほか、
住居/どこに誰と住むか、買い替え、住み替え、バリアフリー、リバースモーゲージはか、
 
 これらは総体に、”ネガティフな発想”によるそして、打算的なるものが多い。
その証拠なのだろうか、ここには「ファッション産業」および、「デザイン産業」が
加わっていない。

ファッションの視点から「人生、90年。ときめきのある長寿生活とは、」を考えてみる。;
 しかし、新たに迎えるはずのこの社会問題に、ファッションの世界から視点を定めて社会への提言が為されていません。そして、今日までも、ファッションの世界は変わらず、”20世紀の
価値観”を根幹にした、「人生60年」のルールと方法論そして、”アーカイヴィス”の
諸バリエーションの世界でしかありません。この現実が昨今のアパレル産業の衰退でもあるでしょう。作る側も、報じる側も、商売をする側もそして、教育する側も、論じる側もこ
”20世紀の価値観”とイメージングとシステムによってもう既に、30年以上が経っています。
即ち、その生活意識の根幹は依然、「人生60年」感覚でしかないのです。
このファッションの世界からこそ、新たな共同体を構築するという視点での
『人生90年プロジェクト』が必然ではないだろうか? 
 戦後日本がこれほどまでの”ファッション大国”になった実力と経験と情報を駆使して、
世界が羨む”超高齢社会”を”少子多老化社会”をカッコよく築き上げるチャンスでもあります。
 参考サイト/
http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/research/2012/no389.pdf
https://www.nissay.co.jp/kaisha/csr/chiiki/shakai/pdf/gerontology.pdf
http://www.ducr.u-tokyo.ac.jp/jp/research/study_groups.html
空き家問題/
http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/research/2014/no416.pdf

○幾つかの現状参考数値。
*2030年/高齢者所帯のうち、約40%が独居世帯+約30%が夫婦のみの世帯となる。
*2012年からは、高齢者が年間100万人づつ増えている。
 ということは、昼間から彼らたちは地域に止まって生活をしている。
*地方社会では、地域の過疎化と高齢者による限界集落が増加。
*2005年来、出生率より、死亡率が増加。
*少子化は国力の低下衰退へ繋がり、労働人口は2030年には約1000万人の低下により、
5600万人ほどになる。
*「老老介護」が現実化する。
*「空家」の増加。現在で約800万軒の空き家がある。 
○今後の人口推移;/マクロで見ると、
2020年には/0-14歳:14,567千人(11.7%) 2010年は16,803千人 
2020年には/15-64歳: 73,408千人(59.2%) 2010年は81,031千人
2020年には/65歳以上: 36,123千人(29.1%)内75歳以上:18,790千人(15.1%)  
2010年は夫々29,245千人・14,072千人
  そして2022年には団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になります(3割以上が要介護)。
総人口は124,099千人(2010年は128,057千人)と余り減ってはいないのですが、
「少子多老化」が猛烈なスピードで進行します。
介護・医療に要する費用だけで国の税収をほぼそのまま使い切ってしまいます。

○”ジェロントロジー”『人生90年プロジェクト』をすこし、具体的に考えてみる。
 では、新たなローカリズムを根幹にした『人生90年プロジェクト』のための
共同体/コミュニティとは、その根幹は、”Aging in quality of life”
穏やかに、おおらかに暮らせるもう一つの共同体を考えることでしょう。
 目的は、「安心で活力ある豊かな長寿社会」の構築。
1)『人生90年』にふさわしい「真に長寿を喜べる生き方」
/ライフデザイン分野。
→生きる目的がある事と、身体が衰えても、QOLを維持できること。
2)安心で活力ある超高齢者社会の創造、”Aging in Place”の現実化。
/ライフエンヴァライメント分野。
→住み慣れた自宅や地域で最後まで自分らしく老いることができる共同体を考える。
3)健康長寿の推進と本来の安心を提供する「共同体ケアーシステム」の構築。
/医療ケアー分野。
→”寄り合い”システムなど、ローカリズムとしての”長屋”共同体が成し得るケアーシステムを考える。

○ここで僕たちファッション産業人がより、直接的に関われる分野とは?
「価値観、趣味、関係性、経験値、スキルなどで編み込まれ、重ねられた新たな環境としての
「共同体」を構築し、その共同体で生活すること、楽しむ事自体が”新-市場”となるような
”交流と触れ合いと学びと遊びと愉しみと安心と穏やかさのサーヴィス&ホスピタリティ”を、
マインドフルネスを根幹に考えた”CARE & CURE”のための倫理観から生まれる”品性”や
”品格”、”洗練さ”がシャワー効果となるまでの”緩やかな時間消費”環境を考えることでしょう。
→男女消費/文化消費/観光消費/学習消費/CARE & CURE消費/セキュリティ-福祉消費/
伝統回帰消費/ノスタルジア消費/エピソード消費/夢消費/マインドフルネス消費等など、
これらをどのように「ゆったりとした時間観」の中で実環境化して行くか。

○考えるべきミッションとその順序は、
→コミュニティ環境を構築する。そのための共有出来る価値の創生。
→新たな消費環境を”いりこ構造化”する。そのための新たな”風土”魅力をデザインする。
→ときめきあるQOL.のためのサーヴィス&ホスピタリティ”と”マインドフルネス”。
そのための人材エヂュケーションを行う。
→『人生90年プロジェクト』のための商材編集とプロダクツディレクション。
そのためのマーケティング。
→仮想空間を構築し、汎世界戦略を行う。そのためのC.G.テクノロジーと
デザインディレクション。

○そこでこの新しい時代に考えるべき問題の一つが「倫理観」です。
 ”お金の豊かさ”を「倫理観」の第一義としてきた戦後70年は、”THE END"です。
これからの「あり得るべき規範」としての”新たなる豊かさ”を"、QUOLITY OF LIFE"を目指し、
『人生90年プロジェクト』のための生活や社会にコミットさせるために、
今まで置き忘れられてきたこの「倫理観」を再考する時代性が今年です。
この根拠は、30数年間、パリモードを中心軸にモードに接してきた僕の結論的発想の一つに、
「成熟された倫理観が洗練さを生む」という信念を持っています。

○本プロジェクトのコンテキスト;
倫理観ある共同体。
→経験、スキル、資産、労働意欲、
コミュニティ、みんなが國力。
→高齢者が増えると集い、集まり、消費時間もスローに穏やかな流れへ。
目指せ、あり得るべき新たなるニュースタンダード、”クオリティオブライフ/QoL”の改善と
向上。
→生きがいと幸福感が増す。”昔取った杵ずか”の多重層異文化集約型ミルフィーユ効果。
みんなで価値観を共有し、一体となって連携、協労することそして、マインドフルネス。
現実の状況を正しく認識すること。悲観的な状況であろうと、現状を出来るだけ定量的にかつ、先入観なく客観的に見ること。
 課題を明確にした上で、その解決策を立案し具体的な計画を立て、行動する。

 参考文献/ 「2030年,超高齢未来 ―「ジェロントロジー」が、日本を世界の中心にする」:東京大学高齢社会総合研究機構刊
 文責/平川武治:平成27年3月:無断転載等を禁じる。必要な際にはご連絡をください。

投稿者 : editor | 2015年6月 4日 17:22 | comment and transrate this entry (0)

桑沢合同ゼミ-19MAY’15で話したこと−3、

3)改めて、ファッションにおける”新しさ、アヴァンギャルド”とは、”創造”とは?;
  ファッションとは、何時の時代もその時代を生き生きと生きる先端の女たちを
”ミューズ”とし、彼女たちの生き方とリンクしてその時代時代の女性たちへ”アヴァンギャルド”というイメージングによって、ファッションの創造が展開されていた。

 20世紀のモードとは、産業革命以降の機械工業化社会=量産化の始まりによって、”新興中産階級”が登場しその新たな階級の新たな女性たちの自由な愛の生き方をアイコン化することから
始まり、2つの大戦を経て戦後は’60年後半からの新しさとして、教養ある女性たちの生き方と社会化=知性とともに強さと自由さを”象徴”化するためのイメージイング作業とその社会化が
高級既制服という”プレタポルテ”の世界を生み、この世界は時代の先端を生きる女性たちへ
”ミューズ性”を与え、讃えることによって、それぞれの時代における 新しさ=アヴァンギャルドを生み出してきた。そして、時代の進化という、20世紀の”豊かさ”(=消費社会化=物質的なる)の急激な進展とメディアの社会化により「あり得るべきイメージ」から「あり得るべきリアリテ」のための消費社会構造が誕生すると、その社会性のための”フアストファッション”が誕生
する。21世紀に入って時代がもたらした新しさとは、情報という”バーチャルリアリテ”による
ライフスタイリングのサンプリング化すなわち、”リアリテ”のバリエーション化でありこれはIT
モバイル社会による情報量の普遍化の象徴である。
 これらによって、実生活におけるイメージとリアリテが”逆転”し、新たにバーチャルリアリテが加わった世界、例えば、最近のディズニー映画の世界は”あり得るべきすべてのヴィジュアリィティ”が、[リアリテ+ヴァーチャル+3D+アニメーション]というミックスメディアであり、現代の新しさでもあり、醍醐味でもある。そして、「あり得るべきリアリテ」としてのイメージング即ち、望むべき手本であるQoLのライフスタイリングが新たな目標になる。そして、ファッションは物量と情報量によって、その実マーケティングの”速度”を減速しつつ、イメージング作業の一つとして時代のキーワードである「安心、安全そして、快適」のための”ユニフォームのアヴァンギャルド”化が始まる。
 その手法はファッションサイクルの中で”模倣=バーチャル”という手法を使って”時代の習慣”
=リアリテを生み出すことであり、ここ数シーズンでは、かつてのアヴァンギャルドを、例えばPUNKをコード化し始める。という事は、新たな新しさではなく、かつて在ったものからの選択と編集作業がクリエーションになる「Variation of the Archives」という世界の登場である。
 従って、情報も創造のための情報から”選択と編集という”ブリコラージュ”のための情報量に
変質した。

4)では、ファッションの最前線とは、;
  今、モードの新しさとは?について、はっきり言えることは、「モード産業は広告産業である。」(広告を産業化する時代のヴァリエーションの一つ。このカテゴリィーには
産業スポーツも入る。)
 時代性はより、『家で、みんなで安心、安全そして、快適に!』なる時代。
従って、モードの世界もこの現代という時代性の王道を行く、”工業製品のプライド”の復権の
時代でしかない。
 クチュール/手工芸の世界と、ラグジュアリィーファッションをトップとした”既製服”の世界
そして、ファストファッションの棲み分けが、あるいは、”ミュージアムショップ”と”スーベニールショップ”というクオリティの差異化がこの21世紀前半の”スタンダード”であろう。
(ノームファッションの登場もこの世界のヴァリエーションでしかない。)
 そして、モード産業とは、クチュール+ラグジュアリィ+プレタポルテ+アパレル
+ファーストファッションから、新たな産業化として、”スローファッション”のカテゴリィーが
生まれ、ヴィンテージの世界とリ-プロ/リ-メイク/リ-サイクルという手工芸化が加わる。
そして、ラグジュアリィレベルでは、個人デザイナーからアトリエチーム主体型へ、そして、
彼らたちをディレクションできる”ファッション-アースティックディレクター”志向へ時代は流れ始めた。
 一方、従来型のアパレルやファーストファッションにおけるビジネスでは、”生産企画&管理”
職が重要な構造になり、ファッションの世界も”リアリティ+ヴァーチュアルリアリティ
+イメージング”の三位一体化構造へ進化した。

 もう一つ、ファッションのクリアティビティとしての『新しさ』の規範が変化した。  
JUST NEWからSOMETHING NEW + OLD NEWへ、そして、”FRESH NEW”へ、あるいは、
今シーズンのコレクションに多く現れた”EPISODE NEW ”へ。
 従って、基本的なクリアティビティの根幹は、”VARIATIONS OF THE ARCHIVES”であり、
過去の集積から今の時代の空気感を感覚でセレクトし、そこへ新しさとしての”素材+色
+プリント”それに、”一味/ひとあじ”を加える、ニュアンスのデザインが重要な仕事となる。
ビジネスを考えると、大事な作業としてはプルミエールヴィジョン(1年先の素材を売り込む
ための素材見本市)が発信する”トレンド情報”のフレームからセレクトし、当て嵌め込んで行く
作業であり従って、”デザイナー”よりも、”ファッション-アーステイックディレクター”が重要な時代性であり、DIORのRAFやS.L.のHEDIEなどがその代表選手となった。(例えば、日本では”instagram”からパクってカッコつけているデザイナーブランドもある。)
 基本的な、”技術開発”が無ければこのファッションの世界のクリアティヴィティは
”モノのヴァリエーションの時代”が蔓延るだけである。
そのモノのヴァリエーションの世界に意味性と嗜好性と時代性を味付けするには
”エモーション”や”ノスタルジィ”と”妄想力”がキーワードとなる。
 もう一つの確実な新しさは、”スローファッション”の進展であろう。
このコンテキストは「使える物はみんなでより、使う」であり、時代の感覚と技によって、
全くの違った世界を、妄想力とともにリアリティへ落とし込む世界はM.Mのジョンの登場と
共に、これからの若い人たちへのより、現実の新たな可能性である。

*そして、今の時代におけるデザインすることとは;
 ファッションの世界で普遍的になった機能性を含む諸コードをレイアウトすることである。
そして、”時代の空気感”をデザインし、ライフスタイリングの”ニュアンス”をデザインする。
それらをデザインするための時代の感覚的新しさとは、”リアリテをイメージング”することであり、”イメージのリアリティ”化ではない。
 従って、時代の感覚的新しさとしては”素材+色+プリント=質感=3D感”が
形骸的なエゴ-デザイン性よりも、プライオリティを持つ。そして、ビジネスを考える場合は
”トレンド”を自分たちのマーク&ブランドの世界観とイメージでデザインすることである。
*ファッションをディレクションすることとは;
 自分たちのマーク&ブランドの世界観でモノとイメージをマーケティングディレクションが
できること。
 そのための”手法”とは、ファッション-アーカイヴからのバリエーションをブリコラージュすること。その根幹は、”時代の空気感”をイメージングし”ニュアンス”をモノと広告の世界で
ディレクションすることである。そして、デザイナーよりも”知性とスキルと創造性と感受性と
美意識と好奇心”の特化が必要とされる。
*ファッション-アーカイヴとは;
 ファッション世界におけるビジネスとクリエーションにおける”基本コード”の集積化である。
イメージングされたそれぞれの時代における女性の生き方の”コード”の堆積化である。
 ファッション-アーカイヴには、”スタイル+パターン+素材+色+ディテールとバランス
そして、イメージと概念の諸コード”があり、それらが堆積されている巨大な世界になっている。即ち、1860年以降、ワースがパリで初めてクチュリエのブティックを創業し,約200年余の
”ファッションリアリテ”の集大成である。
 ここに、それぞれの時代の出来事や生活情景をヒストリカルにラインアップさせ、
”ビッグーデーター”化し、マドリックス化すればあとはこのファッションの世界も
”確率”のでクリエーションがなされる時代が来るだろう。

*これからの時代にデザインするということとは、
  もう一つ、普遍的なることでは、人間が何かを「産み出す」ためには、
他の動物が持っていない、人間しか持ち得られない、違うことを組み合わせて、産み出すため、継続させるためのエネルギィイにすることである。
 ブランドビジネスにもこれは大切なことです。個人が持っている或いは、ブランドが持っている
『知性+感受性+創造性+美意識+好奇心』の五角形のバランスを知ること高めることです。
このためには「学ぶ」という構造とプロセスが必要です。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2015年6月 4日 16:42 | comment and transrate this entry (0)

桑沢合同ゼミ-19MAY’15で話したこと−2、

2)妄想という自由なる発想から、現実の先端/アヴァンギャルドへ、;
 「さまざまなものが遠くに逃げていくという感覚に包まれて、現代の私たちは生きている。
家族もそのひとつだろう。家族と縁が切れたわけでもないし、関係が悪化したわけでもない。
モノにも恵まれている。それなのに、少しずつ少しずつ遠い存在になっていく。それは自分自身にたいしても起きていて、日々活動をしているこの自分が自分自身であるはずなのに、それは頭でわかっていても、感覚の世界では、自分自身もまたどこか遠くにいるつかめない存在なのである。」
引用文献/ [新・幸福論「近現代のつぎにくるもの」] / 内山 節著/ 新潮選書:新潮社刊:
 
 この哲学者はこのような現象を「遠逃現象」と呼んでいますが、僕はこのような世界観から生まれる「妄想力」は現代の日本人が誇れる想像力のブリコラージュだと感じています。
日本が誇れるコンテンツビジネスの根幹であるアニメや漫画世界はその殆どがこの「妄想力」がイメージの根幹です。ここには想像力以上の雑草的パワーを感じます。「妄想力」が次には
ヴァーチャルイメージを喚起させ、持ち得たIT技術によって他国に誇れる新たなるパワーになり
これが、現代日本の産業のリアリティの一つにもなっています。この世界は漫画、アニメから
始まり、ゲームアプリとパチンコの世界を征服してしまっています。
 では、ファッションの世界ではどうでしょうか?そして、I.D.の世界はどうだろうか?
僕の専門のファッションの世界を見る限りではもう、”自由の産物”であったファッションにおける創造性は全く変質してしまっています。 結論を言ってしまえば、現在の”マーケットありき”の
ファッションの世界でのクリエーションとは、「Only Variation of the Archives」の世界でしかありません。ここでは”新しさ”が変質してしまったのが最大の原因でしょう。
 ”生活の豊かさ”とともにファッションの情報量とスピードの速さが「安心、安全そして、快適」のためのシステムを構築し、持ち得た豊かな生活によって、その時代の”価値観”が変化し、実生活としてのファッションの楽しみ方はバリエーションをどのような”雰囲気”で楽しむか?
これがファッションな最前線です。この実生活というリアリティは、ここでもその普遍性が生まれた事によってファッションの世界の新しさは「Variation of the Archives」から編集再構成する
”ブリコラージュ”な世界になり、妄想という自由な発想でのファッションの世界は辛うじて、
”コスプレ”の世界や”リメイク”の世界がその市民権を得て面白い”妄想”からの創造性が楽しめるまでの可能性が今という現実の先端/アヴァンギャルドなのでしょう。
文責/平川武治;

投稿者 : editor | 2015年6月 4日 16:24 | comment and transrate this entry (0)

桑沢合同ゼミ-19MAY’15で話したこと−1。

テーマ:「閉塞感」と「自由」、「安心、安全と快適」と「傷み」というアバンギャルド。
 このような時代、これからの新たな時代のために、もう一度、”服やモノをデザインすること”とはを考えてみませんか?---

 『(大半の?)結婚と同じく、安全と自由はお互いがいないと存在できないが、
その共存は容易でない。自由のない安全は束縛に繋がり、安全のない自由は慢性的な不確実性に繋がり、神経衰弱に陥る恐れがある。万が一